久遠の絆 プレイステーション版
 
 1,000年にわたって繰り返される、出会いと別れの果てに見るものは…?
 
1.メーカー名:F・O・G
2.ジャンル:ADV
3.ストーリー完成度:A
4.H度:C(おいおい、プレステだろ?)
5.オススメ度:A
6.攻略難易度:D
7.その他:文章はモロにネタ晴らしです。
 知りたくなければ、これ以上読まないで下さい。
 
(ストーリー)
 主人公・御門武(みかどたける:変更可)は高校2年生。
 父の仕事などの関係で親戚の斎(いつき)家に居候し、平凡な生活をしていた…表面上は。
 夜毎に見る悪夢、そして、その悪夢で見た情景が現実となっているかのような連続白骨通り魔事件。
 謎の美少女転校生・高原万葉(まよう)…。
 武の近辺で起こる不可思議な事件…それらは全て平安時代、時の天皇に神剣『天叢雲剣』を渡すはずだった“御剣の使者”螢(万葉の前世)と阿部鷹久(武の前世)の恋によって、武が叢雲を手にしてしまったことに端を発した、輪廻の旅路の果ての物語だった…。
 
 12月初旬。
 「九拾八式CD-ROM」制作のために鷹羽のアパートを訪れた後藤氏が「飛鳥ちゃん、これ貸したげるからやってごらんよ。凄えよ、『痕』超えてるって!」なんて言葉と共に、置いて行った1本のプレステソフト。
 年末で忙しかった鷹羽は、年末年始にようやくプレイできたのだった…。
 
 はっきり言って、出来は相当いい。
 タイトルどおり、輪廻転生とその度に交わされる愛憎の物語としてはかなり評価できる。というより、この手のネタでこれ以上の完成度を誇る物は、ちょっとないと思う。
 更に、容赦なく大人向けと言うか相手を選ぶ作りになっている。
 やってみればすぐに分かる、古事記などの日本神話を元ネタにした舞台設定や用語の数々、プレステとは思えない性表現など、かなり大人向けを意識した作りだ。
 「所為」と書いて「せい」と読ませたり、神をちゃんと「柱」で数えたり、「主上(おかみ:天皇のこと)」、「契り」なんて言葉を使ったり、ネタ的にも「天津神と国津神の戦い」だったりと、ある程度の知識を要求してくることも大人向けの証なのかな、なんて思う。
 何てったって、エンディングテロップで流れる時代設定の数字が皇紀だよ、皇紀! 今時わざわざこんな言い方するなんて!
 
 さてこのゲームでは、現代に生きる武の生活を中心に、何らかのきっかけで目覚める武の前世の記憶という形で、平安編・元禄編・幕末編の3つの時代を描き、それぞれの時代で、互いにそれとは知らないまま巡り会い、愛し、憎み、新たな縁を結んでいくキャラ達を描く。
 それがまた、彼らの次代の業となっていくのだ。
 そういう観点と、巧みに時代背景と組み合わされた元ネタなんかを考えながら、各時代編を見てみよう。
 
(平安編)
 千年にも及ぶこの物語の出発点である、武と万葉の前世である鷹久と螢の出会いと恋、太祖復活を目論む土蜘蛛の一族、土蜘蛛の闇の皇子である鷹久の秘めた力、鷹久が手にしてしまった神剣“叢雲”といった基本設定を描き、以後のストーリーへの伏線と説明の役を担っている。
 竹取物語をベースとし、螢をかぐや姫(竹取の姫)になぞらえることで、かぐや姫が並みいる貴族の求愛を蹴散らしていたことを巧く利用し、時の天皇に叢雲を渡すために下ってきた螢の存在を無理なく描いている。
 あの時代、他の方法では決して天皇になど近づけないのだから。
 螢の目的は、正当なる現人神の後継者である時の主上に会い、契り、叢雲を与えることで神としての力を失いかけた天皇家の力を再び甦らせ、この世の“暗き想念”を浄化させることにあったのだから。
 もう1つ、敵方として現れる魔獣がであり、羅城門の炎上を絡めた物語にしたのもポイント高い。
 役行者の話も出てるし、平安時代のビッグイベントって言うと、あと大百足と酒呑童子が出てないくらいじゃない?
 螢が鷹久を愛し、叢雲まで与えてしまったことがこの輪廻地獄の始まりだったわけだが、勘のいい人には、娘の名前を付ける時のデフォルトネームが『薙』だったことで、オチがモロバレ。
 だって、“天叢雲=草薙の剣”でしょ?
 
