以前、テレビのチャンネルを変えたら、たまたま目に止まった番組の話。
何の番組かは覚えていないが、内容は子供の食事について色々述べるものだったと思う。
興味を惹いたのは、食事の摂り方に変化が起きているという部分。
画面には、テーブルに並べられた料理を一品ずつさらえていく、子供の姿が映されていた。
一見何でもないように思えたが、次に映ったのは、
お寿司までもネタとシャリ別々に食べる子供の姿。
その子の親は、いつからこういう食べ方になっていたのか知らなかったという。
しかも、出されたものは残さず食べるため、どう注意していいものかと困惑しているそうだ。
その後、テレビの取材班はあるものを食べてもらう実験を各所で行った結果、子供の食べ方に外国人(特に西欧人)との共通点があると強調する。
その判断材料となった、あるものとは「
カツ丼」。
いつ、どこで、どんな人を集めて、なぜカツ丼で、どのように食べてもらったのか?
詳細は、実験の説明が曖昧だったからか、単にBOOが聞き流していたからなのか、覚えていないため判らない。
とにかく、この実験の中で外人に「カツ丼」を出した時、上記の子供と非常に似た結果を示したため“両者の食べ方は共通している”というのだ。
なるほど、画面に映る彼らはほぼ一様に、カツとご飯を一緒に口に運ばず、カツ→ご飯の順に食べていた。
そう、ご飯の上に乗っているカツをきれいサッパリ平らげて、初めてご飯に手を付けたのだ。
その姿はなるほど、寿司をバラバラに食べていた、先の子供の行為と非常に似ている。
食後にインタビューされた外人の一人は、食べ方について「カツがメインで、ご飯はオカズでしょう?」と言い切っている。
カツとご飯は別の料理だから、一つずつ食べるのが当たり前、とも言っていた。
後に出てきた識者によれば、日本人には口の中で複数のおかずを味わう「口内調合」という独自の習慣があるという。
例えば、懐石料理などで小皿が多いのは、主食であるご飯と食べ合わせることで「口内調合を」し、味の変化を楽しむための結果なのだそうだ。
それに対し、西欧人にはおかずと主食を合わせて食べるという考え方が無いため、出された料理をバラバラに食べることに何の疑問も持たないという。
確かに、お寿司をネタとシャリで別個に食べていた子は、料理を食べること自体には何の疑問も持っていないように見えたので、カツ丼だけでなく丼ものの類は全て、別々に食べるかもしれない。
このように、子供の食べ方に西欧人と似た傾向がみられるのは「口内調合」が失われつつある警告だ、ということらしい。
番組の最後の方はよく覚えていないが、子供には日本独自の文化を無くしてもらいたくないですね、みたいなことを言って終わったと思う。
カツ丼の実験を外人と子供の両方で行っていない所や、子供の食べ方を直したわけでもない所など、突っ込み所が多々ある気はするが、結構面白い内容だった。
好き嫌いで変則的な食べ方をするのではなく、西欧化という習慣による変化。
時代が変わればそれなりの変化もある、ということだろうか。
BOO自身、前述したカツ丼や寿司のような食べ方こそないが、一人で食事をする時は、片付け易いよう、おかずを一品ごとに平らげて食器を重ねることが多くなった。
生活環境上、都合の良い食べ方をしていたらいつのまにかこうなっていた。
ただ、口内調合の示す「一緒に食べる」範囲がどの程度のことなのか?
