仮面ライダーディケイドあばれ旅EX
「劇場版 仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」

後藤夕貴

更新日:2009年8月23日

 【警告!!】

 このページには、劇場版「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」についてのネタバレ情報が多く記載されています。
 まだ劇場版を見ておらず、その内容を知りたくない(ネタバレは嫌)と考える方は、即座にこのページを閉じてください。
 このページに目を通してしまったために劇場版を楽しめなかった、つまらなくなったなどのクレームには一切責任を負いかねますので、くれぐれもご注意ください。

 こちらのコラムは、すでに劇場版を視聴された方、或いは「見に行く気は無いけど内容に興味がある」という方のみご閲覧いただけますよう、よろしくお願いいたします。

【警告終了・ここより本文】

 2009年8月8日、劇場作品「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」が、「侍戦隊シンケンジャー銀幕版〜天下分け目の戦」との併映で公開された。
 「シンケンジャー」の方は本編20分とかなり短いが、これは3D映画版が存在していたためだ(3D版上映の有無は映画館によって違っていた)。
 
 脚本は、TV版で「DCD剣編」「DCD響鬼編」「BLACK RX編」などを担当し、2006年に「仮面ライダーカブト」のメインライター及び「劇場版・仮面ライダーカブト GOD SPEED LOVE」も担当した米村正二氏。
 監督は金田治氏で、キャスト面でも驚きのゲストが迎えられていた。

 今回の目玉は、歴代ライダーが全て登場し、「仮面ライダー」の敵組織ショッカーを更にボアアップ? させた過去にない“偉大なる大組織”大ショッカーと戦うというものだ。
 加えて、プロデューサーの白倉伸一郎氏のコメントから本作は「仮面ライダーディケイドの最終回」としても注目されていた。
 世界観の全く異なる各作品を、「異世界を移動するライダー」という奇抜な設定で見事つなぎ合わせ、ありえないと思われたライダー共演を実現させた「ディケイド」が、いったいどのような結末を迎えるのか、TV版を見続けていた人達の興味は尽きなかっただろう。
 他にも細かな話題・注目点があったが、それらは後に詳しく触れていくことにして、まずは映画の概要から触れて行きたい。

□ ストーリー解説はこちら

※2009年8月現在、本作はまだ映像ソフト化しておらず、そのため本コラムに記述されている劇中情報や一部セリフ内容は、視聴時の記憶に基いてまとめられています。
実際の情報内容と若干の差異がある可能性がありますが、そちらについては予めご理解を願いたいと思います。

●劇場版・概要

 劇場版「仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」(以下、本作と表記)は、先の通り「ディケイド」最終回と銘打たれた作品ではあるが、2009年8月初旬現在、本当にTV版と繋がるのかどうかは不明。
 これは、過去の平成ライダー劇場版の内容が、ほぼすべて(例外あり)TV本編との接点がなく、実際にはパラレル的内容だったための見解である。
 ただ、本コラムではあえてこの情報を信用し、「本当に最終回である」という前提に立ってまとめていきたいと思う。
 なので、もしTV版最終回終了後「やっぱり繋がっていなかった」と判明した場合は、そういうものだと割り切っていただければ幸い。

 本作は、仮面ライダー1号から最新のディケイド、それに2009年9月から放送開始の「仮面ライダーW」まで、すべてのメインライダーが勢揃いするという事で、オールドファンから平成ライダーファンまで多くの注目を集めたが、内容はあくまで「仮面ライダーディケイド」のエピソードであり、ぶっちゃけるとTV版本編を観ていないとほとんど内容が理解出来ない。
 言い換えれば、「ウルトラマンメビウス&ウルトラ6兄弟」「超ウルトラ8兄弟」のような感覚で観に行くと、かなり肩透かしを食らってしまうことになるだろう。
 事実、筆者の身近でも初代仮面ライダーが好きだったという人(特撮マニアではなく当時のファンレベル)が本作を観にいって、内容が全然理解出来ず困惑させられたと言っていた。
 「異世界を繋ぐ橋」や「他のライダーに変身出来る仮面ライダー」などは、これで初めて「ディケイド」に触れる人にとってはいささか敷居の高い、或いは咄嗟に解りづらいものだろう。
 また、劇中ではTV版を観ていた人でも解釈に困惑する「異世界を見ることが出来る小夜と行き来まで出来る士」という、これまた不可解なシーンが登場する。
 このため、ノスタルジー的なものを求めたり、旧作ヒーローがどのように新作映画で活躍するのかという活劇的なストーリーを求める向きには、残念ながらかなり不向きな作りだと結論付けざるをえない。

 だが、そういった理屈やこだわりを廃し、単なるエンターテイメント映画として観る分には、本作はなかなかのものだ。
 オリジナル版と同じような構図でダイビングし宙を舞うスカイライダーや、あの独特の効果音で腕のヒレを鳴らすアマゾン、オリジナル版(DCD版も)と同じ効果音でガンガンブレイラウザーを振るうブレイドや、きちんと鎖のエフェクトを使用して攻撃するキバなど、ファンが喜びそうなツボをダイレクトに刺激してくる。
 また、(ディケイドが変身したものだが)オリジナル版でもごく初期限りで使用されなくなった「鬼火(火炎ブレス)」を噴出す響鬼や、モンキーアタックで音撃棒・烈火の火炎弾を弾きながら特攻するアマゾン、名乗りの直後に関節から蒸気を噴出すBLACK、四段旋風蹴りを披露するスーパー1、スクリューキックを魅せるV3、ライダーダブルキックでガラガランダを倒す「本当にこれは平成の映画か?!」と錯覚を引き起こす1号2号など、ここまでやるかという見所が沢山溢れている。
 TV版26〜27話で全然光っていなかったRXのリボルケインは今回しっかり光っており、なぜかオリジナルにはなかったヴォン、ヴォンという「スターウォーズ」のライトセイバーを思わせる効果音までオマケされていた。
 また、「ディケイド」独自のシークエンスであるファイナルフォームライドもしっかり使い、しかも、わざわざ(電王ソードフォームからFFRさせた)モモタロスに手伝わせキバアロー・ファイズブラスター・ブレイドブレードによる三体同時攻撃を敢行するなど、TV版とはまた違ったド派手な場面を見せてくれた。
 更には、次期新番組「仮面ライダーW」を初登場させ、多彩なフォームチェンジを見せつつ活躍させるなど、サービス精神が旺盛過ぎる。
 このように、本作で盛り込まれた「ここまでやるか普通」的なサプライズとシークエンスは、挙げたら本当にきりがない。
 ほんの65分程度の映画に、これだけのてんこ盛りを施されれば、好きな人は本当にたまらないだろう。
 悪い表現をすると「見世物的性質が強すぎる」とも云えるが、逆にそれを求めて観るなら何の問題もないというわけだ。

 今回は大勢の仮面ライダーが登場するが、彼らが今までTVまたは映画、OVで活躍してきたのと同一の存在であるかどうかは、大変疑わしい。
 南光太郎、津上翔一(沢木哲也)、モモタロスが変身を解き士に語りかけるシーンがあるにはあるが、だからといって「ディケイド」TV版及び他の過去作品郡の主役達と同一視するには、あまりにも矛盾点や違和感がありすぎる。
 勿論、こういった部分をいちいち細かく指摘していたらきりがないわけだが、そういう事情も含め、今回は「スターシステム的なもの」と解釈した方がよさそうだ。

 「スターシステム」とは、主に手塚治虫氏が自作品で用いていた作風で、キャラクターを役者に見立て、作品ごとに別な役割を与えて動かすというものだ。
 例えば「鉄腕アトム」の主人公アトムが、「ブラックジャック」ではゲストキャラの学生になっていたり、「リボンの騎士」のサファイヤが幼稚園の保母さんになっていたり。
 またアセチレン・ランプやハム・エッグ、金三角などの悪役キャラは、多くの作品に同じような役回りで登場している。
 このように、見慣れたキャラが少し違う、或いはまったく異なる立ち回りを演じ、その差異をも楽しむのが「スターシステム」の醍醐味なのだが、今回の客演ライダーもこれに限りなく近いものと解釈すると、意外にスムーズに理解が及ぶ可能性がある。
 今更言うまでもなく、「仮面ライダーディケイド」で巡った各世界のライダーは、過去に単独作品として放送されていた番組のライダー達とは異質の存在だった。
 仮に同じ役者が演じていても、オリジナルではない。
 しかして、本作で登場した者達も、TV版「ディケイド」で登場したリ・イマジネイションライダーと同一かどうかは不明なのだ。
 少なくとも、変身を解いた仮面ライダーアギトだけは、DCDアギトと別物だと断定して良いだろうが、イコール「仮面ライダーアギト」に出演し一年間主役を張ったオリジナルアギトであるとも言い難い。
 
 もっとも、スターシステム的な影響を受けているのは、26人のライダーの方ではなくむしろ大ショッカー側の各キャラクターだ。
 「仮面ライダーBLACK」に出演し、続編の「仮面ライダーBLACK RX」にて壮絶な最期を遂げたシャドームーンなどは、(変身前が秋月信彦→月影ノブヒコになった事も加え)完全な別物で、劇中情報を見る限り外観以外はほとんど共通点がない。
 せいぜい、サタンサーベルの携帯と「創世王」という単語を発することくらいだ。
 また、門矢小夜が名乗る大神官ビシュムと彼女が携帯する地の石も、「仮面ライダーBLACK」からの出展だ。
 「BLACK」では、ビシュムは暗黒結社ゴルゴムの大幹部・三神官の一人で、地の石によって大神官の姿を維持していたが、シャドームーン復活のために石を失ってからは、翼竜怪人という正体を現した(他の二人の大神官も、空の石や海の石をそれぞれ持つ)。
 ビシュムは、「BLACK」中でも比較的シャドームーンとの関わりがあったキャラなので、恐らくその縁でキャラクター情報の一部がピックアップされたのだろうが、それ以外の設定は当然ながら全く継承されていない。
 劇場版ではないが、TV版「ディケイド」でもアポロガイストという、「仮面ライダーX」出展のライバル幹部が登場しているが、これも同じような存在だ。 
 本作では、更に加えてキングダークまで登場するという、これでもかといわんがばかりのサプライズを盛り込んでいたが、これも「仮面ライダーX」を知っている人向けのサービス的なものであり、実際には特にキングダークである必要性はない(出現時にXライダーが「あれはキングダーク!」と叫んでいるのも、ファンサービス的なものだろう)。
 このように、過去の仮面ライダーシリーズの情報をいくつか選択し、混ぜ合わせ、劇場版のストーリーに合わせた「スターシステムのようなもの」が、本作の特徴の一つであり重要なポイントだったと云えるだろう。

