「仮面ライダー響鬼」の大問題・追記 −オカルト的な考察?!−
後藤夕貴
更新日:2005年10月1日
 本当は、もう「仮面ライダー響鬼」についてのコラムは書かないつもりだったのだが、諸事情あり、もうちょっとだけ書かせていただく事にした。

なお、以降のコラムはこれまで同様「仮面ライダー響鬼」第1話〜29話までの“高寺プロデューサー版(前体制)”のみを対象としている。
 30話以降の“白倉プロデューサー&井上氏脚本編(新体制)”には、基本的に触れない方針なので、予めご了承いただきたい。


 とはいえ、今回はあまりこの断りは関係ないかも…


 先日、「仮面ライダー響鬼の大問題」を読まれた方から、感想のメールを頂いた。
 そこには、筆者にとって衝撃的な指摘が記されていた。

 それによると、「仮面ライダー響鬼の大問題」には、伝奇・幻想・オカルト的側面からの考察がまったく欠けている、という事だった。

 これには、正直驚かされた。
 いや、決してこちらがそういう見方を欠いていたから、という意味ではない。
 29話までの「仮面ライダー響鬼」に対して、オカルティックなものが存在していると考える視聴者が居るという事に驚いたのだ
 とはいえ別に、そう考えた人の事を馬鹿にするわけではない。
 後に詳しく述べるが、筆者は本作にそんなものを求める必要性はないだろうと考えていた。
 だから、あえて触れなかっただけなのだ。
 しかし、これが「考察の欠如」と受け取られてしまったとなると、そのままスルーするわけにはいかない。
 「オカルト的な魅力を感じる人達」に対して、書かなかった理由を説明していなかったのは、紛れもなくこちらの失敗だからだ。
 というわけで、今回その点について、補足という形式で書かせていただく事にした。

 誤解を招くといけないので、これ以降、伝奇的・幻想的・怪奇的なものなどの表現をすべて「オカルト」という言葉で統一させていただく。
 本来ちょっと意味が違うものも含まれてはいるが、いちいち個別に表記すると大変な上、益々混乱させてしまうと思われるので、何卒ご了承を。


 予めお断りしておくが、このコラムを書くきっかけとなった先の感想については、差出人の方にコラムを書かせて欲しい旨を打診・ご相談させていただき、正式な許可を得ている。
 その上で、執筆・部分引用をさせていただいた。
 また、以下に記す筆者の見解や分析をすでにご本人にも伝達済みで、なおかつ納得していただいているという事も、付け加えておきたい。


●和風オカルトへの理解?
 あまりこのサイト内では触れていないが、筆者は結構オカルト好きだ。
 多分、スタッフの中でも一二を争うほどだろう。
 基本的には、現代に起こった不思議な現象や事件への興味が強いが、それ以外の様々なジャンルのオカルトに理解があるつもりだ。
 二十数年以上前から妖怪物・怪異物に強い興味を持っており、その類の書籍を和洋中問わずむさぼった事もあるし、これは現在進行形でもある。
 そのため、代表的な妖怪の概要はかなり広く把握している自信があるし、それにまつわる伝承・言い伝え、またそれによる影響や地域的な内容の差異などにも目を通している。
 さすがに、もっとも興味が強かった時期に比べて、記憶している情報量は減ってしまったかもしれないが。
 また、水木しげるは貸本時代からの(戦争物を除く)作品の多くに目を通し、一時期は数十万円費やしてコレクションしていた事もある。
 さらに、貸本時代の旧作品とそのリメイク作品の比較データや、初版・再版の変更箇所のデータをまとめていた事などもある。
 なので、決してその辺に理解がない訳ではない。
 むしろ、「仮面ライダー響鬼」という作品内でそういうテイストが盛り込まれているなら、喜んで飛びつき、ピックアップしただろう。
 また、それは筆者だけでなく、「仮面ライダー響鬼のお仕事」を執筆している、鷹羽飛鳥氏も同様だと思う。
 氏は、筆者ほどオカルトに詳しくはないとの事だが、妖怪関連の作品もそこそこは見ているようなので、そういう匂いがあれば嗅ぎ取って文章にしているはずだ。


 そんな筆者は、「仮面ライダー響鬼にオカルト性などない」と断言する。
 その理由は、単純明快。
 作品内では、鬼や妖怪、またそれにまつわる怪異などが記号的にしか扱われていないためだ。
 これは決して、「響鬼は特撮ヒーローだから、そんなものは必要ない!」などという陳腐な発想から来るものではない。
 この作品内での「鬼」とは、あくまで「魔化魍と戦うために訓練された戦士」以外の何物でもなく、日本に古くから伝わる害悪をなす存在としての「鬼」ではない。
 また、そういう存在と同等の力をあえて肉体に宿らせる事で、怪異に立ち向かうわけでもない。
 ただ、修行の果ての変異に「鬼」というキーワードを与えているだけなのだ。
 
 これはすなわち、「鬼という呼ばれ方をしているが、実際の意味合いは“鬼がモチーフの異形戦士”」でしかないという事になる。
 猛士側も、各音撃戦士を「鬼」として扱うにはいくつかの段階を踏んでいるようで、単に異形戦士の姿になれるだけの存在を、そのまま「鬼」とは呼称していない。
 これは、第一回の時に書いた戸田山とあきらの事を指すわけではなく、引退表明後のザンキを指す。
 ザンキは、引退後も「鬼」に変身する能力を一応維持している。
 また、引退後も童子や姫を相手にそれなりに高い戦闘能力を発揮しており(身体を鍛えたわけだから当然なのだが)、完全に元の人間に戻ったわけではないように考えられる。
 だが本人も言う通り、彼は“能力的には鬼であるにも関わらず”、自分は「鬼ではない」としている。
 それが、劇中の童子達との会話「鬼か」「前はな」に繋がる。
 念を押すが、これ自体は特段問題がある訳ではない
 ただ、このように本編では「鬼」というものの扱い方が、既知のそれと大きく異なっている事をご確認いただきたい。
 我々がこれまで昔話などで聞かされてきた、災厄をなす者としての鬼とは、まったく異質な存在であるという事は、おわかりいただける筈だ。
 「鬼」と呼ばれただけで、そこから勝手なイメージを膨らませるのは、どうしたものか。
 

 魔化魍には、妖怪の名称とおおまかな特徴が用いられているが、それ以外の意味はなく、妖怪と決してイコールではない。
 それどころか、これは「妖怪に良く似た怪獣」でしかなく、妖怪とはまったく異質のものだ。
 「墓場の鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」には、それぞれ“鯨神”“大海獣”(前者は後者の原型であり、基本的には同じような存在)という巨大なバケモノが登場しており、これが水木しげる氏オリジナルの妖怪の一種として扱われている感があるが、本編中ではいずれも「怪獣」としてしか扱われておらず、体躯の大きな妖怪とはされていない。
 ここで「大海獣は鬼太郎が変身したものなのだから妖怪だろう」と述べる方がおられるかもしれないが、残念ながらこれの原典にあたる「ないしょの話」では、天才的な鯨の学生研究家・山田一郎が、もう一人の天才学生・村岡花夫に鯨神の血液を注射されて、変身している(ここでは、名称は鯨神となっている)。
 これらは、発生の根源に妖怪の姿があるかもしれないが、実際劇中で活動していた者は妖怪であるとは言い難い。

 なお、ここで挙げた「鯨神」は、神格化された鯨を示す北欧の妖怪? のそれとは違い、外観は大海獣とほとんど大差ない。
 それもその筈、ゲゲゲの鬼太郎の「大海獣」は、元々貸本の「ないしょの話」のリメイクなのだから。
 
