評論はつらいよ!? 鷹羽飛鳥
更新日:2004年5月2日
 「やる」と予告してから10か月も経ってようやく元旦にアップした『蔵出しここ一番 おジャ魔女どれみシリーズ』ですが、お楽しみいただけましたでしょうか?

 昨年5月に『仮面ライダー555』の毎週レビューを終了させてからというもの、『習慣鷹羽』はほとんど更新していなかったので、鷹羽が執筆活動をしていなかったように見えますが、決してそうではありません。
 『どれみ』のネタの取材やら原稿書きやらで、水面下でかなりめまぐるしく動いていまして、実は8月の大阪オフ会のときには、既に第1稿が完成していたりします。
 じゃあ、どうして元旦にようやくアップしたかというと、第1稿の完成後が大変だったからです。
 今回は、その辺の裏事情について書いてみたいと思います。


 よそではどうか知りませんが、この『九拾八式工房』に掲載されているほぼ全ての原稿は、複数のスタッフによる検分という工程を経ています。

 基本的に、評論は自分が知っていることを書くわけですから、「これはマイナーなネタ」「これはメジャーなネタ」という区分は、自分で想定したものになるわけですが、幅広い年代層が読むことになるネットにおいては、自分の感覚が正しいとは限りません。
 各ライターが良かれと思って書いた内容も、そのジャンルを詳しく知らない人には理解できないものだったり、ライターが見過ごしていた或いは当然知っているはずとして書かなかった情報や内容についても、書くべきだったりする場合が多々あります。
 これらの作業は、門外漢が見た方が問題点がよく分かるということもあるため、様々な得意ジャンルを持つ全スタッフが検分に当たるのが基本となっています。
 具体的に言うと、今回の『どれみ』では、当初鷹羽はオモチャの売上云々については特段いらない情報と考えていたため、ほとんど書いていなかったのですが、“シリーズ打切の背景として、オモチャの売上不振があった”という看過できない見落としがあるとの指摘を受け、大晦日ギリギリまで修正作業に追われていました。
 
 これらの作業には、“その作品を知っている人はもちろん、知らない人でも楽しめる文章を書こう”というスタッフ一同の想いが込められています。
 この「知らない人でも楽しめる」というのは大変難しいのです。
 
 
 例を挙げましょう。
 
 以前、『仮面ライダー龍騎』の評論コーナーに、劇場版ラストの評価絡みで「終わっちゃうから、戦いは今始まる!?」という、色々な最終回のパターン分けみたいなことを書いたことがあります。
 これは、要するに『龍騎』劇場版の尻切れとんぼなエンディングについての「打ち切りマンガのラストみたいだ」という世間の評価にインスパイアされて、アニメ・トクサツなどの最終回を数パターンに分類してみようと始めた企画でした。
 いくつか最終回パターンをピックアップし、“純粋なハッピーエンド”“戦いは続くエンド”などと分類してみたのですが、あるお客さんからのアンケートに、「面白かったけど『龍騎』に関係ない話題の方が多かった」という感想が書かれていました。
 
 鷹羽としては、導入として『龍騎』を例に出しつつ、一般的な最終回論を展開し、最後に『龍騎』劇場版のラストがどういう性格のものであったかという形で締めたつもりだったのですが、その意図が伝わりきらなかったようです。
 これは、ものが『龍騎』のコーナーに載っているために“『龍騎』の文章である”という印象を与えたせいもあるのでしょうが、何よりも『龍騎』以外のネタはおまけというお客さんの思い込みによる部分が大きいのではないかと思います。
 考えてみれば、あの文章中にはアニメ・トクサツ・マンガなど色々な小ネタをそれなりにディープに散りばめてありましたので、それらを知らない人には知らない作品のことばかり書いていてつまらないと受け取られた可能性もあるわけです。
 
 
 聞くところによると、世間的には“好きなジャンルしか見ない”ために、それ以外のジャンルについては全く知らない人が多いそうです。
 こういう状況は、評論等を書く側にとっては結構ネックになります。
 立体的な考察をするためには、その作品だけでなく、作品が制作された背景事情やら同種他作品やらについてもある程度情報を持っていなくてはなりません。
 例を挙げれば、隼・ライオン・イルカがモチーフの3人組戦隊である『超獣戦隊ライブマン』を語る上では、同じスーパー戦隊シリーズの過去作品で、同様に鷲・鮫・豹をモチーフにした『太陽戦隊サンバルカン』との比較は外せない、ということです。
 もうちょっと言うと、水戸光圀という歴史上の人物を全く除外して『水戸黄門』というテレビ番組について語ることは可能ですが、除外しない方が話に深みが出ます。


