仮面ライダーカブトの頭突き 第七回
GOD SPEED LOVE PART-1

後藤夕貴

更新日:2006年11月26日

【警告!!】

 このページには、劇場版「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」についてのネタバレ情報が大量に記載されています。
 というか、はっきり言って、深刻なネタバレのみで構成されています

 もし、まだ劇場版を見ておらず、その内容を知りたくないと考える方は、即座にこのページを閉じてください。
 このページに目を通してしまったために劇場版を楽しめなかった、などとクレームを付けられても、当方は一切の責任を負いかねますので、くれぐれもご注意ください

 というわけで、こちらはすでに劇場版を視聴された方、或いは「見に行く気は無いけど内容に興味がある」という方のみ、ご閲覧ください。

【警告終了・ここより本文】

 2006年8月5日、劇場用作品「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」が、「轟轟戦隊ボウケンジャーTHE MOVIE〜最強のプレシャス」との併映で公開された。
 今回の見所は、

 というものだった。

 いずれも注目度の高いもので、ファンの期待を盛り上げた。
 加えて、脚本がTV版メインライターである米村正二氏で、過去五年連投した井上敏樹氏とはまた違った方向の物語になるだろうという期待も生まれた。

 今回は、ファンを招いて映画の一場面に出演させる等のイベント企画はなかったものの、前評判はかなり好感触だったように記憶している。

 さてその劇場版、実際の内容はどうだったか。
 今回は、こちらについて徹底的に語ってみたいと思う。
 なお、今回は筆者の感想はラストにまとめる事として、基本的には「劇場版の特徴・ポイント」に的を絞って書いていきたい。

□ ストーリー解説はこちら

 公開期間が終了してそこそこ時間も経ったので、そろそろ劇場版について語ってみようと思う。

 劇場版「仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE(以下、本作と統一呼称)」は、ストーリー解説の通り、TV版とは異なる世界観を持つ、パラレルワールド的ストーリーだ。

 隕石衝突、ワーム出現、ZECT、仮面ライダー等と共通項は多いものの、それらが存在する世界はかなり異質なものになっていて、「滅び行く世界」というものを表現していた。
 大勢の一般人が行き来したり集まったりするシーンがなく、また多くの建造物が立ち並ぶシーンもほとんどない。
 例外的に、捻じ曲がった東京タワーを中心とした遠景シーンがあったりするが、そこには生活感がまったく感じられない。
 ひよりが入院する病院内も、他の患者や行き交う看護師などの姿はまったくなく、医師すらも最小限(というかたった一人)しか出てこない。
 加えて、ZECT施設の周囲が砂漠化していたり、本部(かどうかは断定できないが、陸や三島が居るため便宜上そう呼称する)はどこか浮世離れした造りになっていたりと、とかく日常感が欠如している。
 一般人が登場するシーンは、せいぜい冒頭の給水車シーンや、ビストロ・ラ・サルの客達のシーンくらいで、それ以外はほとんど印象に残らない。
 本編中特に明確な描写はないが、海がすべて涸れ果てるほどのダメージを受けたからには、恐らく人口も大幅に減っているのではないかと想像できる。
 そんな連想をさせるような世界観がベースになっているため、本作は、全体的にどことなくゴーストタウン的な雰囲気が漂っている。
 この寒々としたイメージの構築は、文句なしに成功しているといえるだろう。

 本作は、(詳しくは後述するが)TV版のようなライダー対ワームという構造ではなく、ZECT対ネオゼクトの抗争が中心となっている。
 そのせいか、一般的な被害や生存者達の生活描写にほとんど尺を割く必要がない、という理由もあるのかもしれない。
 「何か大切なものが崩壊してしまった」舞台というと、真っ先に思いつくのが「仮面ライダー555 パラダイスロスト」の“オルフェノクに支配されてしまった世界”だが、本作はあれとはまた違った独特の味わいを発揮している。
 一風変わった生活感を持つパラダイスロストに対し、本作が感じさせるのはひたすら「殺伐感」。
 このままではいずれ人類は滅んでしまうのだろう、と感じさせることは、充分成功していると思われる。

 劇場版新ライダー三人をそれぞれ別な位置付けに配したというのは、画期的なアイデアだった。
 またTV版登場ライダーをばらばらにして、新ライダーと組み合わせて別チーム? 編成にしたのも面白い。
 便宜上ドレイクとカブトが組んで、ザビーやガタックらと対立するなどという図式は、TV版ではまずお目にかかれない。
 新ライダーのケタロス、ヘラクスはそれぞれZECT側・ネオゼクト側の行動隊長的位置付けに配し、既存ライダーがその下に付いて行動するというのも、目先が変わって新鮮さを覚える。
 結果的に、TV版同様カブトとガタックが手を組む事にはなるが、この配置はザビーやドレイク、ガタック等を「いつもと同じ筈なのに、いつもと違う存在」に思わせる効果を発揮した。
 単にパラレルワールドだからいつもと違う、というだけでなく、その行動や言動からもTV版と違う存在なのだという事をアピールしている。
 この辺は、本当に巧い。