 しかし、決してエンターテイメント的な部分だけが際立っているわけではなく、メインストーリーの中にも注目すべき点は多い。

 本作は、大まかには「ライダーの戦い」「大ショッカーの世界征服活動」という二本の縦糸に、「士の周辺状況と人間関係の変化」という横糸を絡める構成となっており、所謂エンターテイメント的な部分は縦糸、ストーリーライン的な部分は横糸が担当する形だ。
 TV版の謎の回答は横糸に属し、これで門矢士というキャラクターのおおまかなバックボーンが解るようになっている。
 今まで謎に包まれていた士の素性が、少しずつ明かされていき、その後更なる変化を遂げていく過程は実に興味深い。
 また、これまでは訪れた世界の住人(ライダーやそれと対立する敵)に対して士が「説教」を行っていたが、今回はこれが逆転しており、士が説教を受けて心構えを変えて闘いに挑むという構成に切り替わっている。

 また、TV版の「DCD響鬼編」「シンケンジャー編」「BLACK RX編」などで見せた夏海の心情が今回は実に上手く活かされており、これが最終決戦へと繋がる伏線の一つとしてきっちり機能している点は驚きだ。
 しかも、これには今まで鳴滝が夏海に忠告していた事の意味まで絡んでおり、完璧とまではいかないまでも伏線消化に努めようとする姿勢が見えて実に好印象だ。

 他でも触れていくが、このように、今回は各キャラの細かな心情描写が本当に面白く描かれており、アレンジも見事だ。

●注目点

 先でも軽く触れたが、本作はTV版との関連が意外に多く、ひいてはこれが「ディケイド最終回」発言を裏付ける理由の一つともなっている。

 まず、今回の物語の導入材料の「門矢屋敷の玄関の写真」だが、これはTV版でも既に登場しているアイテムだ。
 27話「BLACK×BLACK RX」のラストで、栄次郎が壁にかけようとしていた「お気に入りの写真」がそれで、よく見ると27話の時点で既に士が写りこんでいる。
 これを栄次郎が持ち出してきたというところが意味深だが、この写真は士が普段携帯しているカメラで“屋敷を出てから一番最初に撮ったもの”だから、ピントぶれも当然起きておらず、そのため27話までを見ている時点では士の撮影したものだとわからないようになっているという仕掛けもある。
 また、この写真が壁から落下したことで開いた背景ロール(TV版28話の世界)が、既に大ショッカーに支配されている世界を示しているというのも上手い。

 また、「DCDカブト編」では、マユと知り合った士が「俺にも妹がいたような気がする」といった発言をしており、これが門矢小夜の存在を連想させる含みになっていた。
 劇場版の撮影は2009年5月辺りに行われたそうで、そう考えると「DCDカブト編」の辺りでネタを仕込んでおくことも無理ではない。
 このように、気がつかなければスルーしてしまいそうな些細なセリフが、後々の展開にこっそり絡んでいるという作りは、個人的に大好きだ。

 次の項で詳しく触れるが、夏海の心境表現もTV版と深く関わっているもので、これはTV本編を観ているか否かで大きく印象が変わってしまうほどだ。
 
 他にも、BLACKとRXが特に説明なく共存していること(TV版26〜27話を観ていれば納得なのだが)、BLACK南光太郎の発言にあった「世界を繋ぐ橋」という単語の再登場、大ショッカーの脅威が複数の世界に及んでいる表現、28話以降に登場した大ショッカー戦闘員、26話で見せた栄次郎の黒マント等、関連のある情報が話数を重ねるごとに多く露出している。
 
 また、ちょっと違う部分に視点を向けると、今回は一切のパワーアップフォームが登場していないという事実にも気付く。
 正しくは、「ディケイド・コンプリートフォーム・ジャンボフォーメーション」や「RXロボライダー・バイオライダー」などは登場しているが、一人のライダーが戦局に合わせて二段三段と変身を重ねて強化していくといった表現が、不思議なほど出てこない。
 しかも「ディケイド・コンプリートフォーム・ジャンボフォーメーション」はその構成上ケータッチを着けておらず、ディケイドのパワーアップアイテムすら登場していないことになる。
 恐らくだが、これらは情報の混乱を避けたのではないだろうか?
 ただでさえライダーが多いのに、更にバリエーションまで再現してしまうと(平成ライダーの設定に慣れていない)視聴者が困惑する可能性は、(実際にはどうあれ)かなり懸念されるだろう。
 今となってはあって当たり前となったフォームチェンジ、パワーアップ変身だが、昭和ライダーのようにほとんど姿を変えない作品に慣れ親しんだ人(同時に平成ライダーを観ていない人)にとっては、あまり馴染めないものだ。
 劇中では、ディケイドがファイズや響鬼などに変身し、DCDクウガがドラゴンフォーム、ライジングアルティメットフォームに変身しているが、これですらあまり高頻度ではない。
 主役格の二人にのみフォームチェンジを少し行い、それ以外はパワーアップも含めて二段変身を廃し、基本的にバリエーションを持たない昭和ライダーにフォーマットを揃えて余計な困惑を招かないように工夫したのではないだろうか?
 その昭和ライダーにしても、ストロンガーのチャージアップ、ライダーマンのカセットアーム変形、スーパー1の腕交換といったフォームチェンジに相当するものは使われていない。
 これらは単純に尺の問題かもしれないが、スーパー1などはライダーバトル時にも登場しかなりの間闘っているので、一度くらい「チェーンジ、○○ハンド」をやってても問題はなかったと思われる。

 よく考えたら、平成ライダーが全員最強フォームとなり、最大必殺技を合体させてぶちかませば、恐らくそれだけで大ショッカー、出てこいやーキックを遥かに凌ぐ破壊力を発揮するのは想像に難くない。
 しかし、そういうものを用いるよりは全員でライダーキックの方がインパクトはあるだろうし、昭和・平成ファンが両方とも楽しめる筈だ。
 だがその際、平成ライダーが最強フォームで混じっていたら、パーフェクトゼクターはどうしたとか、キングラウザーをなんで使わないとか、そんな突っ込みは避けられなくなるだろう。
 そう考えると、これはこれでなかなか考えられたものなのかな、としみじみ感心させられる。

 今回は士がその世界の主役のためか、いつものような説教めいたセリフ回しはなく、代わりに彼を説得する存在が必要となったが、その役割を果たせるようなレギュラーキャラが存在していない点にも注目したい。
 ユウスケは小夜に操られ、夏海は不信感を抱いてしまい、栄次郎は死神博士となった。
 またせっかく出会えた家族は士を拒絶しているのだ。
 士は本当に全てを失い孤独になってしまったのだが、そこに絡むのが、同じく孤独な戦いを“士によって”強いられてきた男・結城丈二
 士への復讐心だけに支えられ、ついに彼を殺すチャンスを得た彼が、彼を救うきっかけ(説教)を与えるという皮肉な構図。
 結城丈二の唱えた
「罪は消せない、背負って生きていくしかないんだ。
 たとえ孤独でも、命ある限り闘う――それが仮面ライダーだろう?」

というのは、まさに士に相応しい言葉だ。
 深読みをするなら、これは士の犯した「罪」によって生まれた存在「結城丈二」が、士が「仮面ライダー」として再起する事で「すべてを赦す」意図であるとも解釈出来る。
 しかし、士が犯した「罪」は「罪」であり、それはたとえ結城丈二が赦した(認めた)としても、現実として残り続ける。
 それを証明しているのが、結城丈二の右腕「カセットアーム」。
 彼がわざわざ、自らの腕を引き千切るような痛々しいアームユニット装着を見せるのには、そういう意味が込められているのではないだろうか。
 しかも結城丈二が、それを用いて“士を襲おうとしている”怪人軍団に立ち向かうのも、なんとなく意味深な演出だ。
 士が結城丈二の右腕を奪い彼を貶めた「罪」を後悔しているのかはわからないが、少なくともこれから闘っていく理由、自身で決着をつけなければならない宿命など、様々な事を学んだのは疑いようがない。
 またこのシーンがあるからこそ、「俺の世界は俺が決着をつける……だから、大ショッカーは、俺が潰す!!」という後のシーンのセリフが映える。
 「俺が大首領として過去犯してきた罪を、あえて自覚しつつ闘う」という覚悟を学んだからこそ、説得力が生まれるのだ。
 もし、先のシーンで士もディケイドに変身し、結城丈二と共闘していたら完全にぶち壊しになっただろう。
 個人的には、結城丈二との関わりにより、士はようやく「本当の仮面ライダー」になれたのではないかと考えている。

