仮面ライダーディケイドあばれ旅 6

後藤夕貴

更新日:2009年6月6日

 第10・11話は「仮面ライダー555」の世界。
 オリジナルでは大会社だったスマートブレインを学園に見立て、その中で暗躍するオルフェノクと影のヒーロー? ファイズを第三者視点で見つめるスタイルの物語。
 と同時に、新登場の仮面ライダーディエンド紹介編としての側面も加えられ、大変に注目度の高い内容となった。
 今回は、このDCD555編について触れてみよう。

●ファイズ学園の怪盗

 この文を書く随分前に終わった話なので、今回はさらりと流してみたい。
 また、後述するが今回は(ガシャポンHGシリーズ的表現だと)ディエンド誕生編と言っても支障のない内容だったので、あえてオリジナル版との比較は省く。
 ただ、「死人がオルフェノクとして復活する」「オルフェノクに殺されると灰化する」「ファイズ変身者もオルフェノク」という、基本的な所はしっかり継承している事は強調しておきたい。

 DCD555編の特徴は、オリジナル版独特の雰囲気を大きく覆し、人間関係を簡略化させている点にある。
 オリジナル版では、木場勇治をはじめとする三人のはぐれオルフェノク組と、乾巧を中心とするライダー組、そしてスマートブレイン側オルフェノクという、大まかに分けて三つのグループがおり、それらが様々なエピソードで複雑に絡み合うというものだった。
 更に加えて、スマートブレイン元社長や流星塾の元生徒達など、第四・第五とも取れるグループも登場し、良く言えば群集劇化、悪く言えば(キャラが多すぎて全体把握にある程度の期間視聴が必要なため)一見さんお断り状態となっていった。
 対してDCD555編は、こういったグループの多種性をあえて廃し、ライダーである尾上タクミもスマートブレイン側代表ともいえるラッキークローバーも、全部一まとめの舞台に括ってしまった。
 そこに士達ディケイド組を加えるわけだが、彼等も第二の勢力的には描かず、やっぱり同じ舞台内に統合してしまった。
 これは、相当思い切った簡略化だ。
 今回は、ディエンドこと海東大樹をピックアップする必要性があり、彼を一つの勢力(独立グループ)として描写する必要性があったため、このような大幅改革を行なったのではないだろうか。
 (尺の問題はともかく)仮に、キャラクター相関がオリジナル版と同じようなものだったら、恐らく今回は複雑になりすぎてしまっただろう。

 DCD555編でファイズに変身する尾上タクミは、乾巧と違い性格は控えめかつ地味、おまけに非・猫舌とほぼ正反対の性質に変えられており、また実に真っ直ぐな性格になっていた。
 かと思えば、友田由里の「いつか写真集を出す(ために写真の腕を磨く)」という“他人の夢を守る”ために尽力するというような、乾巧の心情はしっかり引き継いでいる。
 こういうのは単なる真逆とは違う、いわば好対照とでも言えばいいのだろう。
 全体的に目立たなかった印象があるのは残念だが、こうして見るとなかなかに面白み溢れるキャラだったことがわかる。
 これは、正体を隠しつつ、影ながら人間を、そして人の夢を守るために闘うという、今となっては懐かしい気さえする孤独なヒーロー像そのもので、本来平成ライダー的には「らしくない」ものだ。
 だが、その「らしくなさ」は、それなりに面白く描写されていたと感じる。
 しかも、原型となった乾巧とはまた違う味付けなのも興味深い。
 特に、ファイズギアを失い、それでも闘わなければならないためあえてオルフェノクを嫌う由里の前で正体を晒す場面は、「劇場版 仮面ライダー555 パラダイス・ロスト」の終盤戦闘シーンを彷彿とさせる。
 その後の、由里からの拒絶とラストの和解への流れは、たった二話限りの話にしては大変良く描けていた。
 もっとも、あのような公衆の面前で……というのは、いささか複雑な気がしてしまうが(笑)。

