「仮面ライダー響鬼」の大問題3 〜最大の難〜
後藤夕貴
更新日:2005年8月21日
 三回目となる今回は、最終回。
 ここまで、「仮面ライダー響鬼」という番組の問題点を指摘してきたが、そろそろ最大のガンと言っても過言ではない、「安達明日夢」と「設定の破綻」について語ろう。
 これまでで一番長い文となってしまったが、どうかご容赦を。

 なお、以降のコラムはすべて「仮面ライダー響鬼」第1話〜29話までの“高寺プロデューサー版”のみを対象としている。
 30話以降の“白倉プロデューサー&井上氏脚本編”には、まったく触れていないので、予めご了承いただきたい。


●不要視される明日夢
 「仮面ライダー響鬼」の主人公は、実はヒビキではない。
 ましてや、猛士側の誰かでもなく、魔化魍関係者でもない。
 完全なる非戦闘員として描かれている上、猛士の一員でもないごく一般的な高校生の少年・安達明日夢だ。

 変身能力も戦闘能力も持たないキャラクターが主人公など、仮面ライダーシリーズの中では過去例がなく、ヒーロー系特撮全体の中でもあまりない(まったく無いわけではない)。
 主人公=ヒーローではない作品の場合、主人公の扱いは大変難しくなる。
 何かしらの理由で事件に巻き込まれたり、ヒーロー達の傍で戦いを見ていたり、また本人自身が物語を左右するほど重要なキーパーソンだったりした。

 ところが、明日夢はそのどれにも当てはまらない。

 ただ猛士の面々と「知り合い」なだけで、本人は鬼と魔化魍の戦いには、100%関わっていない。
 正確には、1話と2話においてツチグモに襲われ、響鬼に助けられた事があるが、それからは(2005年8月現在)一度たりとも魔化魍が出現する現場にすら立ち入った事がなく、変身した鬼とも逢っていない。
 つまり、本作を「鬼対魔化魍バトルドラマ」として見た場合、明日夢というキャラクターはまったく存在意義がないのである。

 だが、それでも彼は間違いなく、本編の主人公だ。
 鬼や猛士に関わっていない者が主人公なら、当然、彼の生活描写は鬼や猛士のシーンと区別しなければならない。
 それは、一つの番組内に全く性質の異なるドラマが二つ混在する事になる。
 例えるなら、複数のチャンネルの番組をザッピングしながら見ているようなものだ。
 結果、それぞれのドラマは薄まり、場面の繋がりも希薄になり、どちらも味わいが乏しくなる。
 番組の性質上、視聴者はどうしても鬼対魔化魍の物語を求めてしまう。
 そのため、明日夢側の物語に対して価値が見出されなくなり、人によっては拒絶、あるいは無理矢理我慢して見続けなければならなくなる。

 驚くことに、ビデオやDVDに録画した過去の響鬼のエピソードを見返す時、明日夢登場シーンをすべて早送りしてみても、全体のストーリーに破綻は起こらない事がわかる。
 それどころか、飛ばしてみるとそんなに悪くない内容だという事にも気付かされる。
 もし、全話録画されている人が居たら、騙されたと思って、一度こういう視聴をしてみるといい。
 それだけで、本作への評価はかなり変わってくる筈だ。
 無論、本質は何も変わってはいないのだが。

 明日夢が関係するドラマパートとは、その程度の存在に過ぎない。
 このようなものが、どうして本編内であれほど大切に扱われてる必要があるのだろうか。
 明日夢パートは、「猛士側の物語を分断する」だけでなく、もっと大きな問題を作り出している。

 明日夢本人が、本作内でこれ以上ないというほどのダメ人間として描かれている点に注目したい。
  • 「主体性がない」
  • 「他人とろくに話もできない」
  • 「臆病な上、人として必要最低限の勇気もない」
  • 「自分勝手で、決して他人の気持ちを考えない」
  • 「無駄に悩み、さらにそれをまったく活かそうとしない」
  • 「謝る事ができない」
  • 「わがまま」
  • 「他人の迷惑をまったく考慮に入れない」
  • 「思いつきでしか行動できない」
  • 「その割に、まるで計画性があるかのような物言いを繰り返す」
  • 「性格的な魅力がまったく感じられない」
  • 「何をやっても咎められる事がなく、周りからチヤホヤされる」
  • 「他人から助言されただけで、まるで問題を解決しきったかのような態度を取る」
  • 「人間的に底が浅く、頼りなく情けない」
  • 「これらの問題点が、本編内で誰からも指摘されることがない」
 これだけ欠点が多いキャラクターが、どうして主人公として成立できるのか?
 そもそも、特撮ヒーロー番組に登場させる意味があるのだろうか?


 念のため、明日夢は「仮面ライダー響鬼」という番組に必要不可欠であり、絶対に外す事のできない存在であると主張する方々がおり、明日夢不要論を唱える人達と真っ向から意見が対立しているという事にも触れておかなければならない。
 必要不可欠と考えられるのなら、それなりの理由がある筈だ。
 その理由とは、何なのだろう。

 明日夢肯定派の方々の意見を拝聴すると、
  • この作品は、明日夢という少年の成長物語であるのだから、彼が主役じゃなければ、そもそも話が成り立たない
  • 今は情けないが、鬼達と触れ合うことで少しずつ成長していく過程を描いているのだから、そこに面白さを見出すべきだ
  • 明日夢はリアルな現代の少年像である。彼のリアルな生活描写には、共感を覚えずにはいられない
…などという見解が出てくる。

 だが、「仮面ライダー響鬼」という作品は、本当にそんな方向性を求められていた番組だっただろうか?

 ここで答えを出すなら、それは明らかに「否」だろう

 これらの意見を例えるなら、豪華なフルコース料理を目の前にしていながら、テーブルの上の飾り花を愛でるようなものだ。
 飾り花も、使い方次第では料理の場を盛り立てるものであるが、この場合、フルコース料理の横に添えられているのは、あまりにも不似合いなチューリップ。
 しかもそのチューリップを、料理の場に添えられているというだけで過剰に評価している状況。
 批評者が座っているのは、あくまで料理を食べる場なのに、だ。

 要するに、本来評価されなければならない部分とはまったく違うものに注目しているに過ぎない。
 これは、視聴者の一部に錯覚を与えるような作劇に問題があるのだろうか?
 筆者には別な理由があると思えるのだが、それについては後述しよう。


 確かに明日夢は悪人ではないし、心中に悪意を秘めたりはしていない。
 しかし、これだけ人間的な欠点にまみれていると、普通の感覚なら嫌悪感の方が先に立つ筈だ。
 まして、こんなキャラクターを中心に据えたがために、貴重な本編時間の何割かが無駄に消耗されていくのだ。
 響鬼達鬼の面々や、猛士の活動を純粋に見たいと思っている視聴者にとって、明日夢の存在はもはや害悪でしかない。

