仮面ライダーディケイドあばれ旅 9

後藤夕貴

更新日:2009年7月4日

 第18・19話は「仮面ライダー響鬼」の世界。
 そして、これが9つ目の世界で、紅渡が第一話で述べていた台詞によると、最後の世界になる筈だった。
 実際にはまだまだ続くことになるのだが、テレビ朝日側プロデューサー・梶淳氏のインタビューによると、この時点までが実質的な第一部となっているようだ。
 というわけで、今回は「仮面ライダーディケイド」の一区切りである、DCD響鬼編について触れてみよう。

●サボる響鬼

 まずはいつも通り、オリジナル版との比較から行ってみよう。

【オリジナル準拠】

【相違点】

【オリジナルを踏まえたと思われる注目点】

【どう表現していいのかよくわからない点】

※1:響鬼→牛鬼の変身を経て戻ったヒビキは、変身前と違う服をサポート役なしで着ている。(掲示板での閲覧者様からの指摘より)

※2:「仮面ライダー響鬼」の初期設定(ないしは未使用設定)で、鬼の力を制御出来ないと鬼の力に支配されてしまうというものがある。
劇中では、これに限りなく近い設定を用いた存在として朱鬼が登場している。

※3:本編とは全く関係のない事だが、オリジナル版でトドロキの恋人役・立花日菜佳を演じた神戸みゆき氏は、2008年6月18日、心不全のため24歳の若さで急逝されている。

※4:オリジナル版前期十五之巻「鈍る雷」にて行なわれた、童子達とザンキのかけあいの台詞『鬼か』『鬼め』「鬼だよ」に絡めたものと思われる。

※5:小学館刊「てれびくん」2005年11月号告知、読者全員サービス(という名の通販)にて「仮面ライダー響鬼 超バトルDVD 『明日夢 変身』」という、明日夢が響鬼に変身して戦うというオリジナルではありえなかった夢のバトルが収録された物が存在している。
また、オリジナル版前期第四話の時点で変更された「明日夢が響鬼の弟子になる」という路線が予定通り行なわれていた場合、劇中でも同様のシチュエーションが行なわれていた可能性はある。

※6:オリジナル版後期四十五之巻「散華する斬鬼」にて、轟鬼の復帰を見届けた(既に肉体は死亡している状態の)ザンキが、枯葉となって姿を消すという演出があった。

 「仮面ライダー響鬼」は、29話までを担当したプロデューサー高寺成紀氏が放映期間中に更迭されるという東映特撮史上前代未聞の事態が発生し、30話以降は白倉プロデューサーが担当、脚本も井上敏樹氏&米村正二氏となったが、この影響で途中からかなり雰囲気が変化してしまった。
 このため、ファンの間では「響鬼前期・後期」と分類して評価する傾向が見られ、今日に至っているが、本ページもこれを踏まえ「仮面ライダー響鬼」1〜29話までに関係する話題の場合はオリジナル版前期、30話〜最終回まではオリジナル版後期と記述させていただくことにする。

 DCD響鬼編は、製作が「オリジナル版後期」と同じく白倉P&米村氏脚本のため、後期のイメージを継承するのかと思いきや、比較的「オリジナル版前期」に近い雰囲気を盛り込んだ。
 ただし、人間関係の対立や奇妙な演出など、「オリジナル版後期」に見られたテイストも含まれているため、どちらがベースとなっているか断定するのは難しい。
 どちらにしろ、「仮面ライダー響鬼」という作品全体を基盤に置き、アレンジを行なっている事には違いない。

 今回は、DCD電王編と同じく、オリジナル版のキャストが多数登場するという事で話題になった。
 しかし、キャストが同じだけでキャラクターそのものは同一ではなく、DCD的なアレンジが施されている。
 更に、オリジナル版後期で劇的な散華を見せたザンキまで登場しているというサービス? もある。
 ザンキは、オリジナル版では当初チョイ役の予定だったが、予想外に人気が出たためレギュラー化し、主役回まで作られただけでなく終盤近くまで出演し続け、退場エピソードまで作られた挙句、あまつさえ当初予定されていなかった関連玩具まで発売されるという、凄いキャラだった。
 また、ザンキを演じた松田賢二氏はこれで更なる大人気を博し、さほど間を空けず他シリーズにもレギュラー出演するほどだった。
 それほどのキャラ&演者だから、今回のDCD版で別な人が演じていたら、その違和感は相当なものになるだろうと覚悟していた筆者は、安堵すると共になんだか妙に拍子抜けさせられた。

