仮面ライダーディケイドあばれ旅 8

後藤夕貴

更新日:2009年6月27日

 第16・17話は「仮面ライダーカブト」の世界。
 13話で降板したメインライター・會川昇氏の後を継ぎ? 今回より主に戦隊シリーズで活躍していた脚本担当・古怒田健志氏が参加。
 本エピソードがその第一回目となった。 
 
 今回は、このDCDカブト編について触れてみよう。

●警告:カブト暴走中

 まず、いつものようにオリジナル版との比較から行ってみよう。

【オリジナル準拠】

【相違点】(メインキャラの違いを除く)

【オリジナルを踏まえたと思われる注目点】

※1:DCD版では、アラタが「擬態したワームは区別できない」旨の発言をしている。
オリジナル版では、初期の頃に擬態ワームを見分けるスコープ状のアイテムが存在したが、後にこれは忘れられてしまい、擬態判別がつかないためにZECTがワームに苦しめられる状況が頻発した(判別可能という設定がない事にされた)。

※2:オリジナル版では、ザビーゼクターは基本的に厳しい資格者選別を行なっており、またワームが擬態している人間に力を与えたことはない(後にワーム化する三島が変身したことはあるが、その時点ではワームではなかった)。

※3:オリジナル版は、過去数年のライダー作品としては比較的バイクの露出が多かった作品で、一部ムラはあったものの、それなりの見せ場を多く作っていた。

 総合評価から先に述べると、大変に隙の少ない、完成度の高いエピソードだった。

 問題点がまったくないわけではないが、とにかく全体を通じて物語の組み立てがしっかりしており、また「仮面ライダーカブト」のアレンジのみに拘らず「仮面ライダーディケイド」という作品の1エピソードとしても意識され、きっちりツボを押さえている事など、評価出来るポイントがかなり多い。

 本エピソードでもっとも注目すべきは、オリジナル版と比べると「キャラ視点が正反対になっている」点だろう。
 オリジナル版では、天道総司や加賀美新の視点を中心に、彼らに関わるキャラクターを客観的に描写するスタイルで統一されていたが、ライダー資格者以外のサブキャラクター視点から物語が描かれるケースは、ほとんどなかった(たまに例外あり)。
 このため、オリジナル版のヒロイン・ひよりの生活描写が(一応描かれてはいたものの)希薄化し、生活観というか存在感に乏しい印象が強まってしまうという弊害も生じた。
 厚みのあるキャラと、そうでないキャラの差が激しくなったとも言い替えられるだろう。

 ところが、DCDカブト編はこういったキャラ視点を反転させるという大技を使ってきた。
 これにより、ソウジの存在が良い意味で不明確になり、連動してカブトの正体、ザビー資格者・弟切ソウがソウジと同じ姿であることなど、劇中の謎が浮き彫りにされていくことになった。
 DCDカブト世界には、ワームという人間に擬態する者がいるので、ソウジと弟切のどちらかがワームだという事まではすぐわかるものの、すぐに特定は出来ず、またそれぞれがどういう意図の基に活動しているのかがわからなくなる。
 これが、前後編の切り替わり部分で非常に良い引きとして機能していた。

 また、これはオリジナル版を視聴していた人にとっても、良い意味でトラップとなっている。
 オリジナル版では、天道総司は(一時期、実はワームではという疑惑も出たものの)正真正銘の人間だったが、DCD版でもそうだという保障は全くないわけで、ここまでのディケイドを見てきた人にとっては「この辺の設定が逆転変更される可能性」も思慮に加わる場合があるだろう。
 そういう風に考えた人にとって、今回DCDカブトの素性が不明瞭化している事は大変な意味がある。
 加えて、弟切の正体が判明した後でも、DCDカブト(ソウジ)の真意はまだ完全にはわかっていなかったため、士の登場でようやく補われる作りになっている。
 これは、本来ならばソウジがやるべき事が、士によってフォローされる構成になっていたということだ。
 これにより、ラストバトルではソウジと士が上手く「主役」として両立する事になった。

 もう一つ、オリジナル版ではとうとう最後まで登場しなかった謎の人物「天道のおばあちゃん」が登場した点にも触れたい。
 恐らく、オリジナル版を知っているファンにとってかなり理想に近い(だろう)人物で、独特の言い回しやオリジナル格言の連発、また懐の深そうな人物像が実に良く表現されていた。
 おばあちゃんは、マユやソウジの還るべき場所として重要な役割を持っており、そのため劇中で目立つ活躍をしなくても、また事件に直接関わりを持たなくても、必要なキャラクターであるという説得力を発揮していた。
 これは、演じられた佐々木すみ江氏の演技力によるところも大きいだろう。

