『仮面ライダー龍騎』評論第2回

 終わっちゃうから「戦いは今始まる!」



 最近、元締と話しているときに、「ここのところ、あちこちで劇場版のエンディングについて『ジャンプの10週打ち切りマンガのようだ』という意見が見られるけど、ああいうラストシーンが必ずしも打切ってわけじゃないんだよな〜」という話が出た。

 今はもうやっていないらしいので説明しておくと、かつて週刊少年ジャンプでは、新連載序盤で読者アンケートでの人気が芳しくないと、10週目、つまり10話で打ち切られてしまうということがよくあった。
 これは、人気を取れない連載をさっさと切って新しい連載を入れることで、常に連載作品に勢いを持たせようという考えからのものだったらしいが、作家陣にとってはかなりの重荷にもなっていた。
 当然、連載している作者としては、短期集中連載などでない限りは、ある程度長期間にわたって連載することを前提にストーリーを考えているわけで、伏線などを配置していたり、壮大な物語の序章といった趣の話運びをするわけだが、アンケート結果が悪いと、7話くらいを描いている最中に突然「10話で終わりね」と宣告されることになる。

 こうなると、慌ててまとめに入らなければならないわけで、収拾をつけるので精一杯になり、『第一部完』などとやってみたり、「俺達は歩き始めたばかりだからな。この男坂を…」などと言って中途半端で放り出さざるを得なくなってしまう。
 そういう打切ラストの1つとして、突然降って湧いたように最終決戦になだれ込み、「行くぞ〜!」と突撃して終わるパターンがある。
 週刊少年ジャンプでは、こういったラストシーンがよく見られたことから、一般に中途半端で放り出されたようなラストシーンで終わる作品を「ジャンプの10週打ち切りマンガのようだ」と表現するわけだ。
 中には、こうならないよう、序盤は10話程度で終了できるような展開にしておき、連載継続が決まった時点で風呂敷を広げ始めるという方法を取る作者もいた。
 かの『北斗の拳』はこのパターンで、序盤の敵である南斗聖拳シンとの戦いは、ちょうど10話で終わっている。
 ただ、週刊少年ジャンプの場合、長期連載作品にしても作者の意思で終了できることは少なく、人気がなくなるまで引き延ばしておいて人気が落ちたら打ち切りというパターンが多いため、綺麗なラストシーンで終わる作品の方が少ないのではないかという気さえしてくる。
 先程例に挙げた『男坂』は、10週打ち切りではなく、人気が伸び悩んで打ち切られたタイプだ。
 だが、突撃して終わるというパターンは、決してそういった打ち切りラストの専売特許ではなく、余韻を持たせるために、わざわざそういうラストにするという場合もあるのだ。

 鷹羽も、『仮面ライダー龍騎劇場版 EPISDE FINAL』のエンディングについて、レビューの方で色々文句を書いてはいるのだが、決してそういうラストが全部ダメなどと言うつもりはない。
 鷹羽が『EPISDE FINAL』のラストをけなすのは、あれが“そういうラストシーンを目指して練り上げられたストーリー展開だと思えない”からなのだ。
 いや、確かに『EPISDE FINAL』は、わざとそういうラストシーンにしているわけだが、あの作品には、まだ終わるわけにはいかない事情がある。
 
 少々前置きが長くなったが、今回は、『仮面ライダー龍騎』の枠を超えて、ラストの幕引きのあり方というものについて考えてみよう。
 例によって鷹羽の好みが多分に出ることになるが、そこはご了承願いたい。

 
 マンガ・テレビ・映画などの媒体や、連続物・読切・特番など発表回数に限らず、一般的に物語は
  1 大団円
  2 平和になり、主人公は舞台から去っていく
  3 事件そのものは解決するが、何らかの問題をはらんだまま苦い終了
  4 希望もしくは絶望を予感させつつ戦いが続く
  5 事件そのものは終わるが、火種が全て消えたわけではない
  6 生死を賭けた突撃で終わり
  7 1つの事件が終わり、また新たな事件が始まる
  8 全滅して終わり

