仮面ライダー響鬼のお仕事 第9回
明日夢弟子入り、そしてあきら離脱
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更新日:2005年12月4日 | ||
ここのところ、悩み込んでいたあきらは、41話『目醒める師弟』で、遂に正式にイブキの弟子を辞めることになりました。 それに伴って、明日夢と桐矢京介がヒビキに弟子入りすることとなり、ようやく明日夢はヒビキから名前で呼んでもらえるようになったわけです。 まぁ、正確には、明日夢が初めて名前で呼ばれたのは、39話『始まる君』のラストだったわけですが、その後再び「少年」と呼ばれていましたからねぇ。 桐矢も一緒というところに疑問を感じはしますが。 以前に書いたとおり、鷹羽的には、いずれ明日夢が本格的に猛士の一員として活動するようになったころに名前で呼ばれるようになるのだろうと思っていたわけですが、紆余曲折を経て、曲がりなりにも“明日夢がヒビキの弟子になった=戦いに当事者として絡むようになった”ことに、一応の安堵をしています。 ただ、この後、明日夢が戦いの場で行動するようになるのかというと、なんだかそう簡単ではなさそうな辺りが、この番組のもどかしいところなわけで。 残り6〜7話となった今、弟子入りしたばかりの明日夢が最終回までに一人前になれるわけもなく、また、そうなったりした日には、あきらやトドロキの立場がなくなってしまい、逆にリアルさを失う結果になります。 もちろん、最終回のラストに後日談的なものをもってきて、数年後に鬼として独り立ちした明日夢を見せることで締めくくるという方法もありますから、弟子になること自体は歓迎すべきだと思っているのですが。 さて、ここしばらくの展開で、視聴者がやきもきしていたであろうあきらの去就ですが、これは、36話『飢える朱鬼』以来の“何のために鬼になるのか”という問題に対するあきらなりの結論ということになるのでしょう。 恐らくは、あきらの鬼断念は、明日夢や桐矢の今後と、テーマ的に絡んでくるはずです。 あきらが2年にもわたるイブキへの師事の中で何を学んできたのかとか、元々どうして鬼を志したのかという点については、実のところ、旧体制下では特に触れられておらず、37話『甦る雷』であきらが朱鬼に語った「両親を魔化魍に殺された」で初めて明らかにされた設定のようです。 25話『走る紺碧』では、あきらが父からカッパのガスについて聞いていたという話がありましたし、勢地カも「現場に出ている者にしか分からないこと」と返していましたから、少なくともあきらの父は猛士の一員で、それも鬼かサポーターといった現場に出る立場だったのでしょう。 当時鷹羽は、あきらの父は引退した鬼なのだろうと思って見ていました。 今回、“両親が殺された”ということになったので、もしかしたら2人で組んでいたのかもしれません。 それにしても、両親が死んでいるということは、マンション暮らしのあきらの生活費って、もしかして両親が魔化魍に殺されたことによる猛士の遺族手当の類から出ているんでしょうか。 まさか、弟子になるだけで、マンション暮らしできるほどの手当が貰えるとか? いえ、戸田山が警察官を辞めた後、2年間にわたってザンキに師事していた間、生活費がどうやって賄われていたのかって、すごく興味があるもので。 従妹であるもっちーは、戸田山が警察を辞めたことも実家に戻っていないことも知っているのに、「ぷーたろーしてる」という認識になっていませんでした。 ということは、きっとどこかにとらばーゆして、ちゃんと給料を貰っているように見える状態だったのでしょう。 多分、鬼になると、危険手当も含めて、きっとかなりの額の手当が貰えるんでしょう。 でないと、割に合わないし、何より生活していけません。 みどりなんかも、給料が猛士から出ているとしか考えられませんし。 …その大元となる資金が、どのようにして捻出されているのかは、また別の謎ですが。 さて、ともあれ、『響鬼』は、ラストスパートに向けて、戦い以外のテーマも1つ前面に出してきました。 前述の“鬼とは何か”というテーマです。 これまで非常に曖昧だった本作における“鬼”の定義。 つまり、何のために鬼になり、何のために戦うのかという、なぜかこれまで全く語られなかったことが、ようやく語られ始めているのです。 36話でヒビキが明日夢に対して言った「鬼であるってことは、鬼であってはいけないってことだ」という台詞は、多分、自分の怒りや憎しみなどのマイナス方向のエネルギーで戦ってはいけないという意味でしょう。 そして、実際、憎しみを糧に戦ってきた朱鬼は、(理由はともかく)死にました。 