 何をして「妖怪」と解釈するかによって、この辺の印象は変わるかもしれないが、妖怪らしさを追求する前に、まず魔化魍を取り巻く設定環境を思い起こしていただきたい。
 前にも書いた通り、魔化魍は大自然に生み出された災厄や脅威などではない。
 その肉体も完全に物理体で、音撃でなくても破壊が可能である存在だ(奇しくも、これは33話のアームドセイバー初使用場面で、TV上でも完全確定事項とされてしまった)。
 童子と姫という二体の人型に育成され、場合によってはいきなり成長体として出現する。
 その発生は、傀儡の体液と何かしらの動物の体の一部を混合させ、地面に浸透させることで行われる。
 恐らく傀儡は、自力移動が可能な上、ある程度の判断力と防衛機能を兼ね備えた、プラントユニットとしての意味合いがあったのだろう。
 そう考えれば、劇中で意志表示をほとんどしていなかった事なども頷ける。
 一応、設定上は完全自然発生の魔化魍というのも居るらしいが、すでに破綻した設定も数多く存在する以上、それらが当初から考慮されていたものなのかは大変疑わしい。
 否、当初は本当にそういう風に描くつもりだったのかもしれないが、途中からそうでなくなった事は明白なのだ。
 確かに、劇中では傀儡に生み出されたシーンが存在しない魔化魍も多いから、本来なら、決め付けてかかるのは問題がある。
 だが、同様に“自然に魔化魍が生まれ出る”場面や、それを感じさせるシーンも存在していない事を忘れてはならない。
 この場合、実際に存在するデータから状況を解釈するのは、当然のことだ。
 実際に劇中で描かれた、魔化魍発生場面のすべてに傀儡が関わっている上、自然発生魔化魍の追及がなく、しかも猛士は以前から傀儡やその上に立つ「身なりの良い男女」の存在を認知していたとなると、どう解釈しても「劇中では、魔化魍は人造物である」として描く意図があったとしか考えられない。
 また、比較的初期の回から、勢地郎が「悪意がある」と表現しているところから見ても、魔化魍側が何かしらの意図に基づいて行動している事は間違いない。
 これは、自然発生した生物達を指して表現するには、あまりに不自然すぎる演出だ。

 百歩譲って、人造魔化魍と自然発生魔化魍がおり、後者の比率が極端に少なかったと仮定しよう。
 だがその場合、比率が少ない方を中心に考慮する事はできない。
 またそうでなく、実際は自然発生の比率が意外に大きかったとしても、その場合は「人造魔化魍がどうしてこんなに沢山出てくるようになったのか」という部分に触れなくてはならず、しかも、猛士側は自然発生魔化魍と人造魔化魍の区別を明確に付けていかなくてはならなくなる。

 なぜか?
 それは、彼らが魔化魍やそれに関連する事象・事件の記録を取り続けているからだ。

 魔化魍の発生理念が違ってくると、それにより徴収されるデータが大きく変化する事は、すでに以前述べた。
 後世に伝えてもまったく有効価値がない記録を、ただだらだら付けているだけ、というのでなければ、現在の猛士が集めているデータは精密なものでなければならないわけだし、すでに劇中で利用された過去のデータは、それなりの有効性を見せている。
 だとしたら、猛士は魔化魍が自然発生か否かを、より意識しなければならない筈だ。
 劇中、環境条件に合わない魔化魍が発生し、猛士側が動揺するシーンがあったが、これなどは代表的な例だろう。
 あのシーンから、猛士側は魔化魍の発生理念を一本に絞っているという事が伺えるが、そこに加え、傀儡等の存在と彼らのプラント能力を把握していた事から考えても、やはり「魔化魍は人造物である」と解釈していたと考えるしかない。
 ここまで条件が揃っているにも関わらず、自然発生説を有力視するのは、かなり問題があるだろう。

 ちょっと視点を変え、「自然発生魔化魍が間違いなくおり、それはオカルト的な存在である」という前提に立ってみよう。
 だとすると、今度は猛士の講じる対策や、鬼達の戦法に問題が出てくる。
 ここまでで指摘してきたように、魔化魍はすべて物理体の存在であり、理屈の上では通常兵器などでも破壊が可能となるものだ(詳しくは大問題・第二回参照)。
 幽霊などのような不安定な存在でもなく、かつアストラル体ですらない。
 RPGによくある、魔法によって生み出され、その後勝手に繁殖したモンスターの類という事も考えづらい。
 猛士や鬼達は、魔化魍が物理体であるという前提に立ってすべての行動を検討しており、また音撃武器を使用している。
 もし、これが物理法則で説明のつかない存在だったりした場合、現状の戦闘装備だけでは対応が難しくなると考えられる。
 発生理念がオカルトっぽいだけで、発生後は普通の物理体であるという事も考えられるが、一個の肉体を持って蠢く存在として認知されてしまった時点で、もはやオカルトとは呼べない。
 また、物理体である以上、その発生理念にも何かしらの説明が付く筈で、要はそれを知るか、知らないかという差でしかなくなってしまう。
 知らないならオカルト、知っているなら非オカルト。
 そんな程度の差しか出てこない。

 ゴリラやパンダがまだUMA(未確認生命体)として扱われていた頃、彼らの情報はすべてオカルトめいた雰囲気を持っていたが、生態が知られた現在においては、オカルトめいたものは何もない。
 それと同じ事なのだ。

 先に触れたように、猛士は劇中で魔化魍の発生条件などを細かく調査・検討している。
 という事は、部分的に不明瞭かもしれないが、ほとんど魔化魍発生の理屈や条件を把握している可能性が高い。
 つまり、発生理念にオカルトめいたものがあったとしても、それはそんなに長続きしない微妙なものだという事だ。
 この程度の条件なら、無視してもさほど問題はない。
 というより、こんな程度のオカルト的風味を、無理矢理ピックアップする必要性など、どこにもない。
 結局は、「脳内補完」と呼ばれる妄想の域を出なくなってしまうからだ。

 それ以前に、猛士側からは「魔化魍は自然発生が基本、人造的な物の方が本来イレギュラーなのだ」といった意味の発言が成されていない事にも注目したい(この辺りは、体制切り替わり手前の28話前後で確認できる)。
 これは単純に、魔化魍に関しての設定を無意味にひっぱり過ぎたためにあやふやになってしまった、演出上の問題であるとも言える。
 だが、すでに述べてきた通り、猛士側は魔化魍を人造であるという前提で研究・情報収集している。
 その情報を把握した上で、上のような発言がないという意味を、検討するべきだ。
 少なくとも、猛士が「自然発生魔化魍を中心に考えている」などという事は、絶対にありえないと理解できる筈だ
(筆者はこの事実があるため、公式サイトなどに記された自然発生説については懐疑的で、ほぼ間違いなく後付設定であろうと解釈している)


 魔化魍の行動目的も、ただ人間を捕食するだけではなく、“里を荒らす(滅ぼす?)”という明確なもので、これはドロタボウの童子の台詞などからもはっきりわかる。
 魔化魍自体にその目的を理解する知能があるかどうかはわからないが、少なくとも、同時期に発生したと考えられる童子と姫に、ここまで明確な意図がある以上、魔化魍全体の行動の中に、大小の差はあれど「悪意」「計画性」「破壊目的」などが含まれているのは疑いようがない。
 これは、あまめはぎが夜中に子供の足の皮を剥いで食べたり、小豆とぎが人捕ってショキショキ言いながら食ったりするのとは、まったく違う性質のものだ。
 必要な贄を得るための行動ではもはやなく、部分的とはいえ“滅ぼす”目的を持っているのだ。
 これは、過去に様々な媒体で知られてきた妖怪に共通する、「人間との共存・文化圏への非侵食」というイメージからはかけ離れたものだ。
 さらに、傀儡が各地で魔化魍を大量に発生させている事実などから考えても、「数を増やす事によって起こすべき目的がある」事が理解できる筈だ。
(その最終的な目的が不明瞭のまま、スタッフ変更になったのはかなり痛いが…)
 ここまで人為的・計画的・悪意的な材料が揃った存在を、どうして妖怪だの魑魅魍魎だのと同一視できるというのだろうか?
 こんなものは、もはや完全にオカルトではない。

 以上、挙げてきた事実を無視して、魔化魍について語る事は出来ない。
 どちらにしろ、劇中情報(それも29話までの旧製作陣編のみに限定して)をすべてまとめて解釈すると、魔化魍は人造的に製作される擬似生命体または“生物兵器”に過ぎず、古くから日本などで語り伝えられている妖怪や魔物などとはまったく無縁、完全に異なる存在だ。
 ただ、その製造・育成過程の背景が大自然の中というだけであり、それ以外は妖怪との共通点をほとんど持っていない。
 むしろバイオテクノロジー的な…ぶっちゃけて言うと、「科学的存在」なのだ。
 オカルトどころか、これ以上ないくらい「反オカルト」だ。
 いっそ「サイエンス」でもいいのかも。