といったバリエーションに分類できると思う。

 は、事件が終わり、全てがあるべき姿に収まって終わるという、まあ一般的なハッピーエンドだと思ってもらえばいいだろう。
 もちろん、取り立てて事件といったものが起こらないラブコメの世界にも当てはまるわけで、『めぞん一刻』などは絵に描いたような大団円だった。
 『太陽の牙ダグラム』では、武器を捨てて新たな人生を歩き始めた主人公達という構図で終わるので、やはり大団円だろう。
 は、例えば『魔神英雄伝ワタル』のように、異世界からの救世主である主人公が役目を終えて去っていくといったパターンが多い。
 主人公が流れ者の風来坊という渡り鳥パターンもこれだ。
 3の「何らかの問題」というのは、主人公や重要な脇役の死、生死不明、重傷などの“勝利を素直に喜べない理由”を指す。
 分かりやすい例が、『大鉄人17』『宇宙鉄人キョーダイン』での自爆特攻や、『科学忍者隊ガッチャマン』におけるコンドルのジョーの死だろう。
 この後味の悪さそのものが、物語の締めくくりとなっている。
 4の「戦いが続く」は、戦いそのものが終わらない(ラスボス戦まで行かない)まま物語が幕引きになるという場合で、中ボスクラスを1人倒して一応の決着を着けることも多い。
 『アニメ版キューティーハニー』がいい例で、パンサークロー日本支部長であるシスタージルは倒したが、首領であるパンサーゾラは倒さないまま終わる。
 また、このタイプは、『機動戦士ガンダム』などの打ち切られた番組(『ガンダム』の場合、ア・バオア・クーでの局地戦そのものの終焉さえ描かれていない)が苦肉の策として物語にオチを付ける場合にもよく使われるようで、救いとしてラストに一言「どちらが勝った」というようなコメントが入ることも多い。

 なお、知らない人がいると悪いので一応書いておくが、『ガンダム』は主に玩具の売り上げ不振から打ち切りを食らっている。
 所謂「ガンプラ」というのは、本放送終了後に発売されたもので、『ガンダム』の人気は『宇宙戦艦ヤマト』同様、再放送で燃え上がったものなのだ。
 クローバーから発売されていた『ガンダム』の超合金系オモチャなんて、触ったことある人はほとんどいないでしょ? ガンダムにロケットパンチがついてたんだよ。
 『ガンダム』は、本当ならア・バオア・クーを抜け、グラナダを攻略してサイド3に攻め込む予定だったそうな。
 …そういや、『ヤマト』も打ち切り食らったせいで、イスカンダルから1週間で帰ってきちゃったっけ。

 5の「火種は消えていない」は、『13日の金曜日』シリーズの大部分がそうであるように、取り敢えず敵を退けて主人公達は難を逃れるが、敵そのものが死んだ訳ではないからまだまだ事件は起こる危険性を孕んだまま終わる。
 6の「突撃」は、『蒼き流星SPTレイズナー』第1部最終回(当初の予定ではこれが最終回)などの、敵軍団に向かって主人公達が突っ込んでいくシーンで終わるパターンだ。
 『超獣機神ダンクーガ』では、真の最終回はビデオでやるという前提の下、ダンクーガが敵の本星に向かって超空間移動を始めるところで終わる。

 7の「事件が始まる」は、『うる星やつら』などのように、日常的にドタバタが起きている作品によく見られる。
 ちょっと特殊なパターンとして、『小さなスーパーマン ガンバロン』での「また来週!」と言って普通に本編が終わりそのまま終了、というのがある。
 やはりスポンサー絡みで、急遽打ち切りになってしまったらしい。
 このタイプは、また続編を作ることを前提にして、取りあえずのラストとして使われることも多く、『天地無用』『スレイヤーズ』のような作品によく見られる手法だ。

 8の「全滅」は、『伝説巨人イデオン』という極端な例がある。
 若干乱暴な言い方になるが、『聖戦士ダンバイン』『原作版デビルマン』のように敵味方共に壊滅的な打撃を受けるようなエンディングもここに分類されるべきだろう。
 必ずしも打ち切りなどによる突発的なものばかりではなく、当初から予定されている場合もある。
 『イデオン』が最初から全滅系のラストを狙っていたのかは残念ながら分からないが、『宇宙戦士バルディオス』では、2話の段階で、敵が亜空間航行(いわゆるワープ)の事故で、偶然地球近くに出現してしまったことが語られる。
 やがて戦いで地球がメチャメチャになるに従って侵略者アルデバロンの母星S-1星の姿に近付いていき、アルデバロンが事故により時間移動をしてしまったことなどが語られていく。
 打ち切られていなければ、S-1星そっくりに変貌した地球に佇む主人公マリンという構図で終わるはずだったのだが、残念ながらテレビ放映はアルデバロンに溶かされた南北両極の氷による洪水のシーン(なんとサブタイトルは『破滅への序曲(前編)』!)で終わっており、結果的には4の「戦いは続く」パターンになっている。

 
 無論、全てのエンディングがこれらの8パターンで完全に分類されるわけではなく、複合型やどれにも分類しがたいものなどがあるだろう。 
 たとえば、『超音戦士ボーグマン』では、メモリー博士が死んでいるが、番組そのものは、主人公達の生死を案ずる生徒達の前に主人公達が帰還するシーンで終わる。
 この時点で、彼らがメモリーの死を知っているかは描写されていないが、少なくともじきに彼らが博士の死を知ることになるわけだから、1の「大団円」3の「苦い終了」の複合と言えよう。
 
