10.ルールなき戦い


 『龍騎』の演出上の大きな欠点として、“ミラーワールドの演出が統一されていない”ということが挙げられる。

 画面上から得られる情報から見る限り、ミラーワールドの基本的な設定は、  
鏡、金属壁等反射物を通して行き来できる左右逆の異世界
そこには人を食うモンスターが住み、時折モンスターは現実世界に現れて人を襲う
モンスター以外の動物は存在しない
ミラーワールドへ行き、かつ現実に戻ってこられるのはライダーだけ
そのライダーもミラーワールドに長時間居続けることはできない
というものだ。

 だが、実はミラーワールドというのは、元々非常に描写しにくい世界だったりするのだ。
 その例を少々挙げてみると、
ミラーワールドで破壊された物が、ある時は現実世界でも破壊され、ある時は破壊されない
水面のような水平に存在する反射物も出入口になるが、上下は逆転しない
人間はいないのに、乗り物はちゃんと移動する
と、ちょっと考えただけでも結構妙な世界なのだ。
 もっとも、ぶっちゃけた話ミラーワールドは子供の考えた世界が具現化した物なのだから、その辺の整合性は取れていなくてもいいのだが。

 ただ、最終的にはそういうことで決着がついたものの、当初からそれが考えられていたかというと疑問があるので、結局のところ撮影作業や脚本上の都合で色々辻褄の合わない世界になったものと思われる。

 一応説明しておこう。
 ミラーワールドは、反射面に対して面対称な異世界という扱いになっている。
 つまり、現実世界にある反射物に応じてミラーワールドにも反射物があり、その向こうにいるモンスターなどが見えているわけだ。
 よくあるドリフのコントでの“鏡があるつもりで、こちらとあちらで同じ動きをする”というのを思い出してもらうと分かりやすいかもしれない。
 現実世界にある部屋と面対称な部屋がミラーワールドにあって、ライダーとモンスターの戦いは、向こう側の部屋で行われているというわけだ。
 この場合、反射物は2つの部屋の間にある枠のような存在であり、その枠から相手側の世界が見えているようなものだ。
 ただ、それを“枠”として出入りできるのは、ライダーやモンスターだけというわけだ。

 大抵の反射物というのは地面に対して垂直に存在するので、この考え方で説明が付くのだが、実際には地面に対して水平な反射物も存在する。
 30話『ゾルダの恋人』での北岡がやったボート上での変身のくだりがそれだ。
 このとき、北岡は水面に映ったシールドボーダーを見付け、その水面で変身するということをしている。
 普通、水面に映る自分を見ればボートの縁も一緒に映っていることになるが、水面が反射物である以上、モンスターも当然同じようにしているわけだ。
 この場合、水面に映っていたシールドボーダーは、北岡達と同じようにミラーワールドにある無人のボートの上から水面をのぞき込んでいることになる。
 つまり、水面という下をのぞき込むことでボートの上を見るという一種逆説的な行動をすることになるのだ。
 当然、水面に飛び込んだゾルダは、水飛沫など上げることなくミラーワールドのボート上に飛び乗ることになる。
 つまり、『少女と王蛇』で海面に飛び込んで逃げたバズスティンガー達は、実は現実世界の空に飛び出て、そのまま飛んで暫く逃げていったのだ。

 もっと妙なことがある。
 よく、止まっている車の車体や窓を利用して変身しているシーンがあるが、その車は誰かが乗ってきて駐車したものだ。
 ということは、現実世界の車が移動すると、ミラーワールドでも無人の車がいつの間にか移動しているということになる。
 まぁ、現実世界に準拠した世界なのだから、ミラーワールドにある鏡像の方も、現実世界での車の動きに連動して勝手に動くのかもしれないが、ミラーワールドで車が壊れても現実世界にあるその車は無傷だから、当然誰かが乗って動かすことができる。
 では、その車が現実世界で移動を開始したとき、壊れた車は自己修復しつつ移動するのだろうか。

