|
||
更新日:2005年4月11日 | ||
好き勝手書きまくっているドラクエVIII批評。
まずは、ここまでお付き合いくださった事に、深く感謝します。 振り返ると、ものすごい長文になったけど…すみません、まだ少しだけ続きます(笑)。 なお、今回は総まとめなので、プレイ経験者(できればクリア済みの方)以外は読まない事を勧めます。 ●DQ8元締的総括
結局のところ、本作はどんなソフトだったのか。個人的には、かなり評価が難しいタイトルだと思う。 セールスポイントも問題点もかなりの数に及び、その上それぞれがプレイヤーに与えている影響が大きすぎる。 そのため、良い点が気に入ってしまった人には高評価、問題点が鼻についた人には低評価となるのではなかろうか。 こういう性質の作品に、適切な評価を下すのは、やっかいなものだ。 あまり巧い表現ではないかもしれないが、DQ8という作品は「極端な二面性を持った“秀作”」と見るのが正解かもしれない。 決して「優秀作」「大傑作」ではないが、プレイヤーを惹き付ける要素、楽しませるポイントに満ち溢れている。 どちらにしろ、あれだけ散々叩かれたDQ7の数多くの問題点をクリアし、さらに高みに上ったという事は評価したい。 本作は「完成形」ではなく、あくまで「シリーズの通過点の一つ」に過ぎない事が見えてくる。 今後の「ドラゴンクエスト9」以降、本作で提示された魅力からさらに高められれば、言う事はない。 そういう視点から見た場合、本作は「なくてはならない一作」であった事は間違いない。 筆者は、本作で一つ大きく評価している事がある。 それは、ストーリーの描き方。 もっと具体的に言えばその「方針」だ。 ドラクエシリーズにおいて、本作ほど「洒落にならないほど大規模な被害が出た」瞬間を、克明に表現した作品はなかった。 それは「聖地ゴルド」にて発生する大惨事と、その発生までの経緯。 前回のコラムで「七賢者の子孫を巡る展開」を散々叩いたが、決してこのイベント全体を不要と判断したわけではない。 子孫を殺した事に異を唱えたのではなく、むざむざ殺されてしまう展開にした事を問題視しただけであり、七賢者の封印が解かれるに至る流れについては、高く評価している。 何にしても、主人公達の目の前で大規模なトラブルが発生し、その結果多数の死者が出たという演出は、たしか初めてだった筈だ。 今までのシリーズは、主人公達がいない時に変化が起き、後から駆けつけて問題を解決するといったケースがほとんどで、リアルタイムで変化を見つめた例はない(DQ3のギアガの大穴開放の瞬間を、プレイヤーが見られないようなもの)。 あまりに壮絶な展開に、筆者は当初、あの画面内にいた大勢の人々がすべて死に絶えたという事実を、受け止めきれなかった。 ましてその人々は、ほとんどが自分の意思で集まったのではなく、騎士団によって半ば強制的に集められた者達だった。 その騎士団の一部も含め、会場ごと地の底に落ちて消えたわけだから、後味の悪さは相当なものだ。 美しかった女神像の表面が砕け、その隙間から魔物の目が覗くという演出も見事に決まり、大々的な「魔王復活の瞬間」を表現しきった。 しかも、その後巨大な大穴は聖地に残り続け、最後まで塞がれる事はなく、また上空からも容易に見て取れるのが痛々しい。 すなわち、惨劇の傷痕がしっかり刻み付けられているのだ。 惨事が起こる前の、聖地の平和な光景を思い浮かべると、この状況の凄惨さはより引き立つ。 これがあるため、その後に出現する「ラスボスの城」の存在感とインパクトは絶大で、近年珍しく「とんでもないラスボスっぷり」を表現して見せていた。 ある地点では、地上から空を見上げると部分的に紫色に染まっている光景が見られるが、それまでの青空が一転する様子は、結構なインパクトを与えてくれる。 このように、悲劇・惨劇を真正面から描ききろうとする姿勢には、大変感心させられる。 特に、現在のような「何でもかんでも悲劇を否定する」という風潮の中で、これをやりきるというのは素晴らしい事だ。 真のハッピーエンドを盛り上げるために、描く事が必要な「災厄」。 その存在すらも否定されかねない現在において、「取り返しがつかない」ほどの展開を描く事は、その作品に対する風当たりを強めてしまう結果を招きかねない。 これは、ひとえに“重い物語を受け止められなくなってしまった”ユーザー(この場合は視聴者とすべきか)が増えた事…いわば消費者側の「質の低下」が原因だが、そんな中で、イズムを貫くのは並大抵の事ではないだろう。 ただし、そんな重い話の中でも、個人的には残念なものがある。 サヴェッラ大聖堂イベントで登場する、ニノ大司教を巡るエピソードがそれだ。 彼は、様々な策略を張り巡らし、現法皇の後釜に座ろうとした悪党だったが、マルチェロの策にはまり、主人公達と共に地下牢へ閉じ込められてしまった。 