「 タ イ ム ベ ン ト 」 ?

後藤夕貴

更新日:2005年2月6日

 2005年1月23日、「仮面ライダーブレイド」が終了した。
 その最終回の出来と、それまでの展開についてネット上で賛否両論の意見が交わされたが、もはやこれは、毎年この時期になると起こる定番であり、冬の風物詩ともなりつつある。

 だが、この「仮面ライダーブレイド」は、今までにない問題を視聴者に投げかけた。
 「この最終回の展開では、劇場版に話が繋がらない」からである。

 詳細をご存じない方のために、簡単に説明しよう。

 2004年9月に公開された「劇場版 仮面ライダーブレイドMISSING ACE」は、“最終回の四年後”が舞台という触れ込みになっており、これが大きな宣伝文として掲げられていた。
 (この時期には当然放送されていない、架空の)最終回で、ブレイドがジョーカーを封印し、それから四年経った後の物語が劇場版のストーリーだった。
 詳しくは、習慣鷹羽のこちらを参照していただきたい。

 だが、実際に放送された最終回では、ジョーカーは結局封印される事はなく、そればかりか劇場版の内容と大きく食い違う設定要素が多く登場してしまい、どう見ても「四年後の続編」に繋がるような内容とは考えられなくなった。
 結局「仮面ライダーブレイド」も、テレビと劇場版はまったく無関係の作品であったという事で、決着が着いてしまった。
 劇場版の宣伝コピーは、まるっきり大嘘になってしまったのだ。

 ――さて、今回の本題はここから始まる。

 以上のような展開を向かえ、望まざるものとはいえすでに答えが提示されてしまったにも関わらず、いまだに「劇場版は、テレビの続編である」と主張する方達が居る。

 彼らの意見によると、
「途中、ブレイドがジョーカーを封印できる機会があったので、“もしそこで封印をしていれば(劇場版に)繋がった筈”なのだ。つまり、これはマルチエンディングだったのだ」
 …という。
 いやいや、どうしてここで、マルチエンドなんて単語が出てきてしまうのか?

 平成ライダーシリーズは、劇場版とテレビの接点がどこにあるものなのか、常に追求され続けた。
 しかし現実には、それぞれ直接の関連を持たない「別物」であり、無理に繋げて考えるべき作品ではなかった。
 時系列的に、どの部分にも劇場版のストーリーを組み込めない「仮面ライダーアギト」。
 先行最終回と銘打ちながら、実際の最終回は全然違う展開になった「仮面ライダー龍騎」。
 テレビの世界設定から切り離し、最初から別世界である事を唱えた「仮面ライダー555」。
 上記三作も、物語のリンクポイントを求めて色々な議論が交わされたものだ。

 ところが、ある時期を境に、「こう考えれば(たとえどんなに接合点がなくても)本編と繋がっている事になる筈」という、奇妙な見解が生まれるようになった。
 わかりやすく言うなら、「マルチエンドタイプのアドベンチャーゲーム」みたいに考えるようなものだ。

 念のため説明しておくと、「マルチエンドタイプ」とは、ゲーム中に掲げられる選択肢によって、物語の展開と結末がいくつにも分裂していくというタイプのシステムの事で、コンシューマーゲームや18禁ゲームのジャンルに多い。
 これは「パラレルワールド」と混同されがちだが、実際には微妙に違う。
 パラレルワールドとは並行世界というもので、良く似た別世界同士がそれぞれまったく違う展開を(時系列的には同時に)行っている、あるいはその可能性のあるものの事だ。

 ややこしいので、有名なアドベンチャーゲーム「かまいたちの夜」を例に挙げてみよう。
 このゲームのメインシナリオで、犯人を追い詰める展開までに何人の犠牲者を出して、エンディングにたどり着くか。
 その被害度の大小の差を含めたエンディング各種が、マルチエンドだ。
 被害を最小に抑えた結末と、大被害の果てに犯人を捕らえた結末とでは、当然展開が異なる。

