仮面ライダーカブトの頭突き 第六回
ワームっていったい何よ

後藤夕貴

更新日:2006年10月29日

 最近、「仮面ライダーカブト」の評判がどんどん悪化している。

 支離滅裂な内容、迫力のない戦闘、無視されるのか回収されるのか信用ならない伏線の数々、違和感のある演出、設定無視(或いはそう感じられる描写)、意味不明な新キャラ増員…
 ようやく登場した「カブト・ハイパーフォーム」「パーフェクトゼクター」のお披露目が期待外れはなはだしく全然ダメダメだった事もあり、一部のファンの不満はピークに達しようとしている。

 ここに加え、劇場版「GOD SPEED LOVE」の完成度も評価も著しく低かったものだから、ひょっとしたらピークはとっくに通り過ぎ、すでに呆れ果てている人の方が多いのかもしれない。
 こういう評判の悪化は過去の平成ライダーでも何度かあったことだが、カブトに限っては、いつも以上に際立っているようだ。
 感覚的には、去年の夏前「仮面ライダー響鬼」の展開遅延に苛立つファンの意見よりも辛らつのようにも思える。

 こう書くと、熱烈なカブトファンの人には「は? そんなの初耳だね。いったいどこの小規模BBSの意見参照したの?w」とか言われそうだが、神経反射はちょっと待っていただきたい。

 それを言ってしまうと、同じ条件下にある「カブトは面白い・盛り上がっている」という感想や肯定意見すらも裏付けが取れなくなってしまう事になる。
 肯定的意見も否定的意見も、結局は同じ「WEB」という土壌で述べられているものなのだから、否定意見の存在ばかりを疑う事はできない。
 一つひとつの意見は小規模範囲であっても、それが長期間、不特定多数の人間によって述べられ続けるという状況は、意外に無視できない場合もある。
 
 確かに、ネット上の意見をそのまま鵜呑みにするのは危険だが、同じ条件下でポジティブ意見よりもネガティブ意見が目立つようになったという「傾向」は、無視すべきではないと筆者は考える。

 子供番組だから、ネット上で述べられる高年齢層マニアの意見なんか、番組評には関係ない。
 そういう意見も、確かに正当だ。

 だがここは、あえてその高年齢層マニアの意見を述べたり比較したりする、特殊な主旨のページだ。
 だから、そのような正当な意見は、ここでは関係ない。

 というわけで、以降は「子供番組なんだから云々」という逃げ口上は一切度外視して話を進めたい。

 今回は、最近のネガティブ評の要因の一つになっているのではないかと考えられる、ワームについて触れてみたい。

 ワーム。
 本作の敵であり、人類の天敵的存在。

 七年前に渋谷に隕石が落下した頃から地表に発生したと言われていた。
 人間に擬態し、或いは記憶や性格すらもトレースして社会に潜り込み、その正体を見抜く事はほぼ不可能。
 蛹形態から成体へと脱皮し、クロックアップする事で視認出来ないほどの高速移動を可能とする。
 元々耐久力・防御力は高いが、成体になる事でさらにパワーアップするようで、しかも攻撃力も向上および多彩化する。
 当初の設定では、蛹は外観のみ、成体は記憶をコピーするという区分があったらしいが、これは後に無視されたように感じられる。
 知能は高いらしいのだが、知略的行動を取る者が居るかと思えば、単に習性(本能?)に任せて特定条件を満たす人間のみを襲い続けたりする者が居たりもする。
 本来は「擬態した人間の性格と知識」に、ワームの意識を加えた性質になるように見受けられ、擬態した姿を利用して人間を罠にはめようと画策する事が多い。
 ところが、中には擬態した人間の性格に影響を受けてしまい、本来ワームが取るとは思えない行動をしてしまう個体も存在する。
 
 彼らの総合的な目的は不明。
 ただ、ZECTの討伐対象である筈なのに、一部ではZECT幹部と手を結んでいたりと、複雑怪奇な関わりを持っていたりもする。

 隕石により地球にやって来たワームとは別に、元々地球に居た「ネイティブ・ワーム」が存在する事も判明。
 本人(達?)は「人類の味方」「ただ人間の中で生活したいだけ」と述べているが、天道(日下部)総司の両親はネイティブ・ワームに襲われて命を落としており、その言い分の違いが現状のミステリー要素となっている。
 また、まだ隕石が落下していなかった35年前に稼動していたらしい謎の施設(渋谷・エリアX内に存在)には、ワームと思われる物の標本のようなものがある。
 
 と、だいたいこんなところが現状(2006年10月中旬現在)判明しているポイントだ。
 多少細かな見落としがあるかもしれないが、おしなべてこんなものだろう。

 これだけ見ると、結構まとまった設定を持つ存在に思えるのだが…

1.ワームって、なんだっけ?