 また、そんなタクミが海東に付け狙われるという図式も面白い。
 海東にファイズギアを奪われるということは、彼がファイズになれない以外にも多くの問題を生み出すことになるが、あえて奪われるという形にせず自身に迷いを生じさせ、ファイズギアを捨てさせる演出は妙に味わい深い気がする。
 しかも、タクミがファイズギアを捨てた事から、士と鳴滝(&リュウガ)の対立シーンへと繋げ、更には海東をも乱入させディエンドの能力の一部を垣間見せる展開へと、次々に話が繋がっていく構成が実に上手い。
 もし、これが単に海東に奪われ翻弄されるという流れだったら、ちょっと面白みに欠けただろうし、何より士や鳴滝が絡め辛くなる。
 今回は特に傍観者ぶりが目立った気がする士だったが、彼がタクミの「捨て去ろうとした夢」を引き戻そうと、わざわざファイズギアを回収してくる所なども実にいい。
 また、そんな「タクミのために」とする士の行動を阻み、私利私欲のためだけに立ち塞がる海東もキャラが立っている。
 余り目立つ演出ではないが、このようにそれぞれのキャラの思惑が複雑に、かつわかりやすく絡み合っているという点で、DCD555編は実に良くこなれていると筆者は思う。

 だが。
 いかんせん、タクミ自体が地味すぎた。

 タクミはその設定上前面に出にくいキャラとなってしまったため、ファイズの正体だと判明するまでは、どうしても没個性化してしまう。
 これは演出上仕方のないことではあったが、そのせいで海東大樹の方が目立ちすぎてしまった。
 いや、一応新登場キャラでもある海東が目立つのは別に問題ないのだが、DCD555編は戦闘シーンの比率が比較的高めで、しかもその大半はディエンドas海東絡みだったため、そっちに印象が流れてしまった感は否めない。
 新登場キャラが二人居て、その片方が強烈な個性を発揮していると、もう一方はどうしても存在感が薄まってしまうものだが、今回はそれが製作側の見込み以上に強まってしまったようだ。
 もっとも、後編のAパート終盤辺りからはタクミにもしっかりスポットが当たるようになったため、それ以降はそこそこ良いバランスが取れていた。
 全体の4分の1だけバランスが取れているというのは良いことなのか、微妙ではあるが…。

 ちなみに、タクミの正体が明かされていない時点で述べられる由里の「オルフェノクは嫌い」発言と、それを聞いてうなだれるタクミの演出は、オリジナル版の乾巧の設定を理解している視聴者にとっては、大変趣深い。
 だが、オリジナル版を知らない人は、初見時はまずわからないようになっている伏線であり、決してオリジナル版知識に依存した演出ではない。
 いわば、タクミの素性を理解している・いないで捉え方が変わるという、大変面白い試みだったと云えるだろう。

●よくわからない世界観

 ひとまず、タクミやディエンドのことは置いといて、今回のストーリーをさらっと眺めてみよう。
 DCD555編は、キャラクターの動きこそ面白みが見られたが、実はここまでの展開で一番地味な内容となってしまった。
 その理由は  といったところだろう。

 DCD555編のオルフェノクについては後ほど語るが、とにかく舞台が大変限定されてしまっていたためか、この世界の危機感や歪みがまったくと言って良いほど伝わってこなかったのは大きなマイナスだ。
 今回、ファイズはオルフェノクと闘う戦士というより、「学園の平和を守る超限定活動ヒーロー」といったノリに留まってしまい、これではほとんどけっこう仮面と大差ない立ち位置だ。
 本来であれば、ラッキークローバーの暗躍や冒頭で出てきたオクラオルフェノクは、この世界を脅かす危機を示す代表例だった筈なのだが、それぞれそこそこ脅威的な活動をしたにも関わらず(オクラは、被害こそ少なかったがああいうアプローチで人間を襲う奴がいるとすると相当怖い世界だと判る筈だ)、イマイチ効果が薄かった。
 それに加え、普段あれだけ多くの取り巻きに囲まれているラッキークローバーが、まだ正体が知られていない時点で白昼堂々とテニスコートや公園で派手な戦闘をおっ始める等ツッコミ所も多く、人間とオルフェノクの関係が益々わからなくなる。
 無論、これはあくまでDCD555編に限定した話だが、ここにも「仮面ライダーディケイド」の問題点の一つ“過去作品を知っている人以外は置いてけぼり展開”が見て取れる。
 正直、この辺はオリジナル版を見て設定を把握し、それを以って補完しながら観ていないと意味不明甚だしい。