 明日夢の存在に意義を認めている方々の見解のほとんどは、明日夢が「仮面ライダーシリーズ」の番組に登場しているキャラクターであるという、一種のハーロー効果の影響を受けているのではないかと考えられる。

 ハーロー効果とは、いわば「肩書きに惑わされる」ようなもので、例えば物凄く支離滅裂な持論を述べている学者がいても、それが“ノーベル賞候補”であったら、その内容にも深い意味があるかのように錯覚してしまう事である。
 つまり、「面白い(筈の)作品に出ているキャラなんだから」特別な見方をしなければならない、重要なテーマが込められているに違いないと、無意識に思考を制御するわけだ。
 もし、明日夢が特撮ヒーロー物でもなんでもない、特段目立つ売りもないごく普通のドラマに出てくるキャラクターだったら…否、完全オリジナルで過去のどのシリーズとも関連を持たない特撮番組に出演していたとしても、おそらく誰一人注目はしなかっただろうし、されたとしても「何あのバカ、超ムカつく」という感想を抱かれて終わりだった筈だ。

 明日夢の行動の一部に共感する…つまり、視聴者自身がどこか似ている部分を持っている場合、そこから思い入れが生まれるケースもあるだろう。
 それはそれで悪い事ではないが、この場合、そんなキャラクターが「本当に必要なのかどうか」を見極めなくてはならない。

 この番組は、仮にも「特撮ヒーロー番組」である。
 
 残酷な戦闘シーンや人間の対立という、醜い部分を見せたくないという身勝手な親を納得させる、虚勢されたドラマではない。
 想定された視聴者層を満足させる、活劇でなくてはならない。
 明日夢にどんなに共感を覚えたとしても、それは「仮面ライダー響鬼」という番組を追う事とは、まったく関係ないのだ。

 明日夢は、途中から猛士の関東支部本拠である「甘味処たちばな」にアルバイトとして入っている。
 そのため、猛士に近い位置に居て様々な情報を見聞きできるようにはなった訳だが、それでもまだヒビキ達の活動からは遠く離れた位置にいる。
 そして、何があろうが距離を縮めようとは、まったくしない。
 彼らの戦いの傍観者にすらなれていないのだ。
 にも関わらず、毎回オープニングナレーションで「ヒビキさんの傍にいるだけで、鍛えられたような気がします」などと、いけしゃあしゃあと述べている。
 傍に居るだけで鍛えられる気になるって、それはダイエット用品を買って痩せたつもりになるようなもので、まったく意味がない。
 鍛えるという意味を根本的に間違えているキャラなのか、或いは作劇の意図と視聴者の感想が、これ以上ないくらいに正反対になっているのか…
 これはもはや、後者だと解釈するしかないだろう。
 このように、明日夢は「何かをした“つもり”」「成長した“つもり”」を繰り返し、現在に至っている。
 その「つもり」の部分を指して、彼が成長しているという意見や、していないという意見が出てくるだけなのだ。

 「明日夢は、充分に成長しているのが見えるじゃないか!」という意見をお持ちの方もおられるだろう。
 確かに、明日夢の成長は完全なゼロではない。
 だが、限りなくゼロに近い成長は、しているうちに入らない。
 0と1だけではないのだ。

 弱っている病人に布団を敷いてやる。
 アルバイト先で電話を取る。
 接客をこなす

 これらは確かに、第一話の時点での明日夢なら、出来なかった事かもしれない。
 しかし、こんなのは人間として「出来て当たり前」の事でしかない。
 やったからと言って、誰かに褒め称えられる事ではないし、褒められてもそれはむしろ、「冷やかされている」のに近い。
 まして、明日夢は高校生である
 高校生にもなって、その程度の事ができるようになりましたとは…
 彼は、小学生の頃は母親におぶってもらわなくては移動もできないほどのヘタレだったのだろうか?
 普通の人間と比較して、マイナスの位置からスタートした者が、ようやくゼロの位置まで行けたとしても、それはただ「ちょっとマシになった」程度のことでしかなく、決して成長ではない。
 成長というからには、プラス10、50、100と次々にステップアップしていかなくてはならない。
 まして、それを本編内で前面に出して、誰が見ても納得できるように描かなくては意味がなく、セリフだけで説明されても説得力などない。
 「明日夢の成長がわからないなんて、理解力がないんじゃないか?」という意見は、皮肉にすらなっていない。
 どんな理解力を持つ人にも、充分にわかるようにしなければ失格なのだ
 ごく一部の「その気になっている」人達だけが理解しているという程度では、まったく無意味だ。

 明日夢は、実は初期の頃の方がはきはきした態度だったり、自分から話題を作り出そうと頑張っていたりしていたのだが、ある時期からそれがまったくなくなった。
 6話では、自主的な判断と行動を見せている場面もしっかりあり、イブキとヒビキが家まで送るという申し出を断り自分で帰ったり、電車の中で他の学生を見て自分も参考書開いたりしていた。
 この頃の明日夢には、まだ明確な向上心があったのだ。
 アルバイトを始めてから、少しましになった感があるのだが、高校入学前後の頃はむしろ最初の頃より退化しているのだ。
 この部分を無視して、成長したも何もあったものじゃないだろう。


 よく考えれば、明日夢が高校生であるという意味も、ほとんどない。
 かと言って、小学生やそれ以下だったら意味があったかというと、それもどうだろうか。
 明日夢を取り巻く境遇は、明らかに「高校生の男子に対するもの」ではない。
 すべてにおいて生ぬるく、甘やかし過ぎなのだ。
 明日夢が、厳しい境遇に立たされてそこから奮起し、窮地を乗り越えるといった描写は、今のところ一つたりともない。
 酷い目に遭った事はあるが、それについても周りが慰めてくれただけで、後は本人が一人で泣いたり、無言で顔を歪めたりしているだけだ。
 まして、彼を気遣ってくれる人達に対する、お礼や詫びの言葉もない。
 自分の殻に閉じこもっていれば、後は周りが何とかしてくれるという、甘ったれた態度が前面に浮き出ているかのようだ。
 ブラスバンド部に入り、希望していなかったホイッスル役をやらされて不満タラタラになるエピソードは、もはや呆れ果てて言葉もない。
 一年生で、しかもゴールデンウィーク明けに入部したにも関わらず、いきなり演奏の一部を任されるという大役を与えられたのに、それに不満を漏らすというのは、もはや身勝手を通り越して「人間的に問題がある」と言わざるをえない。
 その上、部長から丁寧な叱咤を受けたにも関わらず、それを今後に活かした描写もまったくなく、解決させないままで放置する
 すべてにおいて、こんなけじめの付けられない調子である。
 もし、製作側が「人間的に問題があり、嫌われる事を目的として」作り上げたキャラクターだったとしたら、明日夢はこれ以上ないほどの成功例だと言えよう。