 ともあれ、天道のおばあちゃんがいるおかげで、“その世界のライダーが中心にいない視点”の物語にも関わらず、大きな違和感が生じなかったのは素晴らしい。
 いくら士が本編の主役かつ仮面ライダーであるとはいえ、その世界観や人物関係が一通り示されるまでは常に部外者であり、そのエピソードの中心には立てない。
 その分、その世界のメインライダーである誰かが、前編から後編の半ばにかけて出張る構成が今までのパターンだが、DCDカブト編はこれをマユとおばあちゃんに代行させている。
 単にDCDカブトの存在をボカしただけでなく、その分の埋め合わせをするキャラを用意し、しかもそれに“みんなが期待していた人物”を配する。
 このように、ファンサービスとバランス調整を同時に行なっている点が、今回のDCDカブト編最大の魅力であり、評価出来る点なのだ。

 このような積み重ねが多かったため、前回ラストに触れた「會川氏降板、平成ライダー初参加の古怒田氏参入による不安」は、完全に杞憂に終わったと断言して良いだろう。

 尚、今回登場したオリジナル敵「フィロキセラワーム」は、これが初露出ではない。
 2009年1月31日放映のテレビ朝日開局50周年記念番組「50時間テレビ」第2夜、「SmaSTATION!! Presents SMAPがんばりますっ!!」内で、SMAPの稲垣吾郎氏主演で放映された「仮面ライダーG」のメインの敵キャラとして既に登場しており、今回は着ぐるみ再利用となっている。

●細かな見所が満載

 DCDカブト編は、全体の尺の配分も大変上手く、一見無駄とされる演出も無理なく挿入されており、しかもしつこくない。
 そのため、頻繁に場面が変わるにも関わらず違和感が少なくなっている。

 冒頭から、士に擬態したワームを光写真館に無理なく迎え入れているが、これにより、ワームの恐ろしさが分かりやすく表現されていた。
 下手に回りくどく説明していくより、「今いなくなった筈の人間がまだその場に残っている」とした方が、微妙な違和感・軋みをも感じさせて面白い。
 少なくとも、「仮面ライダーカブト」未視聴でワームのことをあまり良く知らない人でも、あの場面で充分脅威が理解出来たのではないかと思われる。

 しかも、あの場面自体ではワームの言及はなく、次の場面で本物の士がワームを目の当たりにすることで、間接的に脅威を表現している。
 しかも、士はいつものように、なぜか(この世界の敵である)ワームのことを知っている。
 だからこそ、OP手前の「ワームか…」という呟きが、この異常事態表現の良い締めとして機能しているのだ。

 今回は、ディケイドの能力の応用性について色々と注目点があった。
 名乗るだけしか出来ない電王系アタックライドの無意味さで笑いを取り、ザビーとガタックにフルボッコにされる珍妙さを盛り込みながらも、クウガ・ペガサスフォームでクロックアップ中のワームを撃退したり、ファンの誰もが待ち焦がれた「異種ライダー同士の超高速戦闘」を実現させたりした。
 これらは短い時間の尺のうちに行なわれたものだが、その割には大変に満足度が高い。

 以前から、「クロックアップライダーとファイズ・アクセルフォームが戦闘したらどうなるか」という疑問がファンの間で囁かれていたが、ついにそれがオリジナル作品で実現したのだ。
 これは、今回のエピソードの中でも最大の注目点だ。
 しかも、ディケイドはいちいち段階を踏んでファイズ・アクセルフォームに変身し、「付き合ってやる。10秒間だけな」と、特性を踏まえた台詞も加えている。
 アクセルフォームが大好きだった人には、これ以上ないほどのご馳走だ。
 しかも、(よりによって「仮面ライダー555」本編でも印象的な回で多用されていた舞台で)瓦礫をガンガン撒き散らし、更には移動過程でそれを粉々に粉砕しながらザビーと格闘を繰り広げるという、見せ方を心得まくった演出になっていた。
 残念ながら、ライダースティング対アクセル・クリムゾンスマッシュの激突までには至らなかったが、まさに「仮面ライダーディケイドだからこそ叶った夢のバトル」そのものだ。
 これこそまさに、本作ならではと云える魅力要素だ。

 尚、一部では「超スピードで加速するだけのアクセルでは、空間そのものを加速させているクロックアップには敵わない」といった意見が見られるが、これは必ずしも正しいとは言えない。
 後述するが、タキオン粒子※1により加速しているZECTライダー達は、正しくは「超高速戦闘を実現させるため」に“擬似”クロックアップを行っているだけであり、本家・クロックアップ(ワームが使う能力)は、アクセルフォーム同様単なる超加速に過ぎなかった。※2
 つまり、ある程度の加速領域に達することが出来れば、理屈がファイズアクセルだろうがタキオンだろうが関係がないことになる。

