〇マルチ編/ストーリー完成度:
 
 私・後藤夕貴が、この「マルチ編」を低く評価しているのは巷では有名。
 理由は同人誌版「九拾八式・東鳩」か「九拾八式CD-ROM」を参照してもらうとして、PS版を比較してみた。

 まぁ…結局、特筆すべき所といえばエンディングの“浩之が購入したのは本物のマルチか、量産型の別ボディだったか?”論争に決着がついた事かな。
 まぁ、まるで我々の書いた“WHAT DO YOU THINKマルチ?”に当てつけたかの様な結末だ(実際、一時期マジでそういう話をした事がある)。
 とはいえ、同様の事を考えたユーザーが、いかに多かったか…という事だね。

 本当のロボットとして扱いたかったと解釈できるWIN95版に対して、完全な擬人化を果たしたPS版のマルチ。
 結果としては…商品としては、これは大成功だったわけだ。
 一応のカタルシスは保てたという事になる。
 それ以外は、特筆すべき事柄は一切ない。
 まぁあえていうならば、エンディング直前で記憶を取り戻したマルチのシーンで、あの全然脈動のないただ演奏しているだけのダメダメ主題歌のカラオケが比較的有効に使われていた事くらいかな?
 没シナリオに感銘を受けた私の個人的意向は別にして、まぁ無難にまとまったそれなりの内容だったといえるだろう。
 ただ…声優の堀江由衣は、怖いくらいにハマってたね。ポイント高いよ。
 
 …と、ここまで書いて気が付いたのだけど、本当にこれで良かったのかなー?
 どうも、制作者側とプレイヤー…しかも、そのプレイヤーにしても複数種類の人達の間で「ロボットが感情…心を持つという事」に対する認識が、かなり大きく異なるらしい。

 例えば鷹羽飛鳥氏の“外見が変わっても中身が同じならば…”という意見があったが(「ToHeartPS版マルチシナリオ/鷹羽飛鳥担当」参照)、私自身はそれに対して“オリジナルがすでに存在しないならば…コピーしか存在しない場合のみ同感”という意見を持っている。
 そうでなかった場合は、やはりどんなものでも、それはコピーであってオリジナルではない。
 中身が同じでも外見が変わってしまえば、それはたとえなんであっても別の存在の筈だ。
 それ単体が、あらたな“オリジナル”となるのだからね。
 一例が「宇宙鉄人キョーダイン」ね。
 アレは、健治少年の二人の兄・譲治と竜治の記憶をコピーしたサイバロイドが弟の元へと現れ、地球を守るために戦うという物語だが、途中でスカイゼル・グランゼルはベースとなった兄の姿を投影したりして限りなく健治の兄に近付こうと試みた。
 しかし終盤、なんとそのオリジナルが戻ってきてしまったため、それまで「大兄ちゃん、小(ちい)兄ちゃん」と健治に呼ばれていた2体のサイバロイド達は、そのまま「スカイゼル、グランゼル」という呼称に切り替えられてしまう。
 結果、健治の兄としての存在意義を失った彼等は、敵・ガブリンを巻き込んで自爆するしかなくなってしまう(このシーンは、死ぬほど泣ける!)。

 さて話を戻すが、先のキョーダインの例と、マルチが抱えている問題点というのは、非常に良く似たポイントがある。
 キョーダインの場合は本物の兄達、マルチにとっては記憶DVD、それぞれ“本物”が存在している事だ。
 DVDからデータを転送されたマルチは、果たして本物と言えるのだろうか?
 PS版をプレイしてみて、もう一つの意見もありうる事に、私は気が付いた。
 それは「例え、アレが量産型だろうがマルチのオリジナルボディだろうが、どちらにしてもそれはまがいもの」というものだ。

 マルチが浩之と共に過ごした記憶というものはそれ単体がオリジナルなのであり、複製が行われた段階で…DVDメディアに焼きこまれた段階で、それはもうオリジナルとしての価値を失ってしまっていると言えまいか?
 人格というものは、データとして扱えるものでも、反応式として扱えるものではない。
 誰にも、そういった考えが多少なりともあると思う。
 「東鳩」に続いての引用になるが、「勇者警察ジェイデッカー」のブレイブポリス達は、たとえ超AIのデータをコピーしたとしてもインストールされた先のボディでは全く別の人格となってしまい、それがまたそれぞれのオリジナル人格となる。
 完全なコピーが可能である筈のデジタルデータが、この様な変調を来す筈はない…本来ならば、だ。
 しかし、これは「心と超AIのデータというものは全く別の存在」という考えが同作品内にて徹底して描写されていたからこそ、納得出来た設定だ。
 デッカードは、デッカードのボディにいてこそデッカードたりえるもので、一度そのボディが完全破壊された時も、新たな同型ボディに超AIが移されたら“記憶喪失”という症状を起こし、勇太を拒絶しようとまでした(結果、努力でなんとか記憶を取り戻すが…それもまた、作品中ではひとつの奇跡として扱われている)。
 まったく同じ身体を手に入れられたというのに…である。
 心とは、本来そういうものではないか?

 もしも、DVDないしそれの元となったメインデータ自体が何かしらの事故で消失してしまったのならば、浩之の購入したマルチは、そのボディがなんであれオリジナルという存在になれるのではないか?
 結局は、購入者たる浩之の気持ちの持ち方なのだが。
 浩之がDVDを永久に破棄してしまえば、記憶を戻したマルチは限りなくオリジナルに近い存在になれるのだから。

 制作者側の、“マルチの心”の認識がどのようなものであったかというのは、別項「What Do You Thinkマルチ2」に目を通していただくとして、私としては、せめて最後にそういった類の行動を浩之に行わせて、あのマルチを“オリジナル”にしてやって欲しかった。
 ヘタにボディの正体をどうのこうのするよりも、そっちの方がよっぽど万人に対しての説得力が得られるのではないか? …などと考える。

 なおこれはあくまで後藤夕貴個人の意向なので、冒頭のストーリー完成度評価に、この考えは一切影響させていない。

          
(後藤夕貴)

 
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