仮面ライダークウガ研究室(第9回)
 
 え〜、前回の質問者さんから、お礼のメールとCGを頂いてしまいました。
 このCGは現在、鷹羽のマシンの壁紙になっています。
 この場を借りて御礼申し上げます。
 
 さて4クールに入ってOP映像が一部変わり、歌詞も2番になったこともあって、一気に終盤ムードが漂い始めたクウガですが、今現在、視聴者の注目を一身に集めているのが例の黒いクウガでしょう。
 碑文にあった凄まじい戦士とは誰なのか、闇に葬られる太陽とは一体何か。
 そして0号の正体は?
 というわけで、今回は
聖なる泉涸れ果てし時…
というテーマで考えてみましょう。
 
 金の力が発動した頃、桜子が見付けた
   聖なる泉涸れ果てし時
   凄まじき戦士雷の如く出で太陽は闇に葬られん

の意味は何なのか。
 
 問題になるのは、まず『聖なる泉』が何かということと、『太陽は闇に葬られん』の解釈だが、実はこの解釈は、桜子のパソコンが出した5つの候補の中の1つに過ぎない。
 恐らく、一番蓋然性が高いものということなのだろう。

 5つの候補は、
   1 聖なる心涸れた果てし時
    偉大なる戦士燃えるがごと如く出で太陽は闇を葬らん
  2 汚れなき泉涸れて失われし時
    勇ましき戦士雷の姿で現われ栄光の夜に葬らん
  3 神の言葉涸れ果てし時
    猛々しき戦士一瞬の内に現われ光と闇を葬らん
  4 清らかなる心涸れて空しき時
    荒ぶる戦士閃光の如く走り輝ける深淵に葬らん
  5 聖なる泉涸れ果てし時
    凄まじき戦士雷の如く出で太陽は闇に葬られん

となっており、はっきり言って1と5以外、後半は意味が通じない。
 面白いことに、1と5では正反対の意味になっているが、これは文字がそれぞれ『太陽』、『』、『葬る』という意味であり、適宜助詞を付けて読み下さなければならないためだ。
 まぁ、パソコンが選んだ5が正しいものとして話を進めよう。
 “聖なる泉”の部分は、「聖なる心」「汚れなき泉」「清らかなる心」という具合になっており、「清らかな心」という意味の表現であろうことが判る。
 
 一方、鷹羽は以前掲示板で、黒いクウガのベルトの文字を
   心清き戦士、その力を振るい続け、鬼となりて邪悪を葬る時、
  汝の姿は邪悪となり、永遠に闇に消え去らん

と訳している。
 ところが『装着変身6・アルティメットフォーム』の箱には、既にきっちりと訳文が載っていた…。
 それによれば
   心清き戦士、力を極めて戦い邪悪を葬る時
  汝の身も邪悪に染まりて永劫の闇に消えん

とのこと。
 この商品のCM展開にはかなり問題を感じるが、とりあえずこれが公式日本語訳らしい。
 意味は鷹羽の訳とほとんど変わらないが、大きく変わっているのが『力を極め』の部分だろう。
 ちなみに、鷹羽の訳では、自動詞化させる人型(研究室第2回参照)の下に『永遠』の字が入った形の文字を『振るい続け』としている。
 これは、「永遠」を動詞にして「〜し続ける」だろうと考え、直前の文字が『』なので、『その力を振るい続け』と訳してみたわけだ。

 『鬼となりて』の方は、黒いクウガの手の甲に書かれた文字を『』ではないかと推測したものだ。
 この文字を見ると、『邪悪』『』にそれぞれ含まれる「人の目」のような部分に「角」が生えているような印象を受ける。
 「人の目」がついている文字は、どうもダークサイドの文字のようなので、“角の生えた悪”の代表として「鬼」とした。


 公式訳では、この2つの文字を合わせて『極め』と訳している。
 恐らく、『使い続けて究極となる』=『極める』と訳していると思われるので、下の文字は『究極』と読むのだろう。
 そういや、あの黒いクウガの商品名は“アルティメットフォーム(究極形態)”だったっけ。
 
 話を碑文に戻そう。
 ここで出てくる『心清き戦士』は、碑文の『聖なる泉』に対応しているのではないかと推測される。
 そして、元々ベルトに書かれていた文字は、
   心清く体健やかなる者これを身に付けよ
   さらば戦士クウガとならん
   ひとたび身に付ければ、永遠に汝と共にありてその力とならん
であり、黒いクウガのベルトの『心清き戦士』というのが、クウガであろうことが判る。
 
