13.まとめ
『龍騎』という番組は、テレビシリーズの『仮面ライダー』としては初めて特定の敵を置かない作品だ。
前作『アギト』の敵も組織性が希薄だったが、少なくとも黒衣の青年が支配する集団であったことは間違いなかった。
だが、『龍騎』に登場するミラーワールドのモンスターは、ゼール軍団やシアゴーストなど一部のモンスターが同種でまとまって行動していたり、優衣や士郎に命じられたモンスターが統一した行動を取ることはあったが、結局のところ有象無象で組織性のない連中に過ぎず、むしろ戦うべき敵は、人間である他のライダーや、全ての元凶である神崎士郎だった。
完全に人間同士の殺し合いをメインに据えたというインモラルさは他に類を見ないが、その点については、制作者側が「正義でない戦いを描きたかった」という狙いの下にやっていた以上、その目的は全うされたと言えよう。
またその一方で、メイン視聴者が子供であるかどうかはともかく、少なくとも子供も見る番組において、このようなハイブロウなテーマを持たせたことについての是非は論じられて然りだと思う。
結局、この戦いは、「最愛の妹といつまでも一緒にいたい」というシスコン兄貴のわがままから始まっている。
純粋な想いなのかもしれないが、少なくとも一般常識から言ってまともな愛情とは言えないし、そのために誰かを犠牲にしていいというわけにもいくまい。
蓮にしろ北岡にしろ、全てそうで、“大事な人を救うためなら他人を殺す”ということの是非を問い続けることになった。
これは、例えば“子供を失った夫婦がクローンを作ってでも生き返らせたいと願う”のと同じようなもので、可能・不可能の前に倫理的にどうかという問題が付きまとう。
実際、そういう問題は現実社会にいくらでもあるし、立場を変えれば必ずしも悪いことと言い切れないわけだから、そういうものを題材にすること自体はありだろう。
そもそも三角関係というものを考えてみたとき、“1組の恋を成就させるためには残る1人が失恋しなければならない”という構図になるのだし、強かった方が入門できるという条件の新弟子試験があれば、他人を打ち負かして自分が目的(入門)を果たすということになる。
この点で、高見沢の言った「人間はみんなライダーなんだ」という言葉は、的を射ている。
大人になれば誰しも、程度の差こそあれ他人を蹴落とさなければ進めない場面に出くわすわけで、“殺し合い”という極端な条件はともかく、他人を蹴落としてまで目的を果たすなんておかしいとまでは言えない気がする。
子供が見てどう思うかという点については、鷹羽としては、最低限主人公である真司とヒロインである優衣が「人間(ライダー)を殺すのは良くない」「自分の幸せを求めるために他人の犠牲を認めるのは嫌」という態度をほぼ貫いていたことから、教育上それほど悪いものでもないと考えている。
子供のころは戦闘シーンだけを見ていて、数年経って分別が付くようになった頃に見直して、「こんなにヤバい番組だったのか!?」と気付くというのも、この手の番組のあり方だと思うし。
また、先にも述べたが、蓮の目的のために人殺しも辞さないと言いつつ、やはり土壇場で手を下せない葛藤を描いたことも大きいと思う。
元々蓮は心を許した人間に対してはある程度優しさを見せる性格の持ち主のようで、お人好し丸出しの真司と同居したことで、敵のはずだが憎みきれない真司に影響されていると言える。
北岡にしても、 「自分のためだけに戦うからこそ強い」「他人のための戦いは美しくない」と言い続けながら、その裏で堀口ゆかりの母の手術代を匿名で寄付したり、浅倉にさらわれた吾郎を助けに行こうとするなど、クールになりきれない面がある。
だからこそ、北岡は死を前に「浅倉とはちゃんと決着つけてやんないと、何か1つ染みでも残して逝くようで嫌なんだよね」などと、他人の人生にけじめをつけさせるために死地に赴こうとしているのだろう。
これらのテーマがどれほど伝わるものかは分からない。
少なくとも、所謂特撮マニア・オタクといった人種以外は、毎回のシナリオについて深く追求して「辻褄が合わない」などと言うことはあまりないようだ。
