仮面ライダーカブトの頭突き 第10回「カブトが残したもの」

後藤夕貴

更新日:2007年4月8日

 2007年1月21日、全49話にて「仮面ライダーカブト」終了。

 今年も、また「最終回の後の多数の文句、指摘、酷評」が渦巻いた。
 数多くの話題を提供してくれた作品ではあったが、反面とても問題の多い作品だったという事だろう。
 かくいう筆者も、毎年の事なので最終回手前でかなり覚悟を決めて視聴したつもりだったが、予想のさらに斜め上を行かれてしまい、腰砕けにされてしまった。

 ――ぶっちゃけ、この一年間何を観てきたのだろうか、とつい自問自答したい気持ちに駆られたものだ。

 「仮面ライダーカブト」は、最終的にかなりの酷評に晒された作品となった。
 また視聴率や玩具の総合売り上げもシリーズ最低レベルとなったそうで、意外にも、これまで「失敗作」のボーダーラインとして認識されていた感の強い「仮面ライダー剣」をも下回るという、予想外の結果に落ち着いてしまった。

 前作「仮面ライダー響鬼」もかなり手厳しい評価・意見を叩きつけられたものだが、そのうち半分くらいは作品内容とは別な部分(主にスタッフ更迭による製作方針変更。路線変更ではない事に注意)にかかるものだった事もあり、本作のように「ほぼ100%内容についての批判が集中した」わけでは決してなかった。

 一方、カブトはスタッフ更迭・変更もなければ、(視聴者の耳に届くほどの)大きなトラブルがあったわけでもなかった。
 過去普通にやっていた流れに従って、ごく普通に製作された筈の作品。
 それなのに、あまりにも多くのファンから叩きまくられた。

 何故だろうか?

 天道総司がしょっちゅう主張を変えていたので、主体性が感じられなくなった?
 加賀美新があまりにもバカ過ぎる上に物覚えが悪すぎて、ついに呆れてしまった?
 蓮華やひよりのような「何の役にも立たないキャラクター」が跋扈し過ぎた?
 パーフェクトゼクターはいったいどこからどういう経緯でやって来た?
 35年前のライダー計画の秘密が投げっぱなし?
 当時高校生程度の年齢だった筈の加賀美陸が、どうしてエリアX内の資料に自分の子供の名前を記述出来たのか?(或いは14年後に生まれる子供の名前をなぜ予測できたのか?)
 期待されていた地獄兄弟の扱いがあっさりし過ぎていた?
 ネイティブワームの描写が適当極まりなかった?
 「赤い靴」って結局何だったか?
 三島がラスボス格にされてしまって拍子抜けした?
 蛹ワームでしかなかった根岸とダークカブトが心中する必要があったのか疑問?
 いつのまにかワームとの共存意識が成立していて意味不明?
 田所は大元の田所を殺しているのではないのかとすっきりしない?
 じいやはどこへ?
 なぜ最後でハイパークロックアップを使わなかった?
 あんなに危険なネックレスを回収しないままでいいのか?

 他にも、色々な問題点が山のように挙げられる。
 だが、これら一つひとつを検証していっても、本作の総括にはとてもならないのも事実だろう。
 それをやっても「結局はいつもの粗指摘のグレードアップバージョンにしかならない」からだ。
 なので、最後は少し別な側面から本作に触れてみたいと考える。

 これは以前筆者が掲示板上でも書いたものだが、「仮面ライダーカブト」は製作側と視聴者との温度差がシリーズ中もっとも大きかった作品なのではないかと考えている。

 わかりやすく言うなら、視聴者がカブトという作品に対して求めていた物を製作側が理解していない、または(意識的・無意識かはともかく)曲解してしまったか、或いは最初から眼中に入れてなかったのではないかという事だ。

 例えば。
 本作に対する批判意見の中でよく目に付いたのが、「料理ネタがうざい」というものだった。
 実は本作の中で、料理が物語そのものに深く関わった事は思ったほど多くない。
 せいぜい初期の頃に天道と矢車の対立を引き立たせるための材料とされたとか、またはオリーブオイル入手を巡る過程でワームと遭遇したという程度で、唯一強烈にメインに食い込んだのは、あの賛否分かれた「黒包丁」の前後編だった。
 他にも、細かな場面を繋ぐ役割は適度にこなしていたが、それらはどれも揮発性の高い使われ方ばかりだった。
 にも関わらず、なぜか最後まで無駄にこだわり続けられてしまった。
 あげくには、公式サイトにレシピまで掲載されたりする始末。
 その上、ラストシーンにまで豆腐が絡んでいるのだから、ある意味大した姿勢だ。