 「典型的な悪役」然としていて、第一印象通りの立ち位置を最期までキープしていた大和鉄騎・ケタロスは、これまでの劇場版ライダーの中でも、かなり特異な存在だろう。
 何より、変身前の人がおヒゲ付きというのが珍しい(笑)。
 単なる悪役ではなく、織田に向かっていきなり土下座したり、かと思うといきなり攻撃的になったり、裏側で策をはべらしていたりと怪しさ爆発の名演技だったが、まるで彼の立ち回り方は、本作内のZECTそのものを示しているかのようでもあった。
 人を欺き、裏側で複雑な策を弄し工夫の仲、その信念は揺るがない。
 まさに、ZECT隊員の鑑ではないか。
 かといって、憎むべき存在とか禍々しいほどの邪悪な存在ではなく、あくまで「悪人」という範疇を逸脱していないところもリアルだ。
 大和は、「仮面ライダー龍騎」の浅倉威のように“根底から何かが狂ってしまっている極悪人”の域には達していないのだ。
 しかし、だからこそ独特の味わいがある。
 軌道エレベーター最頂部で天道と対峙した時の獲物を見つけた野獣のような態度は、素晴らしい悪役っぷりだ。
 残念ながら、その散り方はライダーバトルの敗北ではなく、ほとんど事故に近いものだったが、断末魔の「我が魂は、ZECTと在りぃぃぃぃぃぃぃ!」という台詞は、大和鉄騎というキャラクターがどういうスタンスの基に存在したかを、これ以上ないほど明確に示したものだったと思う。
 それにしても、あんな所まで落っこちて良く生きてられたなあ。
 さすがは鉄っちゃん、鍛えてるなあ。

 ラスボスに相当するコーカサスも、予想外の存在感を発揮していて、実に見応えがあった。
 ドラマや映画等の出演経験を持たないK1格闘家の武蔵氏が、なぜキャスティングされたのか、果たしてどこまで演技が出来るというのかとファンは当初とても心配したが、これらはほとんど杞憂に終わったと言っていいだろう。
 というか、予想を遥かに上回る好演だった。

 人間体・黒崎一誠の登場シーンを短くして、武蔵氏自身の身体演技をほぼ格闘戦のみに絞り、本職故の切れ味と説得力のある殺陣を見せ付ける。
 加えて、重要な会話シーンはすべて変身後(演技はすべてスーツアクターの岡元次郎氏が担当)に限定する事で、武蔵氏の演技の粗が目立たないように工夫しているわけだ。
 勿論、演技にうるさいファンはそんな工夫の中でも武蔵氏の演技の粗を指摘していたが、これだけやっていれば充分及第点以上の評価が出来るだろう。
 さらに、武蔵氏の台詞を「ですます調&キザな台詞回し」にするという意外な処置により、(演技力を求められる)感情起伏の表現を抑えたのも見事。
 あえて武蔵氏のイメージとはかけ離れたタイプのキャラにする事で、短時間で個性を発揮させたのも見逃せない。
 もし、コーカサス役がいつもの平成ライダーのようなイケメン俳優だったら、全然注目に値しなかったかもしれない。
 武蔵氏が、あの顔で(失礼!)「私の薔薇に彩りを加えましょう。裏切り者の赤い血と、屈辱の涙を」などと呟くからこそ、旨味が映えるのだ。

 ちなみに、コーカサスの変身ポーズ(踏み込み打ちから構えに移行する、過去のライダーになかった斬新なポーズ)は、武蔵氏考案のものだという。
 試しに覚えてみようかなと思ったが、あれはそれなりの体格と格闘技の動きの基礎、踏み込みの強さがあってこそ初めて様になる高難度のものだと判断し、筆者は素直に諦めた(笑)。
 いやでも、あの「過去のシリーズにとらわれていない」変身ポーズは、本当に画期的。
 締めに念動力を使う所なんか特に(違)。

 コーカサスのハイパークロックアップによる戦闘描写も、かなり衝撃的なものだった。
 今までTV版であったような、超高速戦闘を第三者(非加速)視点で見ているものとは根本的に違い、まるで「戦闘時間を不自然に削り取った」ような…不自然に繋がった編集フィルムのような「瞬間決着」は、背筋がぞっとするようだ。
 これは、戦う前からすでに負けているという訳のわからない表現を、一発で理解させる説得力があった。
 哀れヘラクスは、コーカサスの圧倒的強さを誇示するための生贄となってしまったわけだが、直前でザビー打倒を果たしているので、単なるやられ役専門に徹していないのは巧い。
 これまでTV版で何度も繰り返された「超高速戦闘」に見慣れたファンの中にも、あれには驚かされたという方はおられるのではないだろうか。
 また、クロックアップ中である筈のカブトとガタックが、スローモーションで宙に投げ出されるという映像も衝撃的だった。
 しかも、その気になれば浮いている二人に追撃を叩き込む事も出来るはずなのに、あえて悠々と立ち尽くしているコーカサスの姿が、不気味極まりなくて実に良い。
 カブトを上回る、必要最低限の動きで相手を屠るようなスタイルが感じられ、本作の中でもかなりの見所になっていると思われる。
 これは、岡元氏の「ただつっ立っているだけなのに殺気を漂わせる」という独特の演技も加わって成り立っている、絶妙の演出だろう。
 
 とにかく、あんなに後から登場して来たのによくぞここまで存在感を示したと、素直に褒め称えたい。
 まあ、あの強さも「ハイパーゼクターあってこそなんじゃないの?」と言われると、明確な反論ができなくなってしまうのが厳しいところだが…
 でもまあ、それはそれでハイパーゼクターの能力のとんでもなさをアピールできたとも解釈できるわけで。

 どうやら、ネット上のコーカサスの評価はあまり良くないように感じられるが、筆者は充分高評価に値すると思っている。

 TV本編と立ち位置が変わってしまった、天道・加賀美についてはどうか。
 この辺については後にまた別視点で触れるが、少なくとも「いつもと違う雰囲気の世界で活躍する、いつもとちょっと違ったキャラクター達」というイメージ作りには成功している。

 まずは、天道。
 常に冷静、どんな時でも一貫した態度を崩さない(最近やや例外があるが)独自のスタイルは、この劇場版では微妙に変質している。
 おおまかなスタイルはそのままだが、ときには叫び、ときには泣く。
 怒りに震える時もあるかと思えば、とても優しい笑顔を見せたりもする。
 基本にTV版ありきとはいえ、とても感情豊かで熱い男になった。
 特に、ひよりを襲ったワームと戦う時の、熱すぎるカブトは必見だ。
 まるでガタックのような叫び声で放つライダーキックは、新鮮な感動がある。
 筆者は、このシーンちょっと目からウロコだった。

