仮面ライダーカブトの頭突き 第八回 |
後藤夕貴 |
更新日:2006年12月3日
【警告!!】
このページには、劇場版「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」についてのネタバレ情報が大量に記載されています。というか、はっきり言って、深刻なネタバレのみで構成されています。
もし、まだ劇場版を見ておらず、その内容を知りたくないと考える方は、即座にこのページを閉じてください。
このページに目を通してしまったために劇場版を楽しめなかった、などとクレームを付けられても、当方は一切の責任を負いかねますので、くれぐれもご注意ください。
というわけで、こちらはすでに劇場版を視聴された方、或いは「見に行く気は無いけど内容に興味がある」という方のみ、ご閲覧ください。
【警告終了・ここより本文】
前回は、本作の良かった点・問題点の一部「なぜ主軸がZECT対ネオゼクトなのか」「SF作品としての必然性の欠如」「世界観の不徹底」について触れた。
今回は残りの問題点と、総合評価に行ってみたいと思う。
●恋愛エピソードの必要性の疑問
これは「仮面ライダーThe First」作品評でも言われていた事だが、どうしてこのような恋愛物を組み込む必要があったのかという疑問が拭えない。念のため先に述べておくが、ヒーロー物だから恋愛要素なんか要らない、などと言いたいわけでは決してない。
「作品内の各要素と融合していない恋愛要素」に大きな尺を割く姿勢が、疑問だという事なのだ。
本作の内容を、もう一度思い返してみる。
すると、実は本作は「ひより中心の恋愛エピソードがなくても成り立ってしまう」事に気付かされる。
正確には、ひよりという存在が必要性を持っていた部分は一応ある。
ひよりの存在意義は、主に加賀美の行動理念に作用していた。
ひよりがいなければ加賀美の心境変化描写はなく、また天道との接点が生まれなかったのは確かだ。
当初、限りなく敵対関係に近かった両者を結びつけたのは、ひよりの存在だった。
だが、実はこの時点で、ひよりはそのほとんどの存在意義を消化し切ってしまった。
つまり…もうそれ以降、画面に出る意味はなかったのだ。
天道の目的は、ハイパーゼクターを手に入れ、過去に戻ってひよりを救う事だ。
そのため、あらゆるものを利用した。
加賀美に近づいたのもそのためだし、ひよりと接点を持っている存在だと理解されたため、天道は秘密を打ち明けていた。
しかし。
本来目指していた方向性はともかく、本作は結果的にZECTとネオゼクトの抗争がメインとなっていた。
そしてひよりは、それにまったく関わっていない。
というより、不気味なほど本作のメインエピソードから「隔離」されていた。
ひよりは、過去に死にかけて重い持病を患ったという事でしか、物語に絡んでいない。
天空の梯子計画とも関係がないし、ワーム襲撃にも直接の関連はない。
TV版のように、実はワームだったというオチもない。
ただ、天道と加賀美に保護される「だけ」の存在であり、単独ではまったく物語を動かせなかったのだ。
それなのに、本来物語をメインで引っ張っていかなければならない天道と加賀美を足止めし、停滞(話の進行を止めるという意)させていた。
ひよりが死んだ事をきっかけに、天道と加賀美が最終決戦に挑むような描写が成されていたが、よくよく考えるとひよりの死にはZECTの陰謀もワームもまったく関係がないのだ。
ただ昔の持病で勝手に死んだだけで、(そりゃ悲しいだろうが)天道と加賀美が奮起する理由にはまったくなっていない。
ひよりを失った悲しみを、ZECTへの怒りにすり替えただけだ。
ZECTかワームによる何かしらの行為が間接的に作用し、その結果ひよりが死んでしまったというならともかく、これでは責任転嫁もはなはだしい。
これに気付いてしまうと、このシーンは唐突に馬鹿馬鹿しいものに見えてきてしまう。
大切な者を失い、もはや完全に身一つだけになった者達が協力して戦いに赴くという意味でのかっこ良さは確かにあるが、これらはストーリーの必然性とはまったく繋がっていない。
本来ならとってもいい「泣けるシーン」になる筈なのに、何か歯車がかみ合わないような違和感を引き起こしているのは、恐らくそんな要因があるからだろう。
ひよりは、天道と加賀美が「共に守るべき者」として存在していたが、そもそも「何から守るべきなのか」というのもわからなかった。
確かに一度ワームに襲われはしたが、あれは単にひよりを病院に移動させるための方便としか機能していない。
TV版のように、ひよりとワームを結びつけるものが何もないため、本作内での彼女は「運悪くワームに見つかってしまった不幸な女の子」でしかないのだ。
病院に行かせるためならもっと別なやり方でも全然構わなかったわけだし、実際、二度目の入院のきっかけは「急に容態が悪化したから」という、単純だけど説得力のあるものだった。
また、「過去に背負わされてしまった運命」から守ると見るにしても、それは映画本編終了間際のサプライズに関わるだけのもので、本編のメイン内容の中では、何の材料にもなっていなかった。
ものすごーく要約すると。
ひよりは、ビストロ・ラ・サルで働いて、勝手に倒れて入院して、勝手に死んだだけ。
それに対して、天道と加賀美が勝手に涙し、勝手に悔やんでいただけ。
そのやりきれなさを、ZECTにぶつけただけだ。
物語の構成を反芻すると、その程度の役回りでしか機能してない事に気付いてしまう。
それだけ、ひよりというキャラクターは薄っぺらいものだったのだ。
こんな程度の関わり方では、ひよりメインの恋愛シーン関連が不要視されるのも理解できる。
ひより役の里中唯氏の演技力のなさが、ここにさらなる拍車をかけたのも厳しい。
相手役・加賀美を演じた佐藤祐基氏の熱演ぶりが、益々彼女の演技の酷さを際立たせたという、いかんともしがたい難点もあった。
ネガティブで自分の思いを表面に出さず、それでいて内に複雑な感情を抱えるひよりという役柄を演じるには、里中氏には難儀だったようだ。
というか、よくよく考えたらこれは本来相当な演技力を求められるキャラクター要素ではないか。
スタッフは、これが里中氏に行えると本気で考えていたのだろうか?