 放送初期の頃からだが、「ワームの存在意義がわからない」という意見がよく聞かれた。
 もちろんこれは「漠然とした“敵”」「ライダーに倒されるために出てくる存在」という、当たり前のポイントを踏まえた上でのものだ。
 あまりにも不明瞭な部分が多すぎて、ワームという敵の全体像が、概要も含めてほとんど見えてこないのだ。
 それは例えば「実は組織的な存在である」とか「ワーム全体で一つの目的を持って行動している」とか、そんな程度のおおまかなものでいい。
 そういった(真偽・フェイクの有無問わず)全貌が見えなさ過ぎるため、「ただワラワラと画面上に湧いて出るだけの存在」にしか感じられなかったという事だ。

 もちろん、その時点ではまだ放送は始まったばかりだったので、この先何か出てくるかもしれないという希望的観測もあった。
 しかし、2クール、3クールと進むにつれ、ワームに関連する新しい情報は困惑を招くものばかりで、益々ワームの全貌を不透明にしていくだけだった。

 仮に、初期の頃に主人公側もしくは田所班内で、「ワームは何を狙っているのか」等の仮説議論をもっと行っていれば、多少は意味のある謎が生まれ、視聴者の興味も惹けただろう。
 ところが、細かな事件についての考察はあってもワーム全体についての考察はほとんどないに等しく、登場人物の誰も熟考した様子を見せない。
 そのため、「初期にワームが天道を執拗に追跡していた理由」や「なぜ一部の登場人物には絶対擬態しようとしないのか」「擬態してZECTに侵入しようとする作戦を不自然なまでに行なおうとしないのか(行った事はあるがたった一回だけ)」など、細かな疑問…ぶっちゃければ“意味が読めない不満感”がつのる。
 これらの点が、何か意味を含んでいるのか、それとも何も考えられていないのか、後々の伏線なのか、単なる副産的なものなのか、まったく判別がつかなくなってしまう。
 これでは、物語の流れを辿り、その先を推察する楽しみは薄まる。
 少なくとも、そういった楽しみ方をしている人の一部は、興味を失いかねない。

 「敵の存在を不透明に描く」という手法は、よく誤解されがちだが、実はある程度は透過的にしておかなくてはならない。

 ある謎解き物語があるとして。
 登場人物が「謎」について憶測を立てたり推理をめぐらせて、初めてそれは「謎」と呼べるものになる。
 そして、それがミステリアスなイメージを与え、物語に深みを与えるのだ。

 ところが、登場人物が「謎」に対して何の関心も示さなかったら、それはもう「謎」ではなく単なる「不可解なもの」で終わってしまう。
 下手をすると、消化不良の原因にもなりかねない。

 「仮面ライダーアギト」の頃、本編内にやたらと謎が散りばめられたのに、その多くが未回収で終わった事について疑問の声が上がったが、そもそも「疑問の声」が生じた原因は「どこまでが伏線的な謎で、どこまでがそうでない物だったのか」見極めが付き難かった事にあった。

 例えば「オーパーツ」。

 今から思えば、あれは単に「神」が本編内に登場するための理由付けに過ぎず、いわば「神を運んできただけの只の器(或いは船)」程度のものだったのだろう。
 だから、「神」が本編内で本格的に活動を開始した時点で、オーパーツの出番は必要なくなったのだ。
 ところが、番組開始前の情報では、まるであれが後々の物語の重要なキーであるかのような表記があり、さらに番宣でもそう感じられそうな表現が成されていた。
 ここで、「単なる材料の一つ」とした製作側と、「何か重要な物に違いない」と推測するファンの間に決定的な温度差が生じた。
(仮面ライダーアギトに関しては、こちらを参照)