 他のサイトを見る限り、クロックアップは事実上の別次元に移行する能力と解釈されているケースがあるが、これは白倉プロデューサーの「実は自分のすぐそばで仮面ライダーが戦っているかもしれない(という世界を作りたかった)」という意味の発言から発生したイメージによるところが大きいと思われる。
 超加速者同士が、通常速度で動く者達に認知されない領域で闘うというシチュエーションだから、イメージ表現としては上手い例えだが、クロックアップ戦闘により普通の人間や器物、建造物が影響を受けている場面も存在する以上、別次元という考え方は本来ありえない。
 これについては、オリジナル版もDCD版もすべて統一されている。

 むしろ問題なのは、アクセルフォームに「1000倍加速」という設定がある点だ。
 クロックアップが、具体的に通常の何倍加速に相当するのかという設定記述は見られないが、少なくとも1000倍程度の向上ではない筈だ。
 これを踏まえると、確かにアクセルフォームの方が圧倒的に遅いことになってしまい、戦闘は本来成立しない。
 もっとも、この場合は細かな設定の比較を行い粗を指摘するよりは、夢の対決が実現したことを喜び、素直に楽しむ方が正解なのだろうと思う。

 蛇足だが、アクセルフォームの「1000倍加速」「10秒間」というのは「仮面ライダー555」本放送当時から疑問視されていた設定で、「タイムリミットの10秒とは主観なのか、或いは客観なのか」「超加速状態なのに更に加速している演出があるのはなぜか」と、様々なツッコミを受けていた。
 主観10秒だとアクセル・クリムゾンスマッシュの連発は不可能だし、また客観だとしたら加速中の再加速による実測はどれほどになるのだろうと、議論の種は尽きない。
 実際は、細かな設定にいちいち準拠するより勢いやノリ、インパクトを重視した結果の演出なのだろうが、このようなことから「実は1000倍加速程度じゃ済まないのでは」という意見はかなり多い。 

 それはともかく、超加速状態のままでマユに「危ない!」と声をかけても、聞こえることはないんじゃないか? とツッコミたくなったのは筆者だけだろうか?

 夏海の「笑いのツボ」が、DCD電王編に続いて役に立った点にも触れておこう。
 前回は、憑依した士からモモタロスを引き離すために「光家秘伝・笑いのツボ」を使用したが、今回は士に擬態したワームを見抜くために使うという、面白い小技が利いていた。
 しかし、せっかく本物が選別出来たというのに、夏海自身はその後もワーム士の言動に振り回され、両者の間に行ったり来たりしている所が笑える。
 内容的には、マユの独白を聞く以外目立った役割がなかった夏海だが、今回はさりげなく活躍していて面白かった。
 けど、前編冒頭の「なんかトレンディ〜♪」って、どういう意味だったんだろ?
 まあ、なんか可愛いからいいんだけど。

 夏海といえば、今回は面白い発言があった。
 ユウスケとの会話中に出てきた“士に妹がいたかも”的発言は、「劇場版・仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー」に関連する伏線だと考えられる。
 劇場版には士の妹にして大神官ビシュムである門矢小夜が登場するが、白倉プロデューサーの発言により「仮面ライダーディケイドの最終回(つまりTV本編と関連性がある)」ことが示されている。
 ともすれば聞き逃してしまいがちな情報だが、さりげなく伏線に触れていてなんだか凄い気がする。

※1:「タキオン粒子」とは、「仮面ライダーカブト」オリジナルの設定によるものではなく、1960年代、アメリカの物理学者ジェラルド・ファインバーグによって提唱された架空の粒子。
相対性理論によると、物体が光速まで加速するためには無限のエネルギーが必要(つまり不可能)だが、この法則に矛盾せず且つ光速を超える可能性として、「エネルギーを得なくても最初から光速を超えている物体」として述べられたもの。
タキオンは何もしなくても最初から光速を超えているため、どんなに低速化しても光速を下回ることはなく、それどころか現実の物体とは逆の性質を持っているので、エネルギーが失われれば失われるほど加速する事になる(静止質量が虚数)。

※2:実はワームのクロックアップ設定はオリジナル版の劇中で変更? されたらしい部分がある。
マスクドライダーシステムは、ネイティブワームが自身の能力情報を提供した事で完成した事が、物語終盤辺りで突然判明した。
これによると、ワームもタキオン粒子をエネルギー源とし、これを用いて超加速している事になってしまうが、これは逆に「タキオン粒子の固まりを叩きつけてワームを倒す必殺技を持つ」各ライダーシステムとの設定に矛盾が生じる結果となってしまった。
尚、番組開始当時や放映中の各メディア上では、ワームの加速設定についての言及はないが、これに適応するためライダーがタキオン粒子を用いているという記述が散見された。