 個人的に好きなのは、病室で眠るひよりの手を取ろうとして止めてしまうシーン。
 滅多に見られない(少なくともそこまでのTV版では見られなかった)、心の葛藤が透けて見える。
 天道がひよりの手を取るという行為が意味するものは、複雑で一概には言い切れない。
 少なくとも、あの場面での天道は自分とひよりの繋がりを明確にすることの残酷さを、嫌というほど理解していたのではないか。

 次に、加賀美。
 相変わらずムダに熱い男だが、今回はあまり熱さを感じさせず、むしろ「内面の暖かさ」をアピールしていたように感じる。
 これはひよりとの関係の事だが、不器用かつ応用が利かない「みっともない男」っぷり表現と、ひよりに対する想いの強さの両立はしっかり果たされていた。
 実に良い「情けない男」っぷりを表現している。
 しかし、そんな彼もZECTという組織下においてはTV版以上にしっかりとした「歯車」として機能しており、そのギャップがなかなか良い味を出している。
 ひよりに接するただ一人の男としては不器用、しかし組織下では命令を忠実に遂行する。
 この描き分けが明確であったため、加賀美は、もっとも良い意味でTV版との違いが見えていたように思う。
 もちろん、最終戦闘に至る決意の強さと、カブトと共闘する流れの「燃え」はTV版同様ファンの期待に応えるものになっており、益々そのギャップが旨味を発揮する。
 病院での天道との会話の後、一気に敵陣に向かって駆けて行く流れは、大変に小気味良い。
 あのシーンで燃えた人も多いかもしれない。
 筆者は、天道に対する「お前の戦いは、俺の戦いだ!」という台詞がとても気に入っている。

 また対コーカサス編で、身を張ってコーカサスのライダーキックを止めたのも凄い!
 キック止めはその後TV本編でもやっているが、本作ではカブトを助けるためという「これ以上わかりやすいものはない」くらいの見せ場であり、結局一度もライダーキックやライダーカッティングを出さず仕舞いだったマイナスを補うのに充分過ぎる旨味だ。
 またハイパーカブト登場後は、カブトと相対比較される事なくステーション退出となったため、「キックを止めてカブトを守った&逆転のチャンスを作った」という点が損なわれる事がなかったというのも巧い。

 そういえば、サルのマスターがなかなか面白い使われ方をしていた所にも、注目したい。

 ひより死亡間際のシーン、ベッドを囲む天道と加賀美は病室に差し込む光に照らされ、本人達は悲しそうな顔をせず必死でひよりを見つめているのだが、窓から少し離れた位置に居るマスターは、光の当たらない暗い場所で顔を手で覆い泣いているのだ。
 一つの部屋・一つの画面の中にはっきりとした明暗を設け、その中で「隠された悲しみ」と「隠されない悲しみ」を両方同時に描いたのだ。

 この絵作りには、驚嘆させられた。

 サルのマスターは本編中ほとんど出番がなかったが、こういう所で巧く使われていたので大変印象深い。
 あのメンバーの中で、はっきりとした「泣き」を見せる事が出来るのは彼女しかいないため、ああいう使い方をされたのではないかと推測する。
 だからこの後、ひよりが死んでしまい室内の全員が悲しみ泣いた時点で、マスターの出番はなくなる。
 さりげない所で凝った演出をしているなと、心底感心させられた場面だった。

 このように、細かい場面で面白い事をやっているのも、本作の特徴だ。

 例えば冒頭のZECT対ネオゼクトライダー混戦、ザビー達のキャストオフで飛来するマスクドアーマーを、同じくキャストオフで弾いて防御したり、天道が手の中からカブトゼクターを落として直接ベルトに合体させたり。
 このように、アクセント的にいつもと違う事をするのは、個人的に大賛成したい。
 特にキャストオフは、TV版ではその時によって攻撃力があったりなかったりとしょっちゅう変わるので、きちんと「硬いものが高速でふっ飛んでる」というイメージを大事に扱ってくれるのは嬉しい。

 舞台背景はどうだろう。
 ZECTの軌道エレベーター施設。
 これは合成とは思えないほどの存在感を発揮していて、絵作りとイメージ作りに成功している。
 撮影時にどんなロケ地を選んだのかとても興味深いが、とにかく「バカデカい秘密施設」というイメージはふんだんに発揮されており、また要塞としての独特の不気味さも感じさせていた。
 後述するが、軌道エレベーターそのものの最頂部セットや外観はちょっと作りこみが甘い感もあったが、地上施設部分は立派なバトルステージとして機能していたと思われる。
 こういう無闇にデカい大要塞っぽい物に突入していくヒーローって図式は、やっぱり燃えるものがある。

 本作は、色々なところで普段と違う試みを行い、独特の味わいを作る事に成功している。
 また、TV版であまり良い評価を得ていない「料理ネタ」も最小限に留められているのも良い。
 TV版と一見同じように見えて、それでいて大きく違う「心地よい違和感」。
 それを大切にしながら、見慣れている(筈の)ライダー達の活躍を観る。
 こういうスタイルは、しっかり構築されていたといえる。
 細かいとはいえ、それなりに多くの見せ場も用意されているし、TV版を知っていればいるほど、普段との違いが面白く見える。

 TV版と微妙に違う作品観というのは、過去のすべての平成ライダー映画にあった事だが、今回はそれの集成体的なものなのかもしれない。
 そういう意味では、TV版の材料をうまく流用した作品であると評価できる。