 そこで、ちょっと基本に立ち返ってみよう。
 そもそも、どうしてクウガになったのは雄介なのか
 雄介が九郎ケ岳の遺跡に近付いた時に感じたプレッシャーと、ベルトを見た時のイメージは、その場に居合わせた誰も感じていない。
 つまり、雄介はあの時点で既にベルトに選ばれていたと言える
 あの場所には一条もいたわけだが、どうして一条ではなく雄介だったのか。
 一条は心が清くないということなのか。
 
 これまで見てきて判るとおり、一条は雄介と同様、自分のことは後回しにして未確認生命体を追い続けてきた。
 そして、体力・技能的には、雄介を上回っている
 つまり『心清く体健やかなる者』の条件を満たしている存在だ。
 EPISODE1で雄介に足を掛けた手並み、EPISODE8で見せた剣道の腕など、むしろ戦う上では雄介よりも適任とさえ言える。
 しかし、一条は選ばれなかった。
 一条と雄介の違いはどこにあるのか。
 “雄介が先代のクウガの血を引いているからベルトを受け継いだ”という安直なパターンを除外して考えた場合、その差はどこにあるのだろう。
 
 ここで考えるべきなのは、『心清く』のニュアンスの違いだ。
 現代の日本人とリントでは、価値観に多少の差があるはずだ。
 したがって、同じ言葉でも多少ニュアンスの違うものになることが考えられる。
 研究室の第2回で、鷹羽が公式訳文に文句を言っていたのは、実はこのことだったのだ。
 今回の黒いクウガのベルトの文字についてもそれが言える。
 何しろ、2文字を1つの言葉にしているのだから。
 では気を取り直して、文字の作りから考えてみよう。
 
 『心清く』の文字は、『』という字を人の上半身が支える形になっている。
 つまり“空を支え立つ者”=“天に通じる者”=“天の愛を持つ者”となる。
 “天の愛”とは、“地上にあまねく幸福をもたらす愛”だ。
 一条と雄介は、共に自分の正義感の下に行動している。
 しかし、一条のそれが“平穏な市民生活を脅かす存在を排除する”という守護者の正義なのに対し、雄介のそれは“みんなに笑顔を与える”という慈愛に満ちたものだ。
 言い換えると、一条は“幸せを脅かす敵を倒す”者であり、雄介は“幸せを与える”者だ。
 つまり、一条が未確認生命体と戦うのはそれ自体が目的なのに対し、雄介が戦うのは“幸せを与える”という目的のための手段なのだ。
 2人の行動原理の違いは、正にここにあるように思える。
 そして、だからこそ雄介は、戦士クウガになるために変身ポーズを必要とするのだ。
 
 仮面ライダーシリーズの中で、クウガほどいい加減なポーズを取るライダーはいない。
 鷹羽的には好みだが、走りながらとか、バイク上で片手でとかかなりいい加減で、EPISODE35『愛憎』では、ほとんど右手を前に出しているだけで、ポーズとはとても言えないものだった。
 しかし、そんなポーズでも変身できる。
 なぜならEPISODE2で雄介が言っていたとおり、クウガの変身は、本来雄介の意志のみによって行われるからだ。
 雄介の戦う意志に、ベルトが反応して姿を変えるのだ。
 つまり、雄介が変身ポーズを取るのは「これから戦う(暴力を振るう)ぞ」という決意の表れに過ぎない。
 戦うことを好まない雄介が、必要悪として戦うためのけじめなのだ。
 つまり、『心清き戦士』とは、“決して戦いを好まず。何かを守るために仕方なく戦う戦士”だと言える。
 
 そこで再び黒いクウガのベルトの文字を見てみよう。
  『心清き戦士力を極めて戦い邪悪を葬る時
  汝の身も邪悪に染まりて永劫の闇に消えん

とはどういうことだろうか。
 『心清き戦士』が『力を極めて』戦うと、どうして『邪悪に染ま』るのか。
 これもまた、クウガという戦士の本質に関わる問題を秘めている。
 
