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更新日:2004年5月23日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
2003年4月6日、アニメ『ASTRO BOY 鉄腕アトム』の放送が開始されました。 故・手塚治虫氏の手による原作でのアトムの起動日が2003年4月7日だったことにちなみ、“アトム生誕年”を記念してアニメが制作されたわけです。 さすがに曜日の関係上、誕生日そのものにはできなかったようですが、誕生日の前日から放送開始という念の入れようだったことからも、いかにも記念作品らしさが前面に出ていますね。 同時代を舞台とした未来世界を描くというちょっと特殊な試みも、年代設定を意識していなければ気付かないくらい、非常に受け入れやすい自然な姿になっていたと思います。 個人的には、エアカーの描写に関して、交通規制などがどうなっているのかちょっと分かりにくかったと思いますが、ほとんどの車がちゃんと路面の上を浮いて走っているような状態でしたから、むしろ特殊車両だけが空を飛んでいるのかもしれません。 ともかく、こうして放送開始されたアニメは、今時セルアニメだったことやその作画・動画クオリティが高い評価を受けましたが、“作品”としての評価はどうなのでしょう? 1 アトムの性能変化 過去、「鉄腕アトム」は2回テレビアニメ化されています。 そこで、区別のため以後原作マンガを「原作」、'63年放送の白黒アニメ版を「白黒版」、'80年放送版を「カラー版」、今回のアニメを「アストロ版」と呼んで話を進めることにします。 白黒版とカラー版の最大の違いは、動力源と兄(弟)コバルトの存否でしょう。 また、原作と白黒版の動力源は濃縮液化ウランによる原子力エンジンですが、カラー版では“そりゃいくらなんでも危険だろう”ということで、原子力電池によるモーター駆動に変更されました。 ほかに、カラー版で指にレーザーブラストが内蔵されたことについて、「はっきりと武器を持っているのはまずいのではないか」という議論もありましたが、以前から後ろ向きとはいえマシンガンを内蔵していたという経緯もあって、割とすんなり受け入れられた人が多かったようです。 こういった設定面について、アストロ版はかなり大規模な変更を加えました。 まず、海外輸出もにらんで「原子力」とか「核」といった言葉に対する拒否反応や不要な反発を避けるため、どういったエネルギー源であるかについて全く言及していません。 どうも何らかのシステムによる電力供給ではないかという印象を受けますが、いずれにしても「エネルギー」と呼ばれるだけであり、またエネルギー切れによる機能停止が深刻なピンチとして描かれてきたこれまでの作品に比べ、アストロ版では力が出ない理由としてだけ扱われている点からしても、エネルギー源自体に大した意味はないのでしょう。 ものすごく乱暴な言い方をすると、お腹ぺこぺこでもう動けないとほとんど同義で使われています。 なにしろアストロ版では完全にエネルギーが切れて人形同然になってしまったアトムは一度も登場しないのですから。 次に大きな変更点は、「十万馬力」「7つの力」といったこれまでのアトム世代になじみの深い言葉が出てこないことでしょう。 アストロ版アトムの高出力の源は、アストロシステムと呼ばれる特殊なパワーユニットにあることが作中明言されています。 ただ、その具体的な出力については、やはり作中ではさほど重要視されていないようで、単に“コンパクトなくせにやたらと高出力を叩き出すシステムを搭載している”というレベルの描写に過ぎません。 そうかと思えば、目の中に仕込まれた透視・解析システムの使い方や、微弱な音に対して自動的に集音能力が上がるなど、各種機能の描写が大幅に向上していたりもします。 特に手足のジェット・ロケットノズルの使い方は特筆もので、推力によって噴射炎の大きさがはっきり違っていたり、足からの噴射で前進しつつ手からの噴射で進行軸の微調整をしたり、手足を同時に噴射して最大加速したり、逆に前に向かって四つん這いの形で急制動を掛けたりと、非常に上手く使っています。 背面のテールスタビライザーを吹かしながら後退したり、宇宙空間で足下に噴射し続けながら静止している某リアルロボットアニメに見習ってほしいくらいです。 これほどメカニック描写に力を注ぎながら性能面を喧伝しなかった理由は、多分アトムの特殊性をメカニック性能の高さという形では強調したくなかったためでしょう。 なお、今作で左手にアームキャノン(強力な武器)が装備されたことについて不満を持っている向きもあるようですが、鷹羽はこれまでの武器の延長ということで問題はないのではないかと思っています。 お尻のマシンガンがなくなったのは、ちょっと寂しいですけどね。 2 輸出のための演出制限その1…絶対的ハッピーエンド主義 さて、このアストロ版には、大きな特徴が3つあります。 1つは人間とAIロボットの関わり方というテーマで、かなりの話数を割いて前面に押し出しています。 