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更新日:2005年1月30日 | ||
昔から思っている事なのだが、オンライン・オフライン問わず、映像作品について意見を交わす場でよくこういう言葉を目にする。
「そんなに文句ばっかり言うなら、見なければいいじゃない?」
最近だと、某特撮番組のファン同士の会話で、よくこういうのが飛び出す。 ある番組に対して、誰かが批判的な意見を述べた時、それに対して反射的に唱えられる呪詛のような言葉だ。 一見真理に見えて、実はまったく思考が伴っていない言葉…これが唱えられた時点で、論者の間には「思考停止」が発生する。 つまり、嫌な事は聞きたくないからと、そこで議論を強引に終わらせようとする意図なのだ。 この言葉を見かけるたびに、思う事がある。 なんで、最近は「議論する事」や「反論を聴く事」を無条件で嫌がる人が増えたのだろう? それとも、元々そういう見解の人は大勢いたんだけど、インターネットの普及で色んな人の意見を聞けるようになったため、多くなったような錯覚を受けているだけなのか? というわけで、今回は「そんなつれない事言わないで、まともに議論しようよ」という、呼びかけのお話。 決してお説教したいわけじゃないのよ、信じて(笑)。 突然だが、「批判」と「批評」、「誹謗中傷」の意味を区別できるだろうか。 「批判」とは、誤っている点や良くない点を指摘し、あげつらうことや、検討を加えた上で物事の可否を決定する事。 「批評」とは、物事の優劣・可否・良し悪しを評価する事。 「誹謗中傷」とは、無根拠な悪口を相手に言う事で、貶める行為。 うちのようなレビューサイト(実はそうだったんですよ、ええ)の場合、原稿として記すのは「批評」になる。 もちろん、何割かは「批判」が混じるし、書き方が乱暴になってその枠を超えるように見える表現を使う事もあるが、基本的に「誹謗中傷」はしない。 というより、してはいけないのである。 批評する対象が「エロゲー」から「特撮」はたまた「玩具」などに移行しても、このスタンスを変える事は許されないと信じている。 そのため、うちのレビュアー各位は、それぞれしっかりしたポリシーを持っている。 たまに感情論や印象論を多用する事もあるが、その辺はご容赦いただくとして(笑)。 で、なんでこういうサイトを作って批評を展開しているかというと、やっぱり「議論する」事が好きだからなのだと思う。 自分が好きな作品について隅々まで語り合い、お互いの意見を参考にして、自分の見解をさらに広げていく楽しみというべきか。 そういう部分があるからこそ、このサイトでは色々な題材を取り扱うし、また掲示板上でも、各種映像作品について大勢のお客さんと意見を述べ合う訳だ。 他人の意見を見て、今まで自分が気付かなかった事に気付かされたり、また別な角度からの見方を知るきっかけを得たりと、メリットは大きい。 中には耳が痛い意見もあるが、「どうしてその人はそう考えたのだろう」という所まで汲み取れれば、そこには、また別な視点による見方と判断があり、価値基準がある筈なのだ。 そんな風に、お互いの評価眼を磨き合って、次の作品に対する見解を高めていく事が、「議論」の醍醐味であり、旨味である筈なのだ。 ただし「議論」を進めるためには、自分の「好き」「嫌い」という基本的感情を一時的に置き去りにしなければならない。 それに囚われてしまうと、どうしても議論の方向性にベクトルがかかって、かえって素直に意見が出せなくなるからだ。 その「割り切り」が出来ない人間が議論に入って来た時に、出て来易くなるのが、先の「だったら見なければいいじゃん」発言なのだ。 「好き」という感情が先走りすぎてしまったがための妄言ね。 例えば、これを執筆している現在、当サイト掲示板上で「特捜戦隊デカレンジャー」の展開について、色々な感想が書き込まれている。 