番組中盤頃、普段トクサツを見ないような知人数名が、最終的に謎が解けることを信じて見ているという話をしてくれた。
鷹羽としては、彼らの感想を聞くにつけそういうムーブメントがあるのだなと素直に感心したり、結局謎が解かれなかったときにどう思うんだろうなどと意地悪に見守りたくなったりしたものだ。
その知人の1人が、最終回の後、あのラストについて、かなり怒った口調で電話してきたことを一応記しておこう。
ほかの知人達も、いささか頭を抱えていたようだった。
このように、『龍騎』は一般のあまり濃くない視聴者にもかなりアピールする作品となった。
役者の写真集が出版されたり、一般の雑誌にインタビューなどが掲載されたりしたのはまぁいいとして、非常に意外なことにスーツアクターにもスポットライトが当たっている。
多分1話での「折れた〜!?」から始まったのだと思うが、変身前を演じる役者とライダーを演じるスーツアクターの一体感という部分に着目した人が多かったのか、メインのライダー4人について、役者とスーツアクターをペアにしたミニ写真集が出版されている。
『バイオマン』『チェンジマン』などの頃、ムック系のラストにスーツアクターの写真が一緒に載っているというのがあったが、その頃よりも一歩進んだものになっていると思う。
まぁ、どういう人に需要があったのかは不明だが、そういう需要があったというだけでもかなりエポックな事件だと思う。
ところで、変身後にも本名で呼び合うという傾向は、スーパー戦隊では10年以上前から定着してきていることだったが、それが殺し合う相手同士でできてしまうということには、少々首を傾げざるを得ない。
やはり、制作者側としては、当初はライダー同士が私生活上でも交流を持つという風にするつもりはなかったのだろう。
真司と蓮だけが例外的に同居し、ちょっと離れて北岡が我が道を行き、ほかのライダー達はそこに少し絡んでは死んでいく、という形にしたかったのではないだろうか。
先にも書いたが、王蛇は、その存在意義もさることながら、龍に対して蛇という、形こそ似ているが明らかに格下な生物をモチーフにしている時点で、最後まで引っ張るライバルにはするつもりがなかったかのように見える。
前述のとおり、『EPISODE FINAL』と『13RIDERS』の絡みで新しいライバルライダーを出しにくくなったということは、逆に言えば劇場版やテレビスペシャルがテレビ本編の足を引っ張っているということで、本末転倒な事態だ。
また劇場版の撮影時期にキャストのスケジュールを調整するため、28話『タイムベント』(8/11放送)が辻褄合わせに使われている。
時間をライダーの戦いが始まる前くらいまで巻き戻してやり直すなどというご都合主義なアイテム“タイムベント”は、これ以後全く使われることがなかった。
要するにタイムベントカードは、撮影スケジュールを少しでも助けるための総集編みたいな話を仕立て上げるための狂言回しだったのだろう。
あの話は、メインキャストは真司以外ほとんど使わないで済んでいるはずだ。
例えばタイムベントを、『五星戦隊ダイレンジャー』の天時星時間返しのように敵の攻撃を食らった瞬間に発動させ、「やられる前にやり返す!」ならともかく、半年も巻き戻す能力が何のために必要なのかを考えれば、それが戦闘用でないことは明らかだ。
巻き戻す時間が“最大半年程度”で制御できるというならそれもいいが、今度は逆に、優衣が真実を知り自殺しようとしてさえ使おうとしないのが妙だ。
やり直して、もっと早くライダーが減るようせっつき、優衣に真実を知られないようにすればいいのに。
そう考えると、タイムベントが体の良い総集編用アイテムだったことが分かる。
これは、前作『アギト』での、劇場版の撮影時期にスケジュールの関係でテレビ本編の方に一部レギュラーが登場できなくなったりしたことに比べれば幾分マシだが、劇場版での出演者のコメントを見ると、その分レギュラーの負担は大きくなっていたようだ。