●上手なオリジナルリスペクトと、見事な伏線消化

 先述の通り、DCDカブト編はこれまでのエピソードと比較しても構成密度が高い。
 また、オリジナル版の設定を尊重し、それを上手くアレンジしつつも「仮面ライダーディケイドの1エピソードである」という点も忘れていない所が、実にすごい。

 筆者が見た限り、気付いたポイントを挙げてみよう。

・画面の色

 日常場面は別として、ザビー&ガタックのクロックアップ時の場面が高コントラスト化されたものになっていた。
 更に、ZECT基地内部では画面が青色を主体としたものとなり、後編ラストなど印象的なシーンでは夕陽を活かした赤い画面で統一した。
 これらは、すべてオリジナル版でも多用されていた画面演出効果で、それをきっちり踏まえて再現している点に感心させられる。
 特にラストの戦闘は、オリジナル版最終バトルを彷彿とさせる場面となっており、どこか懐かしさすら感じさせるものだ。
 その他、画面の作り方には妙にオリジナル版を意識したものが多く、特にカメラの構図にその特徴が見て取れる。
 これは、ワームやライダーがクロックアップしているのを表現するため、ある程度広い場所を俯瞰で映す必要性があるからだが、これに限らず、オリジナル版とほぼ同じ構図が(特定のものばかりの繰り返しではなく)ふんだんに用いられていたわけだ。

・キャストオフしたパーツがちゃんと川に落ちている

 ザビーとガタックがキャストオフした場面で、マスクドアーマー飛来による被害を受けるゼクトルーパー達に目が行きがちだが、実はそこに加え、時間差で付近の川? にもきっちりパーツが落下している描写がある。
 これは、オリジナル版初期に見られたものの途中から豪快に忘れられた表現だったため、さりげに嬉しい演出効果である。
 勿論、後編ラストバトル辺りでせっかくのこの描写が再び忘れられてしまうという、期待通りのボケもかましてくれている………ということにしておこう。

 これで最後まで通してくれれば、もっと評価が上がったんだけど、少々残念だ。

・士が天道的言動をまかなっている

 先に述べた通り、今回は天道総司のDCD版にあたるソウジがラスト近くになるまでほとんど登場しない。
 そのため、所謂「天道節」成分が薄まってしまい、「仮面ライダーカブト」たる魅力の一部が欠けてしまいそうな感があった。
 今回、その「天道節」を振るう役割は、門矢士に回って来ている。
 ソウジ以上に天を指差し(しかもちょっと遠慮気味な高さで)、「おばあちゃんは言っていた〜」の変形台詞を述べるだけでなく、それを交えながら登場することで場の雰囲気を変えてしまうところなど、どう見ても天道総司のリスペクトだ。
 劇中では、ソウジ自身も天の指差しを(カブトの姿で)やってはいるが、士の方が回数も見せ場も多かったのは面白い。
 士と天道総司ではキャラクターの性質がまったく異なるため、士はそのまま彼の代役とはなりえないが、劇中では士らしさを残したまま総司っぽく振舞っている感じで、そのさじ加減は悪くない。
 だが、総司っぽさが最も色濃く出たのは、終盤、お宝をまったく確保出来なかった海東に胡椒を振舞う時の言動だろう。
 あれは良い意味で、悪乗りしすぎだ。

・クロックダウンシステムの存在の真意

 ネタバレでこれを初めて聞いて時点では、「なんともはや、単純な発想だなぁ」と感じたクロックダウンシステムだが、劇中では予想以上に恐ろしい存在として描かれており、見事なサプライズとして機能していた。
 しかも、情報の露出の仕方が絶妙で、視聴者がその本当の脅威に気付くまでにブランクが生じるようになっているのも上手い仕掛けと云える。
 当初は、常時クロックアップ状態のカブトを捕獲するためだけの目的で、弟切が半ば独自判断的に開発を断行したものと思わされたが、実はカブトだけでなくZECTライダー全体のクロックアップ能力を殺す=ワームへの対抗手段を消滅させるものだった。
 これは、弟切がワームと対立する側であると信じ込んでいるアラタには決して気付かない盲点であり、またDCDカブトの存在が一般人達にも脅威となっているという触れ込みがあったため、説得力も充分にあった。
 この世界の住人ではないため、状況を客観的に判断出来る士が、クロックダウンシステムの本当の目的を指摘するのも自然で、この辺りは実に隙がない。