●ヒビキとアスム

 今回の注目所は、オリジナル版で最大のポイントであったヒビキとアスムの関係のアレンジ具合だ。
 「仮面ライダー響鬼」は、ディケイドまでの平成ライダーシリーズ中、唯一“主人公がライダーではない作品”だった。
 安達明日夢という、ごく平凡な高校生(劇中で中学生から進学)が主人公で、彼の視点から鬼達や猛士の活動を見るという、一種独特の方式で描かれる物語だった。
(Wikipediaではヒビキが主人公とされているがこれは間違いで、明日夢が主人公というのは高寺Pの当時の発言による)
 これについては当時から賛否両論あり、また明日夢自身が「コミュニケーション能力に乏しく、自分では何も出来ない無気力な少年」として描かれていた事も手伝い、正反対の性質を持つ鬼達とは好対照にはなるものの、両者を結び付ける関係・絆がとても分かり辛くなっていた。
 鬼として魔化魍と命がけの闘いを行い、それでいて大人のゆとりを常に維持し続けるヒビキは回を追うごとにキャラの厚みを増していくが、それに反比例するように明日夢のキャラは薄まり、「彼は本当にこの作品に必要なのか」という議論まで発生するに至った。
 それほどの差があるキャラ同士、オリジナル版ではとうとう最後まで充分な絆や関係を築くには至れず、後期では数々のテコ入れ演出が加えられ多少キャラの厚みは増したものの、結局上手く機能するには至れず、“結局この二人の関係は何だったんだろう?”というしこりが残り続ける不満の大きいオチとなってしまった。

 オリジナル版がこのようなちぐはぐさだったため、果たしてDCD版ではどうアレンジされるのか、俄然注目度は高まった。
 結論として、“大変前向きで修行熱心なアスム”と“無気力でだらしないが、何故か妙に隙のないヒビキ”という面白いアレンジが成され、また「師匠から弟子への継承」もしっかりと描かれたことで、オリジナル版を超える説得力を生み出すことに成功した。
 これは、かなりの快挙と言っていいだろう。
 鬼の力を制御出来なくなったため、そしてアスムに同じ道を辿らせないために、ヒビキ流を自分の代で終わらせようとするヒビキ。
 一見飄々とした態度だが、その実深い考えと決断を感じさせ、また弟子への愛情を覗かせる。
 鬼になる事自体が危険であるにも関わらず、テング来襲時には咄嗟に対応しようとしてしまい、実際にDCDクウガが襲われれば葛藤の末に響鬼に変身するという、強い意志をも見せている。

 一方アスムは、未熟ぶりを自覚し、それでいて尚ヒビキに師事し音撃道を極めたいと望む真面目かつ冷静な性格で、たとえ誰も見ていなくても一人懸命に魔化魍と戦おうとしたり、稽古に励もうとする。
 初登場の時点で既に「アスム変身体」にまでなっているのも注目点で、この時点でオリジナル版より優れている。
 士達が目の当たりにした二人の関係は終焉を迎えつつある状況ではあったものの、それでも両者はそれぞれ別な形で音撃道に向き合っていた。
 こういう部分をしっかり描いていたためか、やや突発的にも感じられる筈のアスム響鬼化にもさほど大きな違和感はなく、また牛鬼との対決・決着も非常に上手くまとめられた。
 この辺りの完成度については、大きく評価したい。
 ヒビキの心情を示す露骨な説明シーンが、一切ない点もポイントだ。
 ヒビキの想いは、デビッド伊藤氏の微妙な演技と台詞回しだけで間接的に表現されており、最期まで明確化することはない。
 だが、それでもきちんと「表面的な態度」と「本心」の区別がつき、しかも弟子に対する愛情もしっかりと伝わってくる。
 海東出現時、彼の方向に全く目を向けることなくDAを放ち、牽制するシーンなどは、それまでのだらしないイメージと相反するもので、そのギャップに背筋がぞわっとさせられる。
 また、この「隙がない(海東談)」シーンがあるからこそ、後にアスムと対面した際に不自然なほど隙が生じる場面が活きてくる。
 こういった、細かな要素の積み重ねで説得力を作り出していく方式は、平成ライダーでは珍しいこともあり、大変に目を惹く。

 これらがとても活きているため、牛鬼となったヒビキからアスムへと音角が手渡されるシーンが感動的になる。
 少し緊張した面持ちで真っ直ぐ見つめるアスムと、優しい微笑みを浮かべながら音角を差し出すヒビキ……そして、強く頷くアスム。
 二人の間に、余計な言葉などない。
 お互いの真意を、気持ちを理解し合った者同士・理想的な師弟である事、魂の継承がしっかり行なわれた事がこれ以上ないほど伝わる名場面だ。
 特に今回、イブキやザンキが師として若干問題があるように描かれている事も好対照となり、益々この場面の良さが引き立つ。

 アスム響鬼が、この場面の後ためらうことなく音撃棒を叩き込むのも、意味がある。
 もしここで、ヒビキの名前を叫んだり、手が鈍るなどのワンクッションが入ってしまったら、せっかくの感動も台無しになっていただろう(それ以前にも攻撃の手を弱めてしまう場面があるし)。
 愛弟子が鬼の力を制御出来ると信じ、また新たな音撃道を作り上げていく事を信じた上で、ヒビキは音角を渡したのだから、アスムはそれに応える―牛鬼を仕留める―必要がある。
 その後のバケガニ登場までにもうちょっとだけ余韻が欲しかったところだが、実に素晴らしい演出だったと太鼓判を押したい。 

 個人的には、もしこの一連の場面をオリジナルのヒビキとアスムで演じたらどうなっていたか……などとつい妄想してしまう。
 それはそれでまた別な意味で見応えがあっただろうなあ。

