異端の後継者? ウルトラマンメビウス

鷹羽飛鳥

更新日:2006年12月17日

 現在放送中の『ウルトラマンメビウス』は、『ウルトラマン80』以来25年ぶりの“光の国”出身のウルトラマンの物語です。
 『ウルトラマンティガ』以降のテレビ版ウルトラマンは、全てそれまでの流れとは違う存在として描かれてきました。
 『ティガ』『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』は、いずれも明確に宇宙人としては描かれず、『ウルトラマンコスモス』『ウルトラマンネクサス』『ウルトラマンマックス』では、宇宙人として描かれてはいるものの、光の国の住民ではありませんでした。
 「ウルトラ一族のおちこぼれ」なる台詞が存在する『ウルトラマンゼアス』では、ゼアスの出身星はピカリの国であって、光の国ではありません。
 …まぁ、企画自体がパロディだし、世界観が繋がっているなんて思っている人は元々いないんでしょうけど。
 ウルトラマンマックスの場合、M78星雲の出身となってはいますが、「光の国」とは一言も言っていませんので、今回正式に違うと明言された形です。
 『狙われない街』も、『ウルトラセブン』の『狙われた街』の続編と言うには妙な作りでしたが、ある種のセルフパロディのようなものということなのでしょう。
 まぁ、M78星雲にはそれこそ星の数ほど惑星がありますし、そんなこと言ったらウインダムだってM78星雲出身ですから。
 ちなみに、海外版の『ウルトラマンG』は、設定上、一応ウルトラの星出身とされていますが、デザインや造形、各種設定にオーストラリアスタッフ独自のものがかなり取り入れられ、画面上も結局繋がりのあるものとしては作られていないようですし、『ウルトラマンパワード』は『ウルトラマン』のリメイクです。
 
 こうして、『メビウス』は、作中では25年ぶりのウルトラマンでありながら、作品的には去年もやってた作品の次作という微妙な立ち位置の作品となりました。
 こう書くと分かりにくいかもしれませんが、どういうことかというと、要するに作風としては前作までの流れを汲んでいるのに、設定としては何作も前の続きとなるという落差を生じてしまうのです。
 これは、視聴者側の認識や製作側の事情が直前の作品に続いているのに、作中で求められるのがずっと前の作品の状況であるというズレなのです。
 わかりやすい例を挙げると、『機動戦士Ζガンダム』みたいな状況です。
 これは、前作である『機動戦士ガンダム』から7年後に制作され、本編中でも前作から7年後という設定でした。
 当然、SF考証やデザインラインなどは前作を受け継ぐべきなのですが、7年という時間は、世間の常識を変え、スーパー戦隊並に薄手のノーマルスーツなど認めてくれなくなってしまったため、ノーマルスーツ全体が厚ぼったくなってバックパックまで付いてしまい、まるで技術が退行してしまったかのような印象を受けます。
 また、メカ設定も、同じ富野監督による前年作品『重戦機エルガイム』のムーバブルフレームや360度モニターを受け継ぐことになり、前作のラインとは大きく異なってしまいました。
 演出的にも、前々年作品『聖戦士ダンバイン』以来の“戦闘中の敵味方会話”が当たり前のように行われるようになり、ミノフスキー粒子撒布下での明瞭な電波通信という前作のイメージ(しかもモビルスーツの存在意義そのもの)を大きく損なう描写が批判されていました。
 『Ζガンダム』を当時見ていなかった人でも、『ガンダム』とのデザインラインの乖離は理解できると思います。
 