 この「展開が異なっている部分」を指してパラレルワールドと称する人が多いが、本当は違う。
 「かまいたちの夜」には、同一の舞台と人物を流用したギャグ編やスパイ編などがあり、選択肢次第で本来のメインストーリーとは全然違う内容になるが、むしろこちらの方が「パラレルワールド」の概念に近い。
 「良く似ているけど、根本的な部分が少し違う世界」がパラレルなのだ。
 「本来の道から外れた展開」=「パラレルワールド」という事ではない。
 だが、これらは大変混同されやすく、ひっくるめて表現される事が大変多い。
 パタリロの原作にあったように、「何もかもが同じなんだけど、殿下(パタリロ)が履いている靴下の色だけが違う世界」という表現もパラレルワールドには違いないが、範囲が広がりすぎるため、この場合は「物語(の展開)の違い」に限定しておこう。
 
 とにかく、こういった概念を持ち出して、本来マルチエンド的展開など絶対にありえない筈のテレビ番組に、「もう一つの結末」という無理のある解答を求めるわけだ。
 どうして、こんな歯切れの悪い認識が生まれるようになったのか。
 そもそも、そんな意見が出るようになった「ある時期」とは何なのか。

 それは、「タイムベント」の登場に端を発しているように思える。
 こいつが、「マルチエンド(またはパラレル)論」を生み出した、諸悪の根源のようだ。

 「タイムベント」とは、2002年度作品「仮面ライダー龍騎」28話に登場した特殊なカードの事で、仮面ライダーオーディンが持っているもの。
 これを使用する事により、ある程度時間が巻き戻され、そこまでの過程が「やり直し」になってしまう。
 このカードの能力の巻き添えを食った主人公・城戸真司は、半年前の世界まで引き戻され、それまでの断片的な記憶を抱きつつ、もう一度同じ事を繰り返させられてしまった。
 結局、真司はタイムベント使用直前の場面までまた戻ってきたのだが、カード使用前のおぼろな記憶を最後まで維持し続ける事に成功したため、オーディンに怒りの一撃を加える事に成功した(全然効いてなかったけど)。
 なんと、そこら中に「覚え書き」を残しまくって、掠れていく記憶を留め続けていたのだ。

 「タイムベント」は、この一回しか登場していない。
 本編では、そこまでの展開を“修正”するために、ライダーバトルのマスター・神崎士郎の意志に従ってオーディンがカードを使用した事になっているが、実質的な意味合いとしては、劇場版撮影の都合で役者のスケジュールが厳しくなっているため、限られたキャストだけでなんとか間が持たせられるように「総集編」を作り、これをストーリー上無理なく行わせるための方便に過ぎなかった。
 つまり、タイムベントを使用する事で、そこまでのおおまかな流れを説明するという事を合理化し、さらに、撮影スケジュールの問題をも解決してしまったのだ。
 そのため、このタイムベントは以降二度と使われる事はなかった。
 使う必要すらなかったのだ。

 ところが、このタイムベントが、後々の「本編とのリンク議論」について、大きな波紋を投げかけるようになる。

 「先行最終回」という触れ込みだった龍騎劇場版は、テレビ版最終回とあまりにも異なる内容だったため、いつのまにか「タイムベント発動によって分裂発生した、もう一つのエンディング」であるという説が生まれ、これが定着してしまった。
 こうする事により、たとえどんな無茶な展開があっても「タイムベントでパラレル化(またはマルチ化)したものと考えれば」と唱えられるようになるわけだ。
 突飛な発想を行う場合、前例があるとやりやすい。
 その前例に、タイムベントが選ばれたというわけだ。
 もちろん、同じ平成ライダーシリーズとはいえ、別な番組の概念を持ち込んでまで考察する事が愚行だというのは、筆者もよくわかっている。
 ただ、そういう発想を応用して、別作品の展開を無理矢理結びつけようとする人達が現実にいる以上、こういう考えの基に話を進めない訳にはいかない。

 最初に触れた「劇場版 仮面ライダーブレイド」とテレビ版最終回も、こんな応用的発想から、「よくわからないマルチエンド展開」と結びつける傾向が生まれてしまったような風潮があるのだ。

 だが、ちょっと待って欲しい。
 本当に、タイムベントの使用でマルチエンド的展開が発生しうるのか?
 よくよく考えてみると、たった一回しか出てきていないカードの能力を、都合よく解釈しすぎなのではないか?