 ただし、残念な点もないわけではない。
 これは問題点というわけではないが、せめて若干でも、ヒビキから修行をつけてもらうアスムの過去や、或いはヒビキとアスムの出会いを感じさせる回想シーンが欲しかった気がする。
 ほんの僅かな短い絵でも、そういうものがあれば、二人の絆は更に強調出来ただろう。
 というのも、筆者も含め、この場面を良しとしている人達は、無意識にオリジナル版のヒビキとアスムの関係と比較している可能性もあるからだ。
 オリジナル版と比較した上で、オリジナルではなしえなかった感動があったからこそ高評価となったなら、それは知識依存とも云えてしまう。
 オリジナル版はまったく未見だった人が、この一連の流れをどう評価するのか、残念ながら筆者には推測する術がない。
 ただとにかく、オリジナル版の知識に依存せず、純粋にDCD響鬼編としてこの流れを評価するためには、回想シーンなどによりもう少しヒビキとアスムの絆を印象付ける必要もあったのではないかとも考えてしまう。
 まあさじ加減の範疇かもしれないが、そういう判断もありうるという意味で、一応記述しておきたい。

 「仮面ライダーカブト」以降、評判を大きく落とした感のある米村氏だが、よく考えれば氏は「仮面ライダー響鬼(後期)」当時、かなり高い評価を残していたことをふと思い出した。
 米村氏は、「仮面ライダー響鬼」と相性が良いのだろうか?

●鬼達のスタイルの変質化

 DCD響鬼編では、鬼達の活動は武道の一環となっており、劇中情報を見る限りでは「魔化魍から人を守る」ことよりも、武道を極める過程として魔化魍と対峙するというスタイルに変化しているようだ。
 そのためか、オリジナル版と違い魔化魍探査や出現地域・季節などのデータ精査、魔化魍の個別分析などの描写は一切なく、何の脈絡もなく出没する魔化魍達を後追いで発見し、討伐する形になっているようだ。
 一応、ヒビキ自身は「俺達は魔化魍を倒すために鬼になる道を選んだ」と述べているので、完全にはそうでないのだろうが、そのヒビキ自身も魔化魍との対峙についてはザンキらと同じプロセスだったため、あまり説得力がない。
 これだけ見るとかなり違和感の強い変更で、ともすれば「仮面ライダー響鬼」の「鬼とは何か」「鬼となって人を守ること」といった根本的なベース設定すら揺るがしかねない。
 確かに、DCD版はリ・イマジネイションの世界なのでベース設定といえども厳守する必要はないが、これは例えるなら「キカイダーの正体は生身の人間」「ヒビノミライは地球の力を得てメビウスになった元一般人」くらいの大変更で、我慢ならない人にはとことん受け付けないレベルのものだろうと推測できる。

 だがよくよく考えると、これにより「飛車と共に移動」や「DAによる魔化魍索敵」等、ともすれば回りくどく感じられかねないプロセスが省け、尺を稼げるメリットも生じる。
 一年スパンの番組なら、戦闘開始前に多少多くのステップを踏んでも問題はないかもしれないが、たった二話分しかないDCD版でいちいち同じようなことをしているゆとりはないだろう。
 オリジナル版後期でも、魔化魍出現から戦闘開始までのプロセスが簡略化したが、DCD版も同じような考えだったのかもしれない。

 まあ、鬼が武道家にされるというアレンジが必ずしも最良だとは思わないが、どちらにしろ「身体を鍛える」「師匠と弟子がいる」「鍛え上げる事で鬼に転ずる」という最低限のキーワードは守られているわけで、こういうのもありではないかと考える事も可能だ。

 ただ気になるのは、やはり「この体制で、どこまで魔化魍の出現に対応出来るのか」というところだろう。
 「響鬼の世界」というからには、やはりザンキやイブキ、ヒビキ達の周囲にばかり都合よく魔化魍が登場し、それ以外の地域にはまったく出現しないという事はないだろう。
 弦・管・鼓の各音撃道が、各地に散らばっているというならまだ話も変わるだろうが、本編を見る限りとてもそんなグローバルさがあるようには感じられない。
 DCD響鬼編の物語そのものには影響しない部分ではあるものの、原典がその辺にもきっちり触れていた手前、気にならないかというと少々微妙な部分ではある。
 せめて、ザンキ辺りにでも「全国に俺の弟子達が散らばっている」的な発言をさせれば……って、それだとトドロキへの継承が出来ないのか……

●海東は優しい? それとも外道?

