仮面ライダーディケイドあばれ旅 14

後藤夕貴

更新日:2009年9月12日

 「仮面ライダーディケイド」28・29話は、まさかの仮面ライダーアマゾン出現!
 前回のRX&BLACKに続く昭和ライダーの登場は、恐らく予測出来た人はほとんどいなかったのではないかと思われる。
 しかも、比較的平成に近い作品ではなく、昭和ド真ん中の時代の、所謂旧世代ライダー!
 さすがにリ・イマジネイションの影響を受け色々と変化はしているが、それでもかなり原典を意識した造りとなっていた。
 また、大ショッカーの存在がより明確化し、「仮面ライダーディケイド」という作品の輪郭を強調したという点でも、語るべき部分は多い。

 というわけで、今回は「アマゾン編」について語ってみよう。

●強くてハダカで「強い?」奴

 「凄い」奴……なんじゃないかなあと未だに疑問が拭えない筆者……しかもエンリケアマゾン、全然ハダカじゃないし。
 気を取り直して、いつものようにオリジナル版との比較から行ってみよう。

【オリジナル準拠】

【相違点】(メインキャラの違いを除く)

【オリジナルを踏まえたと思われる注目点】

【大変コメントに困る点】

※1:劇中では出てこないが、設定上の名前はゴルゴスではなくユム・キミルとなっており、肩書きが同じだけの全く別人(別性質)と解釈した方が賢明かもしれない

※2:オリジナル版アマゾンの敵・ゲドンやガランダー帝国の獣人は、それまでの仮面ライダーの怪人と大きく異なり、デザインモチーフとなった動物の意匠が大胆に表面化している。
特に蛇獣人・ワニ獣人の外観などは顕著で、恐らく今回はこういった特徴を意識し、一目で何の動物の怪人かわかるものが選ばれていたのではないかと推測出来る。

 当初は平成ライダーのリ・イマジネイション世界だけで進められるとばかり思われていた本作は、前回のRXとBLACKに続き、よりによって昭和初期ライダーの中でも最も異色とされた「アマゾン編」に至ってしまった。
 少なくとも、ディケイドがクウガや龍騎の世界を巡っている頃にアマゾンの出現を予測出来た人などまずいなかっただろう。
 あまりの意外なセレクトに、一部WEB上で広まっていたネタバレ情報を信じない人達もいたほどだ。
 それほど、今回のエピソードはサプライズだったと云える。

 しかし、このエピソードは様々な事情が重なり、大変評価が難しいものになった。
 この後に続く「ライダー大戦編(仮称)」はTV版「仮面ライダーディケイド」の最終エピソードであり、その(悪い意味で)予想外な内容と結末のせいで様々な物議をかもした事もあり、直前の「アマゾン編」も巻き添えで酷評を食らう形になってしまった。

 このページでは、まず「アマゾン編」について批評し、他エピソードとの絡みを前提とした評価は別途まとめたいと思う。
 ひとまず、いつものように今回の見所をチェックしていこう。

●大ショッカーに支配された世界

 今回の世界で、一番オリジナルとかけ離れている点はこれだ。
 敵組織の活動が本格化しており、既に征服を完了した世界では、何もかも大ショッカーありきで機能しているようで、人間関係すら大きく歪んでしまっている。
 魔女狩りや赤狩りを連想させる「反逆者摘発」もさることながら、一般住民たちの意識改善すらも果たし終えているというのが怖い。
 しかも、マサヒコの発言から判断するに、少なくとも一年前くらいまでは普通に近い世界だった可能性が高い。
 だとすると、この世界における大ショッカーは、過去登場したあまたの敵組織の中で最も理想的な征服を成し遂げたのかもしれない。
 とある街の一角だけしか描写されていないため「アマゾン世界」の他の地域の状況まで断定する事は出来ないが、DCDアマゾンの「アマゾンは、どの国にもなじめない。街も人も全てが僕を拒絶しています」という言葉から、大ショッカーの支配はかなりの規模で進行している可能性も窺える。
 勿論、変身能力がある上に独特な風貌を持つDCDアマゾンだから、単に“ごく普通に考えられる範囲の差別”を受けただけという解釈も出来るが、この辺は視聴者の想像に任せるという感じだろうか。
 物語開始時、敵組織が既に世界支配を完了している物語というと、真っ先に思い出されるのが「超力戦隊オーレンジャー」だ。
 こちらは第一話の時点から、オーレンジャー側が無謀とも云える戦いを強いられる雰囲気があり大変趣深かったが、それでも一般人達の意識は支配者バラノイアに傾いておらず、強大な武力に無理やり押さえつけられているだけのような印象を漂わせていた。
 そういう視点で見ると、大ショッカーはいったいどういう策でこの世界を手に入れたのか、興味が尽きない。
 本当の支配とは、武力を示す事よりも圧倒的なカリスマを浸透させることにあるというが、大ショッカーの取った策がこれに準拠するものだと仮定したら、相当頭が良い。
 なにせ、異形の怪人が出てきても驚くどころか前に立ってライダーからかばうほどに意識の改変・統一が施されているのだ。
 どこぞの世界の「頭ドリドリでゴキブリインストール大作戦」に比べるまでもなく、本当に大したものだ。