 以降、この温度差は放送が進むにつれ、またはシリーズが進むにつれ溝を深めていったわけだが、もしここで「あれは神が乗ってきた船に過ぎないのではないか?」などといった台詞なり憶測なりを挟んでおけば、視聴者はそれなりに納得が出来た筈なのだ。
 そういった「あとひとさじの味付け」が不足するために、「本当はさほど重要ではないポイント」がどんどん誤解されていく結果になる。

 閑話休題。
 ワームの概要についても、これと似たような事が言えるだろう。

 もし、この概要の推察というものを「ネタバレに繋がりかねないもの」と制作側が判断し、描写を意図的に避けていたのだとしたら、それはもう根本的な演出ミスという事になる。
 (というか、平成ライダーにはえてしてそういう点が多く見受けられる感が多々あるので、これはうっかりではなく根源的な病巣である可能性があるが)

 本当のネタバレ隠しというのは、全体の一割なり二割なりを初期の頃にわざと明かし、それをわざと曲解させるように演出を工夫し、受け手の興味をネタバレの本質からずらすものだ。
 まったく隠蔽してしまっては、隠すべき対象そのものから興味が逸れてしまう危険がある。
 もちろん、それでも「あれは一体なんなのだろう」という程度の疑問を与える事は出来る。
 だがそれでは、決定的な探究心を生むには至らない。
 作品に熱烈に思い入れてくれる一部の人を除けば、ネタバレ隠しで放り込んだ材料は、単なる「よくわからんもの」としてしか認識されず仕舞いになるのだ。

 かといって。
 中途半端に推測を入れてもいけない。
 問題を出されて納得のできる回答が得られなければ、それもまたダメ演出になるからだ。

 これについては後述するが、ワームを巡る描写には、そういった部分が本当に多い。
 以下でいくつかの例を挙げてみよう。

2.神代剣のこと

 最近、実に奇妙な意見をよく目にする。

「神代剣には死んで欲しくない」
「彼は最終回まで生き残らせるべきだ。途中で殺したらカブトを見限る」
「剣は殺すべきキャラじゃないだろう。アレを殺して安易な受けを狙うようではいけない」

 ――はて?

 実はスコルピオワームが擬態しているだけの彼について、どうしてそんな見解が生じるのだろう?
 神代剣は、本当はすでにスコルピオワームに殺されている。
 正しくは、殺された描写そのものはないが、「一緒に居た姉が殺害された場面がある」「それを見ていた“神代剣自身の”記憶を継承している」というポイントから、まず生きている事は考えられない。
 仮に生きていたとしたら、「姉が死んだのを見て逃げ出し、その後神代家の保護も助力もなしで隠遁生活を続けている」などという、随分と不自然な展開になってしまうだろう(ワームは擬態元の人間の生死に関わらず記憶をコピーできるため、こんな事も一応成立しうる)。

 だが、仮にそれで剣本人が(経緯はともかくとして)生き続けていたとしても。
 現在、本編に「神代剣」として登場しているのは、紛れもなくスコルピオワームなのだ。
 しかも、彼はその活動からネイティブワームではない事は確定。
 ネイティブワーム代表として登場した立川大吾が、剣の正体を見抜き恐れて、わざわざサソードに変身・クロックアップしてまで逃亡するという反応を見せている事からも、同類であるとは考えられない。
 ましてスコルピオワームは剣の姉を襲い殺害し、恐らくは剣自身も襲い、そして剣の姿になってからも行きずりの女性を襲っている。
 立川の言い分とは、随分違う行動だ。
 さらに、剣はカブトに襲い掛かった事もあり、いつワーム化するのかもわからない爆弾的要素を抱えている。
 いくら「ワームである自覚を失っている」とはいえ、間違いなく彼は(天道や加賀美らにとって)倒さなければならないワームの一体なのだ。

 が。
 なぜ、それを最後まで生かし続けられなければならないのか?

