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更新日:2004年11月21日 | ||||||||||||||||||
2004年10月末、話題の映画「デビルマン」を観に行った。 「仮面ライダーブレイド&特捜戦隊デカレンジャー」を見送ったのに、一体ナニを観ているんだという声もあるかもしれないが(笑)。 近年これほど話題になった邦画もないという事で、ネタとして観ておくべきだと個人的に判断。 上映期間も末期になった頃、オークションで前売りを安価で落札して挑んだ。 というわけで、今回は、この映画の批評。 映画「デビルマン」に関する情報をまったく知らない人のために、簡単な説明をしておきたい。 この映画は、2004年11月現在、「もっともひどい邦画」として叩かれまくっている作品だ。 どこがどうヒドイのか…と説明し始めたらキリがないくらい、問題点が多い。 キャッチコピーの「完全実写化」という言葉を鵜呑みにして観に行くと、致命傷を受けかねない。 その悲惨さは、公開前に提示されていたいくつかの宣伝素材からも、充分に見て取れる程だ。 主役の演技力不足
ギャグとしか思えない、シレーヌの“コスプレをした”つもりの、富永愛の姿 プレイステーションのゲームのデモ並のCGシーン ほとんど登場しないデーモン族 監督や出演者の、訳のわからないコメントの数々 これらのおかげで、映画「デビルマン」は、公開日が近づくにつれてファンの評判は低下。 それどころか反発の方が凄くなり、公式サイトのBBSは荒れまくり、公開当日には閉鎖されてしまうという異例の事態に発展した。 結局、当初の公開予定を延期して撮り直しをしたようなのだが、それでも、第一印象を大きく覆すには至れず、熱心なファンを失意のどん底に叩き落とした。 なお、この場合のファンとは、原作「デビルマン」のファンだけを指すわけではない、という事も、付け加えておこう。 主演のフレイムのファンをはじめとした、各役者(そうじゃない人もいるけど)のファンも含まれているらしい。 ともあれ、そんな「最悪の前評判」を以って公開された「デビルマン」。 このページだけでなく、すでにネット上各所・各紙面でも散々叩かれまくっている本作の問題点を、元締的視点で書き立ててみよう。 なお、本文に入る前に。 はっきり言って、筆者は、原作「デビルマン」に対してほとんど思い入れを持っていないという事をお断りしておく。 なので、何でもかんでも闇雲に原作崇拝を唱え、それとの差異ばかり指摘して本作をけなすつもりは毛頭ない。 とは言うものの、原作を読み込んでいないわけではないし、面白さも、魅力的な部分も充分把握している自覚はある。 当然、「バイオレンスジャック」も(笑)。 映画を観る前日にも、愛蔵版「デビルマン」全巻を複数回読み直して挑んだ。 評価の高いOVA版も何回も観ているので、各種設定や世界観に対しては、一応の理解はあるつもり。 反面、最近やたらと沢山出てきた「亜流デビルマンSTORY」の類は、まったく受け付けられない性質。 それをご理解いただいた上で、読み進めていただければ幸いに思う。 前置きが長くてゴメンね。 1.この映画の「本当の楽しみ方」?!
ここまで書いていて唐突になんだが、実は筆者は、この映画を心の底から楽しめた。安売りで買ったとはいえ、チケット代の元は充分に取ったと思っているし、ゆとりがあるならDVDを買ってもいいと、真剣に思うくらい気に入った。 ネタではなく、マジで。 だって、こんな大爆笑映画は、滅多にあるもんじゃないもん! 腹の底から大笑いしたいなら、これは最高の映画かもしれない。 もちろん、この場合原作との比較をしながらの視聴など、まったくと言っていいほど意味がない。 なので、出来る事なら、友達数人を集めて自宅で上映会とシャレこみ、「なんでこうなるねん」「ちょっと待て!」など、場面ごとに突っ込みを入れながら楽しみたいところだ(現時点では、DVDソフトがないので不可能だが)。 この友達が、原作を理解している必要性などまったくない。 一般的な常識と、人並みの映画視聴経験さえあれば、絶対に笑えるはずだから。 しかし、こんな見方が出来るのも、すべては「人柱」となった大勢のファンの感想・批評・罵倒の言葉があったおかげなのだ。 彼らの貴重な…期待を大きく裏切られ、血を吐くような思いのこもった評価があったからこそ、筆者のような見方ができる人達が出てきたのだと思う。 なので、自分が気に入ってるとはいえ、「酷評している人達に反論」する気は毛頭なく、むしろ同調できる訳だ。 もし、自分が何の前評判も聴かず、ごく普通の期待感を込めてこの映画を観に行っていたとしたら…ここの記述はまったく違うものになっていただろうね、間違いなく。 2.原作への無理解?
