脳内補完
後藤夕貴
更新日:2005年11月27日

 ここ数年よく耳にする言葉で、「脳内補完」というものがある。
 「脳内補完」って、一体何か?

 今回は、これについて考えてみたい。

 ある番組が、視聴者に考えさせる事を目的として、わざと明確な表現を廃した演出を盛り込んだとする。
 それを観た視聴者は、欠けていた部分を自分なりに分析・解釈し、それに対して感想を抱く。

 こういう流れは、普通によくあるものだ。
 そして、こういうのを指して「自分勝手に考えて感想を述べているバカな妄想」と批判される事は少なかった。

 この場合、「視聴者に考えさせる」という目的が明確になっていたり、欠けている演出の前後に「不足分を補うための情報」が充分に用意されているからだ。
 だから、視聴者は欠けた部分を簡単に補えたわけで、また多くの人達が似たような解釈をする事が出来る。
 これだけなら、別に何の問題もない。

 ところが、最近の映像作品等は、演出に難があったり、意図的に謎を散りばめたり、無計画に新要素を盛り込んだために、そこら中穴だらけになってしまったりと、問題が本当に多い。
 いや正確には、昔からそういうものはあったのだが、そういった作品はB級のレッテルを押され、マイナーのカテゴリに納められていたため、気にならなかったのだ。
 でも、今は問題を多く抱えた作品でも、メジャーカテゴリに分けられてしまうようになった。
 そのため、やたら(悪い意味での)問題作が増えたような印象が強まったのかもしれない。

 そして、そういった番組を見ている視聴者は、点在する「穴」の存在にストレスを覚え、なんとか「穴」部分の解釈(埋め合わせ)をしようと試みる。
 だが、そういった「穴」は元々埋められる前提にない場合が多いため、どんなに解釈を張り巡らせても、正解に辿り着く事は絶対にない。

 いつしか、そういった番組に慣れてしまった人達の中に、「穴」の中に自分勝手な解釈を盛り込んで、しかもそれをあたかも真実であるかのように語り始める人達が出てきた。
 答えが存在しない筈なのに、ありえない解答を捏造する。

 それが「脳内補完」だ。

 しかも、時折「脳内補完」を、先のような「自然な想像」と混同して語り、補完しない人達を指して「想像力が足りない」などと唱え出す困った輩が出てくる。
 この場合、足りてないのは「妄想力」だというのが正解なのだが…

 この「脳内補完」という言葉の恐ろしさを見てみよう。

 例えば、こんなストーリーがあったとしよう。

 ある男が、恋人を守るために盾となり、敵の銃弾を受けてしまった。
 だが男は、それでもひるまずに恋人を守り、逃がし切り、そして笑顔で見送った。

 一年後、恋人は花束を持って、あの時男と別れた場所へとやってきた。
 恋人は目に涙を溜めて、花束をそっと場に供えた。

 上記の例で、銃弾を受けた男がその後死んでしまったという事は、誰でも容易に想像できるだろう。
 例文には「敵から受けた銃弾」「再び訪れる別れの場」「花」「恋人の涙」「お供え」という材料が用意されているため、男の死ぬシーンがなくてもそれが想像できるわけだ。
 「視聴者に考えさせる演出」というのはこういうものであり、この例の場合の想像は、決して「妄想」や「脳内補完」とは言わない。

 では、「脳内補完」というのは、どういうものか?

 たとえば、上記の演出で、「男」に強く思い入れている視聴者が居たとする。
 その人は、「男」に死んで欲しくない、或いは殺されて欲しくないと願っていたため、こんな展開を思いついた。

 恋人を逃がした後、男は負傷しながらも敵を倒し(あるいは逃げ延び)、恋人とは別な所に辿り着いた。
 しばらくして傷を癒し、すっかり元気を取り戻したが、色々な理由から恋人にすぐに逢う事が叶わない。
 また、自分が関わる事で再び恋人に被害が及ぶ事を懸念した男は、わざと自分が死んだという情報を恋人へ伝え、旅立った。
 その事実を知らない恋人は、男と別れた場所に花を添えに行った。

…これが「脳内補完」だ。
 描かれなかった部分を、自分の理想に合わせて捏造してしまったわけだ。

 確かに、欠損部分の前後の場面は元のままなので、ストーリーとしては一応繋がっている。
 だが、男がその後生きていたという情報ソースは、その視聴者の頭の中にしか存在していない。
 まして、先の例から、こういう展開を自然に想像できる人はほとんど居ないだろう。
 だが、こんな連想を普通にやってしまう人達が、実際に存在するのだ。