 DCD響鬼編では、海東がなぜかいつも以上に前面に出張り、士の決め台詞を奪ったりこの世界の主人公を結果的に救済したりと、「いったい何を食ったんだ?」と追求したくなるほどの変貌ぶりを見せた。
 ただ、その活動内容には、多くの疑問も寄せられている。
 いつものお宝争奪については不問に伏すとして、今回彼は「ヒビキを(二度目にあたる)牛鬼化させる」きっかけを意図的に作っており、結果的に彼を死なせることになった
 これには批判的な意見も多く、また海東本人の言い分もあって、とても許されるような行為ではない。
 しかし視点を変えると、海東はきっちりヒビキの意志を汲んだ上で、あのような行動を取ったとも解釈できる要素がある。

 海東は、当初アスムと接触した際にヒビキのことを多く聞いていた。
 海東自身の考えはともかくとして、少なくともアスムの心情は理解していたことだろう。
 その後、海東はヒビキにも接触し、(彼にとって特に必要のない筈なのに)アスムの考えを伝えている。
 いわば両者間のメッセンジャー役を買って出ているようなものだが、その際にヒビキ=牛鬼の正体を知った。
 海東に音角を預けたヒビキは、「少年が鬼になるというなら伝えてくれ。俺はあいつにとどめを刺して欲しい。それが、俺の魂を受け継ぐということだ」と語り、またアスムが自分と違い、鬼の力を制御出来る筈だという期待をも抱いていた。
 この直前、ユウスケと夏海に「もう一度牛鬼に変身したら、恐らく二度と元には戻れないだろう」と語っていた事からも、ヒビキはそう遠くないうちに決定的なことが起こることを見越していたとも判断出来る。
 この時、海東はヒビキから音撃道の巻物を奪うことが出来なかったが、後にアスムを連れて来てヒビキを油断させ、まんまと目的を果たす。
 巻物を強奪した際の、アスムに対する「君を利用しただけだ」という発言もあり、やっぱりこいつはこういう奴か…という印象も抱かされるが、よく考えると、ここで海東は奇妙な行動を取っていることに気付く。
 
 ザンキやイブキの許から巻物を奪った時は、その時点ですぐ逃走し、彼等やディケイドには特に危害を加えていない。
 「桃」は置いていったが、それは追っ手を撒く意味の方が強く、自ら相手を傷つける意図ではない。
 というか、加える必要がなかったと見ていいだろう。
 にも関わらず、(ザンキ達と同じような反応を示した)ヒビキの時だけは、ディエンドライバーによる威嚇射撃を行なっている。
 位置的にも、状況的にも、ヒビキを威嚇や牽制などする必要などないのにだ。
 また、これをきっかけに再び牛鬼化したヒビキが巻き起こした戦闘の場にわざわざ戻り、それどころかアスムに音角を与えた上に自ら変身、戦闘に参加している。
 形のあるお宝を手に入れられなかったため、こっそりと戦線から身を引いたDCDアギト編の頃からは、とても考えられない行動だ。
 音撃道の真の宝が見たかったから、というのもあるのかもしれないが、あれほどの見栄を切って変身し、セッションにまで参加しておいてそれだけってことはないだろう。
 やはり、海東には海東なりの、アスムやヒビキ達に対する考えがあっての行動だったと見るべきだろうし、そうでなければ、特に主役編でもない筈のエピソードで士以上に出張る必要はない筈だ。
 
 筆者はこの流れがあるため、ヒビキを牛鬼化させていながらもアスム達から礼を述べられるという件について、特に違和感を持ってはいない。
 また、その時の「よしたまえ、気持ち悪い」という返答も、彼の心情を考察した上で判断すると非常に面白みのある台詞に化ける。
 海東からしてみれば、結果はどうあれヒビキを死なせるきっかけを作ったわけで、更にはアスムを騙していたこともあり、彼に憎まれこそすれ感謝されるいわれはないと考えていただろう。
 だからこそ、想定外の言葉をかけられ、動揺したのだ。
 海東が動揺するという場面は、この時点までではほとんど見受けられなかったこともあり、大変に印象深くなっているが、わざわざそういう表情を加えた事には意味があった筈だ。

 ただ残念なのは、演じる戸谷公人があまり表情による演技がこなれていないせいか、微妙な心境変化が感じ取り難い感があり、それが若干支障を来たしていた点だ。
 また、台詞回しもこれまでの海東パターンの繰り返し過ぎたせいなのか、場面ごとに妙に違和感のある(場になじまない?)言い回しに気になった。
 こういう点があったため、海東がどこではっきりと心境を変化させたのかが、大変伝わり辛い。
 あまり感情を示さないキャラだというのはわかるが、だからといって心境変化を感じさせなくても良いというわけではない。
 この辺は、後の「ディエンド世界編」で再び注目すべきポイントとなる気がする。