 せっかくコンパクトにまとまり、話の流れが判りやすくなっていたのに、肝心のこの部分がボケてしまっているのは本当にもったいないと思う。

●仮面ライダーディエンド

 海東大樹は、鳴滝同様自力で各世界を行き来する能力を持つ、正体不明の存在。
 各世界に存在する「お宝」なるものを見出し、それを奪取するため活動する怪盗だ。
 その能力、外観(のコンセプト)はディケイドにやや似てはいるもののほとんど別物で、「ディエンド自身の能力でかなりの格闘戦をこなせる」「仮面ライダーのレプリカを発生させられる」という特徴がある。
 この「ライダーのレプリカ」というのが最大の特徴で、これにより過去に登場したあらゆる平成ライダーが画面上に登場できるようになった。
 ディエンド自身は他のライダーに変身出来ないようだが、これにより一度に二人ないし三人のライダーをまとめて登場させ、敵をかく乱または翻弄させ、しかも本人は高見の見物を気取れるという、実に便利な(そして卑怯臭い)戦法が用いられる。
 本来、こういった卑怯な闘い方は問題と捉えられることが多いが、ことディエンドに関しては「実に彼らしい」という評価に摩り替わってしまう。
 これは、海東の性格を最初の内にしっかり描写しておいた賜物なのかもしれない。

 ディエンドのレプリカライダー召還は、単なる販促目的なのかと思いきや、意外な側面も含まれていることがわかって来た。
 ディケイドが用いるファイナルフォームライドは、その世界のライダーと関わった時の一度だけしか使用できない、大掛かりだが大変もったいないものだった。
 だがディエンドがライダーを召還出来る上、さらにFFRすらも行なえるため、ご当地世界ライダーがその場にいなくてもFFRやFARを使用出来る。
 これは、かなりおいしいだろう。
 ディエンドは、この後キバやブレイドで実際にFFRを行うが、これにより「今度は誰で何をする?」という期待感が発生するようになる。
 その世界に行かないと懐かしいライダーに出会えない代わりに、キャラクター間の結束を強めストーリーを深めていくディケイドと、所謂「弾」として過去ライダーを生産することで「今度は何をしでかすか」という期待感を持たせられるディエンド。
 こうして見ていくと、それぞれ性質の違う「楽しみ」を生み出してくれていることがわかる。
 正直、DCD555編でのディエンドの出張り方にはいささか違和感を覚えた筆者だったが、その後の活躍を見て、これはこれでありなんだなと考えを改めさせられた。
 ディケイドの他ライダー能力の使役も楽しいが、ディエンドが加わることでそれが更に膨らむのだ。
 ここしばらくの二号目ライダーとしては、かなり番組への貢献度が高い存在なのではないだろうか?

 ただ残念なのは、そういった能力のアピールのためにDCD555編の尺の多くが犠牲になってしまったこと、そして海東自身のキャラクター性に幅を持たせ辛くなっている点が挙げられる。
 立場上、海東は士のような偽悪者的振る舞いは出来ず、かといって(基本お宝以外に興味がないと主張している都合)本当は良い奴的な側面を見せることも難しくなっている。
 否、実際は結構良い奴的な活動もしてはいるので、根っからの極悪人ではないのはわかるが、今ひとつ深みに欠けるのだ。
 ひょっとしたら製作側は、「ルパン三世」における峰不二子や「アクマイザー3」のダルニアのような“敵とも味方ともつかない存在”として描いて行きたいのかもしれないが、それにしては今ひとつ面白みに欠けるというか、徹底感に乏しい。
 もし、海東がその世界のお宝に対して周囲が引くほどの執着心を持っているとか、または口では悪そうなことを言いつつも、なんだかんだで真っ先に誰かを助けに駆けつけるとか(ツンデレ的な意味で)、一本芯の通った態度を示していれば、こういった印象はなかったのではないかと考えられる。
 だが実際の海東はどちらもあまり徹底しているとは云えず、お宝も意外に早く諦めたり、また士やユウスケ達の援護も中途半端だったりと、イマイチ締りがよろしくない。
 また、海東大樹を演じる戸谷公人氏のイメージが、飄々としたつかみ所のないものだという事もあり、その性質が把握し辛いという点も災いしているようだ。
 もっとも、戸谷公人氏については全てが全て悪いということではなく、海東の真意が上手く隠蔽されたり、また行動目的の不可解さが際立ったりとプラスになっている面も多いため、決してミスキャストだったとは筆者は思っていない。