 科学ではなく、「錬金術」的ではないかという意見もあると思う。
 確かに、錬金術には「金を生み出す一攫千金的目標」の他に、「生命創造(神のみが持つ権利と能力への追求)」という目的意識も存在する。
 これだけ見ると、魔化魍発生に関連付きそうな気配もしてくるが、本来錬金術とは、宗教的背景があって初めて活きるものであり、キリスト教が政治や生活に直結していない文明化においては、まったく存在意義が変わって来るものなのだ。
 キリスト教、と限定している事にも意味があるのだが、まさかここで錬金術とは何ぞやと説明するわけにもいかないので、詳しくはネット等で調べていただきたい。
 (ここで、「錬金戦隊ハガレンジャー(仮名)」のウソ錬金術概念を出しても意味がないので、華麗にスルーさせていただく)
 仮に錬金術を用いていたとしても、結局は人工である事には変わりなく、また「ラッパやギター以上に反和風テイスト」であるわけで、作品に溶け込んでは来ないだろう。
 個人的には、雰囲気に拘った高寺プロデューサーが、そんな“西洋文化史の代表例”とも云える錬金術というものを、安易に用いるとは考えづらい。

 パラケルススが死の間際に行い、弟子が台無しにしてしまったとされる「自己再生術」の実験などを引き合いに出して、魔化魍作成・育成に絡めても、まったく意味はないのだ。
 錬金術は、オカルトと結び付けられる傾向が強いが、本当は西洋史など、もっと別な視点で見るべきものなのだ。

 
 変身能力を持った人間が呼称されるキーワードでしかない「」。
 科学的要素で塗り固められた、不自然極まりない存在の「魔化魍=妖怪」。
 こんなものから、オカルト的な連想を抱けという方が無茶であろう。


 勘違いしないでいただきたいが、筆者は以上の事(前体制の構築した設定)を否定しているわけでは、決してない。
 むしろ、これらは大変面白いものだと解釈しており、「仮面ライダー響鬼」という作品においての重要な魅力の一つだと考えてきた。
 オカルト的なイメージのある単語を用い、それまでの概念をまったく否定する(注:この場合は良い意味)素材に付加する。
 それにより、「人間が(文字通り)鬼と化す」という、独特の味わいが出たし、それまで不明瞭な怪異と扱われてきた妖怪(の名称を持つ者)に物理的な存在感を与え、“姿なき筈の者達の肉弾戦”というスタイルを構築した。
 また、妖怪の名を付けられた者に既存の動物の特徴を持たせ、なおかつキメラ的な融合スタイルを構築している事については、なかなか面白いセンスだと以前から褒めている。
 これで、デザインがもっと洗練されていれば、言う事なしなんだが…。

 もちろん、ここまでで指摘してきた通り、これらは大変問題のある描写がされてきたわけだが、基本フォーマットは大変良く考えられたものなのだ。
 だから、筆者は問題がある事を理解した上で、「仮面ライダー響鬼」のこういうコンセプトが好きだ。
 だが、そこにオカルト的な側面など、まったく感じた事はない。
 それとこれとは、話が別だからだ。


●オカルトファンによくある、大いなる「勘違い」
 オカルトファンには、大きく分類して二つのタイプが居る。

 一つは、怪現象や異常事態、またそれらの記録を科学的・論理的に分析・研究・批評して真実を追究したり、事件が起こった根源を突き止める事を旨とするタイプだ。
 筆者は、どちらかというとこちらに属する。

 これは決して、アンチオカルトの姿勢ではない。

 オカルト的なものが好きだからこそ、本物の「不可解な事件」を求めるのであり、彼らは心のどこかで自分達の追求がすべて徒労に終わる事を期待している
 つまり、真実のオカルトを求めているからこそ追求するのだ。
 どんなにツッコミを入れようと、どんなに分析しても解明し切れない謎が欲しいと思うからこそ、そういう人達は、オカルティックな表現があるものに大きな興味を抱き、反応する。
 そして、すぐに「それが事実かどうか」「本当にオカルトと呼べるものなのか」を追求し始める訳だ。
 この姿勢は、創作であっても同様。
 はじめから作り話とわかっているものでも、練り込みが充分で説得力があるものならそれはそれで魅力を感じるので、大きく評価するのだ。
 同時に、エセっぽいオカルトには簡単に騙されない。
 この姿勢が、以下で説明するタイプの人達には「アンチ」に映るようだ。


 もう一つのタイプは、かなり困り者だ。
 こちらは、オカルト的要素があると、裏付けを一切取ろうとせずに丸ごと信じ込み、また最初に自分が信じた物を否定する要素を拒絶する。

 例えば、窓の外にカラスが横切ったのを見た人が、「あれは幽霊だ」と思い込んだとする。
 すると、他の人がどんなに論理立ててカラス通過の可能性を説いても、その人は絶対に耳を貸さない。
 それどころか、「あれはどう考えても幽霊だろう」という、同意の言葉以外受け付けなくなる。
 こういうタイプは、たとえ作り話でも真実と解釈しやすい。
 この場合の作り話とは、創作という意味だけでなく、何の論拠もない駄文やトンデモ発想の批評・論文なども含まれる。
 以前説明した「ハーロー効果」の影響を受けやすいのも、このタイプだ。
 だから、オカルト的に権威のある人物の発言は、そのままその人にとっての真実にすり替わってしまう。
 要は、エライ人が自分と同じ意見を持っている、という事実だけが重要なのだから。
(頭のいい人はすでにお気づきと思うが、もちろん、この場合のエライ人とは、万人がそうだと認めている必要はない)

 さらにたちが悪いと、語られていない部分や粗に相当する部分を勝手に自己補完し始め、最終的には原型を留めないようなものに作り変えてしまう。
 しかも、いつのまにかそれが常識観念になってしまい、それを理解できない人達を攻撃し始める。
 「自分が納得すればそれでいい」という考えが煮詰まったようなタイプなのだ。
 自己埋没型と表現してもいいかもしれない。
 これは、特にオカルト初心者や、逆にディープ過ぎる探求者に多い傾向のようで、何事も事態を冷静に判断すべきとするオカルトファンとは、常に激突する。
 そう、アンチオカルト主義の人とではなく、同じオカルトファン同士でぶつかってしまうのだ。
 こういうタイプは、普通はある程度の時間が経つと評価眼が成長し、まともなオカルトファンになっていく。
 だがごく稀に、自ら成長を止めてしまうのも居るわけだ。
 
 本作を和風オカルト的作品とする人達は、ほとんどが後者のタイプに属すると考えられる。
 誤解のないように述べておくが、「オカルト的材料を見出す」のと「オカルト的演出が含まれていると理解する」のは、まったくの別物だ
 前者はオカルトファンでなくても気付くことが多いが、後者は「ない物を無理矢理搾り出す」行為に等しい。
 問題なのは、描かれてもいないオカルティズムを勝手に妄想し、それを主体に本作を語る行為なのだ。

 オカルトを語る上で絶対に忘れてはならない姿勢として、「情報の正しい解釈に努める」というものがある。
 これはつまり、オカルト情報として与えられた材料はえてして見誤られやすいという特性を持っているので、惑わされないように常に注意しなければならないという意味だ。
 先のカラス通過の例でもある通り、何かが窓の外を通過したという基本情報だけを得て、そのままストレートに「幽霊だ!」と断言してはいけない。
 ましてオカルトという物について、本腰を入れて語ろうとしている際に、このような反応をしてはダメだ。
 自分が語るべきスタンスを確立させ、あらゆる必要情報を客観的に解釈・吸収して考察し、その結果導き出される「可能性論」を吟味する。
 言い方はややこしいが、こういう流れが、本当のオカルト追求だ。

 ところが、実際にはこれがまったく行えず、また行う必要性を理解できず、表面的な情報や他人の見解に振り回されてしまう、にわかオカルトファンが大変多いのも事実だ。
 自分のスタンスがないため、どうしても発言力のある他のコメントや媒体にすがりついてしまい、これを盲目的に支持してしまう。
 例えば、ある有名人が「仮面ライダー響鬼」という作品から鬼譚や妖怪譚を見出し、それをコラムにまとめたとする。
 そこに説得力を見出してしまった人は、もうそれだけで虜である。
 そのコラム自体が、劇中情報などをまったく無視し、ただ思いつきだけでまとめられたものだったり、執筆者が「こうだったらいいな」と思った事をただまとめただけだったとしても、関係ない。
 もはや、宗教的な盲信に近いレベルに至ってしまう。
 本当なら、ここでそのコラムの内容を吟味し、執筆者がどこまで情報を汲み取って書いているのかを見定めなければいけない筈だ。
 それを行った上で、なおかつ内容に納得するのなら良し。
 さもなくば、それはただのミーハー根性に過ぎない
 「オカルトを語っている」つもりで、他人のフンドシを巻いて一人で喜んでいるだけだ。



