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更新日:2004年10月14日 | ||||||||||||
原画に韓国のZINNO氏を迎え制作された本作。 購入動機もまさにその一点にあったわけだが、小気味良いシナリオで期待以上の作品だった。
(ストーリー) 夏休み直前、共働きの両親が一ヶ月も海外出張になった為に、独り残される事になった洋介。 親の目が届かぬひと月のあいだ、自由に遊び回れると歓喜し思わず神に感謝してしまったが、その喜びも束の間、翌年は受験も控えている事もありハメを外しすぎないようにと、父親の知り合いの家に預けられる事になってしまった。 その知り合いの家…神凪家には10年ほど前にも預けられた事があるらしいが、生来物覚えの悪い洋介は「そんな事もあった様な?」程度にしか覚えていなかった。 当時洋介を快く迎え入れて、ひと夏を家族同然に過ごした永遠・彼方・悠の三姉妹は、思わぬ再会と他人行儀な洋介の素振りに三者三様の態度を示していた。 たおやかで母のような優しさを持つ、長女・永遠。 勝ち気で喧嘩っ早いが家事に長け、台所仕事を一手に引き受けている、次女・彼方。 口数が少なく、感情の起伏が殆ど見られない、三女・悠。 彼女達との唯一の接点ともいえる「想い出」を忘れてしまった洋介は、いきなり辛い立場にたたされてしまう。 しかも洋介を迎え入れると決めた神凪のおじさんは、日頃の無理が祟って入院中であり、年頃の女の子3人とひとつ屋根の下といういたたまれない状況。 そんなギクシャクとした生活の中で、ふとしたきっかけから「想い出」を取り戻して行く洋介は、深まる姉妹との絆と新たな出逢いの直中で、大切なものを見つけてゆくのだった。 本作は夏休み一杯を使って物語が綴られているのだが、選択肢は7月20日から28日まで。 そこから先はヒロイン毎のルートに分岐し、共通のメインシナリオを主軸に、ルートイベントを織り交ぜながら進行する。 そのメインシナリオは、大きくふたつのパートに分けられ、7月中に配された選択肢を経由し、ルート確定する8月2日の海水浴まででひと区切りとなる。 前半は居候な立場の洋介が、三姉妹との絆を取り戻す過程の話で、その間に近所の住民達とも交流を持つのだが、それは後半の為の下地にもなっていた。 そんな穏やかな生活の中で、洋介にも心境の変化が起き、この古ぼけた神社や田舎町に愛着を感じるようになってゆくのだ。 後半は、シナリオ序盤に語られる逼迫した家計の原因が、神凪神社の存続の危機という形で突きつけられる。 パニックを起こし、或いは途方に暮れる三姉妹に、長らく開かれていなかった夏祭りを開催し、転入者達にも親しんで貰える神社にできないかと、洋介がリバイバル案を提示した所からストーリーが大きく動く。 この夏祭りの開催は達成すべき「目的」であり、開くまでの経緯こそが本作の主題だった。 高齢化に伴う氏子の減少や、この土地に馴染みの薄い転入者が多くなった事もあり、祭りを開くに開けなくなったという現実は、当代の巫女である神凪三姉妹にとって相当高いハードルだ。 入院しているおじさんの助力を借りる事も適わない状況の中、「いいだしっぺ」の洋介が求心力となり、地域の人々の力を借りながら様々な問題を乗り越え成し遂げてゆく話の流れは、ルートシナリオの恋愛話を抜きにしても充分魅力的だ。 また、メインシナリオで役割分担がハッキリとしているヒロイン達は、それぞれの個性を活かし課題に立ち向かっているのだが、各ルートにおいては洋介と支えあいながら、手を携えて祭りを開こうと奮闘している様にヒロインの行動が変化している。 その為、洋介との過去の繋がりを持たない綾や向日葵のルートも、神凪三姉妹ルートに劣ることのないシナリオとなっており、充分配慮された偏りの少ない仕上がりだった。 基本的に前半の選択肢では、特定のヒロインを意識して行動を起こしてゆく事になるが、この期間に洋介が何度か「10年前の想い出」を夢に見る。 その夢〜忘れていた想い出は、神凪三姉妹の誰かにルートが絞り込まれると、その相手との想い出に集約された内容になるのだ。 洋介をダメダメな主人公たらしめている「忘れっぽさ」は、まさにこの為に設定されたようで、姉妹との想い出を取り戻そうと必死になるからこそといった感じにうまく配されていた。 