『どれみと魔女をやめた魔女』
(ストーリー)

 ある日、遠回りをして帰ろうとしたどれみは、魔女の佐倉未来(さくら・みらい)と出会った。
 未来は、ガラス細工を作っており、魔法は使わないことにしているのだという。
 魔法のような未来の手さばきの中で生み出されていくガラス製品を見て彼女に憧れたどれみは、自分でもやらせてもらえることになったが、同時に2つのことができないために上手く作れない。
 
 未来は、町を案内してくれたどれみに、お礼としてビー玉を渡し、
 
ガラスってね、冷えて固まっているように見えて、本当はゆっくり動いているのよ
この海の水みたいにね
ただし、何十年も、何百年も、何千年も掛けて、少しずつゆっくりと
あんまりゆっくりで、人間の目には止まっているようにしか見えないだけ
でも、何千年も生きる魔女は、ガラスが動いているのを見ることができる
いずれ、私もそれを見る
 
と、遠くを見るような目で語る。
 
 
 翌日も未来の家に行ったどれみは、未来の持っている沢山の写真を見付ける。
 そこには未来が初めてガラス作りを習った人などが写っていた。
 その中にあった若い男とのツーショット写真を指して、未来は
 
  この人は、2日しか一緒にいなかったけど、ちょっと好きになりかけた人
  でも、やめた
  私、年上好みなの

 
と懐かしげに言う。
 未来は、世界中を引っ越して歩いては、それぞれの土地で知り合った友人などと写真を撮っており、どれみとも記念写真を撮ろうとする。
 
 そして、どれみの「どうしてすぐ引っ越しちゃうの?」という問いに
 
  同じ人間といると、色々不都合があるからよ
  だって、あなたもこれから魔女になるなら…

 
と言いかけて、「ここもいつか引っ越しちゃうの?」と寂しげな顔をするどれみをくすぐって無理矢理笑わせ、その様子を写真に残した。
 
 
 更に翌日、どれみは再びガラス細工に挑戦し、せっかく形になりそうなところまで行ったのに、皿にするかグラスにするかで迷っている間に形が崩れてしまった。
 
 はづきやあいこ達がそれぞれ得意なものを持っているのに対し、自分だけが将来に何も見えないと言うどれみに、未来は
 
  見えなくていいじゃん
 
と優しく微笑む。
 そしてその後、ようやくどれみはグラスを作り上げた。
 
 
 後は1日掛けて冷ますだけになって、未来は、どれみに
 
  明日、必ず来て
  明後日じゃ駄目。明日

 
と言う。
 
 未来は、どれみに1通のエアメールを見せながら、その差出人について
 
  彼、もうすぐ90になるんだけどね
  彼にガラスを教えたの、実はあたしなんだ
  彼がまだあたしより年下に見えたころの話
  それが今では、あたしよりもずっと年上になっちゃった

 
と話す。
 
 それは、この前見た写真の若い男のことで、男はガラスの勉強のためにベネツィアに来ないかと未来を誘ってきたのだった。
 
 そして、未来は
 
  彼は今、あたしのことを昔好きになった女(ひと)の娘や孫だと信じてる
  だからあたしも、彼が昔好きになった女の娘や孫を演じ続ける
  魔女には、こんな生き方もあるのよ
  分かる?

 
と続け、「分かんない」と答えるどれみに、
 
  あなたは人間で、まだ魔女見習い
  魔女の世界を知っているようで、実はガラス越しにしか見ていないようなものなの
  でも、もし、その先を見てみたいなら、あたしと一緒にベネツィアに来る?
  どれみ、あたしと一緒に来る?