 過去に散々指摘した通り、「仮面ライダー響鬼」には数多くの問題点や粗、欠けているポイントが多い。
 だが、だからと言ってそれを好き勝手に脳内補完していいというものではない。
 否、自分自身で作品を楽しむだけなら、それはアリだとは思う。
 だが、自分と違う意見の人にまで、そんな妄想を唱えられても困るのだ。
 現実にはそういう人達は大変多く、彼らからしてみれば、補完否定は「行間を読めない」「想像力が足りない」という表現に結びつく。
 だがそれは、決して読解力不足や想像力欠如ではない。
 むしろ、必要な情報分析・考察を欠き、印象論だけで「行間を読んだ」「足りない部分は想像で補った」と唱える方が、能力不足だと言えるだろう。 
 欠けている情報を頭の中で想像して補う事は、誰でも普通に行っている
 ただ普通の人は、他人と語る時にそれをあえて置き去りにしているだけなのだ。
 それは当然、自分が想像したものが絶対ではなく、せいぜい一つの意見に過ぎない事を自覚しているからだ。
 足りない部分を脳内で補うのが、正しい視聴方法なのではない。
 また、なんでもかんでもオカルトにこじつければ勝ち、でもないのだ。

 このような見方をしてしまっていては、もはやそれは「仮面ライダー響鬼」という、現実世界で日曜午前8時からテレビ朝日で放送されている番組ではなく、その人の脳内にしか存在しない「陰陽音撃戦士響鬼・退魔編(仮)」になってしまうだろう。
 これでは、決して本作をまともに楽しんでいるとは言えない。
 劇中の情報をいくつも見落としていながら、全てを知り尽くしたような態度を取って批評するのは、ナンセンスに過ぎる。

 劇中情報は冷静に汲み取り判断し、足りない部分がある事を理解して、それを認めた上で「想像」を加え、批評する時はそれをきちんと区分するべき。
 こんな事は、ある程度大きくなった子供ですら無意識に、自然にやっている。


 オカルト妄信タイプの人達は、恐らく「鬼や妖怪」といった単語に込められたイメージと、(描写は完全に失敗しているものの)和風の「雰囲気」というものに囚われてしまっているだけなのではないかと考えられる。
 確かに、材料名だけ聞いた限りでは、和風オカルト・伝奇趣味的なイメージがふんだんに用いられている事はわかる。
 だが、それだけでオカルトな視点を用いてしまったら、それこそオカルトに失礼というものだ。
 冷静になって、もう一度「仮面ライダー響鬼」本編を振り返っていただきたい。
 もちろん、29話までで構わないので。


 本作「仮面ライダー響鬼」では、「鬼」の持つ“人間に害をなすもの”というイメージを払拭し、人間を守る存在に成り代わっているという説明を根本的に欠いている。
 本来ならば、「鬼」である事に対して畏怖を抱く者が居たり、それに対して誤解を解くための演出がなされなければならない。
 これは別に、魔化魍の被害者達に毎回説明しろという意味ではない。
 例えば、響鬼の変身を見た明日夢を使い、その姿に怯えさせたりするだけでもいい。
 そこに、ヒビキ自身が事情を説明し、「この作品内の鬼は、人間にとっての悪ではない」事を印象付けるだけでいいのだ。
 だが、劇中ではそんな描写はまったくないどころか、あんな異形に変化したヒビキに対して、明日夢は不自然なまでに積極的に相談を持ちかけている。
 「鬼」を名乗る存在の頼り甲斐やヒーロー性を描写するより先に、「鬼が人を守る」という、良い意味での違和感を描かなければならなかったのだ。
 そして皮肉にも、これを真正面から堂々と描いたのは、29話までの本作ファンにとって悪名高き「劇場版・仮面ライダー響鬼 七人の戦鬼」だったのだ。
 筆者に言わせれば、こちらの方がまだ納得できる描写をしている。

 これは多分に、本作が「人間同士のぶつかり合い」という描写を不自然なほどに避けてきた影響と受け取れなくもない。
 各方面で称えられている「温和な雰囲気」「日常的な魅力」などという“いつわりの幻想”にまみれたものだ。
 これのために、本作は本来必要なはずの「鬼の怪異」を描けなかった。
 たとえ描こうとしても、それは盲目化した一部のファンによって、強烈な否定を受けたことだろう。

 物理的肉体のない「強力な霊または霊障、怪現象」を指して、「鬼」と表現する場合もある。
 漫画家の永井豪氏が、「手天童子」や「デビルマン」などを書いた時、原因不明の怪現象を数多く体験したが、これも“鬼による霊障”なのではないかとも言われている。
 こういう例を用い、霊障? としての鬼の強力な力を何かしらの方法で身に宿し、これを制御する事で本作で言うところの「鬼戦士」になるという設定だったなら、かなりオカルト色が強められたかもしれない。
 霊障に負けないように、常に肉体や精神の鍛錬を続けていかなければならない、などとすれば、一応劇中のヒビキ達の「鍛える事が必要」といった意味の発言とも符合する。
 だが、その鬼に変身するプロセスについても、オカルティックなものは何もない。
 鬼達の変身システムは、音角・音笛・音錠・音枷などによって波動?(媒体によっては特殊音波とも表記)を起こし、それを肉体に照射する事で姿を変える、というものだ。
 どのような修行をすればそうなるのかは不明だが、これらはアイテムによる変身であり、肉体を変貌させて成る鬼というイメージとは、大変かけ離れたものになっている。
 変身時、額に小さな鬼の顔が浮かぶのも、オカルトに結びつけるよりは、「変身前にベルトが腹部に出現する」という、仮面ライダー的要素と判断する方が妥当だろう。
 変身用アイテムがないと変身どころか、鬼の力の一部をも使う事ができないというのは、本編内で何度も描写されている。
 せいぜい、ザンキが怪力(子供ぶん投げ)を見せたくらいだ。
 肉体強化以外の「鬼でなければ使えない力」を用いるためには、やはり変身が必要であり、何をして鬼となるか、その境界線が「明瞭すぎるためにかえって不明瞭」になってしまっているのだ。
 この変身プロセス自体を否定するつもりはないが、とにかくこういった部分にも、特段オカルティックなものは存在しない。
 これでオカルトな雰囲気が感じられるというならば、是非「快傑ライオン丸」や「変身忍者嵐」でも、同様の感覚を味わって欲しい
 鍔鳴りの音響で細胞配列を変化させる変身忍者の方が、よっぽどオカルトだと気付くはずだから。



 もう一つ忘れてはならない事がある。
 それは、一部のファンからは「妖怪という素材を大変粗雑に扱っている」という指摘がある事だ。
 これは、いちいち説明する必要などないだろう。
 メジャーな妖怪の名前だけを借りてきたバケモノでしかないのだし、その背景は大変薄っぺらいものなのだから、本当の妖怪ファンが怒るのも当然だ。
 個人的には大好きな魔化魍設定ではあるが、怒る人が居るというのも大変よくわかる。
 まして、28話以降魔化魍はどんどんその設定を変質させており、白倉プロデューサー以下新体制による30話以降は、ついにほとんど原型を留めないくらいにフォーマットが破壊された。
 だが、所詮は「破壊されて然り」のフォーマットに過ぎなかったのだ。
 魔化魍を巡る設定…特に童子と姫、傀儡、その上に立つ「身なりの良い男女」を巡る詳細は、明らかに番組当初のスタイルに反するものとなってしまっている。
 これらの中に、後付設定が多分に含まれているだろう事は、賢明な視聴者各位はとっくに気付いておられることと思う。

 ドロタボウやカッパ、バケネコなどの等身大魔化魍は、身体が小さいという事を利用して、なんとなく不気味さ漂う舞台(川や寺の廃墟? 等)で活躍して雰囲気を作っていたが、それだけでファンタジー的な描写が適ったわけではない。
 ただ薄暗い所に姿を現すだけで、怪異だ妖怪的だなどと唱えられるなら、これほど便利な表現手法はない。


 鬼や魔化魍以外にも、オカルト的なイメージを作っているものがあるだろう? と反論される方がおられるかもしれないが、果たしてそんなものがどこにあるだろうか。
 このように唱えるファンの方に、もう一度確認させていただきたい。

 本作の主人公は何か?
 この作品のテーマは何か?