 これら様々なパターンのエンディングに至るには、それなりの流れというものが必要で、それらを無視していきなりどのエンディングにでも行けるというものではない。
 例えば、3の「苦いエンディング」パターンでは、キャラクターの死などによる寂寥感を調味料として物語を締めるわけだが、そこに至る経緯がなければ上手くいかない。
 先に例として挙げた『ガッチャマン』の場合、ジョーの体調不良という伏線が最終クール半ばで語られており、ラストへ向かう物語の牽引力の1つとなっている。
 事実、ラスト7話くらいは、ジョーは主に体調不良が原因で、ほかの4人と別行動しているのだ。
 こういった演出は、事前にどうやって終わらせるかということを考えていなければ組み立てられない。
 『ガッチャマン』は、さすがに昭和40年代後半の作品だけに、連続性より1話完結型の部分の方が強く、設定の説明が多少バタバタしている感は否めないが、それでも最終クールの方針として、病魔に蝕まれるジョーの体と、それを押し隠してギャラクターとの戦いを続けようとする執念をメインにしていこうという意識ははっきりとしていたように見受けられる。
 全105話中の103話では、ジョーの不調の原因が脳に残る弾丸の破片であること、あと10日ほどの命であることが語られ、正体がバレた(102話)ために闇討ちされたジョーは、その際に知ったギャラクターの本部に単身乗り込み、ブレスレットを破壊されて変身すら不可能になっても戦い続ける。
 だからこそ、ジョーが放った羽手裏剣が最後に地球を救うというラストが映える。

 
 だが、どんな作品もそうやって終わり方を考えながらストーリーを進めていけるとは限らない。
 例えば、特撮ヒーロー物は1年というスパンで企画が立てられる。
 当然、スタートの段階で大まかな年間の流れは練られているが、最終回までの流れが全て決まっているわけではない。
 まして、放送していく中で、商品展開やらキャラの人気の移行などを加味しながら少しずつ路線を修正していくことになる。
 以前『クウガのお部屋』『スーパー戦隊の秘密基地』にも書いたとおり、『クウガ』後半の展開は商品展開との絡みで狂っていったものだろうし、『超新星フラッシュマン』での路線変更や『時空戦士スピルバン』でのヘルバイラの退場とヘレンレディの登場も、スポンサーサイドからのストーリー変更の依頼によるものだ。
 また、商品の売上如何によっては『超人機メタルダー』のように打ち切りの憂き目に遭うこともある。
 こうなると、当初の予定を大幅に変更せざるを得なくなり、細かい演出を積み上げていく時間的余裕などどこにもない。

 悲惨な例として、『忍者キャプター』と、先に挙げた『レイズナー』がある。
 『キャプター』では、ある話を撮影している最中に、突然「今回で終了ね」と言われ、ちょうど敵の首領:暗闇忍堂がキャプターの本部に乗り込んでくるという展開だったのをいいことに、本来忍堂が小競り合いの末逃げていくというラストを変更して、忍堂を倒してしまった。
 また、『レイズナー』第2部では、敵将ル・カインと主人公エイジの戦いが一番盛り上がる37話『エイジ対ル・カイン』の制作中に、オモチャの売れ行き不振から、突然次週制作分で打ち切られることとなり、制作の都合上、やむを得ず38話『歪む宇宙』だけで無理矢理決着を着けることになった。
 このため、38話ではいきなり両軍揃っての大決戦になってしまい、冒頭で簡単に状況説明がされたものの、ザカールの背後でボロボロになって倒れているレイズナーがどうやって脱出したかなど全く描かれていなかった。
 もっと悲惨な例が、やはり先に挙げた『バルディオス』だ。
 打ち切られた細かい事情はよく知らない(スポンサー関係という噂)が、全39話予定の物語が31回で打ち切られており、制作自体が34話『地球の長い午後』までで終了している。
 しかもこれには、本放送当時、完成していた31話『失われた惑星』を飛ばして32話『破滅への序曲(前編)』を最終回として放送したという経緯があるのだ。
 そして、証拠がないので断言できないのだが、どうも“敢えて洪水のシーンで終わらせた”という意図が感じられる。
 カットされた31話では、S-1星が太陽系の第1惑星であることがマリンの口から語られ、しかもその回の戦いで水星と金星が破壊される(地球が太陽系第1惑星になる)という大事件が起きている。
 そして、放映されなかった33話『破滅への序曲(後編)』では、洪水が治まった後、海面上昇により、地球がS-1星そっくりの地形に変貌したことが描かれている。
 それらを考え併せれば、30、31話を飛ばして32、33話を放送すれば、あのあまりにも中途半端なぶったぎりエンドは避けられたのではないかと思えるのだ。
 それをしなかったことからすると、どうも“地球=S-1星”というニュアンスを登場させないことで、せめて妙な謎を残さないエンディングになるようにしたのではないかと思えてならない。
 つまり、30、31話で終われば、中途半端に“地球=S-1星”の匂いが残るし、32、33話で終われば、モロに“地球=S-1星”という部分が提示されてしまう。
 だから、30、32話と放送し、洪水開始で終わることによって打開しようとしたのではないだろうか。
 いずれにしても、打ち切りさえなければ、ロボットアニメ史上稀にみる“よく練られた救いのない物語”になっていたことだろう。
 この際、1つ1つの話の演出は結構下手で繋がり方が悪いという欠点には目をつぶっておく。
 惜しいことをしたもんだ。

