偏見まみれ

後藤夕貴

更新日:2008年10月26日

 最近某所でとある出来事があった。
 関西で時たま見かけるという「お好み焼き定食」なるもの。
 その名の通り、お好み焼きにご飯と汁物、更に漬物などが付いて来るという構成内容だ。
 これに対して、“気持ち悪い”という感想を述べる人が大勢いるようなのだ。
 しかも、中には“こんなの絶対に考えられない”“味覚音痴め”などといった、過激な発言まで見て取れる。
 これは、ただお好み焼き定食の画像が貼られただけの、ごく普通の画像掲示板でよく発生するものだ。
 何にも喧嘩や議論の要因になるものは示されていない筈なのに、「お好み焼き定食」の存在の是非を巡る大激論が勃発・展開してしまうわけだ。
 
 筆者は、最初なぜそこまで攻撃的な意見が出てくるのか、まったく理解が出来なかった。
 否、今でもよく理解できない。
 ただ、その掲示板を読み進めていくにつれて、「世の中には、炭水化物と炭水化物を組み合わせた食事を無条件で毛嫌いする」人達が存在するという事が判ってきた。
 その人達によると、お好み焼きは粉物で主食なのだから、そこに更に主食である白飯を組み合わせるのは絶対にありえないのだそうだ。
 同様に、うどん定食も許せないし、ラーメンライスも認められないのだという。

 はて?
 いつからそんな概念が常識になってしまったのだろう?
 そもそも、粉だ飯だというそんな細かい区分で、どうして勝手に主食だと定められてしまうようになったのか?

 どうやら、こういう偏見を持っている人達は東側在住者に多いようで、西側在住の人達とは相容れない食感覚となっているようだ。

 筆者は生まれも育ちも現住所も東側だが、昔からこの「炭水化物×炭水化物はNG」という見解に疑問を唱えてきた。
 白飯は、ご存知の通り色々な料理と合うものだ。
 ぶっちゃければ、味つけが濃い目のものであればなんでもご飯のおかずになると言い切っても良いだろう。
 だが、なぜか炭水化物がおかずになるとまずいらしい。
 食べてもいないくせに、どうしてそう判断してしまうのか?

 実は、筆者の実家でもこういう傾向が存在した。
 豆腐とご飯は二択で、麺類も同様だった。
 無理矢理止められはしなかったが、筆者が両方を一度に食べようとすると、必ず家族から「どうして両方食べようとするの?」と尋ねられた。
 同時に、「では何故両方一度に食べてはいけないのか?」というこちらの疑問に、納得のいく回答を与えられた事はない。
 先日帰省した時にも家族とすき焼きを食べる機会があったのだが、鍋の中にうどんが若干加えられていたせいなのか、筆者がご飯と一緒に食べようとしたら奇異な目で見られてしまった。
 炭水化物だろうが何だろうが、それがちゃんと食べられる物・おいしい物であれば、ご飯と一緒に食べても良いではないか。
 食い合わせが悪いとか、おかしな味に変化するとか、そういった難点があるならいざ知らず。
 世の中には、「〜と〜は絶対ありえない、理由はないけどとにかくありえない」と、声高に唱えようとする人が多くて困ってしまう。
 また、そういう意見を掲げる人達は、なぜか自分と相反する見解の人間を徹底否定し、持論で組み伏せようとする傾向がある。
 たとえ、その持論とやらに何の根拠も説得力もなくても、だ。

 これが、例えば「炭水化物の摂り過ぎ」を制する意味合いだというなら、なんとか理解は可能だ。
 確かに、炭水化物の過剰摂取は肥満の元だし、健康的にもオススメは出来ない。
 炭水化物摂取を制限するという間違ったダイエット方法が流行しているが(注:これについては後日別コラムにて詳しく)、これを常識感として抱いている人が警鐘を鳴らすのだとしたら、是非はともかく気持ちは理解出来なくはない。
 また、単純に「腹にもたれてしまう」とか「味付け(または味の組み合わせ)が好みじゃない」「単純に好きじゃない」というのも、個人差の範疇だし充分ありだろう。
 だが、逆に言えば、そうでもない限りは「炭水化物食品同士の掛け合わせ」を論理的に否定する事など出来はしない。
 結局は、「ピーマン嫌い」とダダをこねる子供同様、単なる思い込みから来る身勝手な言い分に過ぎないのだ。
 馬鹿馬鹿しいにも程があるとは、まさにこの事だ。

