創作の園
後藤夕貴
更新日:2006年1月15日
 10月頃、掲示板で、創作作品のツリーを立ち上げました。
 閲覧者の方々が、それぞれのサイトで公開しているオリジナル作品、または二次創作を発表し、ツリー参加者はそれを読み、感想や指摘を述べ合うという、大変素晴らしい内容のツリーになりました。
 こちらは第四弾までツリーが続き、大変多くの作品のご紹介と、感想を頂くに至りました(参加してくださった方々、本当にありがとうございます!)。
 一応、創作系の一面も持っているこの「九拾八式工房」ではありますが、特撮作品や玩具、あるいはゲームのレビューが大半を占めるサイトの中で、ここまでオリジナル作品に対する建設的な意見が述べられるとは思いませんでした。

 いやあ、やっぱりオリジナル作品を書く人達は、みんな熱くて、素晴らしい感性を持っているなあ、と、あらためて実感させられました。


 創作・オリジナル作品というのは、なんとなく「閉鎖的」なイメージがつきまとい、それが新規の閲覧者(または読者)を遠ざける原因になっている感があります。
 これは何故なのでしょう?

 オリジナルの場合、物語に限らず、キャラクター・背景・演出・ストーリーなどをすべて一から構築しなければならないため、その作者の性質が色濃く反映されます。
 そのため、読者はまず、そういったクセのある作品と向かい合い、さらに雰囲気を把握しなければならないという「義務」が発生し、これがとても面倒くさく感じられてしまうようです。

 例えば、手に取った創作がボーイズラブ(男同士の恋愛劇)だったとしましょう。
 この時点で、読者が普通の男性ならば、ジャンルの段階でまず受け付けないでしょう。
 ジャンルに抵抗がない人でも、読み進めていくうちに、作者が提唱する「恋愛のスタイル」や「こだわり」が見えてきて、ここにさらなる違和感を覚える可能性があります。
 もし、その作品で描かれている恋愛劇が、かなり異質orマニアック(意味の解釈はご自由に)な描写に満ちていた場合、ハードな内容が苦手な人は離れます。
 こんな感じで、作品全体を受け入れるためにはいくつかの「容認しなければならない部分」があるわけで、これを乗り越えられる気概が備わっているか否かが、読者に求められるわけです。

 ここではボーイズラブという特殊例を持ち出しましたが、別のジャンルの創作物でも理屈は同じです。

 SF考証山盛りのスペースオペラ大作があったとしても、細かい設定の整合性なんか度外視するという人には、細かすぎてうっとうしいだけでしょうし、逆に話のテンポ優先、整合性度外視の作品は、慎重派の方には面白く感じられません。
 しかし、それぞれの苦手作品を読むにあたっては、そういった「嫌な部分」も一時的に許容しなければならないのです。
 これが、創作作品につきまとう「カルマ」と言えましょう。


 でも、それならば別にオリジナルに限らず、商業作品ならすべてに該当する条件になるんじゃないか? とお考えの方もおられるでしょう。
 確かにそうなんですが、商業作品の場合には、それぞれに「信頼性」というフィルターがかかります。
 これは、「商業的に製作(或いは出版)されたものなのだから、ある程度以上の内容や面白さは保障されている筈だ」という、無意識下の信頼が加わるという意味です。
 無論、商業作品にもゲロゲロベロベロな駄作は死ぬほどありますし、オリジナルの中にも素晴らしい完成度を誇るものがあります。
 だけど、発表媒体が違うという事は、それだけで読者に良いイメージを与えてしまうものなのです。
 だから、オリジナルと商業作品では、「その内容がダメだった場合」の指摘のされ方が著しく異なります。
 話題の新作という触れ込みで始まった番組が、放送開始または終了後にボロクソにけなされていた、などというケースは、これまで沢山あったと思います。
 逆に、よほど支離滅裂でない限り、創作はけなされまくり、という事にはなりません(酷評とは意味が違いますので注意)。

 こんな風に、作品そのものの性質は同じようなものでも、片や創作オリジナルとして一部に発表、片や商業作品として広く宣伝した場合、受け止められるイメージはまったく異なってくるのです。
 オリジナルヒーローでも、タイトルに「仮面ライダー」と付けば注目度が高まるのも、同じ理屈ですね(笑)。

