認識の違い

後藤夕貴

更新日:2007年1月21日

 この前、こんな事があった。

 ある機会に、古い知り合いと電話で話している時、ふと「半熟卵」の話になった。
 その知り合いは半熟卵が好きで、よく作るという。
 半熟卵をご飯に乗せ、崩した所にだし醤油をかけて食べると絶品だという。
 筆者も「そんな事言うと食いたくなるからやめてくれ〜」と嘆きつつ、深く同意していた。

 が。
 その知り合いは、半熟卵の作り方の話で「鍋で7分卵を煮て…」と言い出した。

 筆者は、そこでストップをかけた。
 ちょっと待ってくれ。
 七分も鍋にかけたら、それはもう半熟卵ではない。
 固ゆでの一歩手前ではないか。
 半熟卵は5分から5分半の間で収めなければダメだろうと、反論した。

 すると、知り合いは「それだと全然固まってない、ほとんど生の状態ではないか」とさらに反論した。
 言うまでもなく、2分前後も茹で時間が違えば、卵の固まり方はかなり違ってくる。
 どちらかが間違い、どちらかが正しいとしても、両者の「半熟っぷり」には、相当な差があることになる。

 しかし、お互いに半熟卵作りに関しては結構な経験があるため、一歩も譲らない。

 それでは、何か別な所に違いがあるのではないかと検証してみたが、鍋のサイズや材質、蓋の有無、おおまかなお湯の量、同時に煮る卵の数、水から茹でるか湯が沸いてから茹でるか等、それら細かい条件は、多少の差はあるもののほとんど同じような感じで、とても二分前後もの茹で時間の差を埋められるようなものではなかった。

 では結局、お互いの言う「半熟」とは、どういう状態を言うのか?
 その話になった時、両者にやっと差が見えてきた。

 知り合いが言う半熟卵とは、「白身が固まっていて、黄身だけがやわやわな状態」を指していた。
 つまり、半分に割ってみるまで、外観上は固ゆでか半熟かわからないタイプだ。

 対して筆者の言う半熟は、白身は内側が半固形状態、黄身はとろりとしたたってくるくらいの状態。
 そのまま置いておくと自重で潰れそうになるくらい、全体的に柔らかいもの。
 知り合いの言うところの半熟と比べると、明らかに固さが違う。

 なるほど、理想の完成形が違うとなれば、話が合わないのは当然だ。

 知り合いのいう固めの半熟卵を、どうやってご飯に「かけて」食べるのかという筆者の疑問は、「別にかけない、ただご飯と一緒にかっこむだけ」という、実にあっけない返答に打ち崩された。
 後でわかったのだが、どうもその知り合い、生卵をご飯に掛けて食べるのは嫌いなタイプだったらしい。
 その代用として、固めの半熟とご飯を食べるのが好きなのだそうな。
 こちらは、生卵かけご飯の延長だと思いこんで聞いてしまったものだから、そりゃ困惑させられる。

 結局、「後で食べる&持ち運ぶなら固め、すぐ食べる&さらに加工するなら柔らかめ」という事で勝手に結論を出し、その話は終わった。

 しかし、こういう「根本的な感覚が違う事による意見の食い違い」というのは、日常的にもよくありうる事だよな、と、あらためて考えさせられた。
 相手が自分と同じ常識感を持っている前提で話をしてしまい、どんどんずれていく…そんな経験はないだろうか?
 また、自分の主観が相手におかしな誤解を与えてしまったりする場合もあるのではないか?

 というわけで、前置きが長くなったけど、今回はそんなお話。

 大阪・新世界名物の料理「串カツ」。

 筆者に言わせれば、これは日本はおろか、世界を制圧しかねないほどの危険性を秘めた恐るべき大衆料理。
 大阪が「日本の食の首都」だという事を、強く納得させる要因の一つだ。(ぇ)
 関西圏にお住まいの方にとっては日常的な料理でピンと来ないかもしれないが、それ以外の地域に住み、一度この味の洗礼を受けてしまった者にとって、これは魔性の料理なのだ。

 串カツとは、野菜や肉、卵などの素材を竹串に刺し、それに衣を付けて油で揚げたもの。
 分厚い衣ではなく、あっさりとした薄めの衣が付くのが特徴。
 これを、ソースがたっぷり入れられた容器に漬けて食べる。

 ただし、ソースは二度漬け厳禁。

 ソースは何度も使いまわすため、一度齧った残りを突っ込むと汚くなるからだ。  
 どこにでもある材料が、串カツにされた途端、独特の甘味を発揮するようになり、えもいわれぬ美味しさになる。
 これは、食べてみないと絶対にわからない。
 「ただ野菜や肉揚げるだけでしょ? 何が特別なの?」とか「要するにフライや天ぷらのちっちゃいのでしょ?」という人も多いが、それらとはまったくの別物だ。
 フライや天ぷらより安く、気軽においしく食べられる。
 ビール好きにはたまらない、珠玉の逸品だ。

