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更新日:2005年7月17日 | ||
この数年ずっと思っている事なのだが、最近やたらと「ハッピーエンド主義」を唱える意見が目に付くようになった。
漫画にしろドラマにしろ、それこそアニメや特撮にしろ、最終回に少しでも悲劇的な展開があると、それだけで酷評される傾向がある。 インターネットの普及により、様々な作品の感想やレビューを目にする機会が増えた訳だが、その中に必ずと言っていいほど混じっているのが、 「どうしてハッピーエンドにしなかったのだろうか?」 という疑問だ。 どう考えてもハッピーエンドで終わらせる事に無理がある作品であっても、この疑問符は唱えられる。 そしてこの疑問は、その作品のジャンルや方向性、性格に関わらず唱えられている。 それにしても、どうして、こんな事が言われるのだろうか? そもそも、何をして「ハッピーエンド」と表現しているのか? ひょっとして、いつのまにか「ハッピーエンド」という概念が狂ってきてないか? 今回は、そんな部分に焦点を当ててみたい。 以降は、主に「ハッピーエンド」と、それに対する「バッドエンド」だけに限定し、そのあり方を検証する目的と定めているため、「各種エンディングの分析」という主旨のコラムではないという事を、まずはご理解いただきたい。 少し前の話になるが、「仮面ライダー剣」の最終回が終わった後、各所でよく「どうしてハッピーエンドにしなかったのか?」という意見が見られた。 筆者は、この意見に大変疑問を感じている。 ご存じない方のために、「仮面ライダー剣」の内容を、思い切り要約して説明しておこう。 現在地上に生息している生物の始祖・アンデッドが戦い合い、勝ち残った最後の一体がその望みを叶える力を得られる「バトルファイト」。 前回のバトルでは人間の始祖・ヒューマンアンデッドが勝利し、現在の人類が繁栄した。 だが、とある事故により封印状態にあったアンデッド達が解放されてしまい、現代の日本を舞台に再びバトルファイトが開始されてしまった。 絶対に殺す事が出来ないアンデッドは、戦闘で弱らせてから特殊なカードに封印するしかない。 そのため「仮面ライダー」という、“アンデッドを封印できる能力を持つ戦闘ユニットシステム”が開発された。 しかもこの仮面ライダーは、封印したアンデッドの能力を、一時的にその身に適応させる事が出来る特殊機能を持つ。 ライダーシステムの適合者は、すでに封印したアンデッドの能力を駆使して、別なアンデッドを封印していく使命を持っているのだ。 ところが、このライダーシステムには問題があり、アンデッドとの適合率が高い人間がライダーとなって戦い続けると、その者自身がアンデッドになってしまう可能性がある。 その事実に気付きながらも、主人公・剣崎一真は仮面ライダーブレイドとなって戦いを続け、意志を通わせる事に成功したアンデッド・ジョーカーこと相川始とも共闘するに至る。 始は、自分が封印したヒューマンアンデッドの影響を受けて、人間として生きたいという願望を持ち始めていたのだ。 だが、すべてのアンデッドを封印しなければならない以上、剣崎はいずれ始も封印しなければならない。 やがて、ライダー達と始(ジョーカー)の活躍で次々にアンデッドが封印されていったため、「統制者」と呼ばれるバトルファイトの運営を司る存在は、始を勝者と認めてしまう。 その途端、始の意志とは無関係に、人類滅亡のプログラムは実行され始める。 統制者の破壊も叶わず、封印済みの別アンデッドを解放する事すら不可能という状態に追い込まれたブレイドは、自分がアンデッド化する事によって「バトルファイトはまだ終わっていない」事を統制者に認識させ、均衡状態をでっち上げる策に出た。 ブレイドのシステムの影響で、目論見どおりアンデッド化した剣崎は、自ら姿を消し、始だけでなく、世界を救う事に成功した。 「仮面ライダー剣」は、その設定や展開の伏線が物語途中でしょっちゅう捻じ曲がってしまい、明確な本筋を特定しづらいという難点があるのだが、「バトルファイトに何かしらの決着をつけ、人類を救わなければならない」という結末が求められていたのは間違いない。 こうして見てみると、剣崎の思い切った行動の是非はともかくとして、一応「人類を守る」という目的は果たさせている訳なので、この最終回は「バッドエンド」とは言えない事になる。 