 否、物語の方針として、結果的に生かされるのは問題ない。
 それなりの理由が提示されれば、という条件が付くが。
 不安なのは、白倉プロデューサー言うところの「ライブ感」なる意味不明な主旨のもと、「人気があるから」「殺さないで欲しいという声があるから」生かされ続ける可能性だが、それはあまりにも不条理だろう。
 そもそも、スコルピオワームにとっての神代剣という存在は「身体の表面に貼り付けた薄皮」に過ぎない。
 それを剥がしてしまえば、中には獰猛なワームが牙を剥いているのだ。
 いくら剣がコミカルで楽しい行動を取り、だんだん好感度を高めていったとしても(実は筆者も大好きではあるのだが)、それは単なる「皮」でしかなく、「剣は殺すべきではない」というのは明らかにおかしい。

 剣は、むしろ劇中では「いずれは倒されなければならない存在」として、またはそう感じさせるように描かれている。
 加賀美が剣の存在に戸惑いを覚えている事や、じいやに正体について言及している事、また天道には彼の正体を打ち明けられずにいるという演出があるのは、そういう部分を強調するためのものだろう。
 そうする事で、剣の(ワームとしての存在ではなく、あくまで人間としての)存在意義を強調し、「殺して欲しくない」と感じられるように刷り込んでいく。
 これはよくある手法ではあるが、大変効果的なやり方だ。

 ――本来ならば、と付くが。

 だが、この演出をやるために必要な要素を、本作はいくつも欠いている。
 そのため、剣を巡るこれらの要素も「本当に最後まで生かすつもりなんじゃないか?」と疑問を抱かせる要因にしかなっていない。
 いや本当に最初からそのつもりなのかもしれないが、それはともかく。

 なぜ、剣に対して「殺して欲しくない」などと思わせる要素が生まれたのだろう? 
 
 考えてみたら、ワームが「擬態した人間の記憶に影響を受ける」という表現は、とてもわかりにくくなっている。
 そのため、剣のような例が出てきた場合、「これはワーム自身が剣的な性質になったのか、それともうわべだけなのか」が、見えてこないのだ。

 ワームが擬態主に影響を受けたと思われる描写は、第四回でも扱った第21〜22話登場のタランテスワーム(通称マコトワーム)と、第25〜26話登場の蛹ワーム(通称ミサキーヌワーム)でもあった。
 マコトワームはガタックを守って爆風に散り、ミサキーヌワームは剣に心情を独白した(実はあれ自体、剣を殺すための演技だったとする説もあるが…)。
 
 しかしこれらは、放送当時ちょっとした議論を巻き起こしもした。

 「マコトワームって結局ニセモノなんだから、温情かけたってムダだし、最期にいいカッコされてもなあ」
 「ミサキーヌワームって、結局何がしたかったの?」

 ストーリー的には、擬態したワームが意外な一面を見せたとか、意外な行動を取ったという新鮮なサプライズはあるが、そこまでの展開を踏まえた上で見ていると「なぜ突然ワームがこんな事を?」という疑問しか生まれないのだ。
 これは、いくら麗奈が独り言でフォローを入れても、払拭されるものではない。
 そもそも、第四話で「加賀美の弟・亮に擬態しつつも感情に流されず、冷酷に加賀美を罠にはめようとした」ベルクリケタスワームが登場し、インパクトを与えているため、擬態したワームがこんな行動を取る筈がないのでは? という疑問も当然生まれるのだ。

 そもそも、ワーム自体には明確な個性がない。
 これがまずいのではないか。

 外観や習性、起こした事件の内容を別とすると、麗奈ことウカワームを除き、明確な独自個性を発揮したワームはほとんどいない。
 擬態した後に個性を出した者は別として、純粋なワームとして存在している時点では、雑魚であろうと話の中心にいようと、没個性極まりない只の「ヒトガタ(の異形体)」に過ぎない。
 だから視聴者は「剣やマコト、ミサキーヌワームのような存在が発生しうる」事を認められない。
 擬態したワームに人間的変化が現れる、という可能性を描くつもりだったのなら、本作はのっけから失敗したと言える。
 本当なら、加賀美弟ワームの時点で、これをやっておくべきだったのだ。
 もちろん、結果的に倒される事になってもいい。
 視聴者が、まだワームという存在を充分に把握しきっていないうちに、「ワームにはこういう一面もある」という事を描き刷り込んでおけば、後の連中の存在も容易に受け入れられた筈だ。
 ところが、あの回での加賀美弟ワームは、弟という存在を悪用しようとした暗黒面・邪悪面しか描かれていなかった。
 まして、話そのものの完成度が高かった事もあり、別な刷り込みが成立してしまった。
 その上で、加賀美ワームとマコトワームの策略である。
 こんな事をやられた後では、ワームがメンタルになる事もある、なんて描写をやられてもピンと来ない人は居るだろう。
 この延長として、剣も「本当に神代剣の代用的存在として生き続ける意味があるのか?」という疑問が生まれるのだ。