だが、約一ヵ月間の囚人生活の果て、不審死を遂げた法皇の情報を聞いた途端に真実追求に目覚め、自ら主人公達を脱出させるための礎となる事を決意する。 だが、主人公脱出直後に移動機器が破損して地下牢への唯一の入り口は閉ざされ、ニノ大司教は脱出不能という状況にされてしまう。 たとえ法皇の死の真実を突き止められても、主人公達は、それをニノ大司教に伝える事ができなくなってしまったのだ。 主人公達が脱出し、最後にニノ大司教が牢内にある教会のシンボルを見上げた場面は、彼が自らの悪行を心底悔い、真実に開眼した事を実感させる名シーンだった。 この時、筆者はニノ大司教の態度に強い感銘を受けた。 結局、ニノ大司教のおかげで主人公はマルチェロを止め、物語はさらに進展していく事になるが… このように「どうしようもない悪漢」として描かれていたキャラクターが、充分な説得力を含めた演出の果てに主人公達に助力し、それでも過去の罪の制裁を受けて闇に消えていくというストーリーは、重厚なインパクトを与えてくれる。 筆者は、この展開に激しい感動を覚え、シリーズ中でも三指に入る名イベントになるかと期待していたのだが……エンディングで一気に評価を下げた。 なんと、その後ニノ大司教は誰かに助け出されたらしく、しかもよりによって、本当に法皇になってしまったのだ! ちょっと待て。 いくら途中で考えを改めたからといって、それだけで贖罪が成されたとでもいいたいのか? それはちょっと話が違うだろう。 もちろん、主人公達が地下牢に閉じ込められた状態の彼らを放っておくとも考えられないから、誰かに救助を依頼したのかもしれないが、それにしても「いけしゃあしゃあと法皇になる」という結末では、あまりにも軽すぎるだろう。 ニノ自身の考えはともかくとして、これでは結果的に「悪人が企みを成就させた」のと同じ事になってしまう。 まして、そんな結果を迎えた人物に結婚式を祝われて、違和感はないのだろうか? 祝われる当の本人・ミーティアは、この激動の展開を直接知らないのだし。 この事実を、大聖堂に集まる人々との会話から知った瞬間、筆者のエンディングへの期待感は一気に消滅してしまった。 聖地ゴルドのような重い話をやったくらいなんだから、こういう部分でもしっかりけじめは付けて欲しかった。 断言しよう。 ニノは、助かるべきではなかった。 死を迎える事で、初めて「主人公を助けた」という善行が裏打ちされたのだ。 無論、死の場面を描く必要などないが。 彼が、暗黒の地の底でいずれ朽ち果てるだろうという暗黙の了解があってこそ、あのイベントは完成形になった筈なのだ。 それとも、どこかで「ニノを殺すのは可哀想じゃないか」なんて意見でも出たのだろうか。 もしそうだとしたら…その思考はあまりにも情けない。 ホント、最近は「きっちりけじめをつけ切る」物語が減ってしまった… え、それ以前に、主人公達がルーラやリレミトを使えばすんなり解決しただろうって? いやいや、ドラマパートで呪文を使うのは厳禁っスから。 目の前で殺された父・オルテガに、ザオリクをかけようとすらしなかったDQ3の主人公を思い出そう。 対して、アスカンタ城の王の話は、筆者を深く感動させた内容だった。 二年前に亡くなった王妃を想い、想い過ぎ、なんとそれからずっと国中を喪に服させ続けてしまった若き王のエピソード。 そんな彼を現実に向かわせるため、主人公達が「一つだけ願いを叶えてくれる」伝説を求めて旅立ち、見事王の願いをかなえるというものだ。 しかも、単に王妃を蘇らせるというのではなく、生前の王妃の記憶を再現して見せるだけ、という突き放し方が微妙で良い。 近年の「無条件悲劇否定」の傾向からすれば、ここで王妃を蘇らせてすべてを台無しにしてしまったところだろうが、そうしなかったところがさすがだ。 過去の映像の筈なのに、最後はどう見ても現在の王に話しかけているようにしか感じられなくなる王妃の姿が美しく、そしてとても悲しい。 こういうエピソードを以って、「一度失った物は二度と戻らないが、いつまでもそれにとらわれていてはいけない」という事を教えてくれる姿勢を、筆者は褒め称えたい。 別に本作が教育的な内容を持っているなどと唱える気はないが、こういった演出を交える事で、少しでも「悲劇というものがどうして必要なのか」を知らしめる事は、とても大切だと思う。 本来、それを行うべき「童話」や「昔話」が、みんな内容を変えられてしまったからねえ…(泣) しかし、これを単なる「お涙頂戴」系の話に留めなかったところは、さすがだった。 いつものパターンなら、このイベント終了の時点で何かしらの特典が与えられる筈なのに、今回に限ってそれはなく、しかも後々の「船入手」イベントにまで繋げてしまうという超変化球展開を成し遂げたのには、脱帽させられた。 