 だがここまで露出を多くし、こだわった料理関連場面は、好意的に受け止められたとは言い難かった。
 
 恐らくだが、最初の頃は「ビストロ・サル」という料理店を天道や加賀美、ひよりや田所・岬、その後増えていく新キャラクターの交差点的位置付けにした上で、彼等を結びつける要素として料理を用いるつもりだったのではないかと筆者は分析する。
 ただ複数のキャラクターが一箇所に集まるだけだと、意外に話を展開させ辛いが、彼等に共通させられる何かを被せることで一時的な価値感の共有や話題の統一化が図れ、展開も自然になるし場面も作りやすくなるからだ。
 実際、他の映像作品でも料理や食事のシーンはそういったものを求められて組み込まれている一面もある。
 事実、初期の頃まだ関係がギスギスしていた天道と加賀美に、ひよりの鯖味噌を(多少強引とはいえ)与える事で適度な雰囲気リセットを行い、また料理に対するリアクションで双方のキャラを引き立たせようとしていた。
 これが必ずしも最良の手法だったとは言い切れないが、潤滑剤的効果としては決して悪くない手法だった。
 こういう調子で、かつ適度な割合で絡め続けられたのなら、料理ネタは決してうざいものにはならなかった筈だ。
 その上で多少シャレっ気を出す程度なら、公式にレシピを乗せるのも充分ありだったろう。
 公式を見に来た人が「なんだ、わざわざレシピ書いてるのか。バカなところにこだわってるな〜(笑)」と軽く微笑む程度にはなった筈だし。

 否。
 製作側は最初から最後まで、上記のようなつもりで料理ネタを出し続けたのでは!? という解釈も出来なくはない。

 製作側は、ひょっとしたら適度な露出程度に抑え続けたつもりだったかもしれない。
 しかし、視聴者はそうは受け取ってくれなかった。
 何故なら、料理ネタはかなりの頻度で露出しているというのに、本編内では尺の関係で多くの重要な場面がカットされたりして、明確な演出不足を感じさせていたからだ。
 そうなると、「重要なカットを省いてまで料理ネタを入れる意味があるのか?」という疑問は当然出てくる。
 「仮面ライダーカブト」という番組の“必要な情報をオミットしすぎる癖”も災いし、悪質な相乗効果を作り上げてしまった感がある。
 有名な話では、「三島に食って掛かる田所」や「矢車に襲い掛かる影山ワーム」などがある(これらの詳細は公式サイト参照)。
 言うまでもなく、実際製作上では様々な事情がありうるだろうから、単純な「アレを省けばコレが入れられた筈」という理屈は必ずしも成立しないのだろうが、視聴者が上記のように感じてしまう「原因」を作り出してしまった事実は否定できない。

 もう一つ、以前にも触れた「ワームの概念」も、温度差を感じさせる要因だった。
 ワームは本編における「ライダーの敵」という位置付けにある存在のため、本作での最終的な扱われ方に首をかしげた人は多かったように見受けられる。

 目的が不明瞭な上、明確な意志力を持つと思われるワーム達はその意図を隠蔽しながら暗躍し、所々で意味深な(しかし結局は意味のなかった)行動を取り続ける。
 また、ワーム自体の意志があっさり擬態相手の精神力に影響を受けてしまったり、またウカワームのように最後まで融合せず二重人格的なものになってしまったりと、統一性に欠ける。
 当初はワーム自身の持つ悪意を示していたが、ガタック(加賀美)の態度に心を動かされ、結果的に彼を爆風から守ったマコトワームは、かなり歩み寄ればまだ説明もつけられるし納得もできるかもしれない。
 見方によっては、あれは「マコト少年自身が持っていた微かな感情の因子が、ワーム自身の心情に変化を加えた」とも取れるからだ。
 しかし、一方で「擬態相手・神代剣とまったく同じ心と性質」を持ちながらも、ワームに戻るとリセットがかかり、どう見ても本能むき出しで暴れ回るスコルピオワームなどという例もあった。

