仮面ライダーディケイドあばれ旅 2

後藤夕貴

更新日:2009年2月14日

 今回は、「仮面ライダークウガ編」について触れてみたい。
 尚、前回同様2000年度放映のクウガは『オリジナルクウガ』、ディケイド内に登場するクウガは『DCDクウガ』と統一呼称する。
 以下で「」にて括られているのは“番組名”であり、特定のライダーを指すものではない。
 また、以下では批評と筆者の個人的感想を分けて記述しているので、そちらについても予めご了承を。

●「クウガ編」見所について

 2話と3話(&1話終盤)は、DCDクウガと彼が存在する世界を巡るエピソードとなった。
 平成ライダー第一作ということもあり、一番最初に触れるのはまあ順当だろう。
 予想通り相当なアレンジが加えられていたが、現状、これが「仮面ライダーディケイド」内における過去ライダーの描かれ方の代表例だと判断してもさほど問題ではないだろう。
 DCDクウガ編は、本作の性質を理解するにあたって必要なポイントをまとめて示し、今後の展開への理解を深める役割があったのではないかと筆者は考えている。
 3話の時点までで目立つ特徴は、  といったところだろう。
 また上記に加え、オリジナルクウガの特徴であった“泥臭く格好悪い戦闘シーン”は改められており、かなりスタイリッシュ&派手なバトルがふんだんに盛り込まれていた。
 戦闘シーンをあえて格好悪く見えるように演出していた(バックに主題歌をかける事すら禁じていたという)オリジナルクウガに不満を抱いていた人は、2話冒頭等で思い切り戦いまくってるクウガの姿は、相当新鮮に見えたのではないか。

 一部で流出しているネタバレ情報をご存知の方は、恐らくこれらの要素が今後の各ライダー世界においても適応されるものだと考えておられるだろう。
 そういう見地で見た場合、DCDクウガ編は、「ディケイド入門編」として必要な要素を大変多く内包していたように感じられる。

 逆に云えば、これが「DCDライダーをどうしてもオリジナルライダーと比較してしまう人」「アレンジが許容出来ない人」に対し、明確な断りを加えたことになる。
 噛み砕いて言えば「これが認められる人は、この先付き合ってくれ」と明言したようなものか。
 後述するが、DCDクウガ編はゴウラム変形に見られるような“かなり無茶な要素”が含まれていたが、ディケイド流アレンジを許容出来た人の中にも、これには思わず退いてしまった人がいたのではないだろうか。
 今のところ、このライダー無茶変形は比較的好意的に受け取られている様にも感じられるが、今後どういう反応が出てくるのか注目していきたいところだ。

●「クウガの世界」

 前回に記述したことのいくつかが杞憂に終わり、個人的にはホッとさせられた。
 少なくとも、視聴者の過去作品知識に依存するという意向は今のところ色濃く見えてはおらず、クウガ世界はそれなりに上手く劇中で説明されていた。
 ディケイドを未確認生命体「10号」と誤認させる都合上、グロンギの番号が妙に若くなってしまったという奇妙な副作用もありはしたが、概ね上手にまとめられており、また強く感心させられた点も多く含まれていた。
 短縮アレンジバージョンとしては、ある意味申し分のない構成だったと筆者は感じている。

 DCDクウガ編の注目点を見てみよう。

【オリジナル準拠】

※但し数え方のみ異なっており、士の台詞の“二体がかり”が「ビダギガバシ」とされている。
オリジナルでは2:「に」ではなく「TWO」からの変換なので「ドググダギガバシ」が正しい。

【相違点】(メインキャラの違いを除く)

※ペガサスフォームは設定上ジャンプ力が15mもあるので、本当は相違点ではない。


 他にも細かなものがあるかと思うが、だいたいこんなところだろう。
 その他にも、以下のようなものがある。

【オリジナルを踏まえたと思われる注目点】

 ここに加え、ン・ガミオ・ゼダ復活時の「何故俺は目覚めた? 俺は二度と目覚めぬ筈だった」といった発言も気になるポイントだろう。
 これはファンの間で多説述べられており、「今後の伏線」「劇場版の企画で登場予定だった事の含み」「オリジナルクウガで出てきた狼の紋章にちなむ含み(狼のグロンギはデザイン画は存在するが、没になったという経緯が実際に存在している)」ではないかと云われているが、筆者個人は三番目のものではないかと考えている。
 どちらにしろ、これらは知っている人だけがニヤリと出来るような、いわばオリジナル版ファンに向けたちょっとしたサービス要素ではないだろうか。
 しかし、それだけではなく、これを士(ディケイド)にも引っ掛けて「お前“も”何者だ」的な問いかけを自然に成立させているところはさすがだろう。