 本編を見ていれば、タイムベントでそんな事をするのは不可能だって、はっきりわかる筈なんだけど。

 テレビの「仮面ライダー龍騎」最終回では、神崎優衣を生き返らせる事ができなかった士郎が、もう一度ライダーバトルをやり直そうとして優衣の意志に咎められるという展開があり、その後、ごく普通の生活に戻った真司と秋山蓮達の日常が描かれて終わる。
 それまでのライダーバトルは「なかった事」とされ、それまで死亡したライダー達も生き返り、以前とはちょっと違うものの平和な生活を営んでいた。
 指名手配犯だった浅倉が、平然と街中を闊歩しているくらいに変化しているのだ。
 多分これは、心優しい優衣の望んだ、理想的な結末を士郎が叶えたという雰囲気にまとめられているのだろう。
 賛否両論あるが、こういうエンディングも悪くはないと、個人的には思っている。
 (脚本の小林靖子氏がよくやるエンディングパターンそのままだという話もあるが)

 ただこれにより、神崎士郎は、(理屈はよくわからないものの)時間の流れや人間の因果関係などを自由にリセットしたり、変更したり出来る事になってしまった。
 もはや人間の能力を遥かに超越した、神の領域の話にも思えるが、それはまあいいだろう。
 問題なのは、「その行為にはタイムベントが用いられているのだろう」という、安易な解釈だ。

 タイムベントの力を用いるためには、いくつかの条件がある。
 まず、「仮面ライダーオーディン自身がこれを使用しなければならない」という事。
 神崎士郎がライダーの能力を仲介しないでタイムベントを使う事は、これまで番組中で提示されてきた設定から見て、許される事ではない。
 なぜなら、オーディンがタイムベントのカードをゴルトバイザーに挿れて能力を施行した場面がはっきり出てきた以上、このカードは「オーディンが、契約モンスター・ゴルトフェニックスの能力の影響で手にしたものである」事が、自動的に証明されるからだ。
 契約未施行のブランク体ライダーにも、モンスターの能力に依存しないアドベントカードは存在するが、タイムベントのような強力なものが初期装備の筈はないだろう。
 龍騎の世界観では、他のライダーのカードを別なライダーが使用しようとしても、効果は本来の持ち主の方に施行される。
 実際、龍騎のドラグバイザーにベントインされたギガキャノン(シュートベント)が、龍騎を無視してゾルダに装着されたエピソードが存在する。
 つまり、タイムベントはどう使ってもオーディン主体にしか働かない。
 劇中では、神崎士郎はなぜかタイムベントの影響を受けていなかったように見えたので、必ずしもオーディンだけの主観で能力が施行されるわけではないのかもしれない。
 だが、いくらマスターだからといって、神崎士郎がライダーに変身せず、契約もせず、バイザーもなしにカードを使用する事は不可能な筈だし、第一、士郎が何も使わず直接カードを使用できるというなら、「タイムベント」の回でわざわざオーディンが出張る必要はまったくなくなってしまう。
 真司達に気付かれないように、裏でこっそり使用すればいいだけの話だからだ。

 もう一つ、最終回においてオーディンがナイトの目前で自然消滅し、ナイト自身も死亡した後ではライダーが完全にいない状態となる訳だが、この状況下でオーディンをさらに召喚し、タイムベントを使用させる行為には、まったく意味がなくなってしまう事にも注目したい。