筆者もたまに参加させてもらっているが、基本的にはこの作品が大好きであるため、どうしても「気になる所が気になってしょうがない」という気持ちが出てくるのだ。 例えば、「スーバーデカレンジャーロボが爆砕した筈なのに、しばらく後にまったく何の断りもなく、突然に復活を遂げた」とか「地球への衝突確率100%と算出されている巨大隕石を破壊する作戦の際、その破片による被害拡大の可能性はまったく考慮されていない」とか、「デカウイングがかなりの遠距離から引っ張られるほどの引力を持つ大質量隕石なのに、地表にはそれによる影響がまったく出ていない」とか、「デリートは細胞片すら残さないよう消去する処理なのに、テレサの弟だけは死体が平然と残ってしまっている」とか、気になってしょうがないのだ。 もちろん、子供番組にそこまでのツッコミを入れるのは野暮だと思うし、番組の尺や方向性の関係で、そこまで細かく描写するゆとりもつもりもない事は理解しているのだが、これを「議論」の種として温存するのはアリなのではないかと思うのだ。 仮に、ここで「テレサ弟のジャッジメント表現の問題について」などとテーマを絞って議論したとしても、それに明確な回答が出る訳ではないし、議論の結果が番組に反映される訳ではない。 だけど、中には「あの話の雰囲気に呑まれてしまって、ジャッジメントのおかしさに気付かなかった」と、ハッとさせられる人も居るだろう。 いや、実は筆者本人がそうだったんだけど(笑)。 こういう話を少しする事によって、より作品を見る注意力が高まり、細部にまで目が届くようになるのではないだろうか。 だがこれも、「そんな細かい事いちいち指摘してバカじゃん? もっと素直に番組見ろよ」などと言われてしまったら、そこまでである。 この場合の「素直」とは、“何も考えず、ろくに情報も拾わず、ただ頭を空っぽにして見ろ”という事なのだろうか? たとえ方向性がどうであれ、何も考えずに映像作品を見て、面白いと感じられるものなのだろうか? こういった「批評」を「誹謗中傷」と混同してしまう人は、どうも「指摘する=作品が嫌い」と考えてしまう傾向があるようで、「好きだからこそ何かいいたくなる」という姿勢が理解できていないように感じられる。 「自分が好きな物をけなされる」という風に、すりかえて考えてしまうらしい。 そういう事とは、全然違うんだけどね。 ただ、気持ちはわからなくもない。 たとえば、筆者も昔こんな事があった。 筆者は「仮面ライダーBLACK RX」の27話「大逆襲!影の王子」が大好きで、この回がBLACKから通して最高傑作のエピソードであったと、今でも固く信じている。 これは、こんなストーリーだ。 かつてBLACKに倒され、死んだと思われていたシャドームーンが登場。 RXに進化したBLACKとの決着を望み挑戦するが、怪魔異星獣アントロントの乱入により決着は着かず、シャドームーンは、RXとクライシス帝国両方を敵として構える事となった。 後に、怪魔異星獣マットポットを利用してクライシスの作戦を失敗に導こうとするシャドームーンは、逆に罠にはめられ、人質にされた子供達とRXもろとも、火炎陣の中に囚われてしまった。 その隙に、マットポットは本来の作戦を遂行しようとしていた。 炎の中、子供達よりもRX打倒を優先するシャドームーンに激怒するRXは、リボルケインで彼のベルトのキングストーンを刺し貫く! 続けて、子供達を救いに行こうとするRXを、立ち上がったシャドームーンが呼び止める。 「子供達は俺にまかせろ」 「まだ、あの子達を助けるだけの力は、残っている!」 あのシャドームーンが…かつては世紀王候補として人類を支配しようとした冷酷な男の、信じられない言葉。 マットポット打倒のためにそちらへ向かえと指示するシャドームーンに、RXは、思わず「信彦ー!!」と叫び、呼びかける。 だが、 「我が名はシャドームーン。 いずれ再び蘇り、RX! 貴様に勝負を挑む。 お前の命は…誰にも、渡さん!!」 