仮面ライダーディケイドあばれ旅 15

後藤夕貴

更新日:2009年10月24日

 「仮面ライダーディケイド」最終エピソードとなる、30・31話。
 過去に巡ってきた平成(リ・イマジネイション)ライダー世界の一部が融合を始め、あまり喜ばしくない「ライダー共存」が成立してしまった世界。
 暗躍する大ショッカーとの決着、崩壊していく世界の救済など、残された課題はあまりにも多かったが、果たしてディケイドとその仲間達はどう立ち振る舞うのか?!

 そして、多くのファンを戦慄させた衝撃のラストは――

 随分間を空けてしまったけど、「仮面ライダーディケイドあばれ旅」各エピソード毎のコラムのラストは、この「ライダー大戦編」について語ろう。

●世界の破壊者

 今回は、特に下地となる世界が存在せず、「これまで巡って来た世界のいくつかが融合した」結果発生した世界……とも取れる表現になっていたが、実際のところはハッキリしていない。
 Aという世界にBの世界とCの世界が融合してDになろうとしている状態なのか、それともB(またはC)の世界にC(またはB)の世界が融合しようとしていて、士はどちらかの世界に来たのか、大変に解釈が難儀だ。
 士の「ライダー大戦の世界か」という発言をそのまま受け止めると前者の例になるが、劇中のワタルやカズマのセリフを拾うと後者としか思えない(この例に当てはめると、BとCはそれぞれキバorブレイドの世界となる)。
 このため、士は新しい世界に来たのか、それとも以前巡ったどれかの世界にもう一度戻ってきたのかも、不明瞭になっている。
 そこに加えて、Eの要素(この場合は響鬼の世界)まで加わってくるものだから、益々わけが解らない。
 トドメとばかりに、今度は平成ライダーオリジナルキャストが、DCD版平成ライダーとは別に登場(しかも変身まで)するものだから、見れば見るほど解釈が難しくなっていく。
 しかも、これらの理由や理屈、概念は一切説明がないまま、本作は終了してしまった。

 このような性質のため、今回はコラムにまとめるのが大変に難しい内容だった。

 テレビ朝日側プロデューサー・梶淳氏(27話まで)の発言によると、「ネガ世界編」以降を便宜上第二部と考えて良いらしいが、今回は12回以上も前の第一部(平成ライダー世界巡り編)の集大成という色合いが強く、第二部からの情報は意外に少なくなっている。
 そのため、「ネガ世界」〜「アマゾンの世界」までを一気にすっ飛ばしたかのような感覚も若干あり、まるで「パーマン」のてんとう虫コミックス版※1を読まされているようだ。

 それはともかく、今回のエピソードは「仮面ライダーディケイドの最終回」という期待を背負っていたこともあり、他エピソードより幾分か厳しい評価に晒されざるを得なかったわけだが、結果としてその期待は裏切られたままで終わってしまった。
 とにかく問題点・疑問点については枚挙に遑がないほどで、やはり平成ライダーシリーズの悪い伝統を引きずってしまった感が強い。
 それでも、出来る限り歩み寄って色々触れていこう。

※1:藤子不二雄作品「パーマン」は、昭和42年から「週刊少年サンデー」他で連載されていた漫画作品で、その16年後に「コロコロコミック」をはじめとする各児童誌で新作として復活した。
どちらも基本的な設定ベースは同じで、世界観も(多少の時事ネタの差異は別として)ほぼ共通しており、劇中では16年という歳月はまったく感じられないようになっている。
てんとう虫コミックス(小学館)では装丁の異なる二種類のコミックスが全7巻発売されたが、これは新作が含まれているためで、過去に発売された「虫コミックス(虫プロ商事)全4巻」「ホームコミックス(汐文社)全3巻」 「藤子不二雄自選集(小学館)全1巻」のいずれより巻数が多い(唯一てんとう虫コミックスを上回るのは、「藤子不二雄ランド(中央公論社) 」の全12巻のみ。2009年9月現在)。
ところがこのてんとう虫コミックスでは、「描き直し? による冒頭部」→「旧作と新作による中間エピソードの混合」→「旧作最終回」という順に編集されており、また当時のコロコロコミックでも同様の展開だった。
これは旧作のリメイクということではなく、旧作最終回が(新作の直後に)そのまま流用されたという意味で、そのため当時の読者は“最終回だけ突然古臭い絵柄とコマ割りに変化する”パーマンを読まされるという、奇妙な感覚にとらわれた。
尚、パーマンの第一話はバリエーションが複数あるため、描き直し? されたものはてんとう虫コミックス版だけではない。

●世界が融合する意味

 複数のライダー世界が融合を始め、それによってどちらかもしくは双方の世界が消滅してしまう。
 大ショッカーは、スーパーアポロガイスト(以下アポロガイストと表記)の力で融合を加速させ、最後に残った世界を征服しようという、直球的発想なのか回りくどいのかよくわからない事を考えている。
 今回は、この「融合の加速」と「融合の原因」を分け、前者をアポロガイスト打倒で、後者はディケイドを排除することで解決しようとした。
 だが結局、DCDブレイド、響鬼、キバの世界は消滅してしまい、それ以外のライダー世界も消滅しかかるという、どないせぇ状態になってしまった。

 随分と大きく広げてしまった風呂敷だが、残念ながらその畳み方はお粗末というレベルでは片付かないものになってしまった。
 特に、割を食わされたディケイドの扱いは悲惨過ぎる。
 しかも、これまでのディケイドのあり方を考慮しつつ、今回の展開を見ていくと、いささか奇妙な点が露見し始める。
 
