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更新日:2005年8月14日 | ||
現在、鷹羽飛鳥氏による「仮面ライダー響鬼のお仕事」が不定期連載中だが、あちらの内容とはまったく趣を別としたコラムを書いてみようと思う。
全三回もの長文となってしまうが、何卒ご容赦いただきたい。 「仮面ライダー響鬼」は、それまでの平成ライダーシリーズとはかなり違う雰囲気を持った作品であり、現在とても人気が高い。 しかしその一方で、作劇のあり方に疑問を抱く声も多い。 平成ライダーシリーズは、新作が始まる度に「こんなの仮面ライダーじゃない」という意見を耳にするが、響鬼の場合、そういう方向性とはまったく違う難点が多く、数多くの不満点を耳にする。 いったい、「仮面ライダー響鬼」という作品のどこに不安要素があるのか? よく聞くものとしては、
今回は、この辺りを「習慣鷹羽とは別なベクトルで」追求してみたい。 なお、今回のコラムの内容は、鷹羽氏の見解とは必ずしも一致するものではないという事を、まずはご理解いただきたい。 あくまで筆者・後藤夕貴がまとめた内容なので、くれぐれも混同されないよう、ご了承願いたい所存。 それから、今回のコラムは「仮面ライダー響鬼」の熱烈なファンの方には、お奨めできない内容になっている。 もし、貴方が「仮面ライダー響鬼」という作品を完璧無比なものであると固く信じ、一切の反論を認めないという姿勢であるというなら、即座にこのページを閉じる事をお奨めする。 だが、もし僅かでも疑問に思う事があるのなら、是非お付き合いいただきたい。 今回のコラムは個人的感想ではなく、むしろ「作品考察」「検証」に属する内容である事を、ここで強調しておきたい。 なお、以降のコラムはすべて「仮面ライダー響鬼」第1話〜29話までの“高寺プロデューサー版”のみを対象としている。 30話以降の“白倉プロデューサー&井上氏脚本編”には、まったく触れていないので、予めご了承を。 ●【前提】もう「仮面ライダーじゃない」はおいとこう
今更ここに書くほどのものではないが、「仮面ライダー響鬼」は、過去のライダーシリーズの特徴からあまりにもかけ離れすぎたデザインとスタイルを持っており、その上「鬼」という、これまでの一般認識としては「人間に害悪を為す存在」をモチーフとした。そのため、複眼もなければ触角もなく、つまりは昆虫的な特徴はまったくない。 また、仮面ライダー龍騎以降消えてしまった「回転するベルト」を着けているわけでもなく、あまつさえ「変身!」とすら叫ばなくなり、ライダーキックも、(一応)バイクすらもなくなってしまった。 つまりは「仮面ライダーである必然性がもっとも希薄なライダー」という事になってしまうが、恐らくこんな意見など、コアなファンの皆さんは嫌になるほど聞いているだろう。 だから、このページでも「ライダー的要素を満たしていないから云々」とか「過去のライダーに比べて云々」といった事を書く気はない。 あくまで「響鬼」という新生ヒーローを巡る作品内に的を絞り、疑問に思われる点をピックアップしてみたい。 ●英雄らしからぬ鬼
「仮面ライダー響鬼」に登場する鬼は、いずれも、ヒーローとはとても思えない。いきなりこう書くと、「ええっ?! なんで?」と思われる方もおられると思う。 しかし、本編を見ていてこのように感じている人は、実際に多く存在しているのだ。 そのように捉えられる理由を、辿ってみよう。 「仮面ライダー響鬼」とは、特殊な訓練によって肉体を強化し、「鬼」になる能力を得た者達が、それぞれの音撃武器を持って巨大な化け物・魔化魍を退治する物語だ。 等身大の鬼達が、見上げるほど巨大な敵に戦いを挑んでいくという構図は、なかなかに燃えるものがある……筈なのだが、その前提にいくつかおかしな部分があるせいか、今ひとつのめり込んで観る事ができない。 それは、メインである響鬼や威吹鬼、轟鬼達、そしてそのバックアップ組織である猛士の面々が、「人の命や生活を守るために戦っているように見えない」という部分だ。 悪い言い方をすれば、「人命を軽視している」かのような印象すら与えられてしまう。 