 なお、一部では「実はスコルピオワームは複数存在し、剣の姉を殺したのは別なスコルピオワームなのではないか」という意見もあるそうだ。
 仮に複数存在説が本当だったとしても、剣がワームである事には変わりない。
 「人を殺していないから彼は無実だ=殺すべきではない」ではない。
 この作品は「ワームである=倒すべき存在」という事を(製作側の意図に反するかもしれないが)成立させ、それを刷り込んでしまったのだ。
 だからこそ、ネイティブ・ワームという「ただ倒せばいいとは限らない(かもしれない)存在」を出す意味が見えてくる。
 ワームとして存在している時点で、殺害の有無は関係ない筈なのだ。

 というように、剣一人とっても視聴者の見解が混乱している。

 この剣の罪状を巡る一部の見解を見る度に連想するのが、「マンガやアニメのヒロインには彼氏が居て欲しくない」というファン心理だ。
 ヒロインは清純にして純潔であるべき、(主人公以外の)彼氏が居るなど論外という発想で、最近の代表例ではゲーム「下級生2」のメインヒロインがこれで叩かれた(スタートの時点で主人公とは別の彼氏持ち&経験者という設定)。
 バカな例だと、大昔「めぞん一刻の音無響子処女・非処女論争(ちなみに本人は未亡人)」などという、今となっては笑うに笑えない話題が本当に存在・白熱化したりしていた。
 要するにこれは、「自分が好きなヒロインが“汚れている”のが許せない・認められない」という、一方的かつわがまま極まりない(しかしごく自然に発生しうる)感情だった。

 これと同じような物を、神代剣の罪状を認知しようとしないファン心理の中にも感じる。
 「ヒロインが汚れているのが嫌」というような感覚が、「剣が人を殺すというのが嫌」という思いに通じてしまっているわけだ。

 「面白いキャラ、いいキャラだから生かして欲しい(生かすべき)」というのは確かにごく普通の感想だが、だからと言って劇中でやってしまった行動を認めず、自分の都合の良いようにねじまげて解釈するのはまずい。
 やってしまった事はやってしまった事として、そのキャラクターの性質の一部として認めなければならない筈だ。
 果たして製作側は「成すべきけじめをつけるため、スコルピオワームを葬ってくれるのか」筆者は、ここに注目したい。

 私見だが、筆者は「剣は殺されてこそ存在意義が昇華する」キャラだと思っている。
 これは単なるお涙頂戴的演出に堕するべきだという事ではなく、けじめをつけて退場してこそ存在が確立されるものだと感じているからだ。
 そうでなければ、彼は単なる「いつもは奇行を演じ続けるだけで、時折発作的に暴れる訳のわからないキャラ」でしかいられないからだ。

 筆者は、神代剣が大好きだ。
 だからこそ、彼はきっちりワームとして倒されるべきだと思う。

3.ひよりのこと

 神代剣以上に訳がわからないのが、日下部ひよりだ。
 「実はひよりはワームだった」というサプライズは、公式によると最初から考えられていた話らしい。
 もちろん、筆者はそんな事まったく信用してないが。

 ま、それはおいといて。
 ひよりの正体暴露は、意外な展開に驚愕するより先に、益々大きな疑問を生むだけだった。

 ひよりの誕生プロセスは、現在判明しているものではこうだ。  なぜ人類の味方の筈のネイティブ・ワームが日下部夫婦を襲ったのかは、天道の台詞でも明確に「謎」として示されている上、加賀美陸の台詞から謀殺計画の存在も匂っている事もあるから、現在はまだ追及は出来ないだろう。