 今回、夏海もかなりの注目株だ。
 TV版「シンケンジャー編」から徐々に士に対する考え方を明確化させ始めた夏海は、士に裏切られ深く傷ついてしまった。
 確かに、今までずっと鳴滝に対して「彼は破壊者じゃありません!」と主張していたのに、実際は破壊者そのものだったのだ。
 その上、酷い扱いを受ければ傷つき拒絶するのは当然だろう。
 この辺は、TV版で少しずつ心境変化を積み重ねてきた成果だと云える。
 これまでは、士と夏海はケンカ友達的な表現が成されていたが、なんだかんだで彼女がいるおかげで士は戻るべき場所を得ていた。
 そして夏海も、日下部彦馬の言葉で「帰りを待つ重要性」を認識し、自分が士を迎える居場所になろうと決意した。
 あまつさえ、アポロガイストに魂を奪われ、生死の境をさ迷っている最中に士を夢に見るほどの思い入れようだ。
 ここまでちゃんと心情を描写していたからこそ、いけしゃあしゃあと光写真館に戻り、図々しく居場所を得ようとした士を拒絶するシーンが活きる。
 それだけではなく、夏海の考え方は門矢小夜のそれと対になっている。
 両者は「自ら待つことを選んだ者」と「待つことを強要された者」の対比になっており、しかもどちらにも士の存在が中心にある。
 しかも小夜の場合は、自ら引きこもる事を「待つ事を強要されている」と勝手に転換し、その鬱憤を士にぶつけて憎悪するという、かなりヤンデレ? な性質だ。
 夏海は最後に絶望から希望を見出し、再び士と旅をする事を選び、小夜も自らの意志で巣立つ決意をする。
 どちらも心境の変化を体感し、そしてそれを自分の意志で訂正しているわけだが、こういった好対照表現は本当に大したものだ。
 
 ただ反面、ユウスケの扱いは大変残念だったと言わざるを得ない。
 これについては後述する。

 仮面ライダー達の活躍シーンについても触れてみよう。

 今回は、過去作品を知っている人に懐かしさを感じさせたり、夢の共闘によるカタルシスを与えるというよりは、どちらかというと「知ってる人が喜ぶ」系のマニアックな作りになっている。
 先でもいくつか挙げたが、効果音の再現や必殺技・武器の使用やそれを用いた殺陣、技名呼称など実に見せ方が上手い(マニア的な意味で)。
 その他、ラストバトルで勢揃いしたライダーが、両端に真とZOを置いた状態で作品順に整列したり(具体的には、左から真・昭和新〜旧・アギト〜キバ・BLACK・RX・ZO)、そこにディケイドとディエンドが混じった時は1号2号V3の間に入る配置にしたり。
 乱戦時に使用されている舞台が、さりげに「昭和特撮で多用された採石場」を思わせる場所だったりするのも、意図的だろう。
 しかも、崖の途中や上で戦闘を行ったり、よりによって平成ライダーを“高い所で”戦わせたりと、昭和の撮り方で平成を映すといった良い意味での違和感を活かす構図がふんだんに盛り込まれた。
 筆者は、崖の上で複数の敵と渡り合い、ポーズを決めるキバを見た時思わず吹き出してしまった。
 いや違和感が笑えるからというのではなく、妙にハマりすぎていてツボに入ったのだ。

 またカット割も、ライダーの活躍を一人ひとり順不同で見せ、一通り巡った後にグループ戦に移行するなど、見せ方をしっかりわきまえている。
 その中に、さりげなく“名乗りを邪魔されてキレる電王”といった個性的な演出をちょっぴり挟む小憎らしさもたまらない。
 残念ながら、ほんの一瞬の見せ場で終わってしまったゼクロスや真、ZOなどもいたが、それにしても実に爽快感のある戦闘シーンだった。
 そして、TV予告でもやたら多用されていた「全員ライダーキック」。
 恐らく、これを何の予備知識もなく大画面で観た人はさぞ驚いただろう。
 前方宙返りライダーキックを使用しない筈のライダーまで参加しているのはともかくとして、あれだけ集団でキックを敢行するという良い意味での「無茶っぷり」は、あまりにも壮絶だ。
 もし可能だったなら、こういうのは「仮面ライダーストロンガー」最終決戦での岩石大首領戦や、「(新)仮面ライダー」のネオショッカー大首領戦時に見たかった気がする。
 あんなの食らえば、そりゃあ巨大な基地も粉々になるわさ。
 巻き添えを食った? シャドームーンの残骸がどれほど無残なものになってしまったか、想像するのが実に恐ろしい。

 大ショッカーについても、語るべきポイントは多い。
 「仮面ライダー」の敵組織の名を冠し、また過去に存在した同名組織のいずれよりオリジナルに近く、しかもかつてないほど大規模な世界侵略作戦を展開・実行に移した“大いなる大組織”。
 これは、本作のみならずTV版でも断片的に情報を提示することでミステリアスな雰囲気を生み出すことに成功している。
 大ショッカーは、平成ライダーシリーズ10年目にして初めて登場した“明確なアピールのある”敵組織であり、本作を観る限り組織形態は昭和シリーズのそれを意識しているものの、その全体像の描き方は過去の平成ライダーにおける敵側に良く似ており、上手く両時代の特徴を融合させている。
 また、一時期より妙にコミカルなキャラとして表現されるようになったショッカー戦闘員をそのままのスタイルで登場させ、実は人間爆弾(ミサイル)として使用し大規模な破壊を敢行させるなど、アレンジの仕方も大変秀逸だ。
 かつて「無敵超人ザンボット3」を語る上で、何が一番嫌だったか・怖かったかという話になった際、よく挙げられたのが「いつもふざけているひょうきんな敵が残虐極まりない作戦を平気で行う」というものがあった。
 本作の大ショッカーもそういった部分があり、ところどころにおふざけ要素がありながらも一般人達はしっかり被害を受けており、しかも建物の影になった場所では(シルエットしか見えないものの)血しぶきを撒き散らして怪人に殺される人間というシーンまであり、短い場面ながらも大変効果的な使い方をしている。
 また、TV版第一話を彷彿とさせる廃墟の中で、新旧入り混じった怪人達が無数に跋扈し、人々を威圧する様、また鳴滝と夏海が見たように、別の世界に逃げてもその先まで同じ状況に陥っているという絶望感は、相当なものだ。
 TV版とはややニュアンスが異なる表現方法も目立つが、それでも“全世界を征服する”と豪語するだけあり、大ショッカーは本当にとんでもない大組織だ。
 更に、これが当初士の思い描いていた“大ショッカーの構想”そのものの展開だとしたなら、別な意味での迫力が生じる。
 仮にも主役の仮面ライダーであり、多くの人々やライダーを助けてきた者が、一時期とはいえ真剣に大規模殺戮劇を企んでいたのだ。
 しかも、これは洗脳ではない。
 ゼクロスのように、脳改造による意識支配を途中で免れたというわけではなく、士は大首領として「こうなること・こうすること」を予期していた。
 最終的に、その意志は(本人達の衝突があったとはいえ)月影ノブヒコらに引き継がれたものの、もしも全ライダーが集合することなく、破壊活動・侵略行為が継続していたとしたら、ディケイド達は本当の意味で最期だっただろう。
 それだけのものを容易に予測させるだけのものがあり、大変に面白い「新時代の敵組織」だったと筆者は考える。

 その上で、大幹部が階段でひっそり酒盛りしてんだもんなぁ。
 あのシーン、「仮面ライダー」での両者の関係を知っていると、妙に味わいが感じられて好きなんだけど。

 残念ながら、完全新造形の怪人がいなかったり、また(後述する)TV版との細かな差異が目立ち、本作を観た後も今ひとつイメージが定まり難い感もあるが、大ショッカーは、勧善懲悪の物語が否定されつつある昨今に於いて、近年の風潮を踏まえつつあえて古い媒体を取り入れアレンジを施したという点で、筆者はとても評価している。

 大ショッカーは、本来ありえない“異世界作品のコラボレーション”が叶ったからこそ存在しえた組織であり、言い換えればディケイド以外の作品では登場させ辛いという特性を持ってしまっている。
 また、TV版でのイメージを必要とされる向きもあり、本作の中だけで充分に完成されている存在とはお世辞にも云えない。
 だが、「こんなのもありではないか?」というifに真っ向から挑戦し、また「お祭り企画に相応しい敵」としてこれ以上ないほどのものを作り上げてくれた点はあまりにも大きい。

 もし、本作に大ショッカーという単語が加わっていなかったら、普段平成ライダーを見ていない往年のファン層は、果たしてどういうイメージを抱かれていただろうか?
 ふと、そんなことを考えてしまった。

●脅威のコンプリートフォーム・ジャンボフォーメーション

 本作の、ある意味最大のサプライズは、なんといっても「最後は巨大戦で決着」というものだろう。
 仮面ライダーがとてつもなく巨大な敵と戦うというのは、これまでも岩石大首領やネオショッカー大首領、平成でもエラスモテリウムオルフェノク激情体や14、魔化魍、オロチ、仮面ライダーアーク等いろいろとあったわけだが、これらはいずれも「巨大対等身大」であり、所謂巨大戦というシチュはほとんどなかった。
 それに比較的近いものとして、「仮面ライダー電王」のデンライナー各種対ギガンデス戦があり、劇場版「超・仮面ライダー電王&ディケイド NEOジェネレーションズ 鬼ヶ島の戦艦」でも鬼の戦艦との対決が繰り広げられたが、これはライダーが操るメカニックによるものだ。
 唯一、真っ当な巨大戦をこなしたのが「仮面ライダーJ」だったわけだが、今回はこれを上手く使い、誰もが予想もしなかったものを生み出してしまった。

 メインライダーで唯一集合時にいなかったJは、ディケイドによる「とっておきの」カメンライドによって登場し、最初からジャンボフォーメーションになっている。
 これに「ディケイドをFFRさせたディケイドライバー」を装着させ、巨大版コンプリートフォームに置き換えてしまうという発想が、良い意味で狂ってる。
 今まで他のライダーを強制変形させてきたディケイド自身をFFRさせるという虚を突いたアイデアも秀逸だが、それにより元々巨大なライダーを更に二段変身させてしまおうという斜め上の発想は実に恐ろしい。
 更に、「元々ベルトらしいベルトを装着していない」Jを媒体に選んでいるというのも上手い所を突いていると言えるだろう。
 