魔化魍退治を生業とするのはいいのだが、被害を食い止めようとする態度が見受けられないのがその理由だ。 まるで「魔化魍を倒せればそれでいい」とでもいわんがばかりの姿勢は、一部の視聴者からかなり疑問視されている。 また、魔化魍による被害について誰も感情を示さないというのも、そういった雰囲気を助長している要因の一つだ。 オトロシが出現した時、被害現場に駆けつけたイブキとあきらは、ペシャンコになったワゴンの残骸を見て被害者を悼む気持ちも言葉もまったく無く、警察などにも届けようとせず、まるでゴミでも落ちていたかのように無感傷な態度だった。 これは、現場を冷静に観察するために必要な態度と解釈するべきなのだろうが、本作に限っては、素直にそう感じ取りにくくなってしまうのだ。 イブキはともかく、魔化魍に対して個人的な思惑があるらしいあきらくらい、表情を歪めるくらいの演出があっても良かった気がするのだが…。 念を押しておくが、鬼達が一般人を守ったりかばったりした描写が、これまでまったく無かった訳ではない。 童子と姫から子供を守った斬鬼や、弾鬼や轟鬼が「はやく逃げろ!」と、一般人に避難勧告をするシーンなどがある。 ドロタボウの童子達の攻撃から、一般人の夫婦をかばった事もあった。 こうして見ると、現場の鬼達は、それなりにやる事やっているのだ。 なのに何故、人命軽視などという印象を与えてしまうのか。 これは、鬼というよりは、その背後の「猛士」のあり方に問題の根源があるようだ。 鬼&猛士と魔化魍の戦いにおいて、どうしても腑に落ちないポイントがある。
そんなものが、山や海に突如出現して、人を襲うのだ。 これは、熊が出て人が襲われたなどというレベルの事件ではない。 魔化魍の餌は人間で、捕食は主に童子と姫の補助を受けて行われるようなので、一度の食事で同時に大勢の人が犠牲になる事は、今のところないようだ。 だが、これだけ大きな生物が動き回れば、建築物倒壊や地面陥没、また場所によっては崖崩れなども発生するだろうし、二次被害も充分考えられる。 魔化魍に直接食べられる事がなくても、人間の生活に多大なダメージが与えられる事は、想像に難くない。 だが、それほどの脅威が大昔からずっと発生しているというのに、一般人がそれをまったく知らず、また知らされていないというのは異常としか言い様がない状況だ。 劇中の魔化魍は、幼生体の時は童子と姫の手で巧妙に隠されているようだが、大きく成長した後も人の目を巧みに逃れて隠密行動を取っているとか、そういった表現はない。 例外としてヤマビコがいるが、そのヤマビコも人を襲う前後に姿を隠しているだけで、後の方では堂々と姿を晒しながら歩いていた。 バケガニも、普段は海辺の洞窟に隠れているが、一度姿を現したらそのまんま。 以上の事から、魔化魍が白昼堂々と現れれば、当然その姿は一般人にも見えるし、感知できるわけだ。 魔化魍という存在が、近年になって突然出現したものだとか、あるいはすでにみんな知っているのだけど、猛士と鬼にしか対応できないという常識感が劇中にあれば、現状の描写でもまだなんとか納得はできそうなものだが、実際は無意味な秘密主義に包まれているだけ。 視聴者側にとっては、魔化魍の事を秘密にしておくメリットが見出せず、逆にデメリットばかりが目立ってくる。 基本の体制がこれでは、いくら鬼や猛士が人のために戦っているなどと言っても、決してそうは感じられない。 ウルトラシリーズのように、ある日突然、未知の怪獣が姿を現したというような「日常の中の非日常」的シチュエーションとは、根本的に違うのだ。 現実世界では、熊が出たというだけで大騒ぎになり、人的被害のレベル次第ではハンターが何人も出動する。 また、その情報は地元または全国にニュースとして伝わる。 人よりちょっと大きいサイズの動物でも、それくらいの情報が伝わるのだ。 それにより、一般人は熊に対する警戒心を持ち、身を守るためにそれなりの対策を講じる。 もし、一般人が警戒心を持たないままだったら、熊による被害はもっと大きくなり、そのための対策もどんどん大規模になる。 要は、「守られる対象」自身にも注意を促さなければ、「守った」事にはならない。 