 これだけでもかなり疑問を挟む余地があるが、最大の疑問点は「日下部夫婦に擬態したネイティブワーム」に集束される。

 日下部父ワームは、擬態相手を殺して成り代わっていたほどの存在なのに、死に際になぜか少年天道にカブトのベルトを託すという意味不明な行動を取っていた。
 この意味は本編視聴だけではまったく意味が理解できない行動だが、放送終了後、特撮ニュータイプに掲載された米村正二氏のインタビューによると、なんと「擬態後、日下部父の意志がワームに打ち勝った」結果の行動なのだとか。
 氏曰く「もっとも早くワームの意志と戦ったのは、実は日下部父だった」のだそうだ。
 つまりは、肉体を取り込んだ訳でもないのに「そこにありもしない日下部父の意志力」に屈したというわけだ。

 ここから、米村氏の中では「擬態されてもそれに屈しない心の強さ」という概念が存在していたらしき部分が伺える。 
 これがカブト製作側の総意なのかどうかはわからないが、ここに視聴者の認識との大きなズレが見て取れる。

 決して全てとは言えないが、視聴者の多くはワームの擬態を「モノマネ」として捉えていた筈だ。
 外観や細かな仕草、性格や記憶までトレースする究極のモノマネ。
 なのに、マネが巧過ぎてマネた相手になり切ってしまった。
 そして「なり切った末に身につけた心」は、本来の心をも塗り潰してしまった。
 そういう風に解釈しないと、日下部父ワームのポイントは理解できないだろう。

 ――こんなのに、誰が納得できるというのか。

 恐らく米村氏をはじめとする製作側は、ワームの擬態を本来の意味ではなく「あらたなオリジナルになる能力」という解釈をしていたのではないだろうか。

 マネではなくオリジナルになるというのなら、擬態相手を抹殺するという行動も一応理解は出来る。
 中には擬態相手を生かしたままという例外もあるが、これは相手の殺害を妨害されていたり、岬ワームのように何かしらの策略があるため活かしておいた方が都合が良かったのだろう。
 ともあれ、こう考えていたと解釈すれば、たとえワームが人間臭い心情変化を見せてもいいわけだし、二重人格的な行動を取っても破綻は少なくなるだろう。

 が、視聴者の全てがそう解釈していたわけではない。
 以前にも用いた表現だが、本作のワームは「外観・記憶という“薄皮”をまとっている」程度の印象しかなく、その本質はあくまで邪悪ワームの物で変わらないと捉えられていたように感じられる。
 実際、加賀美に擬態したワームの行動や風間に成り代わりドレイクを引き継ごうとしたワームを見る限り、こういった「ワームの本質」が根底にある事は否定できない。
 また乃木のように「まず自身がワームであること」を前提で活動している存在も居るので、これらの要素を切り離す事は不可能だ。
 こんな不穏な因子を抱えている知的生命体なのに、擬態したらコロコロ性格が変わってしまい、時にはオリジナル並の存在意義を見出すなどと言われても、ピンと来る筈がない。

 これが、ワーム最大の問題点であり、また製作側と視聴者側間の無視しがたい認識ズレだ。

 例えば、だが。
 ワームそのものには意志や悪意はまったくなく。
 人間を襲う本能しか持っておらず、擬態する事で初めて高度な知能や意識を持つ存在にすればよかったのではないか。
 これなら、元々心の中が白紙であるワームが悪意を示しても原因は擬態元の人間が内包していた性格のせいにできるし、人間に味方する存在が出てきても違和感はない。
 それに、「人間を襲わないワームなら共存は可能」というテーマらしき物とも辻褄が合う。
 スコルピオワームやウカワームのような二重人格的性質のワームは出せなくなってしまうが、恐らくこれが一番自然な流れになったのではないだろうか。

 ただし、これは同時に「SFとしてよく用いられがちなネタ」でもある。
 後述する「過度な情報隠蔽」が祟り、意図的にこれを避けた上でワームを設定したのだとしたら、どうだっただろう?