しかも、たった一度しか逢えない筈のイシュマウリを二回登場させるという変則的な手法で、プレイヤーの虚を突くのも巧い。 内陸の砂漠地帯にある巨大な船を、再び海に戻す…という流れは、アララト山上の「ノアの方舟」を思い起こさせるものがあって神秘的だったが、トロデ王、イシュマウリに「船の補修」も頼まなくていいのか? などと考えてしまった筆者は、ヘンな所で冷めているようだ(笑)。 ともあれ、「一度こなしたイベントの報酬が、時間を置いて後から大きな結果になって返って来る」というのは、大変新鮮だった。 筆者は、このイベントが本作内で最高の完成度だったと思っている。 …モグラの親分も含めてね(苦笑)。 本作は、過去の他シリーズとの内容的関連がないが、実は「DQ3」と微妙に繋がりがあるという、驚くべき設定が覗いている。 ただし、正確には「共通設定の一部が提示されている」だけであり、物語上も、時系列上も直接の接点はない。 だから決して、「ロトシリーズの一作」ではないのだ。 どちらかというと、DQ3をやっていた人がニヤリとする程度のエッセンスに過ぎず、決して嫌味にはなっていない。 だが、これがあるために、あの「誰もが感動したテーマ」と再び出会える事になったのだ。 最初は、ただ単に曲を使いまわしただけなのかなとも思ったのだが(事実、酒場の曲はDQ6のカジノの曲の再利用だったし)、そうでないと最後にわかった瞬間、今更ながら感動してしまった。 まだここまでたどり着いていない人は、是非とも早く飛翔して頂きたい。 そして、あの素晴らしいテーマに乗って、世界の各地を自由に巡っていただきたい。 よく考えると、この世界ではすでにレティスが伝説化している訳で、そこから関連付けると、DQ3は遥かな大昔の出来事だったという事になる。 異世界の物語を、同時間軸上に並べて考えるのは馬鹿げているかもしれないが、多分、本作はDQ2などよりもさらにずっと未来に相当する舞台なのではないかと予想される。 そう考えると、十数年前に私達がプレイしたタイトルの内容が、この世界では悠久の伝説と化している事にもなり、感慨深さを覚える。 こういった、とてつもなくスケールの大きな「時の流れ」を感じさせるのは、まさにドラクエならではだと思う。 そう考えながら飛翔の曲を再び聴くと、あらたな感動すら覚えるようだ。 ところで、ある筋の話によると、本作は意外に「売れていない」そうな。 あれだけの宣伝を見ているとかなり売れたような印象を受けるが、某大手販売店では見込み数に遠く及ばない販売数であり、もはや「ドラクエ」というネームバリューだけでは充分なけん引力を発揮できないと判断されたそうだ(明確な報告情報アリ)。 ただ、この情報はメーカーが提示している実売数と、大きな食い違いが出る可能性がある。 しかし、メーカーの発表はあくまで「問屋に卸した数」だから、それがすべてのユーザーに受け入れられたわけではないのだ。 もっとも、見込みより売れなかったとはいえ「全然売れていない」訳でもなければ、ネームバリューが浸透しなかったわけでもないし、ましてや作品自体の評価が低かったという事には繋がらない。 DQ8が発売されたという事、それで大勢の人がプレイしているだろうという予想は、ゲームマニアのみならず一般の人達も普通に考えていた。 つまり、それだけ世間に認知されていたという事だ。 第一、買わないと内容の良し悪しなんかわからないんだし。 今後も、じっくり時間をかけて売れていくのではないかな、と筆者は思っている。 ただ、88年のDQ3販売時の大騒ぎのイメージがいまだに尾を引いており、「ドラクエ新作発売日には入手困難になる」というイメージは今回もつきまとった。 もう17年も前の事なのに、すごいなあ。 実は筆者は、DQ7のプレイを途中で止めてしまった事がある。 あの独特の画面構成に付いていけなくなったクチで、それ以来、3D化したドラクエはもう二度と受け付けられないだろうなと、覚悟していた。 本作は、そんな不安を一気に打破してくれた上に、じっくりとハマらせてくれた。 また、私生活が忙しくて時間が取れず、ゲームもろくに出来ない…と思っていた事が、単なるめんどくさがりから来る言い訳だった事も自覚させられた。 なんのことはない。 ハマってしまえば、時間なんか無理矢理捻出してしまうではないか。 それに、筆者のプレイ時間はせいぜい110時間弱。 こんなの、一ヶ月もかければ充分ひり出す事が出来る。 結局は、それだけの事だったのだ。 これなら、また新作が出ても問題なくプレイできるぞ! と気合が入ったところで、筆者は本作に対して深い感謝の念を抱くのだった。 で、このノリで是非DQ6のリメイクをしてくださいよ〜(懇願)。 システムは、DQ7みたいのにしなくていいから…スキル性にしないで、どうか以前のままで〜!! → NEXT COLUM |
→「気分屋な記聞」トップページへ |