 2005年8月現在、すでに放送は2クールを終え、後半に差し掛かった。
 もし、本作が本当に「明日夢の成長物語」なのだとしたら、ここに至ってまったく成長が見えないというのは、あまりにもまずすぎる。
 百歩譲って、本作を成長物語だと認めたとしても、それは「最後に成長の結果を見せればそれでいい」という事にはならない。
 それでは、誰も納得など出来ない。
 途中経過で、誰にでもわかるように成長の様子を見せ、最後にさらなる進歩を見せるのが、成長系物語の理想的構成だ。

 「仮面ライダー響鬼」は、それすらも果たせないのに成長物語をうたっているという、大変奇妙な作品になってしまったのだ。


 なお、雑誌の情報によると、この後再び例の万引き少年が登場し、明日夢に絡んでくる展開になるそうだ。
 今更また万引き事件を絡める意図が理解出来ないが、この展開で、明日夢がどのような行動を取るのか期待したいところだ。
 明日夢の、明確な成長を見せられる数少ないチャンスかもしれないのだし。

 もちろん、筆者は何の期待もしちゃいないが。


 明日夢だけが、問題の元凶というわけではない。

 本来ならば秘密にしなければならない猛士の秘密を、「なんとなく話しちゃうんだよね〜」という、噴飯物の理由で明日夢にたれ流してしまう猛士の面々。
 特に、勢地郎やみどりの「そこまで話すか」レベルの独白は凄まじく、明日夢から質問がないにも関わらず、勝手に情報を与えてしまう。
 当初、ヒビキが秘密をバラした事を怒っていた香須実も、いつのまにかそんな事を忘れてしまったかのような態度を取り始めた。
 またイブキなどは、明日夢が猛士の人間でない事を知りながら、ただヒビキの友人というだけで「今度、僕とヒビキさんが魔化魍退治する現場に、見においでよ」などと、とんでもない事をのたまっている。
 この、あまりにも守秘義務放棄な態度は、どうだろうか。
 確かに、明日夢がたちばなでバイトを始めてからは、多少なりとも猛士の事は知らないとまずいだろう。
 だが、それにしても明日夢はあまりにも知らされ過ぎだ。
 魔化魍の活動範囲内に居る人達は、命の危機に晒されているというのに、猛士から何の情報ももらえない。
 また、警察機関や地域団体などにも、魔化魍情報や警告が促される事はない。
 にも関わらず、鬼や魔化魍と何の関わりもない明日夢が、こんなに情報を与えられるのは不自然だ。
 明日夢を主人公とした場合、ある程度本編内の秘密を知らされなければ話が進まないというのはわかる。
 だが、実際には話はまったく進んでいない(笑)。
 はじめからヒビキだけを主役にすれば、明日夢が猛士の秘密を知っていくプロセスが丸々省けるというのに。
 「明日夢の行く所、必ず魔化魍の影があり」とでもしない限り、明日夢が猛士の事を知る必要はないのである。
 というか、必要がないままの状態を維持しているのに一方的に教わるというのが、違和感の根源なのだ。

 持田ひとみや(明日夢パートに登場する際の)天美あきらは、すでに存在意義が消失している。
 持田の行動は、なんとなく明日夢と話し、「最近、変わったね♪」とか、とても同意できなさそうなセリフを吐くだけで、ただ明日夢の尻を追いかけているだけだ。
 それでも以前は、明日夢を引っ張り出そうとしたり、たちばなに行くにも理由を構築したりと、それなりに説得力のある行動を取っていたが、今ではまるで「呼ばれもしないのにそこに居る」感じに甘んじている。
 そして、持田と明日夢が絡むという事は、その場面内では必然的に猛士関連の情報提示が止まる事を意味する
 つまり、以前は明日夢パート自体が展開をぶち切っていたのだが、現在は持田が、展開を制止させてしまっているのだ。
 25話、プールでのシーンで持田を巡る場面がもしなかったら、もっとスムーズな展開になっていただろうし、務が登場する以外では、本編へのさしたる貢献もしていない。
 ましてや、務登場場面など、他でも代用が効きそうな程度のものだった。

 あきらにしても、ヒビキが明日夢に依頼した「学校でのサポート」がほとんど意味を成さなくなり、現在に至っている。
 授業のコピーを取ってきてあきらに渡したりしているシーンは確かにあるが、それに対するあきらのリアクションは皆無に等しく、珍しく明日夢が仕事? をこなしているにも関わらず、その意味合いが薄められる。
 これは明らかに、天美あきらというキャラクターがしっかり描かれていないために発生している問題だ。
 よく見ると、あきらの描写は本当に実が少ない。
 第一回の時にも触れたように、鬼の弟子としても不充分、オオナマズの時の大移動はともかく、それ以外ではろくな活動もせず、印象深いシーンはディスクアニマルを起動させるシーンや、童子と姫に対して「許さない」発言をしたシーンのみ。
 明日夢との初対面時の、ツンツン態度が消滅してしまってからは、まったく個性を発揮できないままだ。
 個性がないから、彼女を巡って持田が邪推を張り巡らせても、なんだか全然ピンと来ない。
 ヒロイン同士の複雑な関係を匂わせたいというなら、どちらにも確固たる個性を与えなければダメだろう。
 最近の明日夢パートは「ギャルゲーか恋愛シミュレーションみたいだ」という意見がよく出てくるが、現実には、それすらまともに果たせていないのだ。
 
 何をやっても中途半端でダメとは、これは一体どうしたことなのだろうか?


 噂によると、以前スポンサー側から「明日夢を殺せ!」というきっついお達しが出た事があったようだ。
 残念ながら裏付けは取っていないので、あくまで信憑性の薄い噂に過ぎない話だが、なんとなく納得してしまいそうな説得力がある。

 成長物語の筈なのに、メインとなる出番もセリフも削られ、初期の頃よりもどんどん退化していく主人公。
 反比例するように、少しずつパワーアップしていく鬼達の戦闘シーン。
 そして、恋愛物風味の演出もスカスカで、そちらの要素もまったく満たせておらず、何を取っても不完全。