 
と、一緒にベネツィアに行く気があるか尋ねてきた。
 
 
 散々悩んだどれみは、翌日の放課後、未来の工房へと走る。
 「未来さん! あたし来たよ!!」と庭に駆け込んだどれみの目の前には、閉ざされた扉とどれみが作ったグラス、この前撮った写真、そして
 
  ごめんね。またどこかで会いましょう。  未来
 
というメモだけが残されていた。
 

 
(ここがポイント)

 このエピソードは、シリーズ中でも非常に特異なものになっている。
 
 視覚的にも、随所にガラス越しの風景や人物が描かれるという凝った演出になっているのだが、何より特徴的なのは、本文の方で書いたとおり、この回では、誰1人魔法を使わないし、どれみ達が変身すらしないことだ。
 
 どれみ達が魔法を使わない話としては、『#』22話『魔法使いのワナ 帰ってきたオヤジーデ!』や『も〜っと!』28話『魔女幼稚園危機いっぱつ!』、『ドッカ〜ン!』35話『四級試験はのろろろろ〜?』の3回があるが、いずれの回も、どれみ達は魔法を使わないものの、オヤジーデやハナ達は使っているわけで、本当に誰1人魔法を使わないわけではない。
 
 こう言えば、この話がいかに特殊か分かってもらえるだろう。
 魔法を軸にしているはずの物語にあって、魔法が全く絡まない話というのは、相当に特異なのだ。
 
 
 また、登場人物も偏っており、ほとんどどれみと未来だけしか登場しない。
 
 はづき達ほかの魔女見習いは、はづき&あいこ、ハナ、おんぷ&ももこがそれぞれ50秒程度、ぽっぷが1分程度しか登場しないし、マジョリカが画面に登場している時間など僅か3秒に過ぎない。
 その分どれみと未来の描写に時間が注ぎ込まれているわけで、その濃度は目を見張るものがある。
 
 しかも、未来を演じているのは、なんと原田知世氏だったりする。
 原田氏は、今ではブレンディのCMの女性と言った方がしっくりくるかもしれないが、かつては角川映画『時を駆ける少女』で主演し、一世を風靡した女優だ。
 “時間”をテーマとした映画で主演した彼女にこの役を振ったのがわざとなのかどうかは分からないが、彼女の淡々とした語り口は、未来のキャラクターを上品なものにしており、このエピソードの魅力の1つとなっていることは疑いない。
 未来のどれみに対する接し方も非常に柔らかく、「ステーキ焼くの得意なんだ?」「ううん、食べるのが好きなだけ」「…」という会話以外では、どれみ相手に面食らうこともしない。
 
 
 ただし、このエピソードが完全無欠かと言えば、決してそんなことはない。
 たとえば、前述のとおり、はづき達はほとんど登場しないわけだが、そこには演出上以外の理由はないため、いつも一緒にいるどれみ達を見慣れている視聴者には、違和感を与えかねない描写になっている。
 
 また、作中では少なくとも4日が流れているというのに、はづき達がそれぞれの理由から未来の工房に行けない理由は1日分ずつしかない。
 特に、行きたくてしょうがないはずのハナが、たった1回行きそびれただけで、その後ちっとも姿を見せないのは不自然極まりない。
 その1回も、成績がトップクラスのハナには相当似つかわしくない「補習」という理由であり、説得力に欠ける。  
 しかも、ぽっぷに至っては、どれみの妹でありながら、未来の存在そのものを知らされないまま終わっている。
 後述の五叉路も、普段は登場していないわけだから、突然降って湧いた設定が話の重要なポイントを占めているということになり、そういう意味で、非常にいびつな構成になっていると言わざるを得ない。  
 
 そして、「可愛い魔女さん」としか言われていないどれみが「魔女ガエル〜」と騒ぐのも大きな誤りだ。
 
 「魔女見習い」と言われない限り大丈夫だということは、どれみ自身、『無印』4話『みんなで魔女なら怖くない!』で、はづき達から「魔女!」と言われても魔女ガエルにならなかったという実体験があるのだし、この話より後ではあるが、『ドッカ〜ン!』44話『急がなきゃ! 最後の手がかり』では、ロビーに「魔女!」と言われた5人が「セーフ…」とホッとする展開もあったくらいで、熟知しているはずなのだ。
 「魔女」と「魔女見習い」の差異が重要な意味を持つこのエピソードにおいて、この混同はかなり痛い。
 
 
 また、細かいことではあるが、長いこと魔法を使っていないはずの未来がパスポートを持っていたり(でないと日本に入国できない)、ガラス用の溶鉱炉が置ける一軒家に住むなど結構生活費が掛かりそうな生活をしているということにも少々不条理を感じるし、どれみに正面から「魔女として一緒に来ないか」という質問をぶつけてきた未来のことを、最終回で全く思い出しもしないというのは、あまりにも中途半端だ。
 