 主人公はヒビキではないのだ。
 作品のテーマは、鬼による妖怪退治ではないのだ。
 安達明日夢という、ごく平凡な少年を巡る成長物語だった筈だ。
 これは、多くの響鬼支持者が定義した事なのだ。
 果たしてそこに、どれほど伝奇やらオカルトやらが紛れ込む余地があるのだろうか?

 冒頭で紹介した感想の送り主からは、「仮面ライダー響鬼」という作品を特撮番組という枠の中でしか見ていないのでは、という指摘もされた。
 筆者はそれに対し、「それ以外の枠から観察する価値が見止められないため、このような形を取らせていただいた」と反論させていただいた。

 もう一度念を押すが、「仮面ライダー響鬼」という作品内に、本当に和風オカルトな雰囲気が巧く散りばめられていたのであれば、筆者はそれを汲み取り、大いに評価したと思う。
 正直、そういうテイストは大好きだからだ。
 だが、本作には「なんちゃってオカルト」以外のものは見られない。
 というか、そもそも存在すらしていない。
 その理由説明は、今回のコラムのみではなく、過去に発表した「仮面ライダー響鬼の大問題」三作内の指摘に詳しい(←各ページには、フレーム左側の目次から移動可能)
 それでも、もし本作にオカルティックな要素が内包されていると言うのであれば、それはもはや「妄想」であるといわざるをえない。


 再度、断言しよう。
 「仮面ライダー響鬼」には、オカルトな魅力などまったく存在しない。

 本作には、そんなものを求めなくても、もっと別な魅力があった筈だ。
 それに気付く事ができるほどの人達であれば、オカルト風味などうわべだけのものに過ぎないという事が、すぐに理解できた筈だ。
 そして、同様の事を考えた人が居たからこそ、劇中の魔化魍などの扱いに激怒したという意見も出てきたのだ。

 「明日夢は本作にとって重要な、なくてはならないキャラクターだ」という見解と同様、どうやら“見えていないものが見えてしまった”ために、そのような意見が出てきたのではないか、とすら思わされてしまう。

 その方が、よっぽどオカルトではないだろうか?

 もし、貴方が本作にオカルトなものを見出し、それを求めているとして、「このオカルト風味が理解できないなんて…」と唱えられるようであれば、筆者は以前に書いた、この言葉を捧げたい。

 どんな理解力を持つ人にも、充分にわかるようにしなければ失格なのだ。
 ごく一部の「その気になっている」人達だけが理解しているという程度では、まったく無意味だ。


 まして、正当なオカルトマニアをして激怒させるような扱い方では、無意味どころの話ではないのだが。


 以前、高寺プロデューサーはオカルト的な味付けを強調するため、本作に何かしらの呪詛めいたものを込めた、などという奇妙な意見を目にした事がある。
 これは番組内の雰囲気やイメージ全体を指す意味であり、同時に、作品に対する様々な意味での“呪縛"でもある、という主旨の見解のようで、それは、わからない人には絶対にわからないのだという。
 先の通り、それでは全然意味がないではないか
 まして、本当に理解のある人なら、そんなものは元々存在していない事に気付く筈だ。
 なまっちょろい「雰囲気」なるものなら、確かに実感するのはたやすいが…。

 ただし、単純に「呪詛めいたもの」というのなら、確かに本作には込められていたのかもしれない。
 だがそれは、決して人間の手によるものではないだろう。

 忘れてはいないだろうか?
 先にも挙げた、「鬼」を題材とした作品には、大なり小なり“何か不吉な事が起こる”というジンクスを。
 しかもこれ、結構シャレにならない。
 古くから「鬼」というものは、それ自体ある種の「呪」になっている。
 もし、「仮面ライダー響鬼」に呪詛めいたものがあるのだとしたら、それは決して成功要因ではなく、むしろ「負の因子」だ。
 だが、それ以外には、オカルト的なものは何もないのである。


●東雅夫氏のコラムについて
 最近、怪奇幻想文学研究家の東雅夫氏による「仮面ライダー響鬼の考察」が一部で話題になった。
 この内容は、本作をオカルトという側面でとらえ、劇中情報を考察したもので、読み物としては大変面白い。
 そして、これが「響鬼にオカルトを求める人達」の起爆剤となったようで、なおかつ伝奇的側面の裏づけとなったかのような取り扱われ方をしていたようだ。

 だが残念ながら、東氏の考察にはかなりの疑問点がある。
 他のサイトの事なので具体的な事はここでは述べないが、とにかく劇中情報として扱っているもののほとんどが「実際には劇中にないもの」である事だ。
 ここまでで述べてきたように、魔化魍(妖怪)や鬼というイメージから導き出された印象からの考察が中心であり(それはそれで悪くはないけど)劇中の情報をまったく消化していないで述べているのはまずいだろう。
 また、「恐らくこんなものであろうか」という前提による考察が発展し、まるで東氏の想像表現が本当に劇中で取り扱われていたかのような錯覚を受けてしまう書き方だ。
 東氏ご自身の事を悪く言う気はないのだが、考察を読んでいると、「仮面ライダー響鬼はオカルト作品だ」とはじめから強く思い込み、それ以外の視点や考察を廃し、ご自身の得意ジャンルに無理矢理引き寄せてまとめているようにしか思えない。

 はっきり言って、持ち上げすぎだ。

 少なくとも、劇中情報をきちんと汲み取って考察していれば、このような見解にまとまる筈はない。
 「仮面ライダー響鬼」という番組のオカルト寄りの魅力はところどころ欠けている事にすぐ気付く筈で、それを無理矢理論理立てて説明しようとすると、結局はつぎはぎだらけになってしまう事は明白なのだ。
(つぎはぎだらけとなる根拠は、これまでに述べてきたものでご理解いただけるだろう)
 だが、この東氏の文はネット上でかなりの支持を得たようで、「響鬼=和風オカルトの魅力」という、ありもしないものをイメージ付ける決定打となってしまった。

 だから〜、こういうのがハーロー効果だってーのにぃ。
 ちゃんと自分自身の目で見ないと〜。
 そんな安直な判断で持ち上げてしまっていては、かえって東氏に失礼なのではないだろうか?


●全面否定、というのもなんかもったいないので…
 ここまで色々書いてきたが、それでは、上記の疑問点をあえて全部忘れたとして、29話までの「仮面ライダー響鬼」のオカルト要素とも捉えられそうな物をあえて探しだし、考察してみよう。
 
 オカルト的な要素を含んでいそうな材料として、10月1日現在残留しているものとしては、「身なりの良い男女」が挙げられるだろう。
 彼らの正体はいまだ不明で、一見ごく普通の人間が魔化魍実験を行っているように写るが、すでに普通の者ではないという描写がいくつも出てきている。
 傍に寄っただけでイブキを金縛りにしてしまったり、逆に、そんなに遠くない場所に居るにも関わらず、彼に気配を悟られないよう姿を隠していた。
 また、(これは30話以降の話なのだが)女性の髪の毛の束から、あのようなスーパー童子・姫が生み出されたというのも興味深い。
 恐らくこれは、スタッフ変更後も「身なりの良い男女」の設定の大部分が、そのまま継承されていると見るべきだろう。
 彼らの存在を猛士が知っていたり、傀儡の人員整理が行われたりと、その後様々な問題点が指摘されはしたものの、あの二人の表現はいまだ大変ミステリアスで、「限りなく人間に近い姿であるのに、直接的ではない方法でその存在の不気味さを表現」していると言える。
 筆者は、旧体制のまま彼らが描き切られたとしたら、いったいどのようになっていたのか、本当に興味がある。
 彼らについて、明確な正体が語られるのか、あるいは説明的なセリフだけで適当にはぐらかされ、毎年のようにありがちな結末へと繋げられるのか、それは何とも言えない。
 ただ、雰囲気や見た目の印象に反して、意外に科学的かつ物理的なイメージで固められている「仮面ライダー響鬼」において、この独特の味わいのある二人は、是非とも巧く扱っていただきたいものだ。