 今回のゲストキャラ、岡村マサヒコのアレンジぶりも、大ショッカーを語る上で外せない。
 小学四年生の子供が大ショッカーへの忠誠心を理解・自覚し、あまつさえ何の疑問も持たずに献身するという「歪み」が、この世界の異常性を引き立てている。
 大ショッカースクールという「仮面ライダー」65話「怪人昆虫博士とショッカースクール」を彷彿とさせる機関が登場するのも実に面白いが、何よりマサヒコの服装とメイクが懐かしい昭和臭を漂わせていて実に(ネタ的な意味も含めて)楽しい。
 しかも、後編で士達に救われた後、突然メイクが取れて普通の少年の顔になっている(旧作で云うところの洗脳が解けた状態?)になっている所も、よくわかっている。
 ただ、オリジナル版の「アマヂョ〜〜ン(ヒホヘ)」と甘えるように駆け寄ってくる可愛らしさと比較すると、色々複雑な心境に陥ってしまう描写だったのも、今回の大きな特徴だ。
 オリジナル版マサヒコは、実は立花藤兵衛以上に「アマゾンが文化圏になじむために貢献」した重要キャラで、ハッキリ云って彼がいなければ「仮面ライダーアマゾン」という番組が成立しなかったほどだった。
 彼が常に友好的・積極的だったからこそ、オリジナル版アマゾンは救われ人間のためにゲドンと闘うことが出来た。
 また元々は敵だった筈のモグラ獣人も、オリジナル版マサヒコのおかげでレギュラーキャラと普通に馴染めるようになり、しかもラストに捨て身の大活躍を行い、人間達を救うまでに至った。
 元々は敵であり、しかも途中で何度も裏切りそうになっていたほど曖昧な存在だったモグラ獣人の死に際、涙を流しながら「死んじゃヤだよ〜!!」と抱きつき、彼に幸福な気持ちに満たされた最期を迎えさせてやれるほど、オリジナル版マサヒコは「異形なる者」との架け橋として重要な役割を担っていたのだ。
 だが今回は、こういったマサヒコ像はほぼ完全に打ち壊され、大胆なアレンジを施された。
 自分を信用して治療までしようとしてくれたDCDアマゾンを騙してアジトを通報し、身を挺して凶弾から自身を助けたDCDアマゾンからギギの腕輪を奪い、自分の存在価値を大ショッカーに再認識させるための売り込みを計るという、ガキにしとくのがもったいないほどの黒さを見せる。
 しかも、それだけの忠誠心を見せながらも怪人に改造される事を恐れるというハンパさも持ち合わせていた。
 相手の親切心や信用する心を逆手に取り、ためらうどころかニタリと笑うほどの大胆不敵さを見せるほどの悪党ぶりは、オリジナル版とは別な意味で物語の重要なファクターとなっている。
 マサヒコというごく普通の少年がこうなってしまうほど、大ショッカーの影響力が大きいという見方も可能であり、いわば彼の変貌がそのままこの世界の歪みっぷりを示していると考えられる。
 逆に言えば、既に成人しているリツコではいささか不充分とも云える。
 大人になれば自身の利害を計算して、思想とは違う部分で適応する事も可能なわけで、事実後編Bパートで彼女の大ショッカーへの忠誠心は大きく揺らいでしまった。
 自分自身が酷い目に遭いそうになって初めて事態の真実に気付くというのも物語的にはアレだが、描写的にはまあありえそうな話ではある。
 純真な子供までもがライダーに対して敵意を剥き出しにし、しかも実害を加えてくるという、それほどまでに歪んでしまった世界で、一切の味方もなく孤軍奮闘するDCDアマゾンは、どれほど悲しい存在だろうか。
 他にも様々なポイントがあるが、このように根源から何かが狂ってしまった「世界」から描写が始まっているという点が、この「アマゾン編」の独自性だ。
 似たようなもので、ライダー裁判という奇怪な“風習”が根付いてしまった「DCD龍騎編」というのもあるが、今回のインパクトはあれ以上だろう。