本人の才能ややる気を別としても、かなりハードルが高い事を強要したわけなのだが。
冷たい言い方になるが、もし、ひより役の役者が(TV版も含めて)もっと上手な役者であったなら、もっと素直に感情移入出来ただろうし、先で指摘した「メインストーリーと関わっていない」という難点もある程度気にならなかったかもしれない。
いわば、そういった「穴を埋めるだけの力」が、里中氏には根本的に足りなかったのだ。
念の為述べておくが、これは決して里中氏を叩いているわけではない。
里中氏は、本来はアイドルユニットの一員で、本業の役者ではない。
いわば畑違いの人なのだ。
そんな人物に、こんな難度の高いキャラクターを演じさせる事そのものが間違いだと言いたいのだ。
「演技畑じゃない人の演技力のなさを見て叩く」よりは、「その人を配役した者を叩く」方が正当だろう。
いや「叩く」というよりは「指摘」か。
とにかく筆者は、「バッシングを受けても仕方ないような状況に、役者ですらない里中氏を放り込んだ」状況に、疑問を呈したい。
●アクション&バトルシーンの酷さ
これは、ここで指摘する以前から各所で叩かれまくっている問題点の一つだ。はっきり言って、本作の戦闘シーンはつまらない。
先で触れたコーカサス戦やケタロス戦のクロックアップ描写のように、部分的に見所のあるシーンはあるのだが、全体的にはまったくパッとせず、「あれだけ沢山ライダーが出ているのに、どうしてこんなに没個性な画面になってしまうのか」という疑問が浮かんでしまう。
過去の平成ライダー映画作品は、それぞれに魅力ある戦闘シーンがあり、感動させられたものだ。
「仮面ライダーアギト」の、新主題歌をバックに空中で紋章を浮かび上がらせるシャイニングフォーム&ライダーキックの凄み。
「仮面ライダー龍騎」の、叫び声を上げながらいつもと違うモーションでドラゴンライダーキック体勢に入る龍騎の激しさ。
「仮面ライダー555」の、アクセル・クリムゾンスマッシュ(通称アクセルクリスマ)の、問答無用の迫力と驚き。
「仮面ライダー剣」、キングフォーム空中からのロイヤルストレートフラッシュの斬撃と、着地シーンをシルエットで映す独特の豪快さ。
「仮面ライダー響鬼」の、これでもかといわんがばかりの連続音撃攻撃と、初めてかっこ良く見えた「音撃鼓攻撃」のアイデアの冴え。
…上記は、あくまで筆者が個人的に気に入っている場面の羅列だが、このような頭に強烈に残る「カッコイイ」場面が、なぜか本作には皆無なのだ。
これは、致命的なまでにまずい。
何故って、ヒーローである主人公に明確な見せ場がないという事だから。
本作の一応の隠し玉である「カブトハイパーフォーム」は、“時間を巻き戻す”“時間跳躍が可能”という設定の表現のみが重要視されていて、実は戦闘能力はさほど重視されていない。
確かにコーカサスを倒したという活躍はあったが、あれは単に宇宙空間で飛び蹴りをしただけで、画面的にも演出的にも目を見張るものではない。
しかも、コーカサスの死因は「宇宙ステーションとの激突による爆砕」にしか見えず(いや実際はカブトの影響力は作用しているだろうけど)、ハイパーフォームは本当に強いのか? という疑問への回答はまったく用意されていない。
これでは、カタルシスも何もあったものじゃない。
どうせなら、各所で言われていたように、飛来する隕石をライダーキックで破壊するとか、ありえないけどやったら凄い画面を作れば良かったのだ。
ま…実際にやったら、質量差の問題で破壊どころかカブトが一人で勝手に吹っ飛ぶか潰れちゃうだけなんだけど(笑)、それ言っちゃダメだよな。
でも、せっかくハイパーフォームになって、決めるべきシーンでやったことは隕石を少し手で押しただけってのは、あんまりだろう。
ラスト付近の展開は、「カブトは隕石をどうする?」と視聴者がもっとも関心を寄せている重要なパートだった。
確かに、隕石同士が激突して凄い結果になったが、そこでカブトがした事そのものは、全然劇的ではない。
その後の地上降臨シーン自体は、なかなか綺麗で見所があっただけに、その手前はもっとぐっと盛り上げるべきだっただろう。
まあ筆者は、「未来から引っ張ってきた隕石が、七年前の世界ではなぜか静止していた」という演出が気になって気になって仕方なくて、初見時ラストシーンはあまり頭に残らなかったのだが。
あんなに膨大な質量のある隕石の移動エネルギーを、どうやって中和したんだろう。
これって、さりげにとんでもないような気が…。
ハイパーカブトって、地味なところで無茶苦茶凄いのかも?