それが根本的に欠けている「仮面ライダー響鬼」という作品世界では、常に違和感が付きまとうのだ。 もちろん、魔化魍警告描写が劇中で皆無だったわけではない。 ヌリカベ登場の回では、栃木在住の猛士・松山という夫婦が、町会を通じて山へは行かない方がいいと呼びかけていたり、また香須実が、ヒビキの指示で麓の村の人達を避難誘導するため別行動を取っている。 オオナマズの時も、たまたま現場に居合わせた運送業者を遠ざけるため、香須実はバイク修理依頼を口実に彼らに呼びかけるという描写があった。 だが、これらの場面でも、魔化魍の存在が一般人に告知された訳ではない。 また、栃木の松山夫婦にしても、ただ遠回しに入山の注意勧告をしただけであり、その危険性を明確に伝えたわけではない。 「山に行かない方がいい」というのと「山に入ったら高確率で殺される」というのとでは、意味はまったく違う。 つまり、彼らの警告程度では、何の役にも立たないのだ。 こんな程度の表現で、被害者抑制に努めています、などと言われても、誰も納得はしてくれまい。 まして、香須実が麓の人達を避難誘導する際、どういう言い訳を講じたのかも疑問だ。 「理由は言えませんけど、とにかく今は避難してください!」などと言ったのだろうか? もっとも、画面情報だけ見た限りでは、香須実は麓付近でただおろおろしているだけだったのだが。 わざとイジワルな見方をすれば、注意勧告はともかく、一般人を避難させる行為は「助けるため」ではなく、「戦闘の邪魔になるから排除している」という考え方もできる。 栃木の村は、ヌリカベの移動経路の一部になっており戦闘現場になるだろう事が明白だったし、運送業者の件も、彼らがオオナマズ潜伏現場付近で休憩していた。 また、斬鬼や弾鬼が助けた者達も、すべて童子・姫との戦闘フィールド内に居たために移動させられている。 無論、あのシーンの斬鬼や弾鬼に、人を助ける気がまったくなかった、などと言う気はない。 だが、その前提が中途半端であるため、そういった曲解をも生みかねない状況が問題なのだ。 いくら鬼達が苦労して、人のために戦っていても、母体である猛士の対応がいい加減では話にならない。 実動部隊の印象は、それを操る上層組織の思惑によって変わる。 たとえ本人達は正義のために真面目に戦っているつもりでも、上が邪悪の権化なら、彼らも結果的に悪の手先という事にされてしまう。 これは極端な例だが、似たような印象が、猛士と鬼にも付きまとうのだ。 また、魔化魍出現・退治成功の際にデータを集めているのはいいのだが、人的被害規模を聞かされても、誰一人それを悔やむ仕草を見せないのもまずい。 否、画面を良くみれば、誰か顔を歪めていたしているかもしれないが、それ以前に支部長の立花勢地郎やヒビキ・イブキ達が緊張感なく流してしまうため、まったく印象に残らない。 まるで「あ〜、人が死んじゃったかあ。ま、魔化魍が出たんだし仕方ないね」などと思っているかのようなイメージがある。 いったい何のために、「全国失踪者リストファイル」なんかを本棚に収めているのか。 劇中では、被害者に関する報告が「魔化魍の成長度合や危険性」を強調するだけの役にしか立っておらず、被害規模を示す役割をまったく果たしていない。 もっとも、これはただ単に関東支部内だけの描写に過ぎず、画面に登場していない他の猛士グループは、ひょっとしたら魔化魍による人的被害に胸を痛めているのかもしれない。 …と言いたいところだが、実はそれすらも疑わしい表現が、本編内にきっちり描かれている。 それが、「魔化魍の出現」そのもの。 どういう事か? 一例として、轟鬼独立後のバケガニ連戦を取り上げてみよう。 轟鬼は、一人立ち後初の勝利(魔化魍退治成功)を経て勢いをつけて、それから連続でバケガニを四体も退治して回った。 それ自体はとても良い事だし、轟鬼の性格や努力が見事に描写されている良エピソードなのだが、よくよく考えると「バケガニが連続で出現している」というのは、それだけでかなり恐ろしい事態の筈なのだ。 いや、アミキリ出現関連の事ではなく。 魔化魍が、鬼に討伐対象と認知されるほどに成長するためには、当然、それなりの量の餌が必要になる。 