 ここまで強烈ではありませんが、『メビウス』にも同様のこと、つまり、25年という時間が、演出技法を変えてしまったり、デザインラインを変えてしまったりといった変化を起こしています。
 例えば、ウルトラマンの出現シーンがそうです。
 メビウスが初めて地球で戦闘した際の登場は、中空から降ってきて、大きな土煙を上げるというものでした。
 実はこれは、光の国のウルトラマンとしてはおかしい登場の仕方です。
 “光の国”のウルトラマン達は、変身するとまず等身大になり、その後巨大化するというプロセスを経ます。
 当然、変身したその場所に出現するわけで、怪獣から離れた場所で変身した場合、一旦出現した後で飛んでいっていました。
 『ウルトラマンA』26話『全滅!ウルトラ5兄弟』では、ヒッポリト星人の立体映像の前で変身したAが、そのままヒッポリトの本体がいる場所に飛び立ったため、「Aが逃げた」と言われているくらいです。
 つまり、メビウスのように変身した場所と違う場所に降ってくるという出現の仕方はできないわけですね。
 “変身すると等身大”と言うと、セブンだけのような気がしますが、『ウルトラマン』29話『人間標本5、6』や、『帰ってきた〜』25話『ふるさと地球を去る』では、ウルトラマンが等身大で活動した後、いつもの変身シーンのビジュアルで巨大化しています。
 元々初代ウルトラマンの変身シーンは、右手を突きだして一気に巨大化するというイメージでパースを付けた模型を使用して撮影しているわけで、登場直後に右手を上に突きだしているのはその表れでもあるのです。
 まぁ、後にそういったイメージは薄れていっているらしく、A以降は等身大で活動しているシーンがなくなったわけですが。
 なお、『ウルトラマンレオ』50話『恐怖の円盤生物シリーズ レオの命よ!キングの奇跡!』では、レオが等身大でブニョと対峙するシーンがありますが、あれはあくまでも変身を封じる鎖によって中途半端に変身した(本来の巨大な姿になれなかった)結果であり、26話『日本名作民話シリーズ!ウルトラマンキング対魔法使い』でのセリフから見る限り、どうやら等身大で活動する能力はないようです。
 変身シーンは、『ティガ』では、時たま“光の中からティガが出現する”という描写をされるようになります。
 これは、大元の演出意図としては、“宇宙人”として明確に肉体を持っている光の国のウルトラマン達と、“光の巨人”として実体をあやふやにされているティガとの差異からくるものだと思います。
 また、“ウルトラマンが土煙を上げて降ってくる”“地響き立てて走るウルトラマン”という描写は、『ダイナ』38話『怪獣戯曲』で初めて用いられた手法です。
 これらの描写は、ウルトラマンの重量感を強調する効果があり、続く『ガイア』で多用されるようになりました。
 これ以降の作品を見慣れた目には、メビウスの初登場は違和感ないでしょうが、『80』の続編だと思うと、かなりの違和感があります。

 さて、鷹羽が初めて『メビウス』の存在を知ったのは、今年の2月頃、仕事場の同僚が持っていたスポーツ新聞からでした。
 そして、その時『80』世界の続きであるということを知って、メビウスの異形ぶりに愕然としたものです。
 単にウルトラマンとしてのデザインが変わっているというだけなら、Aは他のウルトラマンシリーズに類似者がいないデザインラインですし、赤い身体にプロテクター、角まで付いているタロウの異形っぷりもなかなかです。
 唯一鼻のある80も結構変わったデザインと言えますから、それらを考えれば、確かにメビウスはそれほど変わっているデザインではないでしょう。
 カラータイマーを除けば。
 ティガ以降のウルトラマンを見慣れた目には何の違和感もありませんが、光の国のウルトラマンは、カラータイマーが全て半球型であるという共通点があります。
 L77星出身のレオやアストラでさえ、半球型のカラータイマーです。
 カラータイマーのないセブンも、ビームランプは額に埋没しているとはいえ半球型です。
 アニメ作品である『ザ・ウルトラマン』のジョーニアスだけは、カラータイマーが星型ですが、これはアニメキャラとしてデザイン的なアクセントが必要だったからでしょう。
 当時、トクサツ版のウルトラマンは、半球型のカラータイマーをアイデンティティーとしていたのでしょう。
 