 そもそもクウガは、何のために生まれた戦士だったか。
 グロンギの脅威にさらされたリントが、自衛手段として生み出した戦士だ。
 桜子の推測が正しければ、リントには「戦士」という概念、つまり戦って相手を殺すという概念がなかった。
 そしてこの推測は、EPISODE22『遊戯』で銃を向けた一条に対するバルバの、「リントも変わったな」という台詞を説明できるものでもある。
 となると、戦士という概念すら持たないリントがグロンギに対抗するための手段は、グロンギの力を研究して利用するのが有効だ。
 ここで“クウガとグロンギの力は基本的に同質である”という仮説を立ててみよう。
 つまり、クウガの力の源であるアマダムは、グロンギの力と同じものだと考えてみるのだ。
 EPISODE36『錯綜』で、ゴオマが腹に押し当てていた金色の曲玉状の物体が、グロンギにとってのアマダム(以後Gアマダムと表記)だとしたらどうだろう?
 あの曲玉1つで、ゴオマはかなり強くなった。
 そもそも、グロンギがゲームをクリアして階級が上がっても、そのままなら強さは全く変わらない。
 階級が上がる…つまりレベルアップする毎に、Gアマダムを貰えるとすれば、階級が上がることで間違いなく強くなる。
 それも怪人の特性に合わせて強化すると考えれば、肉体能力が強化される者、特殊能力が強化される者と、無理なくパワーアップできるわけで、実に有効なアイテムだ。
 ギノガのクローン体は、ギノガの能力を全く持っていなかった。
 同じ細胞を持ちながら、その特殊能力には全く共通点がないという不思議な現象だ。
 これは、ベルトによるデータもGアマダムによる特殊能力の発現もなかったからだとして説明できる。
 前回の研究室で、ベルトがグロンギの本体を司るアイテムなのではないかと推測を立てたが、そうすればGアマダムの力を制御するのも、ベルトの役割ということになる。
 つまりベルトが壊れるということは、膨大な力を持つGアマダムの制御が効かなくなるということで、Gアマダムのエネルギーが暴走して爆発を起こすと考えることができる。
 そう考えると、Gアマダムを多く持つ高い階級の怪人が、より大きな爆発を起こすことの説明がつく。
 同じ“ゴ”でも、ブウロやベミウの爆発(20〜30m)とガメゴの爆発(直径6km)の規模が2桁違ったのは、ゲーム達成までの所要時間で貰えるGアマダムのサイズが違うなどの理由で、Gアマダムの量に個体差があるからかもしれない。
 こう考えると、ベルトさえ破壊できれば人間の手でも怪人を倒せるということになり、捜査本部が未確認生命体を1体倒したという話に信憑性が出てくる。
 
 では、クウガの攻撃でベルトが壊れるのは何故だろう?
 物理的な衝撃はちっとも与えていないのに、『封印』の文字からのエネルギーを受けると、ベルトは壊れてしまう。
 あれが封印エネルギーだとして、“何を”封印するのだろうか。
 上記の仮説に基づけば、ベルトのGアマダム制御機能を封じてしまえばいい。
 そのために作られたのが、Gアマダムの制御を不能にする攻撃をするための戦士を生み出す物、つまりクウガのアマダムではなかろうか。
 要するに、クウガのアマダムはGアマダムの天敵、つまりアンチエネルギーとなるよう能力を調整されたGアマダムの変種ということだ。
 たとえて言うなら、ポセイドン像に対するオリハルコンの短剣のようなものだ。
 或いは、バイオ粒子と反バイオ粒子と言ってもいい。
 その場合、クウガの技による封印の文字のエネルギーを打ち消すほどに怪人の体表をGアマダムの力で覆えば、文字のエネルギーは相殺できるのだ。
 同程度のエネルギーで相殺できるのは、アンチエネルギーの特徴だ。
 つまり、ザインやガリマが封印の文字を気合いで消しているのは、全身に力をみなぎらせることでGアマダムのエネルギーを体表に迸らせていると考えれば納得がいく。
 逆にGアマダムの力をぶつければ、クウガのアマダムを破壊できるのだろうが、Gアマダム用のハンターとして生まれたクウガと違い、グロンギはGアマダムの力を特殊能力の発現や武器の変形などにのみ使っており、エネルギーそのものを武器にするという攻撃はできないのだ。
 そしてアンチエネルギーの特徴は、相反する物に対してはマイナスエネルギーとして力を発するが、別種の物に対しては、プラスエネルギーとして作用することだ。
 ギノガのクローンを溶かしたのは、単に攻撃エネルギーとして転化した封印の文字の力だったのではないだろうか。
 
 さて、ここで1つ問題が起こる。
 戦い続けるということは、精神状態に変化をもたらす。
 力を振るい敵を倒すことに慣れるという意味ばかりではなく、戦いに対する考え方そのものに変化が生まれるという意味だ。
 “人々を守る”という見地から言えば、“攻めてきた相手を迎え撃つ”のではなく、“敵地に攻め込む”方が被害は少ない。
 勿論攻め込むとなれば、戦士にはより大きな負担が掛かることになるが、戦士が強いならば、むしろ足手まといがいない分、この方が効率的に民を守れることも多い。
 ここが問題なのだ。
 “より効率的な戦いを考える”ということが、アマダムの戦士の資格である“天の愛を持つ者”という枠を超えている。
 根本として“無辜の民を守りたい”という想いから発するものであるため、アマダムが拒否することはあるまいが、しかし本来の目的からずれてきていることは否めない。
 