 オーディンは、設定上何人も存在させる事が可能で、士郎が行きずりの人々にカードデッキを渡し、オーディン化させてから傀儡として操っていたそうだ。
 本編内でも、実際に複数のオーディンが登場し、そのうち一体はナイトによって倒されている。
 という事は、ライダーバトルでオーディンを最後まで残らせるという事も、士郎にとっては可能だった筈。
 オーディンは、いわば士郎の代行としてライダーバトルに参加していたような存在なので、オーディン勝利→士郎の望みが叶う→優衣に新しい命を与える事が出来る…という流れになるのが、理想的だったと解釈していいだろう。
 だったら、オーディン消滅後、ナイトの前に「光」が降臨するよりも前に新しいオーディン三号(仮称)を投入し、もしそいつが負けたら、続けてオーディン四号(仮名)を投入し、これをナイトが負けるまで繰り返せば良かっただけの話だ。
 こうする事により、わざわざライダーバトルを最初からやり直す必要性はなくなる。
 番組的には面白くもなんともない上、卑怯極まりなく後味も悪いとは思うが。

 とはいえ、これは物理的に行えなかったようだ。
 最終回、ナイトの攻撃を受けてもいないのにオーディンが突然苦しみだし、消滅してしまったからだ。
 これは、前の場面で優衣が士郎の意志を決定的に拒絶した展開と繋がっており、どうやら士郎が激しく困惑してしまったために、その存在が維持できなくなってしまった…かのように見える。
 これはどういう事なのだろう?
 仮にこの場面に関連がなかったとしても、オーディンのカードデッキがたった一つしかなければ、倒された直後すぐに次のオーディンを投入する事は、当然不可能になる。
 オーディンは、士郎にとって都合良く扱える「なんでもあり」的な存在だとばかり思っていたのだが…どうやら違うようだ。 

 どこでライダーバトル終了と定めるかは、ひょっとしたら士郎の意志次第なのかもしれないが、少なくともナイト対オーディン戦の決着後ナイトの前に不思議な光球が出現し、その影響によって恵里が復活したらしいから、決着後から願い事が叶うまでの流れは士郎の意志とは関係なく、ある程度「自動施行される効果」だったと見るべきだろう。
 という事は、やはりライダーバトル終結の見定めは、士郎の認識以外の部分でも発生している事になる。

 仮に、オーディンがライダーバトル決着後に生み出されても、まったく支障がなかったとしよう。
 もしそうだとしても、今度は「タイムベントの性能」に疑問が出てくるのだ。

 タイムベントは、

 という性能・性質が、画面情報からわかっている。

 これによって予想できる事としては、  という事は、タイムベントをどんなに使用しても、ライダーバトルの展開や結末は変わらないし、優衣復活に繋げる事にも無理が出るように思えてくる。
 タイムベントだけでは、士郎の思惑通りに状況を操る事は不可能なのだ。
 そう考えていくと、ラストの局面で、タイムベントのカードが出てこなかった事にも納得できる。
 むしろ、あれは単に「ちょっとだけ納得いかなかった事を訂正する」程度の力しかないと見た方が、自然だろう。

 神崎士郎には、確かに過去の展開をリセットする力があるようだが、それはタイムベントとイコールではあるまい
 説明不能の、士郎のスタンド能力とでも定めた方が、まだ自然かもしれないのだ。

 こうやって見ていくと、少なくとも「タイムベントがあればすべて無問題」という流れにはならないという事が、だんだん見えてくる。
 だが、士郎の能力によって展開が分化する可能性は、まだ残っているわけだ。
 ならば、オーディンもタイムベントもいらない。
 士郎さえ居れば、何の問題もないではないか。

 優衣が死ねば、彼女が生きていられる20歳になるまでの時間を繰り返せばいいのだし、彼女の未来さえ求めなければ、永遠に幸せで居られる筈だ。
 そもそもこの戦いは、士郎のシスコン根性から発したものなのだから、そんな極度のエゴイズムでも、許容はされる筈だろう。
 もっとも、それだけでは納得いかない部分があったから、ライダーバトルなどという儀式めいた事をする必要があったのだろうけど。
 そして、その儀式めいた事を行う意味があったからこそ、士郎は「目論みに失敗すれば、何度でもやり直しをする腹積もり」があったのだろう。