「デビルマンは、当時少年ジャンプで読んでいました」これは、本作監督の那須博之氏のコメントだが、原作ファンの方は、これで一斉にズッこけた。 当時、デビルマンが連載されていたのは「週刊少年マガジン」であって、ジャンプではない。 こんなのは基本中の基本知識の筈なのだが、恥ずかしげもなく、公に出されたコメントだった。 その後、このコメントは文章起こしをした人間のミス表記だったらしいという話が出てきたが、実際に映画を観てみると、「別にコメントを訂正する必要はない」という気にさせられてしまう。 なぜなら本作は、「とても原作を読んだとは思えない人間の手によって」作られているからだ。 以下は、今このページを開いている貴方が、原作「デビルマン」のストーリーを理解されているという前提で話を進めさせていただく。 この映画には、原作において重要な場面のいくつかが削られており、また歪曲されている。 原作冒頭部、飛鳥了による「デーモンの概念」や「デビルマンとなる理由」の説明がまったくない。 そのため結果的に、デビルマンになった明の悲壮感や決意の描写が、まったく無視されている。 了が自宅に明を連れて行くというシチュエーションだけが似ているだけで、後は完全な別物だ。 デーモンと合体し、巨大なプラントと化してしまっている了の父親の姿はなかなか気に入ったが、ただそれだけ。 製作側が、明と了がサバトの扉を開いた理由を、ただ単に「デーモンと合体するためだけの経過点」としか見ていないのがわかる。 また、あれだけ狭っくるしい研究施設の中に、数千人単位の研究員がおり、それらがすべてデーモン化したというのもおかしな話(どんな巨大研究所だよ)。 いったい、どういう捉え方で、あのシーンを見取っていたのか、不安になってしまう。 この際、「あ〜、俺、デーモンになっちゃったよ〜」という情けないセリフや、とっととサタンの姿になってしまった了の描写については、目をつぶろう。 だが、原作と異なり、いわば偶発的にデビルマン化した明に対して、了(サタン)が述べる「ハッピバースデー・デビルマン」のセリフだけは、なんとかして欲しかった。 後に、明のデーモン化は計画的なものであったと述べられるが、こんな所でいきなり「デビルマン」などという、初登場の特殊用語を述べられても困る。 デビルマンって、本来、明一人だけの呼称じゃない筈なんだけどなー。 とにかくこんな感じで、どこかズレたストーリー展開がずっと続いていく。 原作では、デーモンが行った「人間との無差別合体」の影響で民衆がパニックに陥り、そこから自滅していく様が描かれていたが、本作ではそんな表現はまったくない。 強力にして凶悪、そして計略的なデーモンの姿は本作には存在せず、逆に、人間によって妨げられる弱い生き物という表現が成されている。 …はて。 じゃあ人間は、ただ異形であるというだけで、デーモンを一方的に駆逐しているだけなのか? そもそも、最初にデーモンの危険性を示しきっていないため、なぜデーモンの存在によって人間が狂っていくのかが、わからない。 確かに、デーモン化した人間に殺されるレポーターの場面があったり、LaQuaを荒らし回るデーモン化人間のシーンはあるけれど、これらは部分的に詰め込まれているだけで、ごく一瞬の事件の描写にしか思えず、とても「デーモン侵略」というクライシスを感じさせるようなものではない。 その後、デーモン化したススムの両親の話なども出てくるが、これだけ付け加えても、「日本のごく一部で起こった、ちょっとした事件」の域を出ていない。 もし製作側が、これだけで世界滅亡の前兆を感じさせたつもりなのだとしたら、困ったものだ。 そういえば。 研究者である了の父親が、「膨大なエネルギーを持つ生命体」とデーモンを表現していたのに、了自身は後に「他の生物と合体しないと生きていけない、弱い生物」と表現している。 …たった二時間程度の映画の中で、ここまで設定が変わってしまうとは、なかなかできる事ではない。 また、この言葉をきっかけに、いきなり了がデーモン側の味方になってしまうというのだから困ったものだ。 なお、肝心のデーモンは超能力を使わず、ただ普通に“人間の身体を使って”暴れているだけという、大問題演出が成されているのも見逃せない。 変身能力を除けば、特殊能力を使ったのは明・了・シレーヌ・ジンメンくらいのもので、そのシレーヌにしても、特殊能力はただ飛んだだけ。 ミーコなどは、溶解液放出のシーンが一回あっただけで、終盤は機関銃と日本刀(!)でデーモン特捜隊と戦ってしまう。 なぜ人間は、こんな奴らに怯えてしまったのか、本当にわからなくなってくる。 さらに、本作には「デーモン軍団」はおろか、「デビルマン軍団」すら出て来ない。 正確には、ラスト間際で思い出したようにサタン側のデーモン達がわらわら出てくるのだが、明は最後まで孤軍奮闘だ。 それはそれで一つのアレンジの手法としてアリなのかもしれないが、問題なのは、これに対する監督の発言だ。 「デーモンとデビルマンは、映像的に区別がしにくい。
そこでデビルマン軍団を無しにして、明と女デビルマン・ミーコの二人だけにしたんです(句点以外、監督インタビュー原文ママ)」 待たんかいオッサン!! 3.映画以前の問題
本作は、制作費十億円と謳われている。しかし、実際に観てみるとわかるが、とてもそんな大規模な予算がかかったようには見えない。 聞くところによると、途中で企画が二転三転してしまったようなので、その影響で無駄に消えてしまった経費の累積が響いているのではないかと邪推できてしまう。 とにかく、これは誰がなんと言っても「(実質的に)低予算映画」である事は間違いないだろう。 その理由は、舞台背景を見ればよくわかる。 例えば、対シレーヌ戦。 明はシレーヌ人間体(?)に、了の父の研究所(デビルマン化した場所)へと導かれ、少し会話を交わした後に戦闘となる。 夜の大都会上空でのデッドヒートを展開し、そこそこ迫力のある高速バトルを繰り広げてくれる(無駄にCGをボカして、動きの少なさをフォローしているような印象もあるが…)。 だが、随分長い間飛行していたにも関わらず、致命傷を受けて落下した明のたどり着いた先は、なんと最初の研究所の同じ部屋! まあ百歩譲って、同じところに落下した事は認めるとしても、飛び立つ前とまったく同一の部屋というのは変だろう。 それ以前に、研究所はかなりの田舎風景に囲まれた環境だった筈なんだけどね(笑)。 明の友人・牛久とジンメンの場面も、なんだかすごい事になっている。 最初、牛久は東京ドームシティ・LaQuaの広場内に居る。 (ちなみに、映画冒頭で明・美樹・了が顔を合わせるのもLaQua) なぜかそこに出店している、ミドリガメ釣りのテキ屋(笑)。 そこに突然やってきたジンメンの化けた警備員? によって、LaQua内はパニックになり、牛久も捕らわれる。 そして、牛久の悲鳴を聞いた明がバイクで駆けつけるのは、なぜか海岸。 しかも、止めたバイクの周り数メートル範囲内だけを歩き回った後、徐に海に浸かり、顔を水の中に付ける明の奇行。 もちろん、視聴側の「おいおい、そこ違う!」という心の叫びは届かない。 結局、牛久はそこにもおらず、全然別な場所…森の中にいた。 予想通り、ジンメンの甲羅の一部になってるんだけど。 この場面は連続しているので、観ている側は、どういうつながりで舞台が動いているのか、まったく把握できない。 ましてや、LaQua内にいた筈の牛久の持ち物・スケッチブックまでも、なぜか海辺にテレポートしている始末。 この前にも、牛久は海で抽象画のスケッチをしていた場面があったのだが、まさかその時からずっと置き去り?! 