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更新日:2005年4月24日 | ||
1話の冒頭から明日夢主演のミュージカルで始まった本作は、その後も明日夢のOPナレーションによって進行し、響鬼の戦闘シーンの合間にも明日夢の日常生活が描かれています。
これを指して「邪魔だ」と言う人もいるようですし、かつて『クウガ』で不評を買った“戦闘シーンに集中できない”描写手法として嫌う人も多いようです。 もちろん、それだけが嫌いな理由ではないという人も多いのでしょうけれど。 で、どうしてこんなに明日夢の描写が多いのかと考えてみると、この作品の主人公って、どう考えても明日夢なんですよね。 エンディングも『少年よ』ですし、OP後のスポンサー紹介のナレーションも最初は明日夢からで、未だにヒビキはやってませんし。 まぁ一応、単体ヒーロー物においては、変身する人としない人の2人を主人公格に据えることは、ときたまあります。 例えば『アイアンキング』の霧島五郎と静弦太郎(しずか・げんたろう)や、『ダイヤモンドアイ』のダイヤモンドアイと雷甲太郎(らい・こうたろう)。 『アイアンキング』は、制作会社の関係もあって、円谷系の巨大ヒーローとはフォーマットが異なっており、巨大ヒーロー:アイアンキングに変身する五郎は、『燃えろアーサー白馬の王子』でのアーサーのような“昼行灯”キャラで、その分、弦太郎がいかにもなヒーローキャラとして(変身しないけど)活躍するダブル主人公制になっています。 弦太郎は、アイアンキングの正体を知らないまま五郎と旅をしており、敵の巨大ロボや怪獣との戦闘時には、アイアンキング以上に活躍してしまうという凄い人でした。 また、『ダイヤモンドアイ』の場合、変身ヒーローではなく、甲太郎が持つ指輪“アラビアの王”で召還されるヒーローなので、どうしても戦闘シーン以外では甲太郎がメインとなってしまいます。 現在放送中の『ウルトラマンネクサス』でも、主人公の孤門一樹(こもん・かずき)は変身しませんね。 『ネクサス』では、孤門がウルトラマン=姫矢准(ひめや・じゅん)と出会うことで、憎しみに流されない心の強さを手にするなどの成長を遂げています。 これを見ると、ヒーローと共にあることで成長する主人公を描くという手法はありなのだと思えます。 その分、番組当初の孤門はとても情けないキャラクターになっていて、非難されたりもしました。 この孤門の例が、明日夢とヒビキの関係に一番近いのではないかと思います。 もっとも、近いとは言ってもやはりかなり違っています。 その最も大きなポイントが“2人が同じ方向を向いている存在ではない”という部分で、これこそが明日夢の描写に違和感を感じる要因なのです。 孤門と姫矢は、それぞれ立場は違っていますが、スペースビーストから人間を守りたいという思いは同じです。 義務や仕事ではなく、「救いたい」という自分の心に従って戦っているというのが彼らの共通項でしょう。 だから、孤門はネクサスを援護するし、組織がネクサスを敵視しても信じていたりします。 そして、それ故に孤門と姫矢に心の交流が生まれる素地があるわけです。 ところが、明日夢とヒビキの関係にはそれがありません。 明日夢とヒビキの関係について見てみましょう。 明日夢は、響鬼に危ないところを救われたから彼を慕っているわけというわけではありません。 屋久島に向かう船の中で、船から落ちそうな子供をヒビキがひらりと救い、それがご近所さんで、人知れず戦う鬼だと知ったことから、なんとなく憧れめいたものを感じているだけです。 自分という人格の根幹がまだできあがっていない明日夢の目には、ヒビキの「自分を信じること、それが自分らしく生きるための第一歩じゃないかな」という言葉や、「鍛えてますから」という飄々とした態度は、自信と実力を持った頼りがいのある大人として映ったでしょう。 その後、ヒビキから貰ったコンパスをお守りのようにしているのは、文字どおりそれが明日夢にとっての道しるべだから。 結局、ヒビキの“鍛える”という言葉が明日夢にとって叱咤激励になっているわけです。 化け蟹との初戦で傷つき敗れたヒビキが「鍛え足りなかったら鍛えるだけだ」とこともなげに言った言葉は、高校合格ラインすれすれで不安に陥っていた明日夢には「受かりそうにないなら、もっと努力(勉強)すればいい」と響いたのでしょう。 受験勉強を指して「鍛える」というのは何か違うと思いますが、実際に明日夢は、高校合格が決まった後、担任に「後半かなり鍛えましたからね」とか言っていました。 こうして見ていくと、明日夢にとってヒビキは“生き方としての憧れの大人”であることが分かります。 では、明日夢が目指すのはヒビキのような生き方でしょうか? 「そうではない」という点が、孤門・姫矢の関係と根本的に違うところです。 明日夢は、ヒビキの“臆することなく自分の道を行き、そのために必要な努力を惜しまない”生き方には憧れていますが、決してヒビキのように人助けのために戦う鬼になりたいわけではありません。 