感情的否定
後藤夕貴
更新日:2006年7月2日
 貴方が、今議論している相手。
 それは、本当に貴方と意見を対にしている人なのだろうか?
 ひょっとしたら、貴方と同じ側に立つ人ではないのか?
 「そんな事はない!」と、本当に断言できるのか?
 …ひょっとして、頭に血が上っているために、見えてなければならないものが見えてないのではないか?

 いきなりグチになって申し訳ないのだけど。
 最近、ちょっと困った事があった。

 あるブログにて、筆者のコラムの一部が掲載されたのだが、その内容が、かなり過激な徹底批判だった。
 もちろん、事前の転載許可も、そういった主旨の記述をしたいという申告もなし。
 他の話題の中でちょっと引用するというのではなく、100%反論のみという内容だった。
 転載意図を考慮すると、これは著しくモラル・礼儀に反する行為だが、これまでも多くの場に同じような紹介をされて慣れているので、それについては許容範囲だ。
 こちらと見解の違う人が居る以上、批判される事そのものは構わないと思うし、逆にそういう人の意見を知る良い機会だから、むしろ推奨したいとも考えている。

 問題なのは、そのブログ上での批判体制のあり方だった。
 このブログの批判内容は「感情論」に基づくもので、こちらの記述した内容を理解した上での反論ではなかったのだ

 先のブログでの批判・指摘は、コラムで対象にされていた作品の過剰擁護を行うための批判・反論でしかなく、論旨も反論根拠もすべてでたらめだった。
 それどころか、ありえない理論を持ち出して無根拠に「粗の指摘」を否定、加えて作劇上最低限必要な常識の無視を推奨し、挙句には、筆者の論旨・批評姿勢の否定にまで発展させていた。
 つまり、「否定のための否定」を繰り返すという、ループ状態に陥っていたのだ。

 これでは、もはや議論や弁明など成立する状況ではない。
 単なる言いがかりの寄せ集めになってしまっているのだから。

 粗の指摘を「これは粗ではない」と擁護するために、間違った(曲解した)科学知識を持ち出したり、内容を理解していない科学考証を無理矢理適応させようとしたり、間違った情報を反論素材としているようでは、もはや疑う余地はない。
 こちらからの反論や、曲解に対する訂正意見も、その内容の真意を汲み取ってはいただけず、揚げ足を取って反発されるだけ。
 つまりは、ブログ管理者と参加者のほとんどは、「私達の大好きな作品に粗などない! 貴方の指摘は的外れなものだ!」と声高かつ一方的に唱えたいだけで、はじめから表面的理解しかする気がなかったのだ。

 迂闊にも、こんな所にまともに反論しようとしてしまったため、こちらはえらい疲労感を味わわされた。
 いくらこちらが平和的に意見しようとしても、先方はどんどん強情かつ感情的になり、収拾がつかなくなるのでは、どうしようもない。
 返答内容はどんどんメチャクチャになり、あげくにはネットマナーすらも否定してかかる始末。
 結局、これ以上相手にはしていられないと判断せざるをえなくなり、筆者はブログ管理者とのやりとりは止める事にした。

 念を押しておくが、筆者は自身のコラム内容に完全な理解を示して欲しいとか、すべてにおいて同調して欲しいなどと大それた事は考えてはいない
 むしろ、内容について意見を求め、色々語ってみたいという主旨の元に製作している。

 しかし、こちらがどういう立場でコラム上に論旨を構築し、それに基づいて批評をしているのか、それは汲んでいただかなくては、そもそも語り合いの意味が成立しない。

 これは強要などではなく、批評者が暗に求めていることであると同時に、あくまで筆者からの一方的なお願いに過ぎないものなので、必ずしも理想通りに行く事はないというのも理解している。
 また、自身のコラムに対して反論・指摘をいただいた場合は、内容推敲の上納得したら直ちに加筆または修正し、それを指摘主に伝えるという行為を行っている。
 無論、その中に多少疑わしい見解のものもあっても、コラム内容に誤解を招きかねない記述が含まれていたのなら、回避のために表現に手を加える事もある。
 お恥ずかしながら、過去数え切れないほどこれを繰り返し、その度に指摘してくださった方々に頭を下げてきた。
 決して、一度上げた文を絶対のものとする意向ではないのだ