●感動の、三大音撃セッション

 今回、最も注目を集めたのは、対バケガニ戦でライダー達が見せた音撃セッション攻撃だろう。
 これは、DCD響鬼編のみならず、「仮面ライダーディケイド」全体の中でも名場面の一つに数えられるほどの価値のあるものだ。
 ファイナルフォームライドでDCD響鬼をアカネタカに変え、バケガニを転覆させた後にファイナルアタックライドでDCD響鬼を音撃鼓化。
 どこから取り出したのか※1音撃棒を持ったディケイドが響鬼音撃鼓を叩き、続けて轟鬼が飛び乗って音撃斬・雷電激震をスタート。
 更に天鬼が鬼石を打ち込んで音撃管・疾風一閃。
 ディエンドが(またまたどこかから突然取り出した)青い音撃棒で虚空に浮き出た青い音撃鼓(のようなエフェクト)を連打。
 そこに、素顔を晒した威吹鬼と斬鬼が、それぞれ音撃管・音撃弦(きちんと烈斬で)を携えて参戦。
 DCD響鬼自身も加えると、総勢七人ものライダーによる饗演!
 小刻みに切り替わる場面、時折挿入される印象的な書き文字、暗い背景で演奏するライダー達のイメージカットが入り混じり、その上見事に曲として成立しているテンポの良い演奏が加わり、嫌が上にもテンションが上がりまくる!
 しかも、ディケイド(パーカッション)から始まり、轟鬼(リズム)、天鬼(メロディーライン)と順番に加わり曲を成立させ、更にメンバーが加わることで音が増えていくという、実によくわかっている流れを成立させていた。
 また、時折入る轟鬼の「つぇっ!!」という気合が、益々心揺さぶってくれる。
 ノリはほとんどバンド演奏だが、それぞれの音の説得力と、メインの旋律を奏でるトランペットが全体を良く引き締めていて、大変印象深い「音」を作り上げた。

 「これこそ音撃!」と心底思わせる、実に素晴らしい説得力だ。

 オリジナル版でも、これほど大規模かつ迫力のある演出はない。
 この、まさに最強の音撃とも表現出来るだろう饗演シーンは、DCD響鬼編を最高の形で締めるエッセンスになっていたのは間違いない。
 前編放映後、ネット上であまり良い評価がされていなかったDCD響鬼編だったが、後編終了直後の反響は凄まじく、そのほとんどがこの饗演シーンを褒め称える内容だったのも印象深い。
 まあ、合成の都合なのかバケガニに接触していない状態の斬鬼の音撃が利いているとか、中には時々立ち位置が変化している者もいたりするが、そんなツッコミを入れさせないほどの破壊力がこのシーンにあったのは間違いない。

 またこれは、オリジナル版前期の「対ナナシ戦」で響鬼・威吹鬼・轟鬼が行なったトリプルセッションの惨状を覚えていると、涙なくして観られない感動のシーンでもあった。

 オリジナル版前期二十二之巻「化ける繭」では、ウブメとヤマアラシが合体した魔化魍「ナナシ」が出現し、この強大な敵に対抗するため、三人の鬼達が力を合わせた。
 ところが、響鬼達三人は、それぞれの音撃武器をいつものペースでバラバラに演奏し始めたため、(劇中ではちゃんと効果があったものの)単なる雑音をかき鳴らしているだけという、大変マヌケかつ陳腐な戦闘シーンになってしまった。
 本来なら、巨大な敵へ三人が同時攻撃敢行という、凄まじく燃えるシーンの筈だったが、この雑音攻撃のおかげで一気にお笑いへと転じてしまった。
 当時これはあまりに不評を買い、ネット上では「せめてちゃんとした演奏にして欲しい」「音くらい合わせろ」といった意見が沢山述べられていた。
 中には、これにより「仮面ライダー響鬼のスタッフはここまで音に対するこだわりがないのか」といった、辛らつな意見すら飛び出した。

 今から考えると、これは特定の音しか出せない玩具に絡む制約の都合だったのかもしれない。
 最近は、クレーム対策のため「玩具で出せない音を劇中で鳴らすことが出来ない」ようになっており※2、その制約のためあれ以上のことが出来なかったのではないかと判断することも可能ではある。
 ともあれ、この対ナナシ戦のセッションはファンを大きく失望させることになり、またその後も行なわれることはなかった。

 DCD版は、こういった制約がなくなったせいなのか、セッション攻撃は大変素晴らしいものに仕上がった。
 本当は、オリジナル版前期のスタッフもこういうのをやりたかったのかもしれないが、どちらにしろ、観る側からすればこれでやっと「約四年前の鬱憤が晴らされた」事になる。
 前回書いた「クロックアップ対ファイズアクセルの超高速戦闘」同様、これもファンが観たくて観たくてたまらなかった場面だったのだ。
 前回の超高速戦闘が「夢の対決の現実化」なら、今回は「ファンの希望の具現化」とも云える。

 ファンは、かっこよく音撃を決める鬼達の戦闘と、その迫力を堪能したかった。
 そのために、求めていたものは些細なものだった筈だ。
 だが、その些細なものは、四年前には何かの理由で叶わなかった。
 四年間凝縮した無念の想いは、突然こんな形で晴らされた。
 これで感激するなって方が無茶だろう。

 今回は音撃道のお宝を巡り、海東が奔走していたが、彼の云う「三つの音撃道が一つになることにより、本当の宝が生まれる」とは、まさにこれのことだろう。
 実に上手い表現だと思う。

※1:ただし、アスム響鬼はFFR直前に音撃棒を落としており、その後バケガニを倒して元に戻った際、腰のジョイントも含めて何も持っていなかった事から、ディケイドが彼の音撃棒を拾って使用した可能性は高い。(掲示板での閲覧者様からの指摘より)