 さて。

 ではこの劇場版、完成度の高い傑作だったのかというと、残念ながらYESとは言えない
 というより、むしろ「失敗作」の烙印を押されても仕方ないほど、出来は悪い。

 ぶっちゃければ、悪いどころか「酷い」というレベルだ。
 なぜそうなのか、ポイントごとに見てみよう。

 劇場版カブトの問題点は、大きく分けて以下が挙げられる。


 上記は「劇場版はTV版の設定を知っておかなければならない」「適度或いは過度の編集・削除が行われている可能性がある」という、過去にもあった大前提を踏まえた上での指摘だ。
 つまりは、これすべて劇場版単体で内包している問題点という事になる。

●なぜ主軸がZECT対ネオゼクトなのか

 本作最大の疑問は、「なぜライダー対ワームではないのか」という点だ。
 本作内でのワームの扱いの疑問については後述するとして、ここでは組織同士の対立を中心に持ってきたための問題点を指摘していこう。

 ネオゼクトの構成は、織田と風間のライダー二人、そして北斗と天道、さらに劇場版オリジナルペイントを施されたゼクトルーパー(以下ネオゼクトルーパーと仮呼称)数十?名だけだ。
 このネオゼクトルーパー隊員には個性がまったく描写されておらず、それどころかマスクを外しすらしない。
 中身がロボットだったとしても通用するくらい、徹底した没個性だ。
 まして、織田や天道達による重要な会話シーンではほとんど出てこないし、居たとしても同じ空間内にただ突っ立っているだけの「背景の一部」だ。
 そのためネオゼクトは、まるでたった4人だけのようにしか感じられない。
 冒頭、大和率いるZECTの追っ手に追い詰められるシーンでは、ネオゼクトルーパーは一人も居ない。
 織田達三人が、大和達&正規ゼクトルーパー軍団に取り囲まれる図式だ。
 これでは、ネオゼクトは離反組織というより「単なるひねくれ者の集まり」にしか見えない。
 まして、彼等が離反した理由が「規律に縛られたZECTに居続けたくない、もっと自由でいたい」という、なんじゃそりゃ的な情けないもの。
 これでは、そりゃ単なる反抗期だろ、としか言えなくなってしまう。
 
 もっとまずいのは、冒頭でネオゼクトの最終目的が明確に示されていないという事だ。
 せいぜいZECTに反発し、殲滅してしまおうという程度に過ぎず、ネオゼクトとしてわざわざ独立した理由がそれ以外見当たらないのだ。
 しかも、ZECTの方が全てにおいてネオゼクトを圧倒的に上回っているというイメージ描写が早いうちに多く出てきてしまうので、益々ネオゼクトの活動は「無謀」にしか思えなくなってしまう。
 これではまるで、「仮面ライダー555パラダイスロスト」に出てきた人間解放軍みたいだが、規模はあれより遥かに小さい(ように感じられる)。
 もちろん、最初からそういう位置付けの離反組織だという事をしっかりアピールしておけば良かったのだが、残念ながらそのための尺は割かれていなかった。

 ネオゼクトには、例えばワーム殲滅作戦遂行において、ZECTとワームの癒着に気付き、そのために離反して純粋なワーム殲滅組織を作るとか、或いは天空の梯子計画に匹敵する別の救済計画、或いはこれと競合してしまう別な作戦遂行を計画しているとか、そういったバックボーンがあれば良かったのだ。
 その辺の描写がしっかりしていれば、別に少人数での離反だったとしても一応筋は通るし、説得力は出る。
 そして、天道が(実際の意図はともかくとして)協力する流れも自然になるだろう。
 そういう肝心な部分をオミットした上で、ただ単に抗う連中としか描かないものだから、色々とおかしくなる。
  
 もっとも、そんな連中でもライダーシステムを持ち出してしまった以上、大和達が復帰を求めたり打倒しようと考えるのは、一応理屈が通る。
 しかし、こんな志の低い箸にも棒にもかからないような奴等を躍起になって殲滅しようとするZECTも、奇妙極まりない行動理念だとしか感じられないのが痛い。
 まして、これが物語の実質的な主題となってしまっているのだから、なおさら始末が悪い。
 放っておいても全然支障なさそうなザコ数人相手に、わざわざスパイを潜り込ませて内部崩壊を狙う矢車や、力でねじ伏せようとする大和。
 それ以前にやるべき事があるんじゃないか、という気すらしてしまう。

 まして、この上天道までも「ネオゼクトを潰す」と言い始めるものだから、益々わからない。
 彼の本当の主目的はハイパーゼクターを手に入れる事で、目指すべきはこれを持つコーカサスの所属するZECTの筈なのだが、なぜかネオゼクトに身を売り、なぜかZECTに対立し、そしてなぜかその後にZECTに抗う。
 天道は、ネオゼクトを潰す或いはそう主張する事で、どういう行動を見出そうとしていたのか?
 これが劇中で明確に語られる事は、ない。

 そもそも、組織間抗争と天空の梯子計画、(後述する)ひよりの恋愛悲劇、そして天道の本当の目的という重要な骨子が、すべて全然繋がりを持っていないのもまずい。

 ネオゼクトが天空の梯子計画を奪取しようとするのも、元々は裏切り者である北斗の提案であり、織田や風間、天道が提案したものではない。
 その北斗自身、ネオゼクトルーパーを直接指揮して風間(ドレイク)を射殺できるほどならば、別に無理に軌道エレベーター施設まで誘導する展開にしなくてもいい筈だ。
 いつもの廃工場風のアジトで、不意打ちでいきなり銃撃すれば事足りる。
 所詮、天道という存在を除けば、ネオゼクトなどもともと「吹けば飛ぶ存在」でしかない筈なのだ。
 ひより死亡劇が展開する頃、すでに劇中では、ネオゼクトの存在意義は完全に消滅している
 居たか居なかったか、それ自体どうでもよくなってしまっているほどだ。

 ネオゼクトが果たした事は、単に「ライダーの頭数を減らした」のと「コーカサスの力の一端を見る機会を作った」だけであり、それ以外の何物でもない。
 これでは、いなくても全然支障がないと思われても仕方ないだろう。

 というか、劇場版限定ライダーが三人じゃなくて二人だったら、本当にネオゼクトなんてものを作る必要がなかったのでは? 

