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更新日:2003年12月7日 | ||
誰でも知っているはずなのに、細かいネタは知られていない作品ってありますね。 『ガリバー旅行記』で、小人の国の次に巨人の国に行ったという話は、割と知られていないようです。 これは、小人の国から帰ったところ(第1部)で終わらせてしまうダイジェスト版が多いせいですね。 『天空の城ラピュタ』での「ラピュタは本当にあったんだ!」という台詞のお陰で、第3部のラピュータ編の方が有名なんじゃないかと思ったりします。 また、先日どこかのテレビ番組で『ピノキオ』の特集をしていましたが、“ゼペット爺さんとピノキオを飲み込んだのは鮫”と紹介していました。 たしか、ピノキオ達は鯨に飲まれて、潮吹きと共に脱出したはず。 鮫からはどうやって脱出したらいいのでしょう? そういった細かいところが知られていないものの1つに『西遊記』があります。 なにせ長い物語ですから、ダイジェスト版でもちょっとした大長編になってしまい、映像化される場合、悟空が三蔵法師と出会う前の話は、ほとんど飛ばされてしまいます。 如意棒の質量が8t以上あるって知ってる人、どれくらいいます? あれを片耳に突っ込んでも左右のバランスを崩さないところに、悟空の恐ろしさが垣間見えるんですよ。 ちなみに、並の妖怪では数人がかりでも如意棒を持ち上げることすらできませんし、振り下ろされて加速度の付いた如意棒を受け止められるのは、相当な力がある者だけです。 悟空1匹が天界全軍を相手に一歩も引かず、とうとうお釈迦様が相手をすることになったのは、その戦闘能力が高すぎるせいですから。 『西遊記』で、三蔵一行に対して力押しで攻めてくる妖怪がほとんど登場せず、策略や人助けが中心の展開になるのも、正面から悟空に勝てる奴が滅多にいないからなんですね。 たしか牛魔王の息子の紅孩児くらいですよね、旅の途中で悟空に競り勝ったのって。 そういえば、もう20年近くも昔になりますが、世界名作劇場の『小公女セーラ』では、セーラがダイヤモンドプリンセスに返り咲き、ミンチン女学院に10万ポンドの寄付をしてインドに旅立って終わってしまうという凄いことをやっていました。 本来なら、セーラが返り咲いた後の話だけで1章あるというのに。 原作では、慌ててご機嫌取りに現れたミンチン院長にひとくさり嫌みを言って追い返した挙げ句、最後には女学院から追放してしまうのです。 どうしましょう、全く違う話です。 ああいった所謂「名作」のラストを勝手に変えてしまうのって困りますね。 数年前にハリウッドで制作された『フランダースの犬』でも、ネロとパトラッシュが死なないエンディングを作ったことに非難囂々で、結局ノーマルの“死ぬエンド”と“死なないエンド”を、上映する場所によって使い分けるということに落ち着いたんでしたね。 なんでも、アメリカでは子供が泣くと損害賠償請求の裁判を起こされてしまうからだとか。 それって、子供向けの作品に悲劇は存在しえないってことですか? 笑いごとでなく、最近では、『アリとキリギリス』のラストで、アリがキリギリスを助けてしまうという展開のものさえあるそうです。 これらは、ダイジェストのために切ったとかではなく、明らかに改変です。 もしかしたら、そのうち『マッチ売りの少女』も死ななくなったりするかもしれません。 そんなことをしたら、彼女は単に目を覚ましたまま夢を見ているアブナい人、もしくは氷点下で眠っても死なない不死身の超人になっちゃうような気もしますが…。 そう考えてみると、やはり20年ほど昔NHKで放送した『子鹿物語』で、主人公のジョディが可愛がっていた子鹿:フラッグを撃ち殺すエンディングは、大変良心的だったんですね。 可愛がっていたフラッグは、やがてジョディ達の畑を荒らし、貴重な苗や作物を食い尽くすようになります。 高い柵を作っても飛び越え、森の奥に捨てても帰ってきてしまうフラッグ…このままでは自分たちが飢え死にしてしまうからと、ジョディはやむなくフラッグを撃ち殺すのです。 “生きていくために”少年の日々と別れを告げたジョディの決意は、残酷かもしれないけれど、そこから何かを感じ取るところに作品の価値があるはずです。 もし、このラストで、フラッグを農作物を荒らさないようにしつけてめでたしめでたしと改変したら、それは動物調教物語に変質してしまうでしょう。 そんなことをしていいものでしょうか。 鷹羽が『小公女』を初めて読んだのは7歳の時でしたが、当時の鷹羽には、セーラは我の強い陰険な女の子という印象しかなく、あまり好きなヒロインではありませんでした。 その分、アニメのセーラを見ていて、そのあまりに良い子で純粋な姿に違和感を感じたものです。 もちろん、これはあくまで幼いころの印象を引きずったままの鷹羽の感想であり、同じ原作を読んでいても違う印象を抱く人は多いと思います。 それはいいんです。 年齢や経験の違う者同士、同じものを見聞きしたとしても、違う感想を抱くのはむしろ当たり前のことですから。 でも、見たものが全く違う物語だったとしたら? 話は全く噛み合わなくなるでしょう。 何かに対する感想のぶつけ合いは、同じ内容のものを見たということが条件になります。 もちろん、本によって微妙に訳が違ったりしますし、映画によって細かい描写は違うでしょうが、それでも全体的な物語としては、同じ内容でなければなりません。 同じ作品を見聞きしたはずの人間が、違う物語を記憶している、それも記憶違いとか印象論ではなく…それはとてもおかしなことだと思います。 物語について好き嫌いを言うのはともかく、正式な話を知ることもできない場合があるってのは、なんだか妙ですねぇ。 正式な物語をきちんと見られる環境、大切にしたいですね。 → NEXT COLUM |
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