 前回も触れたが、「仮面ライダーディケイド」内における“クウガ”にまつわる描かれ方には賛否がハッキリと分かれた。
 否定的意見を見ると、オリジナルクウガの魅力や特徴を台無しにしているといったものや、設定無視(或いは強引な変更)が鼻に突くといった内容が多かったが、こうしてポイントを挙げてみると、台無しどころかオリジナルクウガの要素を大切に取り扱い、引用発展させていることがわかる。
 勿論、その手法について好き嫌いが分かれるのはやむを得ないだろうが、少なくともオリジナルをないがしろにしているといった意見は、いささか乱暴すぎはしないかと感じられる。
 また、全30話という尺の中、それぞれのライダー世界に多くの話数を割けないことは想像に難くないわけだが、考えてみたら、たったこれだけの話数の中に上記で述べたポイントに加え、それぞれのライダーやメインキャラの見せ場、ふんだんな戦闘シーン、危機と逆転の演出、更には販促的演出まできっちり組み込んでいるのだから、これは相当大したものだ。
 個人的には、ここ数年の平成ライダーシリーズだった場合、いったいどれだけの話数を費やす構成だろうと唸らされた。
 もし、中だるみなく今後もこのペースで過去ライダー世界をすべて回り切ったとしたら、本作はとんでもなく高い完成度に達するのではないか。
 ……あくまで、好き嫌いの判断は別にして、と付けるが。

●タイムチャートに見られる細かな違和感

 だが、ここに至ってようやく「仮面ライダーディケイド」という番組自体にかかる問題点が露呈し始めたことも無視できない。

 現時点で、個人的にもっとも引っかかるのは「時間経過の描写が少々いい加減」という点だ。
 特に第3話からは、これが如実になっている。
 もっと正確な言い方をするなら、「劇中でどれくらいの時間が、どういう風に流れているのかが把握し辛い」ということだ。

 例えば、3話にて八代刑事がグロンギの遺跡への乗り込みを思いつき、パトカーで帰還(その後多数の警察隊が遺跡に居たため、直接乗り込んだわけではないだろう)してから、黒いガスが発生するまでの経過は、テレビの報道で「一時間ほど前に警察が〜」という説明が加えられていても今ひとつピンと来ない。
 恐らく、これは途中で場面が切り替わり、ユウスケが士と共に食事をするというシーンが挿入されたことも原因の一つではないだろうか。
 ここで一端劇中の空気が和らいでしまったというのもあるだろうが、遺跡から光写真館までのバイクによる移動時間、対して八代刑事がパトカーで本部に帰還、その後上層部に事情説明・了解を得て再度遺跡へ向かうまでの時間が、どう考えても釣り合うように感じられない。
 もし八代刑事があの場面から直接遺跡に向かい、そこで一人待機しつつ警察隊の到着を待っていたと考えれば多少は釣り合う気もするが、その場合はなぜユウスケが護衛に向かわなかったのかという疑問が生じてしまう。
 普通に考えた場合、ゲゲル失敗のシーンの後、ユウスケが八代を追わない理由は「ユウスケの立ち入れない場所に向かう(警察本部内)」とか「同行する必要がない(危険な場所に行くわけではない)」のいずれかだろう。
 また、あのシーンでたまたま後を追わなかったとしても、八代刑事が何かヤバい目に遭いかねない行動をしそうだと予測出来たなら、後からでも行動を起こせただろう。
 しかし、実際は士とポトフのニンジンを押し付けあっていただけだ。
 これらを比較して見た場合、ユウスケは(あの時点では)八代刑事に対して強い心配はしておらず、ある程度精神的なゆとりが持てる状態だったと考えて良いだろう。
 士や夏海も、そんなユウスケに対して警戒を求めるような態度を取っていなかったし、あの時点ではその場に居たすべてのキャラが「ゲゲルは失敗したからもう安全」という認識を持っていたのだろう。
 しかし、どちらにしろこの辺をスムーズに結びつけるのは難しい。