 しかし、コラム上での指摘内容に感情的になって反論・批判に走ってしまうと、本来見ておかなくてはならない部分すらも見えなくなってしまう危険があるのも、また事実なのだ。
 それを自覚せずに反論を繰り返し続けると、やがて、自身がどんどん支離滅裂な話をしている事すら気付かなくなってしまう。
 これでは、行き着くところは所詮「口喧嘩」だ。

 前置きが長くなったが、筆者はこの件で、「ある事」について熟考させられる、いい機会を得た。

 「好きな作品」に対する見解の相違は、時として異常な意見対立を生む。
 これは当然の成り行きだ。

 こちらのサイトを長年ご閲覧くださっている方はよくご存知の事と思われるが、一部の映像作品について、ファンとアンチファンのぶつかりあいがすごい事になった。
 2005年夏頃から冬にかけての「仮面ライダー響鬼」を巡る議論は、常軌を逸するほどの白熱化を見せ、番組が終了して半年近く経つ現在もなお、ところどころでくすぶりを見せている。
 これは、響鬼が当時現行放送番組だったという事もあり、特に注目度が高まっていたという背景もあるが、振り返ってみると、実に奇妙な出来事だった。
 ただ、この時の激論ぶりは、一部の冷静な人達から「醜い言い争いに過ぎない」と一刀両断されてもいた。
 現在も、「仮面ライダーカブト」を巡り似たような事態が起こっているが、今年は幸い去年ほどの激動はないようだ。
 ただそれでも、各所で意見の激突が見られ、それにより作品そのものの良し悪しが不当に捻じ曲げられているような気がする。
 カブトファンの一人としては、大変残念なことに思う。

 もっとも、平成ライダー以前にも、こんな事は多々あった。
 80年代後期のトレンディドラマでは、その結末を巡って情報誌の投稿欄上で様々な意見が行き交っていたし、映画作品など、それこそ何十年も前から繰り返されてきた。
 現在だと「ダ・ヴィンチ・コード」でのキリスト暗黒史を巡る表現問題について、世界規模の議論が展開している。
 映像だけでなく、音楽についても同様で、特に90年代に入ってからの邦楽のスタイル変化や、それまであまり一般的ではなかったジャンルの大系化を巡る議論は、相当な白熱振りを見せた。
 アニメや特撮など、例を挙げるのも野暮なくらい沢山ある。
 総合的に見れば、このような激論飛び交う状況が出来るくらいの方が、作品としては望ましい。
 しかし、何を題材に語るにしても、口喧嘩ではなく議論・反論をするつもりなら、お互いにそれなりの姿勢を持たなくてはならない筈だ。

 ある大人気作品が存在する。
 だが、これは好演出が続出する反面、突っ込み所も大変多く、指摘を始めたらきりがないほどだった。
 話のノリを優先させるために常識的な流れを排除したり、時には空間の物体移動速度までも適当に扱う。
 酷い時になると、前に出て来た重要情報が、別の回では突然なかったことにされたり(使えば便利なのに意味もなく使わなくなったり)、或いはご都合的に設定がどんどん付け加えられたりして破綻を来たしまくる。
 否定のしようのないくらいはっきりと、映像設定が変化してしまった事もある。
 結局、出来たものは粗のてんこ盛り状態、整合性などほとんど無視、設定何それおいしいの的な、とんでもない内容に落ち着いた。
 しかし、それでもこの作品は大きな人気を博し、揺ぎない評価を得ている。
 この作品の熱狂的なファンは、この作品を否定するような言動や、粗を指摘する意見には過敏に反応し、反論してくる。


 よくある図式だが、ここで「否定してきた人・粗を指摘してきた人」が、どうしてそういう考えに至ったのか、という所まで踏み込んだ事はあるだろうか?
 まず、ほとんどないと思われる。

 「俺はこの作品が好きなんだ。本当に面白いと思ってる。なのに、なんであんたはつまらないとわざわざ口に出して言うのか?」

 だいたい、こんな感じになるのではないだろうか。

 だがよく見ると、この考えは何重にも間違っている
 その人が「面白い」と思っている事と、「他人がつまらないと思う事」はまったくの別物で、同列には比較できないからだ。
 もし、この発言が「ファンサイト内の感想掲示板上で述べられたもの」であるなら、最後の「わざわざ口に出して〜」という部分は正論だが、仮に、そういった制約のない公共の場で述べられたものであるなら、これもまた的外れなものになる。

