仮面ライダーカブトの頭突き 第二回
後藤夕貴
更新日:2006年5月7日
 別名・ニセ習慣鷹羽(笑)。
 「仮面ライダーカブト」のポイントを絞ったコラムの二回目。

 今回の御題は、これ。

●また仮面ライダーがいっぱい! ライダー同士のバトルってどうよ?
 こんな御題を付けたが、先に述べておくと、筆者は複数ライダー登場&ライダーバトル賛成派だ。

 最後まで単独だったクウガのこだわりも好きだが、アギト以降、どうも複数ライダーが出ないとピンと来なくなってしまった。
 まして玩具者である以上、単純に商品数が増えるのが嬉しいという気持ちもある。
 複数ライダーが出てくると、必ずと言っていいほどライダー同士の戦闘…いわゆる「ライダーバトル」が展開するが、個人的には「仮面ライダー龍騎」「仮面ライダー555」の一部展開、そして「仮面ライダー剣」を除き、ライダーバトルもありだろうと考えている。
 あ、ちなみに555のライダーバトルで嫌なのは、草加が巧にケンカをふっかけた場合や、やたら同じ組み合わせの対戦が連発した場合(特に対北崎デルタ戦とか)に限りという意味。
 龍騎の、いつまでも決着のつかない対戦組み合わせも、結構疑問だった。
 逆に、555の基本である「装着者が変わったために発生したライダーバトル」は、むしろ必然性を感じている。
 一方、剣の、ほとんど内輪もめとしか思えないレベルのライダーバトルだけは、どうしても受け付けなかったなあ(剣VSカリス戦はともかくとして)。

 …と、先に筆者の考えを述べておくのには理由がある。

 以降、ちょっと複数ライダーやライダーバトルについて、否定的な内容になってしまうからだ。
 どうも、複数ライダーやライダーバトルに対する否定的意見に、無条件で反発感情を抱く人が多いようなので、軽くけん制をしておきたいわけだ。

 繰り返すが、以下の内容は筆者自身の嗜好・感想とはまったく別のものだ。
 信じてね、お願いだから(笑)。
 個人的感想と批評を混同されるのって、書き手としては本当に心外なのよ。 

 なお、これを書いている時点(2006年4月中旬)では、まだドレイクがキャストオフした程度の展開で、ライダーバトルは発展激化していない。
 なので、今回はこれまでの平成ライダーで行われた複数ライダー&ライダーバトル演出を振り返りながら、今後のカブトについて考えてみたい。

 「仮面ライダーアギト」から始まった複数ライダー路線は、その後途切れる事なく「仮面ライダーカブト」まで続いている。

 かつて仮面ライダーは、単独で戦うヒーローというイメージが根強かった。
 もちろんこれは、昭和時代のライダーのイメージから来るものだ。
 当然、平成ライダーにまで無理に当てはめる必要のあるものではないが、いまだファンの中には、この前提に立って複数ライダー展開を否定する人が居る。
 実際は、V3以降、複数ライダー登場はごく普通にありえたんだけどね。

 ただ、そういった盲目的否定とは別な理由で、複数ライダー展開を拒絶する意見が増えてきたのも、また事実だ。
 これはどうも、単純に飽きられてきたかららしい。

 本編が進展するにつれ、少しずつ増えていくライダー。
 見解・意見・価値感の相違や立場の違いから戦うライダー同士。

 途中例外があるとはいえ、さすがに6年目ともなると、新規の視聴者はともかく、長く見続けてきたファンはいい加減展開が読めてしまう。
 カブトにおいても、ザビー登場・対戦の理屈と流れは結構早い時期から予想されており、実際それとほとんど変わらない内容になっていた。
 カブトは、三人目の新ライダー・ドレイクを向かえ、さらに次のライダーとしてサソード(サソリがモチーフ)が控えている。
 現在は五人目のライダー情報も流れているようだが、それらもまた登場時の展開が色々と予想されているらしい。