 
 また、逆に視聴率が良くて、オモチャの売れ行きも良くて、延長が決まってしまう番組もある。
 そうなると、当初予定されていたエンディングは、続編を作りうる終わり方に修正しなければならない。
 3の「苦い終了」のように、メインキャラクターが死んだりしては続きが作れないからだ。
 そういった影響を受けたであろうアニメが『美少女戦士セーラームーン』だ。
 ラストでは、敵首領クインベリルの元を目指すセーラー戦士達が、セーラームーンを先に進ませるために、1人また1人と立ちはだかる敵を食い止めつつ散っていく。
 こうして1人生き残ってクインベリルと対峙したセーラームーンは、切り札である銀水晶の力を使って命を燃やし尽くす。
 …ここまでは「苦い終了」パターンなのだが、如何せん、番組は大好評につき続編が決定している。
 そこで、何もなかったことにするというとんでもないことをやっているのだ。
 もちろん本当に何もなかったことにしたのではなく、時間を事件が始まる前に巻き戻し、死んだ仲間達を生き返らせ、全員の記憶を消すという大技だ。
 結局、続く『セーラームーンR』初期で全員の記憶が戻ってしまったわけだが、“中学2年生”という、受験に本格的に悩まされる直前の期間は何者にも代え難かったらしい。
 もっとも、更なる続編制作の結果、彼女らは高校生になっても戦い続ける羽目になってしまったのだが。
 鷹羽は、うさぎが高校に合格したのが未だに信じられない。
 
 こうして『セーラームーン』は、“感動的に散ったはずの仲間がすぐに生き返る”というすさまじいことをやってのけたわけだが、彼女らが本当に感動的に散ったかという点も若干疑わしい。
 いつもいつも5人がかりで戦っているくせに、今回に限ってバラバラに戦う理由に乏しいというのがその理由の1つだ。
 “仲間を先に行かせるために1人残る”というパターンは、かの『南総里見八犬伝』から続く由緒正しいストーリー展開であり、大変燃えるのだが、何しろ「戦力集中による各個撃破」という戦術の基本概念を無視した不合理な戦い方だけに、見せ方にコツがいる。
 どうして残るのか、誰が残るのかという部分に説得力がなくては、残って死んだ奴がバカみたいだ。
 車田正美作品には、実に多くこのパターンが使われているが、キャラ同士の因縁を使ったり、同種類の戦い方、正反対の戦い方をぶつけることで、“キャラの意地によるタイマン勝負”を前面に出すことが多い。
 例えば、『リングにかけろ』では、“先に進ませるために”というのと若干趣を変えているが、ボクシングでの勝負にすることで、1対1という構図に疑問を抱かせない。
 特にギリシア12神戦では、敵が10人(その前に2人倒している)に対して味方側が9人という勝ち抜き戦方式で、誰かが2人倒さなければならないという、変形の“仲間を先に進ませるために自分が身体を張る”展開に無理なく持っていった。
 最低限、敵と相討ちにならなければ、仲間の負担が増えるからだ。
 結果、仲間達は次々と相討ちになっていき、結局大将である主人公竜児が、ポセイドン、ゼウス(という名前の人間)という2大強敵と連戦することになった。
 また、『聖闘士星矢』黄金聖闘士編を見ると、12宮のうち実際に戦いがあった9つの宮全てで、星矢とアルデバラン(スピード対不動)、紫龍とデスマスク(五老峰での因縁)、星矢とアイオリア(修業時代からの顔見知り)、一輝とシャカ(読切短編で破れた因縁)、氷河とカミュ(弟子と師匠)×2、氷河とミロ(カミュに弟子を倒す辛さを味わせたくない)、紫龍とシュラ(無敵の盾対何でも切り裂く手刀)、瞬とアフロディーテ(師匠の仇)という具合に、因縁の対決が目白押しになっている。
 確かに不合理極まりないが、こういった「こいつだけは俺にやらせてくれ」的な因縁と、“聖闘士に1対多の戦いはない”という原則のお陰で、汗臭くはなっても嘘臭くはならずに済んでいるのだ。