 好きな作品に思い入れ、それ故に面白さを布教したくなり、問題点が問題点に見えにくくなるという事は誰にでもありうる事だし、筆者にも多数思い当たる。
 その姿勢自体はおかしくないし、むしろ素直でまったく正しい。
 無論、その姿勢から作品を褒め称える感想を述べるのも、実に自然だ。

 だが、その作品に魅力を感じている人すべてが、そういう思考を持っているわけではない。

 中には、問題点や粗、不徹底要素をすべて抽出し、切り分けた上で、その作品全体を愛する人も居る。
 解りやすく言えば「どこが良い点でどこが悪い点か、しっかり把握した上で作品を好きでいたい」と思う感情。
 より深く、その作品を分析・理解したいという願望の発展だ。
 そういう傾向にある人は、必然的に問題点抽出に熱中しているように“誤解”されやすい
 しかし、よくよく言動を見返してみると、「この人は粗だとわかっていても、それを含めて好きなんだ」という事がわかるはずだ。

 でも、もしここで前者のようなファンが、「粗探しばっかりしやがって」と考え、反発してきたらどうなるか。
 無論、同じファン同士なのに対立が発生する
 後者のファンが、どんなに粗探しをしている理由を説明しても、前者は「こいつはアンチだ」と決め付けてしまっているため、一切耳を貸さない。
 先の、筆者が蒙ったブログ被害も、この典型的なパターンだ。
 はたから見ると、「なんでファン同士で喧嘩しているんだ?」という事になってしまう。
 なんというマヌケなことだろうか。

 これが、タイトルに挙げた「感情的否定」の正体だ。

 粗探しというのは、一般的には悪い意味の言葉として受け止められる。
 確かに「わざわざ問題点を穿り出して作品を咎める」というスタイルは歓迎されるものではないが、中には「普通に見ていて気になる粗の指摘」すらも、粗探しと受け止められてしまう事がある。

 これも、立派な「感情的否定論」の一種だ。

 粗が気になるかどうかは、人によって違うし、作品に対する思い入れでも変わる。
 だが、その人が見ていて気になった部分があった、というのは、紛れもない事実なのだ。
 もちろん、それはその人の勘違いや解釈違いである可能性もある。
 人によっては、洞察力、観察力、記憶力が優れているからこそ発見できる場合もありうるので、一概に「重箱の隅を突きまくった」とは言えないのだ。
(生憎、筆者はそういうタイプではないけれど)

 しかし、個別で異なる見方を画一化させるかのような言い方を叩き付け、「わざわざ粗探しするために番組を見ているなんて暇なんですね」と発言するのは、愚かしい以外の何物でもない行為だ。
 こう言い放った時点で、その人はすでに思考停止しているという現実に気付いて欲しい

 本意ではないが、具体例を挙げよう。
 以下は以前にも別コラムで触れたものなので、ちょっと重複した内容になるが、ご容赦いただきたい。

 以前「仮面ライダーカブトの頭突き第三回」で挙げた、「仮面ライダードレイクのライダーシューティングの弾速が遅い」件。

 前提だが、これは間違いなく「粗」だ

 高速移動するワームに対抗するため作られたマスクドライダーシステム・ドレイクの必殺技で、ドレイク自身のクロックアップ状態の有無に関係なく撃てるものであるにも関わらず、なぜかライダーシューティングの弾速は異常に遅い。
 目の前に弾が迫っているのに、(クロックアップ中とはいえ)カブトはライダーキックの予備動作を悠々と行えるほどのゆとりがある。
 確かに、劇中でワームに命中させたことはあるにはあるが、こんな性能では、とても不意討ち以外に使えそうにない。
 また、光弾を蹴り返したカブトはまったく無傷なのに、跳弾を食らったザビーだけはダメージを受ける
 光弾が視認できるとか、実体のない筈の弾が弾き返せるとか、そういったお約束的な部分へのツッコミはしないにしても、こんなご都合主義な武器があっていいのだろうか、という疑問は自然に生まれてくるだろう
 「そんな事はない!」と思う人も、もしこれが貴方にとって興味の薄い作品内で行われていた事なら、同じような指摘をしてしまうのではないだろうか?