 だが、それでもこの話は、鷹羽の心を捕らえて離さない。
 それは、この話が単独で見る限り綺麗にまとまっていることと、非常に暗示的な物語になっていることからだ。
 その意味で見る限り、「魔女ガエル〜」以外、今挙げた欠点は欠点でなくなる。
 
 
 
 このエピソードの中で、度々映される道路標識がある。
 冒頭、五叉路ではづき&あいこと別れた後、どれみが「遠回りして帰ろ」と言って右に進む分かれ道にある標識だが、「大」の字を逆さにしたような形になっている。
 この道路は、十字路を直進するとすぐ先で三叉路(Y字路)になっているという形式の五叉路であり、三叉路部分で左に進むといつもの帰り道、右に行くと未来の工房の方に続いている。
 
 この道路は、Bパート途中(作中では3日目)でおんぷ&ももこと一緒に帰るときにも使っているが、このときも3人は十字路部分で分かれている。
 友人達と別れて1人になったどれみが、2つに分かれた道を前に“どちらへ進むべきか”悩むわけだが、この道は二重の意味で暗示的なものになっている。
 つまり、“2つに分かれた道”“5つに分かれた道”だ。
 
 
 このエピソードでは、“2つに分かれた道”、つまり二者択一が1つのキーワードになっている。
 
 最初の二者択一が、冒頭、この三叉路部分で“左に進む”か“右に進む”かというものだ。
 直接的には、“まっすぐ帰る”のか“遠回りして帰る”のかということだが、これは未来に出会ったことで、“未来に会わずに帰る”のか“未来に会いに行く”のかという意味の二択に変化している。
 ちょうど、恋愛シミュレーションゲームで、○○に行くことで新登場の△△というキャラと知り合うと、以後の選択肢が「○○に行く」から「△△に会いに行く」に変化するようなものだ。
 
 そして、2つ目の二択はガラス細工を“皿にする”のか“グラスにする”のかというものだ。
 どれみは、ここで迷ったために、どちらも選べないまま“どちらにもなれなかったガラクタ”を作ってしまった。
 
 3つ目の選択肢は、“未来と共にベネツィアに行く”“日本に残る”か、すなわち“魔女として生きる”“人間として生きる”かというものだが、これについては後で考えよう。
 
 
 実は、明示されてこそいないが、このエピソードには、ほかにも“魔女になるか人間のままでいるか”という二択を与えられたキャラ達がいる。
 はづき達4人の仲間とハナだ。
 おんぷ、ももこ、ハナには、どれみから“未来の工房に行く”か“行かない”かという選択肢が投げかけられた。
 
 もっとも、ハナは、「行きたい」のに行けない理由があり、強制的に“行かない”という選択肢を選ばされたわけで、実際には選択権など与えられていなかったのだが。
 おんぷとももこは、「また今度」、つまり“行かない”という選択肢を選んだ。
 はづきとあいこに与えられた選択肢は、少々形が違い、“どれみと一緒に進む”“自分のするべきことを優先するか”という形になっている。
 もちろん、これには未来に会うという結果が分からないうちに与えられた選択肢だったという事情もある。
 
 ともかく、こうして一度「会わない」という選択肢を選んだはづき達4人と、強制的に「会わない」を選ばされたハナは、以後、二度とその選択権を与えられない。
 「一期一会」という言葉があるが、正にそのとおりで、チャンスを逃した者には救済措置は与えられなかったわけだ。
 先程例に出した恋シュミゲームで言うと、未来は隠れキャラで、ある特定の場面で決まった選択肢を選ばないと二度と登場しなくなる、という風に考えればいい。
 
 
 ここで、もう1度この五叉路を思い出してほしいのだが、この道は、十字路の直進方向にY字路がある、つまり、Y字路に向かって直進している途中に脇道があると見ることができる。
 これがまた、どれみ達の進む道の違いを体現しているのだ。
 