 今回、ゲドンの首領十面鬼ユム・キミルが登場し、大ショッカーによって与えられたと思われる能力を以って(否、もしやあれも古代インカの秘術なのか?!)ディケイド達を翻弄するという、なかなかの見せ場を作ってくれた。
 設定上の話だが、ユム・キミルも元・バゴーの弟子だった改造人間という触れ込みらしく、この辺にもオリジナル版十面鬼ゴルゴスとの共通点が見て取れる。
 しかし意外だったのが、「十面」の解釈の捻り方だ。
 オリジナル版は、九人の人間の頭と脳を組み込んだ人面岩と一体化した姿で、それぞれの頭が別個で会話するという怪奇演出が強調されていた。
 この九つの頭が、よく見るとどこかで見かけた方々に似ているとか、口を開くといつも「コロセー」「アマゾンヲコロセー」「処刑シロー」としか言わず、“九つも集まってる意味が全然ない”とよく揶揄されていたものだ。
 大してDCD版十面鬼は、おおまかなシルエットこそオリジナルと似ているが、デザインはより複雑化した上に表情のまったく読めない鉄仮面を装備し、しかも普通に球体と分離して格闘戦を行える。
 「十面」とは、ディケイドと同じく他の平成ライダーの性能を発揮出来るという意味らしく、能力を発揮する毎に身体の各部に掘り込まれた“ライダーの顔に似た模様”が浮き立つ。
 これを用いて、DCDクウガのマイティキックを同じ技で相殺し、ファイズになったディケイドを「ファイズ返し」で撃退した。
 クウガからキバまでのライダー数も9つという事を考えると、この調子でどのライダーになっても「ライダー返し」で対応してしまいそうだ。
 これは、限りなくディケイドやディエンドの系統に近い能力とも解釈可能で、色々深読みが出来そうな逸材だ。
 残念ながら、その能力の全てを発揮することなく敗退してしまったが、個人的には(もし叶っていたなら)アポロガイストとコンビを組んで、もっと早い時期からディケイド達を翻弄して欲しかったと思ってしまう。

●「アマゾン、トモダチ」ヒホヘ

 今回のメインゲスト・アマゾン(山本ダイスケ)だが、さすがに岡崎徹氏によるものではなく、新人俳優? のエンリケ氏が演じている。
 氏の本業はモデルとのことで映像作品での演技はこれが初だったらしいが、色々な意味で個性的なキャラとなった。
 演 技 力 に つ い て は 後 述 するとして、ひとまずDCDアマゾンの魅力について語ってみよう。

 今回のDCDアマゾン(これは変身前後を全て含む意)は、オリジナル版と大きく異なり低姿勢&丁寧語でしゃべるという面白いアレンジが行われており、その上で日本語慣れしていなさそうな不安定な口調が加わっていた。
 一部では、(たどたどしいしゃべりはともかく)「アマゾンがペラペラと日本語をしゃべりまくる」ということに対して違和感を唱えている向きがあるようだが、オリジナル版を踏まえるとこれは間違った印象による意見だ。

 アマゾンというと、だいたいの人が「いつも野獣みたいに叫んでいる」「片言でしか喋れない」といった印象を持っているようで、しかも「仮面ライダーSPIRITS」でもこういった描写で統一されていたこともあって、実際のイメージが随分と歪められてしまった。
 実はこのような描写は番組の前期のみであり、途中から(特にガランダー帝国編)では普通に流暢な言葉を操り、しかも変身後は「私」呼称、口数こそそんなに多くはないものの普通に会話を成立させていた。
 加えて変装と話術を用いて罠に嵌めようと画策したアカジューシャを逆に話術で罠に嵌め返すなど、昭和ライダーの中でも突出した頭脳派・知的キャラとして描かれている(個人的には、IQ600と設定されている本郷猛よりも遥かに頭のいいキャラだと確信している)。
 これらは番組の路線変更によるものなので一概に褒められたものではないのだが、とにかく「途中から野生児臭さを廃した」ことを知らないファンは相当多い。
 話を戻すが、今回のDCDアマゾンは後期の流暢にしゃべるイメージに近く、そこに前期の「言葉の拙さ」要素を若干加えたような印象を受ける。
 どちらにしろ、ですます口調で喋りながらも変身した途端「キキー!」と襲い掛かるアマゾンというスタイルは一種独特な印象で、オリジナルとは異なるイメージの構築に成功したと云えるだろう。