 一部では、オリジナル作品というものに、ちょっと変わった意識を持っている人達が居ます。
 それは「オリジナルとはかくあるべき」というこだわりに囚われ、盲執的に主張、それ以外の要素は絶対に価値を認めないという極端な姿勢です。

 筆者が以前知り合った人の中に、「自分ですべてを考えた作品以外は、オリジナルという冠を被せないでほしい」という持論を持っている方がいました。
 筆者は当初、この考えに賛同していたのですが、当時その人と組んで製作していた作品は「内容そのものはオリジナルだが、作品ジャンルとしては非オリジナル」という、ちょっと変わったものでした。
 判りやすく例えるなら、オリジナルの勇者シリーズを書いたけど、その中の設定やメカデザイン、コンセプトはすべて完全なオリジナルだ、というようなものかと。
 勇者シリーズでピンと来ない方は、「仮面ライダーシリーズ」と置き換えて考えていただければよいでしょう(実際はヒーロー物でもロボット物でもなかったのですが…)。
 ただし、お約束部分は大元のシリーズの伝統を引き継いでいるというスタンスでした。
 とにかくそんなわけで、筆者達が製作していたものは「限りなく完全に近いけど、100%オリジナルではない」という、微妙な位置付けのものだったのです。

 ところがある時期から、その方は作品が「100%のオリジナルではない」という事を突然問題視し始め、強烈な批判と共に、非オリジナル要素の排除を唱え始めました。
 例えるなら、仮面ライダーでヒーロー性を完全削除、変身能力を持っているような、特別な性質の主人公なども出すな、と云うようなものです。
 勇者シリーズなら「ロボットや敵との戦闘をすべて排除しろ」というような感じ。
 当然、そんな事したら作品のコンセプトは総崩れになってしまうのですが、その人は持論を絶対曲げようとせず、結果的に筆者を含む他のメンバーと反発し合い、サークルから抜けていきました。

 また、その作品のアイデアの基になったものがふとわかってしまった場合、その作品のオリジナリティを全面否定しにかかるという、「ツッコミ派」も居ます。
 そういう人達にとっては、ほんの僅かでも他作品の影響が含まれている事が許されないわけです。
 ただし、仮にパロディてんこ盛りのオリジナル作品があったとしても、そのパロディの元ネタを知らなかった場合は突っ込みをしないという、大変いい加減な姿勢でもあります。
 そんなわけで、オリジナルに対する偏見を持っている人も多ければ、オリジナルに拘りすぎるあまりに意固地になりすぎてしまった人も居るのです。
 で、こういう負の要素が煮詰まってしまうと、創作・オリジナル全体の印象が悪化していくのです。

 筆者はそういった姿勢がすごく嫌になってしまったので、二次創作も含め、執筆者が自力で構築した作品は、すべて実質的なオリジナル作品だと認識しています
 もっとも、他の人に説明する場合は、便宜上二次創作などと言い分けますが。

 一言に創作作品と云っても、人によってイメージが大きく異なると思います。
 要するに、その人が自力で考えて執筆した作品はすべて「オリジナル」または「創作」というカテゴリに分けられますが、既存のマンガやアニメ、特撮などの映像作品のオリジナル編「二次創作」、或いは元ネタにした作品のフォーマットが透けて見える場合はオリジナルと呼ばないとか、物語のジャンルが特定のカテゴリ(SFとかファンタジーとか)に属する場合は、創作以前に別な呼び方をするべきだとか、様々な見解があるようです。
 そのため、オリジナルジャンルに身を置き、ひたすら創作を量産し続けている「こだわりの人達」の中には、“オリジナル(創作)とはかくあるべき”という信念がこり固まり過ぎて、間口を狭めてしまっている傾向があったりします。
 筆者は、これがオリジナルというジャンルに対する偏見の根源なのではないかと思っています。
 結局の所、これにとらわれる事なく、自作を堂々と発表できる勇気と裏づけ(画力しかり文章力しかり)をどれだけ得るかが、オリジナルジャンルに求められる本当の原動力ではないでしょうか。

