仮面ライダー響鬼のお仕事 第11回
響き続ける鬼と明日なき夢
鷹羽飛鳥
更新日:2006年2月5日
 さんざん引っ張った割には、片手でドンドコやっただけで終わってしまったオロチ。
 そして、オロチは収まっても相変わらず出現する魔化魍、スーパー童子・姫に代わる新型を研究し続けている洋館の男女、早くも鬼の姿に変身できるようになった桐矢、福祉の道に進むことにしたあきら、医者を目指す明日夢など、日々は淡々と刻まれていたようです。
 
 はっきり言って、鷹羽は、番組が始まった当初から、“最終回で鬼と魔化魍の戦いに終止符が打たれる”なんてこれっぽっちも思っていませんでしたから、“戦いは続くエンド”になったことは当然と思っていますし、そのことには全く文句ありません。
 この1年間は、例年に比べて魔化魍の発生が異様に多かったという扱いになっていましたが、洋館の男女の暗躍がなくても、例年どおりの数くらいは自然発生し続けるであろうことは想像に難くなく、鬼は今後も後継者不足に悩まされつつ魔化魍退治に精を出すことになるはずです。
 ただ、そのこととテレビ番組としての『響鬼』における最終回のあり方の是非は関係ありません。
 少なくとも、洋館の男女さえもオロチの発生を嫌い、わざわざ轟鬼を清めの地に案内までしているわけで、オロチがどういうもので、洋館の男女(更にその上の存在)がしたいことと何がどう違うのか、どうしてオロチの発生で全てが滅ぶのか、それほど大切な決戦の場に、いつもの3人の鬼しかいないのはどうしてなのかなど、語るべきだったのに語られなかったことが多すぎます。
 例えば、本来宗家である威吹鬼が清めの儀式を行うはずだったのに、独断専行で響鬼が役目を奪ってしまいました。
 これが、例えば儀式は1人でやらなければならないが、護衛は可能であるということならば、一番強いアームド響鬼が護衛に付くことが、最も安全に儀式を行う方法だったはずです。
 ならば、大役を果たす威吹鬼を全力を尽くして守り抜くことこそが、響鬼の取りうる最良の手段でしょう。
 ことは関東だけでなく全国規模(というか「全てが滅ぶ」なら世界規模)の問題なわけで、宗家に太鼓使いの鬼はいないのかという疑問や、太鼓使いの鬼なら関東だけでも数人いるのに、家柄なんかに拘るのはどうしてだという疑問が次々に湧いてきます。
 今回、画面で見ていた限りでは、一番有効なやり方は、管、弦の鬼を2人一組にして数組作って接近戦と射撃戦を行わせ、弾鬼とか太鼓の鬼に儀式を行わせ、直近護衛としてアームド響鬼が近くに張り付くという方法だったように感じました。
 別に弾鬼でなくとも、太鼓の名手であれば誰でも構いません。
 誰がやるにせよ、響鬼が片手で叩くよりいいでしょう。
 それとも、猛士所属の太鼓使い達は、揃いも揃って響鬼の片手に劣る程度の腕前ばかりなのでしょうか?
 