 こういう具合に、演出や脚本による説得力で裏打ちしていかないと、「どうしてわざわざ死ぬかなぁ?」というシラケムードが出てしまう。
 少々筋は違うが、『超時空要塞マクロス』でのフォッカー少佐の最期にもこういうシラケ感がつきまとう。
 この話は、恋人クローディアの新作料理:パインサラダを食べに行くと約束したフォッカーが、「パインサラダ、楽しみにしてる」と言って出撃し、傷を受けて帰艦した後、それを押し隠して彼女の部屋に行き、彼女が出来上がったサラダを運んでくると息を引き取っている、という展開になっている。
 だが、フォッカーは、待っている間にギターを弾くなどかなり元気そうにしており、すぐに治療を受ければ助かったのではないかという疑問を抱かずにはいられない。
 この場合、“どうせ手当してももう助からない”という描写が必要なのにそれが感じられないから、“サラダを食べに行ったせいで死んでしまったマヌケ”にしか感じられない。
 オマケに、これで「美味い」とか言って死んでくれたらまだしも、肝心のサラダは結局一口も食べていない
 このエピソードが好きな人には悪いが、これで感動しろと言われても鷹羽には無理だ。
 『セーラームーン』ラストのセーラーマーキュリー達の最期が感動できない理由は、そういった“身体を張って敵を引きつける必然性”に乏しいことと、それぞれの死に方がワンパターンであるために飽きてしまうことの相乗効果だろう。
 安易にキャラクターを殺して感動を呼ぼうと思っても、上手くいくとは限らないのだ。
 そこで、きちんとした終わり方というものについてちょっと考えてみよう。
 
 基本的に、エンドマークが出れば物語は無理矢理にでも終わる。
 だが、視聴者が「ぶった切られた」と感じるようでは、やはり「きちんと終わった」とは言えまい。
 視聴者が「事件が終わった」と認識するためには、そこで起きている事件に、ある程度以上の決着が付いていることが必要だ。
 この場合、上で挙げた8つのエンドパターンのうち、4「戦いが続く」、5「火種は消えていない」、6「突撃」、8「全滅」の4つ以外は、決着を付けることがエンディング条件になるので問題はない。
 これら4つでは、完全に決着が付かない理由が、余韻を持たせるためにわざとやっているのか、単に決着が付けられなかっただけなのかの判断が難しい。

 では、どうやって終わればきちんとした終わり方と呼べるだろうか。

 先程例に挙げた『キャプター』の場合、急いで終わったという感は拭えないが、それでも中途半端という気はしない。
 それは、暗闇忍堂という“最後の敵”がちゃんと死んでいるからだ。

 また、『レイズナー』第1部では、一応『グラドスとの戦いを終えるには、グレスコに詰め寄り、創世の秘密を盾に帰ってもらうしかない』という解決策の提示が行われており、「どうして地球人と異星人の間に子供ができたのか」「どうしてレイズナーはピンチになると強くなって勝手に戦うのか」「なぜエイジの父はエイジを地球に派遣したのか」といった疑問全てに答えている。
 また、ラスト近くでは、エイジが通信でグレスコに交渉を持ちかけるが、近くに部下がいたためにグレスコが通信を切ってしまうという展開もあるので、交渉を成功させるには、グレスコの頭に銃を突き付けるくらいしないとダメだろうという状況を作っている。
 だから、レイズナーが敵艦隊に突っ込んでも、特攻ではなく旗艦にいるグレスコに肉薄するためだと理解できるわけだ。
 
 ジャンプマンガで例を挙げると、先に挙げた『リングにかけろ』は、最も綺麗に終わった作品の1つだ。
 この作品は、作者の強い要望により、ある程度の準備期間を置いてラストへと持っていっており、この時期のジャンプ作品の中では珍しく、打ち切られていない作品で、当然、あるべき姿で終わることができた。
 「あるべき姿」とは、小学生時代からのライバル関係である竜児と剣崎が、プロボクシングの世界タイトルマッチで決着をつけるというものだ。
 元来が、プロの世界チャンプを目指して上京した竜児の物語であり、剣崎は最初のライバルなのだから、正にあるべき姿と言える。