昼に襲われた牛久を助けに、夜中走り回る明も奇妙だ。 こんな感じで、常人の理解を超えた展開が次々に繰り広げられていくわけだ。 デーモン特捜隊が牧村家に迫り、正体を明かした明が連行される一連のシーンも凄い。 特捜隊が訪れ、家族全員が庭に連れ出される場面まで、外は大雨。 しかしその直後、明が連行されるシーンは、いきなり晴天になっている。 ただ晴れただけなら、たまたまそういう天候だったとして無理矢理納得できるが、出演者全員の髪の毛と服までもが乾ききっているのは問題だろう。 「これ、ちょっと雨降らし過ぎなんじゃないか」と思わせられるほどのシーンの後だけに、この違和感は凄まじい。 世界滅亡への進展状況を、すべてボブ・サップ扮するアナウンサーのセリフだけで説明してしまうのも大きな問題だろう。 日本がデーモン国家と認定されてしまうとか(デーモン特捜隊が一生懸命活動してるのに?! 彼らの存在意義は?!)、そのために各国からミサイル攻撃を受ける事になったとか、普通では考えつかないようなとんでもない展開が繰り広げられていく…セリフだけで。 しかも、なぜかボブ・サップのニュースが放送されるのは、いつもLaQua(おいおい)。 このLaQuaの使用割合は、平成ライダーにおける「あの階段」よりも格段に多いと思われる。 まいったなあ、オフ会で行ったばっかりだから、一目でわかっちゃったよ(笑)。 4.そこまでシレーヌやジンメンが必要だったのか?
これはちと極論かもしれないけれど、筆者は、デビルマンの映像化の際に、必ずシレーヌ戦とジンメン戦を加える姿勢は、どうかと思っている。というか、所詮単なる刺客の一人にしか過ぎない彼らが、まるでデビルマン必須のエピソードのように扱われているのが疑問でならないのだ。 とはいえ、いずれの話も名作だし、映像化の際に重要視されやすいポイントだという事はわかっている。 だけど、本作の場合にまで、それを当てはめる必要があったのだろうか? ここまで述べてきた通り、本作は「デビルマン」であるなし以前に、もっとしっかり描写しなければならない部分が多く残されている。 そちらの方を重要視し、思い切ってシレーヌやジンメン戦をカットし、その分別な場面を盛り込んだ方が、まだ視聴側の理解を促せたのではないかと思えてならない。 第一、本作でのシレーヌ&ジンメンの戦闘場面は、失笑こそ買えど、決して本編に対して有効に機能していない。 また、特に原作に拘っていない人にとっては、シレーヌもジンメンも、他の雑魚デーモンと大して変わらない印象しか持たない(←これは実際に、筆者の近間でリサーチした結果)。 お約束をやるより前に、もっとやるべき事があった筈なのだ。 それなのに、無理に形だけ整えるものだから、シレーヌは決着も着けずに姿を消してしまうし、ジンメンに「デーモン同士は殺し合わない筈だ!」などという、世界観の根底を覆すような暴言を吐かせてしまうのだ。 ジンメン…CGの割には重さを感じさせてくれて、個人的にはとても気に入ってたのに…パンチ一発だもんなあ…。 5.勝手に進むストーリー
いじめられっ子のミーコが、なぜか私服で学校にやって来たあたりから、この映画は完全独走俺が変えてやる状態に突入する。溶解液(なぜか可燃性)を吐き出すデキモノを腕に持つミーコの姿を見た上で、美樹が明に「彼女はデーモンじゃない、人間の心を持っている」と説明する場面がある。 …おや、いつのまに、彼女はデビルマンの概念を知ったのだろう? いや、それ以前に「デーモン」という単語も、この時点では知る由もなかった筈。 この後、牧村家は、デーモン化しつつも人間の意識を残した存在(原作ではそれこそデビルマンなのだが、明以外そう呼ばれないから、こんな回りくどい表現になる)に対して、理解を示すようになっていく。 