(元禄編)
 剣術道場に通う真之介(武)と吉原の芸妓である(万葉)、剣術道場の師範の娘菊乃(栞)、劉也(杵築悠利)との人間模様に吉原炎上を絡めた物語だが、全編通して敵役である劉也(悠利)が、このシナリオでだけ真之介の親友として登場するのは見逃せない。
 最終的に真之介と戦うことにはなるが、あくまで菊乃への愛を利用され操られた結果であって、私怨の故ではない。
 真之介が大会へ出る目的が、綾を身請けする金目当てか、剣を極めたと言うための箔付けかであって、菊乃に対する恋愛感情故でないところに割り切れないものを感じるが、妙に欲のない真之介の性格を考えると、そんなこと深く考えたことないんだろうなという気がしないでもない。
 このシナリオは、戦闘的でも神秘的でもない菊乃(栞)編なので、平安編で鷹久に引き裂かれた鵺の個人的な復讐として描かれ、太祖やら土蜘蛛の出番もなく、輪廻のこと、前世での罪に対する罰を甘んじて受ける綾の覚悟などの設定を説明することに力を尽くしている感がある。
 ちなみに、真之介が綾の水揚げをするかしないかで、綾ルートと菊乃ルートに分かれるが、綾ルートでは菊乃は死なないので、その後どうなったのか興味のあるところだ。
 また綾ルートでないと、綾と2人で花火を見ながらの会話の内容が、現代編での回想シーンのものと違うという矛盾が生じたり、どうということのない小さな寺の仁王像の持っている剣が何故か叢雲だったりと、問題も多い。
 ところで、秋葉道場の師範・秋葉石洲斎が、さりげに汰一の前世だったりしたのには驚いた。
 エンディング見るまで分からんかったよ。
 
(幕末編)
 新撰組や沖田総司を絡めて、魔物など普通の人には見えない物が見える信吾(武)が、切人(悠利)や観樹(沙夜)に狙われる(万葉)を守る物語。
 澪が、薬で霊力を強化され、呪術から幕府を守る結界の部品的役割を負わされていること、澪自身が、それを螢の犯した罪に対する罰として甘んじて受けていること、土蜘蛛の力を持つために人の世界では生きていけず、切人に従うしかない観樹、澪への想いを募らせ、信吾への嫉妬に燃える大騎、切人が太祖降ろしの儀式を行う土蜘蛛の社、砕けてしまった叢雲など、現代編ラストへの伏線がほぼ出揃う。
 今回は、切人の行動原理が桐子を輪廻地獄から救うためという愛であり、彼に前世の記憶があることが明確に示されている。
 彼は、この時代の桐子である鈴のことは知らず、どこかに転生しているであろう桐子を救うために躍起になっている。
 切人は“敵側の論理”とでもいうべき、彼なりの正義のために動いているのだ。
 一方、観樹に対しては桐子を救うための道具としてしか見ておらず、犠牲にして当然という態度がはっきりしている。
 “自分達さえ良ければ”という風にも見えるが、神のすることに対して“多くは望まないから、せめて桐子だけでも”という態度とも言え、彼なりの必死さが滲み出ている。
 信吾に渡すまいと澪を殺す大騎と言い、盲目的な愛の形を描いているようだ。
 対して信吾は、澪ルートにせよ観樹ルートにせよ、徹頭徹尾観樹を救おうとしている。
 信吾が観樹を救おうとするのは、恋愛感情からのことではないのだ。
 観樹が初めて与えられた無償の愛。
 このことが、観樹にとっての信吾に対する絶対的な信頼を生んだ。
 現代編において、沙夜が武に対して抱いている信頼は、主にこの時培われたものだろう。
 だからこそ沙夜EDでは、沙夜は奈落に落ちそうな万葉をその身を賭して救おうとしたのだ。
 それにしても、いかに沖田が強いとは言え、たかが日本刀に折られてしまう叢雲には、何か納得いかないものを感じてしまう。
 あと、結局鏡は使われなかったのね…。
 
(現代編)
 この物語は、その時々に甦る平安・元禄・幕末の3時代に生きた、武の前世の記憶を交えて進んでいく形を取っている。
 武はそれら前世の記憶を取り戻すたびに、その当時の力を手に入れ、最終的には印を撃ち、念を放ち、剣術の天才になる。
 また、これまで説明されてきた土蜘蛛・太祖復活・闇の皇子・砕けた叢雲の行方などに決着が付けられるが、修学旅行までの段階で、武の好意が誰に一番向けられているかによって、万葉、栞、沙夜の3ルートに分岐することになる。
 