 炭水化物の件だけに関わらず、そういう事はよくある。
 この件も、俗に言う「関東と関西の食文化の相違」の一つなのだろうと判断出来そうだ。
 以前にも少し触れたが、例えば関西名物の「串かつ」の“ソース二度漬け禁止”という理屈が「店が客に押し付ける一方的なルールだ!」と糾弾したり、「ソースはカツにそのまま垂らした方が絶対に美味いのに」と述べるのと似たようなものだ。
 前者は、串かつ屋に行けばどうしてそういうルールが必要なのか一目瞭然な筈だし、後者は、そもそも串かつ用ソースが通常のウスターソース等とまったく性質が異なる物だという事を知らないために出てくる意見だ。
 串かつ用のソースはその見た目に反してかなり味が薄く、普通にスーパーで買えるようなウスターソースほど味も濃くない。
 そのため、スプーンですくってかける程度では味が薄すぎておいしくない。
 元々ドブ浸けして丁度良いように調整されている、完全異質な調味料なのだ。
 試しに、そこらで惣菜として売っている白身魚のフライ等に串かつ用ソースを「市販のウスターソースみたいに」かけて食べてみると、これがよくわかる。
 よほど極端に塩分量調整をしている人でない限りは、全然物足りなく感じられてしまい、結局ドバっとソースをかけて食べる結果になる筈だ。

 串かつを知らない癖に、別な料理で似たような形のものを勝手に当てはめ、そっちの方が美味い“筈だ”と強調する。
 本当に困ったものである。

 ちなみに、関西のお好み焼きは関東のものと性質が大きく異なっている事を理解している「炭水化物重複否定派」は少ない。
 実際に食べに行ってみればわかるが、関西のお好み焼きは具材の量に対して驚くほど生地の割合が少なく、また生地そのものに含まれる小麦粉等の分量が少ないのだ。
 むしろ最近は山芋のように「焼くと生地がさっくりする」軽い材料を用いるケースが多い。
 言い換えれば、野菜や肉類を最小限に固め焼く役割を果たしているわけだ。
 だから、関東系の全体がもっさりとした、パンケーキ風のタイプとは少し違う。
 食感も異なっているし、同名異種の料理と言っても過言でない気がする(無論、関東風によく似たものを出す店もあるので、断言までは出来ないわけだが)。

 神戸発祥の「そばめし」という料理がある。
 これは、一説によるとまかない料理から発達したとか、ある店を訪れた客が持ち込んだ焼きそばで無理に作って欲しいとリクエストした事がきっかけだとか色々言われているが、こちらは関東圏の居酒屋でも人気メニューとなっており、単純な好き嫌いを別とすれば、存在そのものに文句を付ける人はまずいない。
 だが、これはれっきとした「炭水化物×炭水化物」の料理だ。
 それなのに、一つの料理として混じってしまうと文句は出ず、それどころか人気メニューになってしまう。
 この矛盾はどうしたものか。

 「白和え」という惣菜がある。
 水抜きした豆腐に白胡麻をペースト状に練ったものと調味料を合わせ、ほうれん草やニンジン、糸こんにゃくなどを和えたものだが、これはご飯のおかずとして長年親しまれてきたものだ。
 だがこれも、材料単位で見れば主食の掛け合わせだ。
 にも関わらず、この惣菜の存在が否定された事はない。
 だし汁を含ませた高野豆腐などもそうだし、そもそも普通に豆腐の味噌汁が存在しているではないか。

 正しくは、豆腐は「植物性たんぱく質」の料理で、低炭水化物ダイエットの時には主食の“代用”として用いられるという程度で、別に主食と合わせるのがおかしいという事はない。
 だが、豆類は炭水化物含有量が多いため、同じく豆製品の豆腐も同様に判断され、主食も同然という妄言を吐く輩が出没する。

 ここまで挙げて来たように、炭水化物同志の掛け合わせを否定する食事の常識感など、何の根拠も意味もないことがわかるだろう。
 せめて関東をはじめとする全国各地に普通に存在する「ラーメン+半チャーハンセット」を全面的かつ論理的に否定してから持論を唱えて欲しいところだが、こんな風に「何の根拠もないのに勝手な思い込みを常識に置き換えてしまう」例は、他にも多々ある。