 その後、ライダーシューティングはまったく粗ではないという指摘をいくつかいただいたが、残念ながら一つも充分な説得力のある説明をいただけなかった。
 逆説的に、「では、なぜライダーシューティングの弾が“遅くなくてはならないのか”?」という部分を説明しきれないからだ。
 銃である事、高速移動する相手を狙う武器、という条件から高速弾を発射する必要性に駆られても、遅くなる必要性はどこにもなく、またそれは「演出の都合」以外では説明が不能。
 こうなってしまっては、どう言い繕ってもそれは脳内補完か過剰擁護に過ぎず、状況を冷静に判断しているとは言えない。
 以前にも書いた通り、光速よりも遅くなりようのないタキオンを使用した弾である以上、クロックアップもクロックオーバーも、本来ならば弾速の変化にはまったく関係ないのだ。
 タキオンからエネルギーを奪うとさらにスピードが上がるが、逆にエネルギーを付加すれば遅くなるはずだ、という反論も戴いたが、それはタキオンをよくご理解していないための発言だ。
 エネルギーを付加しても、タキオンは光速以下には絶対にならないのだ。
 なぜかって?
 だって、はじめからそういう都合の良い理屈に合わせて想定された仮想粒子なんだもの(笑)。

 とはいえ、これらは「戦闘場面を面白く盛り上げる意図」で作られた演出だという事も、同時に理解できる。
 カブトとドレイクの絶妙かつ意外なコンビネーションで、ザビーを撃退(しかし殺しはしない)という条件を成立させるために作られたシーンなのだろう。
 だから、それを理解し、この演出そのものを良しとする人には、弾速問題など粗とは映らないのだ。
 中には「劇中で出てきた情報なんだから、それがすべてだ。難癖をつける事自体間違いなんだ!」と唱える人も居るかもしれない。
 まあ、言わんとする気持ちはわからなくもないし、それはそれで一理ある。

 ところが。
 中には、この弾速のせいで「は? なんでこんなにヘボい武器なの? これじゃドレイク弱すぎじゃんか」という感想を抱く人だって、実際に居るのだ。
 もちろんこれは、ドレイクが大好きで、だからこそ彼に強くあって欲しいと願うファンである可能性もある。 
 なのに、光弾はのたーりのたーりと飛ぶ。
 これで愕然とする事だってある。
 そんな人は、そこまでノリに乗って観ていたかもしれないが、ライダーシューティングの場面で突然興醒めさせられてしまうわけだ。
 アンチカブトファンでなくても、こういう事は充分にありうる。
 そういったマイナス要因を含んでいる以上、これは「粗」「難点」として判断しないわけにはいかない。
 設定とか構成とかまで踏み込んで考えない人でも、そういう些細な演出の粗でノリを断ち切られ、不快な思いをするケースだってある。
 このような、あらゆる可能性を無視して「ライダーシューティングに粗はない」とは言えない。

 第一、これは「ああ、これはちょっと粗だったねえ」の一言で理解が容易に済み、話が終わってしまう程度の物なのに、何故わざわざ「粗でない」と擁護するための理論武装が必要になるのか?

 こういう粗を擁護するファンは、よく否定派を指して「細かい設定を気にしすぎ」「特撮に何を求めているのだ」などと申されるが、実は擁護のための理論武装をする際、自分達はそれ以上の事をしているのに、まったく気づかないフシがある。
 感情的に相手の意見を否定すると、それはそのまま自分に跳ね返るという、良い例だ。

 気にならなければ勝ち、気にしないようにすれば良いというのは、感性の一方的な押し付けにすぎない。
 子供番組だから難しい理屈を用いるのは反則とか、何故そこまで整合性に拘るのかとか、もう少し余裕のある姿勢で作品を楽しむのが大人の態度なんじゃない? などというのは愚の骨頂だ。
 気になった事を指摘するのが、どうして「態度の問題」になってしまうのか?
 むしろ「アレは気になったし、問題だろうな」と一言云いまとめる方が、余計なこだわりもなくよほど自然な態度だ。
 逆に考えれば、これらにいちいち噛み付いて無意味な反論や方向性の違う皮肉を叩き付ける行為は、「余裕のある大人の態度」ではない。
 たいがいにおいて、そういう事にまで考えが回っていないのだ。
 こういう場合は、「もう少し余裕のある姿勢で指摘を拝読するのが、大人の態度なんじゃない?」とでも返すべきなのだろうか?
 否、それをやったら、結局また振り出しに戻ってしまうのだけど。