 どうも本編を見る限り、世界の融合は一度始まると慣性が働いてしまうようで、加速は可能でも制止することは難しいまたは不可能のようだ。
 そして実際、今回劇中で融合を「止めるためにはどうすればいいか」という議論は一切されていない。
 原因とされるディケイドの排除によって得られる効果は、剣崎の言葉そのままなら「誰々の世界が消滅してしまうのを防ぐ」ことに過ぎず、世界全体の融合そのものが停止するとは言ってない。
 そのまま聞いていると、消滅するという選択肢からひとまず外れるだけ、とも取れる。
 劇場版「オールライダー対大ショッカー」では、世界融合の理由は当初「各世界にライダーいるため、引き合ってしまう」という情報が述べられていたが、後にこれは嘘であると判明し、真実はわからずじまいだった。
 
 「仮面ライダーディケイド」第一話では、夏海のいた世界が各ライダー世界と融合を始め、各世界の怪人達が跋扈するという恐ろしい状況になっていたが、この時点ではまだディケイドが融合の原因という見解は述べられておらず、かの鳴滝も「おのれディケイドぉ〜」と、彼を倒したいと願っているだけ(のよう)だった。
 これ以前の、恐らく鳴滝に何か吹き込まれたと思われるDCDライダー達は、「世界の破壊者ディケイド」的な考え方をしており、世界を消すのではなくあくまで「壊す」者とされているような印象だった。
 これは、夏海が鳴滝の言葉を否定し続けることで強調されていたわけだが、「BLACK RX編」の前編では鳴滝の言い分が若干変化しており、「ディケイドという存在に関わると消えゆく運命(さだめ)となる、だから関わるな」という内容になった。
 しかも、この「関わるな」というのには、士自身も含まれている。
 ところが、南光太郎(両)は、鳴滝がこう言い始める前の主張に準拠する考え方だったようで、ディケイドが悪意を持って世界を破壊しようとしている筈が、実際は違ったので仲間になった、といった立ち回り方だった。
 これはつまり、初めてその世界のライダー(この時はRXとBLACK)の認識と鳴滝のそれにズレが生じた事になる。
 もし、鳴滝とBLACKの認識が同一だったとしたら、子供を守るためにアポロガイストの楯になった彼を指して「破壊者ではないのかもしれない」などとは思わない筈だ。
 しかし鳴滝は、この回で士を指し示し「士自身の意志に関係なく(すべてを破壊する)」と表現しているのだ。 
 それ以前のライダーを見ても、鳴滝と全く同じ見解であれば仲間には決してならないだろうし、珍しく鳴滝の吹き込み場面が存在した「シンケンジャー編」を見る限りでは、彼らの見解を同一にする事は難しそうに思える。

 これらを見るに、どうも話の途中から「世界が融合する理由は、ディケイドそのものにあったって事にしちゃえ」と豪快に設定を変更したんじゃないだろうか。
 まあ実際のところはわからないが、仮に初期設定が貫かれたのだとしても、今ひとつ統一性に欠け、そしてラストにそれが際立ったというのはまずい。

 今回を見ている限り、世界が融合するという事象を上手く使いこなしていたのは、実はアポロガイストだけで、彼はこれにより倒される理由を作ることに成功した(存在を確立・昇華させた)。
 しかし、ディケイドをはじめとするライダー達は、この後に述べていく諸問題もあり、結局何一つ明確化・確立化させられなかった。

 ……でも。
 なんでいきなり、アポロガイストは世界を融合を加速させる力なんて手に入れられたんだろう?
 鳴滝の語りようからすると、どう見てもスーパー化する前から能力身に着けてたみたいなんだもんね。

●剣崎一真と紅渡

 本来、オリジナルキャストが当時のままの雰囲気で再登場するというのは、これ以上ないほどのありがたいエッセンスなのだが、今回のこの二人の登場は、カタルシスを与えるどころか非常に複雑な気持ちにさせられてしまうという、不可思議極まりないものだった。
 登場したのはいいが、すべての原因はディケイドにあるとひたすら言い続けるだけの「実力行使型の鳴滝」程度に過ぎなかった剣崎一真に、言ってることが意味不明過ぎる思わせぶり大将・紅渡。
 特に渡に関しては第一話でも登場している分、「なぜこうなる?」という印象が強く、不条理感が拭えない。
 また剣崎も、「彼はいつの頃の剣崎なのか(ジョーカー化はしているのか否か)」「彼は本当に渡が述べていた“仲間達”の一人なのか」、それらを匂わせる情報すらない。

 しかも、そんな彼らがろくに理由らしい理由も示さずに士を狙うのだ。
 まるで、かつて親しんだキャラクターの心証を悪化させるために登場したようにすら思えてしまう。※1
 最終エピソードにも関わらず、彼等は自分達の思惑の重要な部分をひた隠しにするため、結局ライダー大戦が現実化する理由も経緯も今ひとつ不明瞭のままで、大変に後味が悪くなった。
 一体、彼らはどういう意図の下に登場したのだろうか?

 まあ普通に考えれば、剣崎と渡及び彼等が変身するライダーの登場は、最後のファンサービスなのだろう。
 だが、いくらかつての主役がそのままの姿で出てきたとしても、「結局、ディケイドの物語はどう落ち着くんだ?」という疑問を抱いて観ていた人達にとっては、実はそんなに重要なものではなかったのだろう。
 彼らが出てくれる事は確かに嬉しいが、それはスムーズに物語の謎が解明されるか、或いは何かしらカタルシスの感じられる展開が用意されており、それに関わるだろう事を期待された場合の話であり、物語を益々ややこしくさせる役割であるのなら、むしろご遠慮願いたいと思われるものだ。
 実際、剣崎と渡は最終エピソードでは明確な「敵」として登場してしまった。

 これまで(一部オリジナル演者を含む)DCDライダーと力を合わせ仲間となってきたディケイドが、オリジナルのライダー達には敵視され、激しく攻撃される。
 こんな展開を望んでいる人は、そうはいなかったのではないだろうか?