 「脳内補完」という言葉は、ある時期からネット上で囁かれ始めた用語だ。
 筆者は、平成ライダーシリーズを巡る話題で、初めて目にした。

 ここにいらっしゃる方のほとんどはご存知だと思われるが、2000年に放送開始した「仮面ライダークウガ」から、現在放送中の「仮面ライダー響鬼」までの6作品は、それぞれ高い人気を誇るものの、大変に「穴」の多い作品ばかりだった。
 穴の度合いはそれぞれだが、「提示されたまま回収されず終いの伏線」や「あからさまな変更要素の残骸」が散乱しており、物語の整合性や設定の符合を求める視聴者は、大変ストレスを溜めた。
 特に、各作品の最終回ではそれまでの不満が爆発しまくり、ネット上で叩きに叩かれまくった。
 現在放送中の「仮面ライダー響鬼」を除き、過去の5作品で最後まで回収されなかった伏線は、どれだけの数に及ぶだろうか?
 恐らく、すべてを書き出していたら、あまりの多さに途中で嫌な気分になってしまうだろう。
 特に、2作目「仮面ライダーアギト」から4作目「仮面ライダー555」までプロデューサーを務めた白倉伸一郎氏は、「謎や伏線を張りまくる事が重要」という意向で、整合性の追及や伏線消化などは度外視していたようだ(本人自身、実際にそのようにコメントしている)。
 脚本担当者が疑問に思っても、整合性を無視したというのだから徹底しているが、そのため視聴者は凄まじい不完全燃焼に見舞われ、各方面で議論が白熱した。

 だが、この平成ライダー議論は、「自分はこう解釈するけれど、どう思う?」といった方向性から微妙に形を変え、いつしか先の例のように、とんでもない自分勝手な解釈を自然に吐き出すようになってきた。
 無論、すべての論客がそうなってしまったわけではないが、いつの間にか脳内補完が何のためらいもなく語られるような場が出来てしまったのだ。

 以前、筆者は「仮面ライダー響鬼の大問題」というコラムを書いたが、そのために沢山の個人サイトや掲示板を巡り、色々な人の意見を覗かせていただいた。
 だが時折、その中に「あの演出がわからないなんて、想像力が足りない証拠だ」という意見が見て取れた。
 これは、「仮面ライダー響鬼」の主人公・安達明日夢の成長を巡る議論で、劇中では明確に描かれていないものの、普通に見ていれば成長の度合いがわかるはずだ、という内容の議論だった。
 その掲示板では、明日夢は立派に成長しているという意見が大半を占めているようだった。

 だが、筆者がコラムで書いた通り、29話までの本編内では、明日夢の成長は限りなくゼロに近く、また同じように考えている人達も大勢おられた。
 この見解の相違は、一体何なのか?

 明日夢の成長云々については先のコラムでたっぷり書いたので、ここで繰り返すつもりはないが、どうも劇中での明日夢を巡る情報解釈の仕方が異なっているように思える。

 ある人は、描かれていない部分を“好意的に”受け取り、欠損部分を想像で補う。
 ある人は、そこまでの情報を考察に加え、描かれていない部分を“否定的に”分析する。

 これにより、導き出される結論は、まったく異質なものになる。
 好意的に解釈した人は、明日夢の成長は充分だと考え、そう感じられない人をののしる。
 だが、否定的に考察した人のすべてが、感情論だけで成長を認めていないわけではなかった。
 “そこまでの分析”の結果、成長を認められないと結論づけたのだから。
 この場合は、どちらが正しいのだろう?

 これに答えを出すのは難しいが、少なくとも、「想像力が足りないから理解出来ていない」という発言自体は、間違いであると断定して問題ないだろう。
 「想像」力と「妄想」力は、まったく違うものなのだから。

 「連想」と「想像」は、必ずしも想像力・空想力に基づくものではない。
 情報収集力、分析力、判断力が合わさり、その結果まとめられたものである場合がある。
 先の「男と恋人」の例は、想像というよりは分析に近い判断を求められるものだ。
 このようなタイプの物語の場合、「演出の意図的な欠損」を前提に置いてすべてが構築されるため、欠けている事が欠点や問題点にならない。
 そして視聴者は、それを判断できるから、自分の想像の結果に疑問を抱かないのだ。
 想像というのは、そこまでの情報考察を踏まえた上でまとめ上げる考えであり、決して「思いつき」ではない。
 この辺の解釈を間違えると、自分と違う結論を出す人はすべて「想像力不足」に思え、或いは「脳内補完に頼りすぎ」と反論される訳だ。

 「脳内補完」が生まれるには、それなりの土壌が必要だ。

 例えば、スーパー戦隊シリーズ
 こちらは、平成ライダーシリーズと同じ子供向け特撮番組というカテゴリーに入っているが、なぜかライダー作品ほど、ファンによる設定や伏線の追及が行われる傾向がない。
 つまり、同じ人が、スーパー戦隊にはツッコミを入れないのに、ライダーにはツッコミを入れまくっているというケースが多々ありうるのだ。
 この温度差は何か?

