見えた人・見えない人 後藤夕貴
更新日:2004年8月19日
 前回の「怪談」で記した通り、筆者は幽霊とかそういう物を直接見る事が出来ない人です。
 と言いますか、見えていないだけで「嫌げな雰囲気は感じる」人と言いましょうか。
 筆者自身、そういう怪現象を比較的信じているタイプ(正確には、まだその方面の事が科学的に解明され切っていないのではないか、という考え方)なので、見えはしないものの色々おかしな事態を経験しています。


 で、今回のお話は「見えなかったがために」というお話です。


 中一の頃の話です。
 いつものように平凡な学校生活をのほほんと送っていた訳ですが、とある午前中の授業の合間…つまり休憩時間中に、突然教室内で大騒ぎが起こりました
 授業の間の休憩時間ですから、せいぜい10分程度にしかすぎません。
 にも関わらず、あっという間に学校中に広まった大騒ぎは凄まじい事になり、その次の授業がなかなか始められないと言う事態にまで発展しました。

 いったい、何が起こったのか?!


 当時、筆者の在籍していた学年のクラスはちょっと変わった分かれ方をしておりました。
 学年毎・クラスごとに校舎が分かれているという「田舎によくあるパターン」でして、一年の教室のある校舎では全5クラス中三つが二階、残り二つがその真下の一階に位置するという環境で、二階に繋がる唯一の階段を昇った左手側に教室が三つ、右手側に窓があり、その向こうに中庭(ほとんど使用された事のないテニスコート)が広がるという構成になっていました。
 教室の窓の向こうには、中学の小さな中庭や学校全体の玄関が見え、ちょっと先にあるグラウンドまでの間には、細い砂利道と数本のポプラ並木がありました。


 そのポプラの樹の一本に、男性の顔が浮かび上がっていたんです。


 老人のような、やや横を向いているかのような…とにかく、そんなものがはっきりと浮かんでいたそうです。


 これが、大騒ぎの元でした。
 問題のポイントを広く見下ろせるという位置関係で、一年校舎の二階教室…つまり、筆者の在籍するクラスも含め、三つのクラスに多数の生徒が押しかけ、もみくちゃ状態でグラウンド手前のポプラ並木に見入ります。

 やがて…

「うわっ、本当だ!」
「すっげーはっきり見える!」
「気持ちわりい〜」
「あれって本当に霊か何かなの?」

 などという会話が飛び交いました。


 ところが、その中には

「全然みえねーよ、どこの事だ?」
「嘘ばっかり言ってるなよ」

 といった、反論も飛び出しました。


 どうも、その場に大量に集まった生徒達の何割かは、その「男性の顔」なるものがまったく見えていないようです。
 そして、当然この中に筆者も加わります。
 「見える」派の連中の話では、だいたい根元から2〜3メートル辺りの位置にある“樹のコブ(のような部分)”に重なるように、浮かび上がっているといいます。
 ところがこちら「見えない」派としては、明確にそれとわかるものが発見できず、「ひょっとしたら、樹の模様などが光の加減でそういう風に映っているだけなんじゃないかな」と思いましたが、どうもそういう雰囲気ではないようです。
 「見える」人は、人ごみを押しのけて窓際から外を見た瞬間に「あっ!」と気付くらしいのです。
 その騒ぎは、次の授業のためにやって来た教師陣によって収められてしまいましたが、次の授業が始まってしばらくしてから
「あ、消えた」
 という誰かの言葉と共に、誰の目にも映らなくなってしまいました。

 もちろん、先の休憩時間にその樹を見る事が出来なかった“興味津々な人達”は沢山おりまして、学年問わず次々に教室に押しかけてきたのですが、もう誰も「見えた」とは言わなくなりました。


 事件の話そのものはこれで終わりで、残念ながらオチも後日談も因縁話も何もなかったのですが、一つの物が「見える」「見えない」という事でこれほどの大騒ぎに発展するという場に居合わせた事がなかったため、大変印象深く覚えている出来事でした。


 で、この件を少し考えてみました。
 こういう出来事は「集団幻覚」といったコメントで言いまとめられてしまいがちですが、本当にそうなのでしょうか?