 だが、本当にとんでもなかったのは、次の項目だ。

・カブトのことが、なぜニュースでいちいち取り上げられる必要があったか

 最初に本編を見た時、「活動内容が極秘とされているZECT製ライダーの挙動が、何故いちいちニュース報道されてるのか?」という疑問が拭えなかった人も多いと思うが、これが先のクロックダウンシステムの真の目的と関連している事に気付くと、サプライズ度は更に高まる。
 一般人の中には擬態したワームが大勢潜んでいるわけで、あれは彼らに対する情報提供としての役割も果たしていることになる。
 つまり、見た目は「一般人の脅威に対する対処策が完成」という報道だが、本当は「もうライダーは脅威ではなくなる(だからワーム達はもう気にする必要がなくなる)」という偽装情報なのだ。
 本当の人間には真意は伝わらず、ワームにだけ理解が及ぶのだから、これは実に上手な方法だ。
 しかも、街頭のパノラマビジョンで放送されているニュースを、街行く人々が眺めているシーンまであり、暗にそれを匂わせていることにも注目したい。
 これはオリジナル版にもなかった演出で、人間世界にワームが浸透しているという事を改めて実感させる、本当に怖い手法だった。
 
 よくよく考えれば、ただ一個人を守り続けているだけのカブトが、一般人に害を及ぼす筈はないのだ。
 超高速で人間や自動車に激突すれば、そりゃ被害は甚大になるだろうが、それはDCDカブトがよほどのうっかりさんか、ないしは凄くまずい場所で加速状態のワームに絡まれた際の二次災害でもなければ起こりえない。
 高速移動中のエネルギーを自在に制御出来る(反動で止まれないといったペナルティが存在しない)DCDカブトにとっては、よほど無理をしない限り一般人に迷惑のかけようがないのだ。
 その視点に立って劇中の報道を見ると、実に色々と面白い深読みが可能になる。
 ここで述べた見解は、実際にはまったくの的外れな可能性もあるが、こういう判断も出来るというゆとりが含まれている点は確実に評価出来るだろう。

●それでもある、大きな問題点

 さて、散々褒めてきたDCDカブト編だが、当然ながら問題点も存在しており、またそのほとんどがフォローの難しいものばかりだ。
 その上、問題点の多くがワームに絡んだものだ。
 オリジナル版でもワームを巡る諸問題が目立ち、しかもそれらはほとんどまともに解決されないという顛末だった(詳細は拙著「仮面ライダーカブトの頭突き」を参照)事を考えると、複雑な心境になりそうだ。
 そんなところまで、オリジナルを踏襲しなくてもいいのに……と思ってしまうのは、筆者だけだろうか?
 ひとまず、目に付いた部分だけ取り上げてみよう。

・カブトのクロックアップシステム暴走が分かり辛い

 今回の物語の発端でもあり、最も重要な要素だった「カブトの暴走」だが、これがどうにもおかしい表現になっている。
 どう見ても、暴走しているとかそういうものではなく、もっと別な何かに変わってしまったかのような印象しか受けない。
 「暴走」というからには、カブト(ソウジ)本人にもどうしようもない状態なのだろうが、それは本来なら変身中にしか適応されないわけで、変身を解除してしまえば何の関係もなくなる筈だ。
 何故なら、クロックアップはマスクドライダーシステム自体に作用するものであり、資格者の通常活動の全てにまで影響を及ぼすものではないからだ。
 クロックアップ中に変身解除を強行すると危険だということならなんとなくわからなくはないが、少なくともラストバトルでクロックダウンシステム作動中に行なった変身解除は、暴走クロックアップからの、もっとも理想的な解放だ。
 にも関わらず、クロックダウンシステム停止後、ソウジは再び通常とは時間の流れの違う世界へ突入してしまう。
 しかも、生身で。
 確かに、消えていく途中でカブトに姿が変わる場面があるにはあるが、その手前でカブトゼクターは飛来していないため、あれはイメージビジョンと見るのが正しいだろう。
 そもそも、ソウジは何故あの状況から、再びクロックアップ状態? に突入せざるをえなかったのか?
 またいつか、天道屋に帰れるかもしれないといった希望的観測を暢気に述べてはいるものの、制御不能のシステムによってまた超高速状態に戻されたのであれば、再び誰かがクロックダウンシステムを再構築しない限り、彼が再びマユ達と会話することは出来ない。
 そんな、想像を絶する悲劇に、何の説明もなく再突入する必要性があるのだろうか?
 それとも、変身を解いた程度では逃れられないほど、DCDカブト世界のクロックアップシステムは異常なのだろうか?
 或いは、超高速世界に死ぬまで捕らわれる超絶ペナルティを受け容れてまで、ソウジはDCDカブトで居続けることを選択したというのか?
 これには、明らかに追加の説明が必要だ。

