記憶の美化
後藤夕貴
更新日:2006年5月4日
 記憶ほど、いい加減なものはない。
 本人の意思とは無関係に、その内容に自動補正がかかるためだ。
 よく「とても辛い過去だけど、今では良い思い出だわ」などと言われるが、よく考えたら、そんなものは嘘っぱちなのだ。
 その辛い経験をしていた真っ最中、将来この経験が良い思い出として美化されるだろう、などと考えるゆとりなど、まずない筈だ。
 まあ、とはいえ、良い思い出となった事そのものを否定したいわけではないが。

 実際に経験している「現実」と、それを振り返った時の「思い出」というのは、想像を絶するほどの隔たりがある。
 時には、それは黒を白と認識させ、是非の判断を逆転させる。
 醜い物を綺麗だと認識させたり、悪い事が良い事だったかのように思える事だってある。
 そういう感覚は、後々その人の身に着いた倫理観・価値感によってさらに補正をかけられ、「昔悪い事をしたけど、良い思い出だったなあ」という事になったりする。

 だが、実はいつまで経っても補正がかからない、或いはかかりにくい「記憶」がある。
 それが、小さい時に見た「映像作品」の感想だ。

 作品の感想・批評を語り合う場が増えた昨今、この記憶美化が、かなり始末の悪い悪影響を及ぼす場合があるのだ。

 突然だが、「アイアンキング」という特撮作品をご存知だろうか。

 「アイアンキング」は、1972年10月8日から1973年4月8日まで全26話放送された巨大ヒーロー物。
 「シルバー仮面」「ガッツ・ジュン」「レッドバロン」などで有名な宣弘社の製作で、水をエネルギーとして活躍する巨大ロボット・アイアンキングに変身する霧島五郎と、その相棒・静弦太郎が主人公の物語だ。
 アイアンキングは、たった一分間しか変身していられない上、五郎の姿に戻ると、大量の水を摂取しなくてはならない。
 そんな過酷な条件の中、アイアンキングは、独立幻野党や宇虫人タイタニアンなどの繰り出す巨大怪獣やロボットと戦い、これらを次々に撃破していくのである。

 筆者はリアルタイム時まだ生まれていなかったので(※年齢詐称中)、後年何かの再放送で観たような記憶がある。
 少し独特のスタイルを持つアイアンキングは、「他社製ウルトラマン」といった印象で、筆者にはそれなりに頼もしく、かっこよく見えた。
 ウルトラシリーズのような華の少ない作品であったが、それなりに楽しめる立派なスーパーヒーロー作品だったのだ。

 ――が。
 さらに後年、この記憶が凄まじいほどの大間違いだという事に気付かされた。

 実際のアイアンキングは、主人公・静弦太郎が、アイアンキングの人間体・霧島五郎と共に旅をして、アイアンキングを利用して敵を倒しまくる物語だったのだ。
 弦太郎は、ただの人間の筈なのに、とてもそうとは思えない身体能力を駆使し、敵ロボットや怪獣を片っ端からねじ伏せる。
 アイアンキングは、その間時間稼ぎをしていたり、弦太郎を輸送したり、囮になったりと、とても巨大ヒーローとは思えないような扱いだった。
 無論、アイアンキングが自力で敵を倒した事もあるにはある。
 しかし、これは実は一部で論争になっており、どこまでを「アイアンキングが倒した」と認知するかで、賛否両論が渦巻いている。
 とどめだけ刺したケースや、真っ当に倒したケース、あるいは全然倒せなかったケースが混在するため、「アイアンキングがどれだけの戦果を上げたか」はっきりとカウント出来ないのだ。

 とにかく、アイアンキング=霧島五郎が主人公でなかった事だけは確かだった。
 これは、ウルトラシリーズや他の巨大ヒーロー物の「主人公が変身・巨大化して怪獣を倒す」という認識が、記憶に補正を加えてしまっていたがために起こった壮絶な勘違いだ。
 筆者以外にも、アイアンキングについての認識を誤解していた人は居たようで、以前仕事場でお話した事のある特撮ファンのある人も、アイアンキングの事をごく普通の巨大ヒーロー物だと認識しており、筆者が事実を説明したら、物凄く驚いておられた。

 ――前置きが長くなったが。
 今回のお題は、このような“幼少時の記憶の不確実性”について。
 小さい頃観た「なんとなく覚えている物」が、後年脳内でいかに美化されている事がありうるかを、検証してみたいと思う。
 なお「アバウトにめらんこりぃ」とは違う方向性なので、ご注意。