 DCDアマゾンは、人間を愛し特に子供との接点を大切にしようとする。
 士的視点で見れば「相手を信用しすぎ」という評価になるのだろうが、実際にはそうではなく「相手を信用しようと努力することを忘れない」強さを持っており、後に士もこれを認めている。
 DCDアマゾンにとっては世界のほぼ全てが敵なわけで、そんな中でも人間への想いを忘れないように努力しているというのは本当に大したものだ。
 東京にやって来た早々「ニンゲン、キライだ!」と叫びながら新宿の地下街を走り回ったどこかの誰かさんとは大違いだが、こういった所にDCDアマゾンの“戦闘能力とは違う”強さが感じられる。
 また、マサヒコと話す時にはきちんと目線を下げ(これは今回士もやっているが)、たとえ子供相手であろうと自身の過ちを素直に詫び、しかも治療のために薬草の調合まで行おうとする。
 悪い言い方をすればただのバカともなるが、これまで各世界を一人で巡ってきて、その全てで迫害を受けてきた彼が、尚も人間のために大ショッカーと闘おうとする姿は素晴らしい。
 これは、(展開上の是非はともかくとして)まず相手を疑うという姿勢から入っている士と実に好対照になっており、比較してみるとそれぞれの性質の際がより如実に感じられるようになっている。
 これまでも語ってきたが、米村氏の脚本にはこのような「好対照」が演出として組み込まれるケースが多いようだが、今回もその辺の特性が活きている。
 DCDアマゾンは、「人間の自由のため、ショッカーと闘う」という、「仮面ライダー」の原点中の原点に立ち戻ったキャラと云えるが、元々「仮面ライダーアマゾン」という番組自体が原点回帰を狙った作品だったということを踏まえると、この関連は大変興味深くなってくる。
 
 変身後についてだが、こちらはこちらでまた新鮮な場面を多く見せてくれた。
 オリジナル版では、ポージング後の変化が全てバンクフィルムによるもので、幻想的な変身過程しか描かれなかったアマゾンだが、今回はその過程を「引き」で見せており、ポーズ終了から変身が完了するまでの様子を見ることが出来るようになった。
 これは前回「BLACK RX編」でも行われた表現方法で、「ライダーの変身を客観的に観るとこうなるのか」という驚きを感じさせてくれたものだが、特に今回は途中に「目が真っ赤に輝く」という表現があるせいか、RXら以上に「異形への変身感」が強まっている。
 オリジナル版でも、バンク中に目の色が変化するシーンがあるが、これは岡崎氏の目のアップに色を被せているだけに過ぎず、正直あまり「目の色が変わった」感はない。
 しかし、今回は煌々と赤く輝いており、例えるならホラー映画で人が野獣型のモンスターになるかのような迫力がある。
 この時は、エンリケ氏の力んだ顔とのマッチ感が凄まじく、一瞬「ひょっとしてアマゾン以外の別な何かになっちゃうんじゃないか?」と不安にさせられるほどだ。

 変身後のアクションは、当然というかかなりオリジナル版を意識したものになってはいるが、あまり目立った特徴のないものだったのが残念だ。
 否、これまでの平成ライダーの戦法と比較すれば確かに異彩を放ってはいるのだが、オリジナル版で見られた「手足を前方に曲げた状態でバク宙※1」「小パンチ連打」「キックによる押さえ込み」「背面にいる敵を振り返らずに攻撃」といった特徴的なものがなかった。
 とはいえ、ジャガーショック(かみつき)や大切断、またこれらによる血しぶき噴出はきっちりやってくれただけでなく、威嚇音を鳴らしながらの構えなど、「わかってるなぁ」と思わされる部分はしっかり押さえている。
 更には、スタイルがまったく違う平成ライダー、しかもシリーズ中でも差異があるディケイド&クウガとも並び立っているわけで、いわば最新・平成基本形・旧世代と三種が同時に揃うことによる良い意味での違和感もおいしい。
 BLACK以降廃されたマフラーもここぞとばかりに自己主張していて、新旧の融和が実に新鮮なビジュアルを作っていた。
 個人的には、背ビレのヒクヒクも是非やって欲しかった所だが。

※1:前宙やバク宙は、普通真上にジャンプして、最頂点に達する辺りから身体を動かして回転力を確保する(ジャンプした瞬間に回ろうとすると絶対失敗する)もので、前宙の場合は上体を前に抱え込む動きで、バク宙は背を反らしながら下半身をはね上げる反動で回転する。
逆に言えば、こういった動作がない空中回転は、見た目の印象の何倍も難易度が高い。
オリジナル版アマゾンの場合は回転に入る前から既に姿勢が固定しており(よつんばいになるような姿勢のまま後方回転する)、仮面ライダーBLACK RXも“前方に進みながらバク宙する(前向きのベクトルが身体にかかっているのにそれと反対向きの力を滞空中に作り出す)”という離れ業を披露している。
アマゾンの場合は第三者による何かしらの協力によりそのような回転が行えた可能性もありうるが、どちらにしろ「跳ね上げればそのまま回転出来る」わけではないので、どっちみち難しい事には変わりない。
ちなみに空中で身体を動かす難しさは、トランポリン等で高くジャンプしている最中、手足をバタつかせてみればすぐに体感出来る。
初心者がやると、せいぜい手足を一回振るくらいが関の山なのだ。