 なるほど、確かにカブトは、(あくまで今のところと付くが)複数ライダー登場に関するシークエンスに、目新しさがほとんど感じられない。
 仮にライダーバトルが前提であったとしても、もっと目新しいものがあれば、ファンの評価も変わったかもしれない。と思う事がある。
 とはいえ、筆者には代替案は出ないわけだが。

 龍騎以降、新しいライダーは「主人公の敵」であるという可能性が高かった。
 最終的に味方かそれに近い位置付けに変わる者も居るが、少なくとも初登場時に「おお、今度の味方はこんな奴か!」という発想には、まずならない。
 実際は、敵というよりは中立的立場の者も居るのだが、この要素は555以降さらに煮詰まってしまい、益々混同しやすい素地が出来てしまった。

 結局のところ、複数ライダーやライダーバトルというのは、どこまで必要なものなのだろうか?

 ここで多少個人感が混じるが、筆者は、複数ライダー展開でもっとも納得できたのは「仮面ライダーアギト」だった。

 この番組内では、アギト(超能力者の最上級発展形)の因子を秘めた人間が数多くおり、ヘタしたらそこら中にアギトが発生してもおかしくないという世界観が構築されていた。
 事実、主人公(あえてこう書く)の姉・雪菜や終盤登場した可奈も、ヒーロー的位置付けにないキャラクターであるにも拘らず、アギト化の兆候を見せていた。
 ラスボスの「神」は、そういったものを懸念して、アギトの因子を持つ人間を抹殺していた。
 劇中のライダーは、その中で“アギトの領域に辿り着いてしまった者達”がほとんどで(G3as氷川誠は例外)、結果的に、ライダー同士の戦いの原因はそのまま「人間(アギト)同士の不信感故の対立」という、自然なものにまとまっていた。
 だから、各自の誤解が解け、見解や利害が一致した後はスムーズに共闘が行われ、全ライダーが一同に介した時は「長かったけど、ついにここまで来た!」という強いカタルシスが感じられた。
 アナザーアギトとアギト達が、水のエルを相手に共闘する場面や、最終回、G3-Xの呼びかけを受けながら共に戦うアギトとギルスの演出は、かなり燃える。
 まあ、途中色々と納得のいかない展開もあったわけだが(笑)、結論だけ見た場合、アギトはもっとも理想的な複数ライダー展開&ライダーバトルを行っていたと言えよう。
 各自が、もう少し落ち着きと配慮を持っていれば回避できたライダーバトルも多々あったと思われるが、その辺はひとまず触れないでおいてやろう(笑)。

 ところが次の「仮面ライダー龍騎」は、難点が多かった。
 本作は、元々13人のライダーが互いに殺し合うというサバイバーな内容で、しかもそれは、番組開始前から明確に告知されていた。
 そのため、アギトとは別な意味で「複数ライダー登場&ライダーバトル」があるという事がファンに伝えられていたので、一見酷な内容のようでも、色々な意味で、視聴者が覚悟を決めるだけのゆとりがあった。
 
 だが、放送が始まってみると、「13人も登場しない」「ライダーが負けて死ぬ展開が前半ばかりに集中、中盤はほとんど誰も死なない」「生存しているライダー間の思惑や人間関係がわかりづらい」という、予想外の難点が見え始めた。
 これは、ドラマ展開の流れなど色々な理由で、ただひたすらライダー同士の戦いばかりを描くわけにはいかなかったという事情や、中盤以降登場していたライダーが“簡単に消えてもらっては困る連中ばかり”になってしまった事、また本編全体の尺の調整問題などが関係しているようだ。

 ここで念を押しておくが、「仮面ライダー龍騎」という番組が、当初の目論み通りに全体尺を調整できなかったという事実は、明確に示されている。

 一番わかりやすい証拠が、初期の頃「ライダーは13人」とはっきり述べられているにも関わらず、結局10人しか出なかった事、オーディン自身が13人目と名乗っていたのに、実質的にそうなれなかった事などがある。
 オルタナティブ二名を加えれば、人数が近くなるじゃないか、という人が居るだろうが、オーディン自身が13人目を名乗っている以上、(劇中で)イレギュラーな存在のオルタナティブまで計算に入っていたという事は、絶対にありえない。

