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更新日:2005年7月10日 | ||
先日、夫婦でくつろいでいるとき、テレビをつけたら、NHK教育で童謡のコーナーが始まって「てるてる坊主」が流れるところでした。
「てるてる坊主、てる坊主、明日天気にしておくれ♪」というあれです。 で、鷹羽はふと「あ、3番の存続が危うい『てるてる坊主』だ」と口にしてしまいました。 「3番の存続が危うい」というのは、歌詞の話です。 「てるてる坊主」は、1番で「晴れたら金の鈴あげよ」、2番で「甘いお酒もたんと飲ましょ」と歌っていますが、3番は、「それでも曇って泣いてたら/そなたの首をチョンと切るぞ」という歌詞なのです。 成功報酬がある代わりに、失敗すれば斬首されてしまうわけですね。 以前、童話などから残酷描写や悲劇的描写が削除されつつあるという話を書きましたが、この歌の3番も考えようによっては残酷描写と取られかねないので、案外そのうち歌詞をいじられちゃうんじゃないかと危惧したわけです。 相方は、どうやら2番以降の存在を知らなかったようで、鷹羽の呟きの意味を取りかねて、「なんで危ういの?」と聞いてきました。 鷹羽は、「(3番を)聞けば分かるよ」と言ったのですが、なんということでしょう、2番の次はまた1番が流れたではありませんか。 ショックを受ける鷹羽をよそに、さも当然のように2番が再び流れてコーナーは終わりました。 ちょっとぉ。 とっくに削られてんじゃないのよ! そーか、歌詞をいじるんじゃなくて、元々なかったかのように扱うわけね。 さすがに作詞家の名前を出してる以上、勝手に歌詞を変えるわけにもいかないから、都合の悪いところは流さない、と。 てゆーかさ、NHKの人達に言いたい。 成功したときの報酬のこと(いい条件)だけ謳って、失敗したときのしっぺ返し(悪い条件)を隠蔽するってのは、やっていいことだと思ってるんですか? 別に、この歌に信賞必罰の理念が込められていて、それを子供達に聞かせるべきだとかは言わないけど、でも、それってやっぱりフェアじゃないと思うんですけど…。 もしかしたら、こんなことはずっと前から当たり前のように行われていたのかもしれません。 意識的に削るかどうかはともかく、放送時間の関係などから1番だけしか流さないとかいう妙な切り方なんかもあったのかもしれません。 実際、鷹羽の相方は、「てるてる坊主」の存在は知っていたのに、1番の歌詞しか知りませんでした。 そういえば、以前、『一寸法師』の歌が思い出せなくて人に聞きまくったときに、1番すらまともに歌えない人ばかりで、非常にショックを受けた覚えがあります。 あの歌、5番まであって、最後には一寸法師が大きくなるところまで歌っていたりするんですけど。 残念ながら、童謡そのものは、時代の流れと共にある程度廃れていくのもやむを得ないと思います。 焚き火をすれば必ず誰かが口ずさんでいた「垣根の垣根の曲がり角/焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き」という歌は、焚き火自体が環境に悪いこととされている現代においては、消えゆく運命と言えるでしょう。 「母さんが夜なべをして/手袋編んでくれた」と言っても、夜更かしが当たり前で、手袋は買うものという認識が一般化している今、この歌詞の意味を実感として受け止められる子供は少ないでしょう。 また、多様化する価値観の中で、童謡を歌うという機会自体も減っていると思います。 実際、鷹羽の周囲を見回す限り、家庭で童謡を歌うということはかなり減っているようです。 『おかあさんといっしょ』のような子供番組の中で流れる歌の半分以上は、その番組のために作られた歌になっていますから、親子で一緒に歌う歌も、自動的にそういったものが多くなってしまうのです。 ですから、学校の音楽の時間で習うものや、幼稚園などで歌った以外の童謡は、子供時代に経験しないまま成長してしまいます。 となると、やはりある程度メジャーで、しょっちゅうあちこちで流される歌以外は、徐々に知っている人が減っていくことにならざるを得ません。 それ自体は、寂しいにしても仕方のない部分もあります。 童謡が遥か昔から同じ形で歌い継がれてきたものでない以上、いずれ消えていくのも宿命でしょう。 でも、せっかく童謡を番組内で流すなら、フルで流すべきじゃないでしょうか。 3番まである歌を、1番、2番、1番、2番と流す理由は、「首をチョンと切るぞ」を子供に聞かせたくない以外に思いつけません。 こういったものに限らず、大人が“子供に見せるべきでない”と判断されたものが迫害・抹殺されることは、よくある話です。 近年、小学校の運動会の駆けっこ(100m走)などでも1位を決めないというもの凄いことをやっているとか。 理由は足の遅い子が可哀想だからで、“みんな頑張った”という扱いになるのだと聞きました。 偉い人に直接聞いたわけではないので、正確には違うのかもしれませんが、少なくともそれに類する理由なのは間違いないようです。 それじゃあ聞きますが、足が速いのが自慢の子供は、どこで活躍すればいいのでしょう? 勉強はできないけど足が速い子というのは、昔からクラスに1人くらいいたと思いますが、運動会というのは、そういった子が他者に認められる喜びを見出す重要なイベントだと思います。 別に、足が遅い子が、それだけで周囲から見放されるわけではありません。 自分には得意なものがあるというのは、人間が生きていく上で必要な自信の根源のはずですし、自分には苦手なものがあるということも知っておく必要はあるはずです。 人には得手不得手というものがあり、その子の得意な分野を見付けてそれを伸ばしていくというのが、個性を大切にする教育だと思うのですが、いきなり個性を自覚させるチャンスをなくしてしまったら、それは叶いません。 何でも競争させればいいとは言いませんが、運動会に限らず、勝てない人間の気持ちに配慮することが勝てる人間の気持ちに水を差す行為であっては、伸びるものも伸びなくなると思うんですよね。 しかも、1位になった子は、誰が見ても1位なわけで、親には誉められるのに公的には誉められない=正式には認めてもらえないという不満を持ちますし、どう言い繕ってもビリはビリですから、学校側は差を付けたつもりがなくても、子供同士の間では「あいつはビリだった」という事実は認識されています。 結局、見ないふりをしているだけじゃないですか。 第一、「人間はみんなライダーなんだ」じゃありませんが、この世には、いたるところに競争が待ち構えています。 勝つ喜び、負ける悔しさを知らずに育っても、やがて必ず知るときが来るのです。 負けることに耐性のないまま大きくなった人は、初めての挫折で自殺してしまうかもしれません。 こういった“都合の悪いものは隠す”という方針は、大抵どこかに歪みを引き起こします。 子供の性教育なんかと同じで、“話題に触れないように”と誤魔化さないで、“早期にきちんと教える”という態度が必要なんじゃないかと思います。 たとえ国中の糸巻き車を処分したつもりでも、1つくらいはどこかに残っているものです。 隠していて教えないから知らないまま育つ→知らないから興味本位で気安く触れてしまう→姫は眠りに就いてしまう(取り返しのつかないことになる)、と。 ほら、童話はやっぱり教訓を残していますよ。 → NEXT COLUM |
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