もちろん、明の正体はまだ知らずに、だ。 この辺りで、頭を抱えた人達も、きっと多かった事だろう。 だが、実はこの辺の展開、筆者は真面目に気に入ってたりする。 原作では、牧村家が周囲の人々に疑われ、駆逐されてしまうまでの展開が妙に唐突だったのだが(こう書くと反感買いそうだけど、筆者は昔から違和感を覚えているのよね)、本作では、ここでデーモンに対する立場が周囲の人々とはまったく違ってしまったため、(倫理的にはともかく)命を狙われる理由が明確に生まれてしまったのだ。 だから、腕のデキモノを必死で隠そうとするミーコを責めず、逆に化粧を施して安心感を与える美樹の演出は良いと思うし、それがミーコの最終進化、また最後の決意にもしっかり活かされていた事は、高く評価したいと思っている(進化した結果の姿はともかくとして)。 …え、それは、ただ単にミーコ役の渋谷飛鳥が気に入ったから贔屓目で見てるだけだって? そ、そそそ、そんな事はないぞぉ。 少なくとも、牧村家という小さな一家が、明だけでなく、人間(中略)デーモンの心のよりどころとして機能するようになったというのは、面白いアレンジだと信じたい。 もっとも、その前後の描写があんまりなので、結局活かしきれていないんだけどさ。 第一、ゲルマー他が削られたため、牧村家の人間は誰一人としてデーモンの襲撃を受けていないし。 だから、劇中の明のセリフ「美樹を守るために云々」も、まったく空振ってしまっているのだ(笑)。 6.あまりにも不自然すぎる描写
本作では、デーモン特捜隊の追及に屈した牧村家を救うため、明は自ら正体を明かし、進んで捕らえられる。その連行シーンの滑稽さで場内大爆笑になったのだが、それはまぁ置いておこう。 その後色々あり、結局周囲の人々によってぶっ殺されてしまった牧村家の面々…それを知らず、自宅に戻ってきた明の前には、なぜか死屍累々状態の道路が続いている。 ここで、直前の牧村家襲撃シーンを思い出してみる。 牧村家を襲った人々は、誰もデーモン化していないし、その影響によって狂ったものでもない。 なので、牧村家の面々をぶっ殺した後、彼らが死体になる理由が存在しないのだ。 にも関わらず、牧村家周囲の道路は、まるでバケモノが暴れ回った後のように荒れまくっている。 大型バンが路上で横転(しかもご丁寧に返り血までかかってる)しているのも奇妙だが、もっと奇妙なのは、それを乗り越えた先の道路はまるっきり綺麗なままなのだ。 まるで、牧村家の周りだけ、誰かが大規模な清掃をしたかのよう。 そこに至るまで、延々と続いていた死屍累々状態はナニよ? ミサイル攻撃を受けたにしても、周りの建物は無傷だし。 原作でもっともショッキングだった「生首ウンババ住民ヒャッホー」シーンは、本作には登場しない。 しかし、美樹はきっちり生首にされており、牧村家の居間にちょこんと丁寧に置かれている。 父と母の死体を含め、周りが妙にきれいに片づいているのが気になるが。 その光景を見た明の眼前(本当に目のすぐ前)に、突然垂れ下がる、美樹の携帯。 そのサブモニター? の中には、美樹の殺され際のムービーが映っていた。 ――いったい、何MBのメディア内蔵してんだよ、このフォーマ(笑)。 これだけ長い時間の動画録画再生するって事は、相当デカいのを積んでないと無理だぜよ。 また、明が何の操作もしていないのに動画再生されるのも変だし、第一、これが本当に携帯の動画なのかも怪しい。 ただの回想シーンだった可能性もあるのだが、回想できる唯一の人間、身体がないし。 天井のどの部分から携帯がブラ下がっていたのか、またどうして明はあんな場面を見る事が出来たのか…この一シーンだけでも、謎は尽きない。 こんな感じで、原作との比較の必要などまったくない場面においても、奇妙な部分が多く存在している。 