 視聴者と製作側の認識のズレとして、もう一つ挙げたいのが「過度な情報隠蔽」だ。
 実は、これは本作に限らずほとんどの平成ライダーに当てはまってしまう問題点で、もはや慢性的な病巣であるとも言える。
 これが比較的軽度で済んだのは、唯一メインスタッフが他作品と異なる「仮面ライダー剣(日笠P/今井・会川脚本)」だったというのは皮肉だが。

 「仮面ライダーカブトの頭突き第6回」でも多少触れたが、過度な情報隠蔽というのは「謎や伏線の回答を引っ張りすぎて破綻させてしまう」事を指す。
 これは主に、白倉プロデューサー作品のライダーに多く見られる傾向であるという点も見逃せない。

 物語中の謎や伏線は、初登場から回答が述べられるまで、大なり小なり語り続けられなければ意味がないものだ。
 どんなに深刻で物語の骨子に抵触するような重要な謎でも、登場人物の誰もが関心を示さず、また(たとえ誤答であっても)分析すらしないままであれば、それはそもそも劇中の謎として機能しなくなる。
 伏線にしても、ただきっかけを示せば良いだけではなく、ある程度引っ張り続ける事で初めて意味を成す。
 そうでなければ、受け手側は謎の存在も伏線の意味も理解が及ばなくなり、これらがどれほど物語中で重要なものなのか見分けがつかなくなってしまう。
 これは理解力や読解力の大小という問題ではなく、いわば「受け手が覚える“不安”」に等しい。
 謎や伏線の意味が理解できないという人の大半は、実は「一応理解はしているんだけど、それが本当に理解した通りのものなのか自信が持てない」状態なのだ。
 そのため、作品は演出を用いて「受け手に自信を持たせる」役目を果たさなければならない。

 これが「構成力」だ。

 ところが、最近はこれを放棄してしまい、ただ「最後まで引っ張り続ければ謎や伏線として昇華できる」と大きな勘違いをしている製作者が実に多い。

 本作以外に例を挙げると、近年では「轟轟戦隊ボウケンジャー」が挙げられる。
 この作品は、各キャラに付加された設定や個々に与えられた謎、そしてその回答を繋げる事なく、全49話のエピソード内にバラバラに配置してしまったため、大変統一性に欠ける内容になってしまった。

 終盤に突然浮上し、それまでまったく触れられる事がなかった伊能真墨の闇の心(結局ただヤイバと戦うためだけの意味しかなかった)や、初期にあれだけ引っ張っておきながら「実はレムリア文明の姫だった」事がわかった途端、それが最後まで活かされずキャラクターの成長にも結びつかないままだった間宮菜月の正体。
  一国を滅ぼした事があるほどの国際的犯罪者であるにも関わらずその断罪描写もなく、過去を反省しているような事を口にしながらもさらなる犯罪行為を行おうとして平然としている最上蒼太、西堀財閥の娘で元自衛官という「他メンバーとはまったく違う背景」を持っているにも関わらず、単に普段生真面目・たまにはっちゃける事がある、という程度の印象しか残せなかった西掘さくら。
 ボウケンジャーに加わった途端、あれだけ拘ってきたアシュ封印の使命を二の次に回してしまい(※クエスターはゴードムエンジンで蘇った元アシュであり、あくまでネガティブシンジケート)、結局ろくな活躍もしないままだった高丘映士。
 あげくが一見行動力と統率力のあるリーダーと思わせておいて、実は冒険以外の事はまるで頭にない最悪のバカだという事が判明して大きく株を落とした明石暁…

 サージェス財団も、様々な方法で必死に集めたプレシャスをあっさり破壊したり、最後はプレシャスの力に頼らない装備を完成させ「プレシャス奪取とは全然無関係の」ガジャとの戦いに精力を向けたりと、そこまでの謎めいた雰囲気や意味深な行動の回答をすべて放棄してしまった。
 それ以前に、パラレルエンジンにプレシャスが使われているという設定自体、途中でいきなり湧いて出て来た後付設定だったし(※パラレルエンジンの設計概念図がプレシャスではあったが)。