 彼らの存在は、このコラムでDCD○○と仮定した“非オリジナルライダー”以外にも、オリジナル演者によるライダーの世界も存在するという証明になった――ように一見思える。
 だが、こと「仮面ライダーディケイド」という作品においては、いくら中の人が同じであっても、それがそのままオリジナルライダーとは限らない点を留意する必要がある。
 人情としては、椿隆之氏演じる剣崎一真は「仮面ライダー剣」に登場した剣崎一真とイコールとしたいし、瀬戸康史氏演じる紅渡が「仮面ライダーキバ」に登場する紅渡と同じ存在であると捉えたいところではある。
 ところが本編では、オリジナル役者によるライダーが、先の二人を除いても計10人もいるわけで(※電王系は除外、天鬼をカウントしている)、それを考慮に入れると、むしろオリジナルと同一とは考えづらくなってしまう。
 しかも紅音也のような“オリジナル役者による出演だが明らかにオリジナルキャラとは別の存在”という複雑な者まで出て来ている以上、むしろオリジナルと解釈する方が無理が出てしまう。
 まして、剣崎はラウズアブゾーバーを使用せずにキングフォームになっていたり、渡も明らかにオリジナル版と性格や言い回しが異なっていたりするため、やはり差異が生じている。
 こう考えていくと、彼らはそもそも何者であり、どんな権利(または目的)があってあのような行動・言動を行ったのかが、まったく解らなくなってしまう。
 仮に何か結びつける要素があったとしても、ここまで断片的な情報しかない以上、これらはすべて憶測の域を出ないため、やはり観る人によって解釈が異なってきてしまうだろう。

 ところで、今回最も気になった点として「剣崎と渡の主張に食い違いがある」というものがある。
 剣崎の行動を見てみると、彼はDCDライダー達に呼びかけ、士asディケイドをこの世界から排除しようと主張し、行動した。
 ただ後編終盤のセリフをそのまま受け止める限りだと、出来ることなら士は殺さず穏便に退出願いたいという意向だったようにも感じられる。
 事実、剣崎の言葉によってワタルとアスムは“士に出て行ってもらうため”闘いを挑んでいる。
 そして剣崎自身「口で言ってもわからないなら」という表現を使っている点も気になる。

 対して渡の方だが、第一話からの彼のセリフをすべて考慮すると、世界の融合そのものよりも士の失態に対する責任の追及の方が“闘いを挑む”最大の理由になっているようだ。
 失態とは、この場合DCDライダーを破壊せず、逆に仲間にしてしまったという事だ。
 これをまた素直に受けると、渡はDCDライダーの存在が、何かの事情でとても邪魔に思っているように感じられる。
 「創造は破壊からしか生まれませんからね」という言葉も、破壊する対象があるために求めること(創造)が為し得ないという事で、ディケイドが彼等を破壊しなければ、渡の思惑の何か(創造)が動かないのだ。

 剣崎はDCDライダーに敵対的ではなく、むしろ彼等に対して救済の提案を述べている。
 しかし、渡はDCDライダーの破壊を望んでいる。
 別な見方をすれば、ディケイドに対して「出て行け」という剣崎、「出て行かなくてもいいからやる事ちゃんとやれよ」という渡、という図式になる。

 ラストでは、どちらもディケイドに対して闘いを挑んでいるわけだから、一見共通の見解の基に共闘しているようにも映るが、実はこれだけ言ってることが違っている。
 これはいったい、どういうことなのだろう?

 ちなみに、ここまでやっておきながら、12月の劇場版には剣崎は登場しないらしい。
 一応渡は若干登場するらしいという情報が出ているが、少なくとも彼らの口から真意を聞ける可能性は、かなり低そうだ。

※1:TV本編中では、「剣」と「響鬼」「キバ」の世界が消滅し、加えて「クウガの世界」からやって来たユウスケは、本編全体において大変に不遇な扱いだった。
これらの作品が、すべて非・白倉P担当作品であるため、一時期ネット上では「白倉が自分の担当していなかった作品を(悪意を持って)酷く扱った」とする噂が流れたことがある。
実際は偶然の一致なのだろうと思われるが、言われてみると確かに複雑な心境に陥りそうな話題ではある。