 ハナを除くどれみ達5人は、これまで同じ魔女見習いとしての道を歩いてきた。
 そして、どれみ以外の4人は、どれみが迷った二択に到達することなく脇道に逸れ、ハナは五叉路に連れて行かれさえしなかった。
 これを、どれみが投げかけられた“魔女として生きるか”“人間として生きるか”という二択と併せて考えると、5人はそれ以前に“自分の道を進む”ために別の道を行ったとも見える。
 
 
 つまり、ハナが本人の希望と関係なく、そこに続く道にすら連れて行ってもらえなかったのは、魔女界の次期女王という将来が約束されたハナには、たとえどれほど人間に憧れたとしても、“魔女か人間か”などという選択権は与えられていないからなのだ。
 
 同様に、ぽっぷに選択権が与えられなかったのにも理由がある。
 このエピソードの翌週に放送された41話『ぽっぷが先に魔女になる!?』では、ぽっぷが魔女を目指す理由が“どれみと同じことをしたいため”であることが語られ、50話『さよなら、おジャ魔女』でも「お姉ちゃんが魔女になんないなら、あたしも(ならない)」と言っている。
 つまり、主体性のないぽっぷには、選択権を与える意味もないというわけだ。
 
 だから、五叉路に連れて行ってもらえた、つまり“自由意思で進む道を選ぶ権利”を与えれたのは、はづき達4人だけなのだ。
 
 
 そして、同じ仲間でも、はづき&あいことおんぷ&ももこは、魔女見習いになった理由が違う。
 はづき&あいこはどれみに誘われて魔女見習いになったが、おんぷ&ももこは、どれみに出会う前から魔女見習いだった。
 
 だから、おんぷ&ももこは、未来という“魔女か人間か問いかけてくる存在”へと続く道へ進むことを誘われ、はづき&あいこは、その先に何があるか分からないまま“今後もどれみと共に歩むか”と問いかけられるという違いが生じたのだ。
 
 また、このとき「MAHO堂へ行く」という理由を唱える者がいなかったのは、『どれみ』においては、MAHO堂が“魔女見習いのための場所”という意味合いを持つため、“魔女か人間か”というテーマに沿わないからだが、同時に、4人が当たり前のように“人間として生きる”道を選んでいることの暗示でもある。
 すなわち“魔女か人間か”で悩む必要がないということだ。  
 
 しかも、彼女らがどれみと別れた理由はそれぞれ違う。
 
 ここで2つ目の暗示“5つに分かれた道”が出てくる。
 五叉路は、1本の道が4つに分かれた道と見ることもできるが、中心点(交差点)から5方向に分かれて進む道と見ることもできる。
 
 つまり、この五叉路は、“5人全員が今後それぞれ別の道を生きていく”という意味をも与えられているのだ。
 『ドッカ〜ン!』ラストで、それぞれが自分の道を選んで行く情景を思い浮かべてほしい。
 番組では、どれみとの関わりを中心に描写されているため、どれみの周りから1人また1人と抜けていくかのように感じられるが、よく考えてみれば、5人は全員バラバラになっているわけで、MAHO堂という“交差点の中心”から5方向の道にそれぞれ歩いていったと見ることもできる。
 今回の五叉路は、そういう部分も既に暗示していたのだ。
 
 
 さて、それを踏まえて、先程の3つめの選択肢“未来と一緒にベネツィアに行くか”“行かないか”について考えてみよう。
 
 どれみは丸1日悩んだ末、その答を持って未来の工房にやってきたはずだが、結局答を口にしてはいない。
 これは、テレビシリーズとしての構成上、当然のことだ。
 魔女になるにせよ、ならないにせよ、最終回まで10話以上も残っているこの時点で、その答を明言するわけにはいかない。
 
 なぜなら、50話『さよなら、おジャ魔女』でどれみ達が魔女にならないという選択をしたことは、大きいお友達にはとっくに読まれていた展開ではあるが、テーマとしては、4年間にわたって描いてきた“魔女になる”という目的を放棄する大どんでん返しだからだ。
 ましてや、このエピソードのときは、まだ女王から“魔女になるかどうか考えるように”言われる前だから、本来この時点で、そんな選択肢を突きつけられる必要はなかったはずだ。
 
