仮面ライダー響鬼のお仕事 第10回 生と死をみつめて
鷹羽飛鳥
更新日:2006年1月19日
 10か月以上もヒビキの脇をうろちょろしていて、やっと弟子になったと思ったらすぐに弟子を辞めてしまいそうな明日夢。
 病気の女の子と“パネルシアターをやる”と指切りまでして、まるで“○○は必ず倒すから”と子供に約束したヒーローのようです。
 こういう場合、初戦で敗れると子供の病状が悪化し、再戦で勝つと病気が治るものと相場が決まっています。
 ということは、○○を倒す=パネルシアターを頑張れば、直美の病状は良くなるのでしょう。
 
 今にしてみると、脚本側は、新体制になった当初から、こういう終盤展開を企図していたのではないかと思えます。
 鬼属性の名前を持つ新キャラ:桐矢京介もそうですし、朱鬼の一件でのあきら脱落・ザンキの古傷移動(膝から心臓へ)などもそうです。
 年末の“トドロキの再起不能・復活とザンキの死”については、さすがに少々唐突すぎと思いますが、これもまたラストへの重要なテーマ提示という役割を持たされていました。
 
 少なくとも新体制下でラストスパートを掛ける『仮面ライダー響鬼』のテーマは、生と死ということになると思います。
 朱鬼の前後編は、それまでの設定をかなり崩した感もありますが、
  • 鬼になることで命を縮めるザンキ
  • 何のために鬼になるのかという目的意識
  • 弟子と師匠の関わり方の是非
  • それまで明確には触れられていなかった作品世界における呪術の存在
  • 名前を持って登場したキャラクターの死
  • 宗家であるという理由でイブキに課せられる儀式と責任
という、多くのテーマを提示しました。
 ザンキについては、ここからずっと“もうすぐ死ぬぞ”というニュアンスを持たせた描写がなされていましたし、憎しみを糧に鬼を目指したあきらは、それ故に鬼を断念することとなりました。
 そして、あきらを育てきれなかったことでイブキの青さが強調され、それと入れ違いに弟子を持ったヒビキの動静が注目を集めることになります。
 また、『響鬼』という作品にあって、鬼と鬼の争いも、被害者Aでないキャラの死も、朱鬼によって初めてもたらされました。
 これら2つの要素は、旧体制下においては描かれることのなかったものであり、それこそが『響鬼』という番組の前半のカラーだったと言えるでしょう。
 旧スタッフがどうやって終わらせるつもりだったのかは分かりませんが、少なくとも1つの番組としてなんとか体裁を保って終わるためには、何らかのテーマのクリアが必要ですし、旧体制下でその伏線となるものが全く残されていない以上、新スタッフは一から作るしかなかったわけで、好き嫌いはともかく、それまでなかったテーマを持ち出したことについては、非難するべきではないと思います。
 また、さりげに“宗家の鬼だから”という理由で、実力などは全く考慮されていないかのようにイブキが重荷を背負わされたのも、この前後編が最初でした。
 それまで、イブキが“そういう家系に生まれた”ことは、単に“鬼のサラブレッド”的な意味合いでだけ使われていたはずです。

 さて、46話『極める鬼道』でヒビキが言った「死ぬことを意識して、初めて生きることができる」という言葉は、視聴者にとって思い入れのあるキャラクターの最期を見せずして語ることはできません。
 たとえ名前を与えられたキャラである朱鬼が死んだとしても、視聴者に与えるインパクトは弱いからです。
 しかし、彼女の死は、師匠の死を乗り越えるという方向性をザンキに、キャラクターが死ぬことがあり得ることを視聴者に、それぞれ示しました。
 そこで、メインの鬼ではないが視聴者に浸透しているザンキが生け贄に選ばれたのでしょう。
 さすがに、メイン3人のヒビキ・イブキ・トドロキを途中で殺すわけにはいきませんから。
 
 こうして、ザンキはヒビキの「死を見つめる」という言葉に(視聴者から見たときの)重みを持たせるために死にました。
 彼の死は、弟子であるトドロキのためであり、無私の戦いでした。
 彼が戦うことが、どうしてトドロキのためになるのかは、実は分かりません。
 関東にはほかにも鬼はいますし、別に斬鬼が戦わなくても、響鬼達ならなんとかなったでしょう。
 (ラストを除いて)目の前で一般市民が襲われているわけでもありませんから、轟鬼の代わりを務める必要は別にないのです。
 結局ザンキは、弟子を案じる師匠として、弟子が真の意味で独り立ちするまで死んでも死にきれなかったという形になりますが、最終的に死体を遺さなかったのは、散り際を美しく、ということで文字どおり散らせたからでしょう。
 ですから、“装備帯はどこにいった?”などと野暮な突っ込みを入れるのは勘弁してあげます。