●カズマとワタルとアスム

 今回は剣立カズマとワタル、アスムが再登場するが、彼らの扱いはそれぞれのエピソードを踏まえて見ると、実に悲しいものだった。
 最終的にはディケイドと協力し戦いに挑みはするものの、剣崎一真の言葉に振り回され、かつて力を合わせて共に戦い、或いは各世界を救う助力を受けた相手を攻撃する。
 ディケイドと闘うことのなかったDCDブレイドはまだ良いにしても、これによりワタルとアスムは相当キャラクターがブレてしまった。
 これは、大変残念なことだろう。
 ましてワタルは、「キバの世界」でファンガイアと人間の共存を確立させようと尽力する事を誓っていたにも関わらず、今回はまるでファンガイアと敵対しているかのような扱いにされてしまっていた。
 唯一米村脚本でないエピソードだったせいか、DCD版ではなくオリジナル版の設定に基づく描かれ方をされてしまったのだろうか?
 アスムは「DCD響鬼編」であれだけ厚い結束を生み出したDCD轟鬼・天鬼をあっさり殺され、カズマもDCDレンゲルを失っている。
 「DCD剣編」の展開上、出しようのないDCDカリスがどさくさ紛れに出てこなかった点はさりげに評価できるポイントだが、それはそれとしてなんだかとても空しい。
 そう、この辺りは「彼らの仲間ライダーが次々に敗れていく悲壮感」を覚えるよりも、「単なる消耗戦を客観的に観ている感覚」の方が強く、結果、カズマやアスム達の感じた悲しみが大して伝わって来ないという難点があった。
 これが、空しいと表現した理由だ。
 まあ作劇の意図として、双方の消耗戦的表現にしたいという目的が実際にあったのかもしれないが、それがアスムやカズマ、ワタルらの抱く“闘う理由”に今ひとつ繋がらない感覚が残ってしまう。

 こういった基部が大変に弱々しいせいか、今回の彼等はキャラクター性が以前よりかなり薄く、しかも軽くなってしまった。
 オリジナル役者には存在感的に及ばないかもしれないが、過去に登場したDCDライダーが共闘に参加するというのは、それだけでも本来かなり燃える筈だ。
 だが、ついさっきまで士を本気でボコろうとしていた「以前の記憶をどっかに置いて来たんじゃないかと疑いたくなるような」キャラが来られても、感動もへったくれもないのだ。
 だから、ラストバトルでのDCDキバやDCD響鬼は、「仮面ライダーBLACK RX」終盤に登場した10人ライダー並にキャラが薄い。
 せめて、士と出会って以降はかつての縁から最後まで彼を信じていれば、それなりにカタルシスはあったのではないだろうか。
 自分の世界が消滅してしまう危険を踏まえつつ、それでも「世界の破壊者」とされる者に助力し、アポロガイストを倒す――ありがちかもだけど、その方が素直に燃えたんじゃないかね?
 というか、そうでもしない限り、士が彼等の世界を巡って事件を解決してきた意味がなくなると思うのだが。

●真・ライダー大戦への切り替わり

 夏海が夢に見たライダー大戦は、世界の融合を加速させるアポロガイストを倒しても尚止めることは出来ず、結果的に現実化してしまった。
 だが、第一話冒頭で出てきたような「ディケイドがあらゆるライダー達を蹂躙する」ようなものではなく、逆にディケイドが追い詰められるという、逆ベクトルな内容になってしまった。
 これを書いている時点では、まだ12月公開の劇場版「仮面ライダー×仮面ライダー W&ディケイド MOVIE大戦2010」を観ていないため、あの大戦の結末がどうなったのかは述べられないが、それを抜きにしても、「仮面ライダーディケイド」終盤のライダー大戦のシーンには、多くの疑問を差し挟む余地がある。
 いや、どこからともなく飛んでくる謎ビームは別としても。

 そもそも、あそこに出てきたライダー達は何者なのだろうか?

 とりあえず、剣崎が直接変身したブレイド・キングフォームと、ユウスケが変身したクウガ・アルティメットフォームはいいとして、それ以外の者達はどこから何のために来たのか、まったくわからない。
 多分キバは渡が変身したものと考えて間違いないのだろうが、その他は果たしてオリジナル世界のライダーなのだろうか?
 もしそうなら、何故彼等はディケイドを追い詰めようとするのか?

 「ディケイドを排除しなければならない本当の理由」についてはあえて目を瞑るとしても、とにかく彼等に関する情報が不足しすぎているため、ライダー大戦そのものの意味が見えてこないのは問題だ。

 一応、ファンの間では以下のような解釈が主流となっているようだ。

 「仮面ライダーディケイド」の作中世界には、「オリジナルライダーの世界(2000〜2008年まで実際にTV放映されたものと同)」と、「DCD版ライダーの世界(ディケイドが過去に巡って来たもの)」が同時に存在していて、今回は前者が初めて本編に関わってきた。
 オリジナルライダー達は、何かしらの理由でそれぞれコネクションを形成し(第一話の渡による「僕達の仲間」発言)、自分達にとってのニセモノであるDCDライダー及びその世界を破壊しようと企てた。
 そのため、仮面ライダーキバである紅渡が代表して門矢士に接触し、彼に「DCDライダー(及びその世界)を破壊」してもらおうとした。
 ところが、渡達の意図に反し、士はDCDライダー達を破壊するどころか、手助けをして仲間にしてしまった。
 あてが外れたオリジナルライダー達は、用済み……ではなく、用を成さなくなったディケイドを排除するため、自分達の手を汚すことを選んだ。

 ――だいたいこういうものだ。

 実際の設定はどうなのはわからないが、まあ、こういう解釈をされやすいのも無理はないだろう。
 少なくとも、カズマがいるのに剣崎が出てきたり、ワタルがいるのに渡が出てきたりすれば、オリジナルライダーの世界が並行で存在していると考えるのは自然だ。
 まして後者は初期の頃で既にやっているわけで、そういう意図があるだろう可能性は無視し難いのもまた事実だ。