 歴史的事実と違うから駄目などというわけではありませんが、歴史的事実を踏まえた上で話をしないと、論旨が破綻することすらあります。
 例えば、『一休さん』というアニメは、一休禅師本人によるとんち話だけではとても足りないため、あちこちのとんち話からネタを持ってきているわけですが、作品評として「実話ではない」と言ってみてもしょうがないんです。
 なにしろ当時、彼の名前は一休ではなかったという根本的な嘘がありますから。
 「一休」というのは、彼が悟りを開いた後の僧名であり、例えば豊臣秀吉のドラマで足軽時代から「秀吉」と呼ばせるようなものです。
 まぁ、『一休さん』の場合、“主人公の名前を知名度の高いものに統一する”という作品制作上必要な嘘だったわけですから、それをあげつらうのは酷でしょう。
 かといって、それについては全く触れずに、「このネタは○○とんち話が元だから嘘だ」と弾劾してみても、それだけでは評論としては薄っぺらいと言わざるを得ません。
 評論は、何でも知っていなければ書けないというものではありませんが、少なくともある程度の情報量がないと、感想文にしかならないのです。


 『ASTRO-BOY鉄腕アトム』の評論を書こうとした場合を考えてみましょう。
 この作品は、手塚治虫原作マンガの3度目のアニメ化ですから、作品全体評を書くためには、コミック版は元より、白黒版、カラー版といった過去のアニメ化作品との比較も避けては通れません。
 もちろん、アニメオリジナルのエピソードなども多々あるわけで、個々のエピソードに関して書くためには、必ずしも原作等を引き合いに出す必要はないでしょう。
 それでも、『地上最大のロボット』のように、原作があって過去のアニメ化の際にもそれぞれ映像化されている有名エピソードの場合、エピソードの評価を書くだけだとしても、それらに触れないわけにはいきません。
 『ASTRO-BOY鉄腕アトム』には、こういった有名エピソードも多数入っていますから、“『ASTRO-BOY鉄腕アトム』という作品”を語る際に、原作や過去作品との比較がなくては、作品論としてはほとんど意味がありません。
 もちろん、作品論としては、これが制作された時代背景、つまりアトムの誕生年を記念して作られたという部分にも触れなければなりません。
 また、多くのアニメ作品がセルアニメでなくなっている中で、セルアニメで作られている(らしい)という部分も重要です。
 ほら、段々情報量が多くなってきましたね。
 『ASTRO-BOY』を語るためには、『ASTRO-BOY』をよく見ていて詳しいというだけでは駄目なわけです。
 
 『ASTRO-BOY』についてだけ語るんだから、それだけ知っていればいいじゃないか!と思うかもしれませんが、それだと、旧作との比較をしながら視聴している人にはほとんど感銘を与えることができないでしょう。

 例えば『電光人間』で、最後に電光が死ななかったことの是非について疑問を持っている人が読んだ場合、“原作等では死んでいた”という事実がある以上“どうして殺さなかったのか、殺さないことでどういう効果が生まれたか”について評論中で言及されていなければ、納得できず、評論そのものについても「よく知らないくせに勝手なことを書いている」としか思ってくれません。

 それでは、評論としての存在意義が弱くなります。

 ましてや、「原作とは別物だ!」と力説してみても、何しろあちらが先ですから、「だったら違うキャラクターで作れ!」と反論されたらお終いです。
 「アトム」の名前で作る以上、何らかの形でアトムである必然性がなければならないからです。
 もちろん知名度や商業的効果以外に、です。

 これは原作付きのアニメやドラマの評論では常に付きまとう問題で、原作ファンの存在を考慮しない文章は、読者としてアニメやドラマのファンしか対象にできない中途半端なものになってしまう危険が高いのです。

 極端な例を挙げれば、ハリウッド版『フランダースの犬』での“ネロとパトラッシュが死なないエンディング”を見た人が「感動した」という趣旨の評論を書いたとして、名作劇場版の“死ぬ”エンディングシーンと比較していなければ、「どっちが感動的なの!?」と反論する人が続出してしまうということです。

 もちろん個人で得られる情報量には限りがありますし、文章中に反映できる情報量にも限界がありますから、完璧を求めるのは不可能ですし、どこかで線を引くことも必要でしょう。
 それでも、やはり、読者をある程度納得させる評論を書くために最低限求められる情報量というのはあるわけです。


 以前、この『九拾八式工房』でゲームレビューのライターを募集した際、ゲーム一辺倒でなくほかのジャンルの話もできる人が望ましい旨書いていたのは、そのような理由からです。