 もはや、「仮面ライダー響鬼」は、明日夢を主人公として良い作品ではない。


 さて。
 ここまで散々な事を書いてきたが、明日夢役の栩原楽人氏自身は、大変素晴らしい演技で本作に当たっている事についても触れておこう。

 劇場版明日夢や、別な作品に出演した際の栩原氏を見ると、まったく異質なキャラクターをも演じきれるという事がわかり、本当に感心させられる。
 明日夢というキャラクター自体は、挙動不審だったり情けなかったりするのだが、栩原氏はそれらを実に見事に演じており、評判の悪いキャラクターにも活き活きとした生命感を与えている。
 この辺は、演技力に乏しい天美あきら役の秋山奈々氏と比較すれば、一目瞭然だ。
 あえて失礼な言い方をさせてもらえれば、年齢に似合わない立派な演技力をお持ちで、この先が本当に楽しみだ。
 栩原氏の演技があまりにも見事なため、明日夢との異常な一体感を視聴者に与えてしまっている部分もあるようだ。
 事実、明日夢嫌いの人の中に、栩原氏をも同様に嫌っている人が居る。
 だが栩原氏自身、明日夢のあり方には大きな疑問を抱いている節があるようで、メルマガの中でも「自分はこんな奴ではありません」といった内容のコメントを掲載している。
 個人的には、肩を叩いて同情したい心境だ。
 

 ちなみに、イブキ役の渋江譲二氏も、役柄に対して大きな不満を持っているらしいという話があり、劇場版製作時、テレビ版イブキのイメージを引っ張りすぎた脚本内容に異を唱えたという。
 また、変身後の声が軽すぎてファンから指摘を受けまくっているヒビキ役・細川茂樹氏も、インタビューなどでは自分のアフレコの下手さを自戒しているような発言があったりする。

 本編内のキャラクターはともかく、それを演じている役者さん達にも、それなりの悩みや苦労があるようだ。


●破綻する設定
 「仮面ライダー響鬼」は、描写が不充分過ぎたり、余計な謎の隠し方をするために視聴者を困惑させたりと、多くの問題を抱えている。
 しかし、その根源には意外にしっかりとした設定を持っており、それ自体は大変趣深く、興味を引かれるものだったりする。
 要は設定の活かし方がうまく行ってないだけで、それ自体は決して悪いものではなかったのだ。

 ――が、その肝心の設定も所々で破綻を来たしてしまい、すでにフォローが効かなくなってしまった部分も多い。

 前回、魔化魍について色々書いたが、あれは設定の破綻ではなく隙が多すぎるというだけで、その気になればアフターフォローを効かせられる部分も多かった。
 だが、中にはもはやどうしようもないものがある。

 代表的なものの一つに、魔化魍は「清めの音以外でも殺せる」という事を、本編内で証明してしまっているというもの。
 13話では、乱れ童子が自分の育てていた幼生体のウブメを食らってしまうシーンがある。
 まさか、腹の中に入ってもなお生きているという事はあるまい。
 これは、後に「ある程度成長した魔化魍は、清めの音でないと倒せない」といったフォローを入れれば済む話ではあるが、今のところそういう表現はない。
 どうやら、スタッフはこのシーンのヤバさに本当に気付いていないようだ。
 ここでウブメが食い殺されたという事は、各設定に細かな悪影響を与えている事にも注目したい。
 前回までの猛士・魔化魍の話に戻るようだが、つまりこれは、幼生体の魔化魍を殺すのは比較的容易だというのを証明した事になってしまう。
 食われるという事は、その死因は歯で「噛み砕かれる&噛み裂かれる&消化される」のトリプルパンチと解釈していいだろう。
 という事は、最低でもそれに似た属性の攻撃で、簡単に駆除できてしまう理屈になる。
 よもやまさか、魔化魍を倒す方法が「音か食べるか」の二択しかないわけではあるまい。
 それが猛士側にも判っているならば、幼生体状態の魔化魍を駆除する事に大変な意味が出てくる筈だ。
 なにせ、鬼や音撃が必要なくなる可能性が高まるわけだから
 少なくとも、成長し切った魔化魍と戦うような、高すぎるリスクを払う必要はなくなる。
 最大の脅威は姫と童子だけになるが、こいつらはいつも鬼に瞬殺されているのだから、鎧化or乱れ化しない限り、大きな障害にはなるまい。
 たとえ、黒服や白服が魔化魍を発生させる行為を止められなかったとしても、それだけで状況はかなり変わってくる筈だ。
 もっとも…夏はまた別な話になりそうだけど。

 細かな問題だと、威吹鬼にもあったりする。
 8話冒頭、長時間大気中に出ていたため、体表がひび割れ始めたイッタンモメンが、威吹鬼への攻撃を止めて水中へ逃げてしまう場面があった。
 だが不思議な事に、威吹鬼はこのイッタンモメンを追撃しようとしなかった
 水中でも烈風による音撃が使えるという事は、その後の対オオナマズ戦で立証している。
 ましてこの場面では、イッタンモメンは弱り始めており、オオナマズの時よりも有利だった筈だ。
 にも関わらず、威吹鬼はイッタンモメンの追撃を諦めてしまっている。

 これは、恐らく後に設定が変えられた影響だろう。
 この時点では、烈風を水中で使う予定などなかったのではなかろうか。
 だから視聴者も、8話の時点では別に不自然とは思わなかったのだ。
 後で水中戦なんかやってしまったがために、以前の描写がおかしくなったのだ。
 これは、はなから威吹鬼にぶつける相手を水棲魔化魍にしなければよかっただけの話だ。

 こういう細かなミスが、「仮面ライダー響鬼」には本当に多い。


 最大の設定破綻は、「夏の魔化魍には太鼓しか効かない」という設定と、「響鬼紅」だろう。
 23話「鍛える夏」と24話「燃える紅」は、現状最強の設定破綻を見せた回として、ファンの間では有名だ。

 夏に出現する魔化魍は巨大なものではなく等身大サイズになるが、その代わり分裂能力を持ち、音撃鼓による攻撃しか効かない。
 音撃弦「烈雷」の一撃は、ドロタボウを無駄に分裂させてしまう。
 そのため、この時期だけは管の鬼も弦の鬼も、一時的に音撃鼓を装備して戦わなくてはならず、さらに元々太鼓使いの鬼は、リーダー的立場としてさらに高みに登らなければならない。
 ヒビキは、新人のトドロキに太鼓を教え、自分は「響鬼紅」という強化体になるためにさらなる鍛え直しに入る。
 音撃鼓を装備した轟鬼と威吹鬼、そして紅になった響鬼は、協力しあってドロタボウの大群を撃滅していく。