 万葉EDでは、新たな神となって闇の皇子の力と決別できた武が、叢雲の力と万葉らの協力で太祖を封じ、1人1人が自らの力で“暗き想念”を制御できるだけの存在となることで、土蜘蛛も含めた全ての人が共存できる世界を築くことを誓う。
 
 栞EDでは、叢雲を天に返し、栞の“魂鎮めの力”で太祖を封じ、武自身の闇の皇子の力は、恐らく栞の力により眠ったままとなるだろうことを暗示しつつ終わる。
 
 沙夜EDでは、太祖を封じるための戦いで、それぞれ闇の皇子としての力、土蜘蛛一族としての力の全てを太祖に吸い取られた武と沙夜が、ようやく普通の人間としての生活を送れるようになる。
 
 というわけで、3回の転生を繰り返しながら、悲しい別れを繰り返さざるを得ない武達の恋模様なのだが、何故、彼らは揃いも揃って同じ時代に転生し、出会い続けるのだろうか。
 その理由については、それぞれが自分なりの答を見出している。
 万葉は、螢が犯した“世界のことより自分の恋愛を優先してしまった罪”の罰として、過酷な生涯を生きることを義務付けられたのだと考え、苦しみを甘んじて受けていたわけだし、栞は“鷹久と共に生きたい”という自らの願いから、同じ時代に転生しているのだと思っていた。
 一方、悠利は“螢と鷹久に課せられた罰のついでに、関係者である自分や桐子が巻き込まれて転生している”のであって、万葉と武を転生できなくすれば、自分たちも輪廻地獄から解放されると考えていた。
 ただし、これらはあくまで彼ら独自の考えに過ぎず、本当にそうであるとは限らない。
 何しろ、悠利が輪廻地獄から解放しようとしている当の栞は、自ら望んで転生しているつもりなのだ。
 真剣に頑張っている悠利には申し訳ないが、とんだ茶番だ。
 
 このように、各キャラクターの思惑が必ずしもいい方に回っていないこともこのゲームの特徴だ。
 より正確に言うと、“各キャラは自分の考えに基づいて行動するが、その考えが正しいとは限らない”ということだ。
 例えば道綱は、叢雲を太祖が作った霊剣だと考え、太祖復活に役立てようとしていたが、それは神話の中のことで、本当は神が天皇家に与えた剣であり、太祖ら“まつろわぬ神々”を封印するのに使われた剣なのだから、太祖復活の役になど立つわけがない。
 事実、叢雲は闇の皇子の力に目覚めた鷹久や真之介に使われることを拒否している。
 また万葉は、執拗に武に叢雲の主として神になるよう勧めているが、それは世界のためではなく、罪を許され武と共にいられるようになるための最良の策だと考えたからだ。
 結果的に世界のためにはなるが、あくまで自分の恋愛を成就させるための方便に過ぎない。
 綾も澪も従容として運命を受け入れていたが、万葉は、太祖復活の危機が迫っていることや、勝ち気なその性格などから積極策に転じたようだ。
 まぁ、だからって責める気は更々ないけど。
 結局は、世のため人のためになるわけだし。
 