 ベルデ・ファム・リュウガはそれぞれスペシャル版や劇場版に登場したので、一応龍騎ライダーは13人カウントできる。
 しかし、彼等がテレビ本編で10〜12人目ないしはそれ以内のライダーとして参加できなかった事は間違いない現実だ。
 またテレビ本編内でも、途中から不自然なくらい「13人」という表現を用いなくなってしまう
 これは明らかに、尺調整のミスだ。

 ただ、そのミスについても、単純に責められない事情は推測できる。
 中盤あたりで登場済み&生存しているのは、すべてキャラクター商品を販売されていたメインのライダーばかりで、誰も(しばらく)死ななくなったのは、販促事情が絡んだためだ。
 龍騎・ナイトは言うに及ばず、ゾルダ、王蛇もそれぞれR&Mやバイザーが商品化されていた。
 まして龍騎とナイトは「サバイブ」という強化形態と、それに関連する商品が別途出ていたため、益々生き残らせなければならない。
 だから、これに該当しない“関連商品発売の予定がない(正確には、なかった)”ライダーは、後半でも結構あっさり退場させられている。
 仲村オルタナティブ(ライダーじゃないけど一応)、インペラーは、その好例だ。
 香川教授自体は、タイガas東條や神崎士郎に深く関わるキーパーソンだったため、それなりに長く出ていられたが、それでも実際はたった9話に過ぎない。
 まして香川の変身体オルタナティブ・ゼロに至っては、それより少ない登場回数なのだ。
 倒されても復活するオーディン、そしてタイガは関連商品があったので、結構長く出続けられた。
 これが、製作側の何かしらの思惑なのか、或いはスポンサー側からの指示があったのかはわからない。
 それはともかく、中盤頃「ライダーを殺せない」という展開を入れざるをえなくなり、その結果いつまでも決着のつかないライダーバトルが連発し、それが尺を狂わせ、最終的に13人も出し切れない結果となったのは、事実な訳だ。

 この流れは、ライダーに変身するキャラクター達の人間関係などにも少なからず影響を与え、一時期は「殺し合う者同士が馴れ合っている」とまで指摘された。
 まあ確かに、いくら第三者が一緒に居たとはいえ、龍騎・真司とナイト・秋山、ゾルダ・北岡が一緒に食事したりしていれば、そう指摘されても仕方ない。
 これは結果的に、最終回近辺から、突如5人(全ライダーの半数近く!)ものライダーが一気に死んでいくという異常事態を引き起こしてしまった。
 劇中、神崎士郎がよく「ライダーバトルの進行が遅い」といった意味の発言をしていたが、あれは本編製作スタッフの本音の代返だったのでは、などと今更ながら勝手に思ってみたりする。
 13人のライダーを巧く消化していくためには、単純計算で4話以内に一人確実に消していく必要があったわけだが、それが相当無理のある事なのは、誰でも容易に想像できる。
 なぜ、そんな無理のある人数でのライダーバトル物を企画してしまったのだろう?
 バンダイですら、当初は反対していたというのに。

 なんでも、企画時ではライダーの人数が50人だったという。
 これを本当にやっていたら、4年くらい放送しないと、決着がつかなかったのではなかろうか(笑)。
 いや、それ以前に商品化が…装着変身が(以下略)