 また44話『ガラスの幸福』では、走っている車の窓からギガゼールが佐野(もしくは百合絵)に槍を突きだしてくるというシーンがある。
 一見問題がないように感じるかもしれないが、ミラーワールド側から見ると、とても妙なことになっているのが分かる。
 あのとき、現実世界とミラーワールドの接点は、動いている車の窓だけだった。
 なんと、ギガゼールは走っている車に併走しながら、窓の向こうに一瞬見えた佐野に槍を突きだして襲い掛かっている、もしくは佐野がいそうなところにいて、通りがかる車を待っていたということになる。
 佐野が見えるまで車の隣を併走するギガゼール、車が通るのをじっと待っているギガゼール、どっちにしても笑える光景だ。

 同じく『ガラスの幸福』のラストでは、現実に帰れなくなった佐野が、自分で割った鏡を手に百合絵の姿を探すシーンがある。
 ところがこれもよく考えてみればおかしな話で、鏡を通してしか現実世界を見られないのだから、佐野が割った鏡に対応する鏡が現実世界になければ現実世界を見ることはできないはずなのだ
 そうでなければ、1話で榊原の部屋に施されていた“反射物を物で覆うことでミラーワールドからの攻撃を避ける”という方法が無意味になる。
 ミラーワールド内で反射物を移動して現実世界を見ることができるなら、 そのまま現実世界に来ることだってできるだろう。
 見えるけれど通り抜けられないというのは、ちょっと理屈が成り立つまい。
 となると、現実世界の百合絵の脇には、勝手に宙に浮いている鏡の破片がフラフラしていたということにならなければならない。
 それも、ミラーワールドで割れた鏡に対応して勝手に割れた鏡の破片なのだ。

 こう考えてみると、白倉プロデューサーが番組開始早々に「ミラーワールドは何でもありの世界です」という発言をした意味がよく分かる。
 細かいことを考えていたら、作劇そのものに支障を来すのだ。
 そして、最終的に一種の精神世界ということで結論が出たわけだから、それこそ“何でもあり”な世界でいいということになる。

 まぁ、こういったことは置いておくとして、左右逆の世界であるミラーワールドを表現するため、『龍騎』では、逆版撮影されている。
 これは先にも述べたとおり、左右反対に作られた衣装、つまり龍騎なら右手にバイザーが付いている衣装を着て左手でカードを抜き、同じく左手に剣を持って戦う姿を撮影し、それを左右逆に放送するという手法だ。
 当然、アクターが左利きでない限り、利き手と逆の手でカードを抜いたりバイザーに装填したりすることになるし、剣殺陣も左手中心にしなければならない。
 王蛇の場合、どういうわけかアクターの岡元氏がベノサーベルを右手に持ったまま撮影しているため、浅倉は右利きなのに王蛇は左利きという妙な事態になってしまった。
 この点は、ゾルダのマグナバイザーとは好対照だ。
 分かりやすくするために、画面上で見える向きで書くと、マグナバイザーはカードの装填口が銃の左側に付いている。
 ゾルダは右手にバイザーを持ったまま、左手でデッキの右側からカードを抜かねばならず、最初の頃かなり苦労していた。
 実は、マグナバイザーを左手に持てれば、カードの装填口は銃の右側になり、右手でカードを引き抜いてそのまま装填できるのだ。
 では、どうしてそうしなかったのかというと、マグナバイザーが商品化を前提とした銃だからだろう。
 銃のオモチャというのは右手で撃つのが前提だから、子供が右手に持って遊べるように作らなければならない。
 だからああいう使いにくいものにせざるを得ないのだが、ベノサーベルはその点気にしなくてよかったから、利き手を入れ替えるなどということが許されたのだろう。
 ドラグバイザーツバイの場合、元のドラグバイザーが左手装着だった関係で左手に持たざるを得なかったのだが、その分装填位置を変更して右手で装填しやすいように工夫されている。
 それでも装填口が左側にあるのは、子供が右手でバイザーを持っても大丈夫なようにとの配慮だろう。

 また、衣装は左右反転させたものを使うわけだが、問題なのは人間の服だったりする。
 人間の服は男なら左前、女なら右前に合わせるようにできているが、逆版撮影の場合は左右が反転してしまうため、スペシャルでの真司の服のように男なのに右前という妙なことになる。
 もちろん、よく見ると髪の毛の分け方も反転しているのだ。
 モンスターが人間を連れ去った後、すぐに追い掛けたはずのライダーが、ミラーワールド内で連れ去られた人間を見ることがないのは、そういった事情も大きく関与していると思われる。
 ミラーワールドで人間を撮影するのは大変なのだ。