 コンプリートフォーム・ジャンボフォーメーションという名前が付いているコレは、TV版で登場しているディケイド・コンプリートフォームと若干デザインが異なり、その変身過程からケータッチが付いていない。
 まあ、巨大化してからケータッチをクウガアギトリュウキファイズする様子はかなりマヌケだろうし、これはこれでいいような気もする。
 それにしても、ファイナルカメンアタックフォームライドなどという、まるで何かのネタで誰かが考えたようなカードが本当に出てくるのも驚きだが、これにより全ライダーがカード化してディメンションキックの補助になるという発想もイカしすぎだ。
 大元のJとのパワー差が悲しすぎるほどだが、戦闘もダラダラせず短めにまとめられており、結構楽しめる場面になっていたのは高ポイントといえるだろう。
 ただ少し意地悪な見方をすれば、巨大戦はアングルや全体構図がスーパー戦隊の巨大ロボ戦のイメージにとても似ており、あまりオリジナリティを感じなかった気もする。
 贅沢を言うなら、仮面ライダーの巨大戦というあまり見慣れていないシチュエーションを引き立てるような、もっと凝った画面構成を望みたかった。

 それはそれとして、「仮面ライダーJ」が好きな人にとって、これはいささか無念さの残る扱いだっただろう。
 画面に登場しながらも唯一オリジナルでは(と解釈出来る余地すら)なく、しかも設定を無視してはなから巨大※1、一発殴られただけで敗退という情けない扱い。
 他にも、活躍場面が異様に短いなどあまり良い扱いを受けていないライダーはいたが、ヘタに目立つ分こっちの方が酷い気がする。

※1:よく誤解されがちだが、J自身には巨大化する能力はない。
「仮面ライダーJ」内での巨大化は、外部からの介入による影響である。

●問題点・疑問点

 娯楽作的性質の強い本作だが、それでも無視しがたい問題点や疑問点はかなり含まれていた。
 今度は、この辺りをピックアップしてみたい。

・深いストーリー性を期待してはいけない

 先で士を巡るストーリーに色々触れたが、それと物語内容が充実していたかどうかはイコールではない。
 正直に言うと、本作のストーリー性はかなり薄い。
 これは、TV版最終回として観た場合でも、劇場作品単体として観た場合でも変わりない。
 尺の問題もあったのかもしれないが、とにかく色々と必要なものが足りてない。
 そもそもこの話は、士の世界で起こった大事件というより、「門矢家の問題が大ショッカーというフィルターを通した事で大惨事に発展した」程度のものに過ぎない。
 その上「世界崩壊の謎」などは置き去りにされる始末で、仮に理由が判明したとしても、あの展開では世界の崩壊は回避させられそうにもない。
 士の物語としても、世界を救う物語として観ても、どっちも中途半端になってしまっているわけだ。
 本作が本当にTV版最終回の後に続く物語だとしたら、消化不良っぷりは相当なものになることは間違いない。
 平成ライダーらしいといえばらしいが、せめて劇場版は劇場版ですっきり落として欲しかったものだ。

 もっとも、基本的に中身がスッカラカンなのは昭和ライダーの劇場版にも通じるものがあり、そういう観点では大変「仮面ライダー映画らしい」とも言えるわけだが。

・公式に潰された「サプライズ」

 これは、一部WEB上で広まっていたネタバレの件ではなく、オフィシャルで公開された情報のみに的を絞った話とする。
 本作は、例年以上に深刻なネタバレが公式に展開されたという点でも話題になっていた。
 「地獄大使と死神博士」「クウガ・ライジングアルティメットフォーム」の存在は、当初は情報漏洩としてニュース上で扱われていたが、後に公式情報として流布された。
 個人的には、ネタバレが広まり始めた頃から公式発表とされるまでの期間が異様に短かったこともあり、実際は「ヤラセ」だったのではないかと疑っているが、どちらにしろ、これにより光栄次郎の正体が(TV版で大ショッカーが登場する前に)バレてしまったという、あまり喜ばしくない内容まで判明してしまった。
 またTV版の提供テロップオープニング、劇場版宣伝CMでは、目玉となるだろうハイライトシーンが惜しげもなさすぎるほどに公開され、なんと29話のOPでは最大のサプライズと考えられる「コンプリートフォーム・ジャンボフォーメーション登場」の過程までバラしてしまった。
 更には「仮面ライダーW」の戦闘シーンの一部などもあり(ちなみに同回終了後に初めて新番組予告が流された)、これで本作のハイライトはほとんど出尽くしてしまった。

 はっきり言って、今回はちょっとやりすぎだったのではないだろうか?

 筆者個人はネタバレ大歓迎の人間だが、ファンの中には極力ネタバレを避けたいと考える人も多い。
 WEB上であれば、その気もないのにネタバレに遭遇してしまうという事故もありうるもののある程度ネタバレを避ける手段は存在する。
 しかし、TV本編でここまでやってしまうと、もはや完全な不意打ちだ。
 強制的にネタバレを見せつけているようなもので、これは少々感心出来ない。
 全員ライダーキックや、大集合場面など、当初から公開している映像については関心を引く必要性もあるため仕方ないと思うが、コンプリートJについては「そう来たか!」というほどのとっておきのサプライズだ。
 これをTVで、しかも公開1週間ちょいで流してしまうのは、もったいなさ過ぎると思えてならないのだが……

 ともあれ、こういった劇場版CM関連の映像情報を一通り見てしまうと、ビジュアル的な意味での新鮮さはほとんど失われてしまうと云っても過言ではない。
 勿論、これによりストーリーの全貌が判明したり、「ディケイド」全体に絡んでいる謎の判明などまで知れるわけではないが、大きな疑問を差し挟む余地のある処置だったと言わざるを得ないだろう。

・ビミョーな展開、または設定無視の数々?

 さほど重要ではないかもしれないが、一応触れておこう。
 本作は、オリジナル版各ライダー設定との相違点や、本編中の疑問点がかなり目立ち、ツッコミ所が多い特徴がある。
 そのうちいくつかは明らかに意図的に行われたもので(悪い言い方をすれば深く考えていないような…)、あまり感心できるものとは言い難い。
 代表的なものがアマゾンの「ギギの腕輪」で、海東が突然これを持ち出して見せたり、また何の意味もなく返却したりしている。
 ギギの腕輪を奪い、返すという流れが丸々必要ない要素である、というツッコミはあえて置いておくとしても、オリジナル版アマゾンの場合ギギの腕輪を奪われることは死そのものを意味しており、原典ではこの設定がガガとギギの腕輪争奪戦に一種の緊張感を与えてもいた。
 もっとも、オリジナル版との相違については「ディケイド(の映画)だから」という便利なかわし方も可能なので、解釈は自由に出来るから良いと考える向きもあるだろう。 

 問題なのは、むしろ死神博士こと光栄次郎だろう。
 彼の場合、TV版「BLACK RX編」で黒マントをアイロンがけするなどといった思わせぶりな態度を示してはいたものの、それ以外に(本作公開前に)正体を匂わせるような情報は示しておらず、唐突にその正体をばらしている。
 これは、孫であり祖父との思い出も明確に持っている夏海が驚愕するほどのもので、しかも正体を現した後の死神博士は、夏海がピンチに陥っても一切“祖父らしい”態度を取らず、むしろ冷酷に接している。
 あまつさえ、ラストではいけしゃあしゃあと栄次郎に戻っており、何事もなかったかのように振舞っている。
 この辺りは一種のギャグ的な扱いのようで、光写真館で栄次郎と再会した夏海や士がいぶかしげに彼を見つめている一面もある。
 死神博士も「イカでビール」のようなギャグキャラ的要素が多く、また散り際にも「また逢おう〜」と言い残したりとやりたい放題で、真面目に話を追っている人は別な意味で驚かされる。
 ちなみに「イカでビール」「また逢おう」は石橋蓮司氏によるアドリブとのことで、当初から構築されていたキャラクター像を示すものではないようだが、それにしてもキャラがボケる以外の何物でもない。
 まあこの辺りは深く突っ込んだら負けといわんがばかりの展開ばかりだが、「ディケイド」に関連した過去ライダー関連の情報がオリジナルから大きく変貌してしまうという暗黙の了解を知らずに本作を観た人にとって、この辺りはかなり頭が痛い部分だと考えられる。

・士はどうして大首領になったのか

 これまで「大首領」なる肩書きを持って仮面ライダーシリーズに登場した存在のほとんどは、人知を超越した存在や全く正体不明の不気味な者だった。
 中にはG.O.Dの呪博士(仮面ライダーX)のように、外観はともかくただの人間が首領だったという例もあるにはあるが、彼の場合は一応※1G.O.Dを組織したという敏腕ぶりが窺え、やはり普通の人間とは大きくかけ離れた存在だった。
 平成ライダー以降は、大首領はおろかそれに匹敵するような「敵のラスボス」は事実上存在せず、あえて近いものを挙げるなら「劇場版仮面ライダー555 パラダイス・ロスト」で登場した、スマートブレインの三大黒幕くらいのものだ。
 ともあれ、これらに共通するものは「大首領とされるだけの存在感・怪しさ・謎」を内包し、どことなく不気味さを感じさせているという点なのは疑いようがない。