先述のとおり夢の内容は、三姉妹の内でもっとも洋介が心を傾けている相手との想い出である。 シナリオ冒頭から「記憶力のない洋介が、昔の思い出を忘れている」事を明示しているので、“きっかけがあって思いだした”という演出になっており、そのまま三姉妹にルート確定すると、彼方と悠の場合は“交わした大切な約束”を夢に見ることになる。 だが、洋介と過去の繋がりを持たない綾と向日葵にルートの軸が定まった場合は、三姉妹との想い出を夢に見なくなり、約束を思い出す事もない。 この情報の違いが三姉妹ルートとの大きな差であり、新たな恋の足枷となる想い出は『きっぱり忘れたまま』という、洋介にとって非常に都合のいい仕上がりになっているわけだ(笑)。 さて、攻略難易度の低めな本作とはいえ、永遠と悠のルートから派生している綾と向日葵のルートの関係上、わりとこまめにセーブしておきたい所だが、5人のヒロインに対してユーザーセーブエリアは18箇所とあまり多くない。 これを補うためオートセーブエリアが5箇所分あるのだが、これは「選択肢直前」「日付切り替わり直後」「Hシーン直前」に任意で切り替えられ、利用価値は高いだろう。 一応、音声付きバックログや既読スキップなど標準的な機能は完備されているが、これといって特筆するような目新しい物は無い。 古臭くさくは見えないもののオーソドックスなスタイルと評するのが妥当な作りだが、それゆえに作動の不安定さの感じられないシステムは、不具合ひとつで一喜一憂させられるユーザーにとって、もっとも好ましく感じられる点だと思えた。 < 神凪永遠 > 洋介よりひとつ年上の永遠は、常に笑みを絶やさない落ち着いた雰囲気を持つたおやかな女性だが、どこか抜けていて、思考も行動も常にワンテンポ遅れている。 妹達とは異なりクラブ活動などの一切をしていないため、洋介は彼女の学園生活を見ることがなく、代わりに巫女服姿を拝める回数が最も多い(笑)。 三姉妹での差別化としては、おっとりとした性格に加え、家庭的な性格の割に極端な料理オンチだったりと、お約束な特徴(?)をもつ永遠。 亡き母の代わりを務め常に「年長者としての立場」で物事を考え行動している為、何時も自分のことは後回しになってしまうのだが、近所の子供達と遊んでいる時などは心の枷が外れるのだろうか、普段からは想像もできないぐらい子供じみて見えることもある。 メインシナリオの冒頭で早々に出て来るこの微笑ましい設定は、甘えることができない立場の彼女の心の内を端的に表したものであり、ルートシナリオの終演で洋介にだけ見せる「甘えん坊な姿」が、ただの惚気でない事の証でもあった。 そのむかし姉妹でただひとり洋介に告白されており、その想いを受け入れている永遠は、全ヒロインの中で最も優位であるはず。 しかし、年下の洋介が逞しく成長を遂げ、秘めた想いがより強くなってしまう一方で、同じく彼に想いを寄せる妹達のことを考えると、つい身を引きはぐらかしてしまう。 告った当人が旧世代の演算装置並に記憶容量皆無なためきっぱりと忘れていた事も原因ではあったが、とにもかくにもルート確定し難い相手だった。 洋介がヒロインの秘めた想いを知り結ばれるのは、彼方・悠ルートが8月14日、綾・向日葵ルートが8月19日であり、永遠ルートでは祭りの前日である8月20日と最も遅い。 永遠の告白イベントは、祭りの前日になって大雨に見舞われ翌日も降水確率90%と絶望的な状況のなか、寝付けず深夜に拝殿に足を運んだ洋介が、裏井戸で独り水垢離(みずごり)をしていた永遠に気付いた事から始まる。 土砂降りの中で冷え切った永遠を抱きかかえ、母屋より近かった本殿に駆け込んだことで結果的に妹達の目を憚ったわけだが、目を見張ったのはすでにルート確定してる他のヒロインシナリオの時は「水垢離をしている永遠に気付かなかった」事にして、共通のシナリオを経過しながらもルートの差を演出している点だ。 奇跡的に快晴となった翌朝にこの場面のフォローとして、喜ぶ妹達を見守りながらクシャミをする永遠の姿があった。 細かな気配りだがこの演出があったからこそ、“場面が出てこないだけで永遠は水垢離していた”という情報補完が成立するのだ。 このルートのエピローグは、猛勉強の末にこの町の近郊にある大学へ進んだ洋介が、永遠の元に帰ってきた所で終わっているのだが、彼が何処に住居を構えたかなど、彼方・悠シナリオでは語られている情報が一切無い。 