 私は、当時「樹の模様を即座に“顔”と判断した人、それが出来なかった人がいただけ」と考えておりましたが、もしもあの時、私達“見えなかった派”の人が知る事のなかった「ありえない物」が本当に存在していたとしたら…。
 不気味なのは、「もう消えてしまった」という発言が出てからも、樹そのものの様子はまったく変わっていなかった…つまり、模様はみんなが騒いでいた時となんら変わらなかったのですから。
 「それなら益々集団ヒステリーなんじゃないか?」と思われる人もいるかもしれません。
 でもそういう物の場合は、本来“見えない”人が周りの雰囲気に煽られて、目に映っていないにも関わらず「見える」と豪語するのではないかとも思うのです。
 あの現場では、半数近くの人が「見えない」と言っていたようにも感じられました。
 見えていた人達だけを指して「集団幻覚に捕われている」と言う事もできるかもしれませんが、一角に集まった人達だけでなく、別々な場所に分散した人達まで一斉に「見える」と言い切れるものなのか…?
 この辺が、筆者にとって最大の疑問だったのです。

 十数年経った今思い返してみると、「やっぱり…見える人には見えるものが浮かび出ていたんだろうなあ」とした方が、なんとなく納得できる感じがします。


 実は、それから何年も経ってから、別な事件で似たような事を経験してしまいました。


 1996(平成8)年2月10日、北海道余市町と古平町を結ぶ国道229号線にある「豊浜トンネル」にて発生した落盤事故。
 全長約70メートル・幅約50メートル・体積約11,000立方メートルにも及ぶ超巨大な岩盤によって、バスと乗用車がトンネルごと押し潰されてしまったという、大変痛ましいものでした。
 現場が海岸線道路だった事や現場の周辺環境から思うように救助作業がはかどらず、被害者家族らから早期救助要請が叫ばれ、一週間後にようやく被害者20名全員の死亡が確認されたという悲惨な結末でも有名になりました。
 筆者も、このあまりにも凄まじい出来事と、遅延しまくる現場状況にイライラしながらテレビを見ていた記憶があります。


 以下は大変不謹慎な話になってしまうかもしれないので、先にお詫びをしておきます。

 実はこの事故の救助活動が佳境に到った頃、現場上方の岩盤部分がさらに崩れ、巨大な岩山の断面部分が顔を覗かせるといった事態になったのですが、その決定的瞬間を捉えたニュース映像を見た途端、「あっ」と声を上げた人達が大勢いたと聞いています。
 いえ、実際、目の前で筆者の母親が声を上げてましたもの。

 現場の真上の岩盤から露出した断面部にはおびただしい数の「顔」があり、その最上部には、怒りの表情を浮かべた“不動明王によく似た”顔が映っていたと言います。

 これは母親から、テレビ画面を直接指差して教えてもらった事なのですが、「不動明王っぽい」というのは別にしても、あの画面で無数の人の顔を確認したという人は結構いらしたそうです。
 (この辺り、人によっては「魔王のような顔」と表現される方もいます)
 直接会って話をした別の人も、その件の事は深く認めておりまして、決して「ただ一人の人間がそう感じたわけではない」という事がわかりました。
 まあ、冷静になって考えてみても、まさかそんな岩盤の断面から顔が出てくるなんて普通は想像しないですものね。

 …ところが、やっぱり筆者にもこれは全然見えなかったのです。
 何を指して「顔」とするのか…それどころか、どこが目でどこが鼻を示しているのか、それすらも全然見当が付きません。
 いったい何がここまでの違いを生むのか…筆者はただ混乱するばかりでありました。



「きっとこれは、岩の下敷きになっている人達を早く救ってやれという、不動明王様の怒りの現れなのかもしれないよね」

 この件について、母はこう締めておりましたが、それはそれでなんとなく納得してしまうような気持ちもあったりします。


 豊浜トンネル事故の犠牲者の方々のご冥福をお祈りします…
 

 
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