※2:カブトの「クロックアップ」以降少しあやふやになった感があるが、劇中音と玩具音が違うことでクレームが来ることの対策との事。
ただし完全に音が同じとは限らず、中には銃撃音や激突音などが微妙に異なるものもある。

●役者各位の演技の変化

 今回は、あえてオリジナルキャストにも触れてみよう。
 さすがに放送終了から三年も経っているせいか、オリジナル版にも出演したキャストは若干雰囲気が変化しているようだ。
 もっとも、トドロキ役の川口真五氏のように「どう見ても変わったように見えない」人もいるが(笑)。
 というか、本当に当時のまんまの姿を見せてくれて、むしろ微笑ましく感じるほどだ。
 先述の、演奏中の気合の声も当時のまんまで、轟鬼ファンだった筆者は大感激だった。

 イブキ役の渋江譲二氏は、髪型が変わったものの同じくほとんど当時のままの雰囲気を保っていた。
 若干性格がイヤミになってはいたが、これについては内容の都合仕方ないだろう。

 逆に一番変化したのが、ザンキ役の松田賢二氏だ。
 なんだか色々な役柄が混じってしまっているようで、どことなく次狼っぽさも感じられる。
 もっとも、今回のザンキはオリジナル版とかなり性格が変わっており、粗暴かつ頑固者というイメージが強くなっていたわけで、立ち回り上しょうがなかったのかなという気もしなくはない。
 コワモテ系の顔の割に弟子想いで人間味に溢れ、その上妙に自己犠牲精神溢れるオリジナル版ザンキが、そっくりそのままDCD版にシフトしていたら……それはそれで違和感があっただろうと。
 それはそれとして、引継式で感極まってザンキに抱きつくトドロキのシーン、なんだかあそこだけ妙にオリジナル版の関係を彷彿とさせられた気がする。
 もっとも、「何? お願い、やめて!」はやりすぎだと思うが(褒め言葉)。

 今回個人的に注目していたのは、アキラ役の・秋山奈々氏の演技だ。
 秋山奈々氏は、近年アニメ作品「屍姫 赫(&玄)」にて主人公の星村眞姫那を演じたが、抑揚の薄い台詞回しのせいで演技力を酷評され、「棒読み姫」と揶揄されてしまったが、それでも今回のを見る限り、少なくともオリジナル版の時よりはかなり上達していると感じさせられた。
 まあ、当時の演技指導と今回のそれが全く違っていたという可能性もないわけではないが、以前よりも台詞回しはしっかりしたものになっていたし、何より当時感じられたモゴモゴ感が失せたのは大きい。
 確かに、まだ抑揚の幅に問題はあるが、世間で酷評されているほど酷いとは感じなかった。
 それに、表情の作り方や立ち方も、以前とは比較にならないほど上達している。
 凛とした態度や真面目な性格、またはっきりとした意見を持って臨んでいることがはっきり伝わるようになっており、純粋に演技の成長を楽しめるようになっていた。
 こういうのは、オリジナル版も観ていた者にとって、本当に嬉しいものだ。
 ただ、周囲にいるのがアレやコレなので、その個性にまたも埋没させられた感もなきにしもだが……

●細かな問題点

 それでは次に、全体の問題点に触れてみよう。

 DCD響鬼編の一番目立つ問題は、前半と後半とでテンションの差が大きすぎるというものがある。
 特に前半は、ともすれば「仮面ライダー響鬼という番組をモチーフにした質の悪いドタバタコメディー」にすら思え、また後半で海東の存在が意味を成すにも関わらず、今回特に大きな活躍をしていない士が前半でもてはやされるのも奇妙だ。
 しかも、いつもの突然コスプレで、たまたま大師匠の道着を着ていただけ、でだ。
 (個人的には、あれはどう見ても某サイキョー流にしか見えず、とても大師匠らしさは感じられなかったのだが…)
 確かに、後半は士の言葉で目覚めたザンキとイブキが、弟子達に引継式を行なう流れとなるが、戦闘シーンを別にすれば士の存在が役立ったはこれくらいのものだ。
 この辺りのバランスが大変ちぐはぐなため、どうにも前半のパワーが弱く、後半とのアンバランスさが際立ってしまうのだ。

 もう一つ、ものすごくお寒いオヤジギャグ的演出が目立ったのも、苦しいところだ。
 イブキの道場のテラスで、魔化魍(を巡る音撃道)の話をしている場でマカロン(菓子)が添えられ、牛鬼との戦闘の時は無意味に龍騎が登場する。
 結局、その後武装を変えカメンライド・フォームライドを変えても牛鬼には敵わなかったというオチがつくが、それにしても龍騎を出す必要性は「シャレで絡めた以外」にないというのは少々痛い。

 まあ、「桃」や「通」「盗」などの書き文字演出は、素直に笑わされたけど。

 カブトにカメンライドし、カッパと戦う際にクロックアップをするのはいいが、超高速移動している筈のDCDカブトの動きに反応し、ギョッとさせるのはどうかと。
 クロックアップを、非加速状態で視認出来るという設定がワームにはあり、それですら疑問視する声があったくらいなのだが、今回のはちょっと無駄な演出だったと言わざるを得ない。