 ここで疑問なのは  という点だ。

 この疑問点の中には、ひょっとしたらこの後いくつか解明されるものが含まれているかもしれない。
 だから決して全てが問題のあるポイントだとは言わないが、それでも「まず間違いなく適当に流されるだろうもの」「勢いででっち上げたのだろう」と解釈出来てしまいそうなものが多く含まれている点は見逃せない。
 個人的には、ワームの生態描写がいい加減だというのが鼻に突いて仕方ないが(3歳しか年齢差がない筈の総司とひよりの幼少時の外観差とか…ま、これは単なる致命的な粗でしかないんだけど)、これはまあ、ワームとネイティブワームとで生態が違うという「逃げ」が使えるから、とりあえず流しておこう。
 むしろ重要なのは、結局「日下部ひより」という人物像が、どういう存在だったのか、という事だ。

 先でも触れた通り、ワームの擬態とは、外観・性格・記憶などの個人要素を薄皮としてまとうようなものであり、ワームという本質そのものまで変わってしまうものでは本来ない。
 神代剣という例外は居るものの、それでも彼が「人を襲い殺すワーム」であるという事実はまったく変わらない。
 結局のところ、スコルピオワームはワームであることを完全に捨て去り、本当の神代剣になりきる事は不可能なのだ。

 ひよりに関しても、まったく同じことが言える。
 ひよりことシシーラワームは、「日下部ひよりという薄皮」を被る経過が特殊なだけで、結局は人間を襲うワームと変わりない。
 つまり、存在意義的にも「オリジナルの(人間としての)ひより」ではないのだ。

 普通なら、オリジナルとコピーが居てオリジナルが消えた場合、コピーがあらたなオリジナルとして存在する事になる。
 しかし、そのコピーに元々別なベース(素地)があり、そちらがオリジナルの存在を塗り潰すほどのものであった場合は、コピーはオリジナルになりえない。
 カブト世界に存在する日下部ひよりとは、そういう存在なのだ。
 つまり、天道が「守るべき妹」と解釈するのもおかしいし、ましてそれまでのポリシーを捻じ曲げてまで必死になるのも奇妙でしかない。
 この辺の感覚の差異が、視聴者と製作側の温度差なのではないだろうか。

 とはいえ。
 恐らく製作側としては、「ワームではあるけれど、ひよりは立派な一人のヒロイン」として描いているつもりだったのだろう。
 だから、主人公の天道が必死に守ろうとするのは当然と。

 しかし、本編ではそういうスタイルを構築するために必要なものを、あまりにも多く欠きすぎている。

 ひよりが「ワームでありながらもオリジナルの存在である」というイメージを確立させるためには、  少なくとも、これらが徹底されていなければダメだった筈だ。
 どういう生物なのかもろくにわからず、どういう行動目的なのかもわからず、その上で視聴者が感情移入し辛いディスコミュニケーションタイプの少女の正体をワームにしたって、「ふーん、だから何?」で終わってしまうのだ。
 なのに、それに対して天道がなぜか必死になってしまうのだから、そりゃ視聴者はついていけっこない。
 これに付いて行けるのは、両者の関係設定を把握し、かつ早い時期からそれを脳内で練りこんで来た一部の製作者だけだ。
 てっとり早く言うなら、これは「素人がよくやるような“脳内設定と実際の描写の食い違い”みたいなもの」だ。

 仮面ライダーカブトは、始まった当初こそ注目度は高かったが、回が進む度にどんどんおかしな面が目立ち始め、ある時期から一気に全体評価が悪化したように感じられるが、その決め手となったのは、この「ひよりがワームだった」展開からだと思われる。
 これは、視聴者を納得させる事が出来なかっただけでは収まらず、主人公やそれを巡るあらゆる要素に不穏因子を撒き散らし、視聴者の嫌悪感を募ってしまった。

 各所で指摘されている天道がヒーローではなくなってしまったという点も、ここから端を発している。

 天道自身についてはまたいずれ別な機会に触れたいが、とにかく、ひより=ワームというサプライズは、本来製作側が見込んでいたようには機能せずむしろ逆効果となり、さらには別な所にまで悪影響を生んでしまったと断言出来るだろう。

 少なくとも、シシーラワームがエリアXに乗り込む際ゼクトルーパーをぶっ倒してさえいなければ、まだ救いがあったんだけどね。
 本当は、アレは一番やっちゃいけない表現だった筈。
 あれのせいで、シシーラワームは結局人間を襲う悪いワームなんじゃないかという印象が付いてしまい、しかも何のフォローもないまま姿を消したし。