●問題点

 さて問題点のまとめだが、実は今回はこっちの方に重心が寄っている感が強い。
 特に目立った部分に触れていこう。

・エンリケ氏の演技力

 先ではDCDアマゾンのキャラクター性を褒めたが、だからといって全てを絶賛するわけではない。
 今回アマゾンを演じたエンリケ氏の演技力は、本エピソードの完成度を大きく揺さぶるほどだ。
 本来、一人の役者の演技力を中心に批評するのは本意ではないが、だからといってスルーするにはあまりにも大きすぎる問題だったのだ。
 ひとまず、エンリケ氏の表情演技などについては特に触れないようにしよう。
 これについてはそれなりに頑張っている様子も窺えたし、過去何人も拙い役者が居た以上氏だけを批判するわけにはいかないからだ。
 だが、声の演技についてだけは、どうしても擁護のしようがない。

 感情の全くこもっていないセリフ、ただの棒読みでしかない言葉は学芸会レベルという表現ですら生ぬるく、素人演技にしてもほどがあるだろうというくらいだ。
 その上、滑舌も悪い。
 先の通り、エンリケ氏は今回が初めての演技だったとはいうが、それなら演技指導はいったい何をやっていたんだと言わざるを得ない。
 百歩譲って変身前は許容するにしても、変身後もそのままの演技でやっているものだから、「全然力のこもっていない声で闘うアマゾン」という、ものすごく気の削がれるものを見せられる羽目になった。
 「キキー」という鳴き声は本人だったのか、それともそこだけ別だったのかはわからないが、その合間に入る「はあっ」「はあっ」という掛け声になっていない掛け声は、萎えるどころの騒ぎじゃ済まない。
 変身しながら会話している場面は仕方ないにしても(これも正直かなり酷いレベルだが)、これなら変身後は、劇場版でアマゾンの吹き替えをした関智一氏に任せる・或いは劇場版のをサンプリングした音声を流用した方が正解だったのではないだろうか。
 この問題は何もかもがエンリケ氏のせいだとは言いたくないが、とにかくこれのおかげで大変不安な気持ちでDCDアマゾンの活躍を見守らなければならなくなった衝撃は大きい。
 せっかく「アーマーゾォン!」の部分にエフェクトをかけて迫力不足を補ったのだから、せめて決め技の大切断・スーパー大切断でも同じようにして欲しかったものだ。

 つーか。
 なんでエンリケ氏を選んだのか、そもそもそこからしておかしいだろうがよ、と。

・マサヒコの改心の説得力のなさ

 こちらも、先では大ショッカーの支配世界の象徴として挙げていたが、だからといって全く問題がなかったわけではない。
 大ショッカーへの忠誠心や、そこから来るDCDアマゾンへの敵対感情の表現、また策士ぶりが強すぎたせいなのか、反作用的に改心とその後の態度の豹変振りに大きな違和感が発生してしまった。
 タイトルではマサヒコとしてはいるが、これはリツコも含まれる。
 そもそも、リツコが述べていた理由「父親が死んで心に空いた穴」というのは、あまりにも説得力に欠ける。
 確かに、親族が死んでしまったことによるショックは大きいだろうが、それによって「他人を反逆者と断定したり」「悪意なき者を卑劣な作戦に巻き込んだり」できるようになるというのは、まったく違う話の筈だ。
 確かに、大ショッカーの傘下に入ってしまえば、そういった行動は保身の意味も含めて重要になるだろうが、それと自身が確立させたモラリズムは別物だろう。
 例えばこれが、ギギの腕輪を失い思うように闘えない(そういう設定があるかどうかはともかく)DCDアマゾンが酷い目に遭わされているのを目の当たりにして、我慢ならずつい彼をかばってしまったとか、または彼の真意を聞かされて敵意が氷解するとか、そういったものがあれば話は変わってきただろうが、マサヒコが改心した理由は自分がナマコ怪人に改造されそうになったため、リツコの方はマサヒコがギギの腕輪を取り返しに向かったためであり、どちらも超個人的な事情によるものだ。
 言い方を変えれば、彼らが改心した理由にはDCDアマゾンらの献身的態度や説得は全く効果を成していない。
 自分の身や家族がヤバくなったから改心しました、では、納得しろという方が無茶だろう。
 否、あれだけ心優しいDCDアマゾンだし、彼にとってはそれでも充分な理由になるだろうから、ラストのキャッチボールシーンに至る理屈自体はわからなくもない。
 だがよく考えれば、あのシーンも結構大問題なのだ。
 十面鬼が倒された=大ショッカーが滅んだ(またはアマゾン世界から撤退した)わけではないだろうから、いくら改心したからといって「大ショッカーからもっとも目を付けられている要注意人物」と親しく接するわけにはいかない筈だ。
 キャッチボールの様子は士達が見守っていたが、逆に言えばそれ以外の一般人にも余裕で発見されかねない状況だった証明にもなるわけで、彼らは滅茶苦茶ヤバいことを平気でやっていることになってしまう筈だ。
 ……ああ、だからアマゾンにユニフォームを着せてたんですか、そうですか……