 その状況は、海外版である『ウルトラマンG』から変わり始めます。
 グレートのカラータイマーは、確かに半球型ではありますが、周囲に三角錐状の土台が付いています。
 これは、変身アイテムであるデルタプラズマーのデザインがそのままカラータイマー部を構成するという、ウルトラマンシリーズ初の試みでもありました。
 この『G』は、初のビデオ撮影作品でもあり、主に野外で撮影されていたことなどもあって、スーツがゴム製でなかったり、目の部分が乳白色だったりと、細かい部分が随分違っていました。
 以前にも書いたことがありますが、ビデオ撮影の場合、透明っぽいパーツは角度によってはうまく映らないことがあるため、目の部分が抜けてしまわないように乳白色のパーツを光らせるようになったのです。
 カラータイマーが小さくなっているのも、恐らくは同様の理由と思われます。
 ウルトラマンパワードの目が青いのも、カラータイマーが薄っぺらいのも、多分同じ理由からでしょう。
 この傾向は、同じくビデオ合成を使用している『ティガ』でも続きます。
 ティガの目はグレートほど乳白色が強くはありませんが、やはりオープンエアの撮影では白っぽく見えます。
 また、『ティガ』49話『ウルトラの星』に登場した初代ウルトラマンは、同じ理由から、スーツの目の部分をティガのそれと取り替えて使っていたそうです。
 
 さて、劇場版用オリジナルウルトラマンとして誕生した『ゼアス』では、ゼアスのカラータイマーは、トクサツ版日本製ウルトラマンとしては初めて全く円くないデザインになりました。
 これも、ビデオ合成の都合で、横から見た時に極力透明なパーツが露出しないように、カラータイマー部を周囲の突起部に埋没させようとした結果でしょう。
 傍証ではありますが、『メビウス』劇場版に登場したゾフィー達やテレビ本編に登場したレオなどのカラータイマーは、半球部がかなり扁平になっていて、かつての膨らみはありません。
 『ゼアス』と同年にテレビ放送された『ティガ』では、球体のカラータイマーを下から支えるというデザインになっていて、横から見た時には球体部が露出した状態になっています。
 ティガは、平成ウルトラマン中、横から見たカラータイマーの露出部分が最も大きいデザインですが、球体部の内側には、光を乱反射させるための襞があるらしく、独特の光り方になっています。
 ただ、やはり抜けが怖かったのか、続く『ダイナ』では、カラータイマーは逆五角形になっています。
 続く『ガイア』もカラータイマー(作中では「ライフゲージ」と呼称)は半球型とはかけ離れたものとなっていました。
 
 また、ティガでは身体の模様の色が赤と紫(本編中で「パープル」と明言)の2色になり、ウルトラマンと言えば銀と赤というイメージを一新しました。
 そして、模様の色を赤一色、紫一色に変化させることで、3つの形態を表現し、以後のテレビ版ウルトラマンは全て複数の形態に変化するのが伝統になりました。
 コスモスなど、ルナ、コロナ、エクリプスのモードごとに頭部の形状も全て異なるという念の入れようで、知らない人に3種類を並べて見せたら、1人のウルトラマンとは信じてもらえないでしょう。
 ちなみに、ティガの模様が紫だったのは、ブルーバック合成の都合で青が使えなかったためで、ダイナではグリーンバックを使用することで模様を青くできたのだそうです。
 
 『メビウス』の前番組『マックス』も、そのまた前番組『ネクサス』も、カラータイマーは半球型ではありませんでしたから、視聴者は、ウルトラマンのカラータイマーが半球型じゃなくても、目が白っぽくても、身体の色が銀と赤以外であっても平気になってきていますが、『80』までしか知らない人にいきなりメビウスを見せたらどうでしょう?
 銀色メインの身体なのに赤い手首、胸に埋没した菱形のカラータイマーなど、「え? これがウルトラマン?」と言うのではないでしょうか。
 一応、35話『群青の光と影』では、“青いウルトラマン”であるヒカリに対し、ウルトラマンと認識できない人もいることが語られていますが、これは2年前に『ネクサス』を見ていた子供には理解しにくい感覚でしょう。