餌とは、この場合人間だ。 とするとこのバケガニは、轟鬼と戦うまでに、それぞれがそこそこの数の人間を捕食してきた事になってしまう。 しかも、同時期に四体も出現しているという事は、このバケガニ達はだいたい同世代と考えていいだろう。 すると、こいつらの成長期間中は、海や川沿いでの行方不明者がやたらと集中していた事になる。 バケガニやドロタボウなどを見ている限りだと、魔化魍の成長は意外に早いように見える。 その観点から、仮に、幼生体のバケガニがあのサイズまで成長するのに、人間を二人も捕食すればOKだったと仮定しよう。 それでも犠牲者数は計8人にも及ぶわけで、それがほぼ同じ期間に発生したとなれば、事態はかなり深刻になる筈だ。 山に出かけた人が、数日後に遺体で発見されるなどという事故とは、レベルがまったく違う。 しかも、これは海や川に生息するバケガニに限定した話で、当然他の魔化魍だってビシバシ育成中なのだから、魔化魍による全体被害規模は、こんな程度では済まされない。 まして、轟鬼が倒した四体以前にも、かなり近い時期にバケガニが何体も出現している。 これは、関東方面だけの話だ。 全国規模で考えたなら、いったいどれだけの犠牲者が出たのだろう。 魔化魍を連続退治したからといって、とても喜べるような状況ではないのでは? ちなみに、劇中での魔化魍を見てみると、意外に成長が早いことがわかる。 バケガニは、黒服による仕込み? が完了してそんなに間を置かずに大きくなっているように見えるし、アミキリに至っては、発生直後にはすでに巨大な体躯を誇っていた。 また、ドロタボウやバケネコに至っては発生したその日のうちにはすでに人間を食べるほどに成熟しているようで、幼生体に相当する時期がほぼなかったと考えていいだろう。 こうやって見ていくと、魔化魍の体躯成長と捕食の度合い、育成日数は既存の生物のそれとまったく異なっており、独特の成長パターンを持っている事がわかる。 という事は、意外に被害者数は少ないのか? とも感じられるが、ツチグモやヤマビコ、ウブメやイッタンモメンなどは、育成に時間がかかるかのような表現があり、ましてウブメに至っては、童子達のセリフから「1メートル程度の体長しかない幼生体の時点で、すでに人間を食べる」事が判明している。 また、オオナマズのように貪欲に餌を求める魔化魍も居る。 つまり、魔化魍の種類によって、被害規模は全く異なるという事なのだ。 また、一体辺りの被害者は少なくても、全体の被害規模も少なくなるとは限らない。 一種類の魔化魍だけを見て、被害の平均を求める事は出来ない。 これを、設定の不一致と解釈するか、魔化魍の種類分別の描写とするかは視聴者次第だが。 劇中の台詞によると、どうやら魔化魍は近年になってやたらと出現率が高まったようで、昔からずっとこういうペースで現れていたわけではないらしい。 12話でのみどりのセリフによると、去年までは年100匹程度の発生だったようだ。 鬼の人数を考えると、この数は逆に少なすぎるだろうという気もするが、それはいいだろう。 どちらにせよ、現在の発生率から考えると今年は100匹ではとても済まない事は火を見るより明らかなので、現在の状況に猛士がまだ完全な対応をし切れていないと解釈して、まず間違いないだろう。 しかし、だとすると「幼生体の魔化魍を成長前に発見して撲滅する」などといった作戦が検討される価値はある筈なのだが、それらしき描写はまったくない。 どう見ても、成長した魔化魍が出現して実被害を出してから、これを退治しに行ってるようにしか感じられない。 という事は、猛士や鬼の活動スタート地点は、「まず魔化魍出現ありき」であると見るしかない。 劇中、唯一黒服に挑んだイブキにしても、一度跳ね飛ばされてからは、再度黒服を追撃しようという姿勢をまったく見せていない。 ヒビキも、11話で「俺達もどんどん先手を打たなきゃってことか」などと、呑気に発言しているくらいだから、この見解もほぼ間違いない事だろう。 もっとも、このヒビキ発言以降、先手が打たれた試しはまったくないのだが。(8月現在) 鬼が出て行くほど成熟した魔化魍が居るという事は、自動的に、すでにかなりの人の命が奪われているという事になる。 