 これは、儀式がどういったものであるのかがまるで語られていないため、“どうして宗家の鬼がやるのか”という疑問が残るのと、“だったらどうして響鬼にできたのか”という疑問が両立し、更に“どうしてもっと多くの護衛を付けられないのか”という疑問まで出てきてしまう故の問題です。
 もし、猛士の古文書に“長く続く鬼の血が必要”とかいう表記になっていたのなら、太鼓使いでない威吹鬼にその重責が押しつけられるのも納得できますが、逆に響鬼が役を奪う理由がなくなります。
 響鬼が古文書の表記を知らなかったor信じないで独断でやったというなら、それもいいですが、何の確信もなく、下手すれば儀式そのものが失敗に終わる危険を冒してまで、本部の決定を勝手に破るという行動を取ったことについて、責任を取らされなければならないでしょう。
 たとえ結果オーライだったとしても、です。
 宗家でなければならないという理由が特段なかったとしても、組織に身を置いている以上、トップの決定に従わないためには、それなりの理由が必要になります。
 現場の判断、それも一個人の独断で勝手に決定を覆されたりしたら、組織としては統率が取れなくなるわけですから、それは当たり前ですね。
 例えば、本部は儀式そのものは割合簡単なものと判断した上で、中長期的観点から、今後も数々の儀式をこなさなければならない威吹鬼の経験値稼ぎを兼ねて指名している可能性もあるわけで、もしそうなら、響鬼がそれをおじゃんにしてしまったことになるわけです。
 今回の場合、結果的にうまくいっているだけに、逆にヒビキの勝手な行動が問題になります。
 失敗すれば、誰もが納得する形で責任を取らざるを得ませんが、本部に逆らってまで実績を作ってしまったということは、組織においては野心の持ち主と見なされるのが世間というものです。
 穿った見方をすれば、“手柄欲しさに宗家を出し抜いた”のですから。
 しかも、失敗しそうだったから思わず手が出たとかいうのではなく、現場に着く前に騙して出し抜いたのですから、これはもう悪意以外の何者でもありません。
 要するに「見ろ、“宗家の鬼”様が怖くて震えていたから、俺が代わりにやってやったぜ。宗家がなんだ、俺の方が度胸も実力もあるんだ」と言っているに等しいわけです。
 確かに、番組中ではヒビキはそのような人物として描かれてはいませんし、あの描写から一足飛びにこんな意地悪な見方をするのもどうかとは思いますが、リアルな世界観を求めるならば、当然こういう見方も可能です。
 
 隙のない作劇を目指しても、時間や予算、演出の都合上、ある程度アバウトになるのは、もちろん仕方のないことです。
 ただ、仮にもヒーロー物において、いわゆる最終決戦なのに、ここまで煮え切らないやり方でいいのかという批判は絶対に免れません。
 前半無計画に予算を消費されたしわ寄せなんかもあるでしょうから、多くは望みません。
 関東の鬼全員を決戦の場に集めるということは、スーツアクターをそれだけ必要としますから、人件費も撮影に要する時間も余計に掛かりますし、メイン3人が画面に映る時間を圧迫することにもなりますから、決戦の場にいつもの3人しかいないのも仕方ないでしょう。
 ならば、あらかじめ“各地に同時大量発生する魔化魍への対処のため、全国の鬼が大わらわになっている”ということを台詞だけでもいいから語っていてくれれば、“悪いが、清めの儀式に割ける人員は3人だけ”という描写に多少なりとも説得力が出たでしょう。
 そして、最初から“最も太鼓の巧い響鬼に儀式を任せ、後の2人が護衛する”という形にして収束させれば、結果的に何も残さなかったイブキの不安描写なんか削ることができたはずです。
 戦力としてのアームド響鬼がもったいないとは思いますが、人手が足りないという描写があれば、視聴者の多くは太鼓の専門家でない威吹鬼や轟鬼にやらせるよりはいいじゃんと納得するでしょう。
 諸般の事情から、ラストのうねりとしての大きな山場がオロチ現象以外にない以上、全ての描写を束ねて盛り上げなければどうしようもないのです。
 清めの儀式によって、オロチが鎮められる様をじっくり見せなければ、そもそも“1つの事件が終わった”というカタルシスを与えることはできません。
 それを途中でぶった切って「一年後」では、オロチが終わったという実感が得られないじゃありませんか。
 
 『響鬼』のラストは、ヒーロー物として見た場合、このように、ちっとも褒められたものではありませんでした。
 では、“少年の成長物語”として見た場合はどうでしょうか。
 大方の予想どおり、明日夢は鬼になるのをやめ、なんと医者を目指すことになりました。
 鬼とその弟子というのではなく、“心の弟子”というか、生き方の弟子として認められるというのは、ヒビキと明日夢のあり方として、一応の解答ではあります。
 その意味では、なんとか体裁は保てたと言えるかもしれません。
 