 では、ようやく本文(ぉぃ)

 「仮面ライダーBlack RX」。
 ネット上を回っていると、今では作品否定自体許されないほどの、絶大かつ確固たる人気を誇っている作品だが、この状況に対して大きな疑問を抱く人は少なくない筈だ。

 実はRXは、ある世代以上の人達によって「仮面ライダーシリーズ中最悪の作品」と酷評されていた時期がある。
 本放送当時、筆者が耳にした意見は「デザインが最悪」「車に乗るとは何事か」「武器を持っているなんてありえない」「これって宇宙刑事の二番煎じじゃん」という散々なものだった。
 これは当時、まだ昭和ライダーの潜在的人気が絶大だった事に加え、前作「仮面ライダーBlack」は、年齢の高いファンにも好意的に受け入れられていた事もあり、今以上に「古いライダーとの比較」が行われてしまったのだ。
 そんな背景から、当時の「RXはダメな作品」というイメージは、かなり色濃かった。
 しかしRXは、わざとそれまでのライダー像を逸脱した要素を組み込んだ作品で、上記のような指摘は半分見当違いなものでもあった。
 「大いなる実験作」として最初から受け入れていれば、多分当時のマニアさん達も別な見方をしてくれたと思う。
 しかし、現在のようにインターネットもなく、各視聴者の見解を伝え合う術も限られていた状況では、目新しい見方を築く事は大変困難だったわけだ。
 そんなこんなで、当時RXが好きな高校生だった筆者としては、周囲の否定的意見に大変肩身の狭い思いをさせられたものだ。

 ところが、当時子供(本来のメインターゲット層)ドンピシャだった人達にとっては、こんな論争なんかまったく関係ないし、耳にも届いていない。
 同時に、子供時代にリアルで触れた、大切な思い出の一つとして刷り込まれている。
 だから、その頃大好きだった人達にとって、大きくなってもRXの否定的意見が理解できない
 これが、現在のRXに対する見解の相違の根源になっているのではないだろうか。

 全然関係ないんだけど、撮影中にライドロンが燃えてしまったという事件は、「仮面ドライバー」化を否定するライダーファンの怨念のなせる業だったのだろうか(嘘)。

 メタルヒーローシリーズ
 その中でも、「世界忍者戦ジライヤ」や「機動刑事ジバン」は、現在も結構な人気がある。
 しかし、これらもやはり、ある世代以上の人達からは「駄作」呼ばわりされている。
 否、実際この二作品は、本当に出来が悪い。
 以前鷹羽氏が「響鬼のお仕事」で触れていたように、ジバンにはあまりにも無理の多い要素がありすぎたし、何より「そこまでの設定大放棄」「無意味に犠牲になるメカ達」など、最終回の酷さは今でも語り草になっているほどだ。

 海外向けも前提に製作されていた筈なのに、肝心の外人さん達に(デザインを)嘲笑われ、結局途中からデザインを変更してしまった上、路線が迷走しまくったジライヤも、前作「超人機メタルダー」から継続して観ていたファンを困惑させた。

 いうまでもなく、これらも当時子供だった人達にとって全然関係ない評価で、作品観には影響していない。
 そしてこれらも、RX同様見解の相違に発展しているのだ。
 当サイトの掲示板でも、以前「忍者戦隊カクレンジャー」について作品評の激突があったが、これも世代による捉え方の違いが原因だった。

 こんな風に、「子供の頃、当時のリアル評価を耳にしないで観てきた作品に対する思い入れは、大人になってからも根強く残り続ける」のだ。
 仮にそれが稀代の駄作だったとしても、である。
 小さい頃の「記憶」を「美化」しているのだ。

 さて。
 これらの作品放映当時に子供だった人達ばかりが、そのような見解に捉われているわけではない。
 筆者自身も、或いはそれ以上の年齢の人達も、どこかで必ず「記憶の美化」が行われている筈だ。
 そう考え、ちょっと筆者自身の記憶を振り返ってみた。

 例えば、冒頭に挙げた「アイアンキング」などは、美化を通り越して記憶を捏造しているレベルのものだった。

 他にも、幼少時再放送で観た「キューティハニー(初代)」は、もうエロエロ過ぎて、まったくけしからん、こんなものは日本男児を堕落させるだけである! という思いに駆られるほどだったが、今見直してみると、「これの一体どこにエロティシズムを感じるんだ?」という気にさせられる。
 また全編見返してみても、幼少時もっともエロっぽく感じたシーンに該当しそうな場面を発見できなかった。