これは、人を守る事が主体のヒーロー物語としては、かなりまずい。 「仮面ライダークウガ」でも、グロンギによる犠牲者数が凄い事になっているという表現があったが、本編内ではそれを充分に活かし、グロンギの異常性と特異性を強調させる役に立てていた。 戦隊シリーズに例えるなら、街で破壊活動を行った怪人の報告を受け、破壊現場には向かわず、怪人が特に何もしていない時を狙って駆けつけ、いきなり攻撃を仕掛けるようなものだ。 怪人を倒す、という目的としてはそれでもいいが、これでは、何かがずれている感が拭えない。 このように、災厄の根源への対策がまったく練られていないというのに、「人を守る」も何もあったもんじゃない。 実は、このような「猛士側の描写のおかしさ」は、ほんのちょっとの説明付加で容易に解消できる程度のものなのだ。 例えば、魔化魍の特殊性の説明をどこかで集中的に行い、その中で「魔化魍は一般的に使用される兵器では倒せない」とか「魔化魍がある程度以上大きくならないと、猛士側で存在をキャッチできない」とか、あるいは「魔化魍の存在が一般に知られる事で起こりうるだろうパニックを予防したい」などと説明すればいいだけなのだ。 この説明が、すべて合理性を持っている必要性はない。 あくまで、猛士側が持っている理由であればいいのだ。 ここで「魔化魍は、清めの音でしか倒せない、と説明しているじゃないか!」と言いたくなった人は、ちょっと待っていただきたい。 それについてはまた別な問題があるので、次回でまとめて考察する。 ここでは「清めの音(音撃)でないと倒せない」という説明が必要なのではなく、「一般兵器で倒せない(対応できない)」と唱えられる事が重要なのだ。 この二つの言い分は、同じ事のようで意味は全く違う。 一番最後の「パニック予防」は、この説明だけでは不充分な気がするが、少なくとも猛士が魔化魍の事を秘密にしたがる理由の一端を見せる役には立つ筈だ。 または、いっそ開き直って「魔化魍を退治する事が目的で、それ以外はアウトオブ眼中」と断言させてもよかったかもしれない。 それなら、倫理的な問題はあるにせよ猛士という組織の考え方は明確になり、またそういう意図を一般に公表するわけには行かないから、組織活動自体を隠蔽する必要性も生まれてくるし、何より筋が通る。 あるいは、ここで述べた以外の、もっと良い方法を用いてもいいだろう。 これらを、本編内で絶対にやってほしい、と言いたい訳ではないのだが、要は「もうちょっと気を遣って欲しい」と思わされる演出だという事を、ご理解いただきたい。 ●粗ありすぎし設定
設定の粗の話。正確には、粗というのとはちょっと違う部分も、あえて含めて考察したい。 「仮面ライダー響鬼」には以下のような設定面の問題がある。
本作は、平成ライダー一作目「仮面ライダークウガ」と並び、スタッフの中に「文芸担当」という、主に設定面の統一管理を行っている係が居る。 劇中設定の整合性を考慮したり、設定の出し方を調整したりする役割のようで、クウガの時はそれが大変効果的に活かされていた。 そのクウガとほぼ同じ中枢スタッフにより製作されている「仮面ライダー響鬼」にも、当然それが行われているのだ。 …が。 その割には、なぜかやたらと突っ込み所が多い。 しかもこれは、「仮面ライダーアギト」から「同・ブレイド」に対して唱えられていたツッコミ要素とはまた違うものだ。 他のシリーズの粗へのツッコミ要素は、だいたい「コレは一体どういう事なんだ! 説明してくれーっ!!」というタイプのものだったのだが、響鬼の場合はどちらかというと「コレ、本当にこんな風にしちゃっていいの?」という“不安的側面”が強い。 例えば、こんなものがある。 鬼達のバックアップ組織「猛士」。 これは大昔に鬼に救われた人々が中心となって作られ、現代まで引き継がれてきた組織で、表向きはオリエンテーリングの主催などを行っている団体とされている。 わざわざ、表向きの団体としての活動用のロゴステッカーまで作っている。 本部は京都・吉野にあり、全国に支部が置かれている。 物語の中心となっているのは関東支部で、ここは甘味処「たちばな」を表看板に、地下室で極秘活動を行っている。 