 ですが、あれで本当にいいのでしょうか?
 直美とのパネルシアターの約束は、あれ1回きりで良かったのでしょうか。

 難病である直美は、ちょっとやそっとでは完治しません。
 「だから治せるよう医者になるんだ」という考え方もあるでしょうが、直美は生きる希望として「明日夢のパネルシアターが見たい」と言っているのであって、明日夢に「病気を治してほしい」と言っているわけではありません。
 明日夢が医師免許を取れるのは、現役合格したとしても、残りの高校生活1年+医学部6年の7年後、しかも一人前の医者になるには、更に数年掛かります。
 ものが“生きる希望”ですから、そんなに長い間放置されたらもたないでしょう。
 それで7年もつくらいなら、そもそも明日夢がパネルシアターのために鬼の弟子をやめる必要はなかったことになります。
 いえ、奇跡が起きて完治したからもうパネルシアターはやらなくてもよくなったというなら、それでもいいんです。
 奇跡が起きたところさえ描写してくれれば。
 前回も書いたとおり、生死の境をさまよっていた子供が、ヒーローの勝利に呼応していきなり完治するくらいの奇跡は、よくある話です。
 誰かが“奇跡が起きた”と言ってくれさえすれば、それがご都合主義的であったとしても、それなりに格好はつきます。
 トドロキが復活を遂げた時のように、「奇跡でも起きてほしい」と言った後でのことなら、「ああ、奇跡が起きたのね」と納得する素地ができるわけです。
 この場合、本当に納得できるだけの描写だったかというのは関係ありません。
 もちろん納得できるにこしたことはありませんが、ここで重要なのは“作り手がそういう描写をしようとしたか”どうかであって、演出の成功・失敗を云々する以前の問題なのです。
 でも、そういう演出意図の欠片も感じられませんでした。
 そして、明日夢はあっさりパネルシアターをやめ、受験勉強に邁進しています。

 え? やめたなんて誰も言ってない!?
 たしかに、画面上は続けていたともやめたとも言っていません。
 また、あきらのように、受験生と修行を両立できた器用なor頑張り屋な人もいます。
 ですが、明日夢の場合、パネルシアターと鬼の修行とを両立できないから修行をやめたのです。
 である以上、パネルシアターと受験勉強も両立できるとは思えません。
 逆に、両立できるくらいの受験勉強なら、鬼の修行より楽ってことで、全然頑張ってることになりません。
 まして、医学部って、実習やらなにやらで無茶苦茶忙しいですし、家から通える医大に行けるかどうかも分からないんですから、直美の側でパネルシアターを続けられるとは思えません。
 第一、パネルシアター続けてるんなら、あきらがそのことを強調して頑張ってるって褒めちぎってますよ。
 
 高校合格するのもギリギリの成績だったはずの明日夢が、その高校のレベルで平均点58点の中、ただ1人満点を取る、しかもその一方で気絶した桐矢を担いで歩けるだけの体力作りもしているということは、それなりに頑張っているのだと思います。

 でも。
 医大に行くには、かなりの成績が要求されるだけでなく、お金も掛かります。
 明日夢にそれだけの財力があるのでしょうか。

 お金の話をしてしまうと身も蓋もありませんが、少なくとも医者になるためには、幾多のハードルを越えなければなりません。
 これまで明日夢は、ブラスバンドをやめ、鬼の弟子をやめ、パネルシアターをやめてきました。
 何らかの壁にぶつかった時、医者を目指すのをやめないという保証はどこにもありません。
 例えば、医大受験に1回失敗したとして、そのとき明日夢が母親に経済的負担を掛けたくないという錦の御旗を掲げて進路変更しないと言えるでしょうか。
 一度突き放した言い方をされたからといって、ヒビキに会いづらくなってそのままという情けなさ、子供を背負って崖を登り切れずに「もう駄目だ…」と電話をかける(助けは求めなかったにせよ)根性なしぶりは健在です。
 番組中では、まるで桐矢と同じくらい頑張っているかのような描写がされていましたが、1年で変身能力まで身に付け、鬼になる最短記録更新も見込まれる桐矢とは、雲泥の差じゃありませんか。
 最終回近くまでずっと根性なしの代名詞のようだった桐矢ですが、少なくとも最終回時点での彼は、学校へ行く間も惜しんで修行に没頭し、ヒビキの持つ修行期間最短記録を塗り替えるのではないかとさえ言われるほどの頑張りを見せています。
 元が体育をサボるほどの運動音痴だった彼が、です。
 たった1年で鬼の姿に変身できるようになったことが偉いんじゃありません。
 平均値より根性がなかった彼が、並みいる現役の鬼達(の修業時代)以上の努力を示していることが偉いんです。
 並大抵じゃありません。