ラストバトル、奇跡的に無傷だった教会の中で対峙する、明と了。 (この直前の明の悲しみの場面は、比較的がんばって演技していたなぁと思うんだけど、ダメかな?) しかし、双方変身して戦いを始めた途端、この教会はおそるべき姿を露見させる! 陥没した床下には、なんと、広大な空間が! どうやら、これは地下墓地のつもりらしい。 日本の教会の地下に、こんなデッカイ墓地作ってるところなんかあるんかい! ってなもんだ。 これじゃあまるで、マチュピチュの古代遺跡みたいではないか。 それ以前に、教会の周りがすべて瓦礫化するほどの破壊を受けているんだから、こんな不安定な礎の上の建物なんか、真っ先に潰れてしまいそうなものだけどなあ。 それ以前につっこむべきは、「教会の祭壇に乗せられた“美樹の生首”」だろう。 せっかく綺麗に整えて乗せたというのに、その場でバトル始めるもんだから…あああ。 戦うまえに、せめて「新デビルマン」の時のように、埋葬してやれよ。 これじゃあ、戦いの後に気付いても、美樹の頭はぐっちゃんげっちゃんでろでろば〜やないか(笑)。 7.デビルマンって、そんな話だっけ?
ここまで挙げてきた疑問点・問題点の数々で、すでに本作が原作を完全に無視して進行してしまっているのがおわかりの事と思う。しかし、本作がここまで叩かれる本当の理由は、ろくに原作を理解していないくせに、中途半端に原作の要素を加えている事にある。 そして、その要素にしても、充分な咀嚼がない。 本屋でぱらぱらとめくった雑誌に掲載されていた漫画の、比較的印象的だった場面だけを抽出し、その前後を読まないで「アレはこういうシーンだったに違いない」と勝手に判断、それを基準にして撮影したら、こんな感じになるのではないか。 結局のところ、映画「デビルマン」というのは、 デーモンの存在に気付いた飛鳥博士によって、地球各地にデーモンが蔓延、妙に小規模に人間と合体したり、人を襲ったりし始める。
…といった話だったって事か。たまたま人間の意志を残してデーモンと合体した明は、自分の使命を後付ででっち上げ、独自の判断でデーモンと戦っていくが、必要以上にデーモンに怯えた人間達の力に負けて追い詰められてしまい、気が付いた時には世界はとっくに壊滅(自滅)。 人間が滅んだから、そろそろデーモンの世界を作ろうと言い出すサタン(了)に向かって逆ギレ、ケンカをふっかける。 だが、所詮は多勢に無勢、巨大化してまで挑んだのに明はあっさり負けてしまい、胴体ばっくり。 最後は了まで血を吐いて「俺もすぐに行くぞ」 すごいあれんじだなあ。 8.飛鳥了の恐怖
だが、実際に多くの問題を抱えているのは、紛れもなく飛鳥了だろう。色々難点はあれど、アレンジ物であるという見方をすれば、本作の各キャラクターはなかなか面白い動きをしてくれていた。 演技力がつたないため、大爆笑してしまうシーンや、最後まで意味のわからない展開などもあって頭を悩ませもしたが、かろうじて各キャラクターの基本的スタンスは把握できる。 だが、了だけはそうはいかない。 原作とは違った意味で、「怪人物」なのだ。 本編中の、了の目立った行動を辿ってみよう。
その他にも、まだ色々とアヤシイ場面が一杯ある。 監督は、どうも了という人物を「突如奇怪な行動を取るが、実はすべて計画の上で動いていた存在」という風に、漠然ととらえていたように感じられるが、もちろん本来の了はそれだけの存在ではない。 ましてや本作では、すべてにおいて支離滅裂なだけで、とても計画性のある人物には見えない。 いずれにしても、もっとも描写に失敗したキャラクターである事は間違いないだろう。 また、「原作の了と明の顔がそっくりだから、双子を起用した」という監督の発言は、多くのファンを困惑させた。 