ところが、先に挙げた「ハッピーエンドじゃない」という感想を抱いた人達にとって、この展開は紛れもなく「バッドエンド」だったらしい。 その理由は、「剣崎がアンデッドになって皆の前から姿を消してしまったから」というのがほとんどだ。 中には「設定矛盾が解消されなかった」とか「劇場版と話が繋がらなかった」という事を掲げていた人もいたが、こういった意見は、今はあえて避けておこう。 結果はどうあれ、目的が果たされたというのに、バッドエンドとは? この作品に求められていた「ハッピーエンド」とは、いったいどんなものだったのだろうか? 少しおさらいしておきたいが、そもそも「ハッピーエンド」というのは、
この他にも何かあるかもしれないが、すぐに思いつくのはこんな所ではないだろうか。 例えば「好きな相手と恋愛の末に結ばれる」のは、上記の1〜5すべてに当てはまり、ちょっと古い特撮やロボットアニメのように、最後に敵組織を壊滅させるというものは、3か5に該当する。 また「包丁人味平」のように、豪華客船のシェフの一員として旅立つという希望溢れる明るい未来を示唆するものは、6になるだろう。 要するに、「最初から最後までずっとハッピーな状態が持続する」というのではなく、喜怒哀楽様々なドラマパターンが続き、最終的に良い結果を迎える事がハッピーエンドなのだ。 言い換えれば、そこまでの経緯に「ハッピーではない展開」が皆無だった場合、ハッピーエンドはそもそも成り立たない。 それは「いつもと同じ」であるに過ぎないからだ。 「キャンディキャンディ」がいまだに名作として評価されているのは、キャンディの辛い周辺事情が、いつの日か幸福なものに変わってくれるだろうという“読者の望み”を投影出来るためだ。 だから、全体的に暗い話が多くても、最終的には「キャンディのとっても良い話」で終わる事が出来たのだ。 もし、アニメ版「サザエさん」の最終回が作られたとして、その内容がいつものエピソードとまったく変わらないものだったら…つまり、最終回として特別な展開を迎えるのではなく、「普段の磯野家の日常」を描いたまま、突然終わってしまった場合、これは果たして「ハッピーエンド」と云えるだろうか? この例の場合は、誰もが「NO」と答えるだろう。 対してバッドエンドというのは、要約すれば「上記項目例がいずれも叶えられずに終わってしまう悪い結末」の事だ。 あるいは、それに近い状態と判断して、まず間違いないだろう。 先の「仮面ライダー剣」最終回の例で考えた場合、バッドエンドと呼べるのは「アンデッド全封印も、バトルファイト阻止にも失敗した結末」のみであり、そうでなければバッドエンドとは断定できない。 この場合、剣崎や橘達が考案し実行したバトルファイトへの対策の是非は、あえて度外視する。 少なくとも、番組当初からの目的をある程度果たす事が出来たブレイド達の活躍を、「失敗談」とまとめる人はいないだろう。 もし、それでもなお失敗談であると述べるなら、それはただ単に「その視聴者が展開に納得できなかった」だけの話。 エンディングの種類を断定するのとは、また違う話になる。 ここに、最近の視聴者に見受けられがちな「勘違い」が透けて見える。 「ハッピーエンド」と「バッドエンド」の明確な判断基準を持たず、主要キャラクターの周辺事情や思い入れだけで語ってしまい、納得のいかない結末が提示されると、これを指して「ハッピーエンドじゃない」「バッドエンドだ」などと唱える傾向。 「仮面ライダー剣」は、剣崎に思い入れを持っていた人にとっては確かに苦い終わり方だったが、だからといって、イコールバッドエンドという定義には当てはまらない筈だ。 見た目はかなりハッピーな展開で終えた「特捜戦隊デカレンジャー」も、SPD視点ではなく、物語全体を冷静かつ客観的に見つめ直した場合、決してハッピーエンドとは呼べない痕跡を多く残している事に気付いた方も多いだろう。 何せ、アリエナイザーの集団に基地を奪われた上、それを利用されて市街地の大規模破壊が行われたのだ。 あげくには、事態収拾のために親元の宇宙警察主力部隊までもが動くという大規模なトラブルに発展した。 これは、エージェント・アブレラを倒したからすべて丸く収まる、というほど甘い状況ではない。 仮に、奇跡的に怪我人・死亡者共にゼロだったとしても、物理的破壊の爪跡は大きすぎ、どう見ても「SPDの一方的な勝利」にはならず、むしろ「負け」なのだ。 