 “ヒビキを心の師と仰ぎつつ、決別して別の道を行く”というならまだしも、“行く道は違うけど、今後も近くにいて背中を見続ける”というのは、あんまりです。
 明日夢は今後もぬるま湯の中にいて、なあなあで生きていくのでしょうか。
 医者が駄目でも、人助けの道はいくらでもあります。
 医療関係に限っても、看護師や事務員という道もありますし、それこそ今やっている雑用のバイトを続けて一生を終えることもできます。
 一生バイト君でも、食べていければ、一応後ろ指は指されないでしょう。
 また、人助けの方法は医療関係に進むだけでなく、あきらのような福祉の道もありますし、どっちにしても周囲からは「頑張ってるね〜」と励ましてもらえます。
 医者を諦めても、逃げ道はいくらでもあるのですから、前回書いた「不退転の決意」は必要ありませんし、感じられません。

 一度鬼の弟子になったことは、全くの無駄でした。

 せめて最後まで弟子入りしないまま最終回を迎えていれば、“ヒビキの側にいたことでその生き様に触れ、自分なりの生きる道を見つけ出した”という美点がありました。
 また、物語序盤で弟子入りして、ある程度修行を積んだ後で、“鬼になるよりもっと人のためになること”“自分にしかできない人助けの方法”を見つけて決別するなら、それはそれで自分の道を見付けたと言えるでしょう。
 でも、ずるずるとたちばなでバイトを続けて、やっと弟子入りしたと思ったらすぐにやめてしまったのでは、所詮状況に流されて目的をきっちり定められずにいるに過ぎません。
 「いや、自分の意志で医者になるという最終目的を定めたんだ」と反論する人がいるかもしれませんが、鬼の弟子になると言った時の明日夢に、「途中でやめる」つもりがあったと思いますか?
 シナリオライターの頭には、たしかに途中でドロップアウトさせるという構想があったでしょう。
 でも、作中人物としての明日夢には、あの時は頑張って絶対に鬼になるという確固とした決意があったはずです。
 ならば、今は“医者になる”という決意が固いとしても、あと半年して変わらないという保証はありません。
 なにしろ、中学時代から続けてきたブラスバンドも、部長の「君はいらない」の一言でやめてしまったんですから。
 こうして、『響鬼』は、真の主人公である安達明日夢の成長物語としても、結局最後まで“ふらふらして、風見鶏のように生きる少年の物語”としか評価できないものになってしまいました。
 
 例えば同じ井上脚本である『仮面ライダーアギト』や『仮面ライダー555』は、最終決戦をラスボスに向かってキックを放つシーンで終わらせてしまい、キックした後を描くことをしなかったため、かなりの酷評を受けました。
 それでも、『アギト』では、井上氏自身が「最終回のつもりで書いた」という46話『戦士その絆』で、主人公:津上翔一がアギトであることの絶望から立ち直り、アナザーアギト:木野薫が弟を救えなかった過去に決着を付けましたし、最終回の1回前の50話『今、戦う時』では、真・津上翔一(沢木哲也)が恋人を救えなかった過去に決別し、最終回『AGITΩ』での満ち足りた死を迎えました。
 また、『555』でも、夢がないと公言する、非常にいびつな性格だった乾巧が、いくつかの出会いと軋轢、苦悩を経験したことで、ようやく夢を語れるまでになって終わりを告げます。
 これら2作品の最終回は、ヒーロー番組としては決して褒められたものではありませんでしたが、少なくともキャラクターの去就を描くという部分では、一応のけじめを付けています。
 