筆者は、この発言で初めて、了と明が似ていると解釈している人が居る事を知った。 そ、そうか、この二人はそんなに似ているか! とてもそうには思えないんだけどなあ。 ただ解釈はともかく、双子を起用したというのは一つのアイデアだったとは思う。 問題なのは、作品内の描き方と、肝心の役者自身の演技力の無さが合わさって、飛鳥了が原作以上の怪人物になってしまった事だと思われる。 そういえば。 飛鳥了も、この作品だと「デー(略)人間」なんだよなあ。 実はサタンが化けていて、飛鳥了という「すでに死んだ人間」の立場を借りていたという、あの無茶な設定は存在していないし。 そうか、だから最後に本人も死んでしまうかのような発言をしたのかあ。 …この世界だと、サタン様ご自身も、雑兵と同じように人間と融合しようとしてしまうのね。 アモン同様、了の意識に乗っ取られてしまったら、どーするつもりだったのかしらん(笑)。 9.総括:結局これはどういう作品か
現在の邦画の問題点を、限りなく凝縮した作品が、この「デビルマン」である。そんな意見をどこかで聞いた。 そして、筆者はそれに強く同意する。 たとえ、当初製作側にどのような志があったにせよ、本作は結果的に 「話題性のあるタイトル」を
「無理矢理短い尺に収め」、 「練りこむべきアレンジのアイデアも出さず」、 「有名なエピソードだけを適当につまみ上げ」、 「別方面の話題性確保のため、役者ではない芸能人を大勢起用」し、 「適当なCGをちりばめ」て、 「思いつきのアイデアをどんどん投げ込み」、 「全体の精査もろくに行」わず、 「やたら自信作である事を吹聴」し、 「製作費だけを自慢げに提示」して、 「適当なコピーを投げ込」み、 「実際の前評判を完全無視した上で、超大作として」売り出された。 まさに、邦画にありがちな問題点の集大成ではないか。 結果的に「別な意味合いで楽しめる」作品にはなったものの、決して堂々と表に出て良い物とは思えない。 この辺に、数多くの映画ファン・デビルマンファンが激怒した背景があるのではないだろうか。 また原作ファンでない人でも、普通に見ていて疑問符を浮かべてしまうような場面が多すぎるのはどうか。 細かな問題のあるシーンについてはすでに触れたが、全体を通して考えてみても、何かがおかしい。 特に、日本がデーモン国家と認定され、海外からの攻撃を受けまくるシーンは、観る側が情報を拾いそびれるとすぐに訳がわからなくなる難点がある。 とは言いつつも、じっくり集中して観ていたとしても、ほとんどがセリフによる説明だけなので、いまいち実感が湧かない。 実は、本作での日本崩壊の理由は、デーモンの策略によるものではなく、この「海外からの攻撃」だけによるものなのだが、そんな重要な要素の土台が構築されきっていないため、うっかりトイレに行ってしまっていたりすると、「アレ、なんでこんな展開になっているの?」と混乱してしまう事必至。 なので、一見あまり意味のなさそうなボブ・サップ登場シーンは、必見せざるをえないという状態になってしまう。 かと思うと、まったく無駄なシーンも多くてイライラ(あるいはゲラゲラ)させられてしまう事も多い。 ミーコの自宅を訪問した明と美樹に話しかける、小林幸子登場の場面などはその一例だ。 なぜか高級車&運転手付きで現れる小林幸子だが、これはいったいどういう意図でのキャスティングだったのか? 理解に苦しむ。 どうも周辺住民代表としての登場だったらしいが、だったら適当なおばさんのエキストラでも充分役目を果たせる筈で、わざわざカメオ撮影した意味がつかめない。 また、デーモンと疑われた人間を皆が虐待するシーンが時折挿入されるが、なぜか極端な肥満体型の男性が、普通の男女に襲い掛かるという内容に統一されており、「これは何か特殊な趣味の人向けなのか?」と勘ぐりたくなってしまう。 