もちろん、ボランティアがやりたいわけでもありません。 かといって、その生き方を自分の行くべき道に置き換えて実践しようにも、まだ自分のなりたいもの、進みたい道が見えているわけではないため、“なんとなく憧れている”という枠から抜け出ることができていないのです。 単なる“憧れ”が悪いとは言いません。 ただ、大人に憧れた少年の成長物語であるとしても、今の『響鬼』での描き方は違うと思うのです。 4月中旬現在、明日夢の立場は、ブラスバンドを続けるために城北高校に行くか、学校としてのランクが高い城南高校に行くかで悩んで城南を選び、合格ギリギリラインだったのを合格したというものです。 また、恋人手前の持田ひとみとの関係も、お互い好意は感じながら告白に踏み切れず、せっかく友人がお膳立てしてくれたダブルデートを寝過ごしておいて、詫びの電話・メール1つ入れず、途中からでも合流しようという努力もせずに彷徨い歩き、追い掛けてきたひとみの方から、一緒に映画を見に行こう(=デートのやり直し)というフォローが入ってしまうていたらく。 しかも、高校入学後の「一緒にたちばなに行こう」というひとみからのアプローチに対し、「今はヒビキに会うのが気まずい」と、自分のことしか見えずに断っています。 たちばなに行くのがまずいなら、ひとみの心を汲んで、どこか別の場所へ行くことを提案すればいいのに、そこまで考える余裕もないわけです。 一般生活においても、船の縁で遊んでいる子供に注目しつつ注意はしない、電車の中で立っている妊婦さんに席を譲ろうかと考えながら周囲の目を気にして声を掛けられない、街で見掛けたヒビキの知り合いらしき人に声を掛けられず後を尾けてしまう、といった具合で、何というか、妙に積極性に欠けていて、見ていて歯痒い印象があります。 そうかと思うと、夜になれば連絡が取れる(香須実は「昼間は連絡取りづらい」と言っていた)ヒビキに合格の報告をするためはるばる出掛けておいて、寝入って乗り過ごし、2時間待てば電車が来るのに土地勘のない山の中に入っていって遭難しかけたりと、後先考えない行動力を発揮したりします。 こんな明日夢に感情移入できるかどうかは、視聴者側の年齢や経験による部分も大きいので、前世紀に中学を卒業してしまった鷹羽のような“大人”から見てどうかということは、必ずしも重要ではないかもしれません。 一応、みどりが落とした荷物を拾って持ってあげるようになったというのは、彼なりの成長なのでしょうから、確かに“ヒビキと関わったことで成長した”と言えるでしょう。 ですから、プロデューサーがメインターゲットにしている明日夢と同年代や、もっと小さな子供には、それなりにアピールしているのかもしれません。 ただ、明日夢がヒビキとどう関わるかは、番組の根幹をなす重大な部分であり、視聴者層云々では済まない問題です。 明日夢にとってヒビキはどういう存在なのでしょう? 鷹羽が見るところ、“努力すれば何でもできるような気にさせてくれる人”でしかないように思えます。 12話『開く秘密』で、みどりからヒビキの中学時代の話を聞いて、彼が最初から強い人間だったわけではないことを知り、その思いはますます強くなっているでしょう。 ですが、蜘蛛との戦いも、蟹との戦いも、明日夢自身にとっては、ヒビキが鍛えている結果という以上の意味はありません。 まして、蟹との戦いは“見てもいない=言葉だけで勝利を確信している”のですから。 努力が必ずしも実を結ぶとは限らない(鍛え足りなくて敗死してしまう)ということは考えていないようです。 まぁ、それが悪いと言う気はありません。 それはそれで前向きな態度ですし、今の段階で敢えて努力を否定する必要があるとも思いませんから。 でも、そうなると、明日夢の見ていないところで繰り広げられる響鬼の戦いは、あくまで狂言回し的なものに終始してしまうわけですよね。 言ってしまえば、ヒビキがやっていることは、努力が結果を生み出す仕事、そしてそれが世のため人のためになることであれば、純国産ロケットの開発でも、新しいタイプの老人介護施設の建設計画でも、それこそプロジェクトXが作れそうなネタなら何でもいいわけです。 そして、明日夢は、“この人は頑張って凄いことをやっているんだ”と思うだけで、具体的に何をしているのかはよく分かっていない。 これが『響鬼』における構造的な問題です。 明日夢がどんなに情けない男の子でも、それが響鬼の戦いを見ることで成長するならば、ヒーロー物という枠の中で描く意義もあるでしょう。 ですが、戦いそれ自体に意味が見出せないのなら、明日夢の日常と乖離するばかりです。 少なくとも、明日夢の日常は“生きていくそのことが戦い”というような重いものではないのですから。 そして、この二面性は、制作側でもかなり分かっている…というか、狙っているのではないかと思えます。 OPで、明日夢の頬には「夢」、ひとみの頬には「和」といった文字がありますが、ヒビキ、イブキ、あきらの頬には何の文字もありません。 