 ところが、『響鬼』では、メインキャラであるヒビキも明日夢も、キャラクターとしての結末が描かれていないのです。
 最初から完成された人間として扱われているヒビキは、今更変わりようがありませんし、今後も淡々と鬼として人助けして生きていく以外、視聴者にアピールするものはありません。
 だからこそ、未完成な少年:安達明日夢には、きっちりと決着を付けさせなければならなかったのです。
 完成された人間:ヒビキに憧れ、でも同じにはなれないし同じになっても仕方ないと考える気持ちは間違っていません。
 ですから、明日夢の“鬼にはならず、医者を目指す”という結論には賛同します。
 ただ、“医者を目指す”に至る動機付けや、“どうして医者が自分の進むべき道なのか”という掘り下げがまるで足りません。
 上で書いた“決意が揺らぐ可能性”がないものとして考えても、“医者でなければならない理由”がなければ、説得力も生まれません。
 ED曲『少年よ』で歌われているとおり、「心が震える場所探して」「誰にもできないこと見つけ出せ」れば、「それが君の響き」であるというのが番組のテーマだったはずです。
 どうして明日夢が医者を目指すのか、その決意を形成する過程を「一年後」ですっ飛ばされてしまったのでは、共感を抱きようもありません。
 明日夢が目指す“自分だけの響き”は、どんな風に「心が震え」、どうして「誰にもできないこと」なのでしょう?
 パネルシアターの段階では、直美にとって明日夢が演じるパネルシアターを見ることが「生きる希望」である(イマイチ嘘くさいけど)という点で、明日夢以外の「誰にもできないこと」でした。
 また、そういった直美の言葉に明日夢の「心が震え」たのも確かです。
 ですから、明日夢がこのままパネルシアターを続けながら、同様の別の進路を模索したとしても、それは明日夢にしかできないことを探していると言えるでしょう。
 大仰に世のため人のためではなく、そういったミクロ視点での“目の前の人々に生きる希望(心の力)を与える”ために草の根的なボランティアを続けていくうち、最終的にパネルシアター以外の道を選んでも、気持ちの本質は変わっていないと言えます。
 しかし、パネルシアターをやめて医者を目指すということは、そこからは少し外れた“目の前に来た病人に生きる可能性(身体の力)を与える”というものであり、本質の部分で変わってしまっているように思えます。
 確かに、“病気を治す力”があれば、より多くの人を救えるのは間違いありませんが、そこに至るには1度直美を救えなかったという無力感に苛まれる必要があるはずです。
 医者を目指す前に、“一旦支えると決めた直美”を今後も支え続けなければならないわけで、“心を支えるだけでは救えなかった”ということでないと、支えるべき対象を中途半端に放り出したことになってしまいます。
 たった1人を最後まで支え続けられないのなら、その思いは、結局一時の気の迷いでしかありません。
 そういうワンクッションなしに、いきなり“医者を目指す”とか言われても、「なんで目標変えちゃったの?」としか思えないのです。

 前体制時から新体制に至るまで、明日夢の自主性は極めて希薄なものとして描かれてきています。
 明日夢が、自分の強い意志で何かを選択し成し遂げたのは、城北高校へ行くか城南高校へ行くかで迷い、レベルの高い城南高校に頑張って合格したことだけでした。
 ブラバンに入部するのが遅れたのは盲腸のせいだから仕方ないとして、その後、ホイッスルに回されてくさったり、「君はいらない」と言われてフェードアウトしたりと、状況に流されたままです。
 ドラムのレギュラーをつかみ取るまでは必要ありませんが、少なくとも部員として、いつかレギュラーの座を奪うべく努力し続けなければ、「成し遂げた」とは言えません。
 直美の病気のことを聞いた時、明日夢は自分に病気を治す力がないことを自覚した上で、せめて心の支えになろうとパネルシアターに挑戦したはずです。
 巧く転化させれば、医者を目指すこれ以上ない理由になったはずですが、直美の死という挫折がなかったばっかりに、パネルシアターをやったこと自体が無意味に見えてしまうのです。
 これに限らず、活かせば素晴らしいものになる材料を数多く揃えながら、それらを全く活かせないというのが、この作品の持ち味でした。
 最終展開においても、巧くすれば明日夢の成長を描けたであろうネタをぶつ切りにして潰してしまった…まったく『響鬼』らしい最終回だったと言えるでしょう。