 一つひとつは小さいとはいえ揚げ物なので、箸休め?代わりに、ちぎったキャベツをかじる。
 これで口直しをするだけでなく、胃の調子を整える。
 一本90円前後からあり、好きなだけ一杯食べられるのが魅力で、ビールと一緒に1500〜2000円分も食べれば、相当満腹になる。
 筆者はこの前新世界に出向き、計7000円分も食べてくるという暴挙をやったが、いまだに飽きる事はない。
 本部長などは、あまりの美味さについつい1000万パワー全開にして、身体中真っ赤になっていた程だ(夏だったしねえ)。

 閑話休題。
 そんな素敵に素晴らしい「串カツ」だが、これを巡り、先日(先とは別な)知り合いと、こんな会話をしてしまった。

 都内で串カツを食べられる店を探したいという話になったのだが、知り合いは「そんなところ、わざわざ探す必要はないだろう」とのたまった。
 肉屋やスーパーにいつでも一杯売っている筈だという。
 しかも、「あんまりおいしいとは思えない」とまで付け加える。

 もしかして、この人は何か勘違いをしているのでは? と思ったのだが、この人は関西方面しかも大阪近郊出身の人だという事を、筆者は知っている。
 だから、関西圏以外の人が連想する「肉と長ネギを交互に串に刺して分厚い衣を付けて揚げたもの」(←ご存知ない方へ。北陸地方や関東圏だと、串カツってこんなのになるんです)と勘違いしている筈はない。
 筆者は、「場所によっては、串カツをスーパーで売ってたりするのか?」と思わず勘違いしてしまったが、知り合いの「固い肉とネギの食い合わせが云々」という発言で、仰天させられた。

 そう、その人は、関西圏出身にも関わらず、他の地方で言うところの「串カツ」を連想していたのだ。

 追求してみたところ、その人は「ただ関西で生まれただけで、物心付いてからはずっと関東圏在住」だったというオチがついた。
 あ〜なるほど、それなら納得。

 ただ結局、その人は「串カツというと冷えた固い肉の揚げ物というイメージしかないから、やっぱり食べたくない」と、大変もったいない事をおっしゃっていた。
 あ〜、ビール好きな人なのに、もったいない(笑)。

 これなどは、思い込みも含まれてはいるが、同じ名称(俗称含む)からくる見解と知識の相違から生じた、微笑ましいすれ違いエピソードだ。
 ちなみに、串カツは関東方面では「串揚げ」という名称になるため、これもまた似たような名称の別料理と誤解されるケースがあるようだ。
 実は筆者は、「カツ=肉を揚げたもの」という印象が強いので、こっちの「串揚げ」の方がピンと来るのだが。
 ま、美味けりゃ関係ないけどねー♪
 
 ちなみに、ソース二度漬け厳禁の事を「店が一方的に客に付加する許しがたいルールである」と考えている人も居るそうで、大変驚かされた。
 まあ、食べた事がない人にはピンと来ないから仕方ないとは思うけど、串カツのソースって、フライに市販のウスターソースたらすようなのとは違うからねえ。
 ひょっとしたらそのルールに文句言う人は「好きなだけ調味料を使えないなんてなんという横暴な」と考えてしまうのかも。
 でも実際は、一度漬けるだけで全体がしっとりソースまみれになるから、そう何度も漬け直す必要がないんだよね。

 さらに、中には「スプーンですくったソースを串カツの上にかければいいだけでは?」という人もいる。
 それでは、串カツの油や材料の旨味がソースに溶け出さないのだが…
 個人的に、串カツのソースは焼き鳥屋のタレ(ずっと使いまわして旨味を貯める)みたいな一面もあると思うんだけど、あの辺りの理屈を知らない人には、やはりピンと来ないのかな? なんて考えたり。

 この辺も、認識の違いによる意見の差異だと言えるだろう。

 ラーメンなんかも、認識の違いが激突しやすいものだ。

 醤油派、とんこつ派、塩派、みそ派、つけめん派その他モロモロ、色々な分派がある。
 要はどれが口に合い、どれが好きかという問題になるわけだが、ある人が絶賛するのに、ある人は極端に嫌ったりと、あまりにも好みの差が激しくて不思議に思わされる事がある。
 本来料理は、ある程度以上おいしければ、(好き嫌いや食の習慣の違いによる嗜好を別とすれば)かなり広い範囲の人達に好かれる筈なのだ。……理屈としては。