 さて、本作で実は大ショッカーの大首領だということが判明した士だが、残念ながら彼がそのような立場にあるという説得力は、ほとんど皆無だった。
 というより、あまりにも薄すぎた。
 士は、大首領であると同時に小夜の兄としてその過去を示す必要性も求められ、そのため「怪しさや謎」といった大首領的イメージを大きく損なった。
 とりあえず、これまでTV版で見せてきた“らしくなさ”は無視するにしても、本作だけで「彼が大首領である」ということを充分に理解させる必要性があったのは確かで、またこれが果たされたとはお世辞にも言い難い。
 本作だけ観ていると、大ショッカーと門矢家を繋げるものがほとんど見えず、大首領に両親がいるとか、妹がいるとか、しかも妹に優しいとか、あまりにも人間味が強く出過ぎている。
 これまで主役かつ仮面ライダーとして、多くの人々と世界を救ってきた士が実は大首領というのはかなり大きなサプライズの筈だが、だとしたらそれを裏付ける情報をしっかりと提示しなければならない。
 さもなければ、「あの士が、どうして?」という視聴者の疑問を解消出来ないからだ。
 また、そんな彼が後に再び仮面ライダーとして、かつての部下達と闘うという展開に繋がるわけだから、益々エクスキューズが必要になる。
 本作の一番まずいところは、こういった部分を単なる「ドッキリ的演出」に留めてしまい、裏付けの一切合切を放棄してしまったことだ。
 このため、士は(一応の)最終回にしてキャラ像が大きくボケてしまうという、本来ありえないようなペナルティを背負わされてしまった。

 確かに、士が大ショッカーと深い関わりを持っているという事については、納得出来る点はある。
 異世界の仮面ライダーの能力をトレースしたり、他の仮面ライダーを強制的に兵器に転じてしまうむちゃくちゃな能力は、大ショッカーの科学技術を用いて開発されたものであるとすれば納得も出来ようものだし、また似たようなシステムを持つディエンドライバーも並行作成していたとなれば、益々説得力が高まる。
 また、士が破壊者と呼ばれる理由も、彼が異世界でライダーを求めて旅する理由もすべて繋がるため、一応理想的解答としての側面もあるにはあるのだ。
 しかし、これら「納得できる部分」については、TV版で話数を割いて紹介してきたからこそのもので、本作一本限りで示された情報ではない。
 噛み砕いて云えば、もし「ディケイド」にTV版が存在せず、この劇場版一本きりしか存在しなかったとした場合、カメンライドやFFRなどの理由を説明されたとして、どこまで充分な納得が得られただろうか?
 恐らくは「いくら大ショッカーでもそんな無茶なこと出来るはずがない」と反発を生むのが関の山だろう。
 このように、士が大首領であるという本来なら衝撃的な筈の事実は、あまりに唐突過ぎて「理解はするけど腑に落ちない」という違和感バリバリの解答に堕してしまった。
 その上、なんとも情けない過程で月影と小夜にその座を奪われてしまう。
 この場合の「情けない」部分については別な演出とも絡むため一概に責められはしないが、どちらにしろ大首領なのにこの程度なのかよ、という失望感が発生してしまったのは事実だ。
 過去にないほどの大組織の首領が、正義の仮面ライダー代表として闘うという、「仮面ライダー1号2号対ショッカー」をも上回る筈の超絶展開は、これら描写力不足のため不発に終わった。
 またこれは、大ショッカー自体の存在感すらも揺らぐ結果にも繋がり、大変よろしくない形に落ち着いてしまったと云えるだろう。

 ただし、これらは「大首領」という存在を、過去のライダーシリーズの基準で計った場合の解釈であり、以前の大首領像を無理にリスペクトする必要性などないという考え方も、確かにある。
 言い換えれば、士はまったく新しい大首領像を構築したのではないか、という発想だ。
 それでは、そう解釈すれば充分に納得出来るものかと言われれば、それはそれでまた難しい。
 先で筆者が絶賛した「士が見せる弱々しい姿」が、この場合マイナスに働いてしまうためだ。
 リスペクトの有無に関係なく、何の特殊能力も持たない一般人女性に泣きつくような存在が、悪の組織の大首領らしい姿とは、とても言えそうにない。
 かといって、結城丈二の右腕を奪ったような残虐な行為を行ったという過去をもっと示せばいいのかと云われると、それはそれで今度は“主役としての”士のイメージが損なわれてしまう。

 結局、士というキャラは、時間をかけてその正体にまつわる情報を提示し、無理のない範囲で素性を示していく必要がある特殊な存在だったのだ。
 最後の最後まで正体を隠し、それをドバッと公開すればサプライズとカタルシスが得られるほど、単純な存在ではなくなってしまったのだろう。
 少なくとも、製作側と視聴者側で、士に対する認識のズレが生じていた危険性はすこぶる高い。
 筆者は、本作を観てそう判断せざるを得なかった。

※1:謎の秘密機関G.O.Dは、当初は日本を征服するために大国が水面下で手を握った結果発足した組織という設定だったが、いつのまにか呪博士が個人設営した大組織に変わってしまったという経緯がある。
「仮面ライダーX」は、このようなおかしな設定変更が他にも多数あり、いまだに語り草になるほどだが、このG.O.Dを巡る設定はその代表例と云える。

・GACKTは本当にライダーマンだったのか?

 先ではその存在の重要性について触れたGACKTだが、劇中情報だけ見る限り、彼は仮面ライダー4号の名を与えられた「ライダーマン」とイコールではない。
 なんせ、見慣れたライダーマンが彼とは別に登場しているからだ。
 つまりこの作品には、結城丈二が二人も出演していることになるわけだ。
 こう考えると、「ディケイド」の設定を踏まえても、何がなんだかよくわからない。

 情報を整理すると、GACKT氏の演じた結城丈二は、ライダーマンと同じ特徴名前、経歴を持ってはいるが、仮面ライダーとしての明確なビジュアルは持っていない。
 バイクもなければ変身を示すシークエンスも皆無だ。
 カセットアーム(←ちなみにこのページでは仮称として用いているので注意)にしても、オリジナル結城丈二の設定のいただきに過ぎず、少なくともあれだけでライダーマンだと認知するのには相当な無理が伴う。
 GACKT結城丈二をライダーマンとして存在意義を成立させたかったのなら、いっそオリジナル版のライダーマンは登場させない方が良かっただろう。
 いくら「ディケイド」が、オリジナル版と違うライダーが登場しうる世界観だといっても、基本的な情報不足のキャラにライダーマンを名乗らせるのは難しい。
 実際のところ、当初はGACKT氏が身に着ける新ライダーマンのスーツやバイクの登場予定があったらしいのだが、なんと撮影に間に合わなかったというマヌケ過ぎる展開があったらしく、結果このような形に落ち着いたようだ。
 GACKT氏がカメオ出演だったのは見たまんまなので、どうしてもスケジュール変更による調整が叶わなかったのだろうが、そのため「腕以外仮面ライダーっぽくもなんともない奴に“仮面ライダーとしての心構え”を主張されても」という、致命的なツッコミ所が生じてしまったのはいただけない。
 GACKT氏の気合の入りまくった演技は見所たっぷりだったので、それがこのようなとらえられ方をしかねない結果になってしまったのは、本当に残念でならない。
 後述する賀集氏の件なども含め、今回はこういう問題が多すぎな気がする。

 とりあえず筆者は、ライダーマンであるなしに関係なく、士の世界の結城丈二という人物が、士を本当の仮面ライダーとして目覚めさせるきっかけを与えたのだ、と解釈することにした。

・ああ無情、クウガ(だけ)に降りかかる大災難!

 本作は、8年ぶりにクウガの新しいフォームが登場するということでも話題になった。
 実は、DCDクウガの新フォーム登場の噂はTV版放送開始前(DCDクウガことユウスケがレギュラーになるという話すら信用されなかった頃)から広まっており、一時は結局嘘だったのかと忘れられかけていた事も手伝い、ちょっとした衝撃情報となった。
 皮肉にも、これは劇場版情報公開解禁よりもかなり前にネット上で広まったネタバレによるもので、しかもこの情報漏洩事件がニュース報道されてしまったため、WEB上の特撮マニアでなくても詳細なデザインが確認出来たという異常な事態が発生した。

 とにかく、このクウガ・ライジングアルティメットフォームはオリジナル版などにあった「アルティメットフォーム(黒のクウガ)」とは全く異なるデザインで、一部にアルティメットの情報を含みつつもン・ダグバ・ゼバを思わせる意匠も所々に追加され、さらにアルティメットよりも多くライジング化の影響が表出しているスタイルとなっている。
 更に、着ぐるみのせいで若干上半身が太めに見えるものの比較的細身なクウガが、思いっきりマッシブな体型になるという、アギト→バーニングフォームを越えるインパクトも持っていた。
 初期は目が黒いという、オリジナル版で云えば「理性を失い闘争本能に支配された五代雄介(回避したが)」に相当する状態もあり、ライジングアルティメットは多くの期待を担う存在となった。
 まあ特に期待していなかったという人、クウガが好きじゃないという人でも、どのような活躍をしてストーリーに絡むのか、それなりの関心はちょっとはあったのではないだろうか。

 だが。
 実際のライジングアルティメットの扱いは、多くの予想を覆すトンデモな扱い方をされ、肩透かしなどという言葉では済まないほどのガックリ感を与えてしまった。

 不意打ちで地の石による「究極の闇(黒い光線)」を浴びせられてユウスケが変化させられ、以後はかなり長い時間ビシュムの操り人形として動き士に襲い掛かるが、その間はビシュムの意志を伝えるための「テレビ電話」としての役割しかなかった。
 地の石が割れて洗脳が解けた後、ようやく本格的な活動かと思いきやほとんどなんの戦力にもならず、ディケイドと共にシャドームーンに挑むものの触れる事すら叶わず翻弄されるていたらく。
 その上、キングダーク登場時には唯一弱音を吐く役回りで、かなり…どころかまったく良いところがない。
 一部では、クウガが嫌いだった白倉氏の一存で意図的に貶められている、などといった噂すら流れているが、そう言いたくなるほど無駄に扱いが悪いのは事実だ。
 あれだけの新要素を加えられていながら、実際の活躍はTV版の「シンケンジャー編」にすら大きく劣るというのはどうしたものか。

 小野寺ユウスケasDCDクウガを演じた村井良大氏は、元来「仮面ライダークウガ」が大好きで、自分がクウガを演じると決まった時にはとても喜び、あらためて本編を全話視聴し直し撮影にあたったという名エピソードを持つほどの人物だが、どうもTV版の途中から扱い辛い存在とされたらしく、「変身できる(555の)啓太郎や(剣の)虎太郎」という認識にされたらしい(白倉氏インタビューによる)。
 確かに、TV版では不自然なほどに変身、戦闘がなく、また闘ってもフォームチェンジすらろくにさせてもらえずピンチに陥る(それでいてディケイドが変身したDCDクウガはきっちり能力を活かして活躍する)という、あんまりな扱いだ。
 本作の製作発表インタビューの際、大変微妙な表情で説明し難そうに自身の演技等について語っていたのがやたら印象深い。
 あの、まるでビシュムの洗脳が解けないままコメントさせられているかのような表情の奥に、どんな思いがあったのか大変気になって仕方ない。

 そういえば、本作ではこれ見よがしに「サムズアップ(五代雄介がよく行っていた親指立ての仕草)」を行っていたが、あれは何だったのだろう?
 TV本編では、オリジナルに敬意を表して一切やらないことにしていたと聞いているが……

・結局、世界崩壊の本当の理由は何だったのか?