 これらの反応は、すべて「盲目的擁護」から来るもので、悪い言い方をすれば「信者的発想」から来る「思考停止」だ。
 そんな発想を込めて、粗部分に違和感を覚えた人に反論すれば、それは必然的に「感情的否定」に堕ちてしまう。
 本当なら、ここで「なぜこれを粗と考えたのだろうか?」と見つめなおす歩み寄りも必要なのだ。
 同様に、粗と指摘した人も、擁護する人の気持ちに立って考えるべき場合もある。
 しかし、先方が思考停止してしまったのなら、もはや反論の意味はない。

 一方、「これは間違いなく粗だが、そうせざるをえなかった理屈も一応わかるから、別にいいんじゃない?」という考えの人も居る事をも忘れてはならない。
 というか、むしろ筆者はこちらに属する。
 ただそんな人でも、粗に的を絞って指摘すると、「感情的否定」の的になってしまう。
 「仮面ライダーカブトの頭突き第三回」は、まさにそのパターンで多くの指摘を受けたわけだ(笑)。
 
 このように、同じファンでも複数の見解があるのに、感情的に否定要素を廃する反論を叩き付けすぎると、相互理解以前にどんどん状況が悪化する事が考えられる。
 また、擁護派はなぜか意固地になりすぎている場合も多い。
 好きな作品をバカにされたと、単純にとらえ過ぎてしまうせいなのか。
 ある意味では、否定派以上に強く拘って擁護していることもあり、本人自身、それに気づいていないという、一番よろしくないタイプの「思考停止状態」に陥っている。
 そこからの逸脱を求められると、反発的に「嫌なら見なければいいじゃん」とか「脳内補完かよ」とか「これだからオタク的発想は」という、詭弁にならない詭弁でかわそうとしてしまう。
 こうなると、そこで議論は打ち切りだ。
 話は発展しないのだから、それ以上続ける意味も必要もない。

 こういう言い回しをする人は、ネット上で「勝ち逃げ」をしたくなるタイプの人が多い。
 いわゆる「捨てゼリフ残して華麗に去る」つもりなのだが、実はこれ、はたから見ているとこれ以上ないほどみっともない行為なのだ。

 最近は、作品内容の掘り下げや構成の徹底が軽視される傾向が強いため、作りこまれた「面白い作品」を知らずに語る人がかなり増えた。
 また、「作りこまれた作品」追求も、すべて「オタク的見解」と決め付けられる。
 なんだかこれでは、軽くて内容が薄い作品を、表面的に良いと言っている人達の方がエライかのように思えてしまう。
 いや、偉い偉くないの問題ではない筈なんだけど。
 こう考えてしまう人が、先のような「捨てゼリフ」を多用したがる傾向がある。
 好きな物に対して徹底追求するのがすべてオタク的思考だと切り捨てる前に、必要以上に作品を擁護する姿勢は、そのさらに上を行く「オタク的思想」なのだという事を自覚して欲しいものなのだが
 まあそれ以前に、「オタク的思考のどこが悪いのか」という話になってしまうけどね。

 このような極論を吐く人の間には、「古い作品は内容が適当でいい加減、設定やこだわりも乏しく大した内容はない」という、困った偏見が蔓延している事が多い。
 しかし、これは結局その人の見解の狭さの暴露でしかない。
 実際は、古い作品の方がむしろ密度が濃かったりする場合もある。