 後編ラスト、変身を解いた状態でソウジが姿を消す手前で、士が(また加速状態に突入する前提で)「何か伝えることは?」と質問している事から、(状況を推測していた事にでもして)彼に「ソウジはもう二度と高速の世界から戻って来られない」的な説明をさせても良かっただろう。
 これにより、本編が最終的には悲劇的結末にしかならないことを匂わせ、余韻を残すのも悪くない。
 だが、カブトの正体をラストバトル直前まで引っ張ってしまったせいで(それ自体は悪くないのだが…)、こういった説明をするゆとりはなくなってしまった点も無視し難い。
 構成上の理由が色々あるだろうことはわかるが、とにかくこのクロックアップ暴走の理屈が意味不明過ぎた為、今ひとつ歯切れが悪いオチになってしまった感は否めない。

 百歩譲って、もはや変身の有無に関係なくソウジはこの世界に戻れない存在になってしまったと強引に解釈しよう。
 だがそれなら、対ディエンド戦でDCDカブトが行なった「クロックアップ再発動・反撃」はやらない方が良かった。
 あの場面では、DCDカブトはしっかり自分のベルトの側面を手で叩き、自らの意志でクロックアップを発動しているのだ。

・マユがワームである必然性、そして彼女が狙われる理由の関連

 今回、もっとも大きな疑問が残る点はここだ。
 マユがシシーラワームだったというオチは、オリジナル版を観ていた人なら容易に予測できた事ではあったが、一応未視聴の人達にはそれなりのサプライズとなったようだ。
 だが、マユがワームであることに、どれだけの意味があっただろう?
 また、(本人の意識はともかく)マユがワームなのに、どうしておばあちゃんとソウジの態度は変わらなかったのだろう?
 ああいう状況で「家族の絆があるから」と言われても、それだけでは説明にはなっていない。
 この辺の描写が都合良くオミットされてしまったため、DCDカブト編はオリジナル版と同様、ワームの存在意義が不明瞭化するという困った展開となってしまった。

 オリジナル版では、天道総司の本当の妹・ひよりがシシーラワームだったが、これは「妊娠していた天道の母に擬態したネイティブワームが産み落とした存在」という、一応の説明があった。
 つまり、天道の本当の妹は産まれる前に母親ごと殺されたが、母ワームが擬態した過程で身篭った子供は、結果的に限りなくオリジナルの妹に近い存在である、というエクスキューズが成立していたわけだ。
 説得力の有無はともかく、これにより「人間である兄が、ワームである妹を守る理由」が存在したのは確かだ。
 またひより自体、産まれた時から人間として育てられていたため、自身がワームである事に気付かなかったという理由付けにも繋がっていた。
 こうして文章にすると、なんとなく筋が通っている設定のようにも感じられるが、本放送当時はこれでも「無茶苦茶すぎる」として散々叩かれたものだ。
 ところが、DCDカブト編はこのような説明を一切カットしてしまったため、マユがワームである理由はおろか、「どうして彼女が他のワームにつけ狙われていたのか」すら分かり辛くなった。
 一応好意的に解釈すれば、マユがワームであり、それでもソウジが彼女を守ろうとしているという献身的な姿勢が強調出来る。
 また、DCDカブトを憎悪する弟切が、彼を捕獲するため以前からずっと部下のワームに狙わせていたという解釈も可能だろう(マユ自身が自分の正体に気付いてしまったため、弟切はこれまでとアプローチの仕方を変え、本人自ら接触を図りに来た、とか?)
 今回のテーマである「家族の絆」を強調する意味でも、異種族の妹という存在は映えるかもしれない。
 だが、やはりその正体が「人間を襲い擬態する」ワームであるとするのは、まずすぎた。

 オリジナル版では、ワームを巡る解釈が視聴者側と製作側で大きく異なっていたとも解釈出来る部分が多々あり、その影響により悪い意味で「ワームの善悪属性」が薄ボケてしまった。
 最初は人間に害をなす存在、倒すべき敵として描いていた者を、途中からいきなり「守るべき者」として扱うためには、それ相応の説明と理解を深める描写が必要になるのだが、DCDカブト編“でも”、この辺は軽視されてしまった。

 たとえ悪意がなくても、敵として登場した以上、ワームは人類の害敵。
 そういう風に描いてしまった責任を、キチンと最後まで取って欲しいものだ。
 今回、スタッフがワームをどのように描きたかったのかは分からないが、これはたった60分未満の本編では描き切れる筈はないから、などの理由でオミットしていいものではない。