 どうも、これは「天道が対立する二大組織間で揺れ動く」という構図を先に考案し、ただその条件を満たすためだけにでっち上げられたような気さえする。
 そうでなければ、ネオゼクトという「使い方によってはメチャクチャおいしい存在」をここまでお粗末に扱う事もないだろう。

 このような、どこか違うズレみたいなのがやたらと目立つのが、本作の特徴だ。

●SF作品としての必然性の欠如

 まず先に述べておくが、「仮面ライダーの映画をSF作品として扱うのは無意味では?」という意見は、論外だと言わせていただく。

 近年、SF作品=高尚な設定と作り込みによるハイレベルな作品というイメージを抱かれている方達が多いように感じられるが、それは間違いだ。
 一言にSF作品と言っても様々な種類があり、決してすべてにおいてハイレベルであるという必要性はない。
 複雑丁寧な設定と整合性、物語の練り込み、高度な科学考証(現実の科学を基にして考慮された現実的な設定基準)やSF考証(科学的には大間違いでも、その作品内ではまかり通る筋の通った設定基準)がふんだんに盛り込まれた作品も確かにあるが、SFとは「サイエンスフィクション」、つまりは単なる「空想科学の物語」の意なのだ。
 ウルトラマンだって立派なSFだし、特撮ヒーロー物のほとんどはSFとカテゴライズしても間違いではない。
 宇宙が舞台=SFというわけでもないから、たとえ地球から一歩も外に出なくても、空想科学作品ならなんでもSFなのだ。
 ぶっちゃけ、「ロボット8ちゃん」や「もりもりぼっくん」のような不思議コメディーシリーズや、「魔弾戦記リュウケンドー」のような“ご町内魔法バトル”だって、SFと呼んでも一応嘘にはならない(もっと別なカテゴライズの方がしっくり来るとは思うが)。
 だから、たとえ地球が舞台でも、異世界が舞台でも科学的な要素がほとんどなくても、「こんな事ありえないけどあったらすごい・面白い」的ノリを持っている非現実的シチュエーションの作品は、一応すべてSFとカテゴライズできるのだ。

 無論、その中でさらにジャンルは細分化されているわけだが、少なくとも「人間が強化装甲をまとって宇宙空間でバトル、敵は宇宙からやって来たエイリアン」というベースを持った本作が、SF作品でないなどとは言えない。
 どう見てもSFだし、むしろ否定する事の方が難儀だ。

 そしてSFである以上、ある程度守ってもらわなければならないお約束というものがある。

 これは、決して厳密な設定・考証付加という事ではなく、もっと単純。
 たとえば「宇宙空間は無重力」だとか「空気はないよ」とか、「お月様にはクレーターが一杯あるよ」とか「大気圏突入すると熱くて死ぬぜぇ」とか、そんな程度のもの。
 小学生でも知っているような、ごく常識的な知識と、そこから少しだけ発展させたものだ。
 これらも立派な科学考証なのだが、それはともかく。
 本作は、そういった「誰もが知ってて当たり前」程度のお約束すらも、豪快に無視してトンデモな事をやっているのだ。

 まず、劇場公開前から指摘されていた「ケタロスとカブトが、宇宙ステーションの外でまるで重力下のように戦闘している」というシーン。
 これは、SF作品であるなし以前に、大爆笑モノのバカ映像になってしまっている。

 これを丁寧に説明するためには膨大な表記が必要になるが、思いっきり要約すると「地球の重力と遠心力が完全に釣り合っている静止軌道上に建造された宇宙ステーション周囲は無重力なので、足を地に付けるような動きは絶対に不可能」なのだ。
 いうまでもなく、クロックアップによる補助もまったく関係がない。
 加速・時間制御は、重力制御に影響されないからだ。

 仮に宇宙ステーション内部には「よくわからんけど人工重力発生装置がある」ものだと仮定したとしても、このシチュエーションは成立しない。
 「ステーションの外側にまで重力影響を及ぼしかねないほど強力なシステム」を搭載してしまうと、そもそも軌道エレベーター自体存在が成り立たなくなる可能性もある。
 また、本作の宇宙ステーションは静止軌道上ではなく、それより内側ないしは外側に建造されているという仮説も成り立たない。
 軌道エレベーターとは、てっとり早く表現をすると「地球側に極端に長い静止衛星」なので、もし静止軌道上になかった場合、地球の重力に引っ張られてしまい、そのまま丸ごと地表に落下してしまうのだ。
 当然軌道エレベーターも倒れ、勇者警察ジェイデッカーの「大倒壊」的展開になってしまう。
 静止軌道の外側にあった場合、今度は地球の自転によって発生した遠心力に引っ張られて外に放り出される。
 もちろん、ケタロスもカブトもフライアウェイだ。
 無重力下での推進機能を持っていない二体は、自力では二度と地球に戻れなくなってしまう。
 このような事になってしまうので、重力と遠心力が均等になっている静止軌道上に衛星やステーションを配しなければならないわけだ。

 とにかく、そんな微妙な…言い換えれば「もっとも相応しくない場所」で、彼等は格闘戦をやってのけた。

 これは、宇宙空間での遠距離戦闘で実弾やミサイルを使用する以上にバカげている演出だ。
 軌道エレベーターがきちんと機能しており、さらにこれとステーションが連結している以上、ZECTの宇宙ステーションは「静止軌道上にある」以外に考える事は不可能なのだ。
 そんな所で足を付けた格闘戦を行うのは、相当なムチャだとご理解いただけると思う。
 仮にあの格闘シーンに粗がない、とするなら、今度はそれを証明するためだけにあらゆる常識観念や舞台設定等を大きく変えていかなければならない。
 また、磁力などで壁面に吸着している可能性なども一応考えられそうだが、もしそうだとしても、宇宙ステーションの外壁が磁石にくっつくような材質で出来ているのか、というツッコミも発生してしまう。
 