2つ目は、海外(特にアメリカ)輸出を念頭に置いているための様々な設定・演出の制限です。 3つ目は、手塚作品における有名なキャラクターや原作に登場する有名なロボットを色々登場させていることです。 まず、分かりやすい輸出のための設定・演出の制限について話をしましょう。 これは、外形的には“無国籍性”ということが挙げられます。 以前に書いたとおり、物語の主な舞台となるのはメトロシティであり、そこには色々な人種が住んでいるような描写がなされています。 ケンイチの肌が無茶苦茶黒かったり、シブガキが白い肌に金髪だったりするのも、そういう描写の一環でしょう。 上で書いたように“核”という言葉が使われていないのも、反核運動の対象にされないようにとの配慮でしょう。 日本国内だけならば、アトムが核エネルギーで動いていても反核活動家が騒いだりしないでしょうが、アメリカだと騒ぐ人が多そうです。 言葉の上でも、外国と言える存在はマユーラしか登場しないわけで、ほとんど“世界は1つ”状態、言い換えれば地球上に大都市はメトロシティしかないくらいに描写されています。 とはいえ、これくらいはさほど問題ない話です。 どこの国で放送されても、誰もが自分の国の未来の姿だと受け止められるような作りにするのは、1つの方向性としてありですから。 ただし、輸出するため演出に制限が掛かったことは、無視できない問題です。 以前にも「原本のススメ」で書きましたが、アメリカでは子供向けの悲劇は存在できません。 ある番組を視聴した子供が、アンハッピーエンドだったために悲しくて泣いていたとします。 すると、保護者は番組の制作者を相手取って“子供に悲しい思いをさせた”、つまり精神的苦痛を感じさせたことに対する損害賠償請求の裁判を起こし、しかも勝ってしまうことがあるのです。 アストロ版は、当初からアメリカ放映を予定していましたから、アメリカで問題になりうる描写はことごとくカットしていますが、その一環として、アンハッピーエンドはなくしてしまいました。 なんと、番組中ではっきり死ぬシーンが出たキャラは、人間・ロボット含めて1人もいません。 48話『明日への旅立ち』でアトムは壊れますが、これすら壊れたアトムは登場せず、しかも次回予告で「必ず直す」とお茶の水博士が断言し、次回タイトルは『アトム復活』でした。 アトラスも、後述するとおり爆発しつつ宇宙空間に消えてしまったものの、後にちゃんと復活しています。 アトラスがその直前に突然父と和解したのも、それなりのハッピーエンドにするための方便でしょう。 この徹底的なハッピーエンド主義により、大した意味もなく改変されてしまった話や、大した説明もなく本来助かるべきでないキャラが助かってしまった話がいくつかあります。 9話『フランケン』では、崩れ落ちたメカの集合体の中からどうやってアルが1体だけ分離できて助かったのか全く説明がないため、話が嘘臭くてたまりません。 意味のない改変について説明しやすい例を挙げるとすれば、『電光人間』でしょう。 このエピソードは原作・白黒版・カラー版全てに存在するもので、ペーハーガラスという透明な材質製で、特殊な光を当てないと目に見えないロボット:電光が、ギャングのスカンク草井に利用されて泥棒をしまくり、爆弾を持ってある場所に行くよう指示され、それを阻止しようとする警察に追い回された挙げ句破壊されてしまう物語です。 アトムは、この電光と友誼を持ちますが、それでも救うことはできませんでした。 このエピソードの中で、電光は悪意のないまま道具として人間に利用され、破壊されて終わります。 電光自身は完成して間もないこともあって、善悪の判断能力などにいささか難がありましたが、悪意がないイコール何をやっても許される、とはならないという冷徹な断罪の物語でした。 日本の法律では、この場合の電光の行為は“責任無能力者による実行行為”、つまり善悪の判断の付かない者(幼児等)が犯罪実行の手足として使われたという扱いになり、処罰されない可能性が大きいです。 また、エピソードのラストでは、電光はコールタールを塗られてその姿を露呈していました。 警察は、電光が持っている爆弾の爆発時刻が迫っているからと電光を破壊したわけですが、既に市街地からは遠く離れており、わざわざ電光を破壊しなくても勝手に爆発してしまうことは分かり切っており、追う側もそれを待てば済む話です。 手塚氏がそれを敢えて警察の手による破壊という形で終わらせたのは、1つには道義的な処罰を欲したということでしょう。 そして、もう1つ、ロボットの存在意義という問題があったと思います。 電光は“姿が見えない”のが通常態であり、裏を返せば“見えないこと”しか存在意義がないロボットです。 つまり、ペーハーガラス製のロボットを作るという目的のためだけに作られたわけです。 これは、極論すれば発表さえ終わればもういらないということでもあります。 カラー版のころ、児童誌連載のアトムのマンガに“ロボットギネスに載せるためだけに作られた世界一大きいロボット”が登場します。 