 この“効率的な戦い”に覚えがないだろうか。
 EPISODE35『愛憎』でのジャラジとの戦いが正にそれだ。
 素早い敵に対し、組み打ち討ちに持ち込み、抵抗力を奪った時点で安全圏まで運んでとどめを刺す。
 周囲に被害が出ず、自分もダメージを負わず、正に理想的な勝利だ。
 この戦いをもう少し詳しく見てみると、まず部屋に飛び込むなり変身しつつ、ジャラジに飛びついている。
 この時点でジャラジは虚を突かれ、得意の素早い動きを発揮する間もなく捕まえられてそのまま地面に落下、自分とクウガ、2人分の体重を乗せて地面に叩き付けられている。
 クウガは、その後も馬乗りになってジャラジを押さえつけつつパンチの連打を浴びせ、ようやく立ち上がったジャラジを更に掴んで殴りつける。
 いい加減ジャラジがフラフラになった頃、ゴウラム合体ビートチェイサーに引っかけて、爆発しても影響なさそうな芦ノ湖畔まで運ぶ。
 その途中、ジャラジの鉤針による必死の反撃を紫の装甲で受け止め、紫の強い力でもう1発殴って更に抵抗力を奪う。
 そして芦ノ湖に着くや、急停止した勢いで放り出して落下のショックを与え、もはや足腰立たなくなっているジャラジを紫の剣でメッタ斬りにする。
 この際も、金の力を発動してから、タイムリミットまで余裕を残した28秒という計算された戦い方をしている。
 “相手の長所を発揮させないまま、自分のペースで戦う”というのは戦術の基本だ。
 この時の雄介の戦いは、理想的な戦いだと言える。
 
 「ちょっと待て」と思ったあなた。
 あなたは正しい。
 違和感を感じてしかるべきなのだ。
 
 ビートチェイサーを降りた時点で、ジャラジとの距離はかなりあった。
 赤と金のキックを放つのにちょうどいい距離だが、ジャラジにはまだ鉤針という飛び道具がある。
 青ですら避けきれなかった鉤針だから、キックの前の精神集中をしている赤いクウガは当然避けられず、かなりのダメージを受けるだろう。
 だから紫のまま行った。
 それは構わない。
 ジャラジは既に動けなくなっていたのだから、確かにノロマな紫で歩いて行っても十分倒せる。
 ここまでは合理的だ。
 だが、その後にメッタ斬りにしているのはどうだろう?
 突き刺せばそれで終わるものを、敢えて6回も斬りつけ、それから剣を突き刺した挙げ句、引き下ろしている。
 ジャラジを5〜6回殺してお釣りのくる攻撃だ。
 これは、動きの早いブウロに緑の弓を連射したのとは訳が違う。
 どう見ても過剰な攻撃だ。
 “最小の攻撃で最大の効果”を得るのが戦術だ。
 とすれば、こんな攻撃は不合理極まりない。
 この不合理な攻撃の理由は、雄介の怒りだった。
 殺された90人(自殺者含む)を守れなかった自分の無力さ、怯える被害者を見て悦ぶジャラジの非道に対する怒り。
 しかし、怒りを相手にぶつけるというのは、それこそ正義の戦いですらない。
 鉤針を跳ね返しながらゆっくりと歩き、剣を振りかぶるクウガに威圧感を感じた人は多いと思うが、狙われるジャラジ自身は本当に怯えていた。
 もちろん、ジャラジについては正に“自業自得”なのであって、同情の余地はないのだが、雄介の戦いに対する態度として考えるとそうも言っていられない。
 “より有利な戦い方の模索”“怒りにまかせた戦い”は、いずれも“敵を倒すために戦う”戦士の戦い方だ。
 “天の愛を持つ者”の戦い方に相応しくない戦いをすることは、ベルトやアマダムに悪影響を及ぼすのではないだろうか。
 もし『心清き戦士』が戦いを好まない者でなくなったとしたら…。
 それが、『聖なる泉涸れ果てし時』ではないのか。
 その時こそ『凄まじき戦士雷の如く出で太陽は闇に葬られ』る時なのでは…?
 そしてジャラジを葬り去った時のクウガの姿は、まさしく鬼神の如き威圧感を持っており、爆炎の中に垣間見えた黒いクウガも、また悪鬼のような姿ではなかったか。
 