 せっかくなので、二次創作というものにあえて踏み込んでみましょう。

 二次創作というのは、先にも述べた通り、すでに既出の作品の設定要素を継承して、自分の考えた内容をまとめていく作品の事です。
 よくありがちなのが、ある作品の最終回後の物語を考えるというもの。
 大好きな作品なんだけど、最終回だけは納得いかない、などというパターンがあった場合、その最終回を「途中経過の一本」にしてしまうために描かれる「仮想の続きモノ」というのが、もっとも良くあるパターンではないでしょうか。
 或いは、物語で特に描かれていない部分を想像して、それを描くなんていうのもありますね。
 普段馴れ合いなどしない主人公グループの私生活を描いたり、カップルでもなんでもない連中を恋人同士にしてしまったり。
 これは、原作への思い入れをより引き立てる目的で描かれるものでしょうか。
 その他、原作と共通の世界観や設定を利用しながら、まったくオリジナルの物語を作るケースなどもありますね。
 これは「A.Dポリス」物などで良く見られた傾向で、つまりは「好きな設定を一部借用した」ものと言えましょう。
 これが極まると、原作の諸設定を丸ごと継承しながらも、まったく違う内容にまとめ上げてしまうというツワモノ作品になったりします。
 つまり「リメイク」に近いものですね。
 これは、近年流行の「昔の作品のリメイク物」を自主制作していると考えれば、理解が早いと思われます。

 ただし、この二次創作をやるにあたり、もっとも重要であるにも関わらず、同時にもっとも忘れられやすいものがあります。
 それが「オリジナル要素と、既存の世界観との融合」です。

 二次創作の場合、すでに完成された世界観と雰囲気がありますし、それはすでに広く知られています。
 ですから、作者はこれを踏まえ、「何が世界観と雰囲気を感じさせているのか」をしっかり把握してかからなければなりません。
 それがないままで作品を書いてしまうと、「作品の用語を転用しただけのオリジナル作品」に甘んじてしまいます。
 よくあるのが、原作の主人公や代表的なキャラクターを登場させれば、それだけで作品世界の説明が要約できるという壮絶な勘違い
 これ、むしろ逆なんです。
 二次創作に既存キャラを出す場合は、むしろ原作以上に動かしてやらないといけません。
 さもないと、「あれ、なんかこいつ原作より存在感ないな」と捉えられてしまいます。
 特に、オリジナルキャラクターと絡めると、その印象はさらに薄まります。
 二次創作内でオリキャラを出すと、作者はどうしてもそれの描写に心血を注いでしまうもの。
 という事は、必然的に既存キャラとの描かれ方に差異が出てしまうのです。
 二次創作の場合、既存キャラは、確かにオリキャラよりは高い位置付けにありますが、その高度差は作者が思っているほど高くないので、ちょっとバランスを誤ると、オリキャラが既存キャラを食ってしまうのです。
 ちなみにこれは、特定の既存キャラをピックアップした場合も同様です。
 原作では脇役のキャラを主役に添えた二次創作は多々ありますが、それでも、脇役キャラに過剰な自己主張を盛り込みすぎると、他キャラとの温度差が激しくなるだけなのです。
 オリキャラを入れるにしろ、既存キャラを引き立てるにしろ、全体のバランスを考えながら描いていかないと、作品は失敗します。
 ストーリー物の二次創作でこれをやってしまうと、かなり致命的な結果になってしまいますので、充分注意が必要でしょう。

 でも、どうしてもオリキャラが暴走してしまう、という人もいると思います。
 これは創作活動をやっていない人には理解が難しいのですが、作品内で、キャラクターが「作者の意図に外れた行動」を取ってしまう事があるのです。
 おかしい話ですよね。
 作者が考えながら描いている筈なのだから、すべてのキャラクターは完全に制御されているべきなのに。
 しかし、世に言う「筆が滑る」という状態になると、実際にキャラクターは作者の制御を外れ、一人歩きしてしまいます。
 実際には、キャラクターに付加された環境設定や性格設定が影響し、その時作者が行わせたい行動を「とらせるわけにはいかなくなる」場合が発生するような感じです。
 或いは、作者の持つキャライメージのせいで、「ここはこう動くべき」という無意識の判断が、脳内での緻密な構成・計算を狂わせてしまうとか。
 とにかく、このような「オリキャラの暴走」というのは、ややこしくなる一面、それだけキャラクターにパワーと魅力が付加されたという事にも繋がるため、一般的には良い傾向とされています。

 ただし、二次創作に限っては、必ずしもそうとはいえません。
 先の通り、誰かが暴走すると、それだけでバランスが狂ってしまうからです。
 滑る筆を常に制御し続ける気持ちが大切という事でしょうか。
 しかし、キャラクターの暴走は、一度始まってしまうとなかなか止められません。