 もう一つ。
 これは、今現在はまったく描かれていないが、猛士の本拠地である吉野と、それにまつわる因習のようなものが匂わせられれば、本作は大変旨味のある内容になったかもしれない。
 これは、今後少しずつ出てくるらしい「吉野絡みの展開」に期待しての意見だ。
 残念ながら、これから描かれる吉野絡みのものと、旧体制時に考慮されていたそれがまったく同一なのかどうかはわからない。
 しかし、幸いにしてここまであまり吉野の話が出てこなかった事もあり、いわば本作にとっての“オカルト的”最後の砦となりつつあるように思う。
 ここまでの展開は、あくまで関東支部という、ごく狭い範囲内での出来事に過ぎず、響鬼や威吹鬼達、立花一家の描写がそのまま吉野の雰囲気とイコールであるとは限らない。
 だとしたら、吉野本部をとりまく環境は、古き良き「和風のテイスト」を盛り込んだものである可能性だってある。
 かなり希望的観測が強いが(笑)。

 日本人は、どうしても神社仏閣、またはそれらで有名な土地に対して、特別な印象を抱く。
 京都などと陰陽師を関連づけてイメージするのは、今となってはごく一般的なものではないだろうか(映画や漫画の影響というのもあるだろうし)。
 奈良・吉野という「鬼に関わりのある地」をベースとしたアイデアには、素直に感心したい。
 霊場吉野・大峯は、その名の通り紀伊山地の霊場としても有名で、特に、男女の鬼の子孫が繁栄したとされる「前鬼の里」がある事にも注目したい。
 またこの地は、古くから修験者達の修行の場・巡礼の場としても有名であり、各所に重要な行場が今なお存在している。
 ここに、修験者から端を発した「鬼になる者」の設定の根元が窺える。
 また、奈良時代には妖怪・鬼にまつわる物語の舞台となった事もある。
 こうしてさっと見てみただけで、ここは猛士の本部を置くには絶好の場所である事がわかる。
 さすが、設定にはこだわった前体制スタッフ。
 こういう着目点は、掛け値なしに素晴らしい。
 また、「仮面ライダー響鬼」という作品において、この吉野という地が保有するイメージや旨味は、最高の調理材料となるだろう事がわかる。

 …だが、これらはあくまで29話までの「仮面ライダー響鬼」で用意されたものであり、30話以降に新規で考案された材料ではない。
 もし、これらを29話までに巧く活かしきる事が出来ていたなら、筆者は「仮面ライダー響鬼にオカルトなどない」などと唱えたりはしなかっただろう。
 しかし、最初に案を構築した人間の手を離れてしまった以上、もはやこれらも「使われなくなってしまった材料」に過ぎないのだ。
 どんな意図があったにせよ、どんな構想があったにせよ、描き切れなかったのであれば、それはもうオカルト的なものではないのだ。
 
 だから筆者は、ここで挙げたような要素を見出していながらも、あえて「仮面ライダー響鬼にオカルトはない」と言い切るのだ。
 

●10/7追記:ディスクアニマルは「式神」なのか?
 その後、ディスクアニマルについて書き忘れていた事を思い出したので、かっこ悪いけど、ここだけ追記させていただく事にした。
 (今回追記ばっかりで、本当に申し訳ないんだけど…)
 

 ディスクアニマルは、設定上「音式神」と呼ばれている。
 そもそも式神とは、陰陽道にある“動物霊・精霊・鬼などを宿らせた媒体(紙片や木片等)を使役し、様々な役目を行わせる術”そのものや、それにより生み出される物の事で、本来は術者以外には不可視だったりする。
 もちろん、用途によって大きさ、媒体、可視・不可視の違い、運用能力に差が生じるが、とりあえずここでは、式神とは「特殊な呪法で動かす操り人形」と、漠然と考えていて良いと思う。
 たまに、「式」などと略される場合もあるが、意味は同じ。
 自らの能力で生み出すポケモン、またはオプション、サイコビットと解釈していても良いかもしれないが、あまり調子に乗ると陰陽師ファンに怒られるので、この辺にしておこう。
 映像イメージとしては、「陰陽師(&同II)」で面白く描かれているので、興味があれば是非一度ご覧いただきたい。


 ディスクアニマルは、「仮面ライダー響鬼」の初期企画時には居なかったそうで、スポンサーのバンダイ側からの提案で持ち込まれたものだそうだ。
 一説では、音撃鼓と音撃棒だけのメイン商品展開に不安を覚えたバンダイが、サポート商品として組み込ませたものらしいが定かではない(説得力はあるし、多分本当だと思うが)。
 前体制スタッフは、これに“進化形態の式神”という解釈を与え、魔化魍捜査や戦闘補助に用いるという、画期的なアイデアを生み出した。
 各鬼が、捜索開始時に大量のディスクアニマルを同時起動させ、「よろしくなっ! シュッ」と送り出す光景は、壮観かつ面白みに富んでおり、大変魅力的に描かれている。
 仮面ライダーの索敵場面としては驚くほど画期的で、個人的には心底驚かされた。
 また、それぞれのディスクアニマルの、コミカルで可愛らしい動作に和まされた人も多い事だろう。
 筆者も、キハダガニの手招き(ハサミ招き?)や、轟鬼の真似をしてギターを弾く動作をするリョクオオザルを見て、思わず微笑んでしまったものだ。
 あのような魅力を加えているのも、見逃せない成功要因だ。
 これまで散々問題点を指摘してきた本作の中で、恐らくは文句なしに成功していた数少ない要素、それがディスクアニマルの描写だったのだ。

 もし、ディスクアニマルが別な特撮番組に出ていたら、どんな扱いをされていただろうか…
 そう考えると、ちょっとだけ怖い気持ちになってしまう筆者が居る(笑)。


 さて、そんなディスクアニマルだが、設定上式神とされているので確かにオカルト要素を差し挟む隙があるようだ。
 が、その視点で見た場合、いくつかの疑問がある事も否めない。

 式神の概念は、そもそも作品によって微妙に概念や形状、設定が違う。
 さすがに統計は取っていないので、記憶しているものしか例として挙げられないが、「人形(ヒトガタ)の和紙そのものに魂を憑依させ、独立した存在として動かす」「ダメージを受けても術者にフィードバックがない」「完全に術者の操り人形ではない(独自判断能力と意志を持つ)」「もっと別な大きな術を使用する際の副産物的なものとして発生する」「依代(よりしろ)が必要ない」など、実に様々である。
 つまり、現実の物体として万人が目視・確認できない存在である以上、式神の概念を一つに定めるわけにはいかないのだ
 現実に式神が存在するか否かはともかくとして、「仮面ライダー響鬼」という作品も創作物である以上、これらの例のように「オリジナル式神設定」を用いていると考える必要はあるかもしれない。

 だがしかし、ディスクアニマルの構造が完全な機械であると表現されている事も、同時に無視できないポイントだ。
 劇中の描写を見ていると、ディスクアニマル達は音角や音笛、音錠などの音に反応してスイッチが入り、あとはすべてオートで可動しているようにしか見えない。
 これだと、簡易な人工知能を搭載した小型機器と解釈する方が自然だろう。
 破損したアサギワシをヒビキが分解・他パーツ移植で復元するシーンなどがあった訳だが、ここまで見せられて、これを本来の意味での式神と解釈するには、相当な無理がある。
 また、乱雑に扱われたトドロキのディスクアニマルに対して「メンテナンスが必要」という意味の会話が、香須実達の間で囁かれていたのも、チェックしておきたい部分だ。

 また、仮にあれがすべて本当に「動物霊を宿したもの」だとしたら、あの扱いはあんまりだろう。
 童子や姫に叩き壊され、トドロキに地面にバラ撒かれ…死んでるよ、あわわ、破壊されまくってるよ!
 いや、元々死んでるわけだから、二度死に?!
 しかも響鬼、動物霊達を囮に使って、鎧童子達の時間切れを悠長に待ってたよ!(笑)

 あ、そうか。
 それ以前に、ディスクアニマルに用いられる動物の魂はどこから持ってくるんだろう?
 ライオン(獅子)という、大変入手が難儀そうな動物もいるわけだが。
 まさか猛士には、各種動物を飼い、ある程度成長するとディスクアニマル化のために屠殺する部門が…?!?!
 うわっ、これじゃあ29話までの本作は、大問題で指摘したものよりさらに輪を掛けて、残酷絵巻だったことになってしまうではないかっ?!