もはやここまで来ると、アブレラをデリートした事は部分的解決に過ぎない筈だ。 もちろん、デカレンジャー本編内でこういった側面をいちいち描く必要があったかどうかというのはまた別問題だが、この様に、ちょっと視点を変えただけで、ハッピーエンドと思われていたものが実はそうではなかったという事に気付く例だってある訳だ。 結局のところ、現在よく唱えられる「ハッピーエンド」「バッドエンド」という概念は、ものすごく表面的な部分だけで判断されてしまっている傾向があるようなのだ。 筆者は、ここであえて問いたい。 「もし、ブレイドの最終回で剣崎がアンデッド化せず、かつバトルファイトやジョーカーの件にも何かしらの形で決着がついていたら、それはすべてにおいてハッピーエンドだったと言い切れるのか?」と。 もしここで「その通り」と答えてしまう人がいたとしたら、ちょっと考え直してみてほしい。 それは「剣崎が無事のままで終われた」からハッピーエンドなのか? ちょっと極端な例だが、仮に主人公勢に問題がないままだったら、それ以外の人間達に壊滅的被害が出ていたとしても、ハッピーエンドになってしまうのか? たとえ世界が滅んだとしても、幸せそうな主人公勢だけを描写していれば、それがハッピーエンドに見えてしまうのか? もしそう思ってしまったのなら、残念ながらその人は、「ハッピーエンド」というものを根本的に誤解していると言わざるをえない。 人間がアンデッドまたはバトルファイトの影響によって犠牲になる事は、剣崎がもっとも忌み嫌う結末だった。 少しでも多くの人間を救ってこその「剣崎の望み」であり、本来の最終回では、それが果たされている。 目的をかなえるために、自己犠牲を厭わなかった剣崎のあり方がバッドエンドだというのでは、彼も報われまい。 「あしたのジョー」の力石しかり、「六神合体ゴッドマーズ」のマーグしかり、人気のあったレギュラーキャラが死んでしまっただけで大騒ぎするというのは、今に限らず昔からあったわけだが、「(人気のあるキャラが死んでしまうなんて)そんな展開はあるべきではない」と声高に唱える人達は、過去にはそんなに居なかった(まったく居なかった、とは言わないが)。 だが今は、たとえ物語全体が見事に完結していても、そこまでの犠牲者の数でハッピーエンドとは認めようとしない人が居る。 与えられた結末すべてを無条件で呑み込み、絶賛せよとは言わないが、なぜ、すべてが丸く収まる結末だけしか受け入れられないのだろうか? 必然性のある流れであれば、登場人物が死のうが、不幸な目に遭おうが、それは「起こってしかるべき結果」であり、視聴者は受け止めなければならない現実になる。 悪行をおこなった者に裁きが下る事は必要だし、努力が必ずしも報われるとは限らないという結末も充分考えられる。 すべてにおいて、けじめはきっちり付けられるべきなのだ。 確かに、思い入れのあるキャラクターが死んでしまったりすると辛いし悲しいが、だからと言って、そうなる事を否定してはいけない。 そういった絶望的な展開を「悲劇」という言葉でまとめるなら、「悲劇の先に喜劇がある」場合だってありうるし、逆に悲劇があったからこそ盛り上がる展開だってあるのだ。 筆者は、これら悲劇性の全面否定を「視聴者のレベルが低くなった」ために起きた現象だと判断している。 ただし、こう書くといささかカチンと来る人も居るだろうと思う。 「じゃあお前はレベルが高いのかよ」と噛み付きたくなる人も出るだろうが、わざわざこんな表現をするには、理由がある。 レベルが低いというのは、何もその人の責任ではなく、もっと根の深い問題だ。 それに、これは筆者だけの言葉ではなく、各所でも述べられている一般論だ。 一応、このように表現する根拠も述べておこう。 以前鷹羽氏が書いていたが、近年では、一部の童話などの内容が改変されており、昔とは全然違う展開になっているものがある。 たとえば「かちかち山」では、鍋にされてお爺さんに食べられてしまったお婆さんの展開は消え去り、最後は悪さをした狸が二人に頭を下げて終わるというものになっている。 また「アリとキリギリス」も、キリギリスは死なず、アリに迎え入れられて暖かな生活を得る事が出来る。 聞いただけの話で裏づけを取っていないものの中には、「鬼を倒さない(傷つけない)桃太郎の話」などというものもあるそうだ。 このように、悲劇性や残酷性のある展開を丁寧に切り捨て、結果的に、本来の内容・結末を変貌させてしまっているものがあまりにも多い。 