撮影スケジュールの圧迫だけでもかなりの負担なのに、その上内容的な部分まで足を引っ張るようでは、いかに話題性や採算面でプラスになると言っても、作らない方がいいのではないかという疑問まで湧いてくる。
また、『アギト』以来、“全部で1つの話”としてサブタイトルを廃してまで連続性を強調しているくせに、放送日と番組内時間を合わせたがるという悪癖があるため、『龍騎』でも「もう時間がない」と言いながら、クリスマスから1月半ばまで誰も何もしていなかったり、残り2日という煮詰まった状況下でも、真司が大久保にこれまでの顛末を話しているだけという、「本気で焦ってるの!?」という描写が相次いだ。
そして、こういう構成の都合上、劇場版をテレビ本編の隙間に入る幕間劇として描くこともできず、アナザーストーリーになったり「最終回先行上映」などというセンセーショナルな嘘っぱちにしたりする羽目になっている。
これらは、現実時間と番組内時間を同じにしようとさえしなければ防げることなのだし、そうまでして繋げる必要があるのかなども含めて、そろそろ考えるべき時期に来ていると思う。
また、主人公が最終回前に死んだ
というショックを与えたいがためだけに、わざわざ時間を逆行させて描いた49話『叶えたい願い』には、嫌らしいまでのあざとさが感じられる。
レビューの時に触れたとおり、50話『新しい命』冒頭での吾郎ゾルダと王蛇の戦いは1月19日の朝のことであり、真司が死んだのはその日の午後1時すぎなのだ。
つまり、真司が死んだ時点でナイトは名実共に最後のライダーとしてオーディンと戦う資格があったのに、テレビを見ている限り、士郎が「時間がないからお前を最後のライダーに指名する」と言っているかのような印象を受けることになる。
物語での時間の流れをもう少し大事にしてもらいたいものだ。
鷹羽としては、正直なところ、ライダーの戦いがインモラルな戦いでも構わないと思っている。
ただ、それに見合う動機と覚悟、そしてどういう理屈で願いが叶うのかという根元的な部分に、少しでも解答が与えられることを期待して見ていたのは事実だ。
もちろん、全ての謎が解明されるなどという甘い期待はしていない。
ひところ、『ドラゴンボール』パターンの「この戦いで死んだ人達全員を生き返らせてくれ!」という願いでみんな生き返ってめでたしめでたしになるのではないかという予想が立てられていた時期がある。
鷹羽も、全て丸く収めるためにはそれしかないだろうと考えていた。
劇場版を見た時点で、細かい部分に相違があることは予想できたにせよ、優衣の存続が士郎の狙いであるという1つの解答が示されたのだから、恵里や北岡の命を救いつつ優衣をも救うためにはそうやって無理矢理大団円を迎えるのだろうと高を括っていたのだ。
まぁ、恵里をも助けられる願い方というのは非常に難しそうだが。
だが、スタッフはそんなところには頓着せずに我が道を進み続けた。
つまるところ『龍騎』は、“犠牲を出すことを嫌い、戦いを止めようとした真司の無力さ”を描いた作品とも言える。
真司はとうとうライダーを1人も救うことなく自らも道半ばにして力尽きることとなった。
もし真司に圧倒的な戦闘能力と強い意志、洞察力があったなら、敵ライダーの契約モンスターを倒し、現実世界に連れ帰ってデッキを取り上げるという方法で、命を奪うことなくライダーを潰していけた。
だが、その一方で、「話せば分かるはずだ」という真司の姿は、『クウガ』以上の徹底反戦ぶりを貫き、確かにライダー達の何かを変えた。
蓮や北岡の心に影響を与えたことは疑いようがないし、結果的にライダーバトルを永久に止めたのは真司の功績だと思う。
真司は、大変不器用ながら“人の心に訴えかけ続ける”という、ある意味反戦主義者の理想のような行動を貫き続け、願った形とは全く違うものの、ライダーの戦いを止めてしまった。
そのために自分の命をも失ったし、鷹羽の好む姿でもなかったが、1つの解決だったことは間違いない。
ヒーローらしからぬ城戸真司というキャラクターは、最期までヒーローらしからぬ戦いを貫いた。
『龍騎』という番組は、これまでのヒーロー像と全く異なる戦いを繰り広げたヒーロー物として、良くも悪くも歴史に残る番組になるのだろう。