 一方「仮面ライダーカブト」の方では、「ワームの真意」「ZECT中枢部(主に加賀美陸)の真意」を無駄に引き伸ばし、しかも途中で突発的な思い付きとしか思えない「思わせぶりな」無意味演出を加えた事で視聴者を余計にかく乱し、結局提示した回答はショボショボでどうしようもないものだったという情けないオチをつけた。

 三島によるワームとの提携、ハイパーゼクターの開発意図、乃木達の行動の最終目的、マスクドライダー計画とネイティブワームの関係、ワーム殲滅用の「赤い靴」システムの意味等、その回答を出すタイミングが遅れすぎたために結局放置せざるを得なかった問題があまりにも多い。
 もしも、これらが本編途中で適度に答えが出されていれば、そこからさらに注目すべき点が生まれたり先の展開に期待が持てたかもしれないのに、本当にもったいない。
 もっとも、これはクウガの「グロンギ族の最終到達目的」やアギトの「人類アギト化の顛末」、龍騎の「神崎兄妹の行方と世界観の最終的な位置付け(タイムベント説は論外とする)」、555の「まったく決着の着かなかったオルフェノク世界」、響鬼の「謎の男女の存在追及と真意」等と同様、当初から容易に想像できた問題ではあった。
 まるで、先の展開を読まれないようにとずっと隠し続けて来た部分を「どうせ出す気ないんだろ」と指摘され嘲笑されているかのようだ。

 作品内に提示した謎を、出来るだけ最後の方まで隠し続けようとするのは、製作者心理としては当然のものだし、理解は容易だ。
 しかし、これは同時に大きな罠でもあり、陥りやすいミスでもある。
 先の通り、ただ提示しただけでは「謎」は謎ではなく、単なる不思議な注目点に過ぎない。
 それを「謎」として認識させる(受け手が謎であると確固たる自信を持てる)ためには、それをしばらく引っ張り続けなければならない。
 そして、その回答を示す部分を定め、劇的に答えを出すために演出を施す。
 それが本来の「謎解き」の旨味であり、製作側に求められるスキルだ。
 これに従ってさえいれば、たとえ謎提示の直後にすぐ回答が示されても、カタルシスは出てくるものなのだ。
 「仮面ライダークウガ」で出て来た“グロンギ族のゲゲル”などは、その一例といえるだろう。

 ところが、「隠し続ける」という事にこだわり過ぎると、製作側はだんだん謎を出すタイミングを見失い始める。
 さらに、劇中でキャラクター達に「謎」について語らせる事にすらも、「答えをほのめかしてしまうのでは」という疑心暗鬼を抱いてしまう。
 結果、不思議な注目点は「謎」に昇華できず、やがて注目点ですらなくなり、「そういえばそんなものもあったな」程度の「記憶」に成り下がる。
 そんな状態で、いざ終わり際に答えを出したところで、受け手に響く訳がない。
 これについては、謎や伏線を出した際に「それを受け手がどのように受け止めるか」という客観的視点が大きく欠如していたと言わざるを得ない。
 引っ張り続ける、謎を謎のままにし続ける事が大事なのではなく、タイミングを計る事が重要
 それが判っていない者が製作した「謎ばっかりの作品」は、本当につまらなくなる。
 主人公に「やはり、そういう事か」と呟かせれば、それが謎への追求になると思ったら大間違いだということ。