香須実や日菜佳といった猛士メンバーにも「流」「華」といった文字がありますから、ないのは鬼とその予備軍だけのようです。 この辺にも、制作者側のスタンスが透けて見えるような気がします。 あくまで日常の中にいる明日夢やひとみ、一応日常の情景の中にいる香須実達に比べ、非日常の敵と相対するヒビキ達は、完全に別世界の住人になっているのではないでしょうか。 ちなみに、OPで「邪」と書いてある掌は、袖からするとひとみのもののようですし、彼女の紹介画面のバックには「邪」と「人」の文字があったりしますが、今のところ、鷹羽は、これは“人間の中にも悪意は存在する”という、例の万引き騒ぎのときの勢地郎の言葉の表現だと思っています。 ひとみは完全な“普通の人”代表なのでしょう。 そう考えると、本来主役であるはずのヒビキが、OPでカタカナ表記にされていることが妙に納得できてしまうのです。 12話で、ようやくヒビキの本名が「日高仁志」であることが明かされ、鬼達が日常生活においても鬼としてのコードネームのままで呼ばれていることが分かりました。 劇中人物が「ここは漢字、ここはカタカナ」と意識しているとは思えませんから、変身前がカタカナ表記されるのは、単に視聴者に「変身前・変身後」を区別させるためだけと言っていいでしょう。 一般生活においてもコードネームで通しているのは、やはり日常の存在でないことを認識しているからではないでしょうか。 あきらは、鬼の弟子ですが、まだ鬼としてのコードネームはないので、本名で呼ばれているわけですね。 日常に住むひとみと、非日常に身を置くあきらですが、彼女らが直接明日夢をそれぞれの世界に引っ張り合うという展開にはならないでしょう。 それは、そのまま2人が(恋人として)明日夢を取り合うという展開に繋がりますから。 あきらは、非日常との窓口であり、そこから明日夢を誘う存在ではなく、「ここまで鍛えないうちは駄目」と、踏み込むことを拒絶する壁に思えます。 ただ、ひとみ・あきら・明日夢が同級生というベタな設定は、明日夢が日常と非日常を両脇に抱えて生活するというこれからの展開を示唆しており、彼女らの思惑とは無関係に、明日夢は2つの世界の間で引っ張られることになるのだと思います。 もっとも、非日常に消えていく明日夢を“あきらに奪われた”と感じたひとみが、嫉妬という邪な心を持ち、最後に明日夢がそれを解消したりしたら、面白いですね。 明日夢は、みどりとの邂逅を経て、非日常の世界の少し深いところまで覗き込みましたが、そこに踏み込んではおらず、やはり日常の存在でいます。 戦闘シーンが地味だったり空回りしていたりするのは、“音による攻撃”という新しいタイプの戦闘形態や、巨大な魔化魍との合成の違和感など、仕方ない部分もあると思いますが、非日常と日常を交互に描くことにはほとんど意味がありません。 真の主人公である明日夢が日常の存在である以上、非日常が浮きまくるだけです。 かといって、細かい台詞などから世界観が見える猛士メンバーの濃厚な描写に比べ、明日夢周辺の描写のなんと薄っぺらいことか。 明日夢がもっと非日常に踏み込んでいかない限り、明日夢とヒビキの関わりが番組の中で活きることはないでしょう。 鷹羽的には望んでいなかった展開ですが、明日夢が猛士に積極的に関わるようになり、やがてヒビキの弟子になるといった流れにでもしない限り、この問題点は解決しないでしょう。 OPでは、ひとみ、香須実、日菜佳のところからヒビキの方に明日夢が走るシーンがあったり、ヒビキの隣に立っているシーンもあるので、きっと今後そういった展開が考えられているのでしょう。 一応ブラスバンド部ですから、楽器も使えますし。 また、裁鬼(さばき)=佐伯栄(さえき・さかえ)、弾鬼(だんき)=段田大輔(だんだ・だいすけ)、響鬼=日高仁志(ひだか・ひとし)、威吹鬼=和泉伊織(いずみ・いおり)といった具合で、鬼の方々には名字と名前と鬼名とが同じ文字から始まるという奇妙な符合があり、弟子である天美あきら(あまみ・あきら)もそうですから、安達明日夢(あだち・あすむ)には、十分鬼になる資格があると言えます。 鬼になったら、暁鬼(あかつき)とか安楽鬼(あんらっき)とかになるんでしょうか。 とはいえ、今の明日夢の状態からすると、弟子になったからといって、すぐ何かが変わるとも思えませんし、先行きは多難です。 ともかく、今すぐにでも、交互描写をやめ、戦闘ももっと派手にして、戦闘シーンだけ見ても楽しめ、武器などの商品を欲しくなる体裁にしないと、本格的に明日夢の物語が走り出す前に、売上低迷による打ち切りが襲ってくるような気がします。 完全に戦いと日常が乖離してしまうでしょうが、どうせ今だってヒビキは狂言回しでしかないのですから、むしろその方がいいでしょう。 ディスクアニマルだけじゃ、さすがにもたないぞ〜。 → NEXT COLUM |
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