 とにかく、どうやってもケタロスとカブトの戦闘シーンは、フォローが効かないのだ。
 これでは、失笑されたり馬鹿にされても仕方がない。
 「誰が見てもおかしい」と感じる部分なのだから、この演出の難点をフォローするためにわざわざ言い訳を講じる意味は、まったくない。
 あえてフォローするなら、「重力無重力まったく度外視の特殊フィールドを強引に形成し、その中にわざわざケンカ相手も招き入れてからバトルしている」とか、かなりムチャクチャな発想に頼らなければならない筈だ。
 あ、でもその後、あいつら地球に落下してるんだっけ。
 じゃあこれも成り立たないわけか。

 そういえば、あの落下シーンでカブトを追いかけたカブトエクステンダーは、やっぱり自力でステーションの壁ぶち抜いて来たのかなあ。
 穴だらけだな、ステーション(笑)。

 もっとも、これには作劇上の都合が大きく関係している事も、一応理解は出来る。
 本編全体を見回した限り、ケタロスとカブトの戦闘シーンが入る場面がここしかなかったのでは、という解釈も出来るからだ。
 これは筆者の想像だが、話の都合上ケタロスとカブトの戦闘シーンを入れるタイミングが限定されちゃうから、せっかくだし宇宙を舞台にした派手なバトルにしちゃおうと考えたのではなかろうか。
 事実、あのシーンはしょっちゅう宣伝スチールに使用されており、いかにも見せ場という感じでアピールしていた。
 製作側(或いは宣伝側)としては、やはりあのシーンを売りにしたかったのだ。
 だがその結果、益々笑われる事になってしまったのは皮肉なことだ。

 目玉である筈のライダーバトルシーンの一つがこんな奇怪なシーンになってしまったのは、個人的にはとても残念だ。
 盛り上がるよりも先にツッコミが先行してしまっては、どんな迫力ある殺陣も薄ボケてしまうから。

 第一、宇宙空間での格闘なんて、単に相手を遠くに飛ばせばそれで決着がつくものなのだ。
 カブトが宇宙ステーションを背後にして、ケタロスを指で突けば、もうそれ以上何もする必要はない。
 推進力のないケタロスは、ゆっくりゆっくり加速をつけて遠ざかっていく。
 地球側宇宙側どちらに飛ばされても、死亡確定。
 たとえ相手がライダーじゃなくても、仮に宇宙服を着た幼稚園児だとしてもケタロスを押す事さえ出来ればそれだけで負けてしまう。
 宇宙の暗黒大魔王などに助けられて新たな命でも授からない限り、絶対に助からない。
 もちろんカブトも反動を受けるが、ステーションにぶつかって大きな移動はしなくて済む。
 指先一つで決着が着くものの、北斗の拳の何万分の一も迫力がないバトルの成立だ!(笑)
 無論、こんな事本当にやられたらものすご〜くつまんない画面になるのは判り切っているが、つまりこれは「だったらわざわざ宇宙空間で格闘バトルなんかさせるんじゃないよ」という一言のツッコミで制されてしまう程度のものに過ぎなかったわけだ。

 だがこのシーンの問題そのものは、本当はそんなに大きくない。
 本作には、他にもっと致命的な箇所があるから。

 B級映画好きにとって、こういう「製作側は本気で作ったのに、微妙に外してしまっているシーン」というものは逆に旨味になるので、立派な需要が成り立つ。
 その場合、こういったシーンに見え隠れしている「スタッフの無理解・掘り下げの浅さ・いい加減さ」は、最高のスパイスになる。
 だから筆者は、このシーン自体を不要だとは思わないし、粗だから叩かれるべきだなどと声高に主張する気はない。
 むしろ、本作にとって重要な旨味を内包する大事なシーンの一つだと信じている(笑)。

 そんなマヌケ極まりないカブト対ケタロスシーンにも、唯一真面目に感心した描写がある。 
 それは、カブト対ケタロス戦の「ステーションの外に吸い出されたのに、クロックアップした途端吸引が止まった」という演出だ。
 これは、ちょっとした感動を覚えた。

 恐らくこの理屈は、クロックアップを利用してステーション内部から宇宙空間へ排出される大量の空気の流れから逃れた、ということなのだろう。
 その後の二人の戦闘シーンの間も、ステーションからは空気が流出し続けているかもしれない(常識的に考えれば隔壁が降りてるとは思うけど)。
 しかし、時間流から逸脱した状態の両者には、もはや空気流は関係なくなる。
(厳密に言えば流動エネルギーは生き続けているのでそんな事はありえないのだが、これ以上突っ込むのはいくらなんでもヤボだろう)。
 ならば確かに、空気に押し飛ばされる事もなく、戦闘に入れるわけだ。
 なるほど、こういう嘘なら大歓迎だ。
 というより、これこそが「SF考証(普通に考えれば嘘なんだけど、作品内ではまかり通る常識)」ではないか。
 こういった小粋な演出がもっとふんだんに散りばめられていたなら、カブト対ケタロスのシーンは、真面目な意味でもっと格段に良くなっただろうに。
 それが大変残念でならない。

 軌道エレベーターについては、もう一つ別な問題描写がある。
 それは、加賀美と大和の移動シーンだ。
 あ、決して「後追いの天道の方が先に到着した(しかもエレベーター未使用で)」というツッコミではない。
 むしろあれは「さすが天道(笑)」と、笑うべきところなのではないかと考える。
 もちろん、理屈で考えたら立派におかしい所ではあるのだが、これはそれよりもっと大きな問題だし。