 ここが、本作において最も大きな認識のズレだったのではないだろうか。

 念のために述べておくと。
 料理演出も、敵の素性を不透明にするのも、謎や伏線を散りばめるのも、それ自体は決して悪い事ではない。
 料理を絡めた演出は登場人物達の「生活感」を高め、「生きている」という事を強く意識させる。
 演出の技法のひとつに、被害者側キャラクターに食事をさせるシーンをあえて与えず、逆に加害者側や事件解決側に食事シーンを盛り込むというものがある。
 こうする事で、主人公や悪側に生命感を与え、被害者側から生命感を奪って好対照を描くわけだ。
 絶対的なものではないが、すぐに死んでしまう事になっているキャラクターが健康そうに楽しそうに食事をしているシーンが挟まると、なんとなく「これから死を遂げる」という印象が薄まり、微妙な違和感が生まれる。
 こういった細かな気配りを加える事で、無意識にキャラクターそれぞれの立ち位置を印象付け、その後の展開に説得力を持たせたりもする。
 使い方さえ正しければ、料理ネタは無駄どころか大変有効なのだ。
 その範囲内であれば、料理に対するこだわりを盛り込むのも決して悪くはない。
 たとえ水が入った鍋しかなかったとしても、役者が嬉しそうな顔をしてそれを覗き込み、材料について嬉しそうに語り始めれば、それだけで映像効果としては充分なのだ。
 何もわざわざ、徹夜までして料理を製作してカメラに映す必要はない。
 まして、大根にホタテの貝柱、オレンジの薄切りにシラスを乗せ、チンゲン菜とマグロ赤身を縁に添えただけでソースも何もかけない「不気味極まりない料理」を大画面に堂々と映し出す必要性なんかない。
 そんな気味の悪い事をするから、次のシーンではどの客も全然口にしていないじゃないか

 敵が謎だというのも、時間をかけて目的や正体を明かしていけば、存在感を高め魅力的な相手となる。
 しかし、ラスト間際までそれらを一切明かさずに謎ばかり引っ張り続けたもので高評価を得たものはほとんどみられない。
 「結局あいつらは何だったんだろう」というのはあくまで疑問であって、敵側に対する評価の言葉ではないのだ。

 仮面ライダーカブトは。
 「ライブ感」という名の“その場の思いつき”のためにあらゆるものが乱され、締まりをなくして粗悪な結末と印象しか残せなかった作品となった。
 少なくとも、「ライブ感」なるものが視聴者にとって良い意味で働いた事はどれほどあっただろうか?
 仮にあったとしても、それが「ライブ感による恩恵」だと、どれほどの人が気付けただろうか?

 これまでの数多くの作品が踏まえてきた定石というものを否定し、「定石である事の意味を理解せずに」作品を作り続けた結果、これまで以上のマンネリ感とわやくちゃ感だけが残留するだらしない内容にまとまってしまう。
 これほど惨めなものはないだろう。

 少なくとも、白倉プロデューサーが述べた「ライブ感」なるものが、作品製作における「定石」に変わるものに成りえなかったのは事実である。

 幸いにして、次作「仮面ライダー電王」は四月現在高評価を得ているようだ。
 筆者も、今のところは毎週楽しみに観ている。
 もっとも、所々難のある演出がちらついたり(特異点の説明を意図的にボカしたり)、タイムパラドックス概念に対する解釈の甘さ・モラリズムの欠如(特に第2話の病院とか)など指摘も数多く述べられてはいるが。
 電王になって、それまでの平成ライダーの(良し悪し含めた)独特の雰囲気が薄らいでいるように思えるが、これがカブトまでの各作品を振り返り反省点を見つめ直した結果であるのだとしたら、筆者は製作スタッフに対する評価を多少変えなければならないかなとも感じている。

 ただ、まだシリーズ定番の「中盤を過ぎた頃からグダグダになり始める」という不安要素が残っているせいで、今ひとつ素直にのめりこめない部分もある。

 個人的には、このままのノリで最後まで突っ走ってもらって、今度こそ巧くまとめ上げて欲しいと願うのだが……

 なんだか、色々と嫌な癖を付けられてしまったように感じる。

●まとめ 仮面ライダーカブトを一年見続けて・個人的感想

 以前アンケートにて、本作に対する筆者の思いを記してほしいというリクエストがあったため、最後に少しだけ個人的な感想をまとめてみようと思う。
 尚、第一回から上記までの内容と噛み合わない表現も所々あると思われるが、以下はあくまで感想のため、「これまでの批評とは別物である」という点を、まず踏まえていただきたいと願う。
 感想と批評の区別がつかない方は、以下は読まれないことをお奨めしたい。
 かなり好き勝手な事を書いているので。

 ここまでの記述内容を見ていただければだいたい想像が付くと思うが、筆者は「仮面ライダーカブト」が大嫌いだ。
 ただし、最初から嫌いだったわけではない。
 むしろ、結構終盤の頃まで好きな方だったと思う。
 散々指摘したり酷評したりした部分はあったが、好きな場面やエピソードはかなり多いし、それなりに評価はしているつもりだった。