 このエピソードは、「鬼が武器を使い分ける必然性をなくしてしまった」という事で、悪名が高い。
 これまでは、扱う武器の特性によって担当の鬼が振り分けられていた筈なのだが、実はヒビキも過去に弦や管の修行をした事があるとか、特に何の鍛え直しもせずに、威吹鬼が太鼓を使いこなしたりとか、まるで「鬼はすべてのタイプの音撃武器を使いこなせる」かのような表現をしてしまった。
 どんな魔化魍が出ようが、出動時に3タイプの武器をまとめて持って行き、魔化魍の種類が判明した時点で選択した方が遥かに効率的だし、裁鬼のように過労で倒れるような者を出さなくて済む。
 もし、音撃武器の絶対数が足りず、その振り分けの都合で鬼のタイプが分けられているのだとしたら、ただ武器を量産すればいいだけの話。
 バットの本数で、バッターの人数が決まるわけではないのだ。
 確かに、轟鬼はその時点でまだ弦しか使いこなせていない状態だったが、すでに数多くの戦闘経験を積んでいる筈の他の鬼達が、彼同様一種類の武器しか使えないという事は、ありえまい。
 本編内情報では、威吹鬼・斬鬼・裁鬼が音撃鼓を使用している(または、していた)事が述べられている。

 「響鬼紅」は、さらにとんでもない。
 こいつは、音撃鼓なしで魔化魍を破壊できてしまうのだ。
 確かに、この戦闘は豪快でパワフル、爽快感があるし、個人的にはかなり燃える。
 だがよくよく考えると、これはあってはならない表現だった。

 紅は、それまで響鬼が使用していた音撃棒をそのまま継続して使用する。
 つまり、魔化魍を破壊できる性能を持つ、特別な音撃棒に持ち替えたわけではない。
 純粋に響鬼自身の能力で、魔化魍を一撃爆砕しているのだ。
 しかも、紅モードには一時間持続可能という設定がある。
 一時間もあれば、24話に登場したドロタボウの大群など、威吹鬼や轟鬼の手助けなくても容易に全滅させられただろう。
 また、25話ではヒビキ専用の移動機関として、大型バイク「凱火」が登場。
 そのため、タイムリミットをより有効に活かせるようになった。
 …要らないジャン、他の鬼。

 また、紅の設定を読み込むと、理屈の上では「夏の太鼓鬼達は、みな特別な存在になる」とも取れる。
 という事は、同じ太鼓使いの弾鬼や、28話から登場の鋭鬼も強化され、同様の能力を持つ「弾鬼真っ青(仮)」「鋭鬼真っ赤っ赤(あれは赤色なんだろうか?!)」になれなければならない。
 すると、それだけで魔化魍退治効率が跳ね上がる。
 響鬼と弾鬼が出向けない所にだけ、他の“臨時太鼓使い”の鬼が出向けばいいわけで、それだけでも、いつもの出動より楽になる事は間違いない。

 ――はて。
 じゃあ、もっと効率を高めるために、夏以外にも紅になってもらえば、より良い結果に恵まれるのではないか?

 響鬼紅最大の問題点は、ここにある。
 夏にだけ紅になる意味が、まったくないのだ。
 普段から紅になれるように訓練しておけば、少なくとも苦戦はしないだろう。
 大型魔化魍には、結局太鼓を使わないとダメなのかもしれないが、それでもノーマル響鬼よりは展開が楽になると見て間違いなかろう。
 もし、音撃鼓をくっつけなくても大丈夫というなら、かつて響鬼がバケガニと対戦した時のような「音撃鼓を取り付けるまでの苦労」が解消され、それだけで大変な意味が生まれる。
 仮に、乱れ童子クラスの敵が出てきたとした場合、ノーマルより紅の方が対応に向いているのは明らかだ。
 まして、みどりも爆裂火炎鼓などを開発する必要はなかった筈。
 なんとまあ、他の鬼どころか、ノーマル響鬼までも要らなくなってしまうじゃないか。
 これは、ここまで積み上げてきた大事な設定要素を自ら突き崩すようなものであり、もはや絶対にフォローが効かないものである。
 どんなにフォローを試みても、それはただの言い訳にしかならないだろうし、そこからまた矛盾が生まれる可能性の方が高い。

 と書いたら、29話にて響鬼紅が音撃鼓を使用し、ツチグモを撃退する場面があった
 状況によっては、必ずしも音撃鼓を使用しない訳ではないようだ。
 だとすると、響鬼紅が「音撃鼓を使用しなくても良い」というのは、28話のみどりの台詞も合わせ、“清めの音が響きやすい"から夏の魔化魍に対してのみの条件だと見るべきだろう。

 ぐわ、しまった。
 ならば、前言撤回しないと!!
 
 等身大魔化魍には音撃棒のみ、大型魔化魍にはさらに音撃鼓をプラス。
 紅自身に清めの音を増幅させる能力があるらしいから、さらに音撃鼓を使えば、二重に増幅して叩きつける事が出来る。
 おお、確かにこれは大変理にかなっている。
 これは申し訳ない事を書いてしまった!

 というわけで、「紅、音撃鼓不要論」は、あえて原文を残したままで撤回させていただきたい。
 まあ、それでも紅モードを常に維持する必要性云々の話は変わらないのだが…
 これだから、放送中の番組のコラムは難しい。
 にゅーむ。


 しかし、何故設定破綻が生まれてしまったのだろう。

 理由は、メイン商品「DX音撃棒セット」の販促目的として導入された“テコ入れ”要素が、巧く消化されていなかったからだ、という見解がある。
 響鬼の関連商品は、あまり売れていない。
 個人商店では、新商品が出ても仕入れを止めたり、あるいは商品陳列スペースを縮小する事も多いという。
 また、大型店舗でもなりきり系は特に酷い状況のようで、各所で嘆きの声が聞こえているようだ。
 唯一、ディスクアニマル関連商品だけが売れていたそうだが、これも発売当初は販売実数が少なかったから行き渡らなかっただけで、実際にはそんなに目を見張る売り上げを記録したわけではない。
 ライダーシリーズは、昨年度「仮面ライダー剣」の失敗のこともあり「前より売り上げが低かったです、てへっ☆」という結果は、絶対に許されないのだ。
 それほどシビアな状況であるにも関わらず、現実的に響鬼の玩具は売れない。
 そのため、メイン商品の販促を求めて「鬼全員に太鼓を使わせる」という展開を命じられたのではないかというのが、この説の内容だ。

 この説には確固たる裏付けがないのだが、ものすごく説得力のある内容のため、疑う余地はほとんどない。
 だが、実際にテコ入れ指示があろうがなかろうが、太鼓を使うシーンが増えるという事は販促に影響を与えるわけなので、結果的には同じ事になる。

 ところが、そのテコ入れ要請があまりに急過ぎたのだろうか。
 製作側は、鬼全員で太鼓を…というシチュエーションの重要性を、うまく咀嚼出来なかった。
 これまで積み上げてきた演出や緻密な設定と溶け合わせる事が出来ず、このような形で垂れ流さざるをえなかった。
 そう考えれば、このような杜撰な展開も納得が行く。
 23話では、太鼓を使う事に対してトドロキに反抗的態度を取らせ、24話では、最終的に太鼓を使わなくてもいい状況を作り上げてしまった。
 先の説の真贋はともかく、これはどう見ても「太鼓アイテムに魅力を感じさせる」ための内容ではない。
 結局、販促どころか益々太鼓の存在意義を薄めてしまったのだ。