 「アマゾン世界」での闘いはまだ続く…と士が言う通り、今回のエピソードは実質的にまだ解決はしていない。
 世界の歪み・凶悪さは何の変化もしていないのだから、たった二人の一般人(しかも片方は幹部候補生候補?で、もう一人は大ショッカースクールの職員)が改心したからといって平和な営みが行えるわけではない。
 こういう所をおろそかにしてしまったため、今回はとても白々しい締めになってしまったのが残念だ。

・いまいちテンポの悪い最終戦

 先に述べた「DCDアマゾンのヘッポコぶり」については割愛するが、それを抜きにしても今回の戦闘は全体的に構成がおかしい。
 DCDクウガ(&タイタンフォーム)を含め、十面鬼の能力も活用した前編→後編冒頭の戦闘はなかなか見事だが、それに対して最終戦闘のテンポの悪いこと悪いこと。
 早々に撤退したアポロガイストの後、一人残された十面鬼は不自然に反撃を行わず三人のライダーに集中攻撃を食らい、更にはコンプリートフォーム+ファイズ・ブラスターフォームのファイズブラスター集中放火(これでも十面鬼倒れず)、その上でスーパー大切断にてやっと決着。
 これらの攻撃の合間、十面鬼をよそにライダー同士の会話が悠々と行われる。
 まるで、RPGの中ボス戦で、因縁のあるキャラクターにトドメを刺させるために仲間の攻撃をわざと手加減させる「思い入れ優先プレイ」にも通じるものがあるが、それにコンプリートフォームを持ってくるというのもなかなか無茶が過ぎる。
 更に、スーパー大切断を発動させるまでには、ディエンドが強奪したガガの腕輪を(なぜかディケイドが最初から持っていた)「ガガの腕輪」カードで奪い取り右腕に装備、更に何の前触れもなく突然出現した「アマゾン(のコンドラーのマークの)カード」を使用してアマゾンの右腕に転送するという、あまりにもくどすぎるやりとりが行われている。
 この間、腕輪を奪われた元・持ち主と元・強奪主はただ見ているだけ。
 さっきのたとえではないが、ターン戦闘制RPGじゃないんだから、アイテムの受け渡しは攻撃ターンが回ってくる前になんとかしていただきたい。

 この上で、最後の一撃が「すぅぱーだいせっだぁーん☆」なもんだから、もうホント気が抜ける抜ける。
 スーパー大切断をやらせたかったのはわかるが、ご都合主義が過ぎるというものだ。

・大ショッカー基地はなんで出てきたのか?

 これは正しくは今回の問題点とは言い切れないのだが、一応触れておこう。

 「アマゾン編」ラストでは、劇場版映像の使いまわしで大ショッカー基地(本部?)が地上に姿を現すという場面が唐突に挿入される。
 しかも、その後に鳴滝が事態の急変に驚愕する様子まで描かれており、いかにも次週から大ショッカーとの本格激突が行われるだろう! という予感を漂わせまくった。

 だが、このシーンは結局ハッタリ以外の何物でもなかった。
 ラストで出て来た大ショッカー基地は結局TV版本編とは繋がらず、この場面以外TVで露出することなく終わってしまったのも奇妙だ。
 恐らくあれは、「アマゾン世界」とは異なった世界にある本拠地がいよいよ本格始動を始めたというイメージなのだろうが、物語の視点が世界を移動していない上、それまで「アマゾン世界」で散々大ショッカーの活動を示して来たのだから、理屈の上では「あれは異世界(恐らくこれから向かうだろう世界)である」と解釈するには無理がありすぎる。
 かといって、劇場版との関連を匂わすために出したにしてはいささかタイミングがズレており(29話放送日は8/16で、劇場版公開の8日後)、そちらへの関心を向けさせるための要素としても成立しているとは考えづらく、いったいどういう意図があったのか理解に苦しむ。
 個人的には、大ショッカーがまだ滅んだわけではなく、勢力は未だ衰えていないんだぞ、というのを示すイメージビジュアルだと解釈しているが(31話でも一瞬出ているし)、果たして本当にそういう意味があったのかすら不明であり、何に対しても確信は得られない。
 それどころか、大ショッカー基地をあのように登場させてしまったということは、その時点で「劇場版とTV版は繋がっておりません」とアピールしてしまったようなものだ。