彼女の登場は、憎しみの心で戦うということがどういうことかというアンチテーゼ的な意味合いだったと思われます。 そして、それによってあきらの彷徨が始まり、(作中では)数日間の自問自答を経て、あきらは“鬼にはならない”という結論を出すに至りました。 受験生時代に苦労し、せっかく合格した高校にも半年以上にわたってほとんど通えなかったというあきらの苦労は、これで無駄だったことになりました。 ただ、それを全くの無駄に終わらせないために、最後に明日夢と桐矢がヒビキの弟子になれるよう奔走したわけです。 まあ、自己満足と言ってしまえばそれまでですが、自分なりにけじめをつけたという点は評価するべきでしょう。 恐らく、あきらは、憎しみを捨て去って戦う自信がなかったということなのでしょう。 憎しみに任せて戦えば破滅するということは、朱鬼が身をもって見せてくれました。 この点、画面上はあきらが朱鬼の最期を見ているシーンがないのですが、あきらの足の遅さから言って、朱鬼が自分自身を貫いているところが見えないところまで逃げていたとは思えないので、鷹羽は、あきらは自分の目で見たのだろうと考えています。 つまり、画面ではザンキと朱鬼をクローズアップする関係上、物陰から遠巻きに眺めていたあきらはオミットされてしまっていた、と。 井上脚本の悪い癖ですから、そうだったことにしておきましょう。 そうしないと、その後のあきらの話が繋がらなくなるので。 まぁ、そういうわけで、今後、あきらは猛士から完全に身を引くことになると思われます。 せいぜい明日夢や桐矢に、学校で個人的にアドバイスする程度でしょう。 もしかしたら、完全にレギュラー落ちするかもしれません。 ところで、結局、師匠として何もできなかった哀れなイブキを誰もフォローしてあげないのが、可哀想といえば可哀想ですが、鬼の師匠って、弟子の精神面は鍛えないんでしょうかね? というか、精神面の修練ってのは、鬼として一人前と認められるための必須条件ではないようにも見受けられます。 そもそも朱鬼の師匠だった鬼(当然いたはず)も、彼女に憎しみを捨てさせることができなかったわけですし。 また、37話で、初めて鬼祓いをすることになって不安を感じたイブキは、あきらの相談に乗ってやっている最中のヒビキを連れ出しました。 このとき、イブキは、あきらが悩んでいること、その悩みを解消するには自分では力不足と感じてザンキに預けるなど、“あきらが精神的にやばい”状態であることは十分承知していました。 それでも、せっかくあきらのフォローをしてくれているヒビキを自分の不安解消のために連れ去ったわけです。 イブキ自身、精神的に未熟なのは明白です。 また、トドロキが精神的に脆い、というか、弱いことは、これまで何度も画面上で語られています。 ザンキに対する依存心の強さは、最近克服しつつあるようですが、曲がりなりにも一人前の鬼と認められ、戦闘能力としては特に問題ないはずなのに、やはり心は半人前と感じます。 イブキが師匠としての力量に問題があるのは間違いありませんが、トドロキのそういった面を鍛えられなかったザンキも、実はそう大したものではないのではないでしょうか。 実のところ、鷹羽は、ザンキは精神的に弱かったために引退したのだと思っています。 なので、世間的な評価ほどザンキがすごい人だとは思っていません。 こういうと反発を招きそうですが、元々の彼の引退理由について、鷹羽は、心の弱さから、戦うことに挫けてしまったのだと思っていました。 これは画面の雰囲気から鷹羽が感じていたことに基づくので、あくまで鷹羽独自の解釈の域を出ませんが、鬼としての戦闘能力は、本人のモチベーションの高さに依存しているのではないかと思うのです。 以前、轟鬼が戦闘後に烈雷をかき鳴らしていたのも、それが本人のモチベーションを高めるための儀式だから、それに気付いたザンキが「あいつなりの鬼らしさってやつかな」と言ったのではないかと。 36話において、ザンキ引退の真の理由は、膝の古傷ではなく、胸の傷が変身の負荷に耐えられないためだという新設定が登場しましたが、それ以前は、変身そのものは特に問題なくできるはずでした。 当初、突然の引退を詫びるザンキに対し、勢地カも「こればっかりは本人の意志だから」というように答えています。 ドクターストップなら、せめて事務局長にくらいは隠す必要はないわけで(というより、猛士御用達の医者が、そんな重大なことを黙っていていいわけがない)、「本人の意志」とは関係なく(周囲には隠して)引退できたはずです。 つまり、ドクターストップという設定は、あの時点では存在しなかったわけです。 というか、胸の傷自体、朱鬼との絡みで急遽作った設定でしょうから、当たり前ですね。 