関東支部所属の鬼は、このたちばなを訪れて様々なやりとりをしている。 猛士の各支部では、過去の様々なデータ(古書物からデジタルメディアまで各種)を検索し、魔化魍の出現やその時期・傾向・種類を検討・予測し、その情報を担当の鬼達に伝え、対応させる。 また「全国失踪者リストファイル」「魔化魍図鑑」「凄・橘に関する通報綴」などという書籍型にまとめた資料の作成・発行も行っているらしい。 鬼達はローテーションが決められており、これは吉野本部での会議で決定される。 それぞれの担当期間中に魔化魍出現の情報が入ると、猛士と連絡を取りつつ現地へ向かい、これを退治する。 猛士の内部では、将棋の駒の名称を利用した「役職」があり、角や銀・飛車など、それぞれの役割に応じて呼称が与えられている。 支部長は「王」、その直下でデスクワークを行う「金」、医療担当や、音撃武器などの開発担当の「銀」、魔化魍退治を行う鬼達は「角」、鬼のサポーターである「飛車」、各地域に在住して情報を集める「歩」、鬼の弟子である「と」といった感じのようだ。 次世代の鬼になるため、現役の鬼を師として活動している弟子達には、これらとはまた違った階級がある。 「序の六段」などという風に、相撲の階級名称を利用したクラス名で、これはそのまま技量ランクとして使われているらしい。 他にもまだ色々あるのだが、こうして設定を並べてみると、なかなか面白いアイデアが盛り込まれており、大変興味深く思える。 特に弟子の階級などは、そのままそのキャラクターの能力と努力の結果が見えるわけで、大変趣深いものがある。 だが。 実は、上記で挙げた設定の中で、「オリエンテーリング」「将棋」「弟子のランク」は、2005年8月現在までにほとんど語られていない。 「飛車」や「角」など、何がどういうものなのか劇中ではまったく説明されていないどころか、単語すら出ない(正確には、ナナシ登場前に浅間山付近に居るイブキとトドロキ達の位置を表現するため、地図上で角の駒が用いられているシーンが存在する)。 これらは、公式サイト上などで設定が公開されているが、逆に言えば、それら以外に提示されていないのだ。 設定関連情報を知らない視聴者は、これらについて予想で情報を補うしかない。 「弟子の階級」に至っては、本編内での弟子の表現がちぐはぐな事もあって、「序の六段」などといきなり言われても、それが何を意味するのかまったく見当がつかない。 「オリエンテーリング」に至っては、猛士がそちらの方面の活動をしているという描写すら皆無で、何かで設定を読んだ人だけが知っているという“本編とまったく結びつかない設定”の一つとなっている。 唯一、明日夢が持田に対してあきらの身辺事情説明をする際、言い訳として利用した程度だ。 ここで「弟子の表現がちぐはぐ」という部分に引っかかった人も居ると思われるので、もう少し詳しく検証してみよう。 8月現在、鬼の弟子として「天美あきら」と「戸田山登己蔵(後の轟鬼)」の二名が登場している。 あきらは威吹鬼の弟子で、戸田山は斬鬼(すでに引退済。現在は飛車)の弟子だった。 あきらは威吹鬼に師事してすでに二年以上経っており、ディスクアニマルの使役と音笛(変身アイテム)を使った情報収集が行える。 あきらの音笛は威吹鬼のものと違い銀色で、恐らく変身までは出来ないものと考えられる。 ヒビキからは「次は鬼だな」と言われており、かなりのクラスに登りつめたようだ(先の「序の六段」とは、あきらを指して言われた表現)。 それとほぼ同時期、戸田山は弟子でありながらすでに現在の轟鬼のような姿になれるようになっており(正確には、手首・足首のモールドがなかったり、ベルトのバックルがダミーだったりと、微妙に轟鬼とデザインが違う)、音錠で変身出来た。 この時点では、まだ魔化魍に音撃を食らわせて退治する事は出来なかったが、かなりの身体能力を発揮できる様子だった。 ただし、まだ一人前の「鬼」とは認められていないため、必要な音撃装備を与えられておらず、名称も「〜鬼」という名義ではなく、「戸田山変身体」とされていた(ただし本編内では呼称されていない)。 