 何より天道や加賀美のキャラクターが好きだったし、これまでの平成ライダーシリーズの主人公としては良い意味で異質だったと感じていたし、二人が揃って変身する場面などでは素直に燃え、震えた。
 だからこそ、天道の主張がコロコロ変わり始めたり、加賀美が意味不明な態度を取り始めた時点から違和感の方が大きくなって来て、少しずつ許容し難くなってきた。

 結構誤解されやすいのだが、実は筆者は、ギリギリまで自分が好きなキャラを擁護するタイプだったりする。
 無論天道や加賀美に対しても同様で、ネット上で彼らに対する罵詈雑言が渦巻く中でも、出来る限り見捨てずに最後まで付き合っていこうと努力した。
 ひよりを巡って天道が前と全然違う事を言い始めても、必要な説明をせずに誤解され、あまつさえ蓮華を傷つけてしまったとしても、「いや天道だからきっと…」と、思い続けてきた。
 自身で酷評を記した時も、「それでも、彼等が好きなんだけどね」と付け加えたかった。

 が、ある日ふと気付いた。
 なんでそこまで無理して、擁護せにゃならんのかと。
 それほどの価値のあるキャラクターだったのかと、思い返してしまった。

 天道に対して、良いなぁと個人的に感じる場面一に対して。
 天道が醜悪に感じる場面が十も二十もある。
 そんな状況下で、どうして九も十九も我慢しなければならないのかと。
 こういう考えを一度行ってしまったら最後、二度と自分への誤魔化しが利かなくなるものだ。

 天道や加賀美が好きだという事と、彼等が物語内で動かされている「演出」や「ストーリーライン」までもが好きだとするのは、まったく別なのではないか。
 そう考え始めた途端、突然、本作全体に対する思い入れが掠れ始めてしまった。

 一応、本作はそれぞれのエピソードを二回周以上観てはいるが、最後の方はかなりの苦痛が伴った。
 筆者はアギトや555もストーリー構成は大嫌いだったが、それでも各登場人物は皆理屈抜きで好きでいられたし、今でもその考えは変わっていない。
 また彼らに関しては、良いと感じる場面一に対して、十も二十も難点を感じる事はなかった。
 筆者が嫌いなのは、あくまで「物語構成のいい加減さ」であり、その上に乗っかっているものまで同一視はしていないつもりだった。
 しかし、この認識は前作「仮面ライダー響鬼」で崩壊し、ついに本作で頂点に達してしまった。
 適当極まりないようにしか見えない展開に、適当に翻弄されているキャラクター達を見ているうちに、好きでいる理由を維持できなくなってしまった。
 そのせいか、このコラムをまとめ上げるのにも大きな苦痛が伴い、一時期は第九回で中断しようかとも思ったほどだ。

 第五回辺りを執筆している頃までは、述べてきた粗や問題点も「まぁ、カブトだからな」と個人的に許容していたりもした。
 だが同時に、それらは後々に大きなしこりになるだろうとも予想し、アギトや555等のように「残留感たっぷりな、すっきりしない終わり方なんだろう」と覚悟は決めていた。
 にも関わらず、実際は自身の感想と記してきた酷評が限りなく等しくなった。
 コラム連載などしていなければ、終盤直前で視聴を打ち切っていたかもしれない。
 それほどまでになるとは、自分でも意外だった。
 そして、そういう結論に至った途端、なんだかとても寂しい気持ちになったのを覚えている。

 筆者は、やはり物語や設定、伏線がある程度きっちり整えられていて、その上でキャラクター達が元気に活躍する作品が好きだ。
 その条件さえあれば、実際は多少破綻展開が多くても許容するし(実際破綻てんこ盛りのダイレンジャーは大好きだし)、鬱展開や悲劇展開のオンパレードでも楽しむし、対象年齢の大小やカテゴリ・ジャンルに関係なく観ようとする。