 だが、この中で実際に当たっているのは「渡には“自分と共に世界を維持させることが出来る”仲間がいる」「渡がDCDライダーを破壊してもらいたがっていた」という点のみであり、それ以外は一切確証がない。
 先にも述べた通り、「仮面ライダーディケイド」に出てきた紅渡が「仮面ライダーキバ」の渡と同一人物である確証もない。
 仮面ライダーシリーズは、昭和時代からの伝統のせいか「再登場したライダーは、よほどハッキリした断りがない限りオリジナルと同一人物である」と解釈されやすい傾向がある。
 というか、今のところこれを劇中で明確に否定したのは「仮面ライダーディケイド」のみであり、それ以外は具体的な説明はされていない(必要ですらなかった)。
 ただ、この伝統? がファンの間でまだ生きていたせいなのか、渡と剣崎が出てきたことでラストのライダー大戦に出てきた“ディケイドを襲った”ライダー達は、いつのまにかオリジナルライダーの客演だと解釈されやすくなってしまった。
 ところが、そうだとしても「確実にオリジナルではないDCDクウガ」が混じっている点は説明がつかない。
 アギト以降の連中がオリジナルか否かがぼかされている以上、その気になればクウガも同様の処置が出来た筈なのだが、なまじユウスケがいたためか彼だけ奇妙な例外とされてしまったようで、なんとも座りが悪い。
 尚、一部では、ディケイドと親交が生まれた電王が加わっているのもおかしいとする意見があるが、実はこれだけは説明が付いてしまう。
 今回の後編では、DCD世界に混じって電王の世界も消えかけていることが証明されている。
 このことから、「以前親交は結んだが、世界の存続を考えるとそうも言っていられなくなった」という流れになったとも解釈出来なくはない。
 電王の場合、世界が消えるということはオリジナル(少なくとも超・電王の世界は)が消滅する事を意味するわけで、唯一被害が明確化しているオリジナルライダーということになってしまうのだ。
 まあ実際のところは、他の世界が消えつつあるという演出のために、過去に士が撮った写真が消えていく場面を加えた際、深く考えずに電王世界も消してしまった事から偶発的に発生した解釈なんだろうが。

 よくよく考えれば、渡や剣崎はディケイドの活動やDCDライダーが存在することによって、自分達がどのような影響を受けるのか、全く明確にしていない。
 例えば、彼らの世界も(DCDライダー同様)消滅の危機に晒されているというのならともかく、あれではまるでディケイドやDCDライダー同士の戦いを高みから見物し、たまに茶々を入れてるだけのようにすら思えてくる。

●大ショッカーとは結局なんだったのか?

 今回のエピソードで、劇場版「オールライダー対大ショッカー」はTV本編とは全く関連のないものだと確定した。
 案の定、平成ライダー映画の定説を踏襲したと云えるだろう。
 「BLACK RX編」までの各所で見せていた共通要素を、見事なまでに破棄してまで。

 それはそれで良いとして、この影響から、ディケイドと大ショッカーの関係がはっきりしないまま終わってしまったのは残念だ。
 「〜大ショッカー」では、多少なりとも関わりを示す情報があった事を考えれば、TV版にもそれなりの期待をしたくなるのが人情というものだ。
 また人によっては、「劇場版では大首領だった士を、なぜ一幹部のアポロガイストが狙うのか」という疑問を抱いたと思われる。
 士の正体が大首領であるなしに関わらず、アポロガイストが何故士を、あのタイミングで狙うようになったのかという点については、せめて最低限の説明が欲しかったところだが、もしこれが「BLACK RX編」や今回の前編で語っていたような“ライダーは全て潰す”“未来永劫、敵はライダーだけ”という発言で表現済みだと解釈されたのだとしたら、それはそれで困ってしまう。
 また、いくら世界融合を加速させているからといって、アポロガイストを倒す=まるで大ショッカー問題が解消したかのような流れにしてしまうのはどうか。
 世界融合の原因が、剣崎の言う通り本当にディケイドによるものだとしても、それと大ショッカーのもたらす脅威は全く別な筈で、なぜか今回だけこの辺がごっちゃにされているのだ。

 と、ここまで書いた時点で、これ以上は12月の劇場版を観ないと何とも言えない可能性が見えてきた。
 やや不自然な切り方だが、この項目についてはここで止めておくことにする。

●劇場版へ続く…?

 2009年10月現在、12月公開の劇場版の情報が公式・非公式含めて色々と出て来ている。
 ネタバレになるため、これらについては深く語らないが、その内容を見る限りでは「劇場版でスッキリとした完結を迎える」のはどうも難しそうだ。
 実際に観てみない限りは断定は出来ないが、少なくとも、これで「最終回後は劇場版に繋がる」という構成がベストの選択だった、とは言い切れない可能性がより増したといえそうだ。

 ちなみに「仮面ライダーディケイド」の最終回は、新聞で批判的な投書が載るほど評判が悪かった。
 確かに、あれほど露骨なぶった切り&丸投げは、媒体を問わずそうそうあるものではない。
 また、誰をも納得させるようなフォローを、少なくとも劇場版の内容を別として語る事も難しいだろう。
 一部の情報によると、「(平成)仮面ライダー」の劇場版はコストの割に興行収益が大きいそうで、現状東映にとってのドル箱的扱いになっているそうだ。
 邦画作品の評価が低迷する一方である昨今において、特撮作品の劇場版がもてはやされるというのも奇妙な気がするが、そういった事情もあり、益々ライダー劇場版の存在をないがしろに出来なくなってきたようだ。
 振り返ってみれば、「仮面ライダーアギト」から始まったライダー劇場版は定着したものの、「仮面ライダーカブト」までは各シリーズ1本のみだったのに対し、「仮面ライダー電王」は2009年秋現在までで計八本(番外編も含む)と大幅に増加、しかも「超〜」に至っては、2009年の時点でまだ完結していない。
 また「仮面ライダーキバ」は一作のみだが、電王との共演を含めれば二作、「仮面ライダーディケイド」も同様のカウントをすれば三作確定している。
 しかも、ここに上げてきた物全てが、シリーズ間での収益の大小はあれど平均的に良い成績を残しているのも注目点だ。
 これらの状況を見る限り、ライダー劇場版は辞めたくても辞められない感じになってきている事情は窺い知れるだろう。 
 だから、ディケイドも注目度が高いうちに映画に繋げ、そちらで稼ぎたいと考える事情も理解は可能だ。