子供番組なんだからさぁ


 これは、特撮関連掲示板で必ずと言って良いほど見かける言葉だ。

嫌なら見なければいいじゃん
「どうして嫌いなものを見ようとするのか理解出来ない」
「たかが子供番組なのに、何でそんなに必死になっているの?」

 ネット上で、ある程度以上の期間、現行特撮番組の評価話題を目にした人なら、最低一度は見かけているのではないだろうか。
 これは、主に特撮番組の是非を巡って論じられている場で、番組擁護派または賛否議論そのものを嫌う派の人が呟くものだ。

 一例が、平成仮面ライダーシリーズやスーパー戦隊シリーズ。
 昨年は、当然ながら「仮面ライダー電王」や「獣拳戦隊ゲキレンジャー」が主な論点になっているようだ。

 以前に一度、「嫌なら見なければいいじゃん」という言葉が“議論放棄”を示すものだと書いた事があるが、「たかが子供番組なのに〜」という言い方は、それとはまた違うものを感じさせる気がする。
 というか、それ以前に、この言葉には果たして何か充分な意味があるのだろうか?

 つーか、そもそも子供番組って何よ?

 作品の目立つ粗を指摘したり、劇中のモラリズムのなさを指摘したりすると、番組擁護派がよく囁く「子供番組に何を求めているんだ?」という言葉。
 要するに、「たかが子供番組に何熱くなってるの、バカじゃね?」という嘲笑混じりの返答な訳だが、確かにこれを言われてしまうと、真面目に語るのが馬鹿馬鹿しいのかも…という気分になるケースもあるだろう。

 だが、一見説得力があるように思えるこの言葉、なんだかとても大きな違和感がないだろうか。
 ここで言う「子供番組」って、どんなものなのだろう?
 そもそも、子供が見るべき番組を大人が見て語るのが前提の場だった筈なのに、こんな事を述べてしまっては本末転倒ではないか? という疑問だって出てくるだろう。
 つまりは、これも偏見なのだ。
 しかも、擁護側の。
 否定派が偏見まみれの意見を述べるケースは多々あるが、実際にはこのような逆?パターンもよくあるという現実を見つめてみよう。

 「子供番組」という物に対する一般的なイメージは、だいたいが“子供だましでチャチな作りの映像作品”というもののようだ。
 また複雑な内容は考慮しておらず、誰が見ても(何も考えずとも)だいたい内容が把握できるような、お気楽なものと解釈している人も多いだろう。
 実際にはそんなものではない事を理解している人でも、他人との会話中にふと「子供番組」という単語を出した(出された)場合、ついつい似たような考えに捉われてしまう場合があるのではないだろうか。

 「子供番組」という漠然としたカテゴリに括られたTV映像作品は、特に細かく拘らず普通に考えた場合、主にNHK教育などで放送されている幼児向け番組や、小学生を対象とした学習内容的番組から、「アンパンマン」や「ドラえもん」のようなわかりやすく単純な内容のアニメ作品、また特撮ヒーロー番組などを指すのだろうと思われる。
 つまりは、番組制作の際に見込まれるメインターゲット視聴層が児童であるという事だ。
 当然、児童向けと一言に云っても番組によって狙っている年齢層は違うだろうし、小学校高学年から中学一年生辺りの“単純に子供とは云い切れない微妙な年代”をターゲットにする場合は、また色々と複雑な表現になってくるだろう。

 よく考えてみれば。
 幼稚園児向けの番組から、中学生前後の世代でも楽しめる番組だと、同じ「子供向け番組」だとしてもターゲット層が軽く10歳くらい異なる。
 普通の中学生には幼稚園児向け番組の視聴はきついだろうし、逆に幼稚園児に「中学生並の理解力が求められる内容」の番組は楽しめないだろう。
 実際にそのような視聴実験をすれば若干結果は異なるかもしれないが、一般的にはそんな風に理解されるのではないだろうか。
 十年世代が違えば価値感はまったく異質になるものだが、恐らく十年という期間でこれほど価値感が大きく変わる世代は、他にない。

 便宜上、ここで「子供番組」というカテゴリが視聴層と定めている年代が3〜13歳の間だと仮定したとする。
 その場合、例えば「仮面ライダー電王は所詮子供番組なんだから」と言った場合、それは果たしてフォローになるのか? という疑問が芽生える。
 いや、子供番組というのは決して嘘ではないだろう。
 だけど、中学生にもなったら、結構色々な番組を見ようとするもの。
 人にもよるが、完全大人向けのドラマを見ようとしたり、深夜番組にも興味を持ったりするわけで。
 そして、当然ながらそういった番組は、私達“大人”と呼ばれている世代だって普通に見るのだ。
 仮に、議論の対象となっている番組が小学校高学年から中学生くらいの世代をターゲットとしたものだったとしよう。

 その場合、果たして「子供番組なのに何熱くなってるの?」の一言で切り捨てる事はできるのだろうか?