 続く「仮面ライダー555」は、アギトとも龍騎とも違う理由でライダーバトルを行わせるため、「変身アイテム争奪戦」というアイデアを盛り込んだ。
 また、一部例外ありとはいえ、基本的に怪人(オルフェノク)しか装備出来ないものであるというマイナス因子を含める事で、万能なんだけど万能じゃないという、一種変わった“頼れるアイテム”を形成した。
 これは、メインの仮面ライダー=主人公とは限らないという違和感と、主人公が自分の変身後の姿に襲われるという、大変面白いシチュエーションを作り上げた。
 また、ただの人間が装着するには、それなりのペナルティを受けなければならないという問題点を加える事で、「ライダーの姿になれる存在」を限定し、単なるベルト争奪大混戦にはしないように工夫されていた。
 これなら、ライダー(=ベルト)を無闇に増やす必要もなく、またライダーを規定数ぶっ殺す(笑)ノルマが課せられることもなくなり、効率よくライダーバトルという演出を盛り込める上、それぞれのライダーの関連商品も売り続けられる。
 しかも、たとえライダーバトルの決着がついても、中の人が変わったという触れ込みで、再び同じ組み合わせの対戦が行える。

 こうして見ていくと、これは販促面でもストーリー面でも辻褄が合う、大変理想的なアイデアだったという事が解る。
 555は龍騎の反省がとても良く活かされていたのだという事を、あらためて思い知らされる。

 だが、この争奪戦が本編のほとんどすべてにまたがってしまったため、人によっては、ライダーと変身前のキャラクターの統一感が感じられなくなるという事態が発生した。
 特にデルタを巡る展開は、それが如実だった。
 裏設定を無視するとして、劇中情報だけで何人のキャラがデルタになったか、正しく即答できる人はほとんどいないだろう。
 まして、それを時系列順に正しく述べるとなったら、さらに大変だ。
 また、ラッキークローバー最強の男であり、デルタギアなしでも他のライダーと互角以上に戦える(ファイズアクセルフォームであっても!)ドラゴンオルフェノク・北崎が、登場初期の頃にデルタに変身し続けていたため、イメージを強く定着させすぎてしまった。
 そのため、後に三原がデルタの固定装着者になった後も、「デルタ=北崎」の印象を充分に払拭出来なかったのは痛々しい。

 さらに、この変身アイテム争奪戦は、装着者の位置付けこそ明確化出来たものの、ヒーローの個性を大きく削いでしまった。
 群像劇として見ればそこそこ楽しめるものの、とてもヒーロー番組とは言い切れない内容にまとまってしまったわけだ。
 もちろん、映像的にはとても頑張っており、特にファイズアクセルフォームの超加速戦闘の素晴らしさはいまだに語り草になっているし、それぞれのライダーの独特のスタイルの面白さは秀逸だった。
 また、装着者が変わると、ライダーの仕草やくせ、立ち方まで変わるという楽しさは、特筆すべきものがある。
 巧がデルタを装着した時に行った「手パタ」に、感激した人も多かっただろう。
 だがそれらも、唯一無二のヒーローテイストを求める人にとっては、何のプラスにもならなかったのだ。

 恐らく、今のところ複数ライダーやライダーバトルという要素を練り込み、もっとも巧く調理していたのは、仮面ライダー555だったのではないかと筆者は考える。
 異論をお持ちの方も多いだろうし、筆者自身文句なしであるとは決して言わないが、ある意味で完成形に近かったと考えられるのではないだろうか。

 比較論となってしまうが、555のライダーバトル要素が理想形に近かったという証明は、その後の「仮面ライダー剣」と「仮面ライダー響鬼」を見ればさらによくわかる。

 「仮面ライダー剣」は、ごく一部のポイントを除き、恐らくもっとも「ライダーバトルが必要ない(筈の)ライダーシリーズ」だった。
 555同様、装着者の変更が可能な変身システムだったものの、適合者という概念があったため成り代わりがほとんど行えず(レンゲルas桐生豪の展開はあったが)、またライダーになる事が“怪人(アンデッド)との融合”係数を高めるためという特殊な設定だった事もあり、実質的に変身者=ライダーというイメージの統一感が維持された。