 
 前述の『ぽっぷが先に魔女になる!?』で、どれみは、既に自分が魔女を目指した当初の目的である“告白する勇気”について「でも、それって魔法を使わなくてもできることじゃん」と自覚している。
 その上で、「魔法を必要としている人が」「どこかにいると思う」と言って、魔法の必要性について語っており、魔女になる最終回があり得ることをほのめかしている。
 
 また、47話『たとえ遠くはなれても』でどれみがももこに「魔法を使えばすぐ会えるから」と言っているが、魔女にならなかった以上、どれみはももこに簡単には会えないわけで、結果的に、この約束は反故になった。
 
 
 だが、この話を制作している時点で、既に制作者側はどれみ達が魔女にならないことは承知しているわけで、それを敢えてこう言わせているのは、この時点ではまだ魔女になる可能性があることを強調するためとも言える。
 つまり、こんな後から考えれば白々しいセリフまで出しているほど、“どれみ達が魔女になるかどうか”は重要なドラマなのだ。
 
 
 どれみが、40話のこの時点で「魔女になる」と言えば、あの最終回は存在できなくなるし、「魔女にならない」と言えば、ラストで盛り上がらなくなる。
 だからこそ、未来は返事を聞くことなく姿を消さなければならなかったのだ。
 
 
 だが、作品全体としての都合はともかく、このエピソード単体としては、どれみに決断させていなければ話が終わらない。
 “どれみが2つのことを同時にできないこと”も、“皿にするかグラスにするか選べなかったためにガラクタになってしまったガラス細工”も、最終的にどれみが“未来と一緒に行くか行かないか”の結論を出す必要性を示す、つまり、“魔女か人間か両方は選べない”し、“どちらかを選ばないと、どちらも選べなくなる”ということを暗示するために張られた伏線だからだ。
 
 そして、未来は、ベネツィアに行くから「明後日じゃ駄目」、つまり“明後日にはもういない”という意味のことを言っている
 その最後の日に、「行く」「行かない」以外の答はあり得ない。
 溶けたガラスが冷えて固まるまでの制限時間内に、グラスにも皿にもなれなかったガラスは、ガラクタになってしまう。
 
 つまり、嫌でも白黒つけざるを得ない状況が出来上がっているのだ。
 ここで制限時間である「明日」に、「まだ返事は考えてないけど、とりあえず見送りに来ました」などと言い出した日には、どれみは何も考えていないことになってしまう。
 
 
 では、どれみの答は何だったのか?
 鷹羽は、どれみは“未来と行く”ことを選んだのだと確信している。
 
 そして、それは、とりもなおさずどれみが“魔女として生きる”ということでもある。
 アバンタイトルでのどれみの
 
  あの人の言葉の意味、私もいつか分かる日が来るのかなぁ
 
という言葉、これは、未来の「魔女には、こんな生き方もあるのよ」という言葉に対するどれみの「分かんない」という呟きを受けてのものだ。
 
 そして、この言葉の意味を理解できるのは、魔女だけだ。
 である以上、どれみの答は“魔女として生きる”以外にはありえない。
 
 
 どうして未来は待っていてくれなかったのか? どうしてどれみは独り言ででも答を言わなかったのか? そして、どうしてどれみは最終回近辺で未来のことを全く思い出さなかったのか? それは、“番組として用意したラスト”とは違う答が用意されていたからに他ならない。 
 
 
 物語のテーマ上、どれみだけが魔女になるという展開はあってはならない。
 たとえばどれみが未来に「後で行くから魔女になるまで待っていて」と言ったとしたら、ラストでほかの仲間達が皆人間として生きることを選ぶ中で、どれみ1人だけが(ぽっぷも追従するだろうが)魔女になる道を選ぶことになり、物語としての本筋を見失うことになってしまうからだ。
 
 『どれみ』という物語の本筋である
 
  好きな相手に告白する勇気が欲しくて魔法を手にした少女が、魔法に頼らず告白する
 
から見れば筋違いなテーマであるが故に、この話は回想すらしてもらえなかったのだ。
 
 
 だが、『どれみ』のもう1つのテーマである
 
  何の取り柄もないドジな少女が、実はそうではないことに気付く
 
ということからすると、決して外れたテーマではない。
 どれみは、努力と苦労の末、自分の力でグラスを作り上げた。
 そして、未来という“自分と共に生きたいと願う人”に出会ったのだ。
 