あまりにもあっさりとしすぎている為、これをルートの差異と捉えるべきかは正直難しいところだ。 シナリオ全体を振り返ると、永遠の性格をよく表した「ただ優しい」という表現では止まらない、暖かみを帯びたシナリオであったと思う。 < 神凪彼方 > 気が強い上に手も早く口も悪いが、根は素直で可愛らしい一面もある。 不得手な姉妹を補うように家事全般が得意なのは、男勝りな自身を自覚する彼方の「女の子らしさ」への憧れから。 そうやって、家族の為に何かをしていることに幸せを感じられる家庭的な性格はシナリオ全体で一貫しており、エピローグでも洋介の住まうアパートに通ってはかいがいしく身の回りの世話をしている様は、本当に幸せそうに見えたものだ。 彼方は水泳部員だが、洋介が学園に出向いても部活動を見学する機会はない。 代わりに教室で着替えていた所に踏み込んでしまったりとお約束なハプニングがあるのだが、この大失態を言い訳せずに謝罪し、以後も彼方に寄り添っていれば自ずとルートは確定してしまう。 10年前も今と変わらず快活だった彼方は、洋介と共に泥だらけになって遊び回った間柄。 時にはけんか腰、時には手を携え過ごした夏休みの日々は、洋介自身の曖昧な記憶を辿ると、殆ど「男友達」とつるんでいた様な感覚に近く、特別に女の子だと意識して行動してはいなかったようだ。 彼方がオバケが苦手になったのも、元はといえば洋介の悪戯(神凪のおじさんも共謀している)が原因であり、これ以来気が緩むと堰を切ったように泣いてしまう様になったのも洋介のせいだ。 ここまでされても、古い母屋の天井裏に何度も登って探索する洋介について行き、その都度がん首揃えておじさんにこっぴどく叱られる事を繰り返している所をみれば、やはり一番仲がよかったといえるのだが、どうしても素直になれずにいる。 そんな彼方も、祭りが終われば洋介が帰ってしまうという現実を前に、10年前と同じ別れを繰り返したくないと意を決して、洋介を引き留めようとしたことから、互いの気持ちを知ることになった。 それまでの過剰な言動がすべて本心の裏返しだったという「一旦定着した印象」を覆したシナリオは、この手の作品ではよく見られるパターンではあるが、素直に想いを告げても生来の性格まで“その場の都合で”変えたりせず、情事の直後に「ヤリ逃げしたら制裁覚悟」と洋介を脅すなど、終演までいい味を出していた。 これがエピローグで、『洋介を想い続けた12年間分』べったりと甘える姿を、より小恥ずかしく印象付ける結果になっている(笑)。 そして、彼方にとって「恋人として大切にされる」事は、ただ優しく扱って貰うことではなく、信頼して頼って貰えることだという部分も彼方ならではのものであり、個性を活かして他シナリオと充分差別化できていると感じられた。 本作の主題である夏祭りを、過去の経緯から現在に至るまで最も色濃く反映したシナリオであるが、突出することなく他のルートともバランスが取れたシナリオだった。 < 神凪悠 > 万事一歩距離を置いて眺める様な冷めた所があり、控えめというより感情の起伏が殆ど見られない。 無口で思慮深く、その割に意外と頑固という性格は、ノリが軽かったり短気だったりする姉たちとの差別化に充分な個性を確立している。 これでいて、生来の性分は独占欲が強く嫉妬深かったのは、個人的には結構ツボだった。 知識の源である本をこよなく愛する悠は図書委員を勤めており、夏休みの間も特に用事が無い限りは毎日学園に出向き図書室に詰めている。 そのため洋介は忘れ物の弁当を届けた事で、悠と同じ図書委員の向日葵と面識を持ち、学園の屋上では綾と出逢うことになるのだ。 これはクラブ活動で同様に学園へ来ている彼方シナリオとの差異であるが、物事に頓着しない悠の性格をうまく利用した演出だといえる。 というのも、この時点で洋介は彼方に(照れ隠しだったが)邪険な態度を取られるばかりだっからだ。 したがって、洋介の動向を気に留めてないそぶりをしていた悠にその役が与えられた様なものだが、以後も機会がある度に悠と出かけ、図書室に行けば彼女のルートに絞り込まれる。 ただし、興味津々無防備に近寄ってくる向日葵に気を取られると、あっさりルートがそれてしまうので注意が必要である。 