 つまり、士郎自身がどんなに次元及び時間を超越させられる能力を持っていたとしても、それだけでは望みが果たせなかったという事だ。

 最終回で、もう一度ライダーバトルを始める事に拘っていたのも、やはり「100%自分の意志では行えない“何か”があった」からこそなのだろう。
 だとすると、士郎の意志の介入もなく、蓮の望みが自動的に叶えられた事も納得が出来る。
 この辺りに、士郎の能力の限界が見えるような気がするが、そこを追求しても意味はないので、あえて別な見方をしてみよう。

 じゃあ、ここまでの議論は「タイムベント」という表現を用いず「士郎のスタンド能力(仮)」と置き換えれば、それで丸く収まる……ように見えるが、実はそうもならないのだ。

 劇場版ラスト付近で、士郎は優衣の自殺のショックで自ら消滅してしまっている。

 と、いう事は。
 たとえテレビ本編とのパラレル的展開を予め理解した上で観ても、劇場版以降の「ライダーバトル談」は、まったく続かない(ありえない)という事になる

 これは、マルチもパラレルも全部ひっくるめて、すべての「仮面ライダー龍騎」の物語がここで完結してしまっているという事を意味する。
 士郎がいなくなった時点で、あらゆる展開のリセットは不可能になるのだから、もう二度と優衣が蘇る事はありえないし、ライダーバトルが最初からやり直される事もない。
 あえてテレビ版最終回を無視したとしても、これは確定事項になってしまう。
 そういう意味では、劇場版は紛れもなく「エピソードのファイナル」だったわけだ
 劇場版の、回想シーン風のエンディング場面は、イメージビジュアル的なものだろうから除外して考えるべきだろう。
 あんな場面まで含めて考え始めたら、いつまで経っても結論が出ないし。

 …ここで、ちょっとだけ思考実験をしてみる。
 あなたが士郎の立場だったとして、死なせたくない妹が目の前で自殺してしまったとしたら?

 ――当然、何かしらの方法で、その「自殺した展開」にリセットをかけようとするだろう。

 だが、士郎はそうしないで、勝手に消滅してしまった。
 タイムベントはおろか、リセットしようとすらしなかったのだ。

 これは、どういう事なのか?

 実際の理由としては、劇場版とテレビ版の脚本担当者間の摺り合わせがうまく行ってなかっただけなのだろうが、あえて画面上の情報だけで比べてみると、「士郎は、自分自身ではタイムベントの力を使用する事はできなかった」という事が裏付けられる事になる。
 百歩譲って、「ライダーバトルを繰り返す」または「マルチエンド的展開の別世界を作り出す」というのがタイムベントの効果だったとしても、もっともそれを使うべき場面で使用できなかった事が情報として提示されてしまった時点で、士郎の限界の一端が見えた事になる。
 という事は、オーディンが居なかった最終回のあの場面では、やはりタイムベントは使えないと見るべきだ。
 結果的に、「展開の巻き戻し」は、士郎のスタンド能力(もうええ)または、別な要素によるものだったと解釈出来るだろう。
 だが、劇場版ではそれすらも行われなかった。
 これでは、士郎自身に本当にそんな「巻き戻し」能力があったかどうかまで疑わしく思えてしまうのだが…。

 以上の点から考察すると、各所で唱えられている「タイムベントによって発生した別展開」という仮定は、これで成り立たなくなってしまう事になる。

 まあそれ以前に、劇場版にはオーディン自体がまったく登場していない訳だが。

 では、2002年9月19日に放送されたスペシャル「13 RIDERS」の展開は、どうなるというのだ?

 そんな意見も聞こえてきそうだが、ストーリーの繋がりを求める以前に、あれは総集編を兼ねたお祭りイベントのようなものである事は、最初から提示されていた筈だ。
 結末についても、あれは電話によって視聴者が決めたものであり、「タイムベント」によるものではない。
 これを、ここまでの話と同列に扱うのは、そもそも間違いなのだ。
 第一、それまで龍騎を見ていなかった人にもわかるようにと、わざわざ最初から作り直したものなんだし、設定のいくつかが根本的に変わっている。
 これこそ、まさに典型的な「パラレルワールド」じゃないか。 