 「5年3組魔法組」。
 最近あらためて見直してみたが、確かに懐かしさは感じるものの、あまりにも不条理な物語展開に納得がいかず、むしろ不満が多い。
 いや、元々魔法だの魔女だの出てくる作品だから、不条理なのは前提の筈なのだが、エピソードによってキャラクターの認識や行動理念が変わってしまったり、時には魔女ベルバラが、「メンバーの一人が確実に死亡する(または重傷を負う)だろう事を理解した上でイタズラを仕掛けたり」しており、本来心の奥底で憎からず思っている彼等に対する対応がチグハグになっていたのだ。
(後に、このベルバライタズラ回の脚本を書いたのが、筆者が史上最悪の製作者と確信・心底軽蔑している富田祐弘氏である事が判明。瞬時に納得した)

 現在リメイク番組が放映されている「大空魔竜ガイキング」。
 これも、幼少時のイメージを大きく覆すとんでもない内容だった。
 本作は途中から、「地球上の遺跡のほとんどは、昔ゼーラ星人が関わった物である」という事をひたすら証明していくだけの展開となり、遺跡マニアのピート(大空魔竜パイロット)の夢を粉々に打ち砕き続けた。
 パワーアップ編になると確かに盛り上がるし、有名な火車カッター登場回や、サンシローが一時的に球界に戻るも、後継者指導だけに留まり自らは再び大空魔竜に戻っていくエピソードなどは熱いのだが、ここまで単調な話ばかりだとは思わなかった(それでも初期は、それなりに抑揚のある内容だったが)。
 むしろリメイク版「ガイキング LEGEND OF DAIKU-MARYU」の方が、旧作の断片材料を巧く調理して上手にまとめ上げている。
 「大空魔竜ガイキング」本放送当時、すでにそれなりの年齢だった知人と電話で話した際も、「確かに昔のより、今の方が面白い」と述べられた。
 ガイキングは、妙に旧作崇拝傾向が強いが、実際はそんなに祭り上げるほど優秀な作品ではない。
 そもそも、東映アニメーションのオリジナルロボット物一本目で、ノウハウはそれ以降に構築されていくのだから、当然なのだが。

 昭和時代の「仮面ライダー」シリーズは、今では「無茶展開を愛でる」見方が推奨されるほど、とんでもないエピソードばかりである。
 はっきり言って、(あれだけ酷評されている筈の)平成ライダーの物語性の方が遥かに完成度は高く、まさに雲泥の差だ。
 これは、どちらかというと昭和ライダー派に属する筆者も強く認めるところだ。
 目の前の川を流れていくドクガンダーを悠々と見逃して、次回その成虫体に苦戦させられる仮面ライダー2号や、AパートとBパートで口から吐くものが変わるナメクジラ。
 人間をミイラ化するウィルスの血清を得るため乗り込んだのに、結局ヒーターゼミを倒しただけで終わり、被害者救出シーンも、唯一血清を作れる田口博士もとうとう最後まで出てこなかった仮面ライダーV3。
 「二人とも死ねーっ!」という恐ろしい叫びと共に、ゴッド首領・呪博士(見た目はバケモノだけど一応ただの人間)とサソリジェロニモJrをまとめて串刺しにするXライダーや、“キングダーグを立ち上がらせる能力を持つ「RS装置」”を奪うために立ち上がるキングダーク
 アマゾン打倒に失敗したモグラ獣人に対して、「ひなたぼっこさせてそのまま日干しにしてしまう」という、恐ろしい処刑を遂行するゲドンの十面鬼。
 「天が呼ぶ」「地が呼ぶ」「人が呼ぶ」という例の名乗りを、一区切りごとにわざわざ一回ずつ宙返りしながら行うストロンガーや、子供にアイスクリームを大量に食べさせてお腹を壊そうとする恐るべき作戦を企てるニセスカイライダー、特売品のカニが大量に乗せられた軽トラックを強奪し、そこからカニ怪人を作り出すドグマなど。
 これらはあくまで一例に過ぎず、突っ込み所は探そうと思えばいくらでも出てくる。
 