10年前といえば悠はまだ5歳ぐらい、当然だがまだ洋介や彼方と同じペースで遊び回れる筈もなく、どちらかといえば独り遊びが常だったようで、それを気にした洋介が悠も一緒に遊べるようにと気遣い、彼女が孤立する度にかまっていた。 そんな洋介の優しさに惹かれ淡い想いを告白したが、当の洋介がその経緯を含めた昔の想い出すべてを忘れてしまっている事に、内心ではとても傷付き思い悩んでいた。 それが感情や意思を上手く表現できなくなった原因だったと明かされたのは悠の告白イベントがある8月14日であり、伏線としてはかなり引っ張りすぎた感もある。 しかし、どこか達観した様に見える性格は、悠というキャラクターにおいて最も目を惹く要因であるだけに、告白イベントでどーんと盛り上げるのに充分すぎる効果が得られたのも事実だった。 これがエピローグで、永遠に愛想をふりまく洋介の頬をぎゅうっっっと抓りながら自分の想いを口にする悠に、最大級の萌え要素を与える結果にもなっているのだから、いやはや恐れ入った。 向日葵と並び妹属性シナリオとして、姉属性の永遠・綾ルートと対極にあるシナリオだが、洋介との立場的な関係図ではむしろ上位と言え、その意味では彼方ルートに通ずるものがあり、変にベタベタしていない仕上がりは大変好感を持てたシナリオだった。 < 香西綾 > 学園の屋上で出逢ったふたつ年上の、落ち着いた雰囲気を持つ女性。 病気で一年休学しており、ゆえに永遠とは同学年である。 その事を知ってか知らずか、彼女の持つ大人びた雰囲気が良いとかで、女子下級生にはとても人気がある。 洋介にイラスト方面で助力を請われ祭りの準備に参加した綾だったが、憧れの君を前にした彼方がメロメロになったのはかなり笑わせてもらった。 実質的には永遠ルートと対を成すシナリオであり、年上として余裕を見せながらリードしつつも年下の洋介に絆されていく話の過程は、どちらのルートでも性格を反映してよく描けていたのではないだろうか。 また永遠との差異として、洋介にとって「気がね無く相談できる相手」という立場で描かれている綾は、そのシナリオも神凪神社の祭りをきっかけに、彼女自身の身の上話へとシフトしてゆく。 その鍵となる“神社の倉庫に保管されていた屏風”は前半早々に登場させていたのだが、永遠も謂われを知らないその屏風に洋介が気取られる描写を織り交ぜる事により、それを伏線として無理なくシナリオが展開できていたと思う。 この屏風絵は、綾の亡き父である日本画家・香西青嵐の遺作であり、本来は一対の屏風絵として構想された物だったが、その完成を果たせぬまま青嵐はこの世を去った。 青嵐が晩年に取った行動で、綾が絵への情熱を失うばかりか、嫌悪感さえ持つようになってしまったのだが、綾ルートの真の意義は、この屏風絵を完成させる事により、長年苦しんできた父親への愛憎から解放される事にあった。 出逢って間もない洋介との間に、これほど綾の私情に立ち入ったシナリオを用意するのは、些か無謀ではないかと思えてしまう。 事実、神凪姉妹と異なり洋介との過去の繋がりがない綾のシナリオは、序盤の雰囲気からして行きずりの恋として結末を迎えるだろうと感じられたぐらいだし。 だが、僅かに交わした会話で互いが信頼できる相手だと悟り、「何でも話せる関係」を築いた序盤はその性急すぎる展開が気になりはしたものの、ふたりの信頼関係が直感的なものであるなら、むしろ程良い早さの展開だといえる。 年齢差を意識せず自然に相手を思い遣る…そんな姿勢がとても暖かく、いい雰囲気のまま話が進んでいた事もあり、このあとに怒濤の展開が待っているとは予想もつかなかった。 シナリオはこの信頼関係を全面に押し出し、綾のプライバシーに深く関わる後半のシナリオを難なく乗り切ってしまったのだ。 その後半において、綾は個人的な事情から祭りの準備を中座してしまい、シナリオは本作の主題から外れてしまう。 綾は先に述べた父の遺作を完成させるべくアトリエに籠もっていたのだが、彼女の行動は神凪家及び神社に深く関わったものであり、話の軌道が大きく逸れても、綻びることなくメインシナリオの夏祭りに収束できていた。 上記の件に関しては、綾ルート以外では彼女が倉庫に足を運ぶ機会が無く屏風絵を目にしなかった為、綾は最後まで準備を手伝い祭りに参加していた。 その後屏風絵を見る機会を得られたのかについては特に触れられておらず、おそらくは知らないまま…そして、父を忌み嫌ったまま絵の道を再び歩み出すことも無かったのだろう。 