 それは多分、その人の(既存・オリジナル含)キャラクターを描く能力が、二次創作の枠に収まりきらない域に達してしまったんだと思います。

 二次創作を見ていると、「ここまでやるならいっそ完全オリジナルにすればいいのに」と思わされる作品が、沢山見られます。
 それは、ものによっては原作無視(二次創作なのに)だったり、描くべき部分を見誤ったりしている場合がほとんどですが、二次創作がそのような状況になってしまったという事は、それはすなわち「すでにオリジナルを描いている」ようなものです。
 先のような違和感を読者に覚えさせるきっかけになったキーポイントから先は、その人のオリジナリティが爆発しているのでしょう。
 ならば、二次創作という枠に拘らず、「好きな作品の要素を参考にした」オリジナル作品を練り込んでみるべきなのではないでしょうか。
 せっかくそれだけのパワーを持っているのに、原作に拘るあまりに二次創作という枠に収まり続けるのは、もったいないことだと思うんですよね。

 二次創作における「原作要素の保存と融合」というのは、それだけハードルが高いわけです。
 一見気軽にやれそうに思えて、実は全然そうではないという事実。
 これにどれだけ早く気付くかが、作品内容の良し悪しの分かれ目になる筈です。

 「仮面ライダーアギト」放映の頃、 にて、二次創作小説投稿が流行った事がありました。
 いずれも大変な傑作で、現在もそのいくつかは「BBSクロニクル」に収録させていただいてますが、実は筆者も、これに乗っかろうと思った事がありました。
 「仮面ライダー龍騎」の二次創作を書こうと思ったわけですね。

 ちょっとだけその概要を説明すると、こんな内容でした。
 なお、これを考えたのは、2002年11月頃で、まだ次作「仮面ライダー555」の情報がアバウトにしか聞こえてこない時期でした。
 また、この時点で筆者は龍騎の最終展開のネタを知っていた事を踏まえてください。

 OREジャーナルの新人記者(注:見習いではない)の城戸真司は、後輩の記者見習い女性A(以降、オリキャラは英字で表記)の教育を命じられ、ペアを組んで行動していた。
 ある日、高見沢グループの作った大規模な多目的イベントホールの取材に向かった真司とAは、その建物の影で、ウインドウに向かって佇む二人の男の姿を見た。
 なんと二人は、異形の姿に変身すると、揃ってウインドウの中に溶け込んでしまった。
 その光景を見てから、不思議な夢に悩まされる真司。
 夢の中では、自分も異形の戦士に変身し、鏡の世界で戦っていた。
 夜中に目覚めた真司の眼前に、鏡から飛び出てきた赤い龍のモンスター・
ドラグレッダーが迫っていた。
 そしてもう一人、真司を鏡の世界に引き込もうとする者がいる。
 ドラグレッダーと契約し、ミラーワールドで戦う能力を得た仮面ライダー“アンジェラ”は、真司の命を狙うAの変身した姿だった。
 すんでのところで、別の龍型モンスターに命を救われる真司。
 なぜか意志の疎通が出来るその龍型モンスターに導かれ、カードデッキを手にした真司は、まるで最初から知っていたかのように、自然に「龍騎」へと変身する。

 ミラーワールドには、総勢50人に及ぶライダーが集められていた。
 各ライダーは複数のブロックに分けられ、その中で殺し合い、最後はブロック代表同士が戦い合う。
 本当に最後に残った一人は、あらゆる望みを叶えられると、ライダーバトル進行役・
仮面ライダーリュウガは語る。
 龍騎は、いつのまにかそのバトルの特別招待選手的な扱いを受け、すべてのライダーから注目を受ける。
 そして真司は、かつて自分がライダーとして戦っていた記憶を取り戻し、今度こそ、ライダーバトルを止める決意を固める。

 ブロック内では、最終的に生き残れば良いとして、チームを組んで戦うライダー達がおり、龍騎も、アンジェラと、狼型モンスターと契約した正体不明のライダー・ボルトと協力体制を築く。
 ボルトの提案により、ライダーと戦う際、契約モンスターの方を倒し、その直後にライダーをミラーワールド外へ叩き出して武装解除させる事で生き残り続ける事を決意する龍騎as真司は、自分の命を狙う仲間と共に、無謀な戦いに挑んでいく。