 別な部分だと、士とユウスケが八代刑事の死を確認したところから、栄次郎が次の世界が描かれたスクリーンを下ろしてしまうシーン、そしてユウスケが八代刑事の墓に花を手向けに行く場面も、時間の流れがわかりづらい。
 前者二つのシーンは問題ないとしても、葬儀・埋葬・墓石設置という“本来なら相当な時間がかかる筈”の流れが瞬時に行なわれているため、普通に考えた場合、3話中で士とユウスケが最後に別れてから一ヶ月半以上もの時間が経っていることになってしまう。

 もっと細かく挙げると、2話冒頭のDCDクウガ戦闘シーンも、感覚的にどれくらい続いたのかが少し判り辛い。
 ドルドやギャリドとの戦闘シーンの途中に光写真館でのやりとりが入り、その中で士と夏海がニュースと新聞で未確認生命体とクウガの存在を知り、その後士が現場まで自転車で向かう、という流れが挿入されているせいか、DCDクウガがやたら長い時間グロンギと戦闘していたように感じられてしまう。
 しかも、ドラゴンフォーム&ペガサスフォームに超変身したほぼ直後に決着が着いてしまったため、「DCDクウガはなんでマイティフォームで長々と粘っていたんだろう?」という疑問も生じてしまう。
 グロンギと警察が接触しDCDクウガが参戦したのが1話ラスト、2話冒頭ではその継続〜ニュース報道、という流れになっていたこともあるので、演出の都合で場面をあえて前後させたわけではない。

 同様に、ゴ・バベル・ダを尋問? していたとされる時間も今ひとつピンと来ない流れだった。
 未確認生命体対策会議中に9号(バベル)出現の通報があり、会議中断→八代刑事退出(この時士はまだ動かず)→バベルの許にディケイドが先に到着・戦闘開始→八代刑事とユウスケ現場到着→ディケイド、必殺技でバベルを倒すといった流れなのだが、ディケイドが八代刑事を出し抜いたとしても、バベルを尋問していた時間があるようには思えない。
 もっともあれには、士がゲゲルのオチを聞いているという一応のトリックがあったため、わざと解りづらくした可能性もあるし、先のマイティフォーム長時間戦闘よりはまだマシかもしれない。
 とにかくこのように、3話までの時点でかなり違和感のあるタイムチャートが成立しつつある。

 まあ、とはいえ、これらは現時点ではまだ「勢いで上手くごまかせている」レベルのものでもあり、所謂重箱の隅突きに等しい指摘だ。
 ごまかしと言うと聞こえは悪いが、粗を気にさせる事無く流すのも立派な手法の一つなのだから、この辺は本来文句を唱えるべき所ではない。
 むしろ問題なのは、平成ライダーシリーズは“初期に見られた細かな問題が後々になって大きな難点に発展する”ケースが多々発生しうるという性質を持つことだ。
 正しくは、最初は無視出来るレベルだったものが、だんだんきつく感じられるようになるということだろうか。
 「仮面ライダークウガ」における戦闘演出方針、「仮面ライダーアギト」における細かな謎の提示とその解答のズレ、「仮面ライダー龍騎」におけるミラーワールドの設定混乱やライダーバトル・ルールの粗、「仮面ライダー555」におけるオルフェノク三人組の存在意義や流星塾関連の謎、「仮面ライダー剣」におけるギャレンの立ち回り方や不自然なライダーバトルの動機、「仮面ライダー響鬼」における魔化魍や猛士の設定不備と明日夢主役問題、「仮面ライダーカブト」における、ワームの概念についての視聴者側と製作側の認識の差異、「仮面ライダー電王」におけるイマジンの存在と意識問題の不明瞭さ、「仮面ライダーキバ」における二時代並行進行やサブキャラの希薄さ……代表的なものだが、これらは終盤まで継続してしまい、各作品の大きな問題点として述べられやすいものだ。
 勿論、本作には他にもまだ色々な問題点が見受けられるが、とにかくそれらが後々に悪影響を及ぼしていくような展開にならないことを祈りたい。