 しかし、それにしても限度というものがあるだろう。
 映画に繋げればTVはぞんざいな切り方でもいい、と考えているとしか思えないようなずさんな結末では、どこまで吸引力を維持出来るものか、大変に疑わしい。
 別に、TVはTVで完結させて、劇場版は劇場版として仕切りなおすことも可能だっただろう。
 また、12月の映画に繋ぐとしてしまった時点で、夏に公開された「オールライダー対大ショッカー」の存在意義すら薄まってしまった点はどうだろうか。
 確かに、ライダー映画=基本的にTV本編とはパラレル、という認識があるにはあるが、だからといって「それじゃ仕方ないよな」と誰もが納得できるわけでもない。

 「劇場版が最終回になる」と、白倉Pは「〜大ショッカー」公開前に発言しているが、これが「〜大ショッカー」を指すものではなく、12月の劇場版を指していた可能性はすこぶる高く、ここでも氏の口の上手さが際立っている。
 しかし、今回それが本当に上手く機能しているのかどうかは、今後の流れを見ない限り断定は出来ない。
 ひょっとしたら、この発言は「実は12月以降にもディケイドの映画は作るんで、いつかは劇場で最終回を迎えるかもしれないよね?」という、遠い未来を指した“あやふやな約束”な可能性も否定出来ないのだ。

 12月の劇場版は、当コーナーでも取り扱う予定だが、果たしてどのようなことを書くことになるのか、今からとても不安だったりする。

●テーマらしきもの

 悪い部分ばかりピックアップした形になった今回のコラムだが、良い部分にも触れておこう。

 今回は、ライダー世界の存続を巡る展開に目を奪われがちだったが、一応「仲間」というテーマが存在している。
 カズマもワタルも、アスムも、そして士も夏海もユウスケも、海東ですら「仲間」というものに対しそれぞれの考え方を以って挑んでおり、それぞれの形で認識を確立している。
 米村氏脚本の持ち味である「対比」が今回も活きており、これだけ多くのキャラクターが抱いている「仲間」の認識が、さほどあやふやにならず成立している点は見事だろう。
 仲間を失った事で怒りを覚えながらも、かつて士に唱えられた言葉を胸に秘めていたため、誰よりも真っ先に士と共闘したカズマ。
 大切な仲間(キバ世界の住人)を守る誓いを果たすため、ファンガイアや大ショッカーを手を組んでまで存続を図ろうとあがくワタル。
 仲間を失い、涙し、だからこそ他の者達に仲間を失う悲しみを味わわせたくないとするアスム。
 これまでの旅の積み重ねで、当初はあれだけ仲の悪かった士相手に「仲間」と堂々と言えるほどになった夏海とユウスケ。
 そして、イマイチ仲間という物の認識が不充分ながらも、自身にとって大事な物と比較することでようやくその価値を見出した海東。
 中には、これらの姿勢がライダーバトルの材料に転用されてしまった者もいるが、この辺はかなりわかりやすく描かれており、認識は違えどいずれも仲間が大事だから、という闘いの理由を抱いているというのは、実に面白い。

 対して、ファンガイアの女王ユウキやアポロガイスト、そして復活した各種怪人などの繋がりは本当に希薄で、好対照になっているのも興味深い点だ。
 アポロガイストにとって、手を結んだファンガイアはライフエナジー供給&スーパー化の材料に過ぎず、ある意味で士達とは真逆の姿勢だ。
 仲間という認識を持った者と、はじめからそんなものを認識していない者の比較とでもいうのだろうか。
 「結婚」という、ある意味仲間以上の繋がりを表す儀式を経ているにも関わらず、アポロガイストとユウキの関係が薄っぺらすぎるというのは、こういう視点で見た場合問題というよりはむしろ良いバランスだったとも評価できるだろう。

 そして、さらにもう一人「仲間」という別な認識を持っている存在がある。
 それが、終盤に登場した紅渡だ。
 彼については先に述べた通りなので割愛するが、最後に登場したのは「繋がりが最も不明瞭な“仲間”」という認識だった。
 これが偶発的な演出なのか(渡の仲間発言は第一話でもあったため)、それともこれをも比較の演出の素材として用いた結果なのかはわからないが、こういう比較もあるのかと驚かされはする。
 これを良しとするか悪しとするかは観た人次第だと思うが、筆者個人としては「なるほど」と思わされた。