 しかし、まるで義務付けられているかの如く、本編はライダーバトルを強行する。
 いや実際、義務付けられていたのかもしれないけど。
 力を欲して一時的にアンデッドの手に落ちるギャレンや、カテゴリAに支配されて離反する初期レンゲル、一次的な見解の相違で「ケンカ感覚の」ライダーバトルをふっかける(カテゴリA制御後の)レンゲル…
 唯一納得できたのは、主人公達と別な目的意識を持っていたカリスとの対立だ。
 だが、ブレイドas剣崎とカリスas相川が交流を深めてしまったため、ブレイド対カリスの対立図式も立てづらくなってしまう。
 相川のことを受け入れようとしなかったギャレンas橘という存在も居たにはいたが、そこからライダーバトルを引き起こすには材料が足りなかった。
 結局、終盤「自らを倒して(封印して)欲しいと願うカリス」との戦いこそ自然に行えたものの、それ以外のライダー同士の戦いには無理がありすぎ、話が進めば進むほど「ライダーバトルがやりづらくなっていく」という展開に陥った。
 あげくには、始を封印するか・しないかの論争から仲間同士の対戦が勃発するなどというトンデモ展開に至ってしまい、この辺りで、視聴者の一部は強烈なライダーバトルアンチになったようだ。

 幸い、四人のライダーはそれぞれ個性と協調性を持つに至り、複数ライダーを出した意味そのものはあったようだ。
 だが、あれだけ劇的な復活を果たしたレンゲルを、ギラファアンデッド退場までのかませ犬的扱いにしてしまったり、ラスト間際、これ以上本編に関わらせる意味が薄くなったギャレン(のライダーシステムだけ)を強引に退場させたりと、迷走ぶりは色濃く見て取れた。

 とにかく、そこまで無理してライダーバトルする意味があるのか? という概念を大きく構築したのは、恐らくこの剣からだろう。
 555までで抱かれていた不満感は、ここで一旦昇華したように感じられる。

 「仮面ライダー響鬼」は、マイナス要素的に思われ始めたライダーバトルを完全強制排除し、複数ライダーを出しはしたものの「これすべて仕事仲間」という、大変判りやすく説得力のある構成を用意した。
 完全に完成しきった組織内の仲間同士なら、そりゃ確かに戦う必然性などない。
 ここまでのライダーバトルによって感じさせられた殺伐感は完全に影を潜め、逆に複数ライダーが登場する事に「期待感」が生まれ始めた。
 これは、間違いなく響鬼最大の功績の一つだろう。
 「どーせまた鬼同士で戦うんだろ?」という予想は、これ以上ないくらい単純、しかして意外な方法で裏切られ、覆される。
 魔化魍撃退のため、三人の主役級ライダー(鬼)が力を合わせて挑むという図式は、単純にかっこいいし、燃える。
 テレビ本編中で行われたライダー同士の激突など、せいぜいヒビキ対ダンキ(電話でパソコンを使える云々についての口論)や(笑)、イブキとトドロキの模擬戦、あとは朱鬼が出た時くらいだ。
 しかも、朱鬼編においては「鬼祓い」という、反逆鬼討伐という材料まで示されたにも関わらず、とうとう戦う場面はなかった(一方的に朱鬼に襲われた奴は居たけど…………そこ、笑わない!)。
 加えて、本編全体に流れる温和な雰囲気が幸いし、剣まで漂っていた悪い意味での緊迫感は、ほぼ完全になくなった。

 だが、これが今までにありえなかった別な疑問点を発生させる。
 詳しくは「仮面ライダー響鬼の大問題」を参照していただきたいが、実は響鬼こそ、シリーズ中もっともライダーバトルを発生させるのに無理がない…否、もっともやりやすい舞台を構築していた事か見えて来たのだ。