 内容的にも、まぁ、25年の間に色々あったわけで、そのつじつま合わせも大変です。
 例えば、『ウルトラマンT』最終回では、東光太郎が変身アイテム:ウルトラバッジをウルトラの母に返して旅立っており、それを受けて『ウルトラマンレオ』にほかの兄弟達が客演した時にもタロウは登場していません。
 結局、今回の『メビウス』劇場版の絡みで、タロウは20年前(1986年)に4兄弟の穴を埋めるために光の国に呼び戻されてしまったという扱いになっているようです。
 人間として生きたかった光太郎の気持ちはお構いなしだったのか、それとも光太郎と分離してタロウだけが帰って行ったのかは分かりません。
 いずれにせよ、光の国はよほど人材不足なのか、それともウルトラ兄弟の実績が凄い=地球は正に侵略天国ということなのか、どちらかなのでしょう。
 まぁ、タロウについては、映画『ウルトラマン物語』のような頭の痛くなる作品もあるので、とりあえずこの新たな公式設定でよしとしましょう。
 何が酷いって、1万2千歳のタロウが子供のころに、ほかの兄弟達が地球で活躍しているんですから。
 まさか、1万1970歳くらいまで子供の姿で、そこから1〜2か月で急成長したわけではないでしょう。
 いや、そもそもこの映画にはレオや80も出ていたはずですから、時間的矛盾は問題外もいいところです。
 当然、『ウルトラマン物語』は『ウルトラ』の歴史から抹殺され、なかったことになったはずです。
 
 同じように、なかったことになってしまった物語があります。
 所謂『平成ウルトラセブン』シリーズです。
 まぁ、これは、元々ウルトラ警備隊がずっと存在し続けているというパラレルワールドで、『帰ってきた〜』以降の世界がなかったことになっているわけですから、番外編的作品群が今回公式に抹殺されたというだけの話ですが。
 あと、『ウルトラマンネオス』なんかもそうですね。

 とまあ、デザイン的にはかなり異端で、つじつま合わせも大変そうな『メビウス』ですが、作品の演出としては、実にうまい具合に過去の作品を取り入れています。
 まず、サコミズ隊長やミサキなど、一部の幹部にはミライがメビウスであることが知られていながら、トリヤマ補佐官は知らされていないなどトップシークレット扱いされていることも、これまでの作品を知っていれば自ずと納得できます。
 過去にも、『帰ってきた〜』最終話で、“初代のウルトラマンがゼットンに敗れた”という記録が残っていたり、『A』10話『決戦!エース対郷秀樹』で、MATの記録に郷がゼットン戦で戦死した旨記載されていたりと、以前の防衛チームの記録が受け継がれていることが描かれています。
 そして、『セブン』最終話では、セブンの正体がモロボシダンであることがウルトラ警備隊の面々に知れ渡っているのです。
 『80』最終話でも、オオヤマキャップとイトウチーフが矢的猛=80であることに気付いていて出撃させないというくだりがあります。
 また、例えばベロクロンを「ドキュメントTAC」「ドキュメントZAT」として保管しているなど、過去に出現した怪獣は類型化して検索できるシステムまであります。
 これらの状況から、ウルトラマンが普段は人間の姿で生活しているという情報は、地球防衛軍の上層部には知られていると考えるべきです。
 であれば、ミライの正体を知った上で、敢えてGUYSに入隊させて正体隠蔽に協力するというのは、理に適っているといえるでしょう。

 また、40年の積み重ねは、あちこちで少しずつ繋がり、なんだか凄い説得力をもってしまった面もあります。
 1話でメビウスが初めて地球に姿を現した時の「あれ、お母さんが子供のころに見たって言ってた…」「そう、ウルトラマンだ」という父子の会話は、正にテレビの前で子供と見ている親の感覚とダブります。
 テレビの中でも外でも同じく25年経っているという現実は、有無を言わせぬ重みがあるのです。
 放送時間が『マックス』の朝放送から夕方放送に変わったことで、親が一緒に見やすくなったことから、そういう感覚を持ったお父さんなども多かったと思います。
 惜しむらくは、前作『マックス』終了の翌週から始まってしまったことで、子供にとっては“25年ぶり”と言われても実感が湧きにくいことでしょうか。
 