 
 ここでちょっと考えてみよう。
 未来というキャラクターは、先々代の女王:マジョトウルビヨンのアンチテーゼとも言える。
 
 マジョトウルビヨンは、人間の男性に恋をし、寿命の長さが違うことを熟知した上で、共に生きることを選んだ。
 その結果、息子が年老いて死んでいくのを看取る羽目になったわけだが、それを承知の上で、それでも愛する人の傍にいることを選んだのだ。
 
 一方、未来は、自分が年を取らず、相手だけが年老いていくのを見続けることを嫌い、離れることを選んだ。
 「私、年上好みなの」などと冗談めかして言っているが、未来がその男にガラスを教えたということから考えて、出会った時点で未来は既に相当な年齢だったはずだから、年上の男などいるわけがなく、はぐらかしているだけの話だ。
 これもまた愛する人と“共に生きる”か“離れて生きる”かの二択と言える。
 もちろん、ここには魔女ガエルの呪いのことなども関係してくるだろうが、未来は、“離れて暮らし、時々会いに行く”という選択をしたようだ。
 
 未来がしょっちゅう引っ越している理由である「同じ人間といると、色々不都合がある」というのは、容貌が衰えないことに違和感を覚えられてしまうから、その前に引っ越してしまうということだ。
 そして、その男が未来を「昔好きになった女(ひと)の娘や孫だと信じてる」のは、つまり、自分が娘と思われるくらいのころに会いに行き、また、孫と言って通じるころに会いに行ったということだろう。  
 
 ここで未来の名前がポイントになる。
 
 『どれみ』世界では、ほとんどの魔女の名前がマジョ○○という形になっていて、ファミリーネーム(ラストネーム)というものは存在しない。
 モタなどのように、マジョ○○でない魔女は数人いるが、少なくともファミリーネームを持つ魔女は登場していない。
 花から産まれ、誕生に立ち会った魔女が育てるという特質上、血の繋がり=家系を表すファミリーネームは存在し得ないと言うべきだろう。
 だから、「佐倉未来」というのは、彼女の本名ではないはずだ。
 マジョミライという名前なのではないかと思うかもしれないが、この男は「Mirai Sakura」宛てにエアメールを送ってきている。
 そもそもエアメールが届くということ自体、転居先の住所を教えている=ちょくちょく連絡を取っているということなのだが、重要なのはフルネームを教えていることだ。
 前述のとおり、魔女の名前にはラストネームという概念がないらしいのに、未来はきちんとフルネームを作って人間同様に暮らしている。
 
 結婚してラストネームが変わらない国は、中国など一部だけらしいから、未来は、初めて会ったころ、娘として会いに行ったとき、孫として会いに行ったときなど、毎回違うラストネームを名乗っているはずだ。
 しかも、親子三代同じファーストネームというのは、欧米ではあり得なくはないものの、やはりちょっと無理があるから、ファーストネームも違うものを名乗っているだろう。
 だから、彼女が「未来」という名前を付けたのは、孫を演じるようになったころだと思われる。
 同じように人間の名前:巻機山リカという名前を使って暮らしているマジョリカと比べるとよく分かる。
 マジョリカは、「マキハタヤマリカの魔法堂(MAHO堂の元々の名前)」の店主として生活するために偽名を使っているに過ぎず、親子3代を演じている未来とは意味が違う。
 
 
 実は、上では触れなかったが、このエピソードの中には、大きな嘘がある。
 それは、未来の
 
  ガラスってね、冷えて固まっているように見えて、本当はゆっくり動いているのよ
  この海の水みたいにね
  ただし、何十年も、何百年も、何千年も掛けて、少しずつゆっくりと

 
という言葉だ。
 
 冷えて固まっているように見えるガラスは、実は本当に冷えて固まっているのだ
 もちろん、絶対零度でない限りは、分子運動レベルでは動いているから、単純に「動いているか止まっているか」と言うなら、確かに動いている。
 