 まぁ、鷹羽もバラエティは全く見ませんし、アニメでもスポコン物はほとんど見ていなかったりするので、あまり偉そうなことは言えた義理じゃありませんが、例えば同じ「ヒーロー物」というジャンルに限っても、トクサツは見るがアニメは見ないという人も多いらしいんですね。
 そうすると、

  『鳥人戦隊ジェットマン』のイカロスハーケンは『科学忍者隊ガッチャマンF』のガッチャスパルタンに似ている

という説明が成立しなかったりするわけです。
 
 鷹羽の場合、似た例を挙げて「…という具合で…」と繋げることが多いですが、こちらがメジャーだろうと思っている話が実はマイナーだったりすると、例として挙げた意味がなくなってしまいます。
 前述の『ジェットマン』と『ガッチャマン』については、実際に『スーパー戦隊の秘密基地』で使っていますが、これについても指摘こそ来ていないものの、ガッチャスパルタンを知らない人には意味不明の文章のはずです。
 
 
 ここに、さらにジェネレーションギャップが絡むと問題は複雑化します。
 世代などによって、ある番組を見ていた人とそうでない人に分かれてしまうこともあるからです。
 ある年代にとって非常にメジャーな話題が、別の年代の人にとっては全くマイナーな話題になる、ということがありうるのです。
 
 
 以前、鷹羽の職場の上司Oさん(40代男性)が、花粉症用のマスクをしているM君(30代男性)に向かって「キャシャーンみたいだね」とからかったところ、M君は「キャシャーンって何ですか?」と聞き返しました。
 そこで、Oさんが『新造人間キャシャーン』について「『ガッチャマン』の次のタツノコプロのアニメで…」と説明したところ、隣で聞いていたN君(20代男性)が「ああ! 『ガッチャマン』見てました! オモチャも持ってましたよ」と言い出しました。

 …はて? 『ガッチャマン』の本放送は昭和47〜49年のはず。
 再放送もしょっちゅうしているから、20代のN君が見ていても不思議はないけれど、オモチャを持っていた?

 不思議に思った鷹羽は、N君に「まさかそのオモチャ、白と赤のゴッドフェニックスだったりしないよね?」と聞いてみました。
 「白と赤のゴッドフェニックス」というのは、昭和53年放送の『科学忍者隊ガッチャマンII』に登場していたメカ:ニューゴッドフェニックスです。
 これならN君が見ていてもおかしくありません。
 ところが、N君の答は、「なんか宇宙船みたいな形のやつでした」というもの。

 それってもしかして…。

 恐る恐る「それって、三角の飛行機で上に健が剣持って立ってるやつ?」と聞いてみると、「そうですよ」とN君。
 すると、Oさんが「何だ、それ〜!?」と叫びました。

 そう、Oさんは、世代的に『ガッチャマン』は知っているけれど、『科学忍者隊ガッチャマンF』(昭和54年放送開始)は知らなかったのです。
 ちなみに、すぐ脇に机がある同僚のKさん(30代女性)は、全く話についてこられませんでした。
 こんな例はきっとどんな分野の話でも起きる話でしょう。
 「亜麻色の髪の乙女」にしても、カバー曲だと知らない人がいたようですし。
 
 
 こういった事情から、説明のつもりで挙げた例のはずがそれを説明しなければならないことなどもあります。
 この『気分屋な記聞』で大晦日に掲載したマッドギャランの文章の時には、タイガージョーやブラックビートなどを例に出しましたが、実は、鷹羽は当初彼らについては名前だけしか出していませんでした。
 ところが書き上がった草稿を検分に出したら、「それは知らない人が多いだろう」という指摘を受けたため、完成稿では組織の説明などをかなり足してあります。
 こうして文章量は増加の一途を辿る、と(笑)。


 言い訳になりますが、『九拾八式工房』では、こういった検分作業に短いものでも1〜2週間掛けているため、文章のアップが遅くなってしまうのです。
 ことに『習慣鷹羽』のように長文の評論となると、情報収集と執筆そのものの時間もさることながら、検分に掛かる時間やその後の修正に掛かる時間もべらぼうなものとなってしまい、原稿執筆を始めてからアップまでにかなりの時間を要します。
 『蔵出しここ一番 おジャ魔女どれみシリーズ』でも、クリスマス前ころに前述の指摘が入ってしまい、文章構成を大幅に変えていたりします。
 それもこれも、楽しんでもらえる文章を書きたいがため。
 書いていて楽しくないのは論外ですが、読んだ人がつまらないと思うようでは、書いただけもったいないですからね。


 『習慣鷹羽』の更新頻度が特に遅いのは、そういった理由であり、決してさぼっているわけではありませんので、どうか長い目で見てやってください。


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