 そして、打ち切られた作品の中にも、ごくたまに成功例がある。
 『銀牙 〜流れ星銀〜』がそれだ。

 アニメ化されているから知っている人も多いだろうが、この作品は、奥羽の猟師・竹田のじっ様の元で猟犬として育てられた主人公:銀が、父の仇である巨大熊:赤カブトと戦う野犬の一団(その頭領は、実は生きていた記憶喪失の父)に加わり、仲間を増やしていくという物語だ。
 当初は猟師対熊の物語だったのだが、作者の作風のせいか徐々に人間は登場しなくなり、犬軍団対熊軍団の物語になってしまったという経緯がある。
 最終的に、記憶を取り戻した父から、絶・天狼抜刀牙という必殺技を教わった銀は赤カブトを倒し、戦いに散った父を継いで頭領になった。
 また奥羽軍団は、銀の元の飼い主であるじっ様の意志によって、正統な山の居住者として認められる。

 普通ならここで終わるところだが、何しろジャンプのこと、人気作はそう簡単に終わらせてはもらえない。
 『銀牙』もご多分に漏れず、奥羽をはじめ全国各地に散っていった仲間達が新たな敵:狼族に襲われるという展開を始める。
 銀が使った絶・天狼抜刀牙は、元々この狼の技であり、同様の抜刀牙が全部で8種類あって、銀の仲間達がそれを会得して狼たちと戦うものだが、このシリーズになった後人気が下降線を辿り始めたため、打ち切られることになったようだ。
 そこで急遽戦いに終止符を打ち、銀達は双子峠に戻り、そこでじっ様と死別という形で物語は終わる。
 これは、既に当初の落としどころである赤カブトとの決着が終わってしまったため、新たな落としどころとして、“老猟師と猟犬の物語”という原点に返ったものと思われる。

 この戦いは、8つの抜刀牙同士の対決という形式なのにもかかわらず4戦目で中断させられており、急遽終わらせたと感じさせはするものの最後の敵・皇帝ガイアを登場・対決させることで一応決着を着けていて、文句を付ける必要はない程度のデキだ。
 これらは、本来どういう物語であったかという部分を大事にした結果だろう。

 
 逆に、打ち切られたためにダメになってしまった作品も星の数ほどあるわけだが、『魔神竜バリオン』(作:黒岩よしひろ)もその1つだと思う。
 この作品は、父の開発したバリアブル重合金という特殊合金で作られ、水をエネルギー源とするバリオンノヴァシステムで稼働する巨大ロボ:バリオンを、主人公:志羽竜樹(しば・りゅうじゅ)が操り、バリオンノヴァシステムを狙って父を殺したという悪の組織:ハロウィーンと戦う物語だ。
 この組織には、東西南北の名を持つ4人の上級幹部と惑星の名を持つ9人の下位幹部といった序列があり、当初の敵は東西南北の1人「西風のゼピュロス」という男だ。
 この男は、自分と同じ名を持つ巨大ロボ「西風のゼピュロス」を愛機とし、主人公のライバルとして今後のレギュラーになると見込まれるキャラだった。
 バリオンの量産型のような巨大ロボが数体味方に加わり、主人公のライバルキャラ的な味方も登場したが、人気が出ないまま打ち切りが決まり、結局、バリオンはゼピュロスに勝利した後、トドメを刺さずに、ほかの敵に苦戦する仲間を救うために飛び立ち、「待ってろ、今、俺と魔神竜が行く!」で終わる。
 体裁としては、当面のライバルを倒し、仲間を救うために飛び立って終了という4「戦いが続く」と6「突撃」の複合パターンだが、いかんせん、敵組織が大きそうな割には、結局あと3人いる敵の上位幹部達は姿も見せず、9人の下位幹部さえも2人しか登場しない。
 しかも、本来は、宿命のライバルになるはずだったであろうゼピュロスは、爆発しそうな機体からバリオンに救出されるという形になっている上、メカとして考えれば、自分の名前と同じロボットが負けている以上、再戦しても勝機がありそうな気がしない。
 これには、物語冒頭に最強のライバルを登場させた上、毎回主人公にピンチを迎えさせたがるという作者自身の作劇の癖による問題も大きいが、やはり打ち切られたことによる影響が重くのしかかっている。
 本来なら、ゼピュロスがバリオンを中破させて一旦引いた後、修理を終え、仲間を増やしたバリオンにほかの幹部が襲いかかっていくといった展開を狙っていたものと思うが、打ち切られたために、まずゼピュロスとの決着を優先させてしまったのだろう。
 この『バリオン』がいかにも「打ち切られた」と感じられる原因は
  敵幹部の数を13人と明示しておきながら、そのほとんどが姿を見せることなく終わってしまったこと
  せっかく登場した仲間が、バリオンの修理こそしたものの、後は足手まといでしかなかったこと
  宿命のライバルのようなゼピュロスが、リターンマッチであっさり負けてしまったこと
などが挙げられる。