 疑問なのは、エレベーターで上昇する二人が「宇宙服らしき物をまとっているのに、ヘルメットがない」「移動中、超加速で苦しんでいる」「エレベーターの起動スイッチがゴンドラ内部にあり、しかも移動者自身が直接操作できない」「ゴンドラ内部のセットがチャチい(それは違)」などの、細かい粗が山程ある事だ。

 確かに、この場面は軌道エレベーターたるべき必須条件のすべてを満たす必要性も義務もないのだが、それを無視しても無理が多すぎる。
 軌道エレベーターの概念の一つに、常時加速1Gという比較的安全な速度負担に抑えたまま移動が可能となる、というものがある。
 その点からすると、加賀美や大和が苦しむほどの加速を誇るあのゴンドラは、大変サディスティックな構造なのだろう。
 それはともかく、ではなぜそんな大きなGを負荷してしまうゴンドラへの搭乗者に、マスクやヘルメットなしという恐ろしい条件を与えるのか。
 訓練の有無に関係なく、あれでは窒息してしまう。
 映像的な理由として、恐らく役者の顔を見せる必要があったのだろうが、それならば顔部分が大きな透明フードに囲まれたヘルメットを装着させればいいだけの話だ。
 ヘルメットを取り除く必要性は何もない。

 個人的には、ここでゼクトルーパーの装備で臨んで欲しかったのだが…いやなんとなく。
 それだったら、「へー、ゼクトルーパーの装備が役に立つ事もあるのか」と思えたりするかなーって…いや単なる妄想ね、これは。

 少々ヤボなツッコミだが、軌道エレベーターが日本に設置されているというのもかなり困った設定であるという事も、念の為付け加えておこう。
 軌道エレベーターの建造ポイントは、本来赤道上に定める事が望ましい。
 なぜかというと、そうする事で静止軌道と陸地の角度のずれが理想的に解消されるためだ。
 赤道上であれば、軌道エレベーターはほぼ垂直を維持できる。
 つまり、軌道エレベーター全体にかかる重力負担は最小限に留まり、耐久度的にもありがたい。
 直立させた一本の棒を、垂直方向から押してもまず折れる事はない。
 この理屈になるわけだ。

 ところが、建設ポイントが北半球側や南半球側にずれてしまうと、静止軌道に対して軌道エレベーターは垂直になれず、角度がついてしまう。
 北極・南極に近づくほど傾きは大きくなる。
 そうなると、軌道エレベーターの大部分に重力の負担がかかり、折れやすくなってしまう。
 先の例に挙げた棒も、横から力を加えれば容易に折れる。
 そして、折れてしまった軌道エレベーターは凄まじい質量と加速度を持って地表または海面に激突するため、地上はシャレにならない大被害を蒙る。
 先の例で挙げたジェイデッカーの「大倒壊」で、倒れてくる軌道エレベーターに均等にブースターユニットを設置してわざわざ逆噴射させて接地(正しくは着水)させる必要があったのは、このためだ。
 仮に渋谷で軌道エレベーター倒壊が起こったとしたら、その破壊規模はTV版の隕石被害どころの騒ぎじゃ済まない。
 このように、軌道エレベーターの描写はかなり扱いが難しいものなのだ。

 軌道エレベーターは過去いくつもの作品で登場したが、聞く所によると、実写作品で登場したのは本作が世界初なのだそうな。
 本当にそうなのか裏づけを取っていないので断定は避けるにしても、どちらにしろあまり実写作品で用いられない要素である事は、間違いない。

 なぜか?
 ここまで読んでくださった賢明な閲覧者様ならピンと来るだろうと思うが、それだけ作品内での扱いが難しい=気軽に登場させられないからだ。

 軌道エレベーターを出すとなると、(本来なら)その舞台は赤道上に限定されてしまい、結果、物語や演出、登場人物の行動に大きな影響を与えかねない。
 これはすなわち、まず軌道エレベーターありきで物語を構築しないとならなくなってしまう事を意味する。
 先のジェイデッカーの時も、勇者警察の面々はいちいち船で現地まで輸送され、作戦行動に失敗したビルドチームも、一度船で帰国&再渡航しているほどだ。
 この時のタイムラグがジェイデッカーのピンチを煽る展開となるほどで、軌道エレベーターの描写の難しさを垣間見せていた。

 まあ、とはいえ「本作に軌道エレベーターは出すべきではなかった」などと暴言を吐く気は、筆者にはない。
 ただ、出すなら出すでもう少しどういう物なのかという事を調べ、理解を得た上で、そういう物があってもおかしくないと感じさせてくれるような「嘘」をついて欲しかったわけだ

 日本に軌道エレベーターという大嘘は前提として容認するとして、その後の描写がいい加減だとすると、結局軌道エレベーター全体に対する無知さが露見する(ような印象を与えてしまう)。
 こういう、最低限のこだわりすらも放棄したかのようなイメージを漂わせてしまった事が、本作の問題点の一つなわけだ。
 嘘をつくために必要なリアリティを盛り込まなさ過ぎた、とも言えるかもしれない。

 まーでも、たかがカブトクナイガンの銃弾で簡単に穴が開く外壁とか、隔壁と人間の移動通路が共用とか、どう考えても「内気圧で風船状態になるだろう」としか思えないエレベーター到着ポイントとか、軌道エレベーターの描写以前の難点も山ほど抱えているわけだから、今更って感もなくはないが…

●世界観の不徹底

 これは「水のない世界」という本作最大の特徴をまったく活かし切れていないどころか、逆に足枷にしてしまったという製作側の力不足露見を指摘する問題だ。

 海が涸れ、水がなく、配給車に住民が群がるような世界であるにも関わらずレストランが営業していて、しかもそこにはごく普通に一般客が訪れる。
 川(水面まで映ってる)と橋をバックに天道が釣竿を担いで歩き、その手の中には氷に乗せられた鯖(海魚)が
 ビストロ・ラ・サルの中でケーキにフルーツのトッピングをしているひよりのバットの中にも、氷のような保冷物がある。
 こんないい加減な世界、よく通してしまったものだと、逆に感心してしまう。