 本作を語る上で大きな疑問点となる「月影が述べた世界崩壊の理由(の嘘)」についてだが、これについて筆者は特に問題視はしていない。
 というか、これはこれで仕方なかったのだと思っている。

 月影が最初に述べた「ライダーの存在のせいで各世界が引き合い、融合が進み世界の消滅が起きている」という理屈は、ライダーを殲滅させる(そして最後にディケイドを残す)という目的を果たすための詭弁だったこともあり、最初はそれなりの説得力があった。
 しかし、この理屈が本当だったとすると一つの世界にライダーが集まった場合、その時点で崩壊が進行してしまうことになる。
 TV版はいざ知らず、本作で行われたライダーバトルでもこれが適応されてしまうわけだから、3対3のバトルロイヤルなど(「ディケイド」的視点で見れば)計4世界のライダー世界の融合になってしまいかねず、とんでもないことになる。
 また、これだとディケイドやディエンド以外のライダーが世界間を移動しただけで問題が発生してしまうことになり、鳴滝が言うような「ディケイドは破壊者」という理屈が彼以外のすべてのライダーにも適応させてしまう。
 ましてや、ラストの全員集合なんか、もっととんでもないことだろう。
 ライダーが一つの世界に集まる事と、即世界が融合(崩壊)することはイコールではないだろうが、どちらにしても最後まで押し通すには無理のある理屈なのだ。
 それに、士の世界自体も融合による崩壊が始まっているわけで、これの理屈も成立させづらくなってしまう。
 だからこそ、月影の言い分は「士に他のライダーを倒させる」という目的が果たされた時点で、その効果を失う必要がある。
 そして、士の身辺に世界崩壊の理由と繋げる材料が何も存在しなくなってしまうため、そこから先の説明も出来ない。
 月影が、最後まで説明をしない理屈も、そう考えれば納得は可能だ。

 また月影の唱えた「嘘の」崩壊要因を、何らかの理由で鳴滝が知ってしまったのなら、これまでずっと言い続けてきた「ディケイドは破壊者」という言い分も一応筋が通る。
 ディケイド自身にそんな意志がなくても、彼が世界を移動すればそれだけでライダーが引き合う(世界の融合が始まってどちらかが崩壊する)のだから、いわば自覚なき破壊者ということになる。
 こういう流れであれば、鳴滝がひたすら言いがかりをつけ続けて来たことも、士は「そんな事言われても」的な態度をとらざるを得なかったのも、夏海が鳴滝を非難するのもすべて自然に繋がる。
 もっとも、鳴滝の素性が結局わからずじまいで、月影や大ショッカーとの関係も不明瞭な以上、これはかなり無理やりなこじつけでしかない。
 ただ、もしもこれまでの「ディケイド」という作品でずっと唱えられてきた“破壊者”という概念の説明について、最も回答に近いと思われる理屈が見えたという点だけは強調しておきたい。
 
 しかし、仮にこの想定通りの事情が本当にあったとしても、かなりの問題がある。
 月影が説明を途中放棄している点から察するに、彼は世界崩壊の本当の理屈を知っていたと見て間違いはないだろう。
 それについて劇中で一切触れていない点は、評価を下げざるをえないだろう。
 脚本内容的に、世界崩壊の理屈を決定付けるのが難しいのはわかるが、それと劇中で説明を放棄するのは話が別だ。
 世界が崩壊する理由を提示すれば、士の性格や立ち回り方からそれを抑える方向に行ってしまうだろうし、そうなると「これからもまた別な世界を巡り続ける」という結末を迎えづらくなってしまうのもわかるが、それはそれとして何かしらの結論は必須だった筈だ。
 「ディケイド」は、元々世界の崩壊を止めるために活動していた筈で、第一話でも紅渡がそれについて説明を施している。
 いわば「ディケイド」という番組が始動したイグニッションのようなものなのだから、ある程度の解答を提示するのは当然の義務だ。
 たとえそれが確実なものでなく、仮想だとしても、または士の力ではどうしようもないものだとしても、あるとないとでは説得力が大きく変わる。
 
 せっかくうまく練り込んだ部分だったのに、最後の最後で手を抜いた感があり、しかもそれが妙に目立つ。
 月影の発言は、そんな問題のように思えてならない。

・最後のライダー大集合は、ライダーバトルのライダーと同じなのか?

 公開前、ネタバレ情報でライダーバトルトーナメントが開催されるという話が出た際、ファンの多くはそれを「TV版で登場したようなリ・イマジネイション(非オリジナル)ライダー」だと解釈し、ラストバトルで集合するのがオリジナルのライダーだと考えたようだ。
 だが実際に観てみると、両者には特に明確な区別がない。
 それどころか、そのまま観ていると両方同じ存在としか思えなくなっている。
 ライダーバトルに敗北したライダーは死ぬわけではなく、必殺技を食らって爆発しても、その後へろへろしながらオーロラカーテンに姿を消す。
 多分だが、古い仮面ライダー作品しか知らない層の心象を考慮し、たとえ偽者だったとしても過去メインを張ったライダーを殺すわけにはいかないという配慮でもあったのだろう。
 しかし、それはそれでおかしな疑問点を生むことにもなってしまった。

 少なくとも、ライダーバトルの時点での大ショッカーと士(というか首領)の目的は統一されており、ライダー皆殺しが大前提だった筈だ。
 月影の言葉を真に受けていた士は、当初の目的を思い出しそれを果たすためにライダーバトル実行を命じたわけだから、「殺さない程度にかわいがる」レベルに留めるつもりだったとは考えがたい。
 また、その後大ショッカー基地内にて、地獄大使がユウスケに「ライダー潰しを手伝った」事について語っている。
 どう見ても生きてるのにあれで潰されたことにされているのも疑問ではあるが、大ショッカーは仮面ライダーを殺す気はなかった、とするのは無茶というものだろう。

 しかしそうすると、ラストバトルのライダー達はいったい何なのだということになる。
 「ディケイド」作品内では、いつのまにかライダーの世界が無数に存在することになってしまったが、月影論を取り上げると、仮に1号ライダーの存在する世界が全部で1000あったとしてそのうちの986番目の?世界の1号ライダーを抹殺したとしても、残り999世界の1号の存在が他のライダー世界を引き寄せてしまうことになり、まったく意味をなさない。
 そう考えると、ライダー潰しなるもの自体意味がわからなくなり、また最強のライダーをたった一人決める理由も理屈も通らなくなる。
 では、世界は無数にあってもライダーはそれぞれ一人ずつしか存在しないのか、という解釈になると、それはそれでまたおかしい。
 ライダーバトルに参加したライダーと、ラストバトルで集合したライダーが同一の存在で、それ以外には存在しないという解釈をしてしまうと、ではどうして彼らはライダー同士で戦うことを許諾したのかという疑問にぶつかる。
 彼らからしてみれば、そもそも同じライダー同士で闘う理由がないわけだ。
 TV版30話では、各DCDライダー世界が融合を始め、自世界の崩壊を止めるためにライダー達が闘いを始めるが、本作はこれとまったく事情が異なるので、別に考える必要がある。
 「仮面ライダー龍騎」に登場した13大ライダーみたいな特殊な事情は別として、少なくとも1号からRXまでは人間関係的なものも成立しているため、益々戦わせることが難しい。
 またRXやBLACK、アマゾンは、TV版でディケイドとの交流をしっかりやっている上に仲間宣言までかわしているのだから、その上でぶっ殺してやるって態度に出るのも妙だ(士が彼らを狙うのはともかくとして)。

 ――こう考えれば、やはりライダーバトルと集合時のライダー達は別人の方が都合がいい。
 いったい、どっちが正しい解釈に近いのだろう?

 驚くべきことに、ライダーバトルで負けたライダーは全員死亡しているという見解もある。
 映像上では間違いなく生き残っているのだが、あの時点での士の心情から、生かしておくことは考えられないというのがその理屈だ。
 これは、映像情報を無視したいささか乱暴な見解ではあるが、しかしそう考えてしまう理屈もわからなくはない。
 またこの論拠には、鳴滝の「生き残ったライダーを集めて〜」というセリフも関係している。
 あの鳴滝のセリフは、実際には「世界征服作戦を実行に移した後(劇中では月影が大首領になった後)にまだ尚生き残っている者達」を指していると考えるのが自然だが、誰もがそう解釈するとは限らないし情報も充分とはいえない。
 というか、それだけライダーバトルトーナメントのルール詳細が不鮮明ということだ。
 あそこで敗北したライダーをはっきり爆死させていれば、大集合時に「死んだ筈の彼らがどうして?!」といった疑問は出るものの、ちょっと前に殺しあってた奴らが何も言わずに助けに来るという違和感は和らぐ筈だ。
 しかし仮に、ライダーバトルトーナメントに出場したライダー達が同一だったとしても、鳴滝や海東の説得によって大集合が叶ったという見方も可能となり、結局、どのように考えても状況が整ってしまう。
 ライダー達が自分達の考えをまったく口に出さないものだから、何もかもわからないのもまずいのだが、これもまた、難しく考える必要のない部分、として切り捨てられてしまう見解なのだろうか?