コーカサスやケタロス、ハイパー以外のライダーの活躍シーンも、あまり感心できない。
冒頭の複数ライダー戦は、結局単なるケンカレベルで、わざわざ劇場で見なくてもTV版で似たような事をやるだろう程度のものに過ぎず、見所や特徴はほとんどない。
クライマックス付近の、軌道エレベーターに向かって突進するマシンゼクトロンとカブトエクステンダーのシーンはそれなりに迫力があったが、「変身してない状態なのに不自然に被弾しない」という疑問点が大きくて、せっかく勢いのある場面なのにウソっぽく見えてしまう(あそこで変身できない事情があるわけではないのに)。
一番まずいのは、カブトとガタックがクロックアップで軌道エレベーターに突入し、排水口を遡って宇宙ステーションまで移動するシーンだ。
あれには、開いた口が塞がらなかった。
カブトとガタック単独では、大気圏をぶち破るほどの加速力に相当するものがない。
排水口が地表まで続いている上に中ががらんどうである以上、排水口内移動にも大気圏突破と同じだけの負担がかかるのだ。
いくら忍者みたいに壁を飛び飛び移動しても、ライダーにかかる重力負荷はクロックアップの有無に関係ないからまったく意味がない。
クロックアップはあくまで主観時間を加速するためのもので、ライダーに爆発的なスピード・推進力を与えるものではない。
本当なら、クロックアップをしていようといまいと、二人は仲良く排水口をずるずるすべり落ちていくだけだ。
そもそも、これより前に宇宙ステーションに辿り着くために軌道エレベーターを使ったり、カブトエクステンダーという推進力を利用して上昇するというシーンをわざわざ描いているのに、あの場面だけはクロックアップのみで突っ切ってしまえるというのは、あまりにもいい加減過ぎると言う物だ。
たとえ排水口内であろうとも、カブト達は大気圏を単独突破するだけの推進力を用意しなければならない筈。
どうして、あそこでもう一度それぞれのバイクを使わなかったのだろうか?
なお、カブトが最初に排水口を上った時は、「施設突入」→「銃撃戦回避」→「織田と会話&変身&離陸」というプロセスを踏んだ上で、彼が現場に到着するずっと前に上昇を開始したゴンドラを追い抜き、先に最頂部へ到着している。
これは一種の「狙った超展開」の一つだと思われるが、普通に考えればここでもクロックアップが使用されていた可能性は高い(エクスモードはクロックアップ対応だし)。
ところがこのシーン、はっきりとクロックアップを開始した場面がないので、単にカブトエクステンダーの(劇場版で突如付加された)超推進力を使っただけという解釈もできなくはない。
だがどちらにしろ、そんなに早く到着できるなら、マシンを使わない手はないし、使えば使ったでどうとでも言い訳が利いた筈だ。
カブトエクステンダーが排水口を上れた以上、ガタックエクステンダーも上れたとしても誰も文句は言わないだろうし(ましてガタックエクステンダーのエクスモードは飛行型だし)。
たとえその後の黒崎との戦闘シーンでバイクが突然消えたとしても、「そこまで辿り着くために必要だった」という事で充分な意味が出た筈なんだけど。
多分、演出的には勢い重視で「一気に敵陣中枢部まで突っ走る」というノリを活かしたかったのだろうが、そのためだけに本編内で既に出した移動条件を無視していいわけではない。
大気圏離脱という厳しい条件を、ちょっとパワーアップしただけのただの人間が二本の足でやり遂げてしまうというのも、馬鹿げた話だ。
その他、「使われていた事をほとんど認知してもらえないライダービート」や、「必殺技も使わせてもらえないライダーが大多数」「サソードって結局ナニ?」という細かな?問題点があるが、その中でも最大に疑問なのが、ドレイクの扱いだろう。
ドレイク・風間…なぜ君は、そこまで弱体化させられる運命にあるのだ?