このロボットは、ロボットギネスに載った後の使い道は全く考えないまま作られたため、役立たずとして放置されていました。 このマンガ自体に手塚氏がどれほど関わっていたかは分かりませんし、名目だけの原作者である可能性も高いのですが、いずれにせよ電光も人間の事情で作られた哀れなロボットだったと言えるでしょう。 そういった状況を飲み込んだ上で『電光人間』を見ると、人間による電光の破壊と、それを止めるだけの理由を持たないアトムの無力感とを見せて、苦い結末をもたらすためのエピソードだったと言えます。 ところが、アストロ版の『電光』では、電光は生き延びました。 アストロ版での電光は、光学迷彩機能によって姿が消せるロボットです。 電光は、スカンクにその能力を利用されて泥棒の片棒を担ぎ、一方で、アトムと知り合ったことでケンイチら人間の友達を得て、人力飛行車逆転号に乗ったりして友情を知ります。 そして、スカンクに処分されそうになった電光は、逆転号に乗って自分を探してくれていたアトム達を見付けて合流し、助かるわけです。 この逆転号は、今回が初飛行で、その後もケンイチ達が仲間と認めた相手を乗せることになり、また、『アトム復活』ではアトムの失われた記憶を取り戻そうとして見せるなど、要所要所で“友情の証”として登場する重要アイテムとなるわけで、そういった面からは、このエピソードは友情をテーマとした良い話と言えます。 上で書いたとおり、日本の法律からいえば電光の行動は必ずしも有罪とはならないわけですから、電光が助かるラストを作ることそのものは悪いとは言いません。 ただし、本編中で“どうして罪に問われないのか”を説明していないのは問題です。 誰もが法律を詳しく知っているわけではない、まして子供は知らなくて当然なのですから、タワシ警部の口から“これこれこういうわけで、電光の罪は不問にする”という説明がなければ、あれだけやってお咎めなしという妙な状態になってしまうわけです。 3 輸出のための演出制限その2…壊れないロボット 次に、演出が制限されている例を挙げましょう。 アストロ版には、バラバラに破壊された人型ロボットというシーンがありません。 青騎士編最終話となった48話のラストで、アトムは青騎士達ロボットの乗る宇宙船を狙ってランプが発射したミサイルを受け止めたため、その爆発に巻き込まれてしまいます。 これによりアトムは壊れてしまうわけですが、壊れたアトムの姿は画面に映りません。 どう考えてもかなりバラバラに壊れてしまっているはずですが、次回『アトム復活』では、既に修理は山場を迎えており、ちょっと煤けた程度の五体満足な姿で映っています。 この一連の流れは、原作の『青騎士』ラストで、青騎士が人間に向けて投げた槍から相手を守るため、身を楯にして壊れてしまうシーンを元にしていると思われます。 このときアトムは、頭部が肩の一部ごと吹き飛んでいて“どう考えても壊れているなぁ”という姿になり、実際『アトム復活』というエピソードで天馬博士に再起動されるまで壊れたままでした。 アストロ版はそれを引用して、ミサイルからロボットを守って壊れたという形にしたのでしょうが、なぜ残骸を出さなかったのでしょう? これには、ちょっとした理由があります。 朝日ソノラマ刊・サンコミックス収録版(現在発行中の文庫版にも収録)の原作『デッドクロス殿下』のとき、手塚氏が「アトムがほかのロボットを壊すシーンについて、アメリカの視聴者から残酷だと抗議が来た」旨の話を書いています。 知らない人も多いでしょうが、白黒版もアメリカで放送したことがあり、その当時も向こうでのタイトルは『ASTRO BOY』でした。 で、この抗議は、白黒版をアメリカで放送したときに来たらしいのですが、人型ロボットがバラバラにされるシーンは、人間がバラバラになるのを連想するから残酷なのだそうです。 その感じ方自体を悪いと言う気はありませんが、この考え方は、かなり演出の幅を狭めてしまいます。 こういう人達には、きっと鋼鉄ジーグがバラバラ死体に見えるに違いありません。 『人工太陽球』という話は、原作、白黒版、カラー版それぞれに存在しますが、この話の中で、アトムは身体が動かなくなってしまいます。 原作と白黒版では、アトムは人工太陽球の熱線を浴びて手足まで溶けてしまい、近くにいたロボットの手足を取り付け、アンバランスな姿で事件を解決します。 このときのアトムの「僕には今、空を飛ぶ力も十万馬力もない。あるのは戦う勇気だけだ」という独白は、結構感動ものでした。 カラー版では『盗まれた太陽』というタイトルになり、放送コード上問題があったのか、手足は原形をとどめていましたが、やはり近くにいたロボットと手足を交換しています。 このときは、上記の独白が一緒に行動している人間に対する台詞として使われています。 また『ロボイド』でも、アトムは敵の手でエンジンに腐食液を注入されてしまい、ウランのエンジンを移植して戦っています。 こういった他のロボットのパーツを使うというのは、アストロ版ではタブー視されているようです。 