 子供番組である事は事実だけど、その内容は、世代を問わず語るだけの価値が見込まれるのではないだろうか。
 というか、そういう要素が含まれているからこそ多くのファンが付いたのではなかったか。
 それなのに「所詮子供番組」と言い切ってしまうと、それはファン自らが好きな作品を貶している事になってしまうのでは?

 「いや、子供向けったってもっと下の世代向けでしょどー見たって。普通見てればわかるじゃん?」
 …といった内容の反論もたまに目にするが。
 だとすると、「という事は貴方もそんな番組を見て熱くなってしまっているんですね?」という手痛い返答をされてしまっても、反論する事は出来なくなる。
 常に斜に構えて、子供番組なんだからと嘲笑しながら見続けているという変わったスタイルの人なら、そのように反論したって問題ないかもしれないが、たいがいの場合、そんな人は番組を熱く語ったり擁護しようとしたりはしないだろう。
 また、先述の通り「子供番組=子供だましでチャチな作りの映像作品」という前提で言っているのであれば、「では貴方は、そんなチャチでしょうもない番組にハマって喜んでいる悲しい人なのですね?」と返された上、反論する資格を失ってしまう事になる。
 
 …やはり、どこか矛盾しているのではないだろうか?

 ま、それはともかく。
 では、「子供番組なんだから〜」と言う事でフォローを入れたつもりになっている人達は、どのような主観の基にそう判断しているのだろうか?

 その辺りを見ていると、更に興味深いポイントが見えてくる。

 古い例になって恐縮だが、2007年8月19日放送「仮面ライダー電王」第29話にて、電王クライマックスフォームが敵イマジンとの戦闘中に墓石を破壊する(シャレではない)場面があり、一部でこれを問題視する意見が述べられていた事がある。
 勿論、これは誤爆による結果という流れではあったのだが、「お盆に近い時期に墓石を壊してそのフォローが何もなしというのは、あまりにもアンモラルではないか」「不謹慎な演出だ」という手厳しい意見も出ていたのは事実だ。
 つまりは、「あ、やっちゃった♪」的なうっかり演出を、製作側が求めていたようなスタンスで捉えてくれなかった視聴者が結構居たというわけだが、確かにこの時期にそういうのをやるのは、あまり良くないという気持ちは理解できる。
 単なる壁や柱を壊すのとは違い、お墓という特別な位置付けにある物体を安易に破壊してしまうという演出を、軽いノリで加えてしまうという「製作側のモラリズム」が問われたとも言える。
 この件だけでなく、平成仮面ライダーシリーズ各作品には、「モラル的問題の感じられる場面」が結構沢山存在する。

 さて、こういった指摘に対しても「子供番組なんだから、どーでもいいじゃんか」的なフォローを入れた場合、どう感じられるものだろうか?

 百歩譲って、墓石を壊すという行為そのものを演出に入れるのは仕方ないにしても、それに対して何かのフォローを入れなければ、「子供向けとされる番組としては」まずいんじゃないか? という見解も生まれて当然だ。
 一番良いのはそんな演出を入れない事なのだが、そういった指摘が加えられる可能性は充分ある(実際にあった)。
 もし、これが電王という番組の中で行われた事でなく、仮に誰かが現実に行った破壊行為だったとしたら、子供番組云々とフォローを入れた人ですらも、きっとその人のモラルを疑ってしまう事だろう。
 それに、子供に対してそのような行為をしてはいけないという常識を教え込むのも、大人の役目だ。
 電王の墓石破壊シーンを見ていた子供に対して、「あれはやっちゃいけない事なんだよ」といちいち親がレクチャーしてやらなければならないのだろうか?
 それでは、ちょっと毛色の変わった「教育番組」ではないか。
 今時の特撮ファンがもっとも毛嫌いする「特撮番組は教育番組論」に、反面教師的とはいえ当てはまってしまう。
 これでは、求めているものとまったくかみ合わなくなるのではないか?