騙された事はともかく、ゼクトルーパーの銃弾を受けて倒され、あまつさえ死亡してしまうというのはどうかと。
しかも、不意打ちではなく堂々と正面からの集中砲火である。
さらに、その手前では北斗との会話シーンがある。
この状況でクロックアップを使おうともせず、なぜかドレイクゼクターで反撃しようとするドレイクの謎の行動。
挙句に、ヒヒイロカネ製の装甲は無事なのに中の風間だけが絶命するという不可解な銃殺劇に。
さらにさらに、その後のシーンでは、生身の織田と天道がゼクトルパーの集中砲火の中、正面から無傷でバイク突入を敢行している。
これはどう見ても、ドレイクを殺すためだけに無茶な場面展開を作ったとしか思えない。
その上で、ドレイクのめぼしい活躍シーンも皆無なのだから、本当にいたたまれない。
こんなに扱いの悪いライダーが、過去に居ただろうか(笑)。
本作のドレイク唯一の快挙は、「やっとライダーの姿でバイクを運転してくれた」という事だけだった。
えらくノタノタした走りで全然かっこよくなかったけどね……合掌。
●ワームの存在意義皆無
これも、本作の致命的な問題だ。これだけとんでもない環境になっている上にワームまではびこっているという「絶望のダメ押し状況」にも関わらず、なぜか本作はワームを徹底的に空気扱いしている。
これは、どういう意図なのかまったく理解できない。
ワームは、本来ならZECTとマスクドライダーシステムが全力で立ち向かい、壊滅させなければならないほどの大きな存在だ。
しかし、なぜか本作内では「単なる雑魚“以下”」という、奇妙な扱いにされてしまっている。
ワームがまともに活躍らしき事をしたのは、ひより入院のきっかけを作った襲撃シーンくらいのものだが、これも「ひよりを入院させる」という目的だけなら代用はいくらでも利くものだし、ましてあまりにも唐突な展開のため、内容的にはまったく意味を成してない。
もっともこのシーンは、いつもと違う「必死で戦うカブト」という珍しいものを見せてくれたという意味はある。
だからまったくのムダとは思えないが、「これだけしかない」となると話は当然変わってくる。
その後、ワームは「単語」として台詞内で用いられるだけになってしまう。
加賀美陸の話す「天空の梯子計画」の真相と思想、そして北斗の「ワームとZECTが手を組んだ」という台詞。
この中でだけしか、ワームは明確な存在意義を与えられていない。
いくらワームの増援が来ると言っても、それを包む巨大隕石の方がインパクトがあるため、「別に中にワームがいようがいまいが関係なく大ピンチ」という印象しか得られない。
その後、最終決戦に挑むカブトとガタックに沢山の成体ワーム軍団が立ち塞がるが、見せ場などまるでなく、すべてクロックアップで爆発炎上。
障子紙一枚ほどの抵抗すらあったかどうか疑問という、情けない描写になってしまった。
本編は、結局のところ「ZECT対ネオゼクト」「天道の決意」が主軸であり、それ以外のものは、たとえ本来とても重要なものであっても、不自然なまでに適当に扱われる。
よくよく考えてみれば、これだけとんでもない「天空の梯子計画」において、首謀者達の登場があの程度というのもおかしいのだ。
とにかくそんなわけで、本作のワームは「居ても居なくても大して変わりない」という、不名誉?な待遇に泣かされる事になったわけだ。
なおご存知の通り、TV版とデザインの違う劇場版ワームは、後に「ネイティブ・ワーム」という地球在来種ワームとしてTV本編に登場した。
大した露出も活躍もしていないのに、そっちの方が劇場版ワーム全体よりも色濃く描かれているというのが、情けなくってたまらない。
●天空の梯子計画のおかしな描写
意味不明な「巨大なクロックアップシステムによる移送空間作成」により、彗星と巨大隕石を呼び出してしまったガタック。隕石は手前の彗星を破壊し、その破片は宇宙ステーションを襲う。
隕石激突の衝撃を受け地表に落下していくカブトとケタロスだが、このシーンも、よく見るとものすごくおかしい。
彗星の破片や衝撃波があんな短時間でステーションに辿り着いたという事は、隕石はもうほとんど地球の重力圏に捕らわれているわけで、もはやほとんど「激突し始めている」と言っても過言ではないくらい隣接している事になるんだけど!
さらに地表は、落下した彗星の破片で相当なピンチになっているのではないか。
天空の梯子計画の表向きは、排水口に捕らえた彗星の破片を地表に(水として)送り込むという内容だった。
つまり、少なくとも彗星の一部は落下後地表に到達する事がわかっていた事になる(或いはそういう計算が成り立っていて、他者を納得させていた筈)。
という事は、ケタロス落下後はあんな呑気なドンチャン騒ぎをえんえんやっている暇などなく、「彗星の破片無数に落下」「地表は真っ暗」「立て続けに巨大隕石落下」「天空の梯子計画完遂」というコンボが成立しただろう。
少なくとも、わざわざ宇宙ステーションから怪しげな反物質ミサイルなんか発射する必要も時間もなかった筈(あれが本当に迎撃用ミサイルだったかどうかはともかく)。
うーん、こういう大事なところがいい加減だと、全然危機感が足りなくてつまんないんだよなあ。
ただでさえ、隕石落下パニック映画はその度にマニアから手痛い突っ込みをもらっているのに、それを安易にやっちゃうから…。
結局は建前の計画だったわけだが、彗星を破壊して大量の水を、というのも、随分と難のある計画だ。
あれはかなり効率の悪いもので、そもそもうまく成立させるためには彗星破片の飛散範囲を上回る(或いは範囲の多くをフォローする)だけの受け皿がなくてはならないという信じられない規模の準備が必要になる。
そうでなければ、破壊した彗星のごく一部だけしか排水口は取り込めず、残りの破片はみんな地表に落下する。
破片のほとんどは高熱気化してしまい、本来の目的は充分に果たせない。
まあ、彗星のすべてを受け止める気はないというのかもしれないけど、それにしてはあまりに杜撰すぎる。
あの世界での大気事情が不明なので具体的なシミュレーションは出来ないだろうが、少なくとも雨も相当降ってないだろうから、外れて落下した彗星が別な形で地表に水として降り注ぐというのも、難しそうな気がする。
よくまあ、こんなアホらしい計画で周りが納得したものだ。
筆者は、この説明をしているシーンで思わず呆然とさせられた。
あと、どうやらZECTは、彗星から得た水を海や河ではなく関東平野に流そうとするつもりだったらしい。
なかなかに恐ろしい計画である。
奴等はどちらにしろ、関東を滅ぼすつもりだったのだ!(笑)
ああ、ウソ計画で本当によかった。
って、それでも彗星は一応爆砕したんだから、多少の水は排水口から落ちて来なければならない筈なんだけど…あれっ?