 「仮面ライダー響鬼のお仕事」でも鷹羽氏が書いていたが、そもそも「響鬼紅」の初登場と、太鼓販促? を同時に行ったのが間違いなのだ。
 それぞれが別なエピソードで描かれていれば、商品に対するけん引力がより高められただろう事は、想像に難くない。
 しかし、これをまとめてしまったため、太鼓を見せた後にそれを打ち消すような真似をしでかしてしまった。
 これでは、本末転倒もいいところだ。

 過去に紅になった事があるのに、一年後に鍛え直しをしないと再び紅化できないという響鬼の設定も、冷静に考えるとかなりとんでもない。
 この設定は、それ以前に提示されている「鬼としての能力を維持するため、身体を鍛え続けなければならない」というものと、思い切り反発している。
 響鬼は夏にしか紅になれないとするなら、普段は「紅にならない程度の鍛え方」をしていた事になり、いわば「手抜き」だった事が裏付けられてしまった。
 一歩間違えると、中途半端な鍛え方しかしていない者が「鍛えてます」などと良く言えたものだ、という事にもつながりかねない。
 これは、これまでヒビキが築いてきたステイタスを覆しかねないほど、危険な問題だ。
 ノーマル響鬼より、紅の方が汎用性が高いのは、誰でもすぐに理解できる事だ。
 ヒビキ自身にもそれがわかっている筈だから、どうせ変身するのなら、いつも紅になれる状態にした方がいいだろう。
 以前はノーマル響鬼の能力の限界にぶち当たり、ろくな戦闘が行えなかったというエピソードもあったのだ。
 あの時、紅になっていれば、もっと有利な展開に持っていけた事は間違いない。
 それどころか、紅化しない理由がない。

 ――ヒビキは、一体何を考えているのでしょう?
 
 
 トドロキの方も見てみよう。

 23話を見ると、トドロキはヒビキに対して「教えてくださいよ! どうして俺が太鼓を叩かなきゃいけない訳を!」と言っている。
 このセリフから、トドロキは“夏の魔化魍の特性と、それに対する対策”について、まったく知らなかった事が伺える
 またその後、ヒビキが勢地郎に「トドロキ用の太鼓とバチを届けて欲しい」と電話した時、トドロキはそれを聴いて「ええーっ?!」と奇声を発している。
 ここから、トドロキは「そこまでして太鼓を使わせたいというヒビキの意図が理解できない」状態であると判断できる。
 この上で、ドロタボウに対して烈雷をかましてしまったのだから、もはや完全に夏対策知識がなかったと断言できよう。

 ――斬鬼に二年間も付いていて、いったい何を見てきたのか。

 この辺については、「仮面ライダー響鬼のお仕事 第五回」にて鷹羽氏も問題提起しているので、そちらを参照していただきたい。
 少なくとも、これだけでトドロキの周辺設定がガタガタになっているのは、見逃せない。

 しかも、トドロキ太鼓問題は、これだけに留まらなかった。
 なんと26話では、またまたバケガニが登場してしまい、轟鬼が烈雷で応戦、これを駆逐している。

 みどりの談によれば、夏の間は白服が生み出す等身大の魔化魍は響鬼(太鼓の鬼)が担当し、その間、黒服が生み出す巨大な魔化魍は、威吹鬼(管の鬼)や轟鬼(弦の鬼)が担当するのだそうだ。
 ここで、またも設定破綻を発生させてしまっている。
 24話の時点までで、そんな話はまったくなかった筈だ。
 おいおい、たった2回後の話だぞ〜。
 夏の間、このような担当区分が出来るのなら、それに越した事はないだろうし、益々威吹鬼や轟鬼が音撃鼓を使用する意味合いが薄まる。
 否、薄まるどころの騒ぎじゃない。
 このエピソードだけ見ていると、まるで23話と24話の、トドロキを巡るやりとりがすべて無かったことにされたようにも感じられる。
 確かに、弦の鬼が現場に向かってみたら夏の魔化魍だったというなら、太鼓の方も覚えておく意味はあるだろう。
 しかし、ならば益々トドロキが夏の対応を知らないのが問題となるし、ヒビキが教えなかった事は、それを上回る大問題となる。
 まして、管や弦の鬼が臨時でのみ太鼓を使用するという形式になってしまうと、今度は特別遊撃班の存在意義が消滅する。
 響鬼紅がいれば、いつもの戦い以上に魔化魍を簡易撃破できてしまうのだから、本当ならば特別遊撃班の重要性はさらに高まる筈なのだ。
 
 このように、自分達で構築した設定をすぐ後に自らの手でぶち壊しにする意味は、いったい何なのだろう?
 
 
 「仮面ライダー響鬼」では、新設定が紹介される度に、どこかに矛盾が発生するという事を続けている。
 矛盾というよりは、強烈なツッコミ所を生んでいるというべきか。
 どう考えても、新しい設定が加わる事によって影響を受ける“既知の設定”の見直しが行われていない。
 これでは、素人も同然のつくりだ。
 どちらにしろ、このようなお粗末な展開にしてしまい、あまつさえ自分達で築いたものをも壊してしまったとあらば、もはや製作陣に対して同情の言葉すらない。

 せっかく、紅の戦闘シーンはあんなに燃える内容だったのに…
 ああもったいない。

 もっとも、6話の時点で、“肉体が変化した筈の”響鬼の胸装甲の一部が外れたまま、戦闘シーンを撮ってしまうようなスタッフだから、元々注意力が足りないのかもしれないが
 「は?」と思った人は、響鬼の対バケガニ戦を良く見るといい。
 左脇腹の装甲が外れたままの状態で、音撃棒を振るっている姿が見られるから。


 こういった指摘を重ねると、一部からは「どうしてそんな粗探しばかりするのか、どうして本編を素直に楽しめないんだ?」という意見を耳にするケースが多い。

 だが、ここで挙げてきたものは、すべて「普通に見ていれば、意識しなくてもすぐに気付く程度のもの」ばかりであり、わざわざ粗探ししなくても判別可能なものばかりだ。

 逆に、これらの問題に最後まで気付かなかったとすれば、それはあまり集中して観ていないという事になるだろう。
 まして「仮面ライダー響鬼」は、緻密な裏設定とその構成の確実さが売りになっていた筈の番組だ。
 その中で、このような大問題が多く出てきているという事実は、もはや粗探しなどという状況ではないのだ。
 ところどころ違和感を覚えてしまっていては、とても素直に楽しめない。