 ここに加え、人類の味方を主張する立川が登場したものだから、もうひよりが弁明する機会は完全に失われた。

 これは明確な情報では決してなく、現状あくまで噂に過ぎないが、突然のひより退場劇の裏には、実質的な里中氏の降板に理由があるという説があるそうだ。
 降板云々の話は、矢車・ゴン・風間等で二転三転しているので今ひとつ信憑性はないし、38話終盤および39話にて登場が確認されているから決して鵜呑みには出来ないが、この「ほとんど出てこない(出てきても物語にほとんど関わらない)」状態のままで最終展開に向かい、ラストにほんのちょっと顔を見せるだけで済ませてしまったら、物凄い反感を買ってしまうことだろう。
 番組当初、随分と描写が難しいヒロインだなあと思ったら、結果的に途中で描写放棄してしまう結果になるわけで……それだけは、やっちゃいけないと思うなあ。

 なお、ひよりがワームだという時点で、TV版と劇場版の繋がりは完全に断たれた事になる。
 まあ、内容がまったく繋がっていない事は劇場版をよく見ていれば一目瞭然だったのだが、また今年もファンはぬか喜びさせられただけに終わってしまったわけだ。

4.ウカワーム・麗奈とネイティブワーム

 ワームについて必要な描写がまったくなかったため、いくら麗奈とか立川とかを出されても、全然ピンと来ないのも困ったものだ。
 確かに、ウカワームは強いし独特の存在感は出しているが、ただそれだけで終わってしまっているのが痛い。
 その行動も意図不明&しっちゃかめっちゃかなため、ワームの意図がわかり易くなるかと思ったら、益々混乱させるだけだった。
 ワームとZECTが裏で手を組むというのも結局は破綻&困惑を招くだけであり、ワームがZECTと組む事によるメリットが今ひとつ不明瞭なため、意味を成さない。
 ネイティブワームの発見・抹殺が麗奈達ワーム側の目的だとも言われているが、そうだとしても「何故邪魔なのか」「何故ZECTの力を借りる必要があるのか」が伝わりにくいため、仮に今後ネタ晴らしをされても、それがどこまで浸透するのか不安でしかない。

 また、天道の両親を襲ったネイティブワームも、加賀美陸の発言から実はZECT(或いはその前身?)絡みだったのではないかという疑惑も出てきた。
 こうなってくると、もう情報整理もへったくれもない。
 
 先に触れたように、劇中における「謎」についての推察はZECTに対してもほとんど行われていないものだから、この「ワームとの関わり」「当初の目的(ワーム殲滅)との食い違いの意味」「ワームを倒すべき存在のライダーを狙う事と、ワーム殲滅を同時進行させる意味」などは、伏線として機能せず単なる困惑要素…要するにハッタリにしか見えないのが、もっともまずい点なのかもしれない。

 恐らく今後も、強いワームが出てきただの、おかしな行動を取るワームが出てきたりだのの繰り返しになると思われるが、ここまでの伏線や謎を回収し「そうだったのか!」というカタルシスを与えてもらう事は、まずありえないだろう。
 こういうのも、本作が大切にしてきたという「ライブ感」の悪影響なのだろうか。

 と、ここまで書いた時点で、39話以降では麗奈が記憶を失い、ワームである事を忘れてしまうという超展開がある事がわかったのだが、なんだか益々ややこしい事になりそうなので、そこから先の話は今回はあえて避けさせていただきたい(笑)。

5.劇場版のワーム

 現在執筆難航中の劇場版「GOD SPEED LOVE」コラムでも触れるが、劇場版のワーム(外観はネイティブと同じだが設定は従来のワームと同様)の空気っぷりは凄かった。
 全編に渡って単なる障害物でしかなく、それなのに最後の方では「実は天空の梯子計画の要に食い込んでいる」などというご都合主義全開。
 「世界の大ピンチの理由付けに“名前だけ”借りられたに等しい」扱いで、ぶっちゃけ本編内では何の役にも立っていなかった
 唯一真っ当に話に関われただろう「ひより襲撃」場面についても、よく考えればひよりを病院に連れて行けばいいだけなので、無理にワームを出す必要もなかったという情けないもの。
 せっかく「いつもと違う必死で戦うカブト」というおいしいものを見せるきっかけを作ってくれたというのに、扱いそのものはTV版本編で突然ワラワラ(数合わせに)湧いてくる蛹ワーム以下だった。
 最終戦闘直前、軌道エレベーター周辺で守りを固める成体軍団などは、カブトとガタックの行く手を阻む壁にすらなっていないというていたらく。
 テレビ版を見ていない人は、ワームに擬態能力がある事すら気付かなかったことだろう。