これは粗というほどではないが、ZECTがどうしてこのような大規模な計画を実行し、かつ各国から反対を受けなかったかという点についても、多少なりとも説明が欲しかったところだ。
先でも「軌道エレベーターの建造地」について触れたが、それとは関係なく、このような計画はわざわざ日本のそれも東京で行う意味は本来まったくない。
普通に考えたら、各先進国から様々な横槍が入るだろうし、反発も受けるだろう。
これらについては、劇場版の世界ではZECTは世界を支配するほどの権力と反対意見を制する独裁権を主張している、といった意味の描写をちょっとだけでもしておけば、容易に納得できた事だ。
TV本編を見ている人も、そうでない人も、あのままでは「どうして日本の一組織ごときが、こんな大それた計画を遂行できるのか」という疑問を抱きかねない。
疑問を抱かない人は、TV本編の「ま、ZECTは怪しい組織だから何でもあり」というイメージをそのまま継承しているだけに過ぎない。
こういう細かな点は、ナレーションが何かででもさらりと触れておくだけでも、全然深みが変わってくるのだが。
それともこういう点は、どーでもいい細かすぎる点だと解釈されてしまったのかな。
普通に物語を作っている時、一番最初に考案するポイントだと思うんだけど。
●結末の無理矢理さ
本作ラストのムチャクチャさ加減は、ある意味芸術と呼べるレベルかもしれない。時間を戻して「なかったこと」にして、そこまでの展開のすべてを無に帰した。
夢オチより酷いではないか!
どうも劇場版カブトの世界では、「(初期を除く)ドラえもん式」のような“過去と未来の関係が基本的に普遍”でも、「ドラゴンボール式」のような“歴史を変えるとパラレルワールドが量産される”でもなく、「歴史を変えると未来がすべて消滅する」という理屈らしい。
ハイパーカブトが七年前に旅立った後、世界全体に雪が降りすべてが消滅したのは、そういう意味なのだろうと思われる。
そして、七年前の世界に行った天道自身も、消滅した。
…のに、カブトのベルトだけはちゃっかり残っている不思議。
しかも、カブトゼクターやハイパーゼクターという、もっとも重要なアイテムはなぜか都合よく消えている。
ベルトを着けただけなのに、子供天道が瓦礫を押しのけるパワーを発揮したという点については、この際不問に伏そう(どうせガタックベルトの蘇生みたいに、おかしなパワーがあるという後付設定でも付いているんだろうし)。
が、しかし、あのシーンで天道が子供天道にベルトを渡して自力脱出させる意味はまったくない。
単に、ハイパーカブトのままで瓦礫から二人を救い、その後にベルトを渡せばいいだけの話だ。
わざわざあそこで、子供天道に努力を強いる必要性がまるでない。
というより、ガタックベルトの(一回きりしかない)不思議なパワー描写をTV本編で見てない限り、あの演出は単なる不可解要素にしか見えない筈。
そんな無理を押し通すくらいなら、ハイパーカブトが直接助けた方が自然だ。
なんというか「子供天道が子供ひよりの手を握る」という場面を描きたいがため だ け に 無理な演出を押し込んだようにしか見えない。
そんな程度では、感激するどころか別な意味で泣けてくる。
さて、このラストは疑問点も多いが、それよりもっとたちの悪いものが含まれている。
それは、毎年恒例「劇場版はTV本編と繋がっているのでは?」と思わせるネタのわざとらしいバラ撒きだ。
平成ライダー劇場版は、これまですべてTV版と繋がるように見えて、実はまったく無関係のパラレルワールドの世界観だった。
アギトは時系列的にどこにも劇場版の事件が入り込めず、龍騎は神崎士郎消滅のために物語がそこで終わってしまっている(筆者はタイムベント説を否定している。詳しくはこちら)。
555は宣伝告知時点からパラレルである事が主張されていたのに、ネット上ではなぜかTV版ラストの続きだという説が流れ、剣は最終回四年後と宣伝されていて実は無関係になってしまい、響鬼は製作側の複雑な事情で接点っぽく見える部分が無意味になってしまった(いい加減めんどくさいので説明は割愛)。
これらは、いずれも「もしやTV版と繋がるのでは?」と思わせておいて肩透かしを食らわせるという、ある意味困った性質を持っていた。
もちろん、はじめから「繋がる筈がない」と思っていた人達には何の問題も感じられなかったわけだが、今回のカブトはかなり悪質だったと言えるだろう。
結論から先に言うと、劇場版はTVとはまったく繋がらない。
天道が過去に行き、昔の自分にベルトを渡したという点 だ け を見ると、TV版の「なぜ天道は最初からベルトを持っていたか」という謎の回答になるように見えて、思わず納得しそうになる。
しかしよく見ると、それ以外はTV版の描写とことごとく異なっている。
そもそもTV版では、天道とひよりは共に瓦礫に挟まれていない。※1
ひよりは瓦礫の中で両親の死を見ており、この時天道は自由に動けた。
これはかなり早い時期から回想映像として出ていたもので、初公開当日でも、劇場版ラストを見た瞬間に違いに気付く事が出来た。
瓦礫の中で天道とひよりが手を伸ばし合うというのは、オープニングにのみ出てくるイメージビジュアルに過ぎず、本編ではまったく使用されていないものだ。
※1:これを執筆後、TV版本編では日下部父に擬態したネイティブワームからベルトを受け取っているシーンがはっきりと提示された。
また、ひよりの正体がワームだったという展開になったため、もはや「隕石落下の影響で寿命が短くなってしまった」という設定は一切成立しなくなった。
TV版と同一なら、天道がハイパークロックアップで戻ったあの時点で、すでにひよりはワームでなければおかしい。