 ただ、この仲間という認識の描写が、全編通じて統一感があるものだったかというと、さすがに少し厳しいといわざるを得ない。
 特に如実なのが、いかにも取って付けた感の強かった海東だ。
 恐らくは狙った演出なのだろうとは思うが、「BLACK RX編」では仲間という言葉は嫌いだと発言しつつも、士達の存在を奇妙に意識していたり(しかもこの回から唐突に)、また今回の前編でも、あまりにセリフが浮きすぎていてわざとらしさが必要以上に感じられてしまう。
 海東の性格を考えれば、「士に手出しをする奴は〜」というセリフはやはり何か裏があるのではと勘ぐってしまうわけで、劇中のディケイドでなくても「何を企んでる?」と言いたくなる。
 今回、仲間を失い涙するアスムと接することで、海東はようやく「仲間=失うと悲しいもの」という認識を持ったようだが、出来ればこれはもっと早くやるべきだったのだろう。
 まして彼は、これ以前にも夏海が死んだため悲しみに暮れる士とユウスケを皮肉ったりしているため、「どうして今頃になって突然?」という感が拭い難いこともある。
 まあ、「DCD響鬼編」で仲間や協力、師弟関係というものに対する認識が少しずつ発生しつつあるような描写があるにはあったし、その絡みでアスムの涙から、と繋げたかったのかもしれないが、それにしてはやや掘り込みが浅かったといわざるを得ない。
 否、正しくは最初の頃の「馴れ合い嫌いな一匹狼、人に関わる時は何か意図がある」という印象を覆すほどのパワーが足りなかったと云うべきか。
 どちらにしろ、これらがアンバランスになってしまった事は否めず、結果的に海東は最後の最後で更にムラのあるキャラとなってしまった。
 アポロガイストとの決戦に向かう士を止める海東の目に涙が光っていたのを観て「これは違うだろう〜?」と感じた人も、多かったのではないか。
 まして、ここまでやっていながら最後はディケイドの顔面を銃撃である。
 うーむ。

 それはいいけど、仲間だとか手出しすると容赦しないとかえらそうなことをほざいた直後、ブレイド・キングフォームに蹂躙されるディケイドを助けようともせず、それどころか変身すらしようとしない海東は、どうしたものか。
 まあ仲間の認識がハンパだったから、とも歩み寄れるが、せめて援護射撃するくらいはしろよと言いたかった。
 もっとも、ディケイドが全く歯が立たず、何をしても一方的にやられるだけになってしまうほど圧倒的なパワー差があるキングフォームに、ヘタに喧嘩を吹っかけたら道路から墜落程度じゃ済まなかった可能性もあっただろうけど。

●平成ライダーシリーズとしての「ディケイド」

 今更云うのもなんだが、「仮面ライダーディケイド」は9年続いた平成ライダーシリーズの集大成的な意味合いを込めて製作された作品で、過去作品の様々な要素が内包されていたが、その中には「悪習」とも呼べるものも含まれていた事は否定しがたい。
 これまでも、そういった点については多く触れて来たが、今までシリーズ全般を見続けてきたファンが恐らくもっとも不安視しただろう最終回も、この「悪習」の定番にかかってしまった。
 それどころか、よりによって過去にないほどとんでもない投げっぱなしで、先でも述べた通り擁護するのはいささか難しいと云わざるを得ない。
 平成ライダーシリーズを長く見続けていれば、ある程度予測可能である「ラストに近づくにつれて加速するグダグダ感」については、本作は比較的緩和されていたと思われる。
 否、正しくはそのように感じられる工夫が利いていたというべきか。
 2話構成のエピソードをつなげるという手法はこれまでも多くの作品が行ってきたが、本作の場合はそれぞれのエピソードが断続的であり、いわばリセットをかけながら続いているようなものだった。
 だからこそ、次のエピソードを見ている間は前のエピソードとの関連をさほど気にしなくても済み、(後で関連を思い出して首を捻ることがあっても)比較的“各話の差異”を容認しやすい味付けに落ち着いていたのだ。

 だがそれも、「アマゾン編」までだった。
 容認は忘れることではなく、後回しにする感覚に過ぎない。
 必然的にファンの多くは最終エピソードに期待する。
 「平成ライダーだし、どうせ…」という気持ちも多々あるだろうが、それでもどこまで決着がつけられるのかは期待せずにはいられなかっただろう。
 その結果が、「顔面ゼロ距離射撃」→「12月の劇場版へ続く」のコンボ。
 そりゃあ反発も起きようというものだ。

 「○○が●●の最終回になる」フェイク発言は過去にもあったし、本編と繋がっているように見せて実は全然繋がっていない事などしょっちゅうだったから、この発言を最初から疑ってかかった人達も多かっただろうが、まさか「更に先に公開される劇場版に続いてしまう」とまでは思わないだろう。
 これを「仮面ライダー龍騎」に例えるなら、「龍騎の最終回は劇場版のエピソードファイナルですが、TV版最終回の続きは“龍騎劇場版二作目(注:架空)”に続くんですよ!」と云う感じになる。
 もう何がなんだかよくわからない。
 こういう説明で「ああなんだ、それならいいや」と素直に納得出来る人は、いったいどれだけいるだろう?
 全く皆無と言えないまでも、相当少ない比率だろう事は予想に難くない。
 
 「12月の劇場版」の存在は、「〜大ショッカー」を観に行った人達なら皆わかっていることだが、劇場での告知は仮面ライダーWとディケイドが一緒に写っている画像一枚だけで、作品タイトルの明確な提示もなく、何の予備知識もなければWとの共演映画のようにも思える。
 「仮面ライダー電王」のように、キバやディケイドと共演する映画が作られた例もあったわけで、そのように考えてしまうのも自然だろうが、まさかこれがそれぞれ別作品で、しかも「ディケイド」最終回後に繋がる内容になるなど、想像のしようもなかった。

 さて、次回。
 とりあえず、この時点までの「仮面ライダーディケイド」を振り返り、第一次総括のようなものをまとめてみたいと思う。
 色々検証が必要なため、少し時間がかかると思われるが、出来れば年内にはまとめたいと思う。
 その後、12月の劇場版→最終総括が書ければ理想だけど――