 筆者は、これは「作品内の“空気”の違い」だと考えている。
 
 判りやすい例として、平成ライダーシリーズ一作目「仮面ライダークウガ」を挙げてみよう。

 本作は、劇中に細かな情報が散りばめられており、視聴者には情報収集の楽しさと、その解答に期待できるという喜びが与えられていた。
 例えばグロンギ怪人ゴ・ベミウ・ギが、ピアノ曲「革命」の楽譜上の音階に基づいて犯行現場と殺害数を定めていたという前後編エピソードがあったが、これは前編の段階では、視聴者自身が革命の楽譜を分析していなければ決して気付かない伏線なわけで、驚くほど完成度の高い情報分布だった。
 また、グロンギ怪人を巡り対策を講じているのが主人公だけでなく警察組織もだったり、その結果、新開発の武器を使用して普通の警官が怪人を射殺してしまうという「これまでのヒーロー物では考えられないが、あってもおかしくはない展開」をやってのけた。
 これは、過去のヒーロー物全体にあった「ヒーロー以外の連中は、こんな大変な時に何をやっとるか」という疑問に注目・検討し、真正面から解答を用意した好例だ。
 「仮面ライダークウガ」は、この他様々な「練りに練った設定と演出」を披露し、視聴者の情報分析力に挑戦するような“作品内空気”を構築した。

 こんな「仮面ライダークウガ」という作品内において、一部の戦隊シリーズによくある「途中経過はあえて無視、成り行きをスッ飛ばしていきなり戦闘!」などという演出を加えてしまったら、大変な違和感を覚えさせられていただろう。
 つまり、クウガの中では、そういったデフォルメ的演出が存在しえない空気があったのだ。
 逆に、現在放送中の「魔法戦隊マジレンジャー」内で、クウガ並のヘビーな情報考察を求められたら、それもまたきついものがあるだろう。
 このように、それぞれの作品には個々の空気があり、「視聴者が拘りたくなる部分」が微妙に変わってくる。
 これを度外視して、全部ひっくるめて「子供向け番組だから云々」などと言ってしまうと、もはや論外なのだ。

 勇者シリーズを見ていた人なら、「黄金勇者ゴルドラン」と「勇者王ガオガイガー」の、作品内空気の違いを、はっきり思い出せるだろう。

 ガオガイガーでは、これでもかというくらい緻密な設定が数多く施され、しかも、それらを少しでも多く消化し、エピソードに絡めようと努力している雰囲気があった。
 そのため、結局裏設定のままで表に出なかったものが多くあったにも関わらず、大きな破綻を感じさせず見事に作品を終わらせる事に成功した。

 一方「ゴルドラン」は、必要最低限の設定に留め、娯楽性を求めた内容に特化しており、時折「ここまでやるか」という悪ノリを披露した。
 この悪ノリの賛否はおいておくとして、作品全体に「難しい事は考えるな!」といわんがばかりの雰囲気が満ち満ちており、しかもそれが有効に働いていた。
 その割り切り方の見事さは、前シリーズ「勇者警察ジェイデッカー」を観ていた人達の一部を戸惑わせるほどだったが、おおむね好評を得ていた。

 この二作は、同シリーズでありながら、あまりにもスタイルが両極端すぎる。
 ゴルドランに、ガオガイガー並の緻密な設定を求めるのは無意味だし、逆に、ゴルドランの何でもアリ的なイメージをガオガイガーに押し付けるのも酷だ(たまーに何か言いたくなるシーンもあったが…)。
 このように、作品によって拘るべきポイントは大きく異なっており、決してすべてを一つの視点のみで語る事はできないのだ。

 だから、例えば先のクウガなら、「昭和の仮面ライダーは、もっと無茶苦茶な話があったんだ。今更クウガだけ問題点を指摘しても、意味ないだろう?」という意見そのものが、無意味になるのだ。
 なぜなら、昭和ライダーと平成ライダーも、それぞれ作品内の空気が違うのだから。
 同列で語る意味は薄い。