 さて、それではと栞ED&沙夜EDを見てみると、問題が山と残されていることが分かる。
 確かに、太祖は再度封印することができた。
 だが、元々螢がこの世界に降りてきた(転生した)理由は、選ばれた英雄の末裔たる当時の天皇に叢雲を与え、“暗き想念の浄化”を行わせることにあった。
 万葉編で石舞台に行った時に万葉が説明している通り、そうしないと“まつろわぬ神々”が復活し、世界が崩壊する恐れがあったからだ。
 太祖は確かにずば抜けて強力な存在ではあったが、万葉EDのテロップを見れば分かるとおり『八岐大蛇』で、“まつろわぬ神々”の中の1体に過ぎないのであり、太祖を封印したからと言って、世界の危機は去りはしない。
 元々土蜘蛛の一族とて“まつろわぬ神々”の中の一氏族であり、太祖と関係のある一族というわけではないのだ。
 そもそも螢の罪は“叢雲を正当な資格者に渡さなかったこと”であって、栞EDのように叢雲を天に返したところで、螢の罪は消えはしない。
 そして、太祖の再封印によって京都近辺の暗き想念は消滅したにせよ、世界中に漂う想念は未だ健在だし、人間がいる限り増え続ける。
 いずれ新たな危機が訪れるのは確実なのに、それを防ぐ手だてはない。
 万葉編では、万葉自身が武に対し、禊ぎをする神となることを求めている。
 それなのに沙夜EDでは、武は全ての能力を失った上、万葉も叢雲も行方不明、栞EDに至っては、叢雲は地上から失われているのだ。
 また、非日常の問題が一応の解決を見たからと言って、今度は日常的な問題が発生する。
 修学旅行先から行方不明になったままの悠利、結界の消滅により誰にでも見えるようになってしまった土蜘蛛の社の残骸、その残骸の下敷きの幹久の死体、幹久が修学旅行先から消えた前後にアリバイのない武達など、手近な問題もあるのだ。
 それらに目をつぶって、めでたしめでたしでいいのか? 
 などと考えていると、やっぱり万葉EDを見た時感じた危惧は正しかったのだと思わざるを得ない。
 実は、鷹羽が最初に見たのは万葉EDだったんだけど、天の御方様(天照)の「我が事なれり」という言葉に「おい、ちょっと待て」とか思ったのだ。
 そしてこの時感じた危惧は、どうやら正しかったようだ。
 万葉EDでは、万葉は太祖との戦いで死に、なんと死体ごと消滅してしまう
 そして、武が皇命の前で発した詔の内容次第では、万葉はそれっきりだ
 『まつろわぬ神々や土蜘蛛を討ち滅ぼす』ことを宣言すると、万葉を復活させるチャンスは与えられないのだ。
 また、黄泉の国で本当の万葉を選ばなければならないのだが、本物の万葉は、こういう場合のお約束でミイラのような『よくもまあ、美形のヒロインをこんな風に』と思う姿だ。
 ちなみに、『一緒に帰ろう』という質問を選ぶと、『神も国もどうでもいいから、武と一緒にいたい』という万葉の本音を垣間見ることができる。
 ここからは鷹羽の想像になるが、この輪廻転生の本当の理由は、“暗き想念の浄化を自身で行えるほどに人を成長させる”ということだったのではないか。
 つまり螢も含め、全員に勘違いをさせたまま物語が進行していたということだ。
 螢が地上に転生した真の目的は、『鷹久に叢雲を渡すこと』だった。
 闇の皇子たる鷹久に、使いこなせないはずの神剣叢雲を持たせ“まつろわぬ神々”である土蜘蛛と対峙させ、心の成長を促す。
 失敗したら、少々舞台を変えて前回の経験も合わせて成長させる。
 こうして経験値を稼がせた結果、ついに武は闇の皇子の力を克服し、“まつろわぬ神々”すらも認容し、外見に惑わされることなく本質を見極める力を持った心広き神となった。
 そして『全ての人を神とする』、つまり、神が人々を代表して禊ぎを行うのではなく、全ての人が自分の力で想念を浄化するほどの存在になるという決意表明(本当は命令なのだが)を行わせることに成功した。
 そう考えると、揃いも揃って同じ場所、同じ時代に転生していることも納得がいく。
 恐らく事件の原動力となる幹久(道綱)や切人(光栄)、そしてその対抗力となる綾・澪・万葉には、最初から前世の記憶を与え、ほかの者は、それらとの接触の中で記憶を取り戻すように仕組んでいるのだろう。
 また、皇命(すめらみこと:天皇のこと)は『2人の女の裏切り』と言っており、本来叢雲は螢が誰と契ろうが関係なく、正当な主のためにしか力を振るわないだろうことを匂わせている。
 また螢と面識があるらしく、もしかすると先代の叢雲も、螢が運んだのではないかと思われる。
 そして叢雲は、鷹久の時には、闇の皇子の力に反発するだけだったのに、真之介には力の使い方をアドバイスしており、徐々に主として認めていったのではないかと思われる。
 もし万葉が鷹久と契ったことで、鷹久に叢雲の主としての資格が与えられるのだとしたら、螢が主上に叢雲を与えても、主上は使いこなせない可能性が出てくる。
 しかし、万葉はあくまで主上が叢雲の主だと考えていた。
 このことからも、叢雲は最初から万葉の体内に納められており、万葉は、その神格に『薙』という名を与えて自分の子になぞらえただけだと考えた方が良さそうだ。
 もっとも、この時点で鷹久が叢雲の主になりうる可能性が生まれているのも、また確かなのだが。
 そう考えると、沙夜EDと栞EDは、あくまでイレギュラーな結果であって、御方様の狙いとは違う方向性に話が進んでしまった結果と言える。
 てことは、御方様はまた新しい手駒を見繕って、人の進化を促すことを始めるというわけだ。
 今すぐ滅ぶと言うほどのことではないし、当面の問題は去っているし。
 いずれにしろこの考えに従えば、彼らは必死に自分の人生を生きていたにもかかわらず、御方様の手の平の上で踊っていただけなのね。
 それって、一歩間違えるとジュウレン…
 