これらは、すべて「悲しいお話を読むと子供が泣いてしまうから」という、まるでアメリカの裁判のような見解から発生しているもの。 本来、世の中の皮肉な一面や意外性、悲しい出来事を要約して子供に教えるのが目的だった筈の童話や物語から、一番大事な部分を取り除いてしまってどうするのか。 すでに、世代によって同じ童話の解釈が完全に食い違っているケースもある。 こうする事で、「辛い気持ちになる・悲しい気持ちになる」展開に耐性を持たない世代が育ち始めているのは、紛れもない現実なのだ。 ところが、ある程度以上の世代は、子供の頃からこういう「悲劇性のある物」を受け入れやすい環境にあった。 というより、そういうものが目に触れやすく、沢山散りばめられていたのだ。 童話や物語だけでなく、テレビアニメでも特撮でも、あるいは夜中にふと見てしまった大人向けの番組でも、はたまた教科書の中にも、「悲しい物語」「苦い展開」はそこら中にあった。 また、「大人が見る番組」「子供向け番組」という区別が現在ほど明確でなかった、という背景もある。 小学校低学年が普通のドラマを見ていたり、妙に大人向けな内容のアニメを見ていたり…そういう事はよくあった筈だ。 また親や先生から教わる様々な物語にも、明確な悲劇性のあるものが存在した。 そういうものを多く受け入れざるをえない環境があったために、気が付くと、物語に対する耐性が付いて来る。 多少の個人差はあれど、どれが悲しい事で、どれが皮肉な表現で、どれが喜びなのかは、確実に見分ける事が出来た訳だ。 もちろん、だからと言って「我々古い人の方が偉い」などという戯言を述べたいわけじゃない。 これらは、単なる境遇の違いと言ってもいい。 ただし、経過はどうあれ「悲劇性に対する受け止め方」だけに限定すると、どうしても「レベルが低い」などという表現にせざるをえないのだ。 89年に発生した「宮崎勤事件(177号事件)」の時、犯人の宮崎が特撮マニアだったという事から、「勧善懲悪的内容のヒーロー番組」が否定された事があった。 この影響で、子供達に特撮番組を見せないようになった親も急増し、その影響で、作品観が大きく変貌した世代だって本当に存在する。 この世代の人達に対して、古い世代の人間が優越感を持つのはナンセンスに過ぎない。 また、悲劇性を提供している媒体そのものに、様々な試行錯誤があったという事も、大きく関係している。 アニメや特撮など、本来子供向けに製作されているはずの作品を辿っていると、ある程度古い時代の作品の中に、時たま「とても子供向けとは思えない内容や描写」が含まれている事がある。 具体的な例を挙げるときりがないので割愛するが、そういった物を見た経験をお持ちの方も多いのではないか。 これは、単純に「ちょっと上の年齢層を狙った演出」の場合もあるが、実際には「子供向けの内容に徹する事が出来ず、“それ以外”の要素が混ざって」しまった結果の場合もある。 つまり、ついうっかりドラマや時代劇、風刺や教訓などのエッセンスを盛り込んでしまったというものだ。 「鳥人戦隊ジェットマン」の最終回、結城凱が刺されて死亡するシーンを見て、「探偵物語」の工藤俊作や「はぐれ刑事」の影山などのような、昔よく使われていた不条理系演出を思い浮かべ、ニヤリと笑った人も多いだろう。 このような要素が混じり込んだ結果、子供向けの筈なのにやたらと一部分だけマニアックな内容になったり、どう見ても子供向けなのに「大人じゃないとここは理解できないだろう」と思わされる展開があったりした。 こういうものは、古い作品であればあるほど多く含まれる傾向がある。 特にモノクロ時代の特撮などは、当時のホームドラマや時代劇の演出技法がそのまま盛り込まれており、今見ると、とても不可思議な気分にさせられる。 ちょっと例が悪いかもしれないが、「イナズマンF」には、デスパー内部に入り込んでガイゼル総統への復讐を成し遂げるため、それまで同棲していた男を狙撃・殺害して信用を得る女性のエピソードがあるが、はっきり言って、ヘタな刑事ドラマより凄まじい演出だった。 さすがにしょっちゅうではないにしろ、こういう事を、子供番組の中で平気でやっていた作品があるのだ。 (注:なお、イナズマンFは製作当時の複雑な事情もあり、子供向けでない演出を実験的にわざと行っていた部分があるようだ) このように、古い時代の作品は、意外に「子供に対して容赦ない展開」を盛り込んだりしていた。 