・南光太郎と津上翔一とモモタロス

 本作は、「仮面ライダーBLACK RX」の南光太郎と「仮面ライダーアギト」の津上翔一が登場するということでも話題になったが、はっきり言って出たうちに入らない程度の出演でしかなかった。
 エンディング手前、去っていくライダー達を代表し、モモタロスも交えて士に一言コメントを残していくだけという、なんのために出て来たんだという程度のせつないものだ。
 期待に胸を膨らませて観に行った人達が、どれだけ肩透かしを食らったのか想像に難くない。
 南光太郎を演じた倉田てつを氏については、TV版本編で思い切り出まくってくれた上、本作中でもBLACKとRXの声を担当してくれたのでまだ我慢も出来ようが、津上翔一を演じた賀集利樹氏についてはもうなんと言えばいいのか言葉が見つからない。
 ましてもう一人のモモタロスは、劇中で結構目立つ発言を連発していたこともあり、短い時間ながらも存在感を充分発揮していたこともあり、相対的に寂しさが引き立ってしまう。
 友情出演といえば聞こえはいいが、それにしたってもっと扱いの仕方があったのではないだろうか?
 賀集氏の出演は、かなりギリギリで決定したようで、そのため出演場面があそこしかなかったという解釈も可能だろが、そんな裏事情で「じゃあしょうがないか」と納得出来るのは、ごく限られたコアなファンだけだろう。
 なんにしても、賀集氏の名前も映画宣伝に用いられていた事を考慮すると、とても良い評価は出来ない。
 津上翔一の登場で、「仮面ライダーディケイド」の世界観の中にはDCDアギトのいた世界とは別にアギトの世界が存在していることが明確化してしまった。
 これは、ストーリー的には些細なものとして済ますことが出来ないほど大きな影響を及ぼす筈だ。
 同一ライダーが複数存在しているとなると、ディケイドはなぜ芦河や辰巳、剣立の住む世界に行ったのかという疑問も生じるし、ライダーを破壊する、という番組当初から囁かれていたキーワードの意味も変質してしまい、客演ライダー達の存在意義が霞んでしまう。
 はっきり言って、この程度なら出すべきではなかっただろう。
 或いはRXのように、TV版でも賀集氏がゲスト出演する「“アナザー”アギト編」なるものをやれば良かったのではないだろうか?

 ――なんか、ものすごく誤解を招きそうな気もするが。

●TV版との相違点?

 ここではちょっと視点を変え、現時点で生じているTV版との違いについて触れてみよう。
 以下で述べるものは、ひょっとしたらこの後の展開でフォローが入る可能性もあるので、あくまで「ついで」として読んでいただけると幸い。

・ディケイドはなぜ大ショッカーに狙われるのか

 劇場版が「ディケイド」の最終回だとすると、士asディケイドが「なのだー」アポロガイストに命を狙われる理由は全くなくなる筈なのだ。
 にも関わらず、アポロガイストは「なのだー」と場所を問わずに狙ってくるのだ。
 お目当てのライダーをしつこく狙ってくるというのはオリジナル版にも準拠するポイントで大変に面白いのだが、「なのだー」の違和感は拭い去れないのだ。
 士が記憶喪失となった経緯が説明され、そこに何かが絡めば良いのだが、期待は出来るのだろうか? なのだ。
 「アマゾン編」では十面鬼まで何の抵抗もなくディケイド達と闘っていたので、更に訳がわからないのだ。
 これなら、最初は味方っぽく接してきて途中で袂を分った「ネガ世界編」の紅音也の方が、まだ説得力があるような気がするのだ。

・「世界を渡る橋」はどうなっているのか

 これは27話でのBLACK南光太郎の発言で初出の単語であり、本作でも度々用いられていた。
 理屈や起動条件は一切不明だが、TV版の画面情報を見る限り、大ショッカーに所属する者はこれをかなり自由に使えるようで、幹部のアポロガイストをはじめ、クライシス帝国から加わった怪魔ロボット・シュバリアンも(27話から突然)使用している。
 海東asディエンド、鳴滝もこれと同じような能力を持っており自在に世界を行き来出来るが、その理由に対する言及は30話現在特に示されていない。

 一方本作では、この「世界を渡る橋」は士が持つ固有の能力を指していた。
 月影や小夜の発言・回想などから、士は少年時代から素で異世界の壁を越えられ、しかもかなり自由に行き来出来ていたようだ。
 そんな彼が大首領を務めていた大ショッカーが、何かしらの技術でこの能力を研究発展応用させ、士以外の存在にも適応出来る様にしたのが「全ての世界の征服」作戦の原動力になっているのかもしれないが、これについては想像の域を出ず、確定的な情報はない。

 ここまでは特に大きな違いは見られないが、TV版初期話の描写を見ると、「世界を渡る橋」が士の能力とするには若干の矛盾がある。

 例えば第1話では、ワームに襲われそうになっている夏海との間にオーロラカーテンが発生したため、士は彼女を助けられず困惑する場面がある。
 この時のオーロラカーテンは本当の意味で障壁となっており、この状況を打開したのは、夏海の持つディケイドライバーだけがカーテンを乗り越えられたからだった。
 また劇中描写にはないが、ディケイドが異世界を超えられるのは頭に突き刺さったカード・ライドプレートの影響によるものという設定がある(ただし26・27話の描写を見る限り設定上だけで終わっている可能性も高い)。
 また、士が記憶喪失だったから上手く能力を使用出来なかった(そのためTV版ではうまく次元移動ができない)という解釈についてだが、これについても“ディケイドライバー紛失後に更なる次元移動を行っている”事が同じく第一話で証明されているため、関連付けることは難しい。
 もっともこれは、第一クールで降板した會川昇が当初考案していた(とされる)初期構成と、降板後の描写にズレが生じた可能性もあり、必ずしも重大な問題であるとは云えない。
 確かにストーリー的には矛盾ではあるが、「制作側の事情」という、視聴者には本来無関係な部分をも考慮に加え、許容・評価出来るかどうかは、観る人次第といわざるを得ないだろう。

・TV版で交流してきたライダー達との関係は?

 TV本編では多くの仮面ライダーが登場し、士と交流を持ちディケイドと共闘した。
 基本的には、9つの世界の平成ライダー(のリ・イマジネイション)とはいずれも親しくなっているが、本作で登場した平成ライダーズが彼らと同一なのかは定かではない。
 少なくとも、仮面ライダーアギトは芦河ショウイチではなく、オリジナルと同じ津上翔一(穿った見方をすれば、或いは翔一の名と同一の特徴を持つ別人物?)であり別人だ。
 かと思うと、仮面ライダーBLACK RXはTV本編の南光太郎と同一で(と判断して良いだろう)、統一性がない。
 まあこの辺は、急遽友情出演が叶った各役者との様々な兼ね合いの結果落ち着いたものだろうから、製作事情について疑問を抱くのは野暮だろう。
 ただストーリー解釈の観点では、大きな謎となってしまったことは否定しようがない。

 先述の「ライダーバトル参加ライダーと集合時のライダーは同一か」議論にもかかるが、本作は客演ライダーの立ち位置が大変分りづらく、これにより一切の事前情報等を知らないで見た場合、「TV版で仲間であることを認めた(両)南光太郎が、士を執拗に攻撃する」というある意味衝撃的な映像ということになってしまい、大きな疑問を抱かざるを得ない。
 またアマゾンにしても同様で、(劇中では明らかに声が違うが…)もしあれがTV版「アマゾン編」に登場したエンリケアマゾンだったとしたら、士自身の心情はともかくかなりショッキングだ。
 TV版では、士という“同じ志を持つ仲間”を認め、その存在に強い感謝の念を示していたアマゾンが、各種必殺技をふんだんに用いてディケイドを攻撃するのである。

 本作では、ユウスケのセリフから「仲間ではあるがいずれ闘う」という覚悟が双方に備わっているらしい描写があったため、ひょっとしたらそういうものが参加ライダー全員に備わっていたのかもしれない。
 しかし、どうあれ彼らの関係が劇場版に至ってどのような変化を遂げてしまったのかは、抱かざるを得ない疑問であることは間違いない。

●【オマケ】仮面ライダーディケイド オールライダー超スピンオフ

 本作公開に合わせて、劇場版公式サイト上で7月17日より有料公開されているショートムービーについても触れておこう。
 これは、士・夏海・ユウスケ・海東の四人をメインに、他作品の仮面ライダー等が突如乱入してコントを演じたり、または鳴滝が、リュウタロスの声を演じた鈴村健一氏(本人役として出演)と組んで仮面ライダーのファッション(デザイン)について語ったり、またはディケイドが鳴滝役の奥田達士氏演じる一般人に唐突にライダー変身ポーズを伝授するといった、本編では絶対観られないはっちゃた内容になっている。
 全30話配信予定で、脚本担当の中にはプロデューサーの白倉氏も含まれている。

 ここでの見所は、思わず“いいのか?!”と言ってしまいそうなタブー&内輪ネタ(ディエンドになぜバイクがないか、真・仮面ライダーの第一章はなぜ出ないのか、等)や、ディケイド撮影用マスクの絶望的な視界の悪さ(アップ用は縦一本の線程度しかない!)やスーツアクター、岡元次郎氏の体型を話題としたマニアックなもの、タックルを仮面ライダー化するための嘆願や、実は意外なモチーフが含まれていたキバのデザインの話など、大変豊富なネタが満載な点。
 更には、奥田達士氏演じる一般人を取り返しのつかない状態に追い込んでしまうディケイドの外道さにも注目だ。
 妻に実家に逃げられてしまった男をなぜか仮面ライダー1号にしてしまい、骨折している男を殴り飛ばし(その上ポーズを強要)、それでいて教え方は足の配置から腰の入れ方、腕の角度まで丁寧にレクチャーするアンバランスさが楽しい。
 ディケイドを演じる高岩成二氏も、声を演じる井上正大氏もノリノリで、特に「ひょっとしたら本気なんじゃないかコイツ」とすら思わされるほどの吹き替えは必聴の価値あり。
 特に、井上氏の気合の入りまくった「トォッ!」という掛け声は、本編でもそのままやれよと思わず言いたくなるほどハマっている。
 一方、なんだかんだで結構真剣に変身ポーズを再現しようとする奥田氏の演技も見所で、良い意味で「やりすぎ」だ。

 本編ではイマイチ存在感がハッキリしない鳴滝だが、このムービーでは異様な存在感を放ち、特殊な意味での萌えキャラとして昇華しているのも見逃せないポイントだろう。
 これを執筆している時点でまだ全ての公開は完了していないので、興味のある人は是非視聴してみるべきだろう。
 個人的には、士を演じる井上正大氏の吹き替え技術の目覚しい進歩が確認できる変身ポーズ講座をお勧めしたい。
 特に、アマゾン変身ポーズの回での邪悪なディケイドは、必見だ!