 
(総評)
 このゲーム、日本神話などをベースにしているわけだが、巧く使っている。
 現人神の一族としての天皇家の力を、「あなたの知っている神話と違って当然」と前置きした上で、地上の浄化のため与えられた力と定義している。
 また、万葉は「もとより真名は明かせませんが」ということを言っているが、これは東洋呪術の知識がなければ書けないことだ。
 東洋呪術では、相手の名前を知ることは、その相手を支配することに繋がる。
 相手を呪い殺すには、相手の名前を知らなければならない。
 そのため、身分のある人は本当の名(真名)を隠し、呼び名を持っているのが常だった。
 中国で言うところの字名(あざな)というのも、そのためのものだ。
 恐らく万葉の(天界人としての)真名は『螢』だと思うが、本編全体を見ても、彼女を『螢』と呼ぶのは鷹久と皇命だけで、彼女が鷹久に名を教えたことの意味の大きさが窺える。
 ここで叢雲の話に戻すと、螢が鷹久の目の前で『薙』と名付けたことにより、鷹久は『薙』の名を呼ぶことで、叢雲を支配することができるのだ。
 だからこそ、叢雲の人間体である天野先輩は、自分の名前を思い出して欲しいと言っていたのだ。
 普通の人はそこまで考えてプレイしないんじゃないかと思うが、それでもそこまで作ってくれたことには、感心してしまう。
 ちなみに、皇命が武に与えた『鴛鴦命(えんおうのみこと)』という神としての名だが、『鴛』も『鴦』も“おしどり”の意味で、要するに「大変夫婦仲のよろしい神」ということだ。
 また、この物語の根幹は“天津神と国津神の戦い”であり、土蜘蛛一族は本来、国津神の一氏族、即ち神様だったりする。
 キリスト教的一神教と違い、日本の神様は人間とさほど変わらない存在であり、病気にもなるし死にもするのだ。
 土蜘蛛一族を、一種の祟り神と考えてみるとわかりやすい。
 生け贄を要求し、下手に逆らうと超常的な力で命を奪われる。
 そこで暮らす人々には直接御利益はないけれど、祟りを起こされない分には平穏な生活が約束される。
 また、よその連中が攻め込んでくれば、神様は自分に生け贄を捧げてくれる民や領土を守るために、敵を蹴散らしてくれたりもするのだ。
 そう考えると、納得できるでしょ?
 だから、土蜘蛛一族は、本当に自分達の正当な権利を主張しているだけなのだ。
 ただ、自分達だけでは力が足りないから、太祖というより大きな力を持った神の力に頼ろうとしているだけのノンマルトな展開なのだ。
 一方、天津神の方でも、自分達が侵略者であるという後ろめたさがあるから、土蜘蛛ら国津神を平穏に住まわせてやりたいとも思うわけだ。
 だからこそ、このような手の込んだ方法で“みんな仲良く暮らしましょう”な世界を作ろうとしたのだろう。
 思想背景まで考えられた、実によくできた物語だ。
 