 例を挙げすぎると水掛け論になるので、近々「人生に玩具あり2式」でも取り上げる予定の「超電磁マシーン ボルテスV」を、一例として挙げよう。

 これはもう29年前の作品だが、「ありがちなスーパーロボット系アニメ」という第一印象に反して、その内容密度は異常に濃く、そしてしっかりした構成を持っている事で有名だ。
 確かに一部不徹底かつ解りにくい表現もあるにはあるが、ボルテスVに五人パイロットが必要な理由(各担当セクションが個別に設定されている等)や、必殺技の原理、合体時に発生するシステム上の問題点や、利点を活かした奇策の妙、また開発経緯に関連する人間関係など、「これ本当に昭和52年の作品か」と思わせるほどの旨味に満ちている。
 メカだけでなく、冒頭から張られている伏線の適度な消化と、それを最終回まで見事引っ張り続け、途中ミスリード演出や視聴者の興味を引く展開も加え、ラストは怒涛の迫力と感動、そしてしっかりとけじめをつける結末に至った。
 加えて、諸設定を充分活かしたストーリーも多く、視聴者の予想を裏切る意外な戦略により、ボルテスVが窮地に陥るといったおいしい話も続出した。
 つまり、設定を無駄遣いせず、きちんと話に活かす努力をしていたわけだ。

 ボルテスVは全40話だが、当初は52話予定(放送局側の都合で1クール短縮)で構成されていたため、本来なら短縮による「尺不足問題」があっても不思議ではないのだが(皮肉にも、この後番組の闘将ダイモスはこれが出てしまった…)、それを感じさせるものがほとんどなく、ボルテス側・ボアザン側双方の視点による終盤の展開描写は、見事に盛り上げに成功している。
 この上、ボルテスVは子供から大人まで多くのファンを生み、ご存知の通り、フィリピンでも58%という驚異的な視聴率を誇った。
 時代的な背景もあり、今と違って「新鮮味があったから受け入れられた」のかもしれないが、とにかくこのように、「古い作品だけど、緻密な内容構成で面白く見せる事に成功した作品」は、間違いなく存在するのだ。
 ただし、そのボルテスVにしても、「終盤突然出てくる岡防衛長官の病」や「左近寺博士の唐突な出現」「終盤のハイネルの態度からは考えられないような、前半部の鬼畜的作戦」「一度きりしか使わない装備」などツッコミ所は大変多く、それこそ挙げたらきりがない。
 決して問題がなかったわけではない。

 この作品を語る際、固有名詞・単語をわざと隠し、製作時期も秘密にした上で知らない人に説明した場合、まず間違いなく「何そのオタクアニメ?」と言われるのではないだろうか。
 しかし、世間的には、ボルテスVはそんなにオタク向けアニメとは認識されていない(好きな人はオタクよばわりされるけど)。
 こういうものも過去にあったという事を知らないで、「古い作品は云々」などと唱え始めると、それは極論か、中身の乏しい取るに足らない意見に落ち着いてしまうのだ。

 念のため、「古くて中身が薄い作品」もかつて多くあったという事にも触れよう。
 ダイナミックプロ系スーパーロボットの多くは、今見るとかなり退屈な作品が多く、「スーパーロボットアニメはパターン物」という印象を構築した理屈もわかる。
 それ以外でも「大空魔竜ガイキング」など、意外に退屈な内容の作品はある。
 だから、すべてがボルテスV並だ、などと筆者は言わない。
 結局のところ、中身の濃い・薄いの差は、今も昔もそんなに変わっていないという事なのだ。

 このままだと不公平なので、対極の例も挙げておこう。

 アニメ版「ローゼンメイデン」二作も、その大人気ぶりに反して内容はものすごく薄い
 というか、いざ反芻してみると、想像以上に薄っぺらい事に愕然とさせられる。
 設定すらも、どこまで徹底されていたのか、定かではない。
 知らない人に内容を伝える際、筆者はとてもじゃないが、面白く感じさせる説明は出来ない。

 だが、キャラ萌え系が好きな人や、単純にキャラに惚れた人にとっては、あのドタバタ喜劇やアリスゲームの思想激突は、旨味に感じられるのだ。
 しかも、ローゼンメイデンで薄いのは「メインストーリーの流れ」くらいであり、それ以外はかなり丁寧に作りこまれている。
 短期作品だから全体に通じる粗や問題点が目立ちにくいという利点もあるが、世界観的に「なんでもありの不思議空間」というイメージが強いため、粗が「本当に粗なのか」判別が付きにくくなる。
 これは、立派な構成技術だ
 単純に内容が薄いと言っても、「つまらない」とはイコールではなく、このように「おいしい部分もある」という事が明確であるなら、それは立派な売りになる。