●鳴滝と海東の関係

 鳴滝と海東の関係は今までも何度か匂わされており、鳴滝が海東に一目置いている(恐れている?)ような表現も見られた。
 その割には、バケガニをけしかけてディケイドごと攻撃しようとしたりする矛盾もあったが、とりあえず彼の憎しみが海東に直接向いているということはなさそうだ。
 ただ今回、鳴滝はなぜかディエンドのパワーアップカード(ディエンドの顔写真に背景が黄色い絵柄のもの)なるものを手渡すという、意味深な、或いは意味不明な行動を取っている。
 TV本編中、ディエンドの手持ちカードが増えたのはこれで二度目だが、彼自身の能力拡張(鳴滝のセリフを鵜呑みにするなら)の類はこれが唯一になる。
 劇中ではこれがかなりの取引材料であるかのような表現が成されていたが、いったい何故鳴滝がそういうものを調達出来たのか、大変興味深いものがある。
 “例の場所”から強奪してきたものなのか、鳴滝はディエンドライバー開発または性能拡張に携われるほどの技術力・知識を持っているのか、どちらなのだろう?

 ただ、せっかく提示されたこのパワーアップカードは、なぜか劇中で使われることはなかった。
 正しくは、初使用(かつTV本編で唯一)の「イリュージョン」を使用しているが、これがパワーアップカードによる影響なのか、それともたまたま今まで使っていなかっただけなのかは判別出来ない。
 一見すると、パワーアップカード=イリュージョンのようにも思える流れだが、よく画面を見るとこの時ディエンドが使用したのは背景が白いカードで、黄色のパワーアップカードとは別のものだ。
 この黄色いカードは12月の劇場版で効果を発揮するのか、それともこのまま思わせぶりで終わるのか、なんともすっきりしないものが残る。
 どっちみち、今回のエピソード……特にラストの大ショッカー基地出現を見る限り、今の時点では12月の劇場版に繋げる伏線であるとは解釈しづらいものがある。
 とりあえずは、海東がこのカードを変身時に使用して、目に見えない部分で微妙なスペック向上が果たされていた、と解釈するべきなのだろうか?

 そういえば、鳴滝はDCD555編にて「(海東を指して)お前とディケイドは決して相容れない。やがて滅ぼし合う!」と述べており、また海東も「世界を巡るのは僕の仕事で」という、それぞれ(TV本編では解明されなかった)謎の言葉を吐いている。
 この他にも、海東が士に対して「(世界を巡るのは)君にはまだ早い」「君は僕の足下にも及ばない」と言っていたり、鳴滝も海東を指して「君の恐ろしさは良く知っている」といった言葉を吐いている。

 これらについては第一次総括で改めて触れたいと思うが、なんにしてもミステリアスな二人である。

●「アマゾン編」は本当に必要だったのか?

 今回の内容そのものからはちょっと外れた話題だが、最後に少しだけ触れてみたい。

 「仮面ライダーディケイド」の放送が終了した2009年9月現在、ファンの間では最終回ブッた切り→12月の劇場版に丸投げ、というスタイルに対する批判が集中している。
 そんな意見の中に、「TV版の尺が足りなかったのでは?」という見地による「アマゾン編は不要だった論」が存在する。
 正しくは、「アマゾン編」だけでなく「ネガ世界編」〜「BLACK RX編」のすべてに対して同様の意見がある。
 要するに、「○○編をなくしてその分の尺をライダー大戦編に回せば、その分しっかりした結末が迎えられたのではないか」という見方だ。
 確かに終盤の尺の詰め方はかなりおかしかったため、こういった意見が出るのも頷けなくもないが、果たして本当にそうだったのだろうか?
 「アマゾン編」のTV版本編における存在意義は「大ショッカーの存在感と恐怖支配を示すこと」にあったと考えられるが、結果的に大ショッカー自体が劇中で有耶無耶にされてしまった上、「〜大ショッカー」との繋がりすら薄まって(途切れて?)しまったため、結果的に今回のエピソードは限りなく無意味に等しくなってしまった。
 「アマゾン編」が製作されていた頃には、既にTV版の着陸地点の見定めは完了していただろうから、そう考えれば今回のエピソードが無駄と思えてしまうのは仕方ない。
 「忍者キャプター」の最終回※1のような事でも起こらない限り、28・29話の製作段階で更に先の最終回を見据えた展開を熟考していた、などということはありえず、また「ディケイド」は全31話構成、9月第一週から「仮面ライダーW」が放送開始となる事は決定していたのだから、どうしようもない事情があってこうなった、という言い訳も成立させづらいだろう。