 テングに襲われピンチに陥るDCDクウガの場面にも、疑問を挟む余地が多い。
 ユウスケが咄嗟に変身して飛び込むまでは良いとして、フォームチェンジもしないまま反撃されてしまうというのは、かなりの違和感が付きまとった。
 あの状況なら、ドラゴン化して高速回避するなり、またはタイタンになって防御力を上げて対応する事も可能だった筈。
 フォームは変えたものの、武器となる代用品が手に入らず追い詰められ、あわやというときにヒビキが変身して参戦する、という流れでも問題はないように感じるのだが、どうだろうか?
 今回に限った話ではないが、どうもサブキャラのユウスケを変身させて戦わせるというプロットが、持て余されているように感じられてならない。
 DCDクウガがオリジナル版ほどフォームの応用力が利かないものと仮定しても、一応敵の行動に合わせて形態を変えてきちんと成果を上げていた以上、今回だけこのような形で追い詰められるというのは、どうにも変だ。

 だが本当の問題は、カッパにしろDCDクウガにしろ、こういった細かい「おかしな点」が各所で散見されることなのだ。

 DCD剣編でも似たような問題が見られたが、魔化魍が音撃以外でも倒せてしまうという点も、一応挙げておこう。
 音撃以外で倒されたのはカッパとバケネコのみで、しかもいずれもディケイドが仕留めたが、いずれも「音撃で魔化魍を仕留める」ことが生業の音撃道探求者達の目前で行なわれている。
 せめて、なぜ魔化魍を倒せるのかと言及させるくらいはしても良かったのではないだろうか。
 たとえ、士がいつもの調子で「さぁな」と返答して終わったとしても、一応それはそれで無意味ではなくなる筈だ。
 「ディケイドならなんでもあり理論」が通用するかもしれないからだ。
 あのままでは、DCD世界の魔化魍は音撃じゃなくても余裕で倒せる存在という事になってしまう。
 まあ別にそれでも構わないのかもしれないが、そうすると、今度は何故鬼達は音撃道を極めようとしているのかが、わからなくなる。
 音撃と鬼と魔化魍の関係は、かなりしっかりと組み合わされているものなので、迂闊に一部をボカすのは厳しいのではないかと思われるのだ。

 ――とはいえ、実際はオリジナル版前期でも、魔化魍は音撃以外の方法で殺せることが判明しているのだが。
 十三之巻「乱れる運命」では、乱れ童子に食い殺されるウブメが登場するし、また後期三十二之巻「弾ける歌」では、布施明氏演じる小暮耕之助が、鬼時代に必殺のパンチで魔化魍を仕留めた的発言があった。もっと後者は完全に信用たる情報なのか、劇中でも不明瞭だったが。

 牛鬼を喋らせたのも、失敗要素だろう。
 鬼の力を制御出来なくなったヒビキは、牛鬼になった途端それまでとは違う意志により話し始める。
 まるで、ヒビキに別な存在が憑依したかのようにだ。
 だが、牛鬼はいわば鬼の力の暴走的描写であり、そのような存在ではなかった筈だ。
 また、喋るにしてもその内容は「俺の身体はヒビキだから攻撃できまい」とか「完全に身体を乗っ取った」的な、いわばわざわざ言葉にしなくてもわかるような挑発に過ぎず、まったく効果を成していない。
 まして、前半の変身時にはそんな意志のようなものは出ておらず、後半になって突然出てくるものだ。
 更に、そんな状態の牛鬼にヒビキの顔を重ねるという意味不明の演出すらある始末。
 これは、どうにかならなかったのだろうか?

 後編のヒビキの台詞によると、「鬼として戦うからには正しい心で鬼の力を制御しなければならない」とか、「相手を倒そうとする気持ちが強くなりすぎると、鬼に心を奪われてしまう」という理屈らしいが、これを受ける限りだと、牛鬼の根源はその人の潜在意識とか、闘争本能の暴走であるように感じられてしまう。
 牛鬼が所謂多重人格的な存在だとしたら、そもそもDCD世界の「鬼の力」とは何ぞや? という問題に発展する。
 オリジナル版では、身体と精神を鍛え、その上で変身アイテムを利用して身体を変化させた結果を「鬼」と表現していたが、鬼であること、鬼としての力を使いこなし続けるため、なおも身体を鍛え続けなければならないということにされていた。
 後期になると、朱鬼の登場やザンキの返魂術などのせいで、この辺がかなりボケてしまったが、少なくとも「自身に何かを宿らせる」結果、鬼としての力を得るというものではなかった。
 DCD版では、鬼の力=憑依と設定が変わっているのならともかく、アスム達のやりとりを見ている限りとてもそうは思えず、結果これだけで相当な違和感が生じている。
 恐らく、今回新登場のオリジナル魔化魍=他世界における新登場怪人的スタンスでとらえたため、ある程度のコミュニケーション能力を与えるべきだと判断されたのではないかと推察するが、もしそうだとしたら「余計なお世話」以外の何者でもなかっただろう。
 童子や姫のような、敵側の意志を示す存在がなくても、牛鬼は前半の大暴走だけで充分存在感をアピール出来ていたのだから。