綾ルートで洋介が果たした役割というのは、その屏風絵を通じて綾の心を解きほぐし、気持ちのすれ違いが生んだ誤解だったと悟らせた事であり、やがて綾が蟠りなく画家として歩み出した事こそが、他のルートにおける彼女自身との差異なのだ。 エピローグで語られたふたりの同棲生活初日で、無事大学に受かりこれからも神凪神社存続の為に頑張ろうと決意を新たにする洋介と、そんな彼の逞しさに包まれ心安らぐ綾が、互いが進むべき道を尊重しながら励みにする、そんな関係がとても心地よかった。 < 九条向日葵 > 悠を刎頸(ふんけい)の友と呼ぶくらいの親友である向日葵は、「名は体を表す」というか、親の願い通りに育ったといった感じで、真夏の太陽のような印象を与える明るい少女。 快活で地声も大きな彼女は、なぜか図書委員だった(笑)。 他人の目など気にも留めずマイペースなわりに、探求心旺盛で色々詮索しては謎解きして愉しんでいるようだ。 そんな趣味趣向の賜か細かなことに気が回る性分らしく、物静かな悠とうまくつき合っていけるのも、この性分のおかげなのかも知れない。 詳しくは後述するが、この気遣いできる性格に加えて値切り交渉の手腕も見込まれ、夏祭りの備品関連の手配を任されたのは本作最大の意外性だった。 悠ルートと同じく妹属性シナリオだが、ある意味で洋介に一目置かれている悠の立場を考えると、これは向日葵の独壇場といえる。 いや、あの人目を憚らない甘えっぷりは、すべてを物語るに余りあるのだが。 好きになった人にはことごとく子供扱いされ、実らぬ恋を重ねてきた向日葵だが、体全体で感情表現してべったりと抱き付く様は、確かに「子供特有の無邪気さ(可愛さ)」であり、彼女をふった男性達もおそらくは悪気はなかったのだろうと、変に考え込んでしまったものだ。 さて、向日葵ルートは悠ルートの派生シナリオであり、分岐点まで洋介は悠と行動を共にする必要があるため、前半のシナリオに顕著な差は見られない。 ルートの分岐は、洋介に興味を示す向日葵を子供扱いするか、ひとりの女の子として意識するかによる。 この洋介の認識の差が、端から見ていてもいじましいぐらい健気に好意を表す向日葵の、ほぼひと目惚れといえる彼への想いが、彼女の一人相撲で終わるかどうかという話につながっていた。 というのも、向日葵にとって洋介は、理想の男性像とぴったり合致していたらしく、何度か会話しただけで理屈抜きに「とにかく素敵」だと思ってしまったからだ。 それからせっせと会話の機会を作り、行動を共にして、洋介に振り向いてもらおうと努力を重ねていたわけだ。 そう、このルートに限り洋介は、後半のシナリオで向日葵を積極的に追いかけてはいなかった。 その理由となるところが、まさに「帰ると解っているのに、“遊び”でつきあう事はできない」と考えての事だったのだ。 洋介は悠と同じく妹のように感じていた相手を、恋愛の対象として見ることができるか自信が持てなかったからだが、この至極マトモな見解も他のルートと照らし合わせてみると、「なぜ向日葵ルートだけ?」と思えてしまうぐらいとても慎重なのだ。 その何時までも煮え切らず答えを先延べにしようとする洋介の態度に、たとえひと夏の恋だとしてもと、抑えきれない想いを解ってもらおうと必死に伝えた向日葵の告白は、ヒロインの中で最も情熱的だった。 これが他のルートとの差別化だとは思えないのだが、悠との個人的な友人関係を除くと向日葵は唯一『神凪神社とは何の関わりのない』ヒロインでもあり、かなり意識されて作られているのも確かだ。 これは続柄や立場的な話だけでなく、ヒロイン達の名前にも見られることで、神凪三姉妹は歴史ある家柄に相応しく“永い刻・もしくはそれを要する言葉”で統一されており、その神凪家と浅からぬ縁があった綾は、複雑に入り交じっていた人間関係に掛けて“目に見えない仕組み”という意味がくみ取れる。 しかし向日葵からは何も接点を見いだせず、ルートシナリオから考えるに花言葉の「愛慕」「憧れ」と、そしてあの明るい性格そのものを表したものだろうという結論に至った。 それでいながら他のルートと遜色のないシナリオに仕上がっていた事は、高く評価できる点だと思う。 『夏祭りの準備』 総評の前に、本作のメインといえる祭りの準備において、各ヒロインの役回りを考察しておきたい。 長女である永遠の役回りは資金の工面と管理。 