 これらによって、広げた風呂敷の畳みようがなかったことが露呈してしまっている。
 同じ打ち切られるにしても、例えば最終決戦で、下位幹部数名がかりの猛攻をバリオンチームが迎え撃ち、それをモニターで見守る上位幹部達が次に誰が戦うかを話し合っている姿を見せるなどすれば、敵組織の大きさにはそれなりの言い訳ができるし、双方の戦力といったものが見えてくる。
 いずれにしてもバタバタした感は否めないだろうが、もうちょっとましになったと思う。

 
 決着を完全に着けないラストを迎える場合、それまでに広げた風呂敷をきちんと畳めているか否かが、「きちんと終わった」と感じる説得力に直結するようだ。
 つまり
  1 これまでに張った伏線の収拾
  2 散りばめた謎の解明
  3 ラストに至るキャラクター達の心情の流れ

などがきちんと描かれることが必要なのだ。
 
 例えば『おジャ魔女どれみ どっか〜ん!』では、前作『も〜っと! おジャ魔女どれみ』の流れを受け継いでの、先々代の女王の呪いを消すこと、それと水晶玉が割れてしまったハナをおジャ魔女から魔女にすることを年間通してのテーマとしている。

 今作では、先々代の女王を取り囲む6本の茨が主軸となり、
  6人の孫との楽しかった思い出の品を再現することで、茨を消すことができる
  茨は徐々に太くなり、周囲のものを眠らせていくため、時間が経つほど被害が広範囲に広がる

という状況を与えて、時間的制限とその間に果たすべき目標を明確にしている。

 この6本という数字は、1年というスパンの中で“2か月に1回、思い出の品のエピソードをやれば、ほかはどんな話にしてもいい”という免罪符の効果を持つと同時に、定期的に縦糸の話が進むという安全装置にもなっている。
 同時に、半分を終えた時点で、茨の先に咲いた黒い花から、魔女界の住人を無気力にする不思議な煙を吐き出すという事件が起きている。
 この花の正体は、まだ誰も知らないわけで、今後解き明かされるべき謎として、求心力の1つとなるだろう。
 また、一方で、魔女界に平和をもたらすという白い象:パオが出現し、ハナと協力することで、煙に冒された被害者を元に戻すことができる。
 こちらも先々代の女王に絡むものだろうから、サブテーマとしてやはり時折活躍するはずであり、オモチャのネタとしてのパオとアコーディオンをストーリーのサブに据えることで、これもまた定期的に活躍することが見込まれる。
 これについては、シリーズ中盤でのパワーアップアイテムとして、新しい魔法道具を出せない(水晶玉を削ることで女王が弱っているため)ことを巧く避けている。

 また、ハナの昇級試験については、ストーリーのメインから外し、飛び級飛び級で回数を減らしているが、これは、“本来次期女王候補であるほどの存在”であるハナが、素質において普通の人間であるどれみ達に劣るわけがないという部分を見せつつ、ほかの話に力を注げるようにあまりしょっちゅう試験話をやらずにすむという二重の意味を持っているのだ。
 まったく、スタッフの努力とアイデアには瞠目させられる。
 
 この『どっか〜ん!』の場合、1「伏線」は、6本の茨と、先々代の女王の目覚めによる魔女ガエルの呪いの消滅、ハナ達のために水晶玉を削ったことで弱っていく今の女王、ハナの進級であり、2「謎」は、無気力にする煙とパオの謎、3「心情」は、卒業後にハナをどうするかといった別れの物語や、魔女ガエルから元に戻れるであろうマジョリカとの関係、先生達との別れなどだ。
 これらのうち、茨を6本ともなくしても何も起きないとか、そもそも6本消さないまま終わって次に続かないとか、パオが本当に伝説の白い象かどうかやパオと煙との関係などが全く明かされないとか、マジョリカが元に戻っても誰も喜ばないとかしたら、やはり文句が出るだろう。
 「綺麗に終わる」ためには、これらがクリアされなければならないわけだ。
 
 ちなみに、今回のメインテーマである先々代の女王の悲しみについては、実は突き詰めていくと非常に奥が深い。
 というのは、楽しかったころの思い出をいくら積み重ねてみても、その孫達が、やがて年をとらない彼女を「化け物」呼ばわりして去っていった事実は動かないからだ。
 素直で可愛かった孫達が、やがて大人になって自分を忌み嫌っていったという事実は、楽しかった時代をどんなに振り返ったとしても消せないわけで、茨が消えただけで全てが解決するとは思えないのがこの問題の面倒なところであり、魔女と人間が共存できるかという非常に重要な番組からの問いかけなのだ。
 その本質を見ずに安易にハッピーエンドにすれば、鷹羽としては少々がっかりすることになる。
 もし、この点を、例の煙なり、第3者の悪意なりをもって解決したなら、鷹羽のこのシリーズに対する評価はますます高くなることだろう。
 そうなることを期待してやまない。