鷹羽は、15話『鈍る雷』の段階で、既にザンキは自分に見切りをつけて“もう戦いたくない”と思っていたのではないかと感じていました。 サブタイトルからして「鈍る」ですし、変身前から“もう駄目だ”という雰囲気が滲んでましたし。 つまり、古傷のせいで思うように戦えないから引退したのではなく、古傷を気にして精一杯戦えない自分に見切りをつけて引退したように感じてしまったんですね。 ですから、この点が、ひたすらマイペースに鬼しているヒビキが(番組内で)強い人と評価される所以なのではないかと思ってました。 まあ、あのマイペースぶりが嫌みに感じられることも、実際嫌みとしか思えない行動をとることが多いのも事実ですが。 そういったわけで、鷹羽は、心の問題は自分自身で解決しなければならないのだと考えているので、あきらの憎しみをフォローしてやれなかったイブキにも、「憎しみを捨てられないのなら、鬼にならない方がいい」と突き放したザンキにも、特に問題は感じないのです。 あ、もちろん、そういう育成システム自体が問題だなぁとは思いますよ。 そんなんじゃ、途中で辞める弟子が多く出るでしょうし、鬼のなり手が減るのも分かります。 とはいえ、懸けるのが自分の命である以上、どうするかを決めるのも、戦う理由を決めるのも、自分自身で考えた末でなければならないという面も分からないではないわけで。 ともあれ、あきらのお陰もあって無事弟子入りできた明日夢達ですが、どうも動機はほめられたものではないように感じます。 桐矢の“死んだ父を超えるためには鬼になるしかない”というのは、どうしてほかのものでは駄目なのかという部分で論理が飛躍していて意味不明ですし、明日夢にしても、画面を見る限りでは、桐矢に対する対抗心の方が大きいように感じられます。 まあ、明日夢の場合、一応、弟子入りしようとお願いに行ったら、桐矢に先を越されていたという事情もありますから、対抗心だけでないというのは分かるんですけどね。 別に、弟子を同時に2人とってはいけないという決まりもないのでしょうし、それ自体は構わないのですが、10か月も脇でうろちょろして、たちばなでバイトをしてきた明日夢と、ポッと出の桐矢が同列で弟子になったことには、心穏やかでない視聴者も多いのではないでしょうか。 この辺の裏事情としては、このあきら離脱劇が、作劇上不要なキャラである“あきら追放劇”だったという見方もあるようです。 『響鬼』が、当初は明日夢をさっさと弟子にする予定だったという話は、高寺前プロデューサーの口から語られていますが、細かい紆余曲折を省くと、元々あきらは弟子入りした明日夢に対するライバルキャラという位置付けで登場する予定だったようです。 ところが、何らかの理由で路線変更がなされ、明日夢は弟子入りしない展開になりました。 こうなると、あきらを明日夢と絡ませることは難しくなり、あきらが鬼の姿に変身できるようになるなどの変化もつけにくく、演じる秋山奈々という役者も、演技も単調、アクションもできないこともあって、ディスクアニマルを使えるだけで身体能力は一般人レベル、とてももうすぐ変身できるレベルには見えず、設定と画面描写が乖離していました。 結局、遅ればせながら明日夢がヒビキの弟子になるという本来の展開になったわけですが、今更あきらと競わせても意味がないので、桐矢がライバル弟子としてシフトしたのでしょう。 そうなれば、ますますあきらは不必要…というわけで、今回の話になったのではないかというわけです。 信憑性は高いですし、特に反論もありませんが、少なくともあきらの離脱劇を“鬼とはなんぞや”という方向に目を向けるきっかけとして生かしてくれたことについては、鷹羽は素直に感心しています。 これで、桐矢を初登場時から、もうちょっとまともな男として描いていてくれれば、“ポッと出のくせに同列”と感じないで済んだんでしょうけど。 少なくとも、仮病で体育をさぼるような描写はしない方がよかったんじゃないかなぁ…。 いずれにしても、これからヒビキが2人をどう鍛えていくのかというのが1つの焦点になっていくものと思われます。 あきらの失敗を踏まえ、心を鍛えるのが先になるという気もしますが、2人とも簡単にものになりそうな逸材とは思えないので、苦労しそうです。 それはともかく。 あきらが鬼になることで、明日夢にいやーんな姿を見られるというラブコメ展開や、ハニーフラッシュを期待していた人は、今回のあれだけで終わってしまって残念なんでしょうねぇ…。 → NEXT COLUM |
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