多額の融資に際し担保・保証の必要な事だけに、神凪神社の「代表」として交渉に望まねばならなかったわけだ。 だが本来、永遠が父親の委任状を携えていたと仮定しても、神社の土地を担保にしなければならないような多額の融資を、社会的に責任の負えない未成年かつ学生の彼女が、まともに取り合って貰えないのは当然の事だ。 まして、担保にする土地の権利を、永遠が有しているわけでもないのだから、勝手に書類を作成し父の実印をつくことは出来ないのだし。 どうもその辺の事をはしょってシナリオが進んでいる為、単純に貸し渋りにあっているようにしか感じられないのは、かなりの落ち度だといえる。 そもそも、洋介の提案を受け入れ、まず何から始めればよいものかといきなり躓いてしまった時、入院している父親に訊くにも夜遅いため電話をかけなかった永遠達だったが、その後もこれといって父親に相談した描写がなかった。 後述する悠の働きで町内会長の協力を得られ、融資に際しては会長が頭取に掛け合い保証人となってくれた事で、洋介達若輩者が出来る事の限界を思い知り、力を貸してくれる人達への素直な感謝の気持ちが上手く表わされていたと思えたのだが、これは保護者不在であった事が幸いした結果だといえるだろう。 だが、神社の管理者であり父親である神凪のおじさんを除外した話の作り方は、先に述べたとおり現実なら問題だらけの行動ばかりだ。 もちろん読む限りにおいては、話の腰を折ってしまうほどの違和感をもたらす酷い物では無かった。 しかし、融資を受けるまでの間に必要となった諸雑費などは、父親の蓄えを勝手に使うわけにはいかないからと、永遠が個人的に貯めた預貯金から出していたのだ。 そんな彼女の行動を鑑みてみると、いくら神社の為によかれと思っても、土地を担保にといわれて、勝手に父親の実印を捺すとは到底思えなかったのだ。 この辺りはもう少し、内容を検討すべき所ではなかったのだろうかと思えた。 彼方は境内に出店する屋台の手配や、テント・櫓などの設営一切を引き受けていた。 細かい事を思い悩むよりも、体を動かす事の方が性に合っている彼女らしい役回りだと言えるが、このルートでは彼方が父親に習い囲碁を嗜んでいて、そこそこの腕前だという話が飛び出してくる。 この場面以外で彼方が碁を打っているシーンもなく、その場凌ぎな感も否めないのだが、元々彼方をはじめ三姉妹の趣味や特技を知らなかった洋介の立場で、見聞きしてきた二週間分の情報しかない状況であるため、これを責めるのも酷な話だ。 だからせめて、家で過ごす昼夜のイベントで碁を打つ姿をだして伏線を張って欲しかったと思う。 事の発端は、時期悪く近隣の大きな祭りに界隈のテキ屋が出払ってしまい、近所に住む元テキ屋の桜井老人に無理を承知で力を貸して欲しいと頼むためだった。 父親と互角でありながら最近負け越している桜井老人に、父親にまだ及ばない腕前の娘が、もし自分が勝てたなら…と老練の碁打ちのプライドをくすぐったわけだ。 これをドシロウトの洋介込みで受けて立った桜井老人だったが、事もあろうにその洋介にしてやられ、約束通りに氏の配下だった引退組をかき集めてくれたのだ。 もちろん、これは洋介が彼方の準備に関わった場合の話ではあるが、実のところ洋介が他のヒロインに気取られていても、彼方はちゃんと桜井老人の協力を取り付けている。 桜井に巻き返され劣勢になった彼方は、洋介の助力が無くともなんとか凌いで見せたのか、或いは負けどもその奮戦を桜井が讃え協力する気にでもなったのか、いずれにしても引退組テキ屋ご一行は、久方ぶりに開催される神凪神社の祭りの為に、嬉々として力を貸してくれたのだった。 そう考えると洋介の最大の功績は、日射病でふらつき櫓の足場から落ちた彼方を間一髪受け止め助けた事にあるだろうが、実はこれも彼方ルートのみの話であり、そうすると「洋介がいたから、日射病になるほど頑張りすぎた」のだろうか。 悠を思い悩ませ向日葵を惑わしたりと、つくづく罪作りな男である。 悠は商店街を中心とした氏子達の協力を取り付ける為に、その説明と交渉の役を受け持った。 入院中の父親をあてに出来なかったため、祭りを開くために必要なことは、古くから神社と関わりがある氏子達に学べばいいと考え、それを最優先としたからだ。 事実、最も懸念された資金の確保も、時間的な猶予がない中でも準備なだけに人手の確保も急務だったが、どちらもままならない状況に陥っていた。 