というより、ひよりという存在そのものがワームなのだから、彼女が画面に出ている時点ですでに日下部夫婦は殺されているのだ。
ワームであるひよりが病気になっていて死んでしまう、というワームとはとても思えない虚弱体質だったというなら話は別かもしれないが、わざわざそんな説明をどこかに刷り込ませるなら、素直に別世界にした方が楽だろう。
とにかくそんな訳で、あのような思わせぶりなラストを長々と描いておきながら、実はまったく接点がありませんでしたというスタイルには疑問を覚えてしまう。
「ひょっとしたら繋がっているのかもしれないな〜」程度に匂わせるならともかく、あれでは純粋なファンの多くは誤解してしまうだろう。
2006年11月現在のTV版の展開を見てまでそう思い続けている人が居るかどうかまではわからないが、何にしてもヘタなくすぐり方だったと言わざるを得ない。
というより、劇場版がTV本編とまったく無関係になるというのは、実は公開前から容易に想像できたのだ。
白倉プロデューサーは、過去何度も「ネタバレは良くない」という主旨の発言をしており、少し過敏なほどに情報隠蔽を行っている。
作品企画情報は当然の事としても、撮影スタッフやレギュラー役者にまで先の展開を教えない主義のため、役者各位が「役作り」を行えず、大変苦労させられているという話も出ているほどだ。
氏の意見は、一部当然、一部どうかと思わされるものがあるが、それについての是非はこの際どうでもいい。
とにかくそういった主義の白倉氏が、劇場版という公式映像を用いて「TV本編のネタバレに繋がるようなもの」を見せるとはとても思えない。
そして実際、過去一度としてそのような事はしていないのだ。
先行最終回という名目だった仮面ライダー龍騎劇場版にしても、実は公開前から「本当の最終回展開を読ませないためのブラフだった」という説があり、実際にそうなった(氏のこのやり方は、筆者は巧いなと心底感心させられた)。
龍騎の場合は、「ひょっとしたら繋がるかも?」というファンの願望を巧く煽り、話題を盛り上げた実に巧妙なテクニックだったのだ。
恐らく白倉氏は、ファンがこういった話題で意見を交わしまくっている事など承知の上で、議論の種を意図的に撒いているのではないかと筆者は勝手に思っている。
もちろん、裏付けはないからここを指摘されても困るが、いずれにせよ劇場版カブトにはTV版との関連を匂わせるものを含め、それをラスト付近に集約したというのは紛れもない事実だ。
さて、ではTV版との関連云々という要素をまったく排除して、本作を単独で観た場合あのラストはどうなのかという視点に立ってみよう。
これについては、筆者は「尺足らずのために充分なオープニングストーリーを描写し切れず、その結果ラストシーンとの繋がりが希薄に感じられる」ようになったと評価する。
導入部で、もっと子供天道とひよりを巡る描写がなければ、あのラストシーンはまったく活きて来ない。
結局、あれだけだと全然感銘を受けないという事だ。
もう一つ、ハイパーゼクターが大きく足を引っ張っている。
劇中のハイパーゼクターは、実はその性能説明がまったく行われていない。
「天道の最終目的がハイパーゼクターを入手する事」で、その後彼は「ハイパーゼクターで七年前に戻った」わけだから、これを掛け合わせて「ハイパーゼクターには時間移動能力があり、天道はそれを知っていた」という発想は確かに出てくるが、ではなぜハイパーゼクターに時間移動能力が必要だったかという理由付けがまったくない。
これは単に性能説明の有無の話ではなく、「天道以外に、ハイパーゼクターの時間移動能力の重要性を理解or認知している者が居なかった」という点がまずいという事だ。
ハイパーゼクターは、本編中でコーカサスが持っていた時点では「クロックアップ以上の超加速能力を付加する」以上の性能を見せていない。
にも関わらず、カブトが奪い取った途端、ハイパー化はするわ時間移動をするわと、唐突に「そんなの聞いてないよ」という能力を使いまくる。
もしこれが、TV本編でちょっとだけ時間を巻き戻したようなちまちまとした見せ方をしていれば、ラスト間際の七年分大移動にも説得力が出たし、納得も出来ただろう。
天道だけが能力を把握していればいいというわけではない。
それ以前に、視聴者に対して「これを使う事で過去に戻れる可能性がある」という事を、充分に伝えなければならない筈だ。
それがないままラストへ向かってしまうため、本作は「いきなり変身」→「いきなりタイムワープ」→「いきなり隕石ビリヤード」→「いきなり地上に降臨」という、訳のわからない展開を行ってしまう事になった。
まあ、二段変身については着ぐるみの制約などがあるから仕方ないにしても、せめてコーカサスに「実は若干時間を遡って敵を倒していた=だから相手に認知されずに勝てる」という意外性を与えられた筈。
本当に、せっかくのおいしいネタをムダにしているとしか思えない。
本来、本作のラストは過去に戻った天道が過去の自分とひよりを助け、そして自分は消滅していくが、ひょっとしたらその覚悟を初めから決めていたのではないか…という、若干の「泣かせ」を含めた演出のつもりだったのだろう。
確かに、それだけ見れば実に綺麗な締めだと思うし、それ自体を悪く言う気はしない。
しかし、そこに至るまでの流れをめちゃくちゃにした上、必要な説明も省きまくり、強引に話を進められてしまっては、感動どころか驚きすら感じられない。
逆にしらけてしまうだけだ。
本作のラストは、客観的な視点で推敲するいう行程を意図的に省いたのでは、とすら思わされるほど、酷いものになってしまった。
■まとめ:結局この映画ってどうよ?