 素直に見ていたって気になるんだから、しょうがないのだ。 



● まとめ
 悲しいことであるが、「仮面ライダー響鬼」という番組が、2005年8月現在限りなく失敗に近い状況にあるのは、もはや疑いようがない。

 これは、筆者が勝手に判断した見解ではない。
 数多くのファンの感想をまとめたからでもなく、現実的に、失敗の痕跡が多く覗いているためだ。

 無数のテコ入れと、それにより歪んでしまった各種設定や伏線などはその一例であるし、さらには売り上げ成績が、低迷の極地とまで言われた前年度の「仮面ライダー剣」をも下回る可能性も出ており、あらゆる方面に深刻な影響を出している。
 もちろん、その失敗の要因は、ここで述べてきたもの以外にも多く存在していると思われる。
 例えば、予算の無駄遣いや納期遅延問題などが、その一例として噂されている(あくまで噂にすぎないため、実際のところは不明瞭だが)。
 それ以外にも、何か表面化していない“重大な問題”が秘められている可能性は否定できないが、そこから先は「製作陣の内情」を探る事になってしまうので、一般視聴者である筆者には知る術はない。
 ただ、なんとなくであるが、内情問題の一部が、実際の作品に少しずつ漏れてきているかのような印象はある。
 無論、あくまで印象なので特定はできないが。
 

 一方で、本作は人気はあるし、内容にもまったく問題点を感じないという人も居る。
 しかし、冷静に本編を見ているとあまりにも多くの矛盾や問題点が浮上し、また特撮ヒーロー番組らしからぬ描写が出てくる。

 これを、ただ「響鬼が嫌いな人だから、そう感じるだけだ」と切り捨ててはいけない。

 番組開始前、その余りに風変わりな容貌は、結構多くのファンの注目と期待を集めたのだ。
 特に、前年度の「仮面ライダー剣」が、それまでのシリーズの中で最も低い評価を得てしまったという背景もあり、多くのライダーファンが「次こそは」と期待したのだ。
 また、筆者のような「仮面ライダークウガ」に対するアンチ寄りの人も、「四年も経ったんだから、高寺プロデューサーも何か変わっただろうし、きっとすごいものを出してくるに違いない!」と期待していただろう。
 三年続いた白倉プロデューサー&井上敏樹氏の作風に飽き、さらにそれを踏襲しつつもまったく発展させられなかった日笠プロデューサー&今井詔二氏のスタイルに同調できなかった人達は、今年こそ! という期待を込めて、「仮面ライダー響鬼」を待ったのだ。
 確かに、「こんなのライダーじゃない」という定番意見はあったが、それを踏まえても、「仮面ライダー響鬼」という番組は、ひょっとしたら平成ライダー中もっとも恵まれた状況でスタートを切れた作品だったかもしれないのだ。

 だが現在、すでに響鬼を見なくなった、或いは面白いと思えなくなったという人はあまりにも多い。
 あれだけ多くの注目と関心を引きつけていたにも関わらず、だ。
 期待していたものとあまりにも違いすぎたという事もあるのだろうが、それ以前の問題が大きすぎたのだ。

 「仮面ライダー響鬼」は、作劇に対するおかしなこだわりが優先してしまったがために本道を踏み外し、そのまま戻る事なく突き進んでしまったようだ。
 だから、本道(ヒーロー性)を求める人からは嫌われ、横道に逸れた事を良しとする人からは迎えられた。
 ただ、仮面ライダーという「本道追求を旨とされるシリーズ作品」において、この横道逸れは致命的過ぎた。
 大失敗を記録したブレイドの後で、そんな事をやっているゆとりはなかった筈だ。
 それにも関わらず、横道に逸れた響鬼は本道に戻る様子が見られない。
 ならば、いっそ横道に逸れた作品として楽しめれば…とも思うわけだが、今度は本道への「引き戻し(テコ入れ)」が加えられる。
 結果、「仮面ライダー響鬼」という作品は、本道にも横道にも入れず、その狭間で右往左往するだけの中途半端な位置付けの作品に成り下がってしまったのだ。


 なお、本作に対して、少し変わった意見もあるようなので、おおまかに紹介してみたい。

 「相手を傷付け、殺すなどという野蛮な内容を放送して平気なのか。
 醜い人間関係を表現して面白いのか。
 相手だって生きている者なのだから、いくらヒーローだからって傷つけたり殺したりしてはいけない筈ではないか。
 それならば、一人の少年が成長していくという、心温まるドラマを放送した方がいいし、子供達にも、絶対その方がいい
 何より、子供達に悪い影響を与えなくて済む。
 将来を支える子供達にとって、本当に良いと思われる作品を考えてほしい」

 このように考える人達にとって、「仮面ライダー響鬼」はとても理想的な番組なのだという。
 醜い人間関係という部分には、個人的に同意したい気もするが(笑)、ここまで読み進めてくださった皆様なら、この意見が何重にも間違っている事は、すぐに理解していただけるだろう。
 これは「親が見せたい番組の方針」を提示しただけのもので、「子供が見たい番組」の形ではない
 典型的な大人の偏見で、子供の意外に高い認知力・判断力を、甘く見すぎている結果でもある。
 子供は、大人が考える以上に、フィクションとノンフィクションを見分ける能力が高い。
 ある程度成長すれば、番組と現実のかみ分けは出来るようになる。
 というより、それがいつまでも出来ないようなら、それは親の育て方に問題がある。
 また、子供は意外に「子供番組離れが早い」という現実も、見失っている。

 つまりこれは、子供を言い訳のダシにして「大人自身の好みを押し付けている」だけに過ぎない。

 自分が好きな作品の方向性を唱えるのに、わざわざ「子供」というファクターを持ち出しているだけなのだ。
 ここには、子供を楽しませてやろうという考えは微塵もない。
 第一、こんな無個性なものを、子供がどれほど見たがるというのか?
 親に見る物を制約されるというのは、子供にとって、これ以上ないほどの苦痛なのだ(もちろん、限度は必要だが)。
 子供番組くらい、好きに見せてやって欲しいものだ。
 
 「仮面ライダー響鬼」は、このような意見の人達にとって一見理想的にまとめられているようだが、その裏側では相当陰惨な展開になっており、さらに、登場人物のほぼすべてがものすごく偽善的に見えるという点は、別の項で説明した。
 それなのに、この作品が理想的なのだとしたら、それは作品に思い入れ過ぎて盲目になっているとしか考えられない
 そうでなければ、表面的な部分でしか判断が出来ていないことになる。
 盲目になるのは結構なのだが、そういう状態にある人達の意見だけを拾い上げ、「なんだ、やっぱり仮面ライダー響鬼という作品は完成度が高いんじゃないか」などと、安易に結論付けてはいけないのだ。