 途中経過の問題点について敢えて目をつぶった上で、最終回ラストシーンの意味について考えてみましょう。
 鷹羽は、ラストシーンの台詞は、実質的にヒビキから明日夢への破門宣言だったと考えています。
 ここでいう「破門」とは、鬼の師匠と弟子という関係の解消という意味です。
 最終回の前話である47話『語る背中』で、ヒビキが中途半端に明日夢を突き放したのは、恐らくラストシーンまで師弟関係を維持させるためだったのでしょう。
 つまり、ラストシーンで、“鬼の師弟”という2人の間柄を崩し、強く生きている人生の先輩と、それに憧れつつ「誰でもない自分の生き方で」生きることを決意した少年という、心の師弟とでも言うべき新たな関係を構築しようとしたのだと思うのです。
 だからこそ、47話でははっきり「破門」と演出せず、最終話冒頭で、イブキ達にわざわざ「中途半端な状態」と言わせたり、明日夢自身の口から「会いづらい」などと言わせたりしているのでしょう。
 あの時点では、明日夢の立場は“わけあって修行をさぼっている弟子”なのです。
 実際問題として、新しいバイト先の医院をヒビキが知っているからには、明日夢はたちばなのバイトを辞めるに当たって、少なくとも香須実達にはきちんと報告・挨拶しているはずです。
 ヒビキは普段はたちばなの店先にいないので、確かに会わないように挨拶に行くことは可能ですが、普通なら「修行辞めますと伝えてください」くらいの伝言は残すでしょうし、香須実達だって、何かヒビキに伝えることはないか、修行はどうするのかくらいのことは聞くでしょう。
 伝言を残さない&求められないためには、「バイト辞めます」と言うだけ言って脱兎のごとく逃げるしかありませんが、それではその後の明日夢のバイト先は、尾行でもしないと知ることはできません。
 このような綻びは、“師弟関係を維持したままラストシーンを迎えるため”だと考えると、辻褄が合います。
 いささか逆説的ですが、シナリオライターが狙ったのは、やはり最後に師弟関係を解消し、それぞれの生き方を貫く対等な友人としての新たな関係を構築して締めるというものだったのではないでしょうか。
 さっさと師弟関係が消えてしまうと、ラストシーンの段階ではすっかり他人になってしまっていて、何を言っても過去についての言い訳になってしまうのです。

 細川氏の携帯オフィシャルサイトによれば、ラスト3話のヒビキの台詞は、ほぼ全て細川氏による直しが入っているのだそうで、最終回ラストシーンの台詞も脚本とは違うものになっているそうです。
 テレビ朝日の『響鬼』公式サイトに掲載された細川氏のインタビューの中で、細川氏は、変更前の脚本を読んだというインタビュアーに対して「あれは忘れた方がいい」という意味のことを言っており、元の脚本の台詞についてかなりの嫌悪感を持っているようです。
 脚本家と役者という別の立場からキャラクターを捉えている以上、両者の解釈にずれがあるのは当然ですし、大まかな行動は脚本どおりで台詞だけ変えられていれば、シーンの意味合いも違っている可能性さえあります。
 映像作品である以上、オンエアされたものが全てですが、変更前の台詞がどういうものだったのか、非常に興味がありますね。

 ラストシーンの台詞が、もし、「お前とは弟子でも師匠でもない。これからは別々に生きていくんだ。お前はお前の道を行け。縁があったらまたいつか会おう」だったならば、むしろ鷹羽的には、その方がしっくりきたと思います。
 一見すると師弟関係を否定して突き放しているような感じですが、逆に明日夢を一人前の男として認めたということですから。
 この点、ヒビキが鬼の弟子として「頑張っている」と認めている桐矢とは、“どちらが勝った負けた”ではなく、行く道の違いという点で好対照をなしていると言えるでしょう。
 決して桐矢の選んだ“鬼”という道が色褪せるわけではありませんが、明日夢の目指す道もまたまぶしいものです。
 鬼になるという、明日夢が捨てた道に進んだ人間を見せることで、逆に明日夢が自分で選んだ道を際だたせる…桐矢というキャラは、そういう対比のためにいたということで、存在意義があります。
 『響鬼』という作品が、ヒビキと出会ったことによる明日夢の成長の物語なら、当のヒビキに、“弟子としてでなく人間として一人前と認められる”のが、一番いい終わり方でしょう。
 上記の台詞のようなラストならば。
 
 実際のラストの台詞は、「お前は、出会った時からずっと自慢の弟子だよ。ずっと側にいろ」と、随分なものでした。

 それじゃあ、頑張ってる桐矢の立場はどうなるんでしょう?
 彼は自慢の弟子ではないんですか?
 桐矢だって、一人前の鬼になれば独立して側にいなくなるのに、明日夢は一生、一人前にはなれないんですか?

 その意味で、あの未練たらしく感じるラストは、少々いただけませんでした。
 結局、明日夢は、最後まで一人立ちできる見込みすらないままだったのですから。



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