 「恐竜大戦争アイゼンボーグ」。
 本放送当時、全身これ刃物の塊という、特撮界でも有数の「殺る気マンマン」なメカ・アイゼンボーグ号によって、バッサバッサと恐竜が切り刻まれて倒されていく爽快感は、例えようのない素晴らしいものだったが、今見ると「重力無視の無茶飛行」「ご都合主義的な逆転劇の連発」「着ぐるみ対飛行機模型という無理のある殺陣」など問題が目立ちすぎ、とても当時と同じ喜びを得られない。
 また、アニメパートの作画の酷さや、後半登場する幹部ゴッデスとゾビーナのやりとりが、「おれたちひょうきん族」以下という酷い内容だった事も衝撃だった(さすがに毎回じゃないけど)。
 アイゼン号などの発進シーンや、キャリーボーインは相変わらずムハムハウヒーだったんだけどなあ♪

 あ、でも、アイゼンボーグ号の殺意丸出しぶりは、「ウルトラマンマックス」のダッシュバードにも是非見習っていただきたかった。

 幼少の頃の作品ではなかったが、「ときめきトゥナイト」。
 本放送当時は、ちょっと毛色の変わったドタバタ恋愛コメディー物だと思って見ていたのだが、あらためて見直してみたら、思ったより恋愛比率が低くてびっくりした。
 というか、ただ主人公の蘭世が一人でハフハフムヒョーしているだけの内容だった。
 話題を振り撒きまくった「裸に黒マント」のエンディングのインパクトだけは、当時のままだったが(笑)。

 東映版「スパイダーマン」。
 東映特撮最強の無敵ロボットと称され、誰もがそれを疑わないレオパルドン
 なんと、一度たりとも倒れたり膝をついた事がなく、また敵に押される事もほとんどなかったのだ。
 そうなると、確かに最強の名を与えてもおかしくない気はするのだが、本当にレオパルドンは無敵だったのだろうか?
 かつては「マーベル社の名前を冠している(マーベラーの事)ため、負けさせるわけにはいかなかったのでは」などという憶測まで流れたが、全話見直してみたらなんて事はない、ただ単に「ほとんどバンクシーンだけの戦闘だったので、負けようがなかった」だけの話だったのだ。

 マーベラー登場→ミサイル発射→変型→アークターン→ソードビッカー→ドカーンの繰り返し。

 たまに、思い出したかのようにマシンベムと絡む場面があったりするが、それも数えるほどだし、大した時間ではない。
 なので、本編のほとんどは、マシンベムが巨大化し、スパイダーマンが「マーベラー!」と呼んだら、後は早送りしても問題なかった
 なんと、これは最終回でも同様で、鉄十字団首領・モンスター教授が巨大化した時、筆者は思わず「ダメだモンスター教授! 巨大化したら奴の思うツボだ!」と叫びそうになった。
 ――結果は、もちろん言うまでもない。

 全話観た限りだと、どうも巨大マシンベムとレオパルドンは、それぞれがほとんど別撮りだったように思える。
 等身大ヒーローと巨大ロボの活躍場面の描き方がまだ確立していなかったせいか(あるいはセットが狭くてあまり凝った殺陣を付けられなかったせいか)、初期の頃は、いくらか演出に「戸惑い」のような部分も見受けられる。
 後に、この巨大戦は「バトルフィーバーJ」で見直され、(当時としては)画期的な絵作りへと昇華するが、この時点では、お世辞にも褒められたものではなかった。

 これらはあくまで筆者の例だが、このように、小さい頃観ていた作品を冷静に再評価してみた時、何かが違うという気分に支配される事は、誰にでもある筈だ。
 無論、その時感じる落差は、人それぞれだろうが。

 記憶の美化は、時には作品感を捻じ曲げ、時には誤った判断を煽る。
 これは、何も幼少時の記憶ばかりとは限らない。
 本放送を観てから何年も、十何年も経てば、誰もが記憶がボケるもの。
 しかし、第一印象やインパクトの強い部分については、なんとなくいつまでも覚えているものだ。
 しかし、それも時間が経つにつれて、無意識に補正がかけられたりする
 本当はそんなに面白くなかった筈なのに、大好きな主人公が活躍したシーンだからというだけで、最高に燃える場面だと置き換えたり。
 また、ものすごくチープな演出なのに、好きなキャラクターが死んでしまったがために、それを超感動的なエピソードだと信じ込んでしまったり。
 そして、一度このように補正をかけられると、その人は「それを冷静に見直す機会がない限り」いつまでも勘違いしたままになってしまう
 そして、他人とその作品について意見を交わす際、見解の相違が生じ、時には激論に発展してしまうのだ。
 というか、現在ネット上で行われている作品評価で、これに当てはまると思われるケースがどれほど多いことか。

