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更新日:2006年2月5日 | ||
さんざん引っ張った割には、片手でドンドコやっただけで終わってしまったオロチ。 そして、オロチは収まっても相変わらず出現する魔化魍、スーパー童子・姫に代わる新型を研究し続けている洋館の男女、早くも鬼の姿に変身できるようになった桐矢、福祉の道に進むことにしたあきら、医者を目指す明日夢など、日々は淡々と刻まれていたようです。 はっきり言って、鷹羽は、番組が始まった当初から、“最終回で鬼と魔化魍の戦いに終止符が打たれる”なんてこれっぽっちも思っていませんでしたから、“戦いは続くエンド”になったことは当然と思っていますし、そのことには全く文句ありません。 この1年間は、例年に比べて魔化魍の発生が異様に多かったという扱いになっていましたが、洋館の男女の暗躍がなくても、例年どおりの数くらいは自然発生し続けるであろうことは想像に難くなく、鬼は今後も後継者不足に悩まされつつ魔化魍退治に精を出すことになるはずです。 ただ、そのこととテレビ番組としての『響鬼』における最終回のあり方の是非は関係ありません。 少なくとも、洋館の男女さえもオロチの発生を嫌い、わざわざ轟鬼を清めの地に案内までしているわけで、オロチがどういうもので、洋館の男女(更にその上の存在)がしたいことと何がどう違うのか、どうしてオロチの発生で全てが滅ぶのか、それほど大切な決戦の場に、いつもの3人の鬼しかいないのはどうしてなのかなど、語るべきだったのに語られなかったことが多すぎます。 例えば、本来宗家である威吹鬼が清めの儀式を行うはずだったのに、独断専行で響鬼が役目を奪ってしまいました。 これが、例えば儀式は1人でやらなければならないが、護衛は可能であるということならば、一番強いアームド響鬼が護衛に付くことが、最も安全に儀式を行う方法だったはずです。 ならば、大役を果たす威吹鬼を全力を尽くして守り抜くことこそが、響鬼の取りうる最良の手段でしょう。 ことは関東だけでなく全国規模(というか「全てが滅ぶ」なら世界規模)の問題なわけで、宗家に太鼓使いの鬼はいないのかという疑問や、太鼓使いの鬼なら関東だけでも数人いるのに、家柄なんかに拘るのはどうしてだという疑問が次々に湧いてきます。 今回、画面で見ていた限りでは、一番有効なやり方は、管、弦の鬼を2人一組にして数組作って接近戦と射撃戦を行わせ、弾鬼とか太鼓の鬼に儀式を行わせ、直近護衛としてアームド響鬼が近くに張り付くという方法だったように感じました。 別に弾鬼でなくとも、太鼓の名手であれば誰でも構いません。 誰がやるにせよ、響鬼が片手で叩くよりいいでしょう。 それとも、猛士所属の太鼓使い達は、揃いも揃って響鬼の片手に劣る程度の腕前ばかりなのでしょうか? これは、儀式がどういったものであるのかがまるで語られていないため、“どうして宗家の鬼がやるのか”という疑問が残るのと、“だったらどうして響鬼にできたのか”という疑問が両立し、更に“どうしてもっと多くの護衛を付けられないのか”という疑問まで出てきてしまう故の問題です。 もし、猛士の古文書に“長く続く鬼の血が必要”とかいう表記になっていたのなら、太鼓使いでない威吹鬼にその重責が押しつけられるのも納得できますが、逆に響鬼が役を奪う理由がなくなります。 響鬼が古文書の表記を知らなかったor信じないで独断でやったというなら、それもいいですが、何の確信もなく、下手すれば儀式そのものが失敗に終わる危険を冒してまで、本部の決定を勝手に破るという行動を取ったことについて、責任を取らされなければならないでしょう。 たとえ結果オーライだったとしても、です。 宗家でなければならないという理由が特段なかったとしても、組織に身を置いている以上、トップの決定に従わないためには、それなりの理由が必要になります。 現場の判断、それも一個人の独断で勝手に決定を覆されたりしたら、組織としては統率が取れなくなるわけですから、それは当たり前ですね。 例えば、本部は儀式そのものは割合簡単なものと判断した上で、中長期的観点から、今後も数々の儀式をこなさなければならない威吹鬼の経験値稼ぎを兼ねて指名している可能性もあるわけで、もしそうなら、響鬼がそれをおじゃんにしてしまったことになるわけです。 