 さて、そういうわけで鷹羽の好みはともかく、物語としては大変に高い完成度を誇るこの『久遠の絆』だが、システム的には結構問題もある。
 1つには、後藤氏も書いているとおりセーブポイントが3つしかないこと
 ゲーム中の選択肢のことはもとより、終了後にまた見たい場所からスタートさせることができないのは辛い。
 2つ目は、メッセージスキップが使いにくいこと
 3倍速くらいで早送りしてくれはするが、効果音などもきっちり再生するので、結構遅くイライラする。
 3つ目は、効果音や効果ビジュアル(剣閃とか)が安っぽい
 特に女性の悲鳴が安っぽく、どんな場面でも「ヒャァ〜ッ」て感じの声なので、感情移入を妨げられることこの上ない。
 また、唐竹に斬っても逆袈裟に斬っても剣閃が横だったり、沖田の三段突きまで横斬りだったのにはまいった。
 最大の欠点は、文章上の矛盾の多さだ。
 このゲームのウリであるE'sリアクションシステムは、選択肢のどれを選ぶかで、武(鷹久、真之介、信吾)の好意がどのヒロインに向けられたかのポイントを貯め、一番多く貯まっているヒロインのルートに進むシステムだ。
 ただ最終的なルートの決定は、第3章の幕末編終了後からと言っていいと思う。
 そこまでは、大どんでん返しでヒロインを変えることができる可能性がある。
 そのため、途中経過ではどのどのルートに移ってもいいように、大筋が変わらない。
 そのせいか、細かい矛盾がいくつも発生してしまった。
 例えば、第2章で元禄編終了後、栞を人質にした吉川絵理に対して印を撃てず、念も放てない状態になる。
 この展開は、途中経過がどういうものであっても共通なのだが、元禄編を菊乃ルートで終了していると、念の放ち方は覚えていない。
 つまり、知りもしないものを『使うわけにはいかない』などと悩んでいるわけで、ナンセンスもいいところだ。
 また栞ルートでは、修学旅行中ずっと高杉と一緒に行動していた悠利が、何の説明もなく、いなくなったことにされてしまう。
 あれは、どう考えても万葉ルートなどで捨て台詞と共に姿を消した話の続きだ。
 また平安編で、螢のいる森に桐子を連れていくと、時々会話中から桐子の存在が消えてしまう
 口を挟まないのではなく、本当に場面にいない状態なのだ。
 これらは、まあシナリ上のミスだからいいが、システム自体にも問題がある。
 前述のとおり、元禄編で綾のルートに行かないと、花火を見ながらの綾との会話が、現代編での記憶と違うことになる。
 花火を見ながら会話するという行動自体は、どっちのルートにもあるのに、だ。
 この理由は綾ルートと菊乃ルートで、綾の設定自体が変わっているせいだ。
 綾ルートでは、綾は自身の前世の記憶があるのに、菊乃ルートでは、綾は前世の記憶が甦っていない。
 この違いはどこから生じているのか?
 勿論ルートが違うからなのだが、ではそのルートの違いは…と言うと、なんと武の好感度のみによって分岐しているのだ。
 もっと言うと、この分岐は武(この時代では真之介)が綾の水揚げをするかどうかで決まる。
 つまり、真之介に水揚げをしてもらえるかどうかで、綾の生い立ち自体が変化してしまう
 真之介に会う以前のことが、だ。
 同じようなことは、第3章冒頭の汰一との会話にもあって、武の気になる女性が万葉かどうかだけで、汰一の好きな人も変化する。
 全く同じデータを使っても、つまり、それまでの経緯が全く同じでも、武が栞を好きだと言えば汰一の好きな人は絵理になり、武が万葉を好きだと言えば、汰一の好きな人も万葉になってしまうのだ
 え〜い、もっと自主性を持たんかい!
 これは、普通のマルチED物では、相手の好感度によってイベントが起きるのを、主人公の好感度によって起きるようにした弊害だ。
 とは言え、通常鷹羽はここまで言及することはしない
 これはあくまで結果論であり、気にしない人は気にしないレベルの物だからだ。
 だが、全体の出来がいいだけに細かいミスが気に掛かる。
 また、御方様の手の平の上で踊らされていた物語だろうと思うと、ますます本人達の考えはしっかりしていて欲しいのだ。
 とりあえず、後藤氏が「痕を超えた」と言った気持ちはよくわかった。
 全体的なバランスと自由度は、確かに『痕』より上だと思う。
 ただ、元々『痕』とはタイプの違うシナリオだから、結局のところ、好き嫌いの問題でしかないね。
 みんなが“輪廻地獄から抜け出そう”としていることそれ自体が、高みにいる御方様の計画どおりってんじゃ、ちょっと浮かばれないかな〜、なんて思うわけ。
 特に、結局死んでしまう悠利と、その帰りを待ち続けることになる高杉が。
 絵理は、ねぇ…確かに可哀想ではあったけど、失恋したからって悪魔召還しちゃうような娘だからねぇ…
 一応自分の蒔いた種ってことで。
 
(鷹羽飛鳥)

 
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