 何百年と続く歴史の中、数多くの鬼が居れば、当然その中に組織・猛士の意に反する存在が居るだろう。
 否、逆に居ない方がおかしい。
 組織といえば、剣でも「BOARD」があったが、これに所属するライダーは実質二名のみで、カリスやレンゲルはイレギュラー的存在だ。
 こんな少人数では、「BOARDの意志に反して云々」などとやる事自体不自然になる。
 単純な話、所帯が大きくなればなるほど、天邪鬼は増えるものだ。
 もし、そんな存在を何人か出して、(必ず敵にしなくても)人間関係に絡めて行けば、より深みのある物語が描けただろう。
 或いは、反逆者を掟の元に厳しく処罰・処分しているという影の面も描いてあれば、“現状猛士に反逆する鬼が一人も居ない”という事に説得力を持たせる事が出来た。
 そういった「必然的のある“苦い”部分」を極端に否定し続け、執拗に「温和な雰囲気」にこだわり過ぎた姿勢が、一部の平成ライダーファンの疑問を強めることになった。
 結果的に、劇場版では歌舞鬼、テレビ本編後半では朱鬼という反逆者が登場し、これの討伐が猛士より命ぜられるが、これは、アギト〜555を担当した白倉プロデューサーと脚本・井上敏樹氏が参入してからの展開だ。
 温和にこだわり過ぎた前体制スタッフのままだったら、これらはまず間違いなく、描かれなかっただろう事が予想される。

 無論、必ずしもライダーバトルをやれば良いという事ではない。
 ただ、響鬼は「そういう奴がいてもおかしくはないのでは」という疑問を、理由もなく頭ごなしに否定し続けたため、逆に“本来発揮できる筈の”旨味を殺してしまったのだ。

 反逆者ネタでなくても、手柄を競うため足を引っ張り合う仲間内が居たり、一時的に意見がぶつかって小競り合いする奴等が居たりするのもいいだろう。
 だが劇中の「対立」は、いずれもせいぜいその場の口喧嘩の域を出ないもので、しかもその後は、たとえ理不尽さ120%でも、絶対に目上の者の意見がまかり通ってしまうという図式に統一されていた。
 特にこれは、夏の太鼓祭り編でのヒビキとトドロキの衝突の際に強調され、多くのファンがヒビキの身勝手な態度に反感を覚え、異論を唱えた。
 こんなものばかりでは、納得しろという方がムチャだ。
 そしてこれらは、猛士の存在感を異常なほど薄め、悪い意味で「人間味を感じさせない」組織という印象を強めてしまった。
 明らかに、やりすぎた。
 殺伐感除去にばかり力を注いでしまった結果、「猛士関連以外の場面では、シリーズ中一二を争うほど悲惨な事態が発生している」という現実があることを、多くのファンが認識出来なくなってしまうという状況になったのは、さらにまずい点だった。
 「仮面ライダー響鬼」という番組は、安心感を得る代償として、番組としてもっとも大事な物を無くしてしまったわけだ。

 さて、えらく遠回りをしたが、「仮面ライダーカブト」。
 4月中旬現在、主役のカブトを別としてまだ2人しかライダーが出て来ていないが、すでに不穏要素が多く感じられている。
 まあ、複数ライダーの是非については、ひとまず置いておこう。

 まずいのは、劇中の「ライダーバトル勃発」の要因だ。

 ここに至り、今までのライダーバトルの何が「殺伐感」「違和感」を覚えさせていたのかが、明確になってきた。

 ひょっとしてこいつら、その時の気分で戦っているだけ?

 これが、現状カブトのライダーバトルに見られる、最大の不穏要素。

 カブト抹殺命令を受けたとはいえ、実際は天道という「調和を乱す存在」への個人的反感で戦いを挑んでいたに過ぎなかった矢車asザビー。
 単なる見栄の張り合いで対立意識を燃やし、「正論を言われたのがなんかムカついた」というだけの理由で、突然カブトに殴りかかる風間asドレイク。
 しかもドレイクについては、風間がZECTに所属していないので、カブト抹殺命令を受けた上での行動というわけではない。
 あくまで一個人の因縁付けレベルの行動だ。
 あげくに、カブトに一方的にボコられるというていたらくぶり。
 これではまるで、通りすがりに肩がぶつかって相手に難癖付けたら、こちらが悪い事を逆に指摘され、ついムカッとして殴りかかったとか、そんな程度のものでしかないではないか。
 実際には、風間の「ワームと、擬態対象の女性の存在をうまく切り分けられていない」という精神面の弱さを指摘され、一時的にキレただけなのだろうとは思う。
 だけど、そんなしょうもない事で喧嘩おっ始められて、しかもそれが物語の引きにまでされているとなると、「おいおい、いい加減にしろよ」としか言えなくなるだろう。
 実際、12話のラストについては、ネット上各所で非難轟々だった。