背を向けながらそう呟き、身体を引きずりつつ、炎の中の子供達の下へ歩いていくシャドームーン。 意を決し、マットポット打倒を果たして帰還したRX・光太郎の眼前には、子供達を救い切り、すでに動かなくなってしまったシャドームーンの亡骸があった。 今でも、この話を思い出すと涙が止まらない。 悪魔のような男が、最期に少しだけ元に戻りつつも、敵である事を強調し、あまつさえ自分を犠牲にして人の命を救うのだ。 これを、泣くなと言う方が無茶だ(笑)。 筆者にとって、この話は特撮エピソードの中で五指に入るほどの名演出になっている。 …ところが。 当時、この話は筆者の周りでは酷評だらけだった。 もちろん当時はインターネットなどないので、あくまで知人間でのリアル会話のみの話だが、「たった二回しか出てこないシャドームーンに、あんな事やられても」とか「そんなんで許されるほど甘っちょろい事やってなかっただろ」とか、「最期だけいい奴になっても…」とか、もう言いたい放題言われ、ものすごくへこんだものだ。 また、今ではちょっと信じられないかもしれないが、本放送当時の大きなお友達の中では「仮面ライダーBLACK RX」は評価最悪で、一部ではその存在すら認めないといわんがばかりに叩かれていた。 そんな風潮の中、「大逆襲!影の王子」は、評価を認めてすらもらえないという悲劇に見舞われたのだ。 そのような酷評の中、当時筆者は、大変気分の悪い思いをさせられたものだ。 だが、今になって思えば、その時の意見のいくつかは納得できなくもない。 たった二回しかRXに登場しなかったシャドームーンは、前作BLACKを見ていない人にはなんだかよくわからない奴に過ぎないし、RXの中でその存在を確立しきっていたとは、ちょっと考えられない。 ましてや、一回目と二回目の登場に、かなりの間が空いている。 そんな状況で、いきなりお涙頂戴話をやられても、戸惑う人は出てくるだろう。 もう一つ、こんな例がある。 91年度放送作品「特救指令ソルブレイン」。 この作品、主人公がアレだとか前番組のウインスペクターを超えられなかっただのとさんざんな言われようだったのだが、実は大変秀作エピソードが多く、筆者は特警三部作の中で「実質的な最高傑作」だったと断言する。 その中でも代表的なのが、21話「帰って来たWSP」、22話「非情のファイヤー」、23話「竜馬から大樹へ!」の三話だ。 これは、前作「特警ウインスペクター」のファイヤー・ウォルター・バイクルが再登場する上、(前作からの再登場アイテムとはいえ)パワーアップ武器まで手に入るという、シリーズ物お約束のお祭り的エピソード……の筈だったのだが、実際はそんな生易しいレベルには収まりきらず、大変重厚な感動劇に仕上げられていた。 ストーリーは、こんな感じだ。 SRS(ソルブレイン)本部に、オーバーホールのため送られてきたギガストリーマー。 それは、ICPOに配属されているWSP(ウインスペクター)からの依頼だったが、作業完了報告を行った際、当の依頼者である筈の香川竜馬(ファイヤー)が本部にいないという事がわかった。 その理由の説明を、何故か頑なに拒むICPO本部。 不思議に思うSRSメンバーだったが、その後、とある事件に駆けつけた際、なんと香川竜馬と出会ってしまう。 彼はどういう訳か、ただの一般人の少年に向けて発砲を行った。 そして、その後も一般人を執拗に狙おうとする、竜馬の姿が確認される。 竜馬に事情を問いただす大樹だったが、彼は何も説明してくれない。 実は、竜馬が追っていたのは「あらゆる人間に変身する事ができる諜報用ロボット・メサイア」と呼ばれる者だった。 竜馬が撃とうとしたのは、すべてメサイアが変身した姿だったのだ。 メサイアは、事故に遭って瀕死状態だった日本人旅行者をベースにNATOが極秘開発したものだったのだが、過去の記憶を取り戻してNATOから脱走、故郷の日本に戻ってきたのだ。 だがメサイアには、任務失敗時または脱走時に作動する自爆装置が内蔵されている。 