 だが、未来は「海の水みたいに」「何千年も掛けて、少しずつゆっくりと」と言っている。
 ならば、それは対流のことだろう。
 対流というのは、気体や液体の温度が高い部分の密度が小さく(軽く)なって、温度が低く密度の大きい(重い)部分と入れ替わるように流動する現象だから、当然固体では起こらない。
 ガラスの融点は約1400度だから、それ以上の温度もしくは融点を下げるほどの超高圧下でないと対流は起こらないということになる。
 
 
 いみじくもどれみが最初に吹いたガラスのように、冷えて固くなれば、動かなくなってしまうのだ。
 
 どれみが貰ったビー玉が、数千年後に見てみたら、何もしてないはずなのに潰れて煎餅のようになっているなどということは考えられない。
 実際、数百年前のガラス製品はそれこそあちこちに残っているが、火災などの熱で変形したとか衝撃等で壊れたという以外で、形が崩れていたなどという話を聞いたことはないから、その点でも、未来の言っていることはおかしい。
 かといって、未来はガラス細工をそれこそ何十年、あるいは百何十年もやっているわけだから、ガラスの性質について知らないはずがない。
 
 それに、じっと見続けているわけでない以上は、「ガラスが動いているのを見る」ということは、動く前のガラスの状態を覚えていて、数千年後にそのときと状態が変わっているのを見るということでしかない。
 大豆の発芽の早回しビデオみたいなのがあるわけじゃなし、そんなことで動いているのを見たと言えるだろうか。
 つまりは、これもたとえ話なのだ。  
 
 本気でゆっくりと動いているガラスの姿を見たいなら、それは楽しみな将来だろう。
 それなのに、「いずれ、私もそれを見る」と言ったときの未来の表情は、例えばアサガオの種を植えて、花咲く日を心待ちにしているような顔ではない。
 
 鷹羽には、もっと悲しい、でも確実にやってくる“未来”を見据える目に感じられる。
 では、何を見据えているのか。
 それは、当然、人間の生と死だろう。
 
 
 未来が写真に撮った“ちょっと好きになりかけた人”は、時を置いて会うたびに年老いていき、近い将来確実に死ぬ。
 写真の中の彼は、いつまでも年を取らないのに、現実の彼は、いつの間にか年を取っていくのだ。
 
 好きになった相手だけが年取って死んでいき、自分はそれをどうにもできないという運命を、彼女は距離を置くことで、つまり、共に生きないことで受け入れた。
 それは、恋人に限らず、友人との間でも同じことだ。
 共に年老いていく人間同士なら、互いの年齢差は変わらない。  
 車の相対速度と同じで、同じ速度で動いている者同士の見た目は“動いていない”に等しい。
 それは「あんまりゆっくりで、人間の目には止まっているようにしか見えない」ということだ。
 だが、年を取る速度が人間よりずっと遅い魔女は、人間の年を取る速度が“見える”のだ。
 「彼がまだあたしより年下に見えたころの話。それが今では、あたしよりもずっと年上になっちゃった」という未来の言葉は、それを表している。
 そんな運命を、未来はガラスに例えたのではないだろうか。  
 
 “ガラスが動いているのを見る”とは、“愛すべき人々が年老いて死んでいくのを見る”ということなのだ。
 ガラスが動いているのを見たいと言いながら、自らもガラス工芸をやっている未来は、色々な土地で、色々な人と交流を持ちながら、共に生きることができない。
 それは、うつろいゆく世界の住人でありながらその世界の傍観者でもあるということだ。  
 だからこそ、共に過ごした一瞬を写真に撮って持ち歩いているのだ。
 動いたガラス=年を取った大切な人を再認識するために。
 その覚悟でいるからこそ、彼女は、遠くを見つめる目をして「いずれ、私もそれを見る」と言うのだろう。
 彼女は、“かつての恋人の孫”を演じている間にその死を看取ることになる“未来”を知っているからこそ、その役柄に「未来」という名前を付けたのではないだろうか。
   