 蛇足だが、オリジナル版ではシシーラワームが人間を襲ったという明確な場面はなく(エリアX侵入後、警護員が倒れているシーンは存在したが、彼らが死んでいたかどうかは不明)、またそのようなことが可能とされる殺傷能力描写も見られなかった。
 しかしDCD版のシシーラワームは、いくら無防備とはいえ一体の成虫ワームを爆砕しており、その上クロックアップまで可能だった。
 本人の意思はともかく、大変危険度が高い存在であることは間違いない。
 まあでも、本当のところは、ちょっとやりすぎた演出効果だったんだろうけど。

 ここまで書いていてふと思ったが、アクセルフォーム対ザビー戦の際、ワームに襲われていたマユが瞬間的に戦闘中の二体を視認する場面などがあれば、良い伏線になったんじゃないかな、と考えたり。

・弟切ソウの目的が復讐から人類征服へ変貌?

 本編で一人二役を好演した川岡大次郎氏のインパクトも手伝ってか、弟切は大元の矢車想と大きく異なり、本編のラスボスとして充分な存在感を誇示していた。
 あまりにも弟切がハマりすぎたため、ほとんど同じ姿な筈のソウジとパッと見同一人物に見えないほどで、これはDCDカブト編の大きな見所の一つになっている。

 それはいいのだが、前後編のほとんどを「カブトへの復讐心」表現に費やしてしまい、あまつさえアラタにまで「奴は異常」とまで言わしめるほどだったため、どうやら彼が本来目指していたらしい「人類征服目的」が唐突に感じられてしまったのは惜しかった。
 フィロキセラワームである彼が、どうして同族を抹殺し続けてまでZECT内の地位を築いていたのか、そもそもどういう経緯でDCDカブトと闘うことになったのか、色々と追求したい部分があるが、まず先に人類征服ありき、その次にDCDカブト(オリジナル・ソウジ)抹殺という目的意識があったのだろうと解釈するには、若干無理があり過ぎた。
 そのせいで、カブトのクロックアップ阻止後、いきなり「実は人類征服目的だったのだ、わはー」と言い出したかのようにしか感じられず、取って付けた感が拭えない。
 確かに、オリジナル版でもワーム(ネイティブワーム含む)の最終目的は人類制圧・地球支配だったから、今回もそのようなものだろうと推測するのは簡単だが、こういうのは劇中でしっかり示してこそだろう。

 いっそのこと、オリジナル版の乃木と掛け合わせたような、もっと悪役濃度を濃厚にした「こいつは何も言わなくても、きっと世界を征服を考えているに違いない!」と思わせるようにしても良かったかもしれない。 

・「ワームを今後どうするのか」は“また”放置?

 よくよく考えると、DCDカブト編は一見きっちり落ちているようで、実は同・龍騎編や555編以上に「落ちてない」。
 すべてのDCDライダー世界で敵の殲滅を望むのはさすがに無理があるが、それにしても“これからも戦い続ける”的な要素すら見せずに終わってしまうのはどうだろうか。

 先述の通り、DCDカブトの目的は、オリジナル版同様「妹を守ること」だ。
 そのため、今後も地道な努力を続けていく事を匂わせ、ソウジは姿を消した。
 彼が、この世界の悪意あるワームをどうするつもりか、そういった事に関する意識はとうとう示さず仕舞いだった。
 すなわち、この世界を脅かす存在に対してどうしていくべきか、問題を解決する姿勢すら放棄したことになる。
 それだけなら同じようなDCDライダーが他にも居たからいいのだが、彼の場合は守るべき存在が「ワーム」だ。
 これを無理矢理DCD龍騎編に例えるなら、「異世界からやって来たアンデッドである桃井編集長を守るために、仮面ライダー龍騎こと辰巳シンジは、彼女を影からずっと見守るのである」となってしまう。
 何かが、凄まじく、おかしい。
 DCDカブトは、何のために“この世界を代表するライダー”とされていたのだろうか?