今回の場合、結果的にうまくいっているだけに、逆にヒビキの勝手な行動が問題になります。 失敗すれば、誰もが納得する形で責任を取らざるを得ませんが、本部に逆らってまで実績を作ってしまったということは、組織においては野心の持ち主と見なされるのが世間というものです。 穿った見方をすれば、“手柄欲しさに宗家を出し抜いた”のですから。 しかも、失敗しそうだったから思わず手が出たとかいうのではなく、現場に着く前に騙して出し抜いたのですから、これはもう悪意以外の何者でもありません。 要するに「見ろ、“宗家の鬼”様が怖くて震えていたから、俺が代わりにやってやったぜ。宗家がなんだ、俺の方が度胸も実力もあるんだ」と言っているに等しいわけです。 確かに、番組中ではヒビキはそのような人物として描かれてはいませんし、あの描写から一足飛びにこんな意地悪な見方をするのもどうかとは思いますが、リアルな世界観を求めるならば、当然こういう見方も可能です。 隙のない作劇を目指しても、時間や予算、演出の都合上、ある程度アバウトになるのは、もちろん仕方のないことです。 ただ、仮にもヒーロー物において、いわゆる最終決戦なのに、ここまで煮え切らないやり方でいいのかという批判は絶対に免れません。 前半無計画に予算を消費されたしわ寄せなんかもあるでしょうから、多くは望みません。 関東の鬼全員を決戦の場に集めるということは、スーツアクターをそれだけ必要としますから、人件費も撮影に要する時間も余計に掛かりますし、メイン3人が画面に映る時間を圧迫することにもなりますから、決戦の場にいつもの3人しかいないのも仕方ないでしょう。 ならば、あらかじめ“各地に同時大量発生する魔化魍への対処のため、全国の鬼が大わらわになっている”ということを台詞だけでもいいから語っていてくれれば、“悪いが、清めの儀式に割ける人員は3人だけ”という描写に多少なりとも説得力が出たでしょう。 そして、最初から“最も太鼓の巧い響鬼に儀式を任せ、後の2人が護衛する”という形にして収束させれば、結果的に何も残さなかったイブキの不安描写なんか削ることができたはずです。 戦力としてのアームド響鬼がもったいないとは思いますが、人手が足りないという描写があれば、視聴者の多くは太鼓の専門家でない威吹鬼や轟鬼にやらせるよりはいいじゃんと納得するでしょう。 諸般の事情から、ラストのうねりとしての大きな山場がオロチ現象以外にない以上、全ての描写を束ねて盛り上げなければどうしようもないのです。 清めの儀式によって、オロチが鎮められる様をじっくり見せなければ、そもそも“1つの事件が終わった”というカタルシスを与えることはできません。 それを途中でぶった切って「一年後」では、オロチが終わったという実感が得られないじゃありませんか。 『響鬼』のラストは、ヒーロー物として見た場合、このように、ちっとも褒められたものではありませんでした。 では、“少年の成長物語”として見た場合はどうでしょうか。 大方の予想どおり、明日夢は鬼になるのをやめ、なんと医者を目指すことになりました。 鬼とその弟子というのではなく、“心の弟子”というか、生き方の弟子として認められるというのは、ヒビキと明日夢のあり方として、一応の解答ではあります。 その意味では、なんとか体裁は保てたと言えるかもしれません。 ですが、あれで本当にいいのでしょうか? 直美とのパネルシアターの約束は、あれ1回きりで良かったのでしょうか。 難病である直美は、ちょっとやそっとでは完治しません。 「だから治せるよう医者になるんだ」という考え方もあるでしょうが、直美は生きる希望として「明日夢のパネルシアターが見たい」と言っているのであって、明日夢に「病気を治してほしい」と言っているわけではありません。 明日夢が医師免許を取れるのは、現役合格したとしても、残りの高校生活1年+医学部6年の7年後、しかも一人前の医者になるには、更に数年掛かります。 ものが“生きる希望”ですから、そんなに長い間放置されたらもたないでしょう。 それで7年もつくらいなら、そもそも明日夢がパネルシアターのために鬼の弟子をやめる必要はなかったことになります。 いえ、奇跡が起きて完治したからもうパネルシアターはやらなくてもよくなったというなら、それでもいいんです。 奇跡が起きたところさえ描写してくれれば。 