 水だけではない。
 隕石落下の影響により、環七周辺(画面情報から判断すると、中野区の丸山陸橋か豊玉陸橋周辺?)一帯が広域に渡って砂漠化しているにも関わらず、浜松町方面は建造物が原型をしっかり残し、その向こうに見える東京タワーだけが捻じ曲がっているという奇怪な状況になっている。
 しかも、残存している建物を見る限り、とても復興したものとは思えない。
 以前から、ずっとそこにあったような雰囲気だ。

 地球全土から海が消滅するほどの大被害が出た状況において、浜松町近辺と中野区周辺の距離などは、もはやゼロに等しい。
 どちらかが壊滅的ダメージを受け、どちらかがほぼ無傷で残るなどという結果はありえない。
 この辺は、以前NHKで放送されていた「地球に巨大隕石が落ちた場合のシミュレーション映像」を見ていると、大変よくわかる(現在でも、YouTubeで見られるらしいが)。
 逆に、都内各地にダメージの差異が生じる程度だったら、海が涸れ果てるほどの被害になる筈がない。
 この程度のことは、難しく考えるまでもなく普通に想像出来てしまう程度のものだ。

 こうして見て行くと、本作の「世界観の不徹底」には、二種類の要因がある事がわかる。

 まず一つは、撮影の都合やロケ地選びの都合から生じた「どうしようもない」要因。
 もう一つは、作品世界の徹底を行えなかった「人為的」要因だ。

 実は本作は、一つ肝心な事を見落としている感がある。
 それは、たとえ舞台設定が現代であっても「世界的変化が発生している環境」と設定されている場合は、時代劇や未来SF作品などのように、背景そのものを一からごっそり作り起こさなければならないというルールだ。
 本作は、まさにこれが適応されなければならなかったものだ。
 しかし、実際は現在の日本・東京等で普通に存在するロケ地や、ありふれたセットをなんの捻りもなく利用してしまった。
 その結果、先の二大要因が発生する。

 ここでちょっとだけ、思考実験。
 本作が、仮面ライダーカブトというTV番組の映画作品でなかったと仮定して。
 まったくのオリジナル映画として製作されたものとしよう。

 本作のような特異な世界観を表現しようとする場合、あなたはどういう工夫をするべきと思うか?
 この連想は、別に映像関係者じゃない人が行っても全然構わない。
 ある程度以上映画や映像作品を観ている人ならば、たいがいの人が「大掛かりなセットを用意する」とか「滅びかけた世界を表現するのに相応しいロケ地を探す」事を考えるだろう。
 少なくとも、まともに形の残っている実在の街や都心部、建造物を舞台にしようなどとは思わないだろう。
 仮に使うとしても、ごく限られた一角だけを使うとか、CGなどの合成を用いてそれなりに廃れた雰囲気を作るべきだと思うのではないか。

 これらの連想は、決して間違ってはいない。
 過去このような「特殊な舞台設定」を持っていた映画のほとんどは、このような発想を基に工夫を重ね、独自の世界観を築いてきた。
 ある程度映画を観た人も、それは充分汲み取れているだろうから、先のような思考実験が成立するわけだ。

 しかし、本作はそういった発想のほとんどを放棄している。
 否、正しくは「放棄しているようにしか見えない」。
 これは、もはや低予算だとか制作期間が短いからなどという言い訳が通用するものではない。
 というより、そんな製作側の事情など、見る側には一切関係ない。

 滅びかけた世界を舞台に設定したのなら、「そういう世界」を見せて欲しい。
 違和感のない舞台を用意して欲しい。
 見る側の感覚なんて、せいぜいその程度のものの筈だ。
 だが、なぜそれがこうも単純に覆されなければならないのか?
 確かに、宇宙空間や宇宙ステーション内部などはセットを用いてそれなりに作ろうとはしていた。
 しかし、一番肝心の「地球上の様子」がいい加減では、意味がない。
 何故なら本作の場合は、まず先に絶望的な環境というものを表現し尽くしてから、ストーリーを描かなければならなかったからだ。

 舞台が作れないなら、初めからそんな難儀な設定にしなければいいだけの話だ。
 本作は、TV版をはじめとしてあらゆる他作品との関わりを持たない、単独の世界を作る事が許された作品だ。
 ならば、もっと製作に無理のないものだって作る余地があった筈。
 否、作らなければならなかったのだが。
 それとも初期段階では、ハリウッドでも何億ドルかかるかわからないほどの規模の作品が、低予算でも容易に作れるだろうと判断できる何かがあったのだろうか?

 世界観に違和感が生じれば、それはすなわち、映画という「大掛かりな嘘」の根底が揺らぐことになる。
 そんなものでは、見る側は「騙されてくれない」。
 映画を観る人は、ある意味騙されたいと願うから、わざわざ高い金を払って見に来るのだ。
 それなのに、こんな馬鹿馬鹿しい結果では、お話にすらなりはしない。
 かれこれこういう場所で撮影して、それを編集して、オープニングと登場人物の台詞で絶望的世界観を説明しとけば、それだけで充分だ…というのは、机上理論に過ぎない。
 そんな発想が実際にスタッフにあったとは思いたくはないが、本当にそう考えて作ったんじゃないか? と疑いたくなってしまう酷さがあるのだ。

 見る側を騙す事すら出来なくなった影像屋に、どれほどの存在意義があるのか。
 ふと、そんな事を考えさせられた。


 長くなりすぎてしまうので、これらの項目については次回に触れてみたいと思う。


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