 新たに始まったミラーワールドの戦いは、実は神崎士郎の開発したシステムを解析した元仮面ライダーベルデ・
高見沢逸郎によって主催された余興だった。
 自らのカードデッキを解析し、別なミラーワールドを作り出すことで神崎の支配を逃れることに成功した高見沢は、神崎優衣に代わる、新しい「ミラーワールドを作り出せる少女」を媒介とし、二次元世界の物資を恒久的に三次元化させるための実験を行っていた。
 ライダーバトルを支配する高見沢は、神崎とは違う目的のために、大勢のライダー達を犠牲にしようとしている。

 だが新しいミラーワールドは、かつて優衣の作り出したようなものではなく、限りなく「冥界」に近いところだった。
 やがて、モンスターやライダーに殺された者達の魂が、ミラーワールドに影響を与え始める。
 真司と契約したモンスターが、彼と意志の疎通が出来る理由は…
 龍騎の前に姿を現す“中身の違う”ナイトやゾルダ、ライアの正体は…
 そして、神崎の支配から逃れたつもりだった高見沢自身も…

 ――といったプロットを作成しており、主要ライダーも何人か設定していました。

 龍騎本編のミラーワールドの概念はかなり煩雑としたものだったので、神崎MWを参考にした別物として擬似ライダーバトルシステムを構築し、ジャッジであるリュウガを介さないと対峙が出来ず、そのルールを破ったものはリュウガに殺されるという掟を設定しました。
 わざわざリュウガをバトルの間に挟んだのは、「ライダーにならない状態でもライダーを攻撃する事が出来る(ライダーバトルじゃないのにライダーを倒せてしまう)」という矛盾を、本編設定内から感じ取っていたためです(実際シザースがやっていたわけなんで、本当は矛盾とは言い切れないのですが)。
 また、二枚のサバイブを複数のライダーが奪い合いしたために、無数のサバイブライダーが登場したり(ただし次々にカードを盗られていくから、結局数秒で変身解除→別なライダーがサバイブ化)、契約をしないまま戦うライダーを出したり、ミラーワールド外から直接攻撃を加えて襲ってくる卑怯ライダーが居たり、二次元世界に入り込む人間の生態変化を観察したいがためにライダーになる医師が居たり、ある夫婦が、病弱の子供の命を救うためにそれぞれ変身し、各々の正体を知らないまま殺しあったりと、色々な展開を考えました。
 なお、筆者は世間的に言われているタイムベントの「別世界作成効果」を認めていないため、最終回後の世界観を継承していました。

 ――が。
 そこに「仮面ライダー555」の内容に関する情報が入ってきたところで、この作品の発表を急遽取りやめる事にしました。

 この二次創作作品は、「ミラーワールドに関心を抱いた会社媒体が運営するライダーバトル」という主旨だった上、一部「死者復活」的なテイストも含まれていたもので、555の「スマートブレイン社」や「オルフェノク」の存在は、あまりにもタイミングが悪すぎました。
 これでは、555の設定をパクって龍騎の二次創作を作ったと勘違いされる…と判断し、泣く泣く執筆を断念しました。
 まあ、仮に無理矢理掲載していたら、その執筆のせいで別なコンテンツの更新状況に影響が出たでしょうから、今となってはやらなくて正解だったと思っています。
 また、龍騎の世界観の解釈も人それぞれなので、あまり一方的な解釈を押し付けても悪いな、と考え直した部分もあります。

 ちょっと話題からズレましたが、筆者自身、あまり人の事をどうのこうの言えない物を書こうとしていた、という事です(笑)。
 いかんですねえ、筆者も、もっと精進しなくては…。

 オリジナル作品にしても、二次創作にしても、それぞれに難しい部分があります。
 ですが、書き(描き)貯めていくうちに腕前も上がり、物語の見せ方も上達していきます。
 その上達の手ごたえを自身で感じる事が、最大の喜びであると、筆者は考えます。
 そして、そのバロメーター的な役割を果たすのが、読者からの「感想」なんですよね。
 それがある事で、制作意欲は倍増するものですから。
 なので、創作作品の感想を、抵抗なく投稿・掲載できる場というのは、大変貴重なのです。

 このコラムを書くきっかけとなった掲示板のツリーは、まさにそれを満たす理想的な一面を持っていました。

 また時々、掲示板にオリジナル・創作ツリーを立てて、皆さんと色々語り合ってみたいなと、思います。

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