後に、斬鬼が突如引退を決意したため、戸田山は急遽独立することとなり、晴れて「轟鬼」という一人前の鬼として認められた。 こうして見ると、あきらと戸田山は、どちらも同じ時期に「鬼の一歩手前にある」状態として描かれている事がわかる。 ただし、あきらは変身能力を持っておらず、戸田山は変身可能だったという違いがある。 にも関わらず、斬鬼が引退を唱え始めた時点では、どちらも「鬼」として認められていなかった。 あきらは当然として、外観的にはすでに鬼になれる状態だった戸田山すら、鬼ではなかった訳だ。 普通に画面を見ていると、変身できる時点で鬼と呼べそうな気もするが、どうも本作の世界では「猛士に承認される事で、初めて“鬼”となる」ようだ。 なかなか面白いシステムで、ここまでは特に大きな問題はない。 ただ、ここで気をつけておかなければならないのは、「変身できる=鬼」ではないという観念が猛士に存在しているという事実だ。 はて。 では、まだ変身すら出来ないあきらは、どうしてヒビキに「次は鬼だな」などと言われたのだろう? 画面を見ている限りでは、あきら自身、ある程度鬼に近づいている自覚はあったようだ。 という事は、少なくとも現在よりも、戸田山(正確には戸田山変身体)に近い状態になければおかしい。 視聴者的認識として、変身可能だったら、資格的にはともかく存在的には鬼になっているものと考えたとしよう。 しかし、本編内で鬼と認められるためには、猛士の認可が必要だという事実には変わりなく、ヒビキの「次は鬼だ」という言葉は、そのまま「次は一人立ちだ」という言葉とイコールになってしまうのだ。 だが、あきらがとてもそんな状態にあるようには思えない。 ヒビキが、このセリフの時だけ猛士的な認識を度外視していたというのは、ちょっと考えづらい。 これは、どういう事なのだろう? しかもこのセリフの直後、ヒビキはアキラに「早く鬼に変わりたい?」と質問している。 このセリフが出てきたのは、15話「鈍る雷」。 戸田山が登場したのは、14話「喰らう童子」から。 しかも、両方の回の脚本を担当したのは、文芸担当でもある大石真司氏。 大石氏は、戸田山が轟鬼を襲名する回を通り越しそのままオオナマズ編解決の回まで脚本を担当している。 ――文芸担当自身が、こういう部分を統一させないでどうする! あきらは、身体的な能力の高さを見せる事がこれまでまったくなく、飛車に近い活動しか行っていない(しかも、自分で車を運転する事もない。高校一年生だから当然だが)。 また、童子や姫に襲われた場合、ディスクアニマルをけしかけるのが精一杯で、それを切り抜けられたら、もはや何の抵抗手段も発揮できない。 この場合、威吹鬼が助けに入らなければ助かる事もない。 26話では、威吹鬼がバケガラスと闘った時にサポートをしたというが、具体的なシーンはなかったし、それまでの活躍から判断すると、せいぜいディスクアニマルをけしかけた程度の事でしたかないと考えられても仕方がない。 あきらがこれまでやってきた行動で、戦闘以外で目立つものと言えば「威吹鬼の烈風(音撃武器)を届けるために学校を早退して走り回った」くらいで、それすらもイブキの段取りを考えない杜撰な指示のお陰で無駄に振り回されただけに過ぎず、(本人のせいではないにしろ)成果のある行動とは言えなかった。 しかも、結局イブキに届ける事は出来なくて、ヒビキの助けを借りるハメになった。 一方、戸田山は変身もするし、斬鬼と組んで童子と姫に襲われかけていた少年を助けたり、積極的に戦闘の場に参加していた。 また、斬鬼の戦い方をじっくり観察し、吸収していたという表現もあり(そのため自己流になりきれなかった)、なおかつ通常活動でも、車を運転したりディスクアニマルから情報を集めたりと、色々頑張っていた。 この両者の描写は、どう贔屓目に見ても「どちらも鬼に近い位置に居る」とは思えない。 戸田山については文句なしだが、あきらは単なる「足手まとい」以外の何物でもなく、何のためにイブキの傍にいるのかすらわからない。 ヒビキの「次は鬼」発言も、白々しく感じられるだけだ。 また、ヒビキやイブキが見せていたような、身体を鍛えているシーンもまったく描かれていない。 