 まあそれ以前に、牛鬼の正体が力を制御出来なくなった鬼であると、誰も知らないという点が最大の疑問かつ問題なのだが。

 この他、鬼石を撃ち込まないのに疾風一閃を使用したりとか、鬼になりたてのアスム響鬼による猛火怒涛の型でとどめを刺された牛鬼が、恐らくそれより遥かに強力な筈の疾風一閃&雷電撃震の同時攻撃でも死なないとか、ディエンド召喚の電王asモモタロスのみどうして明確な独自意思を持って活動出来るのかとか、そもそも王蛇は な ん で 出 て 来 る 必 要 が あ っ た の か とか(いや嬉しかったけどね)、細かな疑問点が各所に見られることにも、一応触れておくべきだろうか。
 こういった細かなポイントの潰しがイマイチ充分ではないが、それでも、物語を根底から破綻させるものや、拭い切れない疑問を大きく残すといった致命的な難点が生じなかったのは幸いと云うべきだろうか。
 
 特に、恐らく最も懸念されていた「(批判の多かった)後期テイストを前面に押し出さなかった」のは、英断だと考える。
 後期のアレは、「仮面ライダー響鬼」という番組を当時巻き返すために必要な対策を講じた結果であり、それ自体は評価出来るものの、決して物語そのものの完成度が高かったわけではない。

 ここで前期論・後期論についてあらためて述べるつもりは毛頭ないが、とにかく一番の不安要素が回避されたことだけは事実のようだ。
 ともすれば、このDCD響鬼編は、DCDクウガ編と同じくらい批判や誹謗中傷が炸裂していてもおかしくなかったものなのだから。

【個人的感想】

 以前、筆者は「仮面ライダー響鬼の大問題」というページをまとめ、驚くほどの反響を受けたことがあるが、どうもそのせいで「アンチ響鬼」と誤解されてしまったらしい。
 評論と感想はよく同一視されがちだが、あの時もそういった誤解があったように思う。
 とにかく、他のファンと同じくらいかどうかはわからないが、「仮面ライダー響鬼」についてはそれなりに面白さを感じているし、決して嫌いではない。
 第一、本当に嫌いなら同じ話を何度も観たりしないし、ましてや玩具を複数種レビューしたり、あんな長文を書いたりはしない。
 だから今回のDCD響鬼編はとても楽しみだったし、オリジナルキャストが登場すると聞いた時は素直に喜んだ。

 だが、実際に本編を見たら――前編の時点では、大変に微妙な気分にさせられた。
 しかし、オリジナル版で消化不良だった点がことごとく改善され、特に師匠と弟子の関係がしっかりと見直されている点もわかり、これは後編に期待かなと考えていたら、思いっ切り予想を覆す展開をされて言葉を失った。

 というか、ずばり、泣いた。
 まさかディケイドで、ここまで持って行かれるとは思いもしなかった。

 オリジナル版を観ていて、ヒビキと明日夢に対して望んでいたことが、約四年の歳月を経てようやく叶えられたような気分。
 「これが観たかったんだ!」という気持ちを、ダイレクトに突かれた感覚。
 それが、DCD響鬼編にあった。

 確かに、メインキャストは違うし色々と気になるところはある。
 また、オリジナル版とはまったく異質の物語なのだという事も理解はしている。
 けれど、筆者にとっては、これでようやく「仮面ライダー響鬼」という番組の最終回を観た気持ちになった。
 しかも、感動の音撃大セッションという、ありがたすぎるオマケまで添付されてだ。
 それだけではない。
 本編であのような残念な扱いをされたアキラが、きちんと鬼となり、しかも魔化魍に対する邪念のない「鬼として相応しい」状態で戦いを挑むという姿。
 師匠が、弟子と共に、しかも別な師弟達と共に参戦するという、ありきたりだが燃えるシチュエーション。
 こんなにごってりとオマケを盛り込まれて、泣くなというのが無理だ。
 もしこれで、キャストが完全に別人だったら、ここまでの感動は味わえなかっただろう。
 今回は、オリジナル版のリベンジ的な意味合いも込めてキャストを極力オリジナルに近づけた……のだとしたら、それは実に素晴らしい判断だったと思う。

 DCD響鬼編は、ある意味で「こうであって欲しかった理想の展開を迎えた世界」という側面も持っていると思われる。
 確かに、その「理想の展開」というのが、すべての響鬼ファンに当てはまるものではない事は理解しているが、それでも、「これが観たかったんだ!」というポイントが沢山含まれていたことは間違いない。
 そしてこれは、誰に否定されるものでもない。

 DCD響鬼編が、「仮面ライダーディケイド」の中でどれほどの完成度に位置するかはまだ判断出来ないが、それでも、筆者にとっては現状間違いなくベスト1だと言い切れるほどのものがあった。

 誰でもない、自分の信じたもので、心が響いた鼓動を感じる。
 それが、筆者のDCD響鬼編の率直な感想だ。

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