 思い入れの強さと作品の評価は、本来分けて考えなければならない。
 特に、世代の異なる人達と議論する場合は、絶対に必要な姿勢だ。

 先に挙げた「仮面ライダーBlack RX」も、「機動刑事ジバン」も「世界忍者戦ジライヤ」も、はたまたそれ以外の作品も、それについて他人と意見を交わすのであれば、「相手が問題点だと指摘する部分」に対して理解を示すべきだ。
 思い入れだけで相手の意見を否定したり、反発したりしてはいけない。
 そもそも、その作品が本当に好きなら、相手にどんなに指摘されまくっても、自分の評価が変わる事などない筈。
 逆に、相手の意見に押し流されて、いつの間にか嫌いになってしまったのだとしたら、それは元々、本気で好きになれていなかっただけなのだ。

 「そんな事はない! 俺は小さい時に感動した作品を最近もう一度見直してみたが、当時と同じくらい感動したぞ!
 …という意見を述べる方もおられるだろう。
 だとしたら、それは本当の意味で「傑作」だっただけではないだろうか?
 もうずっと昔に見たきりなのに、強烈に記憶に残り、しかも誤差がほとんどなく、今観ても心から面白いと思える。
 それ以上のものがあるだろうか。
 こういう条件に当てはまるものが、その人にとって本当の最高傑作だと思う。
 そう感じる作品があるのなら、むしろ堂々と語ればいいと思う。

 筆者も小学生当時(確か二年生だった筈)、「新・必殺仕置人」最終回で生まれて初めて「映像作品を見てマジ泣き」という経験をした。
 それから再放送を見る機会をことごとく逃し続け、30歳近くになって、ようやくLDで全話鑑賞する機会を得た。
 二十数年ぶりに観た最終回は、当時感じたインパクトと寸分違わず、一部のセリフまで完璧に記憶に焼きついていた。
 否、それどころか、BGMまでも正確に!
 記憶力に自信がなく、また映像作品についての価値感すらろくに成熟していなかった子供の頃のインパクトが、ほぼ完全な形で再現されたのだ。
 言うまでもなく、いまだこの最終回を観ると、涙が止まらない。
 なんだかパブロフの犬になったような気すらするのだが、筆者にも、こういった例がある。

 すべての記憶が美化とは限らないという事も、あるのだ。

 現在の視点と、当時のそれが同一である筈もない。
 大人になれば、それだけ多くの作品・媒体に触れる機会も増えて、自然に価値感・評価基準が高まっていく。
 その影響で、当時の作品に対する再評価が厳しいものになる場合だってある。
 筆者が上記で挙げた「スパイダーマン」や「5年3組魔法組」「大空魔竜ガイキング」、「ときめきトゥナイト」なども、放送当時は納得していたわけだ。
 でも、今はそうではない。
 今と昔、一体どちらの評価が、その人にとって正しい基準になるのだろう?

 これを判断するのはその人次第だが、本来なら、現在の基準で評価すべきだろう。
 その方が、当時には出来なかった冷静な判断が出来る筈だからだ。
 でも、当時リアルタイムで面白いと感じた事も、決して無駄にはならない。
 思い入れのこもった評価は、たとえ酷評であったとしても、どこかに愛情がこもる筈だ。
 そしてその方が、反対意見を持つ相手にも、理解してもらいやすいものになるのではないだろうか。
 「この人は酷評を述べている。だけど、作品自体は大好きなんだ
 そう思わせる事が出来れば、議論も面白くなる筈だ。
 好き嫌いを述べる感想と、作品を評価する事はまったくの別物なのだから。

 現在人気の作品がある。
 平成仮面ライダーシリーズや、スーパー戦隊シリーズ。
 また、絶大な評価を受けた各アニメ作品。
 はたまた、ドラマ、時代劇、単発のドラマスペシャル。
 この中で、十数年後、或いは数十年後に見返した時、当時と同じような評価の出来る作品は、どれだけあるだろうか?
 特に平成ライダーシリーズは、本放送当時のネット上の話題によって評価がブーストアップしていた感がある。
 そういったバックアップ要素をなくした状態で、あらためて冷静に見つめ直した時、私達はどのような感想を漏らすのだろうか……

 ま、何十年も経つ間に、価値基準が変わってる事もあるわけだけど。

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