繰り返しになるが、一言でまとめると「失敗作」。そう結論付けて支障はないだろう。
あらゆる事情はともかくとして、作品的に不充分すぎる質の悪い作品となってしまった事は否めない。
少なくとも、「この夏最強の映画」にはなれなかった。
悪い言い方をすれば「素人並の脚本と演出を、経験豊富なスタッフによってテキトーに造った」作品としか思えない。
本当はこういう言い方はしたくないが、こうとしか言い様がないほど、本作は「酷い」。
もちろん、製作側は素人どころか立派な経歴を持つプロだというのは、筆者も充分に理解している。
しかし、実際に作られたものはそんな例えを用いたくなるほどのものだったのだ。
練り込み時間が足りなかったとか、初期脚本が凄まじいほど膨大な内容だったため再構成で戸惑ったとか、二ヶ月しか制作期間がなかった上にTV版とも並行していたから仕方なかった、などという言い訳は、この際全く関係ない。
高いお金を支払って劇場まで観に行った人達が満足できるような密度の作品を作る義務が果たせなかった時点で、この映画は完全に失格である。
これは個人的な感想ではない。
そう結論付けざるをえない根拠を、ここまでに多く述べてきた。
確かに捨て難い良いシーンもあるし、上記まででまとめてきた点のいくつかは、人によって許容できるものかもしれない。
また、本来目指したかったスタイルそのものは、決して悪いものではなかったという事も理解できる。
だがしかし、構成や整合性、描写徹底が果たされていない時点で、言い訳は聞かない。
はっきり言って、これは平成ライダー劇場版最低の完成度だ。
だが、同時に。
「映画」というメディアとしては、本作ほど巧くやった作品はあまりないかな、と思わされるのも事実。
先でも少し触れたが、本作は「ファンを騙す」事については確かに最強だった。
映画とは、もともと「観る人を騙す」事が目的のメディアである。
感動するのも燃えるのも、色々考えさせられるのも、いわば広い意味で「騙された」結果だ。
何せ、作られた映像・作られた話なのだから、それは当然のことだ。
映画そのものは、興行収入を基本として様々な方面で金銭をかき集めるための材料でしかなく、その内容に惚れ込んだり思い入れたりするのは、個々の視聴者が抱く勝手な感慨に過ぎない。
これは、多少なりとも映画の歴史や裏話を勉強した者には、当然の知識だ。
素晴らしい物語を構築しようとか、豪華な映像を提供しようとか、そういう「表面的な」目的は、結局はただの上っ面に過ぎない。
興味を抱いた人間を、いかに巧く騙し、そして疑いを抱かせないか。
そういうテクニックを百何十年もかけて磨き続けてきたのが、いわゆる「映画文化」なのだ。
そしてファンは、心のどこかで「映画とは元々そういうもの」と割り切った上で、それを楽しもうとする。
実際、初見の映画を見に行く時には、心のどこかで「これは面白いだろうか、つまらないだろうか?」という不安と疑問を抱く事があるだろう。
これはいわば、無意識に「映画に(広い意味で)巧く騙される事を期待している」事なのだ。
だから騙されること=悪い事では決してなく、映画というメディアの場合、むしろ推奨されるべきなのだ。
だが、映画の騙しとは、それだけではない。
「面白い作品だ」と思わせておいて、実際は全然そんな事はなかった、しかし最初のイメージだけで立派にお金は稼いだぞ…というのも、映画の「騙し」の性格なのだ。
振り返れば、邦画・洋画でも「面白いと思ったのに実際はゲロゲロ」という話題作は沢山あるし、それ以外でも…たとえばゲームでも、似たような事は多々ある(センチメンタルグラフティとかはその最大の例だろう)。
極端な話をすれば、「面白い」と思わせてお金を稼ぐ事に成功すれば、たとえ作品自体完成しなかったとしても、それは「映画の騙し」としては成立するのだ。
もちろんこれは詐欺そのものだが、こういう事も充分にありうる(そして実際に過去何度もあった)のが、映画というメディアのもう一つの顔なのだ。
映像以外の部分にも、人を騙す材料はあるわけだ。
本作「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」も、いわばそういう「映像そのものとは別な部分で“騙し”に成功した、立派な一つの映画」だ。
TV版と少し違った世界観で活躍するライダー達、ネオゼクトという謎の組織の登場、滅びかけた地球とその救済計画、宇宙を舞台にしたライダーバトル(無重力下の戦闘)、そしてハイパーカブト初のお目見え。
公開前に耳に入った注目要素は、こんな感じだったと思う。
そして、これらにはそれなりの期待が集まった。