 視聴者が承知している(或いは調べれば分かる)部分を巧く利用して、違和感なくまとめたりもしています。
 ウルトラマンシリーズでは、ウルトラマンが活躍しなければならない都合上、防衛チームがどんなに頑張っても、怪獣を倒せることはごく僅かです。
 このウルトラマンさえいれば防衛チームはいらないという問題は、『ウルトラマン』37話『小さな英雄』でイデ隊員が悩んで以来、立ちはだかってきた壁でした。
 それに対する1つの答えが、“自由に変身できないウルトラマン”だったと思われます。
 変身できないまま戦うために、防衛チームの戦力はどうしても必要だったのです。
 郷秀樹は、新マンと心が一致しないと変身できませんでした。
 『帰ってきた〜』2話『タッコング大逆襲』Aパートで、タッコングを見付けるなり変身して戦おうとした郷は、変身できませんでした。
 これは、人間・郷秀樹として限界まで頑張った後でないと変身できないという描写だったわけですが、演出上統一が取れていない部分があるにせよ、新マンに変身できるのは、郷が絶体絶命のピンチに陥った際や、新マンと郷の“戦おう”という気持ちが重なった時だけというのが根底にあったことは間違いありません。
 『A』前半では、ウルトラリングが光るまで変身することはできませんでした。
 これは、変身する北斗と南のほかにAの意識が存在していたことが主な理由だったと思われますが、Aが戦うべきと判断した時にしか変身できないということは、必然的に、北斗と南は変身すべき時が来るまで、いつその時が来るか分からないまま、人間として戦わなければならないことになります。
 対ヒッポリト戦では、ヒッポリトに向かって行って直前に脱出して変身するつもり(当然、戦闘機は乗り捨てるつもりだった)だったのが、罠を察知していたAが変身を拒んだため、そのままヒッポリトに突っ込んでしまいました。
 ヒッポリトが3D映像だったため通り抜けてしまいましたが、あれが実体だったら激突死しています。
 『T』でも、初期はウルトラバッジが光るまで変身しませんでした。
 もっとも、『A』では北斗1人で変身するようになったためにウルトラリングが光る描写はなくなり、『T』でもいつの間にかバッジは光らなくなっていました。
 このように、作劇の都合もあって長続きしないものの、安易に変身できないという枷は、スタッフが常に考えていた部分ではあるようです。
 もちろん、ここには“あまり早く変身されると合成が大変だ”という大人の事情もあるのでしょうが…。
 
 一応、スタッフ的には、防衛チームにも頑張ってほしい或いは防衛チームが頑張っている姿を描きたいという想いもあったのだと思います。
 『80』37話『怖れていたバルタン星人の動物園作戦』で、UGMを見学に来た子供の“どうしてウルトラマンは地球を守ってくれるの? どうして最初から出てきてくれないの?”という疑問に、イトウチーフが「UGMは人事で80ってのは天命なんだ」と答えています。
 「人事を尽くして天命を待つ」という格言を持ち出して、「人間が全力を尽くし、それでも駄目な時にウルトラマンが助けてくれるんだ」と説明したわけです。
 まぁ、これは人間側からの言葉であり、視聴者はウルトラマンが自分を「天命」だなんて考えていないことを知っているわけですが、登場人物の口から「我々はそう考えているんだ」と言ってくれたわけです。
 ウルトラマンに変身する者が防衛チームに所属し、まず人間として戦ってからウルトラマンになるという展開の意義を分かりやすく説明してくれた言葉であるのは間違いありません。
 そして実際、この回では、矢的猛が変身せずにバルタン星人と対峙し、「人間としてギリギリまで努力する!」と言っています。
 それを受けて、『80』最終回では、“ウルトラマンであるが故に”矢的を出撃させないという流れになるわけです。
 これは私見ですが、『ガイア』のOPにある「ギリギリまで頑張ってギリギリまで踏ん張って(中略)どうにもならない、そんなときウルトラマンが欲しい」という歌詞は、このセリフを引っ張ってきているんじゃないでしょうか。
 『ガイア』自体既に8年前の作品ですが、何しろ主題歌ですから、この歌詞を知っている人は多いでしょう。
 当時世間では、思いっきりウルトラマンに頼っている歌だと笑われていたようですが、鷹羽は先程の『80』の台詞を知っていたので、前向きな歌だと感じていました。
 『ガイア』は本来は別系統の平成ウルトラマンですが、『80』という日本製テレビ版ウルトラマンの中で最もマイナーな作品に1回しか出ていない言葉をメジャーにしてくれたと考えれば、“空白の25年間”の出来事も、必ずしもマイナスばかりではないのかもしれません。