 以上、タイムベントや神崎士郎の設定をあらためて見返すと、実は龍騎自体、パラレルもマルチも存在しない、単一の物語だったという結論が出てしまう。
 テレビはテレビ、劇場版は劇場版で、それぞれまったく別なもの。
 ついでに言えばスペシャルも別物で、無理にタイムベントによるマルチやパラレルなどという言葉で繋げようとする必要すらない。
 実際、製作スタッフもそんな事まで考えてはいない筈だ。
 もし、パラレル的展開に関して何かを唱えていたとしたなら、それは視聴者に対するリップサービスに過ぎないと解釈するのが普通だ。
 そして、その後のライダーの物語のリンクにマルチだのパラレルだの唱える事も、意味が薄まってくる。
 そもそも、時間が戻ってもその後に劇的な変化が起きなければ、劇場版やスペシャルのような完全別展開に分化する筈もないのだ。
 しかしタイムベントに、それを可能ならしめる能力がない事は、すでに述べている。

 実際のところ、タイムベントや士郎の能力等を巡ってこれだけややこしい事態になっている事に、製作側の「大人の都合」が大きく関係しているのは明確だ。

 前述の通り、タイムベントは撮影スケジュールによって発生する問題解決のための手法だった。
 これは、それ以上でもそれ以下でもない。
 劇場版のキャッチコピー「先行最終回」は、プロデューサーなどの上層関係者が、お客の興味を惹くために考慮した「ハッタリ」であり、これを本当に最終回とする気は、はじめからなかっただろう。
 もし、劇場版が本当の最終回として意味を成すようになってしまえば、それは最終展開に“劇場版視聴済み”の人達の興味を、大きく削ぐ結果になってしまうからだ。

 「仮面ライダー龍騎」放送当時、仮面ライダータイガ登場の辺りのシナリオがネット上に流出してしまうという事件があった。
 それ以降、東映側は情報漏洩に過敏になり、これはファイズの番組企画段階において、いくつものダミーをバラ撒いてまで情報を隠蔽しようとした姿勢にも表れている。
 白倉伸一郎プロデューサーも、ネット情報により「知られたくない事が事前に視聴者に知られてしまう」事に対して、大きな問題を感じているとコメントしていた。
 そんな風に考えているスタッフに作られた番組が、「これ以上ないほどド派手なネタバレ」を映画として公開する事など、まず考えられない。
 劇場版「銀河鉄道999」の内容が、テレビ版のどこに当てはまるのかを考えるほど馬鹿げた事はないし、誰もそんな事は思いもしないだろう。
 製作側も、そう考えて製作・公開したのに、ファンが不必要な関連性を求めてしまい、おかしな議論に発展してしまったため「タイムベント」を用いた奇論が生じた…実際は、その程度の事なのだ。

 もっとも製作側も、ファンがそのように踊らされる事を見越した上で、あのようなコピーを掲げていた可能性も高いのだが。
 実際、テレビ版最終回の前に、「テレビ版のラストは別物になるから期待してください」といった内容のコメントを掲げていた。
 あまりフェアなやり方ではないが、ファンの心理を利用して興味を強く惹く材料をばら撒いたという意味では、やはり、大変巧い手法だったのだろう。

 龍騎劇場版の脚本は井上敏樹氏で、テレビ本編のメインライターは小林靖子氏だったが、実はこの二人の間で、充分なディスカッションが行われていなかったのではないか、という説も存在する。
 少なくとも、井上氏が龍騎劇場版脚本を執筆するにあたり、テレビの展開を踏まえて小林氏と意見交換した事はほとんどなかったそうで、当時のインタビュー記事を見る限りでも、小林氏は展開の辻褄合わせに相当苦労させられたらしい。
 製作事情の是非はともかくとして、こんな風に劇場版はテレビとはまったく無関係に製作されているという事は、よくあるのだ。
 なので、小林氏もテレビ本編最終回に至り、何か思う事があってあのような展開を書いたのかもしれない。
 あるいは、特に何の意味もなく「やっぱり今までのナシ」的な展開を描きたかっただけなのかもしれない(後に、似たような事をセーラームーンでもやっているし)。
 そんな部分からも、両作品の関連の薄さが見て取れる。
 もはや、同一視する事すらも無理があると云えるだろう。
 テレビスペシャルなどは、それ以前の問題なのだが。