 ちなみに、逆版撮影は、アクターや衣装よりも、演出やカメラワークの方が遙かに大変だったらしい。
 逆版撮影ということは、つまり実際の画面の裏返しで撮影しなければならないということであり、頭の中に実際の画面を思い描きながら構図を作らなければならない。
 同時に、現実世界にいるときとミラーワールドに移った後ではそれぞれの位置関係も変わってくるということであり、場合によっては視聴者が展開に付いてこられないということにもなりかねないのだ。

 端的な例を挙げよう。
 43話『英雄は戦う』での王蛇とタイガの戦いは、全編通しても上位に位置する燃える戦いだったと思う。
 地下通路にある2つのカーブミラーの前に浅倉と東條が立ち、それぞれ相手に向けて付き出したデッキをミラーに向け、同時に変身する。
 次のシーンでは、既にミラーワールドに入った王蛇とタイガが対峙しており、そこから戦いが始まる。
 だが、このシーンでは、ミラーワールドでの王蛇とタイガの位置関係が間違っているのだ。
 このシーンの構図は、画面中央に2つのカーブミラーがあり、向かって左のミラーの前に浅倉が、右のミラーの前に東條が立っているというものだ。
 そして、ミラーワールドに入った後も、向かって左に王蛇が、右にタイガがいる。
 これがおかしい。
 ミラーワールドに入った後は、当然左右が逆転し、向かって左にタイガ、右に王蛇でなければならない。
 あまりにも初歩的なミスだが、これは恐らくわざとだろう。
 理由は後述する。

 実は、『ガラスの幸福』のラストの佐野が蒸散するシーンでは、もっとおかしなことが起きている。
 この一連のシーンで、佐野は土手に落ちていた姿見を見て、橋の上に百合絵が立っていることに気付き、鏡を割って破片を手に橋の上まで行き、彼女のいる世界に戻りたいと願いながら蒸散していく。
 非常に印象的なシーンであり、多くの人の感動を呼んだシーンなのだが、ちょっと考えてほしい。
 どう考えても位置関係がおかしいのだ。

 再三言ってきたとおり、ミラーワールドと現実世界とは、反射物を窓に見立てて互いの世界を見るという関係だ。
 この場合、佐野はミラーワールドにいるのだから、鏡の中に見える百合絵の姿こそが現実世界での百合絵の見え方だ。

 分かりやすいように、この時の位置関係を図にしてみたので、それを見ながら考えてみよう。
クリックで拡大図が出ます。
 まず、現実世界では、この橋は中央辺りの欄干が凸状になっており、百合絵はこの凸より左側の地点におり、この橋を渡りきった向こう側には林が見えている。
 この時、佐野はミラーワールドにいるわけだから、当然左右逆になった橋のたもとにいることになる。
 この図で言えば、の地点に立って、図の右側を向いたβの視線でなければ百合絵は見えない。

 ところが、画面上では、佐野が橋のたもとに来た時、橋の向こうにも林が見えているのだ。
 つまり、画面上では佐野はB'の地点に立っていて、しかも図の左側を向いていることになる。
 そうすると、視線は当然αということになるが、そうなると、佐野が見る百合絵はA'の位置にいることになる。

 困ったことに、画面上で佐野が持っている鏡の中では、百合絵の向こう側に凸があるのだ。
 となると、このシーンでは佐野が現実世界にいて、百合絵の方がミラーワールドにいることになる
 なあんだ、無事帰ってきたんじゃん。

 ただし、一応弁護しておくと、これは厳密にはミスではない。

 実はこのシーン、よく見ると逆版撮影されていないからだ。
 百合絵の向こうに見える林と、佐野が蒸散するときバックに見えた林は、実は同じ場所だったりする。
 驚いたことに、佐野の蒸散のシーンは、普通に撮影されているのだ。
 その事は、蒸散する際の佐野の歯を見れば分かる。
 彼は上の中央右側の歯が若干出っ歯気味なのだが、このシーンではいつもどおり右側の歯が出っ歯になっている。
 スペシャルでの真司の服を見れば分かるとおり、逆版撮影では人間も左右逆に映ってしまうが、この時の佐野は普通に映っている。
 編集の際に逆版にするのを忘れるなどという、素人臭い失敗ということは考えられない。
 画面を見て分かるとおり、どう考えたって同じ場所を同じ方向から撮影しているのは明らかだ。