 そして遂に、かつての恋人の死に立ち会うためにベネツィアに行く日がやってきた。
 もうすぐ90ともなれば、先は短い。
 そして、それに際してどれみを誘ったのは、永遠とも言える長い時間を生きる自分の傍にいてほしい友人としてどれみを認めたということだ。
 つまり、どれみはこのとき“何の取り柄もない女の子”ではなく、“永遠に傍にいてほしい友人”として評価されたのだ。
 
 
 未来はこのエピソードの中で、どれみのことをずっと「どれみちゃん」と呼んでいるが、一緒に来るよう誘ったときだけ「どれみ、あたしと一緒に来る?」と呼び捨てにしている。
 これは、未来がどれみを対等な友人として評価したからだと思う。
 未来がそれほど真摯にどれみを欲したということが、このエピソードのキモなのだ。  
 
 もう1つ、未来が魔法を使わないことも重要だ。
 
 便利な魔法を使えるから魔女になりたいのではない。
 共に生きたい相手と一緒にいるには、魔女にならなければならないのだ。
 ものを作るときに魔法を使わず、心を込めて手作りすることの重要さを感じ続けてきたどれみにとって、魔法のような手さばきでものを作っていく未来の存在は、憧憬を抱くにふさわしい。
 
 自分の力でグラスを作り上げた=何かを成し遂げたどれみは、未来から一緒に来るよう求められたことで、“未来と共に生きるために魔女になる”という新たな選択肢を得た。
 魔女であることが必要な生き方を選ぶなら、当然魔女にならなければならない。
 この回では、「魔女」とは、“どんなことでも簡単にできてしまう魔法使い”ではなく、“恐ろしく長い寿命を持つ人間”という意味で使われている。
 
 
 未来が魔法を使わないと断言していること、未来の名前がいかにも魔女らしいものではなく日本人的であること、この回では誰1人魔法を使わないこと、これらは、全て魔女を“便利な魔法使い”ではなく、“孤独なまでに長生きする人間”という孤高の存在として描くためのものだろう。
 
 そして、その孤高の存在=未来が、対等の友人としてどれみを求めたということ、どれみがそれに応えようとしたことが、このエピソードのもう1つのテーマだと思う。
 恐らく未来自身も孤独感に苛まれたことがあり、傍に誰かにいてほしいという想いがずっとあっただろう。
 そして、未来は、“魔女になったどれみ”にも、やがてそういう時期が来ることを知っている。
 「だって、あなたもこれから魔女になるなら…」の続きは、「年を取らなくなるんだから、1か所に長くいたら変に思われちゃうわよ」という意味の言葉がくるだろう。
 
 
 見ようによっては、孤独な者同士、傷を舐め合うような部分もあるかもしれない。
 だが、未来は、どれみがガラスに対して見せた情熱を買っているからこそ、パートナーとしてどれみを選んだはずで、それは単なる寂しい者同士の馴れ合いではなく、同じ高みを志す者同士の連帯感という部分も持っているはずだ。  
 
 鷹羽は、どれみが直ちに未来と共にベネツィアに行くとは思えない。
 悲しみのイバラのこと、ハナの試験のことなどがあるから、それらを放り出して今すぐ飛び出しては行かないだろう。
 
 だが、未来に先に行ってもらって、“未来を追う”ことは可能だろう。
 イバラを消し、ハナやマジョリカを魔女に戻し、自分も魔女になった後で、未来と共に魔女として生き、ガラス工芸を続ける…そんな生き方をどれみが選ぶことは、1つの人生として素晴らしいものだと鷹羽は思っている。
 
 
 結局、未来はどれみの前から姿を消した。
 恋人の死を看取った後で迎えに来るつもりだったのかもしれないし、いつかふとどれみがどうなっているかを見に立ち寄るつもりだったのかもしれない。
 先にも述べたとおり、この話は非常に完成度が高いが、予定された最終回と違う結末が求められる以上、1年間放送されるテレビシリーズの中の1エピソードとしては、ちょっと雰囲気の違う異色作としてしか存在できない。
 だが、この回以後、どれみ自身がテーマの中心に置かれる話が最終回しかないことを考えると、このエピソードは、
  仲間達が人間として生きることを選ぶ中、ただ1人魔女として人間界で生きることを選んだどれみ
を描いた「もう1つの最終回」と呼ぶべきものではないかと思えてならない。