 だが、よくよく考えればこんな見方は筆者に限った話ではなく、誰もがある程度は持っている感覚の筈だ。

 程度の差や好みの違いはあるだろうが、上記のようなフォーマットが整った作品に対して、文句を叩きつけるケースはあまりないのではないだろうか?
 逆にいえば、これがめちゃくちゃであればあるほど、楽しむ事はできない。
 その場限りで盛り上がれば、設定や伏線が破綻していようが構わない、という評価姿勢で平成ライダーを見ている人も多いと聴くが、その中に「その場限りの盛り上がりを作るためにも、必要な準備や素地はある」事を意識している人はどれくらい居るのだろうか?
 というより、「その場限りの盛り上がり」って、実際は言うほど単純じゃないと思う。
 ましてそれは、本来必要なものを破壊してまでやるようなものではない筈だ。

 視聴者がすっかり失念していたような設定や伏線を引っ張り出してきて、「ソレをここで持って来るか!」と燃えさせる作品だって多いというのに。
 それ以前に、勢い任せであとは適当という手法などは、真理でも何でもない。

 だが本作・仮面ライダーカブトは、「その場限りの盛り上がり」すら充分には出来なかった。
 ハイパーカブト初戦闘のシーンにしても、そこまでの経緯が適当極まりなかったため「これのどこが燃えるんだ?」と、いまだ理解できない。
 正直に言うと、あれで燃える理屈すら理解できない。

 結局は、誰もが深みを感じる「燃える場面」を造るための力がなかったという事なのだろう。

 ――だが。

 それだけ嫌いな作品であるにも関わらず、筆者がどうしても忘れられない…思い入れの強いシーンやシチュエーションがある。
 それは、異世界へ逃亡していたひよりと擬態天道の許へ天道が向かい、ひよりを連れ戻すシーンだ。
 あの場面で、手を差し伸べじっと静かに眼差しを向ける天道の表情に、筆者はなぜか心打たれた。
 そこまでの展開も、その後の流れもいい加減極まりなかったため、本来なら到底評価に及ばない筈のシーンなのにも関わらず、あの時の天道の静かな表情が忘れられない。

 個人的には、あの時の天道の表情は、本当の意味で「ヒーローの顔」だったと思っている。

 細かい理屈は抜きにして、救いたいと思う者を求めて、辿り着けない筈の場所に辿り着き、自信を持ってひよりを迎え入れようとするその姿。
 演じる水嶋ヒロ氏の真剣な眼差しも手伝い、また多少の荒削りな部分も含め、あの顔はヒーローとしてとても魅力を感じさせるものだった。
 そのたった一場面が心に残っているせいか、筆者はどこかで天道総司が完全に嫌いにはなりきれない。
 そして、そのヒーローとしての表情を生み出し、また別な場面では、もう一人のヒーロー・加賀美と好対照を描き出し、共に変身し、共に戦うという「これまでの平成ライダーでは意外にありえなかったダブルヒーローの図式」を見事に作り出した。
 それだけは、掛け値なしで絶賛したいと思っている。

 仮面ライダーの共闘といえば、基本はやはり1号・本郷猛と2号・一文字隼人であり、これを越えるどころかこれに迫れる者は今まで生まれなかったと思っている。
 だけど、ようやくそれに並ぶ…しかも、本郷や一文字とはまた違うスタイルで並び立つ事に成功した英雄が、ここにようやく誕生した。

 それぞれの戦闘能力は高く、たとえ独立していてもかなりの戦果をはじき出せる。
 それが互いの力を認め合いながら共に戦う姿は、素直にかっこよく、そして美しい。
 「ライダーバトル」という悪習慣を生み出してしまった平成ライダーシリーズでは、もう見られる事はないものと信じ込んでいた。
 それもあり、筆者はカブトとガタックの揃い踏みの旨味だけは、嫌いになる事ができない。
 共感は得られなくてもいい、これだけは、文句なしで好きなのだ。

 たとえ正当な評価を下されない、酷い舞台に立たされていたとしても。
 カブト・天道総司とガタック・加賀美新の二人は、平成の世に誕生した新しい理想形のダブルライダーだった。
 これが、酷評にまみれた本作が生み出せた、唯一の成功例だったのではないだろうか。
 筆者はそう思いたいし、本作「仮面ライダーカブト」を一年間視聴し続けて出した自分なりの結論と定めたい。

 「仮面ライダーカブト」は失敗作であっても、「ヒーロー番組」である事は出来た。
 筆者はそう信じている。

→ NEXT COLUM