 そして、“オロチ鎮めの儀式”という魔化魍の大群に襲われやすい役目をイブキに与え、何のために鬼となり、何のために生きるのかといった根源的な問題を鬼の戦い明日夢が目指す道の両面に絡める形にしたわけです。
 ここで初めて巨大魔化魍に踏まれて再起不能になった轟鬼という無茶な展開に意味が出ました。
 これまで、魔化魍との戦いで鬼が敗れても、決して“死”に直結はしませんでした。
 それは、例えばバケガニに敗れたザンキが重傷を負って戦線離脱したのをみても分かるように、「あ〜あ、ローテーションに穴あいちゃったなぁ。誰が穴埋めすんだよ」的な意味合いの方が強かったからです。
 ザンキの穴埋めでハードスケジュールに陥った裁鬼も、過労で倒れたようなもので、再起不能にはほど遠い状態でした。
 夏の等身大魔化魍は言うに及ばず、巨大な魔化魍を見ても、不思議と「負けたら死んじゃうなぁ」という印象はありません。
 それは、魔化魍の目的が基本的に鬼殲滅とかではなく、食事だったからです。
 夏の魔化魍のように集団で現れる連中も、鬼が邪魔しなくなれば、トドメを刺さずに去っていきます。
 ところが、オロチ発生は、多少作劇の無理を伴いつつも、集団で鬼を襲う魔化魍という、“まるで鬼撲殺が目的であるかのような”戦闘を描写できるようにしたのです。
 そして、いかに強靱な肉体を持つ鬼でも、下手をすると命に関わるということを、トドロキが身をもって示しました。
 イブキの「死にたくない」は、そんなトドロキの描写抜きには存在できなかったでしょう。
 また、あれは、長いこと戦ってきた鬼では駄目で、鬼になって半年ほどの若いトドロキがいきなり再起不能になったからこそのインパクトでした。
 鷹羽的には、年末のトドロキ再起不能・復活劇には頭を抱えていたのですが、こういう裏側を考えると、あながち無意味ではなかったのだと感じます。
 もちろん、だからといってあの無茶な復活劇を肯定する気はありませんが、それでも意味のある演出だったのだということは納得できました。

 さて。
 冒頭にも書いたとおり、明日夢はどうやら鬼にはならないようです。
 弟子入りした後の明日夢達の描写は、ほとんど桐矢がメインになっちゃってますし、ヒビキの方も、年末は、戦闘とトドロキの見舞いと弟子の育成と布施明の護衛で三面六臂になっちゃってたので、育成パートの描写が薄い薄い。
 一番育成らしいことをしていたのは陰陽環の件ですが、これも桐矢の成長の描写として使われてしまい、明日夢は大事なものを管理不行き届きで盗まれたにもかかわらずお咎めもありませんでした。
 盗んだのが桐矢でなく、単なる物盗りでも、アクセサリーの類と思って盗み、何かのはずみで発動させて事故を起こす可能性だってあったわけです。
 どうやら発動には何かしら条件があるようですが、世の中、戦闘員ぶん殴っているうちに偶然変身ポーズをとってしまうこともあるわけですから、変な癖のある人がもごもごやっているうちに、偶然発動条件を満たすこともないとは言えません。
 それなのに明日夢は、陰陽環が大切&危険なものだと分かっていながら服の下に置いておくだけの杜撰な管理をしていたわけで、本来なら、盗まれたことを直ちにヒビキなり勢地カなりに報告する義務があったはずなのです。
 なのに、そういった責任問題は完全にスルーされてしまいました。
 その一方で、新たな活動の場としてパネルシアターが登場しました。
 これは、1つには、鬼に関係ないもっちーや、クラスメートとしてしか明日夢に関わることのできなくなったあきらを画面に出すという目的があります。
 ブラスバンドやらチアリーディングやらを出そうとすると、出演者が増えてしかも撮影に時間が掛かるという問題があるので、38話『敗れる音撃』で、ブラバンの部長に「君はいらない」と言わせておいたのは、実に巧いフェードアウトでした。
 
 同時に、このパネルシアターは、明日夢の行く末を描く重要なファクターでもあるわけです。
 明日夢がヒビキに弟子入りした理由は、「人のためになることがしたい」というものでした。
 当然のことながら、その目的を果たすには、別に命懸けで戦う鬼を目指さなくても、草の根的なボランティアでもいいわけです。
 まして、直美の生きる支えとなるのが“自分がパネルシアターをやること”ならば、それをせずに万が一にでも直美が死んだりしたら、たとえ鬼になって数千人の人を救ったとしても、必ず自責の念に苛まれるでしょう。
 これが明日夢の言ういつ死んでもいいように悔いなく生きることです。
 また、明日夢に類いまれなる鬼としての才能があるとかいうなら別ですが、別段そういう素養があるわけではないどころかむしろ才能はなさそうなくらいですし、鬼になる必然性は感じられません。
 これは、これまで10か月にもわたって弟子にならないまま来た弊害でもありますが、どうして鬼になるのかという動機付けが弱いせいでもあります。
 以前にも書きましたが、桐矢の場合、“父を超えるには鬼になるしかない”という思い込みがあるのに、明日夢にはそういった“是が非でも鬼に”というのがありません。
 しかも、まだ始めたばかりで、今なら辞めても、もったいなくないのです。
 もっと言っちゃうと、2年も修行したあきらだって、あっさり辞めちゃいましたから、たとえ序盤から弟子になっていても、進路変更は可能です。
 となると、パネルシアターは、鬼の弟子にならなくても人のために何かできるという当たり前の選択肢を提示しているわけで、明日夢の鬼にならないエンドへのフラグなわけです。
 
 たとえ鬼になるのを辞めても、記憶を消されるわけでも拳を潰されるわけでもありません。
 その気になれば、たちばなのバイトとして、いつまでもヒビキに関わり続けることもできるわけで、本当に明日夢は失うものがないのです。
 もし、物語序盤で、鬼になる動機付けがしっかり行われていたなら、今更後戻りはできなかったでしょう。
 ですから、これまでのようななあなあではなく、不退転の決意をもって“鬼にならない”と決断させることができたならば、半年経っても弟子にしなかった旧体制の遺産を見事に結実させたと言っていいでしょう。
 
 ただし、一度弟子入りしたことで悟った部分を上手に絡めないと、「弟子入りしたことは無意味だったけど」と但し書きが付いちゃいますけどね。



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