 「仮面ライダー555」でも、草加による(仲間内の)ライダーバトル勃発のほとんどが、彼の気分や機嫌の変化によるものだった。
 そりゃまあ、意見が食い違って戦うという演出が、100%要らないという事はない。
 しかし、アギトからここまで、そういうパターンはあまりにも多すぎた。
 アギトでは芦原涼が、龍騎では秋山蓮が、剣では橘朔也や上条睦月…喧嘩っ早いのが必ず居た。
 否、実際にはそんなに多くはなかったかもしれないが、しょっちゅう使い回されているパターンだったかのような気になってしまうのが問題というべきか。
 ライダーバトルが殺伐とした印象を与える原因は、こういった「みっともない喧嘩レベルの衝突」が多過ぎたためだ。

 物語における「戦闘」は、必ずしも喧嘩とイコールではない。
 中にはそういうテーマの作品もあるが、少なくともヒーロー物でそれはほぼありえないだろう。
 あったとしても、決して多用は出来ない。
 「気に入らない、目障りだから殴りました」と主張するヒーローを、誰がヒーローと認めるだろうか?
 よほどの擁護派でもない限りは、まず無理な話だ。

 戦闘であるなら、その結末に一種のカタルシスや達成感を感じ取れるが、ただの喧嘩だったら、それを見ている第三者には「後味の悪さ」しか残らない。
 もちろん、その後に喧嘩がきっかけで仲良くなったとかいうなら話は別だが、まずそういうストレートな展開は、平成ライダーシリーズにはありえない。
 ライダー同士が戦うという事が悪いのではなく、ライダー同士が喧嘩の発展として殺し合いを演じるものだから、そりゃ後味は悪くなる。
 それを長年見せられ続けてきたファンの中に、アンチテーゼを唱えたくなる人達が出てくるのも道理だろう。
 やるならやるで、そうしなければならない理由と事情をしっかり述べておくべきだろう。
 かつて龍騎がそうであったように。
 邪悪なライダーが登場し、これが倒された時は、誰も文句は言わなかった筈。
 身近に居る者同士とか、本来仲間であるべき者達同士が突然殺し合いを始めるからこそ、違和感と不穏感、マンネリ感が発生し、「またか」と後味の悪さを実感させられる。
 難しい理屈はともかく、3年以上も似た様なパターンを繰り返すというのも、制作&演出上疑問が多い気がする。
 今までの平成ライダーシリーズのライダーバトルでうっすらと見えていた「根源的な問題点」が、カブトによって煮詰まり、より解りやすくなった。
 筆者は、そんな気がしてならないのだ。

 「わざわざ後味の悪い演出を入れるためだけにライダーを複数にしているというなら、そんなの要らない」
 こんな意見を、昔どこかで聞いた記憶がある。
 なんとなく納得させられる、重い意見ではないだろうか。

 しかしファンの中には、当然「それのどこが悪いんだ?」という反対意見を持つ人も多い。

 ライダーバトルに反感を覚えた人が居るように、ライダーバトルが必然だと考える人は居て当然だ。
 実際、うまく扱えばキカイダーにとってのハカイダーのように、ライバルキャラクターとして存在感を確立させられるわけだから。
 さらに、カブト以前の平成ライダー作品を知らないで観ている人は、別に飽きるという事はない筈。
 むしろ響鬼での「鬼同士の馴れ合い」に辟易させられた人は、カブトに登場するライダー同士の確執は新鮮に思えるかもしれない。
 それに筆者自身、個人的に「カブトのライダーが全員仲良くなって」という展開は凄まじい違和感を覚えそうだし、そんな事になるくらいだったら、徹底的に戦い合った方がまだマシかとも思ってる。
 今のところワームが没個性過ぎて、昭和ライダーシリーズにとっての戦闘員程度の役割しか持っていないため、「怪人」「幹部」に相当する存在が欲しいと願っているせいかもしれない。
 Xライダーのアポロガイストが好きなもので、ああいう「敵なんだけど変身能力を持っているキャラ」ってのに良さを見出す傾向もあるのかもしれない。
 …ま、個人感はこの程度にして、と。