つまり、ロボットは生き物だから、臓器移植と同じだということなのでしょう。 なお、『デッドクロス殿下』で手塚氏が例に出しているシーンの中に、飛行中にエネルギーの切れたアトムが、落下して地面に激突して壊れるというものがあります。 このときアトムは、頭部や手足が外れ、コイルが体内からはみ出している“一見して壊れている”状態になります。 エネルギーがなくなればアトムは物でしかないといういわば当たり前のことなのですが、実は日本でもこのシーンは残酷だと評されたそうです。 もしかしたら、バラバラのアトムが映らないのは、そういう事情もあるのかもしれません。 4 有名キャラ達の登場 次に、3つ目の有名キャラ等の登場について考えてみましょう。 手塚作品の有名なキャラクターといえば、ヒゲオヤジ、スカンク、ハムエッグ、ランプ、ロックといったところが挙がるでしょうが、アストロ版には彼らのほか、あまりメジャーとは言い難い七色いんこ(アストロ版での名前は爆弾魔ドクターカトウ)も登場します。 また、ロボットとしては、プルートウとアトラスが有名でしょうか。 プルートウは、言わずと知れた原作最大のライバルで、原作・白黒版・カラー版ともに同じ姿と設定をもって登場したため、恐らく『アトム』で最も有名なロボットでしょう。 世界一強いロボットであるというだけの存在理由で作られながらも、アトムやウランと心を通わせ、アトムと協力して火山の噴火を止めたり、決して敵わない相手ボラーに挑んで死にました。 アトラスは、原作・白黒版では1回限りの登場ですが、カラー版ではアトムの同型ロボットとして登場し、その後自己改造を加えて何度となくアトムと衝突し続け、カラー版最大のライバルとなっていきました。 ですから、カラー版を見ていない人には、あまり馴染みのないロボットだと思います。 原作・白黒版でのアトラスは、ロボットが人間に近づくために足りない最後(Ω)の因子:悪の心を司るオメガ因子を内蔵したロボットでした。 このオメガ因子は、“自律的に悪事を行い、人間を殺すことも厭わない”ロボットを生み出すという、ロボットの存在を根本的に揺るがすもので、事実アトラスは自分を作った博士を殺そうとしています。 ただし、原作・白黒版のアトラスは、オメガ因子の存在以外に取り立てて特殊な能力等があるわけではなく、ロボットに悪の心を持たせる意味があるかという問いかけのためだけに登場した感がありました。 カラー版のアトラスは、アトムの設計図を基に作られており、唯一アトムと違うのがオメガ因子の存在でした。 さっさとアダルトな姿に自己改造してしまったため、アトムと同型だった時期は短いのですが、電子頭脳の共鳴反応は最期まで続いていたので、さすがに電子頭脳はいじっていなかったようです。 ここでのオメガ因子も原作と同様の物であり、“アトムのアンチテーゼ”という役割を与えられる所以となりました。 また、カラー版アトラスは、アトムにオメガ因子を装着するよう何度か迫りますが、リビアンという恋人ロボットには決して付けようとしておらず(この点アトムに指摘されている)、微妙な自己矛盾を抱えたロボットという側面も持っていました。 アトラスとプルートウはそれぞれアストロ版にも登場しますが、設定は大きく変更されています。 まずアトラスですが、徳川大地という人間の記憶を移植されたロボットとして登場しています。 アトムと対決させるために天馬博士が制作し、父に対する憎しみで行動していたのがどういうわけかいきなり改心してしまい、父を助けて宇宙の藻屑と消えました。 この時点で、鷹羽はアストロ版で初めて死者が出たというつもりで見ていたのですが、後に回収され、悪人にオメガチップを装着されて再びアトムに挑みます。 ここでのオメガチップは、コントロール電波に従ってロボットを自在に操るための回路という扱いになっており、これまでのオメガ因子とは違います。 このときは、天馬博士がこっそり助力したためオメガチップの呪縛から逃れたアトラスはアトムと戦うのをやめ、爆弾を運ぶために「必ず戻る」と言い残して行方不明になり、その後どうやってかシャドーに救出されたらしく、ロボタニア攻防戦に参加しています。 次にプルートウですが、これもまた原作・白黒版・カラー版全てにほぼ同じ姿と設定で登場しています。 プルートウは、国を追われた元国王が、世界一強いロボットを作ろうとしてお抱えの科学者に作らせた百万馬力のロボットです。 2本の長い角が特徴で、ここから敵の身体に電磁波を流して破壊するのが得意技で、途中で改造され、敗北と同時に自爆するようになっていました。 世界一と噂されるロボット7体のうち6体までを破壊しましたが、7体目であるアトムとは戦わず、ボラーに敗れて自爆してしまいました。 元々プルートウを作った科学者は、国王の召使いロボットが変装したもので、“世界一強いロボット作ることなど無駄だ”と国王に教えるために裏でプルートウより強いボラーを作っていたというオチが付いています。 アストロ版では、天馬博士の記憶を移植されたロボット:シャドーが、アトムの力を確かめるため、一度見た能力を自分のものにできるという特殊能力を持つロボットとして作りました。 