 一応、別な見方をしてみよう。
 こういったタイムチャートの乱れは、実はディケイドに限らず他作品でもよく発生する事があり、代表的なもので「編集の都合」がある。
 例えば、「疑問点のフォローをした場面がカットされたため、訳がわからない内容になった」といったケースはよくあるそうだ。
 平成ライダーでも、「仮面ライダーカブト」において三島に抗議する田所という場面が削除されたため、田所の部下思いという一面が描かれずキャラの印象が大きく変化したという事態があった。
 本作でもそれがあったのかどうかは知る由もないが、こういった事情で少し奇妙な流れになった可能性があるかもしれない。

 また単純に演出優先にしたため、時間の流れをあえて深く追求しなかったという可能性もある。
 2話Bパートでは、前日に発生した4人目の婦人警官殺害事件を指して「さっき死亡した彼女が6日」と発言するシーンがある。
 普通、前の日のことを「さっき」とは表現しないだろう。
 ひょっとしたらこれは、脚本上では士がゲゲルのニセオチを語る場面と、バベルとの戦闘シーンが連続していたのかもしれない。
 場面編成を入れ替え、途中で光写真館のシーンを挿入したのに脚本が変更されなかったため、このような表現上のミスが出たのかもしれないが、どちらにしてもさほど注意深くチェックされていたようには感じられない。
 ピンチに陥った士をDCDクウガが助けに来る場面は、久々に見る「仮面ライダーの格好良さ」そのものでありかなり燃える名場面だったが、あえて細かく見ると、士がグロンギ大量出現の現場にどれだけの時間居たのか(どれだけダメージを食らったのか)があまり良くわからなかったりする。
 しかし、士の現場滞在時間、ユウスケが病院から駆けつけるまでの時間を緻密に計算し、演出に加えるよりも、ただ単に「DCDクウガが来てくれた!」というインパクトを優先した方が効果的だろう。
 また先に述べたニンジン押し付け合いのシーンも、士とユウスケの歩み寄りが見え始め、少しホッとさせられる大事な場面でもある。
 ついさっきまで殺し合いをしていた者同士なのに、という別な違和感がないわけではないが、何やかやで強引に人を引っ張る夏海がいることから、彼女が無理矢理場を作ったとも解釈できるかもしれない。
 いずれにせよ、あのシーンがあるかないかは、後のDCDクウガ乱入や、「こいつの笑顔……悪くない」という士のセリフと行動にも大きく影響する筈だ。
 だから、この場合は多少時間問題を犠牲にしても、別な場面を入れる意味合いはあったと見るべきだろう。

 それよりも、もっと語らなければならない点がある。
 ――そう、「アレ」

●ファイナルフォームライド

 本作最大のサプライズとして、「仮面ライダーが変形!」というものがある。
 3話にて、ディケイドのカードの力を付加されたDCDクウガが、なんとゴウラムに変形してしまうという“何を食べてたらこんな発想が出てくるんスか”的演出があったが、これについてはもはや賛否を論ずるのは無意味だろう。
 というか、これが今年のもう一つの「売り」なのだから、如何ともし難い。
 視聴者が受け容れるか受け容れられないか、むしろ“クウガ”という作品の改変議論以上に温度差がはっきり分かれるものだ。