前回も書いたとおり、生死の境をさまよっていた子供が、ヒーローの勝利に呼応していきなり完治するくらいの奇跡は、よくある話です。 誰かが“奇跡が起きた”と言ってくれさえすれば、それがご都合主義的であったとしても、それなりに格好はつきます。 トドロキが復活を遂げた時のように、「奇跡でも起きてほしい」と言った後でのことなら、「ああ、奇跡が起きたのね」と納得する素地ができるわけです。 この場合、本当に納得できるだけの描写だったかというのは関係ありません。 もちろん納得できるにこしたことはありませんが、ここで重要なのは“作り手がそういう描写をしようとしたか”どうかであって、演出の成功・失敗を云々する以前の問題なのです。 でも、そういう演出意図の欠片も感じられませんでした。 そして、明日夢はあっさりパネルシアターをやめ、受験勉強に邁進しています。 え? やめたなんて誰も言ってない!? たしかに、画面上は続けていたともやめたとも言っていません。 また、あきらのように、受験生と修行を両立できた器用なor頑張り屋な人もいます。 ですが、明日夢の場合、パネルシアターと鬼の修行とを両立できないから修行をやめたのです。 である以上、パネルシアターと受験勉強も両立できるとは思えません。 逆に、両立できるくらいの受験勉強なら、鬼の修行より楽ってことで、全然頑張ってることになりません。 まして、医学部って、実習やらなにやらで無茶苦茶忙しいですし、家から通える医大に行けるかどうかも分からないんですから、直美の側でパネルシアターを続けられるとは思えません。 第一、パネルシアター続けてるんなら、あきらがそのことを強調して頑張ってるって褒めちぎってますよ。 高校合格するのもギリギリの成績だったはずの明日夢が、その高校のレベルで平均点58点の中、ただ1人満点を取る、しかもその一方で気絶した桐矢を担いで歩けるだけの体力作りもしているということは、それなりに頑張っているのだと思います。 でも。 医大に行くには、かなりの成績が要求されるだけでなく、お金も掛かります。 明日夢にそれだけの財力があるのでしょうか。 お金の話をしてしまうと身も蓋もありませんが、少なくとも医者になるためには、幾多のハードルを越えなければなりません。 これまで明日夢は、ブラスバンドをやめ、鬼の弟子をやめ、パネルシアターをやめてきました。 何らかの壁にぶつかった時、医者を目指すのをやめないという保証はどこにもありません。 例えば、医大受験に1回失敗したとして、そのとき明日夢が母親に経済的負担を掛けたくないという錦の御旗を掲げて進路変更しないと言えるでしょうか。 一度突き放した言い方をされたからといって、ヒビキに会いづらくなってそのままという情けなさ、子供を背負って崖を登り切れずに「もう駄目だ…」と電話をかける(助けは求めなかったにせよ)根性なしぶりは健在です。 番組中では、まるで桐矢と同じくらい頑張っているかのような描写がされていましたが、1年で変身能力まで身に付け、鬼になる最短記録更新も見込まれる桐矢とは、雲泥の差じゃありませんか。 最終回近くまでずっと根性なしの代名詞のようだった桐矢ですが、少なくとも最終回時点での彼は、学校へ行く間も惜しんで修行に没頭し、ヒビキの持つ修行期間最短記録を塗り替えるのではないかとさえ言われるほどの頑張りを見せています。 元が体育をサボるほどの運動音痴だった彼が、です。 たった1年で鬼の姿に変身できるようになったことが偉いんじゃありません。 平均値より根性がなかった彼が、並みいる現役の鬼達(の修業時代)以上の努力を示していることが偉いんです。 並大抵じゃありません。
“ヒビキを心の師と仰ぎつつ、決別して別の道を行く”というならまだしも、“行く道は違うけど、今後も近くにいて背中を見続ける”というのは、あんまりです。
前体制時から新体制に至るまで、明日夢の自主性は極めて希薄なものとして描かれてきています。
途中経過の問題点について敢えて目をつぶった上で、最終回ラストシーンの意味について考えてみましょう。
ラストシーンの台詞が、もし、「お前とは弟子でも師匠でもない。これからは別々に生きていくんだ。お前はお前の道を行け。縁があったらまたいつか会おう」だったならば、むしろ鷹羽的には、その方がしっくりきたと思います。 |
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