プルートゥは、ハーレー、デルタ、ヘラクレス、エプシロンからそれぞれ能力を学習しましたが、ウランとアトムから「友達」という感情まで学習してしまったため、肝心のアトムとは戦う意志を失っていました。 ところが、実はシャドーはプルートゥをデータ集めのためだけに作ったのであり、得られたデータのうち“感情”以外を、アトムと戦わせるために作ったダークプルートゥに移植していたのです。 プルートゥはアトムのためにダークプルートゥに挑んで敗れ、爆煙の中に消えましたが、その後ロボタニア攻防戦に参戦しています。 さて、ここまで読んでお分かりと思いますが、アトラスやプルートウのアストロ版登場には共通点があります。 それは、原作に登場するものと名前や設定の一部は同じだが、中身はまるで別物であるということです。 繰り返しますが、原作等の『電光人間』は、利用されて悪さをしてきた電光を警察が射殺(破壊)する物語であり、アストロ版の『電光』は、利用されて捨てられた電光をアトム達が救う物語です。 一見して全く違うストーリーであることが分かります。 また電光の設定は、“特殊な方法を使わないと見えない”から“姿を消せる”に変わってしまいました。 確かに侵入させて盗ませるには、姿が見えないのは便利ですが、それなら数種類の防犯センサーをかいくぐれるようなステルスシステム内蔵とかでいいわけですし、今回の場合、さっさと電光の仕業とばれてしまっているわけですから、そもそもこっそり盗みに入る意味すらなく、ちょっとパワーのあるロボットを使って堂々と壁を壊して入れば済むことです。 また、この話の山場である“爆発間際の電光をアトム達が探す”場面ですが、見つからない理由は電光が見えないからではなく人混みのせいでしたから、ますます電光である必然性がありません。 つまり、「電光」という固有名詞こそ同じですが、全くの別物なのです。 また『地上最大のロボット』も、原作等では強さを追い求めていくことの空虚さを描いたものですが、アストロ版では天馬博士がアトムを成長させるために与えた試練でした。 プルートゥ自体も、百万馬力の戦闘ロボットだった原作等のものから、一度見た能力を自分で使える器用なロボットになってしまいました。 デザインや能力もアストロ版だけ違います。 アトラスは、原作&白黒版、カラー版、アストロ版と3種類の設定がありますが、その最大の特徴であるはずのオメガ因子の設定は、やはりアストロ版だけが違っています。 さて、こういった設定変更は何のためでしょうか? つまるところ、知名度の利用に過ぎないというのが鷹羽の結論です。 そう考えたのは鷹羽ばかりではないようで、このような理由を挙げてアストロ版に文句を付ける旧作ファンはかなり多かったそうです。 実際鷹羽もカラー版世代であり、それ以前から親戚の家で原作を夢中になって読み漁っていた人間ですから、これらの無意味とも言える設定変更にはかなり腹を立てていました。 とはいえ、もちろん“原作と違うから駄目なエピソードだ”などと切り捨てるつもりはありません。 天馬博士の設定は、原作等と全く違いますが、オリジナル作品として見た場合、狂気の天才科学者として筋の通ったキャラクターとなっており、鷹羽はそれなりに気に入っています。 この点については、近々キャラクター考第3回ということで書いてみたいと思います。 ただこのアストロ版は、後述するとおりオリジナルエピソードという前提で評価しても問題は多いのです。 ここまで変えるなら、いっそ名前も含めて別物にしてしまえば、少なくとも旧作ファンからの反発はもっと小さなもので済んだのではないかというだけのことです。 5 AIロボットと人間…ロボットは生きている? さて、そろそろ一番重大な人間とAIロボットの関わり方について話しましょう。 これは、結構重要な問題です。 何が問題かと言えば、スタッフがAIロボットと人間の区別が付いていないのです。 そんな馬鹿なと思うなかれ、確かに外見はこれ以上ないくらいはっきり見分けがつきますが、スタッフは中身を同一視しています。 ちょっと分かりやすい例を挙げましょう。 よく愛犬を家族として扱う人がいます。 それ自体はその人の自由ですが、現実問題として犬なのですから、愛犬が舐めた手を洗わずにお客に出すお菓子をいじってはいけません。 自分的にはごく当たり前のつもりでも、お客にとっては病原菌がいっぱい入っている犬の唾液が付いたお菓子ということになります。 また、「うちの子(犬)は家族なんですから!」とか言ってみても、ペットお断りのアパートには入居できません。 主観と客観はあくまで別物です。 この作品では、こういう主観と客観の区別ができていないようなのです。 どう考えても、アストロ版ではロボットの電子頭脳はボディと一体のものとして扱われています。 アストロ版で“白い惑星号にアトムの電子頭脳を載せる”という話が出なかったのは、多分その一環でしょう。 このエピソードは、“電子頭脳を破壊されたレース用ロボットカーの白い惑星号に、臨時でアトムの電子頭脳を登載しようとしたら、実はレーサーの妹は予備の電子頭脳保管用に作られたロボットだった”という話です。 