 もう1つ。
 『力を極め』戦うと、どうして『邪悪に染ま』るのか。
 それは、人(例えグロンギでも)を殺すということが“悪”だからだ。
 リントが戦士という概念を持たないほどの平和主義者の集団だとすると、グロンギのみならず、クウガに対してもかなりの拒絶反応を示したと思われる。
 平和主義者は、往々にして流血を嫌う。
 平安貴族がそういう思想の持ち主だったが、これは生物を傷つけるという行為自体を嫌うことだと考えてもいい。
 ましてや、人間を殺す存在など許されるはずがない。
 たとえそれが自分達を守るためだったとしても、だ。
 確かに必要な存在だが、自分は関わりたくない。
 先代のクウガは、そもそも必要悪として存在していたのだ。
 そう考えてベルトの文字
   心清き戦士、力を極めて戦い邪悪を葬る時
  汝の身も邪悪に染まりて永劫の闇に消えん

を解釈すると、『力を極めて』戦うということが、とりもなおさず“力を追い求めた”ということであり、しかもそれが“生物を殺すための力”であることが判る。
 “生物を殺すための力”とは、邪悪な心だ。
 更に、この『葬る』という文字は、元々『死体』の動詞化したものであり、『殺す』という意味の文字だ。
 つまり、
   戦い続けたクウガがより強い力を追い求めると、黒い戦士となり、その姿のまま敵を殺すと、クウガの姿はその邪悪な姿から二度と元には戻れず、人間として存在できなくなる
という意味ではないか。
 これを再び碑文の文字
    聖なる泉涸れ果てし時
  凄まじき戦士雷の如く出で

に当てはめると、
    心清き戦士がその清き心を失った時
  凄まじい力を持った邪悪な戦士が現れ

となり、両者の内容が符合する。
 碑文の続き『太陽は闇に葬られん』の解釈が残っているが、『太陽』が人間の姿だと考えれば、
   人間の姿を失ってしまう=元に戻れなくなる
となり、『太陽』が“清き心”だと考えれば、
   戦士の正しい心を失わせてしまう
ということになる。
 また、『太陽』が、もっと抽象的な、例えば“希望”というようなものだったとすると、
   全ての希望は失われ、世界は闇に支配される
となる。
 この場合、クウガ自身が人類の敵となる意味にすら取れるのだ。
 いずれにしても、ロクなことにならないようだ。

 ところで、『邪悪を葬る』を『敵を殺す』と解釈すると、黒いクウガが怪人を殺すことが不可能になり、マーチャンダイジング上大変不利なので、『邪悪を消し去る』と解釈した方がいいかもしれない。
 鷹羽的には、『敵を殺す』の方が可能性が高い気がするのだが…。
 
 さて、次のポイントは“クウガのベルトは何を参考に作られたか”だ。
 EPISODE37『接近』で「ダグバ」という人物のことが話題に上っている。
 グロンギ側の存在で、0号ではないかとさえ言われている人物だ。
 こいつが0号かどうかはともかく、長野でのグロンギ惨殺の張本人で、壁に血文字を残してきたヤツであることは間違いなかろう。
 更に、どうやらクウガとかなり密接な関係にある存在らしい。
 このことは、戦士を表すリント文字が血文字と酷似していることから推測されることだ。
 どちらも4本角だが、内側の角の生えている場所が違うことから、この血文字と、『凄まじき戦士』の『戦士』が似て非なるものであり、ストレートに同種のものではなく、酷似したものとして扱われているだろうことが判る。
 そのことは、下の文字を見比べてみると判ると思う。
戦士 凄まじき戦士 グロンギ文字


 『戦士』の方が若干整然としているような印象を受ける。
 しかしこの点からも、リントがクウガを“グロンギに似た存在”として見ていた可能性が増すことになる。
 リントと違い、現代日本人には“戦士”という概念がある。
 スタート地点から、既にリントよりも不利な場所にいるのだ。
 雄介が元々他人を傷つけることを好まない人間だということを考慮しても、やはり戦うことの意味も必要性も、先代のクウガよりよく判っているはずだ。
 怒りで戦い、力を求め、他者を傷つけることに躊躇がなくなった時、果たして雄介は雄介でいられるのか。
 そこまで行かないと信じたい。
 「戦士」という文字が元はグロンギの文字だと知って暗い表情をしていた雄介なら、きっと自分で答を見付けられるだろう。
 “五代君の笑顔のために頑張る”桜子もいる。
 愛すべき仲間の元に帰るために、雄介には早く気付いて貰いたいものだ。
 
 
 
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