竜馬は、それにより被害が出る事を防ぐため、極秘任務を遂行していたのだ。 一方大樹は、メサイアがまだ人間だった頃に撮影された、妻と子供と一緒の写真を見て愕然とする。 メサイアは、自分の家族に逢いたいという、ただそれだけの想いに突き動かされていたのだ。 だが、メサイアは家族の前に名乗り出る事は出来ず、ただ外から二人を眺めている事しかできない。 そんなメサイアの心を知った大樹には、もはや、彼を破壊する事はできなくなっていた。 やがて、メサイアはSRSを相手取り、市街地各所に仕掛けた爆弾を条件として、自らの体内から自爆装置を取り外す事を要求。 だが構造的に、自爆装置の取り外しは叶わない。 それを知る事で、自暴自棄になるだろうメサイアの暴走を食い止めるため、WSPとSRSが出動する。 竜馬は、出動直前に、大樹にギガストリーマーを託す。 情けは無用だ、という言葉と共に… WSPとSRSの活躍により、市街地に仕掛けられた爆弾の撤去は、無事に完了する。 その一方で、大樹・ソルブレイバーは、単身でメサイアを郊外に追いつめる事に成功した。 だが、メサイアに向けて構えたギガストリーマーは、投げ捨てられる。 ソルブレイバーのマスクを取り外した大樹の目には、涙が溢れていた。 「俺には、お前を撃てない…! もう…どこにでも行け!」 その悲しみの言葉に心を打たれたメサイアは、大樹の言葉に応えた。 「俺は、人間でもロボットでもない。――ただの、化け物だ」 乗ってきた乗用車に乗り込み、誰もいない場所での自爆を決意したメサイアは、家族の名前を叫びながら四散した。 メサイアを破壊できずに帰還した大樹に、正木本部長は「お前は、メサイアの心を救う事が出来た」と声をかけた。 そして、自らのやり方は間違っていなかったと唱える竜馬も、大樹に微笑みを向けた―― …書いていて、涙が出そうになった(笑)。 この三部作は、ソルブレインの「犯人を捕らえるだけでなく、その心も救う」という信念に基づいているエピソードだ。 この思想は「特警ウインスペクター」最終回で正木本部長が、第一話の犯人による再犯を許してしまった事から思いついたものなので、基本的にWSPには存在しない概念だ。 そのためか、メサイアに対するWSPとSRSの見解の違いが明確化されている。 それでもなお、大樹が信念を貫こうとしたのが、このエピソードなのだ。 メサイアの前で、突然ギガストリーマーを放り投げるソルブレイバーのシーンは、大樹の無念さが痛いほどに伝わってくる名シーンで、記憶力に自信のない筆者が、放送後13年以上経つ現在においてなお明確に思い出せるほどだ。 ところがこの感動劇も、鷹羽飛鳥氏に「これって、大樹は任務放棄したって事じゃん。そんな不条理な事されて感動しろったって、無理だよ」と、バッサリと切り捨てられてしまった。 言われてみれば確かにそうなんだが、当時の筆者は鷹羽氏に向けて、先に挙げたSRSの心情を述べ、大樹の行動の正当性よりも、人間的な態度についてのフォローを試みた。 だがそれでも、鷹羽氏の見解や感想は変わる事はなかった。 この時の議論は停止状態のまま、今日まで至っている。 この作品に限らず、筆者と鷹羽氏とでは評価が大きく違ってくる事がある。 「仮面ライダー555・パラダイスロスト」などでもあった事だが、お互いの意見の根元に理解を示しつつも、最終評価が完全に異なっていたりした。 鷹羽氏とは、いつもそういうやりとりをしているのだが、この「メサイアの回」だけは、結構食い下がった記憶がある。 それも今となっては懐かしい想い出だが、当時の意見のぶつかり合いは、相当なものだったように覚えている。 ところが、その他の知人との会話でも、このエピソードの良い評価をほとんど耳にしなかった。 それどころか、「ああ、ウインスペクター出てきたねー。ほとんど回想編だったけど」とまで言われてしまう始末。 あの、回想編は、最初の1話の途中までなんですけど(笑)。 