 これは多分、以前から信憑性に疑惑が持たれている平成ライダー名物「公式設定の矛盾」の一つではなかろうか。
 今更言うまでもないが、響鬼を含めた各平成ライダーの公式設定には、矛盾や嘘、あるいは適当にでっち上げられたとしか思えないものがあまりにも多い(他シリーズ作品にもないとは言わないが)。
 もっとも有名なのが、「仮面ライダーアギト」の、ベルト内にある賢者の石を求めて、ギルスがアギトを狙う、という設定だ。
 また、「仮面ライダー剣」の剣崎一真がずば抜けた天才(笑)だというものもある。
 この他にも、無数の大嘘設定が跋扈しているが、響鬼本編でも、自然発生魔化魍など、劇中情報を基準にすると、どう考えてもおかしいものがある。
 このディスクアニマルについても、そのような嘘設定が紛れ込んでいるのだろう。

 でも、嘘設定だとも断言できない。
 もし本当だったとしたら、一体どうしてこんな残酷な(笑)設定にしてしまったのだろうか。

 恐らく、既知の式神という設定をそのままスライドインさせたために発生した「トンデモ設定」という事なのだろう。
 う〜ん、どちらにしても、これでは正しい概要が見えてこないから、なんとも判別できないなあ。
 結論としては、ただ「訳がわからない」で止まってしまうから、これではオカルト云々を述べる以前の問題だろう。


 ちなみに、筆者が知る式神の作り方の中に、こんなものがある。
 幼少時から愛情を込めて育て上げた犬が充分成長した頃、これをある特定の場所(神社などの聖なる場所)に連れて行き、首を外に出した状態で土に埋めてしまう。
 その後、複雑な呪詛を唱え、犬に不安と苦痛を与えた後、その首をはねる。
 言うまでもなく、それを行うのは飼い主だ(元々こういう目的のために犬を育てていた訳だ)。
 すると、その犬は首だけで飛翔し、強力な怨念を持つ式神として生まれ変わる、のだそうだ。

 …って、これは確か、特定の相手に害を成すための式神をこさえる呪法だったっけな。
 どっちにしても、殺さないと式神の元になる魂は得られないのか…はぁ〜。
 なお、このやり方で本当に式神が作れるかどうかは保証はしないし、真似されても困るので、部分的にわざと嘘を加えている事をご理解いただきたい。
 

 と、待てよ。
 それ以前に、鬼達(と、あきら)は、本当の意味での“式神”を使う能力なるものを、持っているのだろうか?

 劇中の情報を拾うと、ディスクアニマルを起動させたことのある“鬼ではない人間”は、29話までではあきらとみどりだけである(9月末日までのすべての回を対象にしても、同様)。
 あきらはイブキの下で修行中なので、当然起動する方法を勉強、理解しているのだろう。
 だけど、みどりはどうか?
 みどりはディスクアニマルを開発したり、各種音撃武器を強化したりする事が出来る銀であるため、さすがに起動させられないと問題があるだろうが、だとするとこれは、鬼としての修行とは別枠の技能を取得しているということなのだろうか?
 もし、ディスクアニマル起動に精神方面的な技能が必要とされるのなら、みどりは、部分的にそういう修行をしたのだろうか?
 それだと、彼女が妙に底の知れない存在になってしまう気がするけど、一応そういう側面も考えられなくはない。
 かといって、昔話の「三枚のお札」みたいに、使用者の能力に関係なく起動・効果を発揮するアイテムだったとすると、それはもう式神でもなんでもない、別なアイテムという事になってしまうし。
 ここは一つ、別の“鬼や弟子ではない”猛士のメンバーによる、ディスクアニマル起動またはその失敗場面が欲しいところだ。

 …が、しまった、ここでは29話までが対象だったんだっけ。


 さて、ここまで述べてきた通り、起動理念は不明瞭であるものの、ディスクアニマル自体は機械的な存在であり、オカルト要素を差し挟む隙などほとんどない事が、おわかりいただけたと思う。

 だが実は、たった一つだけ「オカルト要素がないと説明がつかない」ものがある
 それが、12話「開く秘密」で登場した、旧タイプの紙札型ディスクアニマルだ。

 みどりは、劇中で旧型ディスクアニマル(以下、紙ディスクアニマルと呼称)も起動させている。
 しかも、そのやり方は他と同じく、音角でチーン…である。
 すると、ただの紙札がクシャクシャと折れ曲がり、あっという間に折鶴のような姿に変わって飛翔する。
 これは大変面白い演出で、なおかつとてもファンタスティックな場面だったのだが、いったいどういう理屈で動いているのか、劇中情報だけではまったく説明が付かない。
 これだけでは、みどりの式神使役能力で起動したのか、或いは音角に込められた何かしらの力が作用したのか、それとも、そのどちらでもない別な理屈が働いたのか、区別がつかない。
 材質上ただの紙にしか見えないものが音角で姿を変え飛翔するという演出は、それだけならば確かにオカルト的解釈をしないわけにはいかないだろう。
 ディスクアニマル自体は100%機械だったとしても、紙バージョンまでそれと同一視する事は不可能だからだ。

 ぬお、しまった。
 「仮面ライダー響鬼」にオカルト要素はまったくないと言い切ったのに、ここに一つ残留していたではないか!!
 うーむ、これは部分的に発言撤回しなければならないか?


 しかし、これがあるからと言って、「仮面ライダーにオカルト要素があるではないか」とするのは、いささか疑問なのである。

 いや、要素がある事は間違いないのだが、これだけだと“オカルトとして活かされた”とはとても言い難い。
 オカルトとするからには、当然、それを感じさせる雰囲気や裏付け、謎と怪しさを扱わなければならない。
 それがないままだと、単なる「不思議アイテム」止まりになってしまうからだ。
 ただ出てきただけの不可思議要素を、片っ端からオカルト視するわけにはいかないのだ。
 先で、「身なりの良い男女」や「吉野」という、オカルトに発展しそうな材料を述べつつも、「オカルトがない」と断言しているのも、そのためだ。

 紙ディスクアニマルは、間違いなく、29話までのオカルト的材料としては最良のものだった筈だ。
 これを巧く使えば、ディスクアニマルが「機械の身体を持つ(本当の意味での)式神」であるという認識を刷り込ませる事が可能だっただろうし、また、これの開発根源に陰陽道の影を見出す事が出来た筈だ。
 だが、結局本編内では「ただヒラヒラ飛ばせました」という程度だった。
 これでは、せっかくの旨味が台無しだ。
 単なる曲芸披露みたいなものだし。
 最上級の牛サーロイン肉のブロックで、ジャグリングしてみせたようなものか。
 

 恐らくこれは、現状のディスクアニマルから逆算的に考え出された物だったのだろう。
 現代の鬼が使うディスクアニマルが機械的なものならば、大昔はそれ以外の物の筈、と。
 そうすると、根源的発想になった式神=紙(代表的な素材)と繋がるのは、ごく自然な流れだ。
 しかし、それだけで練り込みを止めてしまったため、残念なことにディスクアニマルの歴史を匂わせる展開はその後続く事はなく、そのまま放置されてしまった。
 いや、放置というのは正しくないだろう。
 再度取り上げる価値が見出されなかったとするべきか?
 いずれにしろ、数少ないオカルト的(しかも純和風の)風味漂う稀有なものだったのに、これだけで終わらせてしまったのが惜しい。
 結局、オカルトではあったものの、それの一部も解き明かされる様子がなかったため、やっぱり「材料」以上のものにはならなかったのだ。
 これでは、「仮面ライダーにオカルトはない」という論旨を覆すには、とても足りない。


 さらに言えば、「陰陽道自体、オカルトでもなんでもない」という意見もある。
 これは、オカルトにあまり詳しくない人にはちょっと驚きな意見に聞こえるのだが、納得できる部分もある。
 陰陽道とは、元々は古代中国発祥の陰陽五行説が基になっており、天文・暦数・卜筮などを用いて吉凶や災厄を占い、これを説く事を主目的としたもので、今から1300年以上前から伝えられたと言われている、都を守るために研究された様々な学問の集大成だ。
 平安時代以降、避禍招福の方術として考えられて妙に神秘的な扱いをされたり、有名な安倍晴明のおかげですっかりオカルティックなイメージが定着したが、だからと言って西洋の魔法・魔術などと同一視はできない。
 決して、東洋の魔法という訳ではないのだ。
 筆者も、陰陽道というと真っ先に思いつくのが、暦を参考にする吉凶占いだ。
 陰陽道や陰陽師というものを、どういう流れで知ったかによって、この辺のイメージは大きく変わるだろう。
 歴史上あって当たり前の学問の一つとして考えれば、確かにオカルトなイメージにはつながりにくいし。
 だから、現在陰陽道や陰陽師を扱っている作品のほとんどは、厳密には「陰陽道をベースとしたオリジナル設定のオカルト物」と解釈するのが正しいのだろう。
 ここで扱うディスクアニマルの“式神概念”も、こちらを当てはめて考慮すべきものである。
 無論、これを以って紙ディスクアニマルのオカルト性否定にはならないが、一応そういう考え方もあるという事を、押さえておいていただきたい。