 さて。
 濃い「ボルテスV」と、薄い「ローゼンメイデン」として挙げてみたが、この二作品がどうしてそれぞれの形で面白いか、という追求については、どうだろうか。

 作品を評価する以上、「どうして(自分は)面白いと感じるのか」ということに興味を抱く人が居る。
 つまり「なんとなくだけど好き」という程度では納得できないタイプだ。
 そういう人が、先述のように「良い部分も悪い部分も切り分ける」。
 先の例なら、「内容が薄い」というローゼンメイデンの問題点をまず指摘し、同時に「キャラクターが魅力的」という良い点を見つけ出す。
 そうする事により、「内容が薄いのに(本来ならこれはマイナス要素の筈なのに)なぜか総合的には面白い」という、興味深い結論が導き出される。

 これは、その作品に対する新たな発見にならないだろうか?

 単に漠然と面白いと感じるより、こうやって熟考した方が、より作品への思い入れを感じられるという可能性もあるのだ。
 そういう事を楽しみたいから「批評」を行うという旨の人だって居る。
 これなら、パッと見がつまらないと感じる作品を視聴し続けても、「良い所探し」に繋がる可能性もありうるから、苦痛にはならない。
 だから「精神的負担が大きいなら、見なければいい」などといわれる筋合いもない。
 スタイルは違うが、独自のやり方で面白さを見出そうとしているのだから、その過程を指して「粗探しかよ」等と難癖をつけられても、それは全然話の筋が違うのだ。
 姿勢が違う相手に対して、一個人だけの見解で感情的な反論をぶつける事の無意味さが、「冷静ならば」これでわかる筈。
 カブトの件にしても、ライダーシューティングの鈍速など、ほんの小さな一点の問題に過ぎない。
 これを含めた上で、総合的に仮面ライダーカブトの魅力を語る事だって出来るはずだ。
 だが、感情的否定でそれすらものっけから否定してしまっていたら、「君が想像してた未来が歩き出した道に、未来はない」。

 こうして眺めてみると、自覚のない感情的否定が、あらゆる有望的な見方すべてを潰しかねないものである事が、おわかりいただけると思う。

 以前にも触れた通り、感想を述べ合うだけならそれでいいが、自分と異なる感想が述べられた場合、或いは感想ではなく「批評」または「議論」が持ち込まれた場合、両者の対決には生産性は望めなくなる。

 「感想」と「批評」はまったく別物で、そもそも共存のさせようがない。

 それを見極めていない人が、感情任せに、「批評」という“ある程度個人的感想を潜めた意見”に立ち向かったとして、何になるというのか?

 感想を以って、感想ではないものに喧嘩を吹っかける。
 なんと愚かなことだろうか。

 批評対批評ならば、互いの論旨や視点についての差異について指摘しあい、相互見解を深める結果を導くことができる。
 だが、感情や知識に左右されやすい「感想」では、そもそもプラットフォームが違うのだ。
 それでも、もしどうしても反論したいというなら、「感想を述べる人」は「批評」の舞台に自ら上り、立場を対等にしなければならない。
 そうでなければ、永遠に「何こいつは自分勝手なバカな話をしているんだ?」と言われてしまうだけだ。

 ただ、誤解のないように述べておくが、決して「感想」自体が「批評」に劣るというものではない。
 むしろ、思ったことを素直に形にできる「感想文」というのは、それだけで立派なものだし、感想同士で互いの見解を深めていく事は可能だ。
 それに、思いを吐き出す事ですっきりさせ、精神衛生上良い方向に持って行けるという利点もある。
 だから、決して不必要なものではなく、むしろ重要なのだ。

 とにかく、「批評」と混同してはいけないだけなのだ。

 この区別がつかない人がWEB上に多くなり、感想対批評という図式を作りたがるから、問題が発生しやすくなる。
 多くの知識や経験、見解をフル動員し、ポイントを絞って記述し、個人感付加は最低限に留める「批評」には、実は「感想」と相容れる部分は少ない。
 だからこそ、ファンにとって痛い部分を「批評」に指摘されると、「それはどうかな」という反発心が芽生える。
 だが、もし批評対感想の対象が、貴方のまったく興味のないものだったらどうだろうか?
 その場合は、きっと双方の見解を冷静に判断でき、「どちらの言い分もある程度理解できる」ようになるだろう(多分、とつくが)。
 どちらにしろ、その議論に「感情的否定」を叩き付けようという気は、まず起こらない筈だ。
 そしてその時、どうして対立しているのか、その理由が客観的に見えてくる。