そんな事態を打破すべく、多忙でひと所に落ち着けない町内会長の行動を逐一調べては足を運び、土下座までして口説き落とすなど、それまでの悠からは想像も出来ないほどの執念をみせたのだ。 この会長から全面的協力を取り付けたことで、絶望的に思えた資金の融資も、難航していた人手の確保もすべてが順調に進み始めた。 つまり悠は、祭りを無事に開催させた真の功労者といえる。 ここで向日葵の行動をあわせて考察してみると、このふたりがその性格からして反対の役回りを担っている様にみえる。 向日葵も洋介に声をかけられたわけだが、学園に顔を出さなくなった悠達の様子を窺いに神社まで偵察にきて事情を知ったため、半ば自発的に参加した様なものだ。 ゆえに参加当初は役目も定まっておらず、もっぱらビラ配りと人手の確保の為に奔走していたのだが、レンタル品の価格交渉のおり値切りの才能があることを見抜いた彼方の一存で、備品の発注から管理までの事務面を任されていた。 訪ね歩いて説明して回る、重要だが遅々として捗らない役回りを担った悠は、頭の回転は速くとも言葉足らずな為に想いばかりが空回りしそうで、もし事務面を受け持ったなら見積もりの算出や経費の集計を、誰よりも迅速かつ正確にこなせただろう。 また綾の華やかさとは違った意味でひと目を惹く明るさを持ち、先入観のない率直な意見を口に出来る向日葵は交渉の場には向いた人材と言え、しかも始終笑顔であるため相手に与える印象もたいへん良い。 それを敢えて入れ替えたのは、「普段隠れているもうひとつの性格」を際立たせるためだ。 信念を貫く頑固さを持つ悠は、事の重要性が最も高いと思う事に着手した、ただそれだけなのだ。 それもすべては「洋介の為」に、どうあっても祭りが開催できるようにしたかったわけだ。 兎角ひとつのことに集中しだすと視野狭窄になりがちな悠に比べ、普段マイペースなぶんだけ集団活動の場では周囲の動きを見て気配りできる向日葵が裏方に就くことで、足りない時間の中での作業が円滑に行えたのではないだろうか。 そして気遣いが出来るからこそ、その都度さりげないフォローで洋介を助けられたのだと思う。 この濃密な妹分に対し、綾のシナリオは少々寂しいものがある。 向日葵と同じく洋介に請われて参加した綾だったが、そのルートシナリオの展開を考慮され最後まで裏方に徹する事になり、やや遠慮がちな内容であった事は残念に思う。 人目(男ばかりだが)を惹く事から、ビラ配りは殆ど綾ひとりであった様だし、母屋で祭りで使う垂れ幕などのほつれた部分を独りで手直ししていたり、彼方が忙しい時は綾が食事の準備もしていた。 シナリオとして際立つ部分は殆ど手を付けず、神凪姉妹の手が足りない部分をそっとフォローするという、一見地味だが重要な部分を押さえているため、必然的に出番も少なめになっているのだ。 だが贅沢さえ言わなければ、シナリオとしては量的に物足りなさを感じるほどでは無かったと思う。 (総評) 本作は、夏祭り開催を題材にした一風変わった物語だ。 祭りは記念行事や宣伝として執り行うものを除くと、豊穣や豊漁を願いその幸に感謝して、或いは災厄を鎮め安寧を請い願う時などに行われ、開催時期も毎年であったり数年に一度だったりと様々だ。 では、本作の場合はどうだろう。 遠く豊臣が世を統治していた時代にまで遡ると伝えられる神凪神社の起源は、この地域に広まった疫病の鎮災のためだった。 今となってはその謂われを知る人も殆ど無く、廃れる一方でしかない神社の跡取りとして、娘の人生を縛り付けるのもしのびないと思う父親〜神凪のおじさんが、傷みの激しい神社を管理のしやすい小さな社に立て替え、ゆくゆくは氏子達に管理を託そうと考えたのは無理からぬ事だろう。 職を求めて若い世代が都会へと転出するたび、地元住民の平均年齢は高齢化の一途を辿り、それとは対照的にベッドタウン化の波に乗り転入してきた世帯のおかげで、町の相対的な人口はむしろ増えていると言え、平均年齢もやや下がっているのではないだろうか。 それにも関わらず神凪神社の参拝客が減った理由は、他県からの転入組〜土地に馴染みのない人達が、この神社に寄りつかない事にも原因があるだろう。 年々数を減らす氏子の数を補うだけの人が出向かない…いやそれ以前に、近所に神社がある事を知らない可能性も考えられる。 ここでふと思いつき、自分の立場に置き換えてみた。 