レーサーはそのことを知らず、レースが終わった後でもう妹が戻ってこないことを知るのです。 妹の電子頭脳云々というだけなら、“レースの後で元に戻す”という無理矢理ハッピーエンド策が使えるでしょうに、それがないのは、アトムから電子頭脳を外すという時点でまずいということになったのでしょう。 人間と同じで、電子頭脳をボディから取り外したら死んじゃうんです、きっと。 実例として、青騎士編最後のエピソードであるロボタニア編で、人間とAIロボットの争いを生む原因になったキップの件を挙げてみましょう。 この件は、後にAIロボット全廃問題にまで発展する大事件で、ロボットのキップがリナという少女を突き飛ばして意識不明の重傷を負わせたという事件です。 人間は最初からキップが突き飛ばしたに違いないという前提で話を進めます。 ところが、キップがリナを突き飛ばしたかどうかなんてことは、キップのメモリの映像記録を再生すれば分かることです。 アトムが本編中で、自分の見たものをお茶の水博士に見せるために使ったりしていた装置がありますね。 よしんばその装置が使えないとしても、メモリから映像データを拾い出すことくらいは、キップを分解しなくてもできるはずでして、キップ本人はともかく、お茶の水博士やアトムが気付かないのはおかしいんです。 ところが、キップを逮捕したタワシ警部に対しアトムが開口一番何を言ったかというと「キップは今動揺しています。落ち着くのを待ってください」です。 どうしてメモリを調べて事実を確認させようという発想が出ないかな〜。
ロボタニア編は、青騎士編の最終エピソードとして人間とロボットの対立を描いたものですが、アストロ版の問題点を凝縮したようなエピソードなので、説明してみましょう。 ロボタニア編の物語はこうです。
とまぁ、4話にわたる長編なのであらすじも長くなってしまいましたが、大体こんな内容です。 さて、このエピソードは、原作での『青騎士』終盤のロボタニア攻防戦の辺りを膨らませつつアトムがロボットと人間の架け橋となるべく苦闘する姿を描いたもので、一方的に人間に迫害されていくロボット達というサスペンスの描き方は秀逸でした。 特に、ロボットが反撃してこない間は嵩に掛かって追い回していた人間が、青騎士が現れて攻撃した途端に蜘蛛の子散らして逃げていくという描写は、人間の汚さがよく表れています。 ところが、あまりに人間を一方的に悪く描きすぎているため、ラストの解決があっさりし過ぎていて食い足りないのです。 特に、ロボットがいい奴すぎるため、話の重さがおかしくなっています。 まず、既にロボットが基地を建設してしまったという時点で、人間は相当危険な状態です。 ロボットが本気で人間を滅ぼす気なら、中性子爆弾でも核爆弾のピンポイント攻撃でもオゾン層破壊光線でも、地球そのものは壊さず地球の全生命体を危機に陥れる方法はいくらでもあります。 なにしろロボットは、地球そのものが無事なら、生態系がどんなに狂っても実害を受けないのですから。 にもかかわらず、ロボット達の頭には、人間憎しの青騎士を含めて“こちらから人間を攻撃しよう”という意思がありません。 攻め込まれれば反撃しますが、ロボット側から攻撃の意思を示した上で和平交渉とかいう発想がないのです。 しかもここまで大騒ぎしておいて、いざ騒ぎが収まれば、騒ぎの大元である早とちり親父はお咎めなし、溝を再確認したはずのロボットと人間も仲良しこよし…ふざけているとしか思えません。 これは、センセーショナルに話を盛り上げようとネタを振り撒きすぎた上、それをきちんと片付けていないせいです。 前述の人間の汚さもそうですが、アトムを立場的に追い詰める都合上、人間とロボットの確執を描くのに一所懸命過ぎて、話の落ち着きどころを考えていなかったようですね。 南極の戦場で、戦車を壊されて逃げている人間の兵士が、青騎士に「丸腰で無抵抗の相手を攻撃するのか!?」と言って油断させ、こっそり持っていた銃で青騎士を撃とうとするシーンがあります。 このシーンは、このエピソードの問題点を凝縮したような
これと同様のシーンとして、カトウの暗躍でロボット不信を募らせた民衆がキップと同型のロボットを襲い、アトムが止めようとするというのがありました。 このときは、飛来した青騎士の威嚇攻撃で人間がさっさと逃げてしまったためにさほど問題は感じませんが、戦車兵のシーンと合わせて考えると問題がより浮き彫りになります。 彼らは、相手が自分より弱いという前提でロボットを襲っているのです。 アストロ版世界にロボット三原則があるかどうかは分かりませんが、少なくとも人間を傷つけてはいけないという大原則があるのは確かで、人間側には“ロボットは人間に反撃しない”という意識があります。 そして“いずれ襲ってくるかもしれない”と思った人間は、襲ってこない今のうちに破壊しようとしているわけです。 キップ型のロボットは攻撃力は持っていませんから、“相手は無抵抗だから棒を持って複数でかかれば簡単に破壊できる、万が一反撃されても負けない”という思考で襲っているわけです。 