確かに魔化魍との戦闘経験はそこそこ積んでいるし、現場の度胸も付いているかもしれないが、「次は鬼」というのはどう考えても嘘だろう。 威吹鬼・轟鬼が二組の童子・姫らと戦った際には、あっさり怪我をして退陣というみっともない結果を出している(ただし、行動そのものは決して間違っていたわけではない)。 こんな様子では、この後さらに何年も修行を積まなければ、「天美変身体」にすらなれないと見るのが自然だろう。 このように、鬼の弟子を巡る表現は、まったく統一感がない。 あきらが苦労しているという表現は、「まともに学校に通うことすらできない」という一点だけで、しかもその説明のほとんどは、他のキャラクターのセリフだけで行われているという有様だ。 どんなに「あきらは頑張っている」といわれても、それを裏付けるシーンがないのだから、意味が無い。 いったい、どういうタイプの努力を重ねれば鬼になれるのか。 いったい、どういう鍛え方をすれば鬼に変身できるのか。 こんな描写のままでは、「鬼になる事がどういうものなのか」が、益々理解できなくなってくる。 設定をきちんと作っているのならば、あきらも、戸田山並に活躍させる必要性がある筈なのだ。 …などとは書いたものの。 あきらの弟子描写が中途半端な事情は、理屈としてはわからなくもない。 本来ローティーングラビアアイドルに過ぎない秋山奈々氏(あきら役)に、ハードなアクションシーンを演じさせる事は出来ないし、それどころか怪我の恐れのある演技は求められないだろう。 だから、当然撮影時の扱いは慎重になる。 だったら、最初のキャスティングの時点で問題に気づけ、という事になってしまうんだけど。 「鬼になる」ことがどういうものなのかも、イマイチわからない事だらけだ。 劇中情報からだと、響鬼も威吹鬼も轟鬼も、せいぜい数年程度の修行で鬼になれてしまったようで、ヘタをすると「鬼になるのなんて、結構簡単なんじゃないか?」という印象すら与えられてしまう。 個人的には、せめて聖闘士と同じかそれ以上の期間は費やして欲しい気がする。 先の件を別にしても、例えばあきらも三年程度の師事で鬼に近い位置に来ているようなので、具体的なトレーニング内容はともかく、期間的には大した経験を積む必要はないようだ。 十代の頃には、すでに鬼として活躍していた者も結構居たようなので、それも裏付けになるだろう。 だが本来、十代となると修行に費やせる時間・年数はどうしても限られてくる。 あきらのように、まともに学校に通えないとしても、それでも十何年修行に費やせるわけではない。 何か特殊なトレーニング法…短期間で肉体を極限まで鍛えられるような方法を、鬼達は見出しているのだろうか? もし仮にそうだとしても、ヒビキが肉体能力を維持するために行っている特訓が、せいぜい筋力トレーニング程度だというのだからわからない(やっている回数はすごいが)。 これでは、プロレスラーの方が弟子より鬼に近いかもしれない。 「何が鬼になるきっかけとなるのか」も、不明瞭のままなのが気になる。 設定上、各アイテムの出す特殊音波で変身能力を誘発させている事はわかる。 本編を見る限りだと、結局「アイテムの力に頼っている」のか、「己の意志で肉体を変化させているのか」、はたまた「その両方」なのか、今ひとつはっきりしない。 これは、本編内で「鬼に変わる」というのは肉体を鍛える事、という表現を強調し過ぎているために起こる違和感だ。 結局、肉体を鍛えてもアイテムが必要だというなら、何をして「鬼である状態」と表現するのかもあやふやになってしまう。 しかし、「アイテムで発生させた音波で肉体を変化させる」って、変身忍者嵐と似たような理屈だよな…。 やっぱり鬼達は、アレで全身の細胞配列を組み替えているのかな? 今後、響鬼の全身のモールドが「スーツへの印刷表現」に変更されない事を祈る(笑)。 設定面ではもっと色々指摘するべき事があるのだが、これ以外に目立つポイントは、ほとんど魔化魍関連に集中している。 これについては、次回に深く語りたいと思う。 |
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