 一応簡単に触れておくと、ファイナルフォームライド(以下FFR)は、「仮面ライダーディケイド」におけるメイン商品の一つで、なりきり系のディケイドライバーに対するフィギュア系の主流となる。
 今年の売りは、先の通り「ナニかに変形するライダー」で、これまでの装着変身のような「可動・装着をメインギミックとしたもの」ではない。
 ヒーローがメカに変形するという人体構造完全無視の玩具は、タカラトミーから販売されている「トランスフォーマー・マーベルクロスオーバー」やバンダイ2004年製「チェンジ!デカマシン(特捜戦隊デカレンジャー)」等に見られるような、“本編とは基本的に関係ない”ギミックを搭載した物で、所謂タイアップ的要素の延長として開発されるケースがほとんどだった。
 「〜クロスオーバー」では、バイクに変形するスパイダーマンやジェット戦闘機になるアイアンマンなど、色々な意味でブッ飛んだセンスが炸裂しているアイテムが揃っており、カオティック好きな玩具コレクターの注目を集めていた。
 FFRがこういった商品を意識しているのは明白だろうが(断定は出来ないが現状否定の方が難しいだろう)、国内開発玩具ではあまりメジャーではなかったギミックでもあるため、当初はほとんどの人が「玩具オンリーの展開」と考えていたようだ。

 ところが。
 予想を大きく覆し、なんとDCDクウガは背中からゴウラムの甲殻を引き出され、首が180度後方に倒れ、両足を顎、両手を脚にして“羽も広げずに”飛翔するという、なんともすごいゴウラムへと玩具ギミック通りに変えられてしまった。
 その上、一度変身した後はクウガ自身の意志で自在に変形可能。
 ゴウラムのまま会話も可能で、益々カオスな存在となった。
 「仮面ライダーキバ」でも、キバが非人間型の飛翔態に変身するが、あのような瞬間変身ではなく、まさしく「変形」なのだ。
 何の前情報も持たなかった真性クウガファンの人が、これを見てどんな顔をしたか大変興味があるが、情報を知っていた人ですら呆然としたことだろう。
 しかも、DCDクウガ転ずるゴウラムはオリジナル版のものと違い、大きさや色、また形状も微妙に異なっており、なんとクウガの原型を所々に残している。
 つまり、本編中では「ゴウラムという異質な存在に変化した」のではなく、あくまで「クウガが変形した」と定めているわけだ。
 3話の変形パターンを見る限り、どうやら商品のFFRシリーズとまったく同じプロセスで変化するようだ。
 劇中では、ディケイドと共に空中を縦横無尽に駆け巡り、(変形の違和感さえ無視すれば)なかなかに熱いバトルを繰り広げてくれたのが幸いだが、いわばこれは今後に続く「この先、過去ライダーはすべてこんな風になりますよ」という現実の提示であり、各シリーズのファンの度量が試されることになりそうだ。

 クウガ編におけるFFRは、ある意味、オリジナル版とDCD版の分別を今ひとつ付け切れずにいたクウガファンに対し、トドメとばかりに叩き付けた決定打のようにも見える。
 まあ実際、見た人がどう受け取るかはそれぞれだが、とにかくそれくらいの強烈なインパクトだった事は間違いない。

 2009年2月中旬現在、ネット上ではすべてのライダーのFFRシリーズ情報が広まっており、中には「何故これに変形する必要があるんだ?」とか「これ変形後の用途が被ってね?」といった物も含まれている。
 アギトはマシントルネイダー・スライダーモード、龍騎はドラグレッダー、ファイズはファイズブラスター・バスターモード、ブレイドは「ブレイドブレード」というブレイラウザー風の巨剣、響鬼は「ヒビキオンゲキコ」という音撃鼓からDAアカネタカに変形するオリジナルの物体、カブトは「ゼクターカブト」という巨大なカブトゼクター風メカ、電王はなぜかモモタロス、キバは「キバアロー」というキバット型の巨大弓…とのことだ。
 このうち、ゴウラムのような搭乗突進型は二つもある。
 いずれもかなりのインパクトを持ったものになっているようで、これらを劇中でどうやって生かしていくのか、今から本当に楽しみだ。

●鳴滝の謎

 最後に、本編最大の謎である鳴滝についても触れておこう。
 個人的には、今回もっとも不安視している存在だったりする。

 理由は不明だが、なぜかディケイドを敵視しており、正面からは攻めずからめ手で彼を追い詰めようとする奇怪なオッサン。
 記憶(&能力)を失う以前の士・ディケイドに何かされたのか、それとももっと別な理由があるのか…?
 いずれにせよ、見た目ただのオッサンなのに空間移動や世界移動を行なったり、別世界からライバルライダーを呼び出したりと、謎の能力を多く持っている点も興味深い。
 3話を見る限りでは、アークル(クウガの変身ベルト)をユウスケに与えたかのようにも見える場面まであり、これではまるで、過去ライダーはすべて対ディケイドのための駒として鳴滝が準備していたようにも感じられてしまう。
 否、実際はどうかわからないが、彼が何故そこまで執拗に、かつ卑屈にディケイドを狙うのかは、本作における大事な物語の縦糸になるだろう。
 と同時に、いつものシリーズなら有耶無耶にされてしまいがちな要素でもある…。