●オルフェノク

 今回非常に残念だったのが、ある意味物語の要となるべき「オルフェノク」の存在意義だった。
 一応、オリジナル版の基本設定は劇中でも語られはするのだが、ものすごくあっさりと説明されるだけの上、「殺されても運が良ければオルフェノクとして蘇る」という部分は後編ラッキークローバー大暴れの場面でセリフで一度だけ述べられる程度で、オリジナル版を観ていない人が聞き逃していたら全然理解出来ない。
 というか、「死んだらオルフェノクになるかもしれない」のと「オルフェノクに殺されるとオルフェノクになるかもしれない」というのは、実はイコールではない。
 怪人に殺されたら何か変な細菌みたいのが感染してゾンビ理論で怪人化するわけではなく※、事故死・自然死でもオルフェノク化する可能性があるわけだから、若干ニュアンスが異なるわけだ。
 オリジナル版では、木場勇治と長田結花がこのパターンでオリジナルオルフェノクと化している。
 オリジナル版を観ていない人がこの辺を同一視出来るのかどうか、大変に微妙なのだ。
 原因はともあれ、死んでしまえば何割かの確率でオルフェノク化する、という情報は、もっと最初の方で示すべきであり、或いはオルフェノク自身に「仲間を増やす」などの目的意識を語らせれば良かったのだ。
 だが、実際にオルフェノク(具体的にはタイガーオルフェノク)から語られたのは「人類を支配する」という目的意識だけ。
 これではあまりにも説明不足と言わざるを得ないだろう。
 こういった「オルフェノクの発生理由」という大事な部分がイマイチピンボケ気味だったせいか、DCD555編はオルフェノクが人間を襲う理由が希薄に感じられ、説得力に乏しくなってしまった。
 まあ、怪人が出てくる=特に理由なく一般人が襲われる、という図式でも別に構いはしないだろうが、それではせっかくのオルフェノクのおいしい設定が台無しだ。
 DCD555編世界のオルフェノクは、オリジナル版とそれとは違うとすることも一応可能ではあるが、それなら逆に冒頭で語られたオルフェノク誕生プロセスが不要になってしまい、また(ファンガイアやワームとは異質な)「民間の中に怪人が紛れている恐怖」や「ファイズ等が闘う理由」まで薄まってしまう。

 また、今回のメイン悪役「ラッキークローバー」を巡る表現も、大変残念だった。
 劇中では、所謂一般のヒラ?オルフェノクがほとんど登場しなかったこともあり、オルフェノクの中にも能力の大小による階級差(のようなもの)が存在するという表現がほとんどなく、まるで人間的に優秀な能力を持っている者がオルフェノクになると更に強い=ラッキークローバーを名乗れる、とも解釈出来てしまいそうな雰囲気になってしまった。
 それはそれで設定改変なら問題ないのだが、劇中ではタイガーオルフェノクによる「灰化したオルフェノクの蘇生」という、オリジナル版でもなかったトンデモ能力が出ており、それだけでも「他のとは違う」感が出ていた。
 ということは、やはりラッキークローバーはオリジナル版同様、オルフェノクの中でも特殊な存在なのだ。
 なのに、それが全然伝わらない。
 こういうところが、なんだかすごくちぐはぐなのだ。

 今回オルフェノクの脅威が充分にアピールし切れていなかったため、それに連動して、彼等と闘う理由、人間を守らなければならない理由、(オルフェノクなのに人間のために闘う)タクミの存在意義など、様々なポイントに悪影響が及んでいる感があったわけだ。
 もし、これがDCD龍騎編のように「ライダー裁判」という、キャラクターとはまったく別な部分への追求があったり、DCD剣編のような不条理な会社システムの糾弾といった側面があるのならまだ良かったが、DCD555編は「オルフェノクという人類の脅威が中心にある」という部分をヘタに忠実に踏襲してしまったため、そういった逃げ道が設けられなかったのだ。

 では、なぜオルフェノクの存在がここまで希薄化してしまったのか?
 再考してみると、このページ冒頭で褒めた「人間相関の簡略化」が災いしてしまっているようだ。
 というわけで、もう一度この部分をピックアップしてみよう。

※オリジナル版では、独自でオルフェノク化した者が人間を襲う際、心臓に触手や攻撃器官を突き刺し、エネルギーを送り込む(それにより被害者にはオルフェノク化するかどうかの選択が突きつけられる形になる)という設定になっているので、一応ゾンビと同じ「感染復活」であるともいえなくはない。
ただ、DCD555編ではこの辺の描写がなく、また具体的な変化プロセスの説明もないので、同一視するのは問題があると考え、あえて先のような書き方をしているのでご注意を。

●簡略化が招いた弊害?