 でもラーメンって、

 などなど、実に多くの評価基準がある。
 このどれが正しいとか悪いとか追求する意図ではないが、これだけ多くの認識があると、誰にも愛されるラーメンを作るという事が、いかに難儀かわかってくる。

 筆者はとんこつ醤油系で麺細め&固め、脂がうっすら入ったあぶり系チャーシューの乗ったラーメンが好きだが、実は油そばの方が大好きだったりする。
 逆に、醤油ラーメンは(昔から食べている割には)今ひとつ旨味のポイントをつかみ切れていないような感覚がある。
 某二郎系のようなごってり系も一度食べてみたいとは思うけど、とにかく麺に腰がないのはきつい。
 どうも、あっさり系ラーメンがニガテのようだ。
 蕎麦やうどんは、あっさり系の方が好きなんだけどなあ。
 んで、この筆者の好みと正反対の人もきっと居るだろう。

 居るだろうことは理解できるけど、その人の好みを実感できる事は、まずないだろう…なんて思ったり。

 食べ物の話だけではなんなので、ちょっとだけ「玩具」についても。
 というか、正しくは玩具のレビューについてなのだが、レビュー姿勢についても、かなり大きな認識の差異が発生しうる。
 玩具レビューの場合、書き手の認識が閲覧者に大きな誤解を与えかねないので、注意が必要だ。

 玩具レビューとは「玩具商品の紹介をする」と共に、「完成度やユーザビリティの良し悪し、不具合の有無など、いじってみなければわからない情報」を提供するという側面もある。
 うちの場合は、そこに加えて「元キャラ・メカの登場作品や登場背景について」や「商品発売時の状況」などの情報を加えて読み物のスタイルに整えているつもりだが、これらについては、まぁいいだろう。

 だが玩具レビューは、「何をして良し悪しと判断するか」というボーダーラインの設け方によって、良品が悪質なものとして評価され、悪質な商品がさも良品のような印象を与えてしまいかねない特徴もある。

 たとえば。
 ある人が、「作品は大嫌いだけど、完成度自体は高い商品」をレビューした場合と、「作品に対する思い入れは最高なんだけど、出来の良くない商品」をレビューした場合は、それぞれにベクトルがかかってしまう。

 前者の場合は、ギミックや造形の一部に対してアンチベクトルが作用し、良さを認識しづらくなるし、後者の場合は「あばたもえくぼ」状態となる。
 だが本来、レビュー(評論)と定めている以上、個人的な思い入れは極力排除しなくてはならない。
 とは言うものの、完全に排除してしまうと文章に面白みがなくなってしまうし、理屈的にも不可能なのだから、レビュアーには「どこまで客観的視点を維持するか」という姿勢が求められる。
 これは、玩具レビューに限った話じゃないけどね。

 ただ玩具レビューの場合は、「大元のデザイン段階での難点」を評価に組み込むべきか否かかという、独自の問題意識が必要とされる。

 たとえば、「デザインセンス最悪、かっこ悪くてどこにも良さが感じられない」と多くの人が認めるメカがあったとして、あるメーカーが、それを100%忠実に再現した商品を出したと仮定しよう。
 この場合、玩具レビューでは、商品の評価は高くならなければおかしい。

 しかし、実際こういうパターンの場合、評価は低くなる傾向が多々ありうる。

 まーね、気分的にはよくわかる。
 いくら出来が良くても、見た目に華がなくかっこ悪いだけだったら、誰も欲しいとは思わない訳だし。

 とはいえ、玩具としては出来る限りの事をやっているのであれば、文句を付ける事は本来出来ない。
 そもそも、デザインと玩具の出来というものは、本来別なものなのではないか?
 それとも、出来不出来に関係なく、常にデザインや劇中での使われ方を意識しながら評価しなくてはならないのか?
 この辺、意外に判断が分かれるのではないかと思われる。

 近年の、デザイン=製品化前提という縛りのあるものの中にはいくつかの例外もあるが、劇中の描かれ方やプロップとの差異を差して「これは再現性が低いから云々」というのは、場合によってはものすごい嘘になる。

 一例が、「仮面ライダーカブトの頭突き 第一回」でも触れた「DXカブトゼクターのクロックアップ音声」問題だ。

 後付でクロックアップ設定が変更された(としか考えられない)カブトのベルトの商品に対して、「クロックアップの音声がないから商品としてはダメだ」と論ずるのは、本来ならば間違いだ。
 本当にレビューとして論じるなら、クロックアップ音声がない理由を言及し、それについてフォローめいた意見を述べた上で、結論を出さなければならない。
 「評論」という形式を取るならば、これは義務となる。