 というわけで、もはや今となってはTV版本編の描写と絡めて考える必要もない、「あってもなくてもどーでもいい」存在となってしまった。

 哀れだなあ…

まとめ:ワームの描写に思うこと

 ワームというものを、今までの平成ライダーのあらゆる要素をあえて絡めて考えてみると、なんとなく製作側の考え方の断片が見えてくるような気がする。

 平成ライダーの敵を巡るパターンとして  というものがある。
 これら各要素の良し悪しは別として、ここまで共通のパターンが多いのかと驚かされる。

 しかし、考えてみればこれらはすべて「製作側にとって作りやすい」敵の構図そのものであり、それ以上のものでは決してない。

 実は、敵との完全決着で物語を締めるというのは、それなりに難易度が高い。
 特に、敵が大規模になればなるほどそれは顕著で、酷い時になると最終奥義「みんな死んじゃえバカーっ!」が炸裂する事になる。

 これを防ぎ、なおかつきっちりとした決着を描き切るためには相当な構成の練り込みが必要であり、それはすなわち「スポンサー等による外的要素を考慮した対応・対策」を組み込み難くする危険も出て来てしまう。
 それを前提として、あえて設定や構成に隙を作りやすくしているのが「平成仮面ライダーシリーズ」であると推察されるが、仮面ライダーカブトのワームは、いわばその集大成的存在なのではないだろうか、とすら思える。
 これだけあやふやな設定に満ちていれば、とんな風にでも変更やアレンジが利くし、どうとでも言い訳を後付出来る。
 そんな視点で見ると、ワームというのは「中身がスカスカであるからこそ便利に使える」敵キャラクターなのかもしれないと思えてくる。
 もしそうなら、ワームは大変完成度の高い「設定」だと言えるだろう。

 だが、それはあくまで製作側にとっての話であり、「仮面ライダーカブト」という物語を楽しむ視聴者には、まったく関係ない

 ひよりや立川等の登場は、暗黙のうちに「すべてのワームを見つけ出して皆殺しにする事は無意味であり不可能」という印象を確立させてしまったし、またその活動もいい加減なため、殲滅する事そのものに意味が見出せなくなる。
 一歩間違えると、それは主役であるライダー達の存在意義すらも揺るがす事になりかねないのだが、ここは「主人公・天道が最後に目指す目的」というものを加える事で、ぎりぎりの所で食い止める事が出来そうだ。
 ただどうであれ、それが見ているファン全てを納得させるものになりえるかどうかは、また別な話となるが。

 現在発売されている「仮面ライダーカブト」のDVDソフトには、メイン脚本家・米村正二氏によるカブト後日談(まだ放送されていない最終回後の物語)の小説が特典として付属している。
 これは巻を重ねるごとに続いていく構成になっているようだが、そこでは、ワームとの戦いはすでに過去の出来事として描かれている。
 もし、これが本当に最終回と繋がる内容であるなら、何かしらの方法でワームとの戦いに決着が着き、世界からワームが消滅しているという事になるのだろうか。

 少なくとも、徹底的な殲滅戦を展開するとか、「こいつを倒せば雑魚もみんな自動全滅ヒャッホー」展開は厳しそうだから、ありうるとしたら「リセット展開」…まあつまりは、「戦え!イクサー1」とか「美少女戦士セーラームーン(アニメ・無印)」みたいなものだろうか?
 特にカブトには、特撮界でも一二を争う超危険アイテム「ハイパーゼクター」というものがある。
 いくらでもそういう事は可能だろうし、すでに劇場版でも前科を作っている。

 まあ、「今でもどこかで怪人が発生して、どこかで人間を襲って殺しているんですよヒャーッ」なままで締めるよりはすっきりするのかもしれないが……

 それでいいのか、という気はどうしてもしてしまうかなと。

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