特に、デブ男三人の連続ボディプレスで押しつぶされる男性虐待のシーンは、ギャグとしか思えない。 あの場面で、突然狂ったように笑い出したきょろら氏(一緒に観に行った)の姿が忘れられない。 虐待される男性役の人、本当に死にかけてないか?! こんな壮絶なリンチシーン、見た事ないよ! つーか、なんだっけ、この映画のジャンルって…? トドメに、本作は「(全編を通して)デビルマンが戦うべき敵」が全然わからないという、根本的な問題を抱えている。 いや、そりゃまあ、最終的にはサタン(了)との戦いなんだが、そこに至るまで、明は自分の力を振るうべき本来の敵を見定めていないのだ。 原作と異なり、本作では、デーモンも人間も、敵とは言いがたい。 シレーヌやジンメン、また初合体時に戦ったデーモンなども、その場面の前後で暴れていたり、明に挑戦してきたりという流れがあったからまだいいのだが、本作のデーモンは「本来は弱い存在」なので、デビルマンの討伐目的とはなりえていないのだ。 あ、そこの人。 頭抱えるのはまだ早いって。 さらに明は、デーモンの存在でとち狂った人間に対しても怒りをあらわにしないため、原作のように、牧村両親を拷問した連中を焼き殺すような事もしない。 というか、不自然なまでに人間殺してないし。 ただ一人で、悲劇にひたるだけだ。 どうも本作の明は、悪化する情勢への考察もしなければデビルマン仲間を集めようという発想すら立てられず、さらには自分の力を向けるべき本当の対象すらも理解できず、ただ漠然と流され続けるだけの、もろい存在でしかないようだ。 極端に自主性がないとも言える。 だから、その場その場の展開に流されたり、すべてが終わった後から泣いたり怒ったりする。 いったい、製作者は不動明をどういう存在としてとらえていたのだろうか? 本当にわからなくなってくる。 すべてがこんなだから、原作比較などなくても、ひどい出来だと判断せざるをえなくなってしまうのだ。 この企画は、噂によると最初は某有名アニメ作品の映画化だったらしいのだが、すでに別方面で実写化の話が進んでいたため変更となり、その後も、色々な変遷を経て当初の企画意図がボケてしまったらしい。 そうでなければ、こんなふざけた内容に、原作者・永井豪がOKを出すはずが無いという事なのだが…さあ、果たしてどうなのだろうか。 とりあえず言える事は、カメオ出演されている永井御大が、演技の都合で終始苦い顔付きをしているのだが、その裏側に、なにやら複雑な想いが蠢いているのではないか、勘ぐりたくなってしまうというものだ(笑)。 「デビルマン」は、以前から海外方面の映像化オファーが多く寄せられていたという事でも有名だが、それらはすべて断られてきた。 そして、2004年に至ってついに、国内で映画化! …と喜んでいたら、この顛末だ。 本作は世界各国40箇所で公開されるとの話だが、これを観た「かつてオファーを試みた映画人」は、どんな想いに駆られる事だろう。 本当に聞いてみたいものだ(笑)。 最後になるが、牧村父に正体を見破られた明が、突然「ほわ〜ん!」と叫んで空を見上げるシーンの意味…誰か、納得の行く説明をしてほしい(笑)。 あれだけは、どんなに考えても意図が掴めないんだけど。 第一、ここで正体のバレるきっかけになった「下腕の模様」も、別な場面ではなくなってるし(笑)。 本当に、訳のわからない映画だったな〜! …などと書いていたら、いきなり追記するハメになってしまった。 ※以下の文は、2005年2月28日夜に追記された物です。
あまりにも突然の訃報に、驚いて言葉も出ない。 故人のご冥福を、心よりお祈りいたします… → NEXT COLUM |
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