 その瞬間、「感情的否定」が、いかに馬鹿馬鹿しいものであるかが、実感できる筈だ。

 以下は蛇足だが。
 「仮面ライダーカブトの頭突き第二回」の時に、ライダーバトルについて書いた時、「後藤は要するにアギトや555信者で、龍騎や剣や響鬼アンチだって事なんだな」といった意見をいただいた。

 これには…さすがにびっくりして、腰を抜かした。

 とんでもないことだ。
 あのコラムで記述した事と、筆者個人の嗜好を混同して欲しくなどない。

 それぞれの作品について色々な形で思い入れを持っているが、筆者はむしろこれとは逆で、龍騎や剣を高評価し、実はあまり555やアギトを評価していない(あくまで総合的には、という意味。ぶっちゃければみんな好きだけどね)。
 響鬼については、今更どう言い繕っても納得してもらえないだろうから、不問に付す(笑)。
 剣や龍騎については、思い入れがありすぎて一方的な感想だけになってしまいそうで、正しいスタイルの批評ができる自信がないから、作品評を行っていないだけなのだ。
 が、それがまさかこのように解釈されるとは思わなかった。
(以前から掲示板を参照していただいている古株の方は、当時後藤がアギトに関してどのように述べていたか、よくご存知の事と思う)

 このコラムでは、あくまで「ライダーバトル」に的を絞って書いたため、分析上、必然的に555を持ち上げるような形になっただけだ。
 これをそのまま作品全体評価と捉えられると、いささか戸惑う。
 言うまでもないが、筆者は難点・粗・疑問点すべてひっくるめて、その上で龍騎と剣が大好きだ
 だから、剣や龍騎のストーリー構成の無茶苦茶さや、演出の粗を指摘されまくっても反論は出来ず、むしろ同意するが、だからと言ってキライにはならないし、アンチ化もしない。
 だが、恐らくこれらの番組評を執筆したら、酷評だらけの内容になってしまうだろう。

 ここでもし、「好きなのにどうしてそうなっちゃうんだ?」と思ってしまった人がいたら、もう一度最初からこのページを読み返していただきたい。

 各所で指摘されまくった「カブトの頭突き第三回」も、「番組の粗」という的を絞ったためにあのような内容になった。
 無論、だからと言って作品全体にダメ出ししたわけではなく、そんな事をした記憶もない。
 まして、番組評ではなく「粗について取り上げたコラム」なのだから、当然それ以外の要素に触れる事には意味がない。
 このコラムで、もし「けどカブトは、カクカクシカジカだからとっても面白いよ〜」などと突然書き加えたら、内容はめちゃくちゃになったことだろう。

 どちらにしろ、筆者やそれ以外のスタッフによるコラムの内容は、いずれも決して完璧なものではない。
 だから、反論や指摘・意見は大歓迎だし、それを真っ向から受け止める準備と覚悟はあるつもりだ。
 冒頭に書いた通り、場合によっては加筆修正を行う場合もある。
 しかし、その指摘や意見が悪意のこもったものであったり、論拠に乏しいものであると判断された場合は、望むような形で対応できない場合がある事を、ご理解いただきたい次第。
 もちろん、感情的な意見や感想だとしても、それは一つの見解として拝聴したいという気持ちはあるので、拒絶したいという意味では決してない。

 とにかく、「批評」に「感想」を混ぜ合わせたくない姿勢なだけなのだ。
 感想は感想として、ありがたく頂戴したいと、スタッフ全員常に思っている。

 それについてだけは、どうかご理解いただきたいと願う―――

 え、「ところでさっき挙げた大人気作品とは、何の事なのか」って?

 ああ、「キン肉マン」のことね。
 過敏に反応なんかするかって?
 するじゃないっスか。

 「だってゆでだから」と、笑顔で(笑)。 

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