小さい時になんとなく好きだった作品を、大人になってあらためて見返してみた時、ギョッとさせられる事がある。 無論、すべての作品が例外なくそうだったわけではない。 しかし、そういう傾向の比率が現在より遥かに多かったため、作品内容に対する評価基準が現在の人と大きく異なっている可能性だってあるのだ。 先のレベルという言葉を借りるなら、それぞれの努力によってレベルが高くなったのではなく、環境によって「無理矢理レベルを上げさせられた」とでも言えばいいのか。 現在のように、様々なメディア媒体で色々な作品を見る機会に恵まれている人を、CSなどで無理矢理古い作品漬けにしたら、とんでもなくレベルの高い論客を生み出せてしまうかもしれない。 作品に対する洞察力や理解の早さ、観察力などについては、むしろ今の人達の方がレベルが高いとも思える部分がある訳だし。 閑話休題。 強調しておきたいのは、「誰かが不幸になる」という結末は、必ずしもバッドエンドではない、という事。 それ以前に「作品内での目的」が果たされたかどうかを見るべきで、逆にそれが成されていなければ、一見幸福でもハッピーエンドではない。 また、途中経過が辛く苦しい物語の連続だったとしても、最後にすべてが実を結び、これ以上ないほど素晴らしいものを得たのであれば、犠牲の数や種類を問わず、それはハッピーエンドとなる。 登場人物の大半が次々に死んでいく展開も、彼らがどうしたかによって、バッドエンドとは言い切れなくなる。 「皮肉なハッピーエンド」もあれば「気付きにくいバッドエンド」もある。 ここでエンディングの定義を決めたいという意図ではないが、ひとえにグッド(ハッピー)・バッドと言っても、これだけ様々な見解があるのだ。 最後に、ちょっと変わった例を出して「ハッピーエンドに拘りすぎると陥る罠」を説明しよう。 「GAME-REVIEW」にも掲載しているが、近年アニメ化した「魔法少女リリカルなのは」の原作に相当する、18禁エロゲー「とらいあんぐるハート」というシリーズタイトルがある。 この二作目「とらいあんぐるハート2 さざなみ女子寮」の一部シナリオを見てみたい。 具体的な設定や物語の解説はおいといて、その中に登場するヒロインの一人で人気漫画家でもある真雪が、主人公に対して己の持つ「ハッピーエンドの拘り」を述べるシーンがある。 それによると、悲劇を盛り込む事で「他人の不幸と自分の幸福を比べて喜ぶなんて嫌い」「同情する事で喜ぶ事は嫌」なのだそうな。 多少なりとも物語の創作活動を行った人ならば、この発言がいかに愚か極まりないものかわかるだろう。 たとえどのような理由があろうとも、「悲劇を否定し、ハッピーエンドしか描かない」などという人間に、ストーリーテラーを名乗る資格はない。 もちろん、結果的に作品すべての結末がハッピーエンドだったとしても、その過程に様々なドラマが盛り込まれる必要があり、時には読者の気持ちを沈ませる必要もあり、悲しませる必要もある。 そういう抑揚があるからこそ、最後に辿り着くハッピーエンドに箔が付くのだ。 だが、真雪のこの言い分では、それすらも否定している事になる。 しかも、同情・不幸の比較の否定などという安易な心情に基づいて。 かと思うと、自分の作品中で人気の高いキャラクターを殺すという展開を入れようとしたりする。 「とらいあんぐるハート2」の主人公が救済措置を懇願しても、これはずっと前から考えていた構想だと突っぱねてしまう。 この破綻振りは、なかなか凄まじいものがある。 真雪は、本編内ではかなりの売れっ子作家という設定になっているが、この心情を見る限り、とてもそれに相応しい実力があるようには思えない。 筆者は、この発言一つで、せっかくいい感じにまとまっていた真雪シナリオの評価が下落してしまった。 だが本当の問題は、この真雪の発言が実質的に「とらいあんぐるハート全体の物語の傾向」を指し示している事なのだ。 「とらいあんぐるハート」は、いわゆるよくありがちな学園ラブコメディ+ご家庭内ハッピードラマをベースとしたADVなのだが、なぜかその上に格闘技や太古の伝承、非人間(魔物あり科学的な存在あり)といった変わったエッセンスが盛り込まれている作品だ。 そんな設定舞台の中で、「絶対に現実には居そうにない(特殊性質を持った)ヒロインとの恋愛」を行っていく内容なのだが、なぜかそのエンディングのすべてが、ほぼハッピーエンドで終わっている。 