 
 さて、話を『龍騎』に戻そう。
 この3つのチェックポイントを『龍騎』に当てはめると、1「伏線」は恵里の容態や北岡の病状、北岡と令子の恋の行方などであり、2「謎」は、言うまでもなくミラーワールドとモンスターの存在そのもの、そしてそれにまつわる士郎の狙いや優衣との関わり、ライダー同士の戦いの末に何があるか、などだ。
 そして、3「心情」は、真司と蓮の友情やこれまでに死んでいった手塚達に対する真司の想い、ほかのライダー達の戦ってきた理由への決着だ。
 これら全てに決着を着けないまま終われば、残るのは余韻ではなく、不満と疑問と怒りだろう。
 ちょうど昨年の『アギト』で、多くの謎が積み残されたままだったために不評を買いまくったように。
 
 そこで『EPISDE FINAL』を見てみると、については取りあえず収拾をつけている。
 蓮は恵里を助けるために真司に戦いを挑むし、北岡は残された命を令子との恋に費やすことにし、令子が「気が向いたらね」と言ったことで、一応の決着は着いた。
 “浅倉と美穂の因縁”や“真司の影であるリュウガ”という、劇場版での新たなエピソードにも決着は付いたわけだし、この点では問題ないだろう。
 3「心情」についても、真司に戦いを申し込む蓮、その前にモンスターをなんとかしようとする真司、「士郎が最後のライダーの命を自分に与えるつもりではないか」と考えて自ら命を絶った優衣、といった具合に、それなりに筋が通っている。
 だが、2「謎」については、ミラーワールドがどういうものだったのか、士郎は何を考えてライダー同士の戦いを仕組んだのか、鏡の向こうの優衣は何者なのか、モンスターはなぜ出現したのか、どうしてここ1年くらいで人を襲うようになったのかといった“説明してくれないと納得できない”ネタが多すぎる。
 また、リュウガがちゃんと13人に入るなら、士郎がスカウトしたのでなければならないわけだし、どういう経緯なのかという説明が必要だ。
 この点については、“13人に含まない”という選択肢もありだが、その場合、士郎が言っていた「もうすぐ姿を現す最後の1人」が誰だったのかが語られていないことになり、やはり片手落ちだ。
 
 この辺の事情は、そのままテレビ本編の最終回にも言えることになる。
 『EPISDE FINAL』が小林脚本でなく井上脚本であるといった事情などから考えると、恐らくテレビ本編はそれとは違った展開・謎解きになるだろうが、いずれにしても、「謎解きなら『EPISDE FINAL』でやりました」という言い訳は通用しない。
 視聴者の誰もが劇場版を見ているわけではないから、テレビだけ見ていても分かるような作りにする必要があるわけだし、何より劇場版の設定にはテレビのそれと抵触する部分が多いから、合わせ技で一本というわけにもいかないのだ。
 それに、劇場版なら13人揃わなくてもいいけれど、テレビ本編でライダーが13人揃わなかったら看板に偽りありだ。
 もし、「テレビ版最終回の後に『EPISDE FINAL』が続くんです」というなら、確かに13人という問題はクリアできるが、逆にあんな状況の前で止まってしまう最終回など、「綺麗に」も何も、全く終わっていないことになるから論外だ。
 
 なお、先日のスペシャルでは、ベルデが登場して死亡しているが、あれは明らかに番外編だったわけだから、本編にあのままのベルデが登場するという保証はどこにもない。
 高見沢を演じた黒田アーサーのギャラ・スケジュールなどを考えても、全く違う設定になって登場する可能性の方が高いくらいだ。
 同様に、リュウガとファムがどういう登場の仕方をするかという部分も、上記の問題もあるから注目せざるを得ないし、最悪の場合、別人が登場という可能性だって残っている。
 
 どうしてデッキの数が13なのか、最強クラスの実力者であるオーディンが直接ほかの全員を殺して歩かず、戦いたがらない手塚や真司にサバイブカードを渡してまで殺し合わせようとするのはどうしてかなどなど、ライダーに関することだけでも解き明かさねばならない謎は数多い。
 これらは、商品展開上の都合や作劇上の都合というだけの理由では、筋が通るかどうかはともかく説得力に欠ける。
 前述の『どっか〜ん!』のように、商品展開上の都合を上手に物語の流れに沿わせて消化してこそ、説得力のある話運びになるのだ。

 
 ともかく最低でも、メインである3人のライダー(真司、蓮、北岡)には1人1人にラストシーンを与えてやらねばならないわけだし、優衣や士郎もそうだ。
 そして、ミラーワールドの存在理由なども含めての「謎解き」があってはじめて、『龍騎』という番組は「綺麗に終わる」ことができる。
 鷹羽は、そう考えている。

→戻る