 結局のところ、「仮面ライダーカブト」において、複数ライダーが登場し、これが戦い合うというスタイルを一方的に否定するのは難しい。
 それどころか、初めからそれをやる前提でキャラクター構成が整えられているようにすら感じられる。
 まして、まだ1クールちょっと。
 先は長いのだから、今の時点ですべてを悲観視するのも問題だろう(気持ちはよくわかるけど)。

 今後、複数ライダー登場が良い方向にシフトしていくかどうか、大変不安ではあるのだが、ここは一つ騙されたつもりになって、ストーリー展開に期待して行きたいところだ。
 ただ、せめて過去作品で散々繰り返したワンパターンだけは、避けて欲しい。
 ライダーバトル自体がパターン演出でも、見せ方によっては文句を言わせない面白さに出来る筈なのだから(可能性はゼロじゃないし)。

 とはいえ、実はこの時点で、本作のライダーバトルが「延々と決着の着かないものになっていく」というのは、ほぼ決定事項のようだ。

 なんでそんな事が、筆者のような一視聴者にわかるのか。
 無論、100%完全な確証ではないのだが、すでに発表されている「商品展開」を見れば、これはすぐに予想できる。

 4月末現在、すでにドレイク、サソード、そして5人目のライダーの関連商品発売が決定している。
 5月から一ヶ月毎に新ライダーの商品が発売され、すでに7月分まで確定している。
 という事は、その商品発売月からしばらくの間(ほぼ間違いなく数ヶ月間)は、販促目的のため、そのライダーが活躍し続ける事になる。

 …逆に言えば、退場はほぼ絶対にありえないという事だ。

 ある程度の短期間で退場させる事が前提のキャラの場合、本編放送中に関連商品は作られないものだ。
 「仮面ライダー龍騎」のシザース、インペラー、ベルデ、ファムや、「仮面ライダー響鬼」の裁鬼、鋭鬼、朱鬼などはそのパターンだ。
 例外的に、龍騎のリュウガ、響鬼の斬鬼などが居るが、これは既出商品のリデコだ。
 また龍騎のガイ、ライアは、メインギミックを王蛇に取られてしまったため、商品化がままならなかった。
 無論、クウガやアギト、555、剣にも同様のパターンがあった。
 中には、放送終了後奇跡の商品化をした者もあるが、だいたいはそんな感じなのだ。

 これまでのパターンから、商品発売の一ヶ月以上前から新ライダーが登場・活躍するようなので、5月初旬に登場が確定しているサソードはともかく、五人目も、6月頃には登場するのではないだろうか。
 そして彼等は、それぞれ数ヶ月間出張る。
 退場はさせられない
 五人ものライダーが劇中でひしめきあう展開が、ほぼ確実に行われる。
 こうなってくると、複数ライダーやライダーバトルに拒絶反応をお持ちの方は、ものすごく辛いだろう。
 もし、カブト以外のライダーを、ザビー同様「中身がころころ入れ替わり」状態にして、その都度決着をつける展開にしていくならいいかもしれないが、それは555以上に難儀な演出になるわけで、果たしてうまく機能する要素になるか、不安は高まるだろう。

 一番問題が少ないのは「全員仲間化&共闘」なんだけど……ありえないだろうなあ……。
 それはそれで反発する人もいそうだし。

 どちらにしても、製作陣がこの辺りをどのように扱い、調理してくれるのか、期待するしかない。
 この上、6人目以降のライダーまで発表されてしまったら……どうなるんだろ?!

 → NEXT COLUM

→「気分屋な記聞」トップページへ