 まあ普通に考えれば、たとえDCDカブトがまともにワームと闘わなかったとしても、ガタックをはじめとするZECT所属ライダーが今後も対応していくだろうし、根源的解決に至らなくても一応の問題はないのかもしれない。
 しかし、それなら「たまたま不幸に見舞われただけの」DCDカブトがメインである必要性もないのだ。
 人間の生活を守るため悪戦苦闘するガタック達がサブで、たった一人の、しかも正体が敵と同質の存在を守護し続けるだけの「超私的」ライダーがメインというのは、やはり何かがおかしいだろう。
 物語上の面白さなどはともかくとして、「仮面ライダーディケイド」という番組の一要素として見た場合、やはりこれは無理があり過ぎる。

 これならいっそ、マユの存在またはマユの正体設定を廃して、高速の世界から人類全体を守るため闘うDCDカブト、とした方が、まだ説得力があったかもしれない。

 色々と語るべき点が多く、前後編二話だけとは思えないほど密度が濃かったDCDカブト編。
 内容だけでもお腹一杯なのに、イクサは出るわ、サイガも出るわと、ディエンドの召還ライダーセレクトも冴えており、本当に退屈しない。
 ちなみに召還イクサは、オリジナルに大変良く似た声だったがオリジナルキャストではないそうで、なんとスーツアクターによる吹き替えだそうだ。
 本編内容とは違う意味で、これにも驚かされた。

 総評として、DCDカブト編は全体のバランス調整に大変気を遣い、しかもきっちり見せ場を設けながらも、お話そのものもしっかり作ろうと、ものすごい労力を費やして作られただろうことが窺える。
 會川氏降板による不安が払拭されたというのは、これがあったからだ。
 新規脚本担当の古怒田氏の力量によるところも大きいが、それだけでなく、画面や演出にしっかり拘って映像を作ったスタッフの技量も、今回は冴えに冴えまくっていた。
 若干地味な物語内容であった事は否めないものの、完成度は本作でもかなり上位に位置するものだろう。
 古怒田氏には今後も是非参加していただきたいと心から願うが、これが平成ライダー初参加による「気張り」から来る結果でないことを祈りたい。
 既に過去に何人か、複数回参加して徐々に評価を落としていった脚本担当がいたのだから……
 
 それはそうと、ラスト直前に出てきたニセモノのキバーラは何だったのだろう?
 この世界のワームは、擬態後の大きさも自由自在なのだろうか。
 って、擬態する相手を選べよ、と思うんだが。

 せっかくだし、鳴滝に擬態して逆にディケイドに力を貸すワーム、なんてのも観たかったぞと。

【個人的感想】

 DCDカブト編は、2回目を見直して初めて真価に気付いた。
 初見の時は、そつなく作っているなという程度で軽く流していたが、見返してみて「おや?」と感じさせる部分がようやく見えてきた。
 これは、完全な油断だった。

 少しだけ過去の愚痴になるが、筆者は2006年当時「仮面ライダーカブト」のおっかけコラムを連載しており、そのためカブトは都合二周回、及びかなりの話数を三周回観ている。
 ただ、途中からの無茶苦茶な展開と「ワームに対する考え方の差異」に違和感が増大化し、後半視聴はかなりの困難が伴った。
 ぶっちゃけると、その一年間に費やした時間を返してくれと言いたくなるほどだった。
 そんな印象をオリジナル版に対して抱いていたため、今回DCDカブト編を観るにあたっても、完全に素直な状態で付き合うことは出来なかった。
 だからこそ、初回で気付かない見落とし部分が多かったのだと自己分析する。

 しかし、DCDカブト編の構成密度の高さに気付かされた時点で、過去の嫌な思いはほとんど払拭された。
 正しくは、シシーラワーム登場の時点で少しおかしな気持ちにさせられはしたが、それを差し引いても完成度は高いエピソードだったと確信している。
 とにかく、オリジナル版とまったく同じにせず、しかし似たような物にするという、絶妙なアレンジが利いているだけでなく、「オリジナル版を知らない人でもわかるように」という姿勢が感じられた点で、高評価せざるを得ない。
 当時、迷走・支離滅裂と云われたオリジナル版の無駄要素を綺麗に取り払い(ドレイクやサソードまでも!)、必要最低限の情報だけ残した上で視点を変え、更に各所に含みを持たせた展開にする。
 こういう小技のおかげで、(普通なら若干飽きが含まれる筈の)再視聴が、本当に楽しかった。
 これまでのような、オリジナル版との相違点を探すのとは違い、旨味部分を見つけ出すために本編を見返すというのは、自分としては本当に久しぶりな気がした。

 こうして欲しかった、こうすればもっと良かった、というポイントは当然山のようにあるのだが、それでも、筆者的にはこのDCDカブト編はトップクラスの面白いエピソードだったと腹の底から言える。
 私見では、8つ目の世界にしてようやく「理想的なリ・イマジネイション世界」を見せてもらえた気がしてならない。

 だが、DCDカブト世界は「良く作られてるなぁ〜」という感想で済んだが、この次の「DCD響鬼編」で、筆者は不覚にも泣いてしまった……

 というわけで、次回は今回以上に思い入れたっぷりで書いてしまうかもしれない。

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