 まあ、電王に限らず墓場を舞台に撮影した特撮番組は過去いくつかあったわけで、もっと別種なモラル追求をすべきケースも多々あるわけだが、このように作品内のモラリズム描写については、別な問題が浮上してくる。
 このケースの場合は、「子供番組なんだから、そんな細かい事にいちいち目くじら立てなくても」どころか、子供番組なんだから益々フォローは必要だろう、という意見の方がむしろ真っ当に思えるはずだ。
 普通の、一般常識を持っていれば、と付くが。

 このように、「子供番組なんだから〜」というフォローが、必ずしも問題指摘に対して有効だとは限らない。
 逆に、発言者の倫理観が疑われる場合もある。

 疑問に対する回答の準備も、ジャンルを問わず物語には重要だが、時たまそれを大きく無視する作品がある。
 例えば、張るだけ張った伏線を無視し続け、最後にはまるで最初からそんなものはなかったかのように扱うというアレだ。
 これはアニメ・特撮に限らず普通のドラマや時代劇、各ジャンル映画にもしょっちゅう見られる問題で、それぞれの製作者の構成能力の有無が明確になる一面なのだが、これを巡る議論にも面白い傾向が見られる。

 いくつか例を挙げてみよう。

例1:
主人公Aは、以前Bという人物に出会った事があり、その時Cという事実を話された。
CはAにとってとても重要な内容で、Aにとっては何としても追求・解決しなければならないものだとも伝えられる。
その後、AはBと再会する機会を得る。
その際、BはAに対して「Cの件は私が片づけておいた」と宣言。
Aは、その後最終回を迎えるまで、一度たりともCの件を思い返す事はなかった。

だが、Cが具体的にどういう内容であったのかは、視聴者に説明される事は最後までなかった
例2:
1の肉親2が、突然不治の病に冒された。
あらゆる治療法は役に立たず、このままでは1は2の死を待つしかない。
だが、1と2の親族であり、2の主治医でもある3は「たった一つだけ可能性のある」術法として4がある事を、1に説明する。
しかも、4を行えばほぼ確実に2の病気は治ってしまうのだという。
1は3に、4の施行を懇願し、3も4を行う覚悟を決める。

ところが最終回、2はついに病のために死んでしまう
4の件は、先の説明の回以降一切本編上に出て来る事はなく、その後1も、3に追求する事はなかった。
例3:
男性主人公αは、βという若い娘と知り合い関係を持つ。
だがβは、実はαに敵対意思を持つ非合法組織・γの関係者で、とある目的のためにαに近付いていた。
ある日、βはαの立場を追い詰める目的で、高い所に昇りαとの関係を大声で人々に暴露する。
所謂「死んでやる」系の演技のつもりだったのだが、βに有用性がなくなったと判断したγの手の者は彼女を背後から突き落とし、本当に死なせてしまった。
その現場に居たαは、当然周囲の人々から蔑視され、職場でも危うい立場に追い詰められてしまう。

ところが、γとの対立に終止符が打たれた後、αはごく普通に職場に復帰し、今までとなんら変わらない生活を営み続けた。
例4:
主人公Yは、数十年前から閉鎖されているある場所を訪れ、そこで自分が現在関わっている事件の秘密に関する、重要な資料を手に入れた。
ところが、それはYが生まれる遥か以前から存在する資料なのにも関わらず、なぜか彼の名前が重要項目として記述されていた。
Yは、そこに秘められた謎に戸惑いを覚える。

だが最終回になっても、その資料にYの名前が記されていた理由が説明される事は一切なかった
例5:
自身の非力さを理解する主人公□は、とある経緯から“他人による介入を経て”超人的な力を得られるようになった。
それを使って敵との戦いに挑むが、戦闘中は介入者の意思に支配されるだけで、本人は基本的に何もできない。
また、敵と介入者はまったく同じ立場にあり同じ目的を持つ同志でもある。
□は、そのような複雑な関係にある介入者達と係わり合い、戦いを進めていく。
そして、戦闘では自身の力を生かせないため、自分に出来る事をして事態に貢献していく事を誓う。

だが□は、介入者の目的の追求もしなければ、敵の破壊行動によって発生する被害者を救おうともせず、それどころか自分がどういう立場でどういった状況下に置かれているのも、知ろうとしない。
時には、数多くの被害者を見殺しにしてしまう事すらある
 上記例はすべて実際に存在した映像作品の内容だが、それぞれに多くの批判または疑問が寄せられた。
 いずれも、その後に続くストーリー進行を阻害しないような流れに調整されているが、見ている側が求める解答はまったく用意されていない。
 果たしてこれが「製作側が自己完結してしまった結果」なのか「単なる思わせぶり」なのか、はたまた「うっかり忘れていた」結果なのかはわからないが、どちらにしろすっきりしない。
 少なくとも、この例を読んでいた人の多くはすっきりしないなあ、と感じていただけたと思う。