 先の項では、人間関係が簡略化されたため大変わかりやすくなったと記したが、同時にオルフェノクの描写が薄まるという副作用を生み出してしまった。
 関係の簡略化は、「スマートブレインハイスクール所属組」と「ディケイド組」「海東大樹」という三つ巴状態を構成するためだと考えられ、また「キャラとその関連が複雑になり過ぎてわかり辛い」と、当時云われたオリジナル版の反省を活かしたものとも捉えられる。
 簡略化されたという事は、見方を変えればそれぞれの描写がより濃密になるという事にも繋がる。
 先で評価していた点はまさにそれであり、これにより士も海東も、タクミらの描写も面白いものになった。

 しかし、今回はディエンド登場編がメインだった。
 必然的に海東を巡る場面がかなりの割合を占めることになるため、その分他を簡略化したようだ。
 つまり、簡略化によって空いたゆとり部分のほとんどは、ディエンドに回されてしまった。
 本当なら、そのうちいくらかはDCD世界におけるオルフェノクの脅威表現に用いなければならなかったのにだ。

 平成ライダーは普通の人間の姿になれる怪人が大変多く、それぞれのオリジナル版を見ていなければ、どうして彼等がそのような存在なのかという理由がわかりづらく、かつ区別し辛いという特徴を持っている。
 例えば「仮面ライダークウガ」のグロンギと「仮面ライダーカブト」のワームは、それぞれ人間の姿を持つ理由が全く異なっているが、表面的な部分だけ見ればどちらも大差ないように見える。
 仮面ライダーに詳しくない人がそれぞれをさらっと流し観したとしたら、抱く印象はほとんど同じだろう。
 何故なら、グロンギやワームで一番インパクトのあるシーンは、怪人の姿になる所だからだ。
 だからといってただ「人間の姿になる怪人」を無造作に出せば面白くなるわけではなく、「仮面ライダー剣」の一部上級アンデッドのように、主人公達の心強い協力者として支援してくれる者など、少々捻った個性を組み込んでいく必要性も生じる。
 人間の姿にもなれる怪人は、平成に限らず昭和ライダーにも登場していたが、それらはほとんどが「擬態」に過ぎず、どちらかというとストーリー上重要だからではなく、視聴者をびっくりさせるという瞬間的効果を狙う目的がほとんどだった。
 こういった設定は珍しいものではなく、それまでの特撮ヒーロー物では、ごくありふれた演出だったのだ。
 しかし、オリジナル版のオルフェノクは、そういったありふれた要素を継承しながらも、画期的な存在へと昇華させ、同時に大きくかつ新鮮なインパクトを生み出すことに成功した。
 闘う怪人は、かつては普通の人間だった、という良い意味での「歪み」「きしみ」が、オルフェノクを単なるやられキャラに留まらせず、危機迫る世界観の重要なファクターにしていた。
 「劇場版仮面ライダー555」では、それを更に煮詰め人類のほとんどがオルフェノク化してしまったという、もっと恐ろしい世界観を用意し、ラストバトルでは「多数のオルフェノク達が取り囲む環境下で決闘させられる」という、絶望的な状況を充分過ぎるほどのインパクトで描き切った。
 このように、オルフェノクはそれ自体が「555の世界」を表現する重要な材料であり、(偶発的だったのかもしれないが)計算され尽くした怪人像だったのだ。