【仮面ライダーディケイドを観続けて 個人感想まとめ】

 この部分は、「仮面ライダーディケイド」最終回放送終了の翌日に先行でまとめている(具体的には前回の「DCDアマゾン編」執筆より早い)。
 そのため、他のコラム部分とは一部遊離・重複した内容になっていると思われるが、あらかじめご了承を。
 ひとまず、放送終了直後の率直な気持ちを忘れないうちにまとめておきたいと考えた次第。

 約8ヶ月間「ディケイド」を見続け、最終的に感じたのは

 ――ものすごく疲れた

 だった。
 これは、色々な意味がこもっている。

 一番疲れた理由は、本コーナー「あばれ旅」を執筆した事と、それに伴い何度も本編を見返した事なのだが、これについては好きでやったことなので特段問題はない。
 むしろ本当に疲れさせられたのは、本編内容を巡って過去にないほど様々な情報のまとめや憶測、伏線などの回収・理解を行った点にある。
 ここまで色々と述べて来た通り、本作は過去ライダーにちなんだ情報、また純粋に「ディケイド」という作品から派生した情報が大変多く混在しており、その情報密度は個人的に過去最大だったのではないかと感じている。
 まあ、実質13作品以上(注:ディエンド世界編のベースとなった「仮面ライダー剣 Missing Ace」もあえて一作品としてカウントした)もの断片情報がたった31話の中に凝縮しているのだから、当然だろう。
 オリジナルの情報を上手く使っていたり、或いは首を傾げるようなアレンジが行われていたりとその内容は様々だったが、振り返ってみればいずれも大変個性的――オリジナルとはまた違った存在感を放っていた。
 これらをどれだけ理解した上でラストの展開に臨むべき、というのが筆者の当初からの考えだったのだが、はっきりいってこれは気合を入れすぎた思考だった。

 結果的に、これはまったく無意味な姿勢だったわけだが。

 皮肉にも、筆者は「ライダー大戦編」に限りネタバレ情報を入れ忘れていたため、ほぼ完全に真っ白の状態で本編を観ることが出来た(正しくは、剣崎一真再登場の情報だけは知っていたが、その時はまだ不確定だったので半信半疑だった)。
 だから、ラストがとんでもない放り投げで締められるという事などもまったく解らず、夏海のアップで閉じられたディケイドライバーの映像に開いた口が塞がらなかった。
 そしてその瞬間、過去に感じたことのないほどの虚脱感を覚えた。
 その虚脱感があまりにも大きすぎたため、もはや「最終回がクソだ!」とか「ふざけてるのか」といった激昂の感情すら出てこなかった。
 ぶっちゃけてしまえば、「あばれ旅」の連載をやった事すらも激しく後悔し、その時点で執筆中だったコラムの進行が止まってしまう程だった。

 そんな感じなので、筆者自身はもうあの最終回については語るべきものはないと思っている。
 というか、語るために気力や体力を若干でも消耗するのが惜しいという感じ。
 それくらいガックリ来た。
 なまじ期待感が強く、しかも(個人的には)「仮面ライダー剣」以来のめり込んで観た作品だっただけに、これは本当にきつかった。
 「仮面ライダーディケイド」という作品は正直今でも好きなのだが、それはそれとして、まさかBパートの終わり際数分の展開だけで、それまでの全体評価をここまで覆されるとは思ってもみなかった。
 こんなサプライズ、正直御免こうむりたかったのだが……

 確かに、こういうトンデモ結末はある程度予測は出来た筈だった。
 過去9作品もの「例」が存在していたのだから、傾向は充分解る筈だし筆者自身もそれを理解し尽くしているつもりだった。
 なんだけど、なんだろう……それを踏まえて尚「やられた!」感が強いのだ。

 「仮面ライダーディケイド」は、平成ライダーシリーズ10周年作品にしてそれまでの集大成的位置付けにあるものだった。
 それは、言い換えれば過去の9作品の様々な要素をも内包しているという事でもあり、良い部分も悪い部分もある。

 その中には、平成ライダー伝統の「ラストはグダグダ」「終盤に向かうほど尻すぼみ」という、これまでまったく改善されようとしなかった部分すらも含まれる。

 そして「ディケイド」はその部分“だけ”を、よりによって10年分凝縮して炸裂させてしまった。
 その結果生まれたのが、「平成ライダーはおろか過去存在したあまたの作品の中でも最悪の部類」に属する最終回。

 筆者は、このように確信している。
 好きな作品の最終回に対してこのような評価を下すのはいささか心苦しいが、こればっかりはどうしようもない。
 どうがんばっても、こればかりは好意的にフォローする事は無理だ。

 まあ、始めてしまった以上&ここまで付き合った以上、筆者は12月の劇場版も含めて「あばれ旅」を最後まで続けようと思う。
 一部の噂では、ディケイドは電王に続いて看板タイトルにされるのではないか、という話も出ているそうだ。
 もしそうなら、TV本編終了後多数の映画が製作され、いまだに完全完結の気配すら見せない「仮面ライダー電王」のようなことになっていくのだろうか?

 まあいいんだけど……「電王」と違って「ディケイド」は、いずれ決着がつくという前提があってこそのドラマージュだと思えてならないんだけどなあ。

 ここまで来た以上、もう行くところまで突っ走るのもいいだろうと思う部分も出てきた。
 だが。
 井上正大氏が主演し続けてくれる間に、一応の区切りみたいのは着けて欲しいと筆者は考える。

 なんだかんだで、彼がいなきゃ、やっぱり「ディケイド」じゃないと思うのよね。

→ NEXT COLUM