だから、“攻撃してくるわけがない”アトムの説得には耳を貸さず、威嚇とはいえ現実に攻撃してきた青騎士を見て逃げていったわけです。 これと同じことが、ロボタニアに攻め込んだ兵士にも言えます。 ロボタニアでは、戦闘能力を持っているのは青騎士ほか3体のロボットだけで、大多数は普通のAIロボットです。 人間側の気分としては“手強いのは青騎士ほか数体だけ、多勢に無勢だから負けるわけがない”と考えて攻めています。 だからこそ、プルートゥやアトラスの参戦で驚いているわけです。 そして、青騎士を目の前にした戦車兵は、自分が攻め込んでいった側だということはすっかり忘れ、一方的にやられているかのような態度を取っています。 「降伏するから助けてくれ」ではなく「逃げるから手を出すな」と言い、ホールドアップもしていません。 挙げ句に隠し持った銃で撃っているわけで、身勝手もここに極まれりです。 そして、それでも助かってしまうため、それらの行動に対する非難も罰も受けないということになります。 つまり、自分から殴りかかっておいて、殴り返されそうになると悲鳴を上げて相手を非難し、人に助けてもらって、しかも誰にも咎められないで終わるという自分勝手の権化のような存在が人間であるという描写になっているのです。 まず、このエピソードは元々
“それでも頑張ったアトムが人間とロボットを和解させた”となれば、確かに感動的だったでしょう。 ところが、事態は
そして、ミサイルから宇宙船を庇って散ったアトムの英雄的行為に対する賞賛が残るわけですが、アトムが体を張って守ったのはロボットであり、人間には何も得はありませんでした。 また、ここには、評議会の勘違いが原因で、罪もないロボットを大量に破壊しようとした決定についての償いも、戦闘機や戦車、ビーム衛星といった多大な物理的金銭的損害を発生させたレッド将軍への責任追及もありません。 この場合、ランプをスケープゴートにしたとしても、最初に騒いだのはレッド将軍で、キップの分解処分を決めたのは評議会の全会一致だったという事実は変わりませんし、ランプの策謀が事態を左右し始めたのはその後であるという点からも、評議会等の責任問題は免れないでしょう。 悪い言い方をすれば、最終回でのロボットフレンドシップ宣言は、その責任追及をかわす方便にすぎないとも言えます。 なのに、非常に喜ばしいこととして描かれているわけです。 そしてこの問題点は、この作品が『鉄腕アトム』であることと関係ないのです。 これまで挙げた有名キャラの登場や設定変更は、『鉄腕アトム』のリメイク作品であるが故の問題点ですが、この一連の詰めの甘さは、『鉄腕アトム』としてでなく、“ロボットと人間の確執を描いたドラマ”として見たときにも作劇上問題となる部分なのです。 平たく言えば、作品として不出来であるとなります。 具体的に何が悪いかというと、例えば、情勢が反ロボットに動いているとき、ロボット擁護派として描写されているのがお茶の水博士などのレギュラーキャラだけで、一般論としてAIロボットを守ろうという運動が全くなかったことです。 これは、アトムを追い詰める演出上、周囲全てを敵にしたかったためでしょうが、こういう部分抜きに、「誤解だった、じゃあロボットは友達だ」などとやっても薄っぺらくなるんです。 ロボットは危険だと言えば破壊しようと殺到し、ロボットは友達だと言えばめでたいと沸き立つ有象無象な民衆を描きたかったわけではないでしょう。 “人間の中にはロボットを好む人と好まない人がいて、今回の騒動を機にロボットの権利が一歩前進した”という描写にしたいなら、騒動の最中、世間が反ロボットに流れる中でロボットを擁護する名もなき一般人を出しておくべきだったのです。 また、攻め込まれたロボット側の対応も甘過ぎます。 アトムの邪魔が入ったときはともかく、それ以外でも人間側には死者が出ていません。 前述のとおり、ロボットが本気で人間をどうにかしたいなら、たとえブラフでも「独立を認めないなら人間を滅ぼすぞ」「我々には核がある」と交渉するべきなのに受け身専門で、おまけに変にいい奴しちゃって、戦車は壊しても乗員は脱出させてやってるんですね。 そのくせ青騎士は、アトムが近くにいるときだけ人間を殺そうとするから、結果を見る前に「あ、こいつ絶対殺されないな」「アトムが助けるな」と分かってしまって、見ていてしらけます。 “絶対助かる、死なない”という安心感のようなものを視聴者に抱かせてしまった時点で、どんな盛り上げも茶番になってしまうんです。 安易に死者が復活するマンガにありがちな“感動的に散ってもどうせすぐ復活する”という緊張感のなさですね。 これらの問題点は、核を描かず、人もロボットも殺さないというソフト描写を貫きながら、人とロボットの共存という、汚い部分も見せなければ描ききれないハードなテーマを描こうとしたことによる失敗だと思います。 輸出による制限や“良識ある人々”の目などもあって、好きなように描写できるわけではないという事情もあるでしょうが、そんなことは最初から分かっていることですから、その範囲内でできる限りのことをすればいいんです。 