 「仮面ライダー響鬼」の現在の内容が、勢作側上層部からも問題視されているという噂は、後を断たない。
 どこまで本当なのかは知らないが、一部では秋口以降プロデューサーの首のすげかえが検討されているという。
 これが事実だとしたら、少なからずとも内容に大幅な変化が起こる事は間違いないが、むしろそれくらいの起爆力がないと、「仮面ライダー響鬼」という番組は起死回生を狙えないのかもしれない。

 ただ、それはイコール「(過去のシリーズのような)ライダー同士のバトル&いがみあう人間関係」という色を含めるべきか、というと、そうとも言い切れない。
 どんな路線変更をしたとしても、大なり小なり変更前の要素は引きずられなければならない。
 折り返し地点までに積み重ねられた響鬼の要素は、問題が多々含まれているものの、かなり重く、大きい。
 これをどのように活かし、新展開に持っていくのかが、注目点になるのは間違いないだろう。
 …あくまで、先の話が本当ならば、だけど。

 筆者個人としては、プロデューサーの首の挿げ替えは大賛成である。
 高寺プロデューサーの作劇方針が気に入らないというのもあるが、全体の半分以上を消費した現在にいたってなお、物語がまったく進んでいないというダレまくった展開を一掃してくれるような、とてつもない内容変化に期待したいからだ。
 もちろん、この後劇的変化がもたらされるというなら、別に高寺プロデューサーのままでもいいと思っている。
 だが、現在までの“物語の起伏よりも「安定」を求めてしまったスタイル”を見る限り、とてもそんな事を望めそうにない。
 それならば、いっその事ここまでに築き上げてきたものをすべてぶち壊してみるのもいいのかもしれない
 極論を言えば、面白くなるならば、響鬼以外のレギュラーをすべて一掃してしまっても構わないとも思っている。
 あくまで、筆者個人の考えだが。



 最後に、ここまで書いてきた筆者個人の「仮面ライダー響鬼」の感想をまとめておきたい。

 筆者自身は、別に現在の「仮面ライダー響鬼」のあり方が嫌いだというわけではない。
 所々疑問があるものの、作品の雰囲気は好きだし、ヒビキや香須実、日菜佳やトドロキは大好きだし、特に日菜佳のぶっ壊れぶりは、毎回密かに楽しみにしているほどだ。
 また、ヒビキの嫌味の件にしても、実は世間で言われているほど気になっていなかったりする。
 魔化魍のコンセプトもわりかし好きだし、音撃を用いて戦う鬼という設定も、大変気に入っている。
 この辺りは、筆者の担当する「人生に玩具あり2式」をご参照いただきたい。
 確かに、一向に進まない物語には歯がゆさを感じてはいるが、決して作品の存在そのものを否定したいほど嫌っているわけではない。

 …明日夢…これだけは、どーしても評価できないけど。

 ただ、このように思ってはいても、各所で問題点として挙げられている部分については深く同意するし、それに対する追及は行うべきだとも考えている。
 また、好きだからこそ破綻のある部分を見定めたいと思っている。
 だから、今回のようなコラムをまとめてみた。

 このコラムを書くにあたり、放送済みの回すべてを見返したが、それにより、リアルタイム視聴時とはまた違った感情移入をしてしまったのも事実だ。
 だが、コラムの内容はあくまで「批評」なので、出来る限り個人的感想は加えない形を取ったつもりだ。

 最近、作品否定に属するコラムを書くと、そのまま「作品が嫌いな奴が書いている」と考えられてしまうケースが多くなってきているので、ここで、少しだけ筆者の考えを強調させていただいた。
 無論、これは本音を隠した言い訳などではない。
 本来、コラムとしてはあってはならない表記だが、どうかご理解いただきたい。
 批評と個人的感想は、まったくの別物なのだ。


 表面ばかりの善人の集まり。
 不自然極まりない人間関係。
 本当の感情がまったく覗かない人々。
 緊張感を持たず、気の抜けた態度で挑む魔化魍退治。
 人間を守る気などまったく見えない姿勢。
 相応しくない人間を主役に添えたために起こる数々の問題。
 まったく深みを感じない物語の内容。
 物語の進行が期待できない展開。

 全然大人じゃない「憧れの対象」。

これが、まごうかたなき「仮面ライダー響鬼」29話までの正体だ。

【追記】
 その後、「仮面ライダー響鬼」は30話付で高寺プロデューサー更迭&白倉プロデューサーに交代し、脚本も井上敏樹氏がメインとなり、雰囲気が様変わりした。
 これにより、ファンの一部が荒れ狂い、劇場版公式ブログ上などで(映画とはまったく関係のない)テレビ版についての文句や非難、罵倒を叩きつけまくるという異常事態が発生。
 特撮業界のみならず、映像業界全体を見ても大変珍しい出来事となった。

 なぜこんな事が起こったのか。
 その理由は、本ページの「不要視される明日夢」以降に目を通していただければ、なんとなくおわかりいただける事と思う。
 要するに、荒れ狂ったファンというのは、ここで挙げたような「仮面ライダー響鬼という作品に対して、何か違ったものを求めていた人達」の事。
 彼らは製作上の事情にまったく理解を示さず、これまでの雰囲気を壊されたという事で怒り、暴走したのだ。
 これは、同じ作品のファンとして大変嘆かわしいと言わざるをえない。

 
 なお筆者は、今後「仮面ライダー響鬼」の内容についてコラムなどを書く気はまったくない
 これは、30話以降と劇場版両方を指す。
 以降は、鷹羽飛鳥氏の「仮面ライダー響鬼のお仕事」にお願いしたいと考え、掲示板上で各話の評価・感想を述べる程度に留めたいと思う。

 筆者は、今回の件については「単なる路線変更」ではなく、「実質的な作り直し」であると解釈している。
 スタッフ入れ替えというのは、それだけ大きな事であり、本作はもはや29話以前とは別物になってしまったと解釈せざるをえない(個人的な好き嫌いはともかくとして)。
 そのため、30話以降をそれまでと同軸上に並べて語るわけにはいかないと判断した。
 仮に、30話以降に発生した問題点を指摘したとしても、それはあくまで30話以降にのみ適応されるものであり、「仮面ライダー響鬼」という番組全体にかかる指摘にはなりえない。
 理由の如何はともあれ、別な作品について語るようなものなのだから。
 正直な話、井上&白倉氏参入には賛成しても、高寺氏体制時に検討されていた要素が完全に継承されるとは、とても考えられないし、また描かれるとも思えない。
 29話までの伏線が、今後どこまで生き残るかという不安は、筆者の中でも存在している。

 というわけで、もしも「仮面ライダー響鬼の大問題」の続編的なものを期待されている方がいらっしゃったら、どうかご容赦いただきたい。


 …なんて、かっこいい事書いた後に何なんだけど…あと一回だけ ↓



 → NEXT COLUM
→「気分屋な記聞」トップページへ