 以下は蛇足だが、紙ディスクアニマルについては、このような考察もできる。
 29話までの響鬼のみで語る、という主旨から若干外れる話の上、まったくの推測に過ぎないので誤解や間違いも含まれていると思われるが、ついでとしてお読みいただければ幸い。

 紙ディスクアニマル登場は、12話「開く秘密」
 この回の放映日は、4月17日だった。
 「仮面ライダー響鬼」は、テレビ局への番組納品がかなり遅れ気味だったそうだが、それを考慮に入れても、3月中には同回の撮影を進めていただろうし、小道具もそれより前に作成していた筈だ。
 という事は、紙ディスクアニマル自体は、どんなに遅くても三月初旬頃までには撮影用の現物が作られていたと解釈出来る。
 個人的には、二月にはもう小道具として製作を済ませていたのではないかと考える。

 ところが三月には、東映内で、響鬼関係のある別な企画がスタートした。
 それは、白倉伸一郎プロデューサーが指揮を取る「劇場版・仮面ライダー響鬼」の製作だ。
 映画化についてはそれより前から決定していたというが、本格的にプロジェクトが動いたのは、この時期から。
 なので、五人の鬼達やそれを巡る設定は、それ以降に練られ始めたと考えるべきだろう。

 劇場版には、シロネリオオザル、ケシズミガラス、イワベニシシという三体のオリジナルディスクアニマルが登場する。
 これらは、戦国時代が舞台であるにも関わらず、TV本編と同じようなディスク形態だった。
 12話で出てきた紙製ではなかったため、情報公開時は多くのファンが激昂したものだ。
 これは単純に、バンダイ側がリョクオオザル・アカネタカ・ルリオオカミの金型を利用して新商品を作りたかったための結果だろう。
 いわゆるコスト削減で、属に言うリデコ商品という奴だ。
 よくよく考えれば、紙ディスクアニマルは戦国時代よりも前か、ごく僅かの期間にしか用いられていなかった可能性もあるし、劇場版ディスクアニマルは石板製だという事で、TVのものとは違うのだから、これだけでは一概に設定ミスとは言い切れない。
 とはいえ、ファンが疑問を抱いた気持ちは良くわかる。

 ここまでの情報を検討してみると、少なくともバンダイ側と前体制スタッフ間では、12話製作時期の辺りまでで、旧型ディスクアニマルの設定を巡る意見交換がほとんどされていなかった事が窺える。
 これはディスカッション不足? という理由だけでなく、単に打ち合わせの時間が取れなかっただけかもしれない。
 或いは、話し合いをする必要性自体見出されていなかったのかもしれない。
 しかし、バンダイ側の「旧型ディスクアニマルの解釈」と前体制側のそれには、大きな隔たりがあった事は疑いようがない。
 もし、この辺について両者間できちんとした話し合いがされており、なおかつ円満にまとまり、その上で設定が作られていたとしたら、12話で紙ディスクアニマルが登場しなかった可能性もあっただろう。
 無論、これらはすべて想像でしかない訳で、実際は打ち合わせも問題なく行われた可能性はある訳だから、そのまま問題点として捉えるわけにはいかない。
 あくまで、もしかして…と考える分には、悪くない材料である、というだけだ。
 ただ、前体制の高寺プロデューサーは設定にものすごくこだわる人物で、子細に渡り多くのものを構築・劇中に反映させた人物でもあるのだ。
 それなのに、ここだけポッカリと大きな抜け? があるのは、どうしたことなのだろうか?


 それにしても、ディスクアニマルや変身アイテムのシステム各種は、いったい誰が最初に開発したのか、という謎が残ってしまった
 これも、紙ディスクアニマル同様、うまく使えばもっと良い味を出せたと思うんだけど。
 29話まででこれらが描かれなかった上、劇場版で猛士の発足が描かれてしまい、それより以前から両者が画面に出ていた以上、この二大アイテムは、猛士が開発したものではなくなってしまったのだ。
 う〜む、いいのかな〜、それで…

 え、劇場版は本編に関係ない?
 パラレルワールドの話ってのが、毎年のお約束で基本でしょうって?

 あ、なーんだ。
 だったら安心だ、これからのTV本編で描かれるのを期待しよう(滝涙)。


●まとめ
 「仮面ライダー響鬼」という作品内には、和風であろうとなかろうと、オカルティックな要素は存在していない。
 ただし、伝奇・幻想的イメージを抱かせやすい材料をふんだんに用意し、しかもそれらが大変吟味されているものである事は、すでに述べた。
 だから、それらを巧くまとめ、調理する事によって、本当に“和のテイスト”を持った不可思議で不気味(注:褒め言葉)なイメージを内包する、独特のヒーロー像・作品を作る事ができた筈だ。

 しかし、以前のコラムでしつこいほど記したように、本作はそれほどの底力を持ちながらも、メインテーマとして「少年の成長物語」などという的外れなものを掲げてしまい、そこから迷走を始め、ついには失敗に至った。
 ここまで来て「どこが失敗だったのか」などと言うのはまったくの論外なので、反論は却下させていただく
 一年4クールという短い期間に、特撮ヒーロー・少年物語・オカルト風味という条件のすべてを満たす作品を作り上げる事は、生半可な難しさではないだろう。
 そしてまた、(ファンの期待に反して)前体制・高寺プロデューサー以下スタッフにはそのような技量があったとも思えないし、スタッフ更迭により現実になかった事が証明された。
 これは、わかりやすくいえば「素材に対する目利きではあったが、調理の腕前が全然ダメだった」という事になる。
 結果的に「前のシェフ達が乱雑に放置していった作りかけの料理」を、新体制スタッフが引き継ぐハメになったのだ。
 これでは、もはや料理の完成形に期待する事はできない。
 むしろ、「どこまで理想に近づけるか」という、その調理行程を楽しむような状況になったとも言い換えられる。
 ただでさえそんなきわどい状態なのだ。


 百歩譲って、29話までの本作の中に、後半花開く和風オカルト風味炸裂の凄い展開が眠っていたとしよう。
 しかし、その概要を説明され切っていたとしても、現在のスタッフがそれを継承してくれる望みは薄い。
 それどころじゃないからだ
 33話登場のアームドセイバーは、まるでそういった“29話までの響鬼を引きずっている何か”を、文字通り分断したかのようですらある。
 他にも、色々描いて行かなければならないものが多くあるのだろう。
 そうしないと、「仮面ライダー響鬼」という作品を、仕上げる事すらままならないのだろう。
 だから、新体制スタッフに対しては、個人的な不安はあれど、是非頑張って欲しいと言いたい。

 しかし、そうなると益々、前体制スタッフが置き去りにした材料は腐っていくのである。
 今回扱った「オカルト的要素」も、その一つ。
 それどころかこれは、要冷蔵食品なのに買ったその日から一度も冷蔵庫に入れられなかった食材であるかのようだ。
 何が言いたいか…そう、つまり、新体制に入れ替わる以前から、すでに腐り始めていたのだ

 せっかく用意したのに、使いこなす事がまったく出来なかったオカルト、伝奇的、幻想的イメージ…これらが完全に腐敗し切った時期を、恐らく貴方も、(本作のファンなら)一度は目にしている筈なのだ。

 合体魔化魍“ナナシ”

 太鼓祭り

 夏の魔化魍



 これで、何が言いたいのか。
 もし貴方にそれが判らないとしたら、きっと、最期まで理解できないままなのだろう。
 前体制版「仮面ライダー響鬼」の“素晴らしい完成度”を見出す事ができなかった、アンチ響鬼派の人達の如くに。


 最後に、もう一度だけ述べる。
 「29話までの前体制版・仮面ライダー響鬼に、オカルトなど一切ない」


 なぜなら、それを描くより前に、スタッフ自身が材料を台無しにしてしまったからだ。
 

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