 では、どうしてそんなことをしたのかと言うと、視聴者が理解しやすいようにするためだと思われる。
 本来ならば、佐野は鏡の破片を持って橋の右側に立ち、破片という窓を通して、その向こうに広がる現実世界、つまり橋の左側に立つ百合絵を見ることになる。
 “鏡に写る”のではなく、“鏡という窓を通して現実世界が見える”となるのが正しいのだ。
 しかし、そんなことをすると、佐野が見ている鏡の中に現実世界にいる百合絵の姿と同じものが写ることになり、視聴者は混乱してしまう。
 理屈では分かっていても、鏡というのは背後を写す物であり、その向こうに広がる世界を見るための窓だとは感覚的に理解できないから、現実世界の百合絵を左横顔で見せた後で佐野の持つ鏡の中に見える百合絵も左横顔で見せると、違和感を感じてしまうのだ。
 マンガのコマ割りの場合、 連続するコマで登場人物の位置が左右逆になるということは、何らかの効果を狙っている場合以外やってはいけないことだそうだ。
 それと似たような意味合いで、佐野の最後は、敢えて誰もが理解しやすい鏡に写って見える百合絵という図にすることにして、通常の撮影方法にしたのだろう。
 その証拠に、橋のたもとで破片で百合絵を探した佐野は、振り向いて姿なき百合絵を確認している。
 αの視線を鏡で折り返してみるとB'を結ぶ線になるが、それこそ現実世界での鏡の反射そのものであり、この普段見慣れた描写に、ほとんど全ての視聴者がすっかりその気になって佐野の最期に見とれてしまった。
 実際、鷹羽はあのシーンを見て「左右がおかしいのではないか?」という騒ぎは聞いたことがない。
 それくらい、感覚的に納得するということは効果が大きい。
 先に挙げた王蛇対タイガにしても、浅倉・東條と王蛇・タイガの位置関係で視聴者が混乱しないようにわざと逆版にしなかったのだろう。
 この1カットだけ、王蛇が両手でベノサーベルを持っているのもそのせいだと思う。
 

 このように、ミラーワールドの描写には色々と難しい面があり、一概に「ミスだ!」と決めつけることは難しいが、“倒したモンスターのエネルギーを吸収する”というシーンをおざなりにしすぎたことだけはどうやってもフォローできないと思う。
 ある程度定期的に契約モンスターにエネルギーを吸収させなければ契約違反として反逆されるというルールは、『龍騎』を語る上で最も重要なファクターだったはずだ。
 餌をやらなくなった真司がドラグレッダーに襲われたり、腹を空かせたレッツゴー3匹が浅倉に襲い掛かったり、佐野がゼール軍団に睨まれて泣く泣く戦いを続ける羽目になったりと、それをベースにしているからこそ成り立つストーリーが再三描かれていたというのに、肝腎のエネルギー吸収シーンがオミットされた回のなんと多いことか。
 省略したんだろうと思える演出なのではなく、単に描いていないだけとしか考えられないのが何ともいただけない。

 また、反射物のない方向にデッキを向けての変身(それではベルトが出ない)というのも、基本を忘れているとしか思えない。
 これらのルール無視が、主に井上氏が脚本を担当した回だったことは、『龍騎』を語る上で忘れてはならないポイントだろう。
 どちらが良い悪いというよりも、「ちゃんと打ち合わせしていたのか!?」と聞きたくなるようなズレそのものが問題だ。
 また、ライダー同士の戦いに枠はないのに、なぜか中途半端に紳士的な戦いになっていることなど、なあなあな感覚もちょっと理解に苦しむところだった。
 オマケに、他人のデッキで変身可能だというのだから、益々佐野の死がばからしくなる。
 まあ、死んだ人のデッキでないと継承できないとかいうルールがあるのかもしれないが、だったらそれを作中である程度語ってもらわなければ困る。
 ライダーの戦いのルールというものを早いうちから明確に提示しておくべきだったと思う。

 最終回で、マグナギガを倒された吾郎ゾルダがブランクに戻らなかったこと、劇場版でブランクに戻ったはずの王蛇のデッキにベノスネーカーのマークが入っていたことなど、変なところで手抜きだったのもちょっといただけなかった。
 

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