 けど少々残念だったのは、クウガの変身ポーズが間違っている(左手の配置は最初は腹の前)ことだ。
 その他、客演ライダーがほとんどしゃべらないのも残念。
 もっとも、いちいちポーズを取る度に「シャキーン!」と効果音が鳴るストロンガーは笑えるからいいが。

●総合評価

 結論として、大変に評価が難しい作品だと思われる。

 娯楽作としてはかなり優秀で、難しいことを抜きにして映像のインパクトを楽しむ分には充分過ぎるものがあり、大変に見応えがある。
 しかし、「仮面ライダーディケイド」のエピソードファイナルとして観た場合、或いはその完全な続編として解釈した場合は、大きな不満が残留する。
 また、ノスタルジー目当てで見に行けば「ディケイド」と平成ライダーシリーズの知識を予想以上に多く求められ、かと思うと、ディープなマニアは中途半端な描写の連発に頭を抱えかねない。
 こう書くとまるで問題点の塊のようにも感じられるが、さらに逆に言えば、これらの難点を予め理解(或いは覚悟)した上で臨めば、不思議に楽しめたりする側面もあったりする。
 このように、本作は様々な評価基準が混在している作品で、一言で良い・悪いとは断ぜられない性質を持っている。

 平成ライダーシリーズが10年目を迎え、その間関連雑誌・書籍・情報・玩具が多く出回った影響で、年齢に関係なく古い仮面ライダーを良く知る層が増えているという。
 小学生になったかどうかという年頃の子供が、劇場で昭和ライダーの登場に歓喜したりするほどで、少なくとも一昔前のように「最新のライダーは知ってるけどそれ以外は…」ということは、かなりなくなってきているようだ。
 昭和ライダー第一期・二期の放送が終了し、既に29年が経過し、BLACK&RX期ですら既に20年の年月が過ぎている。
 にも関わらず、それを生まれてまだ数年程度の子供達が知っているわけだ。
 彼らからすれば、20年以上も前のライダーシリーズはもはや失われつつある伝説に近いだろうし、ビデオやDVDで観たとしても、リアルタイムで触れることなど絶対に不可能なのだ。
 筆者も経験があるが、いくら再放送で旧作に触れても、リアルタイムで新作に触れる感動は絶対に味わえない。
 既に誰かが見知り、語ってきた媒体というものは、それを知る・知らないに関わらず、若い視聴者の“自分だけが持つ感激”を与え辛い。
 これは仮面ライダーに限らず、ある程度長期間続いたシリーズ物であれば、ほぼ例外なく感じられる感覚なのだ。

 そこに、「オールライダー対大ショッカー」だ。

 登場するのは、最新のライダーと、過去に主役またはそれに並ぶ役割を演じてきた大御所達。
 それが、リアルタイムで暴れまわるのだ。
 知識でしか知らず、また古い媒体でしか知りえなかった「伝説」が、まとめて“リアルタイム”で炸裂する。
 こんなに嬉しいことがあるだろうか?
 彼らが本作で繰り広げた活躍は、決して過去の焼き直しでも、再上映でもない。
 今現在、これ以上ないほど新しい状態で魅せているアクションなのだ。
 知らない人には新鮮に、知っている人には懐かしく、まさにおいしい所取り。
 お祭り企画だからこそ叶った無茶だといえばそこまでだが、だからこそのインパクトだ。
 これが、本作の持つ最大級の魅力であり、喜びなのではないだろうか。

 かつて白倉プロデューサーは、東映入社時に「RX時に客演したライダー達に苦言を呈した」というが※1、その解答がこれだというなら、確かに納得は出来る。
 ただ出てきて戦闘員と大差ない活躍に留めるくらいなら、たとえ一人ひとりのライダーの活躍シーンは短くても、彼らが集まるという事そのものに大事な意味を込める。
 本作は、そういう意味では過去の「ライダー客演作品」を大きく上回るものに仕上がっていると云えるだろう。

 ただし、当然ながらどうしようもない点も多く、特に変身前のキャラクター勢揃いが叶わないという点だけでも、「仮面ライダーストロンガー」最終エピソードの持つ迫力には到底及ばない(というか、そういう観点ではこれを越える作品は未来永劫二度と生まれることはない)。
 また、主役以外にも味わいの深いライダーは大勢おり、それらがあまり登場していないという点で残念に思う人もいるかもしれない(王蛇やキックホッパーなど、それなりにツボを突いたゲストはいたが)。
 なので、「過去のライダー客演作品を上回る」からと云って、それではこれが最高傑作だったかといえば、そうとはいえない。
 ここでもまた曖昧な表現になってしまうが、そういったアンバランスな性質が見え隠れしているのも、本作の大きな特徴なのだ。
 
 どちらにしろ、今後このようなとんでもない規模の作品はまず出てこないだろうし、仮に作れたとしても乱発は難しいということは、製作側も理解しているだろうと考えられる。
 内容の好き嫌いはあるだろうし、また理解の度合いも人によって違うだろうから、本作は今後も傑作・秀作・佳作・駄作といった様々な評価を与えられ続けるだろうとは思う。
 だが、それでも本作が、今の時代で出来ることの一つを成し遂げ、ファンの興味を大いに惹いたたことは、疑いようのない事実だ。

 「オールライダー対大ショッカー」は、様々な意味で愛され、語られていく一作になるだろう。
 個人的には、十年後、二十年後の再評価がどうなるかが、とても楽しみだ。

※1:「あばれ旅」7で記した注意書きと矛盾した記述だが、これは意図的なもの。
詳しくはWikipediaをご参照のこと。

【個人的感想】

 今回は、純粋に楽しめた。
 勿論首を傾げた点も多かったし、これで完全燃焼出来たかと言われると些か不満も述べたくなるが、筆者が観てみたいと思ったことや、やって欲しいと考えていた事の多くを実際に観ることが出来て、その点では大きく満足させられた。
 ただ、今回は本当にネタバレなしで見るべきだったと深く後悔されられたのも事実。
 もし、ネタバレ一切ナシで観られたとしたら、終盤これでもかと続くサプライズの連発にかなり印象を改めさせられていたことだろう。
 普通に考えたら、最後のバトルが巨大化戦だなんて、思わないもんなあと。

 本作の公開から、TV版最終回までには単純計算で22日(三週間)の開きがあり、また公開翌日に「アマゾン編」の前編が放送されたため、本作を本当に「ディケイド最終回」とした場合、実質4話分のズレがあることになる。
 この原稿を書いている時点では「アマゾン編」後編が終了しているが、このまま問題なくTV版と本作が繋がるのか、或いはいつものようにズレが生じ、結局別物となっていくのか、興味は尽きない。

 しかし、どちらであったとしても、筆者個人はこの映画が好きだ。
 かなり駆け足な内容でも、尺の足りなさが気になる部分が目立っても、本作は今まで平成ライダーが描こうとしなかった部分に踏み込み、きっちりと描きこむことに挑戦してくれた。
 それが充分な完成度であったかどうかはともかくとして、その姿勢に感銘を受けたのは紛れもない事実だ。
 無論、それは平成ライダーを10年見続けてきたからこそ感じる「妥協の後の産物」的感覚なのかもしれないが、それでいいのだ。
 だって本作は、その平成ライダーシリーズの一応の集大成的作品なのだから。

 「ウルトラマンメビウス」劇場版が、今後も更なる新作が観たいと思わせる常習性を感じさせるものだとしたら、本作は「濃厚すぎてこれ一本きりでも満腹する」作品だと、筆者は思っている。
 というか、もう次は、こういうの作るの難しいよね……?

 どうでもいいけど、GACKT氏主演のライダー作品、作ってくれないかなあ…。
 今回の、とてもカメオとは思えないようなマジ演技に、結構惚れてしまった。
 さすがは、仕事に一切手を抜かず、本作の仕事を受けた際も平成ライダーを徹底的に学習して臨んだというGACKT氏。
 これっきりにするのは、あまりにももったいなさ過ぎる。
 ご本人も、ライダーやりたいって言ってたんだし、もう一度起用してくれないかなあ、かなりマジで!

・蛇足:劇場の様子2009

 筆者は初日に、渋谷TOEIに観に行ったのだが、予想を遥かに上回るスカスカぶりに驚かされた。
 いや、下回るというべきか?
 夕方頃の上映だったが、席はだいたいどこにでも座れる状態で子供連れはほとんどおらず(いたけどまばら)、むしろ大人の単独客の方が多かったようだ。
 おかげで「あれ、これって意外に評判よくなかったのかな?」と心配させられたのだが、聞くところによると出だし好調のようで、平成ライダー劇場版の中でも上位に食い込みそうなほどの興行収入の勢いがあると報道されたのを見て安心した。

 そっかー、よかった!

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