 ただし、先の通り、これはあくまでレビュアーの認識の一つに過ぎない。
 そんなものやらなくったって、もちろん全然構わない。

 実際、テレビを見ている人にとっては、「クロックアップの声が出ないとは残念」という感覚は変えようがないのだから。
 そんな気持ちを無碍にして、「DXカブトゼクターは色々複雑な事情があったんだから、音声が足りなくても我慢すべきなのだ」と論じるわけにはいかない。
 この辺が、レビューにおいて一番難しいポイントだ。

 しかし、製品の性質そのものを純粋に知りたいと思ってレビューを読む人にとって、こういった部分はどう映るのか?

 商品にまつわる情報を知りたい人には、良い部分と悪い部分の噛み分けは必須なのだ。
 この場合、先のカブトゼクターのクロックアップ音声問題は「商品の個性」として解釈される可能性がある。
 だとすると、これを指して安易に「良い・悪い・どちらともいえない」と結論は出せなくなる。
 そして、「なぜ音声がないのか」という理由について、(たとえ推察であっても)付け加える必要性も生じるだろう。

 デザインの良し悪しについてもそうで、「デザインが悪い事は商品とは関係ない」「いや関係ある」という議論よりは、「この商品の特徴として“悪いデザインを忠実に作った”」というポイントの追求が求められる。
 これはレビュアーのというより、読者側の認識の差異だが、レビュアーが踏まえておかなくてはならないものの一つなのではないかと、筆者は認識している。

 もっと判りやすい例を挙げてみよう。

 たとえば「ムゲンバイン」のように、各メカをパーツごとにバラバラにして、ブロックを組み立てるように合体させるのが楽しいとする人が居れば、そういう合体は邪道、余剰パーツは一切出さず、必ず法則性を持った合体をすべきだと唱える人も居る。
 そういう人達がムゲンバインをレビューしたとしたら、どういう結果になるか。
 おのずと結果は見えてくるだろう。
 しかし、「ムゲンバイン」という商品の性質を考えた場合、どちらの姿勢が悪いという事はないのだ。
 レビューを読む側としては、合体のあり方やこだわりに対する姿勢の云々よりも、商品の出来やプレイバリューについてまとめて欲しい、と言いたくなる。
 
 こんな風に、レビューを書く側、読む側それぞれに、様々な形の姿勢があって、それぞれ捉え方が変わる。

 玩具レビューを「商品カタログ」として作りたい人、単なるコレクション自慢にしたい人、とにかく色々語りたい人、かっこいい写真を沢山撮って掲載したい人…色々あると思う。
 だから、それぞれのやりたい形を貫くのが、一番正しいし楽しい事だとは思う。

 だけど、そこに「評価」という概念を加えた場合は、どこかで自分の姿勢を見直す必要が出てくる筈だ。
 さもないと、「レビューでは細かく書かれていて絶賛されていたのに、いざ買ってみたら全部ウソ&デタラメだった!」と文句を付けられるハメに陥る。
 実際、そう言いたくなるようなページもWEB上にはかなりあるし、うちにも、そう思われているページがあるかもしれない。

 永遠の課題ではある事とはいえ、これを意識して執筆する事は、とても重要なのではないかなと思わされるわけだ。

 最後に。
 前置きで書いた半熟卵にちなんで、よくラーメン屋などにある「味の染み込んだ半熟卵(味卵)」みたいなものを作る方法をご紹介しよう。

 作り方は簡単。
 以前紹介した「和風だしの素」を少しだけ水で薄めて容器にとり、その中に半熟卵を漬け、冷蔵庫で保存する。
 あとは、適当な時間漬け続けて取りだすだけ。
 決して、だし汁で煮てはいけない(それだと味が染みないで固まるか、固ゆでになってしまう)。
 これだけで完成。

 卵の大きさと固さ、数、だしの量に合わせ、漬ける時間は変わるが、だいたい1〜2日漬けておくといい感じ。
 二日も漬けると、黄身に適度な塩味が染み込んで、すごく美味しくなる。
 好みに合わせて、だし汁にすりにんにく(チューブで売ってる生にんにくがオススメ)を少しだけ加えると、いい感じに味が引き立つ。
 巧く作れば立派な一品料理になるので、興味のある方は試してみては。
 2〜3回作れば、だいたいコツが飲み込めてくると思う。

 筆者は、お湯から5分半程度茹でた半熟卵を二日漬けたものを、ご飯と一緒に食べるのが大好き。
 新鮮な卵だと、怖いくらいにツボにハマる美味さになるので、要注意(笑)。

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