 さて、話を「仮面ライダーブレイド」に戻そう。

 この番組のプロデューサー・日笠淳氏は、テレビ本編終盤頃に発売されたムック『仮面ライダー剣キャラクターブック<チェイン>』のインタビュー内で「劇場版公開当時、テレビとの関連は“まだ決めていなかった”」という発言を、堂々と行っている。
 そのような事を、公式ではっきり言われてしまった以上、ここで両作品の関連性は完全に断ち切られたことになる。
 たとえ最終回で帳尻合わせを行い、うまく劇場版と繋げたとしても、この発言によって「実質的には別物」だという事が提示されてしまう。

 個人的には、この発言はファンの心理をまったく考慮していない大変無責任な発言だと思ってはいるが、番組制作側の考え方としては、これで正解だとも思っている。

 先の白倉プロデューサーの件と同じように、もし完全に最終回とリンクさせてしまったら、その時点でブレイドの最終回は「最終回」ではなくなってしまい、劇場版というとてつもなく大きなネタバレを抱え、余韻感慨も残らない、それこそ最悪なラストになってしまった事だろう。
 すでに発表されている「劇場版」というラストに、結末の描写を依存し切る事が許されてしまうからだ。

 むしろ、劇場版とのリンクを断ち切り、剣崎をアンデッド化させる事でジョーカー・始を封印しなくて済むように持っていったのは、英断と云える。
 リンクを優先させて没個性なラストになる可能性を取るより、独自の展開で予想外の結末にした方が、番組としての話題性は残る。
 その究極の選択に見事挑んだという意味で、ブレイドは最後の最後で「正解」を見つけたのだと思う。

 とはいえ、内容のリンクに期待していたファンの気持ちも、痛いほどよくわかる。
 あれだけ明確に、テレビ本編との関連を主張して公開されたのだ。
 ブレイド本編を楽しんでいる人達にとって、これはすごい話題になる筈だった。
 まして、平成ライダー劇場版としては、初めて明確に本編と絡む可能性があったのだから、それまでの三年間、煮え切らない思いをさせられていた人達からすれば「今度こそ!」という思いがあった筈だ。
 だから、早い時点で「どーせハッタリで終わるだろう」と高をくくった人達以外は、最後まで期待を持って観ていただろう。
 そして、劇場版の設定を匂わせるようなものもいくつか登場し始めた段階で、その期待はピークに達しただろう。
 その上で、最後の最後で裏切られたのだ。
 そこまで積み上げてきた期待感は、そう簡単には消えないだろう。
 このラストの展開に対して、何か言いたくなって当然だと思う。

 結局のところ、話題性だけを求めて無責任なキャッチコピーを掲げた製作側に問題があるわけなのだが…似たようなコピーだった龍騎はともかく、その後の555では、逆にはっきり別世界だと言い切った上で成功したのに。
 つまり、最終回の後日談なんて要素で、興味を惹く以外にも方法はあった筈なのだ。

 いったい、製作側は何がしたかったのだろう。
 ブレイドファンにとっては、本当に迷惑な話だ。

 なお蛇足だが、先のムックに掲載された各インタビューの内容などから、「ブレイド」製作現場は物語の展開の全貌を考慮したりはしておらず、その時の視聴者の反応を見ながら展開を考えるという、かなり行き当たりばったりな製作をしていたそうで、結果的に、各脚本担当のディスカッションも行われていなかったと予想できる。

 そんな状態で、最終回までの展開を見越した上での劇場版構築など、絶対に出来る筈がない。

 第一、劇場版の脚本を担当したのは、テレビ本編ではゲストライターに過ぎなかった井上氏なのだから――

 このように、もはや劇場版をテレビ本編のマルチエンドだったと解釈する必要は、ない。
 ここは、仮面ライダーブレイド最終回放送終了直後、いけしゃあしゃあと「全てのアンテッドを封印してから四年」と唱え続けているCMのあり方をあざ笑うのが、正しいあり方なのではないだろうか。

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