 ン・ガミオ・ゼダ復活について、筆者は鳴滝が何かしらの手を加えた結果なのではないかと考えている。
 3話で最後に鳴滝が姿を現したところはグロンギの遺跡の一部のようにも見えたため(違うのかもしれないが)、本来中断される筈だったゲゲルが成功したのと同じことになったのかも?
 仮に鳴滝が本当にン・ガミオ・ゼダを復活させる工作をしたのであれば、彼はその世界の人間にどれほどの被害が発生しようと構わないという、かなりマッドな思考を持っていることになる。
 そう考えると、かなりとんでもない相手のようだ。
 ただのオッサンと舐めてかかってはいけないのかもしれない。

 現在までの活躍を見ている限り、呼び出したライダーを意志通りに操ったりする事は出来ないようで、ヘタをすると「懐かしい悪役ライダー召還機」に甘んじてしまいそうである。
 そうならないように、今後是非とも大活躍していただきたいものである。
 いやもう、いっそライダーに変身してもいいから。

●次回は「キバ」編

 第1話で、「仮面ライダーキバ」主人公の紅渡として瀬戸康史氏が出演していたにも関わらず、「仮面ライダーディケイド」内では、それとはまた違う“ワタル”が登場する。
 筆者も含むファンは、これで軽い混乱を感じているようだ。
 果たして、第一話の“渡”は、オリジナルキバと同一の存在なのか?
 彼とは別に“ワタル”とDCDキバが存在していることに、何か意味はあるのか?
 この辺が、今後どのように追及されていくのか、注目していきたい。

 DCDキバ、今度こそ……ブロンブースター、使ってあげてね(笑)。

【個人的感想(クウガ編)】

 前回記した「第1話アバンのライダー大戦で色々捜した」のと同様、今回はオリジナルクウガの情報がどれだけ組み込まれているかを楽しんだ。
 また、八代とユウスケの関係も(ユウスケの動機についてはいささか難を覚えはしたが)、オリジナルの一条・五代の関係よりも好感が持てて、いい感じに吸収できた。
 個人的には、オリジナル放送当時オダギリジョーの拙い演技と(後半異様に持ち上げられた)五代雄介の描かれ方に猛烈な違和感を覚えていた事もあり、このまま新規のクウガとして続けられた物も見てみたいという心境に駆られたり。
 それはそれとして、クウガから歴代平成ライダーをリアルタイムでしっかり見ているというだけあり、脚本の會川昇氏の手腕には唸らされた。
 「仮面ライダー剣」の終盤もそうだが、キャラの転がし方や仕掛けの組み込み方はさすがだと素直に思わされる。
 反面、「轟轟戦隊ボウケンジャー」でも見せてしまった“絶対的なヒーローが描けない※”という欠点が、どのような形で影響を及ぼすのか、という心配もなくはない。

 FFRゴウラムについては、それ自体の奇怪さよりも、むしろ「シリアスな場面からいきなり奇抜変形に繋ぐ」というセンスに脱帽させられた。
 なんせ、体勢を考えるとDCDクウガは股間でヘリポートの床をまっぷたつにしたり、ン・ガミオ・ゼダを挟み込んだりしていることになる。
 なんという、超おっぴろげジャンプ!
 これを笑うなという方が無茶だ。
 昔「機動武闘伝Gガンダム」最終回を観ていた時、ドモンの熱い告白という感涙モノの名シーンの直後、「石破ラブラブ天驚拳」を放ちハートのキング(怖い顔して腕組してるオッサンのイメージ像)が突進していくというショッキングなシーンへと繋がれ、一気に大爆笑へと導かれた衝撃を思い起こした。
 同様に、アニメ版「ミスター味っ子」第50話終盤で、陽一と丸井の感動の抱擁シーンの直後、画面ドアップの状態で彼らが作った赤飯とケーキを同時に口に含み「うーまーいーぞォーッ!」と叫び出す味皇のシーンでも失禁しそうになるほど感動した。
 こういう不意打ちで飛び出す笑い演出は大好きなので、今回も「ブラボー」物の(歪んだ)感激を味わわされた。
 まあ、今回のは別に笑いを狙ったわけではないのかもしれないけど。