しかも、その中には無理矢理な力技でハッピーエンド化されたものも多く、普通の感覚を持っていると「どうしてここでこうなるんだ?!」という疑問が湧く。 また、経過説明をすっ飛ばし、いきなり止め絵で未来の幸せそうな姿を描いただけで終わる、なんていう手抜き極まりないものまである。 シリーズは全3作、エンディングの数はそれらに登場したヒロイン数の約二倍(+番外編)あり、大雑把に数えても、だいたい50近くにも及ぶ。 その中で、誰もが否定のしようのないほど完全なバッドエンドは、片手の指で数えても余るほど。 恋愛系ゲームの根源的なものとして存在する「恋愛成就ならず」というエンディングや、ゲームオーバーを別とすれば、本当に数えるほどしかない。 まして、悲恋エンドにしても今ひとつ歯切れが悪く、けじめの付け方が全体的に甘い。 とはいえ、ハッピーエンドの中にはとても感慨深いものもあるので、決してすべてが悪い傾向にあるというわけではない。 気になる人には、とても気になるというわけだ。 また、エンディングはハッピー傾向なのに対し、シナリオ途中の「過去回想シーン」などでは、幼女強姦殺人や虐殺、リンチや死刑、猟奇殺人、レイプ、血みどろの戦いなどの残虐性・無理矢理な悲劇性描写が平気で描写され、しかもその数が多いのも特徴だ。 まるで、「エンディングさえハッピーならば、その経過はどんなに陰惨であろうとも構わない」と言われているかのようで、バランスが悪いなどというレベルではない。 悲劇は否定するが、惨劇は肯定するのだろうか? こんな調子で、本シリーズはエンディング自体はさっぱりしたものでも、経過を振り返ると後味が良いとは言えない場合が多い。 ヒロインの可愛らしさや萌え傾向のシナリオによってピントがボカされている感もあるが、この「とらいあんぐるハート」シリーズは、筆者が今のところ知る物の中で、もっとも「ハッピーエンドという言葉の意味を理解していない」作品だと考えている。 エンディングの方向性を話す時、必ずと言って良いほど出てくるのが、富野由悠季氏の製作したアニメ番組だ。 「機動戦士ガンダム」や「伝説巨人イデオン」「聖戦士ダンバイン」などが有名だが、その中でも、最後に主要登場人物のほとんどが死亡して終わってしまう「イデオン」「ダンバイン」が、“ハッピーエンドの対極の例”として良く挙げられる。 これらをして、「登場人物を安易に殺しすぎ=泣き演出を狙いすぎ」と表現する人も多く、筆者もその一部には強く同意しているが、これらは通常形態のドラマとは違い、「戦争」という独自のスタイルの基に描かれている作品なので、キャラクターが死ぬという事が、そのまま単純に悲劇に直結していない稀有な例なのだ。 だから、「殺せば感動を生み出せる」という安直な発想の例として、上記タイトルを挙げるのは、ちょっと違うと筆者は思う。 これはこれ、それはそれ。 富野演出が嫌いだから、安易に死なない(理不尽に生き残る)描写が正しいとも限らない。 ただし、主人公一人を生き残らせるためだけに、無意味に仲間が特攻死していく演出を強行した「無敵超人ザンボット3」だけは、フォローする事が出来ない。 死んだキャラクターがすぐに生き返って「読者を後から安心させる」という手法を用いすぎたため、本当に死んで退場したキャラクターを特定しづらくなった「魁!男塾」などという例もある。 これと同じで、ハッピーエンドも「やりすぎたら価値が下がる」のだ。 だが、パッと見はもっとも安心できる結末だし、精神的ショックが伴わないものだから、簡単に受け入れられてしまう傾向があるのも事実。 しかし、ハッピーエンド主義を唱えるのであれば、「本当のハッピーエンドと言い切れる作品を見出して欲しい」とも、筆者は思う。 悲劇が嫌いだという結果の消去法として、ハッピーエンド主義を名乗っている者こそ、本当の「来るべき幸福の結末」を知らないのだ。 大きな何かを、力の限り乗り越えた果てに、ようやく何かを掴み取る、という演出は、使い古されてはいるものの、いまだに強い感動を与えてくれる。 「なら、お前が理想と思うハッピーエンドとは何なんだよ?」と聞かれたとして、ここでそれを述べたとしたら、それはまた違う方向の論議を生み出しそうなので、筆者はあえて何も書かないでおきたい。 でも「トップをねらえ!」のラストを、バッドエンドとは言いたくないなあ。 → NEXT COLUM |
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