 話を戻そう。
 要するに、その作品によって「欠けている部分が気になるか、ならないか」、気になるレベルが異なるわけだ。
 戦隊で許せた事がライダーで許せず、勇者シリーズで容認できたものがトランスフォーマーでは不可能だったり。
 あるいは、それとは逆だったり。
 そんな土壌から、「欠けている部分を想像する余地」が生まれる。
 そして、その方向を見誤った結果が、「脳内補完」だという事なのだ。

 もう一つ、自分が盲目的に思い入れてしまった作品を擁護するために、無理矢理な意見をでっち上げるのも、「脳内補完」の一種だ。

 どんなものでも、肯定派が居れば否定派も居る。
 だが、中には自分の意見を押し通す事しか見えておらず、相反する意見を駆逐してしまわんが如くに、猛烈な反論を展開する人が居る。
 その勢いは、問題の多い作品に思い入れてしまうほど、過熱する。

 否定派がどんなに論理立てて矛盾点や問題点を指摘しても、肯定派にはそれが問題には映らない。
 だから指摘部分には、「まったく描写されていない」ような妄想を持ち出し、それがさも劇中に存在しえたような言い回しで対抗する。
 この場合、良く出てくるのが「〜だと思われるから」「〜の筈だから」「〜だと考えられるから」といった、不明瞭極まりないデータの提示だ。
 これらも、その人が反論のために咄嗟に思いついた「脳内補完」なのだ。
 もちろん、その意見が否定派にとっても説得力のあるものであれば話は別だが、そのためには、結局明確なデータ提示が必要になってしまう。
 逆に言えば、実際はしっかりした論旨であるにも関わらず、データソースをうまく提示できないままだと、脳内補完扱いされてしまう危険もあるという事だ。

 「脳内補完」という言葉は、最近生まれたものではあるが、似たような行為は大昔からあった。
 特に、特定ジャンルの同人誌にも多く見られる傾向がある。
 有名だったのが、今から15〜6年前にピークだった「鎧伝サムライトルーパー」など。
 二次創作同人誌とは、劇中にないものを各同人作家が自由にアレンジし、ありえないカップリングを設定したり、人間関係を(わざと)捻じ曲げたりするものだ。
 もちろん、描いている人達はそれが捏造あるいは大嘘だと自覚しているわけだが、稀に、自作の設定が脳内で肥大化し、劇中の本物設定の重要性すらも凌駕してしまう
 具体的な例を挙げれば、

「伸は遼が本命なのよっ! 逆カプや、伸×当なんか絶対ありえない! 認めない! テレビ見てればわかるじゃん!!」

という、恐ろしい発言が飛び出たりするのだ(いまだファンの方、ごめんなさい。あくまで例です)。
 いや、筆者は本当に、こんな会話で大喧嘩しているサークルさんを見た事があるのだが(笑)。

 さすがに、同人誌から離れて久しいので最近の例は出せないが、えてしてこういうノリの話は、どこにでもあるもののようだ。
 脳内の理論を自覚した上で好きなものを描いたり、他人と話すのなら良いが、その境界線を見失ってしまうと、その人には、もう本当の作品は見えなくなってしまう。
 気をつけないと、コラムなどでもとんでもない物を書き上げてしまう事につながりかねない。

 作品を楽しむ事と、作品を批評する事は違う。
 だが、最近はその区別がつかない人が、大変多くなった。
 「自分が作品を楽しんでいる基準」を、「自分が下した評価」として述べてはいけない。
 掲示板などに意見を書き込み、誰かと評論・議論するのであれば、これらをきちんと見分け、区分して伝えなくてはならない。
 もちろん、好きな作品について感想を述べ合ったり、自分の燃えや萌えを語るための場というのもある。
 そして、そういう場に議論を持ち込んでも意味はない。
 そもそも、住み分けが異なるのだから。
 これを踏まえないで、「議論」と「感想」が激突すると、お互いの持論を覆させないために、何かしらの「捏造」が行われる事があり、論議を続ける毎にそれが定着化していく場合もある。
 つまり、自分でもトンデモない意見だと自覚していたはずのものが、やがてその人の本意になってしまうのだ。
 これも、一種の「脳内補完」なのかもしれない。
 自分の意見をしっかり見定めていない限り、どこからでも、「脳内補完」は生まれるものなのだ。

 筆者も、出来る限り自分のコラムを見直して、「脳内補完」が入らないように書き進めていきたいと思う。


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