 「ネガ世界編」「ディエンド世界編」も内容的にはかなり評価が低いが、どちらもコンプリートフォーム初登場&ディエンドの過去話という重要な要素が一応含まれており、また「シンケンジャー編」と「BLACk RX編」は内容はともかくエンターテイメント的には大成功といえる内容だったこともあり、どうしても相対的に「アマゾン編不要説」の説得力が高まってしまうようだ。
 まあ確かに、DCDアマゾンとマサヒコ達を巡るエピソードとするより、最終決着に向けて何かしらの情報を積み重ねていく内容であったならまた評価も変わっただろうが、こういう内容だったためフォローも難しい。
 また「なぜアマゾンライダーが?!」という見解もある。
 これでは、あまった尺を埋めるために適当なライダーを(よりによって昭和シリーズの中から)選択してしまった→その結果尺の計算を誤ってああいうオチになった、とも受け取られやすくなってしまう。
 その上、「アマゾン編」はオマケエピソード的性質も強かったため、益々厳しく見られがちになる。
 個人的には、仮に「アマゾン編」がなくて「ライダー大戦編」が4話構成だったとしても、結局大した差のない結末になり、12月の劇場版に繋げられただろうとかなり確信を持って考えているが、上記のような憶測をされる理屈は痛いほどよく解る。

 「アマゾン編」が、最終エピソードの手前にあろうがなかろうが関係なく、有無を言わさぬ大迫力&大興奮の名エピソードとなっていたら、もっと別な擁護意見も出てきただろうが、このようなムラのある内容では必要以上の酷評もやむをえないかもしれない。

 そういう意味では、「アマゾン編」は大変可哀想な位置づけにあったエピソードだと云えるだろう。

※1:「忍者キャプター」の最終回は、実は通常のエピソードの一つとして普通に撮影を進めている途中(具体的にはAパート撮影中)、突然「これ(今撮っている回)を最終回にしてくれ」と指示され、そこから無理やり作り変えたものである。
そのせいか、最終回のとしての機能を殆ど果たしておらず、かなりドタバタした締めになってしまった。
同様のエピソードは、(現在語り伝えられている限りでは)他に例を見ないため、大変稀有な事態だと云える。

【個人的感想】

 正直な話、今回はかなり微妙だった。
 個人的にアマゾンは大好きなライダーで、昭和系では二番目に好きなのだが、一番好きな「仮面ライダーX」がネタ的な意味で好きということもあって、真っ当な評価としてはトップだと思っている。
 そのせいもあってなのか、27話予告時の「あーまーぞーん」にはかなりガックリ来てしまい、テンションが著しく低下した。
 まあ、実際に始まってみれば結構好意的に観ることも可能ではあったし、変身時の声にもエフェクトが加わり違和感が緩和されてたからまだ良かったが、やっぱり変身後の掛け声など萎えてしまう点も無視出来ず、かなり辛かった。
 片言の丁寧語で一生懸命人と接するエンリケアマゾンはキャラクターとしては好みだが、とにかくそれだけでどうしても良い評価が出来ずにいる。
 これなら、いっそ某超人機みたいに、変身後の声を変更させた方が良かったのではないだろうか。 ……とすら思えてしまった。

 やっぱり、ヒーローの戦闘には迫力のある声が必須なんだなと、改めて思い知らされることになったが、同時に「ではなんでこんな(演技をした事がないというほどの)人をキャスティングしたのか」という疑問が拭えない。
 主人公の士を演じる井上正大氏も、当初はその演技の拙さが大々的に叩かれたが、めきめき実力を上げて行き違和感は相当薄まったが、よりによって今回は「よりエンリケ氏の演技の拙さを強調する」役割を担ってしまった。
 というわけで、内容的には見るべき部分も多く面白みも充分あった本編だが、筆者はものすごくつまらない一点がどうしても気になり続けてしまい、良い感想を述べられない。
 その上、この次の「ライダー大戦編」で更にテンションを落とされてしまった。
 この経緯については次回語るとして、本当に残念なエピソードだったと考えている。

 けど、なんだかんだで見返すと案外捨てがたいものもあるんだよなぁ、エンリケアマゾンも……

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