 ネット上で物議を醸した「八代刑事の顔面を殴る士」の行為についてだが、筆者は演出としてはベストだと思うし、逆にあれで文句を唱える人の心境が理解できない。
 映像作品でもマンガや小説でも、物語内におけるキャラクターは話を構築するために活用される「駒」であり、それぞれの劇中では与えられた役割を果たす。
 殴られた八代刑事にしても、殴った士にしても同様で、あの行為によりゲゲルを中断出来、グロンギを怯ませたという成果を発揮している以上、決して間違った方法を取ったわけではない。
 よく「ヒーローが女性を殴るなんて云々」と言われるが、これを言い始めると、人間体を持つ女性怪人と戦ってきた過去のヒーロー達はどうなるんだという事になってしまうだろう。
 まして、敵とはいえ明らかな生身の女性を殺害するシーンがある「特捜ロボ・ジャンパーソン」はどうなるのか。
 加えて、今更において平成ライダーの主人公がフェミニズムを重視する品行法制な性格である必要性などなく、むしろ「目的のためならば手段を選ばない」というスタイルの方がらしくなるだろう。
 結局のところ、八代刑事を殴った場面についての文句のほとんどは、現時点でのディケイドに対して何かしらの不満がある人が、ここぞとばかりに食いついた「ツッコミ所」に過ぎないのだろうと筆者は思う。
 そんな事よりも、もっと重要視しなければならないこと……ゲゲルが中断された筈なのにン・ガミオ・ゼダが目覚めた理由の考察の方に、注意を向けた方が前向きだと思うのだが。
 本来なら「士のゲゲル中断策」に重点を置いて観るべきシーンに於いて、八代刑事の負傷が云々などというつまらない点ばかりに拘るのは、どうしたものだろうか。
 それに、八代刑事が殴られる前には、女性警官が殺されるという“本来もっと残虐な筈の”シーンが多数描かれていたのだが、こちらについて文句が唱えられたケースはない。
 端役の女性キャラが沢山殺されても構わないが、メイン各の女性キャラが鼻血を出すのは許せない。

 ――そりゃあ、何かが根本的におかしいだろう?

 そんなくだらない事ばかりに着目し、もっと大事な情報を見逃してしまう方が、よほど損だという気がしてならない。
 ましてその後、士は夏海に鼻を摘まれ引っ張り回されていたのだから、因果応報ということで充分ではないか。

 情報量が少ないため上記まででは触れなかったが、個人的には、ディケイドの正体や本来の目的の描写がやや希薄かな、と感じた。
 あっさりとDCDクウガと共闘してしまったというのも違和感の理由なのかもしれないが、第1話ではまるで他のライダーを駆逐していくことが目的であるかのような描かれ方をしていた事もあったので、「本来なら叩き潰す筈のクウガと共闘した」という点に対して、もう少し掘り下げが欲しかった気がする。
 勿論、「叩き潰す存在」という事自体が間違い(というかミスリード)の可能性もあるので、これはあくまで筆者が勝手に思っているだけのことに過ぎないが。
 ともあれ、唐突にクウガ関連のカードの能力が戻ったことや、何故他のライダーを使役する必要性があるのかなど、そういった部分の説明がもう少し欲しかった感は拭えない。
 一度模擬戦的な闘いをしておいて、その時一端クウガの能力が手に入り、後の共闘で相互理解が成立した途端、あらたな能力のカードとしてFFRが発生した、とかでも良かったかも?

 まあこの辺は、後々明確になることを期待して見続けていきたいと思う。

※洋泉社・映画秘宝「夕焼けTV番長」P43内のコラムにおいて、自身がはっきりと記している。

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