 ところが、これら問題はたった一つの言葉でスッキリ解決してしまうらしい。
 「実はこれ、全部アニメや特撮の話なんです
 
 …だけど、実際にこう言われて「ああ、これアニメ(特撮)なのかあ、それじゃあ仕方ないよな」と納得出来る人など、どれくらいいるだろう?

 「所詮子供番組なんだから云々」というのは、それだけ乱暴な言いまとめ方なのだ。
 少なくとも、どうしてCの秘密が語られなかったのか、なぜ(例2の)3は4を行わなかったのか、という疑問を語っている場で述べて良い言葉ではないだろう。
 それは思考停止よりももっとたちの悪い、「思考停止“強制”」なのだから。

 ちなみに本当の事を言うと、上の例はすべてドラマや時代劇からの引用である。

 作品のジャンル・カテゴリが、物語内の描写不足を許容する材料になってしまう。
 本来、そんな馬鹿げたことはない。
 普通に考えれば、子供番組であればあるほど「疑問をより判りやすく説明する」必要性があるわけで、もし大人向け番組との区分点を見出すなら、説明の仕方・解り易さの差を比較するのが正当だ。
 たとえば、作品中の謎の答えに対する理解について「視聴者の知識や経験、またはある程度以上の高い読解力が求められる」ようであれば、それは文句なく大人向けと言い切って良いだろう。
 だが、「そんなのいちいち描いてられませ〜ん」と回答の提示やその理解を促す演出を放置し、その言い訳に「子供番組なんだから、いいじゃん」と述べるのは、何か違わないだろうか?

 先で「判りやすく説明する必要性」と述べたが、所謂子供番組の場合はここに最も重点が置かれる。
 なんせ、理解力が大人と比べてどうしても劣る子供ですら容易に理解できるように噛み砕かなければならないのだから。
 そういう努力が組み込まれて、初めて子供番組と言える筈なのだが。
 めんどくさいから止めました、適当に解釈してもらって結構なので略します、では、噛み砕いたとは言えない。
 こういうのに相応しい表現は「 手 抜 き 」だ。

 現在、「所詮子供番組なんだから云々」と云う便利な言葉で、様々なツッコミを回避しようとするようなファンを多く抱える“充分に作り込まれていない”番組が、本当に子供番組だと言えるのだろうか?

 そんなもの、大人向け・子供向けと分ける以前に、ただの「出来損ない」に過ぎない。

 大好きな番組が他者によって貶められると、どうしても反論したくなるのは人情だ。
 だが本当にその番組が好きなら、「良い部分も悪い部分も理解した上で尚好きでいる」べきなのではないかと筆者は強く思う。
 筆者は「仮面ライダー剣」が大好きで、実は平成ライダーシリーズで最高と思っているのだが、もしこの番組のレビューを書いたとしたら、とことんボロクソに批判してしまうと思う。
 実際、とても褒められた内容や構成ではなかったからだ。
 だが、そうだからと言って剣が嫌いではないし、他人に「本当は嫌いなんだろう?」と言われる筋合いもない。
 また、他者による剣への突っ込みに対しても「いやだって、これただの子供番組なんだしさ」などと安直な言い返しはしない。
 悪い所も含めて剣が好きなんだから、そんな事言われてもしょうがないのだ。

 本当に好きな作品があるなら、たとえどう貶されても感情的な反論はそう出てこない。
 勿論絶対とは言えないし、人にもよるだろうが、本来はそういうものなのだと思う。

 「子供番組に対して、何熱くなってツッコミ入れてるの? バカじゃね?」

 こういう言い返しを見るたびに、筆者は「ああ、この人は本当にこの作品が好きな訳じゃないんだな」と思うようにしている。

 その人が、実際にどう考えていようと……

 偏見というのは誰にでもあるものだが、こんな風に、好きな物に対してまでおかしな偏見を述べてしまうなんて、悲しいことだと思う。
 出来る限り偏見を取り除いて、冷静に物事を判断・評価する目を持つように努力したいものだと筆者は考えたい。
 勿論、言うほど簡単ではないという理解はあるけど。

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