記憶を辿ると、筆者も幼少の頃はよく近所の神社で遊んでいたもので、そんな子供達の姿を見かけると、宮司さん達はいつも暖かい目で見守ってくれていたものだ。 当時の筆者も大多数の子供と同じで、神社の謂われなどに興味もなかったが、それでも社を囲むように茂った木々の間を抜ける小道を、その脇を流れる小川を遊び場として、時には境内を無遠慮に駆け抜けていたものだ。 だが、「今は?」とふりかえれば、住み慣れた土地を遠く離れ、馴染みの無い土地で職を得てから10年を超えるが、近所にあると話にだけ聞く寺や神社に足を運んだ記憶がまったくない。 仕事を持った関係で子供の頃より余暇が少なくなった事は言い訳でしかないし、きっと育った町だったなら、祭事に関わらず機会を見つけては足を運んでいたのではないだろうか。 縁がないというか、足を運んでみようとすら思いもしなかったわけで、その意味でも筆者はいまだに「余所者」だったわけだ。 土地に馴染みがないとは、つまりそう言うことなのだろうと、今更ながらに感じて我が身の恥を知るのだった。 話を戻すが本作の祭りの開催は、そんな新しい住民達にも神凪神社を知ってもらい、ひいては神社のみならず町全体の活気につながればとそんな願いが込められており、しかもその願いは神凪の神に対してだけではなく、地域住民に対しての切なるものでもあった。 本作のシナリオで面白いと感じたのは、こう考えて行動を起こしたのが土地に馴染みのない…ただの客に過ぎない洋介なのだ。 住んでいないからこそ、様々な制約に縛られず楽観的に考え行動に移せたともいえるが、何より三姉妹に対する洋介自身の想いの深さからだろうと感じられたのだ。 シナリオの流れはまさにこの夏祭りに集約し展開しているわけだが、先に何度も述べたように、本作は開催するまでの過程に重点を置いて描かれていた。 何もせずに後悔するよりはいいと、資金もノウハウも無い中、ダメ元で始めた事は若さ故といえるのだが、そのがむしゃらさがとても好ましく、古い資料から自分にできることを模索し、互いを助け励まし合いながら努力する様は、劇的な高揚感こそ無いもののとても感動的であったと思う。 問題点としては、些細なものはありはしても、評価を著しく下げなければならない物は無かったと思う。 そんな本作において特に違和感を覚えたものは、やはり洋介の忘れっぽさだろう。 冒頭でも記したように姉妹との想い出を取り戻す為の演出であり、これは充分に成功を収めているのだが、何というかくどすぎる感がある。 それまでの洋介は、日常生活を優先した物事の範囲を外れた記憶が抜けていたが、これは誰しも普通にある事であり、ただ彼の場合は甚だしく描かれていただけの事で、それ以上のものではない。 現に神凪家の居候として過ごしはじめてからの洋介にこれといって問題が見られる事もなく、ましてや夏休みが終わり帰省した後は懸命に受験勉強し、見事目的の大学へ現役合格を果たしているのだ。 つまり洋介に足りなかったのは集中力・熱心さであり、憶えようとする意思が足りなかっただけだといえる。 それにも関わらずシナリオの中では、まるで記憶障害か、そうまでいわなくても三歩あるけばなんとやらと言わんばかりに誇張され、シナリオ終盤の祭り当日に至ってもまだそんな扱いをうけている。 人はそう簡単に変わるものではないと暗に示したものだろうか? しかし、これではあまりにも不遇に感じられるのだ。 まあプレイヤーとしてみても、思い入れ出来るほど好ましいキャラクターともいえず、特筆できるほどの魅力や能力を秘めていたり、カリスマ性を持っているわけでもない。 いうなれば至極平凡、どこにでも居るとっぽいにーちゃんだ。 しかし、身近に感じられる者だからこそという解釈もでき、笑いは取れるかもしれないが、それに固執してしまうと大切な部分にまで影を落としかねないという悪い例ではないだろうか。 とはいえ、敢えて挙げるならという程度のことであり、これを理由に評価を訂正する気はない。 全体的な出来としては良くできていると評すれども今ひとつ決め手に欠けており、残念ながら最大級の賛辞を贈る事はできないのだが、本作を目にとめたなら是非一度手にとって欲しい、そう感じる良作だった。 → NEXT COLUM |
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