しかし実際は、このほとんどすべてが肩透かしに過ぎなかった。
期待に充分応えるだけの実もなく花もなく、また感心させられるだけの迫力もなく、すべてがだらだらとした気の抜けたものだった。
見事に、映画としての騙しが成功しているではないか。
という事は、やっぱり本作は紛れもない「映画」であり、映画としての成功はしているのだ。
興行収入と全体評価についてはともかくとして、と付くが。
最後に。
以下は筆者個人の思惑で、決して作品評価というわけではないのだが…
筆者は本作を見て「まるで、うまく行ってない二人羽織りだな」という印象を受けた。
個人的には、脚本の米村氏が本来やろうとしていた(と考えられる)ものは、決してそんなに悪くはなかったのではないかと思う。
「隕石によって滅びかけた地球」「仮面ライダーが宇宙空間で戦闘」などを初めとする企画のネタも、それだけなら決して悪くはない。
また、ハイパーカブトをそこに絡め、(後にTV版で活躍することになる)ハイパーゼクターのお披露目を行うという意図も、まったく無問題だ。
いつもと立位置の違うキャラクター&ライダー達が活躍する物語というのも、充分な旨味を持っている筈だ。
だが、それら「悪くない点」を受け止めて実際に形にする行程で、どこかに大きなズレが生じたような感覚もある。
二人羽織の「手」が蕎麦を「口」に持っていかず、「鼻」に持っていってしまったのに、そのまま吸い込んで食べてしまったようなズレ。
最初にこういうものにしたいと考えられた形が、誤解や無理解によってどんどん崩れ、別な形に組み上がっていくかのような違和感。
それと似たような感覚を、筆者は本作から感じてしまったのだ。
水嶋ヒロ氏のインタビュー上に書かれた「演技のスタイル」「キャラクターの作り方」についての話などは、まさにその代表例ではないか。
あのインタビューを見る限り、本作は「作品内で描こうとされている“天道総司”の姿と、水嶋ヒロ氏の思惑の間にズレがあった」事は間違いない。
当然こういう事は他作品でもよくある事ではあるが、少なくとも「新しい天道像を明確に構築し、それを水嶋氏に伝えイメージの統一を図ろうとした」様子は見受けられない。
これと同じような事が他キャラにももしあったとしたら、それは壮絶なズレへと発展していく事になるが、果たしてどうだろう?
筆者は、里中氏を見る限り「劇場版のひよりと今まで演じてきたTV版のひよりの違いを、どうやって表していいかふんぎりが付いてなかった」かのように思えて仕方ない。
まあ、これは全体のうちほんの僅かな一点ではあるけれど、そういった細かなズレが各所に散りばめられた結果、本作は結果的に大きなズレを作り出してしまったように思えてしまう。
あくまで、筆者個人が思っただけの事だが。
仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE。
隕石衝突と地球崩壊と宇宙空間戦闘と軌道エレベーターとタイムスリップと恋愛劇と…
どうやら、等身大ヒーロー作品…しかも二時間に満たない尺の中では、これらは巧く並び立つ事はできなかったようだ。
色々な事をやりたかったというのは、よくわかる。
だが、それらがすべて充分に並び立ち、引き立ち合うものであったのか、そして実際に描く事が出来たのか、そういう部分を熟考した上で製作してもらいたかったものだ。
そして、組織同士の戦いよりも。
感情移入度の低いヒロインを中心とした恋愛悲劇よりも。
タイムスリップで今までの全部なしよ大作戦よりも。
それ以前に、ヒーロー作品として、ヒーロー映画としてやるべき事をやって欲しかった。
何かを根本的に間違ったまま作ってしまった映画…それが仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE。
筆者の知人は、本作に対して「見たいと思う物をしっかり見せて欲しい」と述べていた。
筆者もそれに全面的に同意する。
「ファンが見たいと思っていた物をまったく供給できなかった」時点で、この映画に未来はなかったのだ。
※このレビューは、劇場公開当時、筆者が二回に渡って視聴してきた際に記したメモとパンフレットの記述内容を参考にしています。
また、現在某WEB上でアップされている本作の映像なども一切参考にしておりません。
そのため、一部充分な検証が出来ない部分もあり、それについてはあえて言及を避けています。
ですから、他にも「ここはもっと触れるべきだろう?」と思われるポイントがあるかもしれませんが、何卒ご容赦ください。
暗闇の中で画面を見ながらペンを走らせていると、時々本人にも読めない字が生まれたりします。
よゐこは真似しないでね(笑)。