テレビからは、「複数の食材を同時に口の中に入れる」ということ以外は判断できない。
そのため、「何をしていないと西欧化とみる」のか、今一つよく解らなかった。
一応、BOOは一枚の皿の上に盛られた料理を、食材毎に個別に食べたりはしない。
だから、BOO自身の食べ方は、今回の問題と多少方向が異なると思われる。
しかし、文化とか習慣とか言われてしまうと、環境の変化による影響という意味ではBOOも含まれてしまいそうで無視できない。
BOOでこうなのだから、子供の食事で指摘された文化・習慣の希薄さは、なおのこと、環境が子供自身の都合に影響を及ぼした結果かもしれないのだ。
考えてみると、普段聞く食事に関することは、「箸の持ち方」「好き嫌い」「伝統の味」といった言葉がほとんどで、食べ方ではない。
食事の「作法」もあるが、これはあくまで「食べるかたち」であって、口に入れた料理の味わい方に対しては意味を持たない。
「〜して食べてください」と食べ方を指定されている料理なら、なんで? と考える必要もそれほどない。
つまり、口に入った料理に関する具体的な言及は、食後に感想を聞いた時くらいしか耳にする機会は無いのだ。
人の感じ方は千差万別で、決まった形式など存在しない。
そのため「口内調合」は、「複数の料理を一緒に食べる文化的意味・意義」を定義して教えるより、料理を食べた者どうしの「共感」によって覚えてもらわなければならない、ということになる。
習ったこともない、食事の背景になんとなく見ていただけの、曖昧な物事を他人に伝えることは難しい。
まして、相手は子供だけに、人によっては難度も相当なものだろう。
食に関する文化・習慣はそれまで認識していなかった事だけに、前述の寿司を食べる子供の親が教えあぐねてしまうのも無理もない。
日本人にとって主食のお米は、それ単体より他のものと一緒に食べることで味が広がる食材だ。
子供の食に関して、口の中で味わうことの楽しみが半減してしまっているのは実にもったいない。
お新香でご飯を食べる。
すき焼きの肉や野菜を、ご飯と一緒に一気に口に運ぶ。
味噌汁を、ご飯にかけて食べる(…のは若干はしたないけど、それはこの際置いといて)。
等々、一緒に食べることで美味しさが現れるものはいくらでもある。
いやいや、子供ならそんなもんじゃないだろう。
ご飯に何が合うか、ということを考えるよりも先に、まず食べる。
お腹が減れば、とにかく食べる。
見てくれが悪いものはともかく、とりあえず空腹を満たすことを優先に、何でもかんでも口の中に入れて、ものの善し悪しを判断していたのではなかったか?
親に多くを教えられるより先に、子供はいつも体を張って、そこに新しい何かを見出していたと思うのだが。
最近はそうでもないのだろうか?
例えば、基本的に「なぜそうなるのか解らない」特異な組み合わせが大半を占める、微妙な食べ合わせの話がある。
「プリンにしょうゆをかけるとウニの味」とか、「キュウリにはちみつをかけて食べるとメロンの味」といった種々の微妙な組み合わせを聞いたことのある人は多いだろう。
知識だけでは予測できないのが、この食べ方の醍醐味だ。
ウニの味など、しょうゆをかけるプリンの種類によって異なるらしく、なかなかに奥が深い。
中には、「ガムとチョコレートを一緒に食べるとガムが(正確にはガムベースが)消える」ような化学的根拠のある発見もあるが、大抵のものは大人では思いつけそうもない。
よくも、これだけ縁の無い食べ物を一緒にできるものだ、と感心する。
誰が最初に言い出したか判らないが、BOOが小学校の頃にはすでに有名な話だったので、最初に発見したのは多分、子供ではないだろうか。
発信元はともかく、こうした話が小学校に広がるあたりに、子供は何でも食べて証明してきたという過程が、顕著に現れていると思う。
思いも拠らない多種多様な発見(実験?)は、大人には真似のできない子供の特権だ。
新ネタを聞かなくなったのは、BOOが大人になって、話を聞く機会を失ったからだろうか?
それとも子供が無謀な食べ方をしなくなってしまったからだろうか?
前述のテレビの子供たちは、これらのような食べ合わせの話を知っているだろうか?
いや、知らないかもしれない。
仮に話を知っていたとしても、バラバラに食べる今の食べ方では、こうした発見の機会を得られないし、偶然の産物に出会うことも無いだろう。
もったいない話だ。
そんな子供たちのために考えてみる。
一緒に口に入れれば、不思議な現象が体験できる(かもしれない)。
この事を利用して、うまく誘導できれば、子供に色々な食べ物を一緒に食べさせられるのではないか?