「ソルブレイン」は、その他にも「ドーザークローラー(ソルドーザーのビークル形態)初始動」のエピソードなど、本来の目的「玩具紹介編」の枠を大きく逸脱した名エピソードが多いのだが、それらが正当に評価される事はほとんどなく、結果的に「シリーズ中もっとも辛気くさくて無駄に暗い作品」というレッテルを貼られてしまった。 個人的には大変悲しい事ではあるが、確かに、そう結論付けられる理由も存在している以上、全面的な否定は難しい。 ともあれ、こんなパターンの評価もある。 正直、いまだに「その評価は正当なのか?!」という疑問が拭えないが、筆者も「好きなものを否定された」経験はあるのだ。 子供の時の刷り込みというものも、案外シャレにならない。 例えば、相当前に当サイトの掲示板で、「カクレンジャーの悪夢再び」という書き込みをした事があるが、それに対して、閲覧者の方から激しい反論をいただいてしまった。 「カクレンジャー」も、RXほどではないにせよ本放送当時はかなり酷評に晒された作品で、実際、作劇につっこみ所があまりにも多すぎ、特に物語の整合性や説得力を求める人からは低い評価しか得られなかったのだ(詳しくは「習慣鷹羽・スーパー戦隊の秘密基地」参照)。 だが、反面エンターテイメント性はすこぶる高く、また画面も面白い造りになっていたので、決してすべてがまずいわけではなかった。 実際、当時の子供には結構人気があったようで、この頃カクレンの洗礼を受けた人達の間では、かなりの高評価になっているらしい。 ここに、刷り込みの怖さがある。 子供の時に楽しんで見ていた作品というのは、大きくなっても意外に評価は大きく変わらないものだ。 仮にシリーズが長く続いたとして、途中から面白くなくなってしまったとしても、なんとなく見放せない何かがあったりする。 かくいう筆者も、小さい頃面白くて大好きだった作品が、当時の大きなお友達によってケチョンケチョンにけなされていたという事実を知って愕然とさせられた経験が沢山ある。 子供と大人で評価が違って当然なのだから、この場合、どちらが正しいという事ではない。 問題なのは「一度面白いと思ったものを、最後まで疑わないままで批評する事」なのだ。 ぶっちゃけて言うと、筆者がこういった経験をしたのは「ザ☆ウルトラマン」と「ウルトラマン80」だ。 実はいまだに好きなんだけど、酷評の原因も今となってはわかるし、どこがどう面白かったのかと追求されると、はっきりした意見を述べられない。 今、あらためて全話見直してみたら、当時とはまた違った面白い部分を見出す事も出来ただろうが、残念ながらこれらについては「ただ漠然と“面白い物の筈だ”という概念だけを抱いて観ていた」という事を否定できない。 人によってはそれで良いのだろうが、議論する事を旨とする筆者にとっては、これではまったく納得ができない。 なので、いずれこれらを全部見直して、改めて価値観を構築してみたいと思っている。 その上で、当時の大きなお友達の酷評と、やっと向かい合えるような気がするのだ。 「本当に面白い」と思っている作品がある。 そして、それのどこが面白いのか、明確に説明する事ができるし、それを語りだすともう止まらないほどに、思い入れもある。 だが、必ずと言って良いほど、その反対の意見を持つ人も居る。 そういう人達の意見を汲み、かつ自分の意見を正当に主張する事で、お互いに見方を変えていければ、次の機会、別な作品に対して、その人と同じ見解で語れるようになるかもしれない。 あるいは、見解こそ合致しなくても、お互いの「作品に対する見方・姿勢」を理解しあう事が出来て、より密度の高い議論を楽しめるようになるかもしれない。 それは、他人の意見を無条件に突っぱねるよりも、何倍も面白いものの筈だ。 結局、どうあれ反論というものは無限に生まれて来るのだから、前向きに捉えるのも悪くないのではないだろうか? → NEXT COLUM |
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