大風呂敷を広げるだけ広げて、「いやぁ〜、何かと制約が多くて畳めなかったよ」では間抜けでしょう。 もう1つ問題点があります。 それは、反ロボット派の人間の行動が片面的に描写されていて、彼らが世間でどう評価されているのかが見えてこないということです。 このエピソードではランプとカトウが反ロボット派の代表として登場し、カトウが逮捕され、ランプは犯罪者として扱われるようになるのですが、実はどういう罪なのかが非常に不明瞭です。 カトウは、7話『ロボット超特急』で爆破未遂事件を起こして逃亡中だったために手配されていたのですから問題ありません。 問題はランプの方です。 アストロ版では、ランプはロボット製造販売会社の社長であり、少なくともこのエピソード以前は、裏で行っている非合法活動は全く知られておらず、AIロボット反対派として有名な名士でした。 ところが、このエピソードの次の話では、ランプは反ロボット派の仲間から「犯罪者のあんたに近づくとこっちが危ない」と見限られてしまっています。 ランプはどうして犯罪者なのでしょう? 考えられるのは、
少なくとも4だと、「ロボットは信用できないから破壊しようとしたのだ」という言い訳ができそうですし、このこと自体は人間に何もマイナスをもたらしません。 5は、アトムは勝手にミサイルに向かっていったので、それ自体罪にはならないでしょう。 3についても、偽造だという証明はランプと天馬博士が捕まらない限り難しいでしょうから、可能性は低いですね。 1、2なら、確かに同志である反ロボット活動家から見限られる理由になるでしょうが、その点については全く言及していません。 つまり、“なんとなく悪い奴”だという描写なんです。 これと同じような例が5話『ロボット農場を救え!』での反ロボット主義者の青年です。 彼は、AIロボットの危険性を世間に知らしめるため、巨大野菜農園の制御コンピュータを狂わせて洪水を起こし、その責任を農園のAIロボットのせいにしようとしました。 この計画はアトムや当の農園ロボット達の活躍で失敗し、彼は逮捕されましたが、さて、彼の罪名は何だったのでしょう? メトロシティの法律は分からないので、日本の法律で考えてみましょう。 農園主の孫娘を殺そうとしていますので、まず殺人未遂が成立します。 そして、洪水を起こそうとして現実に農場を水浸しにしている点は、現住建造物等浸害という罪に当たります。 成功した場合、多数の人と建物が被害に遭ったと思いますが、その場合も罪名は増えません。 残念ながら日本にはロボットを対象とした法律はないので、ロボットに対する悪評を立てようとした点については、ロボットを作っている業者・使用している業者を対象としての威力業務妨害になると思います。 まぁ、子供も見る番組ですから、あまり詳しい法律の話などしても仕方ないのですが、せめてどういう罪で逮捕されたのかくらいは明言してほしかったところですね。 どうして分かりやすく“殺人未遂で逮捕”とやらなかったかというと、彼はロボットの危険性を訴えようとしたわけで、殺人未遂ではそのことがぼやけてしまうためでしょう。 つまり、はっきり何の罪に当たるとは言わないけど、ロボットを陥れようとする悪い奴なんだよとアピールしているわけですね。 仕方ないと言えなくもありませんが、やはり作劇の段階でどうするべきなのか考えておくべきだったのではないでしょうか。 7 まとめ アストロ版が始まるころ、各種番組で“始まる”ことが取り上げられましたが、終わるときには大した反響も報道もありませんでした。 それって、みんながみんなでないにしても、番組に失望した人が多かったってことなんじゃないでしょうか。 2003年の紅白歌合戦にZONEが出場しましたが、歌ったのは2002年の歌である『シークレットベース』であり、ある意味2003年を象徴しているはずの『True Blue』ではありませんでした。 懐かしの歌として以外で、その年に出していない歌で出場などということは、かつてなかったはず。 対して、昭和の末頃の紅白歌合戦では、幕間に「空を超えて〜」の『鉄腕アトム』が歌われていました。 このことも、アストロ版は世間にあまり浸透していなかったということを表しているのでしょうね。 『鉄腕アトム』という枠の中で、時代背景に合わせた最小限の改変をして頑張れば良かったんではないかとも思いますが、どうもスタッフは『鉄腕アトム』の名を利用して『鉄腕アトム』でない作品を作りたかったように感じます。 そうでなければ、ここまで別物にはならないと思うんですよねぇ。 「空を超えて〜」という歌を敢えてOPではなくEDとして、しかもアレンジバージョンを使ったりする辺りにも、そういったスタッフの愛のなさを感じて…。 アトムが好きで、期待して見ていただけに、残念な思いが募ります。 → NEXT COLUM |
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