 翻ってDCD555編のオルフェノクは、どうやらそれらオリジナル版の知識を以ってようやく補完が叶うという、やや情けないレベルに留まってしまったようだ。
 単純にオリジナル版と比較することは出来ないが、少なくとも今回は「人間が忌み嫌う理由」「オルフェノクに対する人間の恐怖心・嫌悪感」「オルフェノクが暗躍すことによる様々な影響」は、DCD555編独自のものを準備するべきだったのだ。
 そういう意味では、舞台を一つの学園に留めてしまったのは、ひょっとしたらマイナスだったのかもしれない。
 例えばだが、DCD555編の世界も「劇場版仮面ライダー555」同様、ほとんど人間が残っていない世界で、スマートブレインハイスクールはその中で数少ない人間のみの学校または特殊施設としておけば、「この中にオルフェノクが混じっている」という恐ろしさが際立ったかもしれないし、ましてそれが学園内の人気者だったとしたなら、インパクトはなかなかのものになるのではないか。
 或いは、そこまで徹底しなくても、オルフェノクが増殖していることでこの世界がどのように変わっているのかを、士視点で良いからもっと掘り下げて知らしめるべきだった。
 オルフェノク自体の説明をしてそれで終わりでは、この辺があまりにも寂しい。
 ディエンドを引き立てるために色々簡略化するのはいいにしても、そのために本来“仮面ライダーより”重要な存在(設定)まで簡略化してしまっては意味がない。
 まして、肝心のラッキークローバーも、ファイズを倒す以外に目立った目的は持っておらず、タクミが変身不能になったとわかった途端単なる暴徒と化してしまったのはどうだろうか。
 こう書くと、まるで彼らがそれまでファイズの存在を恐れて萎縮していたかのようにも思えるが、実際はそんな事はなく、別にファイズがいようがいまいがいつでも暴れられたように思えてならない。
 これは、彼らがラッキークローバー(特に強い能力を持つオルフェノク)だと自覚しているからかもしれないが、それだと何故普段は普通の人間として振る舞い、生徒達からチヤホヤされているのかがわからなくなる。

 オリジナル版と同じくらいの存在にしろとは言わないし、本来ここで比較はするべきではないのだが、DCD555編のオルフェノクとして「こいつらは放っておいたらマジヤバイ」くらいの印象は持たせて欲しかったものだ。
 そうでなければ、いくらタクミが立ち直っても、由里がタクミを受け容れても、ディケイドとファイズが共闘しても、カタルシスがないではないか。

【個人的感想】

 ぶっちゃけ、個人的にはあまり良い評価は出来ない。
 今後活躍するディエンドのための大いなる捨石、と割り切るには、あまりにも大きすぎる犠牲だったという印象がどうしても拭えなかった。
 物語の方向性自体は割と良かった上、オリジナル版で目立った煩雑さも解消されていたため、本当ならもっと高評価したかったのだが、今回はごめん無理状態。
 筆者はあまり「仮面ライダー555」は好きじゃないが、それにしても、これでは555ファンが可哀想だと感じられたほどだった。

 とはいえ、間を空けて観返したら、ある程度問題点が許容出来るようになっていた事も述べておきたい。
 筆者は、初回でNGを出し二回目でもやや厳しかったのだが、今回のレビューを書くにあたり三回目を観直したところ、海東asディエンドの描写の評価がいつのまにか変わっていた。
 彼の性質が、DCD555編放送当時より理解できるようになったせいなのか、割と受け容れやすい。
 というか、あの時は「なんなんだこの新参?!」というイメージが強すぎ、それに大きく尺を取られることが納得出来なかったのかもしれない。
 あらためてDCD555編を見てみると、実はその後のエピソードよりも海東の描き方が丁寧なことに気付く。
 お宝目的とそのために他を省みない性格、しかしてそれなりに協力体制にもなり、案外良い奴かもと思ったら、更にその裏があるという、まさに海東エッセンスの凝縮。
 これを書いている時点で唯一「実際にお宝を入手した」場面があったせいか、ラストでオーガドライバーを入手した時の彼の喜び方は面白かった。
 海東の描き方は、実は問題はなかった。
 けど、初回の印象は悪かった。
 これでは、自分は実際どういう評価を下せるのか?
 それが明確に示せないので、「ごめん無理」となるわけだ。

 それは別として、今回アクセルフォームだけはどこかに露出しといて欲しかったなと筆者は思わされた。
 この後、DCDカブト編で大変印象的な使われ方をするのだから、ここで初お目見えさせておいた方が絶対良かったと思われる。
 だってアレ、知らない人が見たら「どんなご都合主義能力だよ!」としか思えないよ…?

 さて次は「DCDアギト編」。
 やや残念だった今回の雰囲気を、これ以上ないほど払拭してくれた傑作となった。
 ……が、同時にメインライターだった會川昇氏最後の参加となってしまった。

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