もちろん、先に述べたように、子供を相手にすることは難度が高い。
しかも、そうそう新たな発見は滅多にないだろうし、「ドリアンにワイン(というか、酒類)」のような、毒となる食べ合わせには十分配慮する必要もある。
あ、いやいや、お酒はハタチになってからだし、ドリアンとの化学的実証が成されていないので、より身近な「うなぎと梅干」の方が良いだろうか。
身体に悪影響を及ぼす食べ合わせは、「水と油」のように処理過程の異なるものや、醗酵を急激に促す反応物が、体内に混在した時に発生するという。
これを子供に説明するのは難しい。
親は専門家ではないから、自分でもよく解らないものをしつこく聞かれたら、きっと答えに窮してしまうだろう。
何より、子供に中途半端な理解をされても困る。
だから、判り易い食材を用いた「一緒に食べると、お腹が痛くなる」という、半ば迷信のような教訓が伝えられるようになったわけだ。
子供は、実際にありそうな問題に対し、時に侮れないほどの警戒心を発揮する。
たとえマユツバな話でも、無茶な食べ方の系統に警戒心を持ってくれるなら、一応の保険にはなるだろう。
とにかく、一緒に食べるという行為に興味を持ってくれればしめたもの。
自ら「もしかしたら」と習慣的に繰り返すことで、子供は正しい食べ方を自然に身につけることができるはずだ。
のちに、一緒に食べる習慣が、実は日本文化に基づく行為だということを教える。
これで子供が意識してくれれば、食べ方は元に戻り、失われつつある伝統も復活して一石二鳥。
きっと、テレビで見たあの子達も普通に=日本独自の文化形態で、食べられるようになるに違いない。
話がウマすぎる気もするが、子供は理屈より感覚で動く場合が多いので、試してみる価値はある。
習慣は、行う者がいなければ徐々に消えていく。
親から子、そして孫へ、何も知らずに時が流れれば、習慣どころか、口内調合をはじめ、独自の文化も消えていく。
繋げるためには、誰かが子供に何かを教える必要があるのだ。
子供のチャレンジを促すのは親だけに限らず、近くにいる大人だって構わないだろう。
少し前なら、知らないオジチャンから食べ物に限らず、何かしら話を聞いたり教えてもらったりするのは当たり前のことだった。
BOOもそういう経験をした。
家を建てる時に会った大工さんや、家の壁の補修工事に来ていたおじさん、お盆の檀家回りをするお坊さん、学校の帰り道でウサン臭い玩具を売っていた謎のおじちゃん等々、好奇心を原動力にあれこれ話しかけ、色々聞いたものである。
思い返してみれば、知らない人に会う機会は結構あるものだ。
といっても、教えてもらった技は、活かす機会のなさそうな「座禅を組んだままヒザで歩く」等の、些細なものばかりだが。
それに、最近は小学生の誘拐・殺害事件等の物騒な事件が多くなり、通学路や遊びに行く先も自由ではなくなりつつある。
貴重な経験をする機会は、子供がそれと気がつく前に失われつつあるのだ。
そろそろお腹が空いてきた。
せっかくBOO自身で振った話なので、自分も食べ方には気をつけてみようと思う。
かつて、赤城山のスタッフ数人で食事をした時、柏木氏から「BOO氏は美味しそうに食べますねぇ」と言われたことがある。
会食の時に限らず、食事をすることは大好きだ。
だからこの時も、何を意識するでもなく、単にBOOが食べたい物(マグロ丼だったかなぁ)を頼んで、口いっぱいにほおばっていた。
その食事姿が、氏の目には「美味しそうな姿」として映ったようだ。
きっと「食事をすることは、ありがたいこと・楽しいこと」と思う気持ちが、にじみ出ていたのだろう。
好き嫌い無く食べてきた行為を、他人に好意的に取ってもらえるのは、いくつになっても嬉しいものだ。
大人でこれなのだから、子供ならなおのこと、同じ事を言われたら嬉しくなるのではないだろうか。
子供たちも、口内調合の前にまず、「食べる楽しさ」と他人の目に映る「食事の美味しさ」を覚えて欲しい。
気にしなくてよかったことを、気にしなければならない時代になりつつあるのか。
もしそうなら、それは実に悲しい時代だと思う。
みんな、日本独自の文化、守ってますか?
楽しく食べてますか?
BOOは今から、食を楽しみに行ってきます。
今日はなーにを食べようかなぁ〜。
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