 また、誰でも知っている話でしょうが、『メビウス』でリュウとミライが出会うきっかけとなった「ウルトラ五つの誓い」は、『帰ってきた〜』最終話に出てくるものです。
 鷹羽は、さすがに『帰ってきた〜』本放送当時は記憶に残らず、小学生時代の再放送で知りました。
 この言葉、“ウルトラマンが地球人に贈った言葉”と思うと、かなり情けないものがあります。
 10年ちょっと前、某クイズ番組で「ウルトラ五つの誓い」を全部答えろという問題があり、正解した兄ちゃんが座右の銘です的なことを誇らしげに言っているのを見て、鷹羽は「そんないいもんかな〜?」とか思ってしまいました。
 もちろん、郷と弟分である坂田次郎の間での約束であるという側面を考えれば筋は通りますし、子供の生活の指針としては非常に良いことばかりなんですけどね。
 …今時、土の上を裸足で走り回ると、何を踏んづけるか分かりませんが。
 
 さて、『メビウス』1話では、「ウルトラ五つの誓い」は単に世界観の繋がりを表現するためだけに出てきたようなものでした。
 ですが、8話『戦慄の捕食者』で、リュウがかつてセリザワから「ウルトラ五つの誓い」を教わった時の話が出てきたことで、一気に重みが増しました。
 それは、なぜリュウが「ウルトラ五つの誓い」を胸に刻んでいるのかが描かれたからです。
 地球を守ってきたのは、過去の防衛チームではなく、ほとんどウルトラマンの力だったことにショックを受けているリュウに対し、セリザワは「ウルトラ五つの誓い」の中の「他人の力を頼りにしないこと」という言葉を教えます。
 防衛チームがいるからこそ(ウルトラマンに頼り切らず、自助努力を怠らないからこそ)、ウルトラマンは地球を見捨てなかったのではないか、と。
 リュウのショックの理由は、前述のイデ隊員の“ウルトラマンさえいれば、自分達は必要ないのではないか”という悩みと同種のものです。
 そんなリュウにとって、「防衛チームが限界まで戦った時にだけウルトラマンが助けてくれる」、つまり人間が必死に戦うことは無意味ではないというのは、かなり大きな意味を持つでしょう。
 奇しくもイトウチーフの「ウルトラマンは天命なんだ」と同じことを言っているわけですが、これが“ウルトラマンの言葉”の解釈として聞かされたわけですから、重みが違います。
 その後、ほかの四つの誓いを聞いて驚いているリュウがラブリーでした。
 あんなやりとりの後で「腹ぺこのまま学校へ行かぬこと」とか言われたら、そりゃあ驚きますわな。
 
 厳密なことを言い出せば、これまでの作品との繋がりがちぐはぐな部分が目に付いたりもしますが、各作品同士のテイスト自体が違うので、ある程度はやむを得ないかと思います。
 流れを受け継ぎつつオリジナルの話を紡ぎ、最後にどうなるのか、鷹羽はとても楽しみにしています。

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