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更新日:2005年12月18日 | ||
このサイトに古くからいらしている方ならご存じでしょうが、鷹羽は『仮面ライダークウガ』が大好きです。 欠点も多くある作品でしたし、人によって好き嫌いもあるでしょうが、 当初は人間からも怪物と認識されるヒーロー 怪人の活動を“殺人事件”と捉え、様々な方面から事件解決に尽力する警察 など、ヒーロー物の世界を極力リアルに描いたという点で、大変斬新な作劇手法だったと思います。 そんな中で、鷹羽が高く評価している描写の1つに集団登下校があります。 これは、首都圏における未確認生命体(グロンギ)の活動に伴い、小学生を、地域ごとに保護者が交代で引率して登下校させるというもので、訳の分からない化け物が跋扈する世界で、子供を1人で学校に行かせることもできないという地に足のついた不安を描いていました。 しかも、“それがどの程度有効なのか”とか“保護者の負担が大きい”などの疑問を抱かせつつも、“かといって、ほかにどうすればいいのか分からない”という閉塞感まで感じさせて非常に好きでした。 この集団登下校は、主に“科警研の榎田さんが忙しくて息子と一緒にいられない”という描写の一環として、“ほかの子はお母さんが引率してくれるのに、うちだけお婆ちゃん”という榎田の母の愚痴と、連続して発生する未確認生命体関連事件への対応に忙しくてお母さんが家にいないという子供の寂しさとして描かれています。 この一家のすれ違い描写は作中何度も行われ、しかもラスト間際でのカブトムシ種怪人ゴ・ガドル・バとの決戦の回にまで榎田一家の描写にウエイトが置かれてしまったこともあって、一部では、この描写自体が非常に問題のあるものとして受け取られています。 鷹羽としては、少々やり過ぎだと思いますが、少なくともこの集団登下校については、いつ、どこで発生するか分からない大量殺人事件を前に、一般市民がそれなりの負担を負ってでも自衛策を講じざるを得ないという社会状況を描いた部分として、秀逸だったと思っています。 さて。 前置きが長くなってしまいました。 もちろん、今回のテーマは、未確認生命体が本当に出現したなどというものではありません。 人間が、未確認生命体並に理解不能な存在になってしまったということです。 ここ数年、子供が被害者になる凶悪事件が多発しています。 通学路で子供に車が突っ込むというような事故から、学校に不審者が入り込んで子供を死傷させる、行方不明になった数日後に死体で発見されるようなものまで様々ですが、いずれも10年前なら滅多に起きなかったことが、しょっちゅう起きているという感があります。 特に、今年は、通学路の子供に暴走車が突っ込んだり、小学1年程度の子供が誘拐されて死体で発見されたりといった事件が立て続けに起きたこともあって、犯罪を抑制するようなインフラ整備を求める声が強くなっているようです。 既に、歌舞伎町辺りでは、子供保護目的ではありませんが、防犯用の監視カメラが設置されているとか。 最近では、事件現場周辺のコンビニの監視カメラなんかも、犯行前後の犯人が映っているかもしれないからということで、警察が調べたりしているようです。 そういう監視が必要な時代だということなんでしょうね。 実際、鷹羽の周囲にいる小学校低学年の子供を持つ人達は、最近の状況にかなり不安を感じているようで、ニュースを見る目も、人ごとではないといった印象を受けます。 鷹羽も、きっとそういう年代の子供がいれば、同じように、明日は我が身と思いながらニュースを見ることになると思います。 ニュースを見て、「あれは特別な例だから」と思えた時代は、もう終わってしまいました。 現実に、集団登下校が必要だと唱える人も多いですし、既に行っているところもあるそうです。 もっと強烈に、“小学生は全員スクールバスで自宅前まで送迎すべきだ”という意見を述べる人までいます。 となれば、学校帰りに寄り道して遅くなるなんてことは、不可能でしょう。 鷹羽の感覚としては、子供が学校からいつまでも帰ってこない親の思うことは、まず「いつまでも、どこほっつき歩いてんだ?」であり、7時を回り、8時を過ぎるころにようやく「まさか、何かあったのでは?」と心配し始めるという感じでした。 それが、今のように、学校からまっすぐ帰ってこないと心配でたまらない状況というのは、ちょっと異常でしょう。 未知の怪物ではなく、(少なくとも肉体的には)ごく普通の人間によって、そういった事態が引き起こされているわけで、これは憂慮すべきことです。 鷹羽は、幼いころ、幼稚園や小学校から一旦帰宅した後、近所の公園なり友達の家なりに遊びに行っていました。 公園で遊んでいた場合、一緒に遊んでいた友達が帰った後も、見たいテレビ番組がない限りは、親が夕飯だと呼びに来るか暗くなるまで遊び続けていたものです。 鷹羽にとって、「夕焼け」という言葉から連想されるものは、自宅近くの公園の植え込みの上に広がる赤い空と雲です。 公園の端から近づいてくる、呼びに来た親の姿も、今にして思えば“自分が愛されている”という実感を与えてくれたような気がします。 今の子供達って、そういうほんわかした思い出を持つことすら許されないんでしょうか? それでなくても、今は泥んこになって遊べる公園とかが少ないと聞きますが、それに加えて“大人と一緒にいないと危ない”という最近の情勢では、1人で、あるいは友達と一緒に小さな大冒険をすることすらできません。 塀の上を歩いてどこまで行けるかというような、大人になって考えると何の意味もないことが素晴らしい冒険だったりするのを知らないのは、結構不幸だと思うんですよ。 ええ、そりゃあもう、男の子でも女の子でも、です。 いずれにしても、こういう状況だと、またぞろ少女愛がどうのとか、18禁ゲームがどうのとか、規制を厳しくするべきだという声が上がりそうな気がするんですけど、それって根本的解決になりません。 そういうゲームをやって、直ちに現実と区別が付かなくなるような輩は、そもそも何をやっても道を踏み外す可能性があるわけですから。 激情に駆られて、といった突発的な事件はともかくとして、ある程度計画的な犯行を行う者は、その最中に何度も立ち止まるチャンスがあります。 また、計画が成功する、失敗するといった天秤をじっくり見るチャンスだってあるわけです。 「バレたらどうしよう?」という不安は、そういった人の心には常にあるはずのもので、一昔前なら、よしんば考えたにしても、“これで人生棒に振るのはゴメンだ”と思い直す人の方が多かったわけです。 あ、もちろん、じっくり計画を練る人ばかりの話ではありません。 例えば上司をぶん殴ってやりたいと思ったことのある人は多いでしょうが、普通は、そうした場合のその後の自分の立場を咄嗟に考えて我慢しているわけです。 最近の犯罪を見ると、オレオレ詐欺とか、鉄筋が少なかったりとか、誰が見ても“いつかバレるだろう”“バレたら後が大変だ”と思うようなことをやっている人が多いわけで。 ゆとり教育とかいって、土曜日を休みにしてカリキュラムが平日に入りきらないなどと騒ぐ前に、家でも、学校でも、自制心とか、他人を思いやる気持ちとか、前向きに努力する気持ちとか、いわゆる道徳的な感覚なんかを育てる教育をもうちょっと考えるべきなんじゃないのかなぁと思ってしまう鷹羽でした。 事実は小説より奇なりと言いますが、トクサツ番組より殺伐としててどうするのよ、と。 → NEXT COLUM |
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