To Heart マルチ編
3.ストーリー完成度:C’
4.H度:−
5.オススメ度:B
6.攻略難易度:E
鷹羽が思うに、マルチは、パソコン版ではHシーンが邪魔になるキャラだった。
というのは、浩之がマルチを見る目というのが、出来の悪い妹分を見る目に近かったということと、なんだかんだ言っても、浩之はマルチをロボットとして認識していたからだ。
ここで勘違いしてもらっては困るのだが、それでも浩之はマルチに人格を認めていたのだ。
この場合の人格は、人間のそれと、必ずしもイコールではない。
日本人の特性である“無機物に人格を見出す”というものに近いものだ。
例えば、ただの石ころに神格を見出して、神社の御神体にするような特性だ。これは、『全ての物に生命が宿る』という精霊信仰的な側面を持っている。
基本的に無神論者の多い日本人だが、本人が意識していないだけで、精霊信仰の影響は随分と受けている。
「ご飯を残すとバチが当たる」という言葉に違和感を感じない人が多いのがその証拠だ。意識していないだけで、ご飯粒に神が宿っていると無意識に認めているのだ。
キリスト教のような一神教から見れば非常識なことなのだが、日本人は、ごく自然にそういった感覚を持っている。
それともう1つ、人は、自分の作り上げた物に感情移入する。
身近な例を挙げれば、自分がゲットしたポケモンに感情移入し、人格を与える。
自分の育てたRPGの主人公に話しかけた(「馬鹿、そんな攻撃食らってんじゃない!」とか)ことのない人は、恐らくいるまい。
それは、感情移入することで相手に人格を与えているのだ。
それにより、自分自身は痛くも痒くもないのに、相手の痛みを感じてしまうことになる。
例えば鉄人28号が腕を折られると、読者は「痛み」を感じる。人が乗り込むことさえもない、機械の固まりに過ぎない鉄人にだ。
浩之はマルチに、そういった意味での擬人化を行っているのだと思う。
別の例を挙げると、愛犬を家族の一員として可愛がっている人は大勢いる。そういう人は、犬をまるで子供のように扱う。
だが、犬が人間と同じわけはない。愛犬家は、それを承知で犬を擬人化しているのだ。それと同じことが、マルチに対しても言えるのではないかと思うのだ。
マルチは、犬よりも遙かに人間らしい反応を返す。だから、感情移入もしやすいのだ。
結局のところ、マルチの開発コンセプトである『より人間に近く』というのは、より感情移入しやすいロボットを作るということに他ならないのではないだろうか。
してみると今回のPS版で、Hシーンがなくなったのはやはり正解だと思う。
“人間でないもの”だからこそ、人間のように扱って遊園地に連れて行くという行為に意味がある。
絶叫マシンに乗らない理由にしても、マルチがロボットだということを認識した上での行動であることは疑いようがない。
家族の一員だという飼い犬に、人間の嫁(婿)をつけようという人はいないでしょ?
なんだかんだ言ったって、“人間でない”ことを理解してるんだよね。どんなに愛していても、色恋沙汰にはなり得ない(異常性愛者は別)んだよ。
だから、ここまでは鷹羽の望みどおりだった。
問題は、エンディングの設定変更だ。
“マルチのオリジナルボディに量産型用のソフトをインストールしたもの”に変わってしまったことだ。
同人誌『九拾八式・東鳩』を読んだ人は覚えていてくれると思うが、鷹羽は、“あのボディは量産型”派なのだ。前に書いたように、『そうでないと破綻をきたす』からだ。
それについてPS版は、『データを用意するのに手間取った』というエクスキューズを用意した。
こんなもん、鷹羽にとっては詭弁に過ぎない言い訳だ。
浩之がどこの店でどんな風に注文したのか知らないが、それを調べ上げて、オーバーホール済みのオリジナルボディを届けるほどの用意周到な長瀬主任が、データの方だけ間に合わず、しかも間に合わせで市販品用のソフトをインストールするなんて馬鹿なことをするなんて、鷹羽には考えられない。
『心』を持たないマルチを浩之に渡したって、浩之が喜ぶはずがないことを、主任は十分判っていた筈なんだから。
ただ、元プログラマの友人Gに言わせると、「スキルの解析用に、“心”としての部分と“技能”としての部分にプログラムを分離させていただろうから、それを再結合させるために、それなりに時間を必要としてもおかしくない」んだそうだ。
ついでに言うと、メカニックとしての耐久性や性能なども、オリジナルボディの方が上のはずだから、そっちを使った方がいいらしい。
まぁそれはそうかもしれないが、それでもデータの復活が間に合わなかったり、わざわざそのことを隠して、ダミーの(誰を誤魔化すためのダミーなわけ?)ソフトをインストールしておく必要なないはずだ。
「元のマルチのデータを用意するのに時間がかかるから、しばらく待っててね」と何故言えない?
友人Gにそのことを言ったら、「いや〜、主任がお茶目だったんじゃねえの?」という答だった。それって、ちょっと意地悪すぎないか?
やっぱ、鷹羽は納得できない。
もう1つ。
DVDロム1枚で記憶と心を取り戻すマルチを見て、「あんなのは本当の心じゃない」と切り捨てる人もいる。
しかし前述の、自分が育てたRPGの主人公のデータが何かの理由で消えた時、バックアップを使って復活させたら、それは元のキャラではないと言うのだろうか。
『機動警察パトレイバー(テレビ版)』で、泉野明が『アルフォンス』と名付けた1号機の機体を可愛がっているのは、自分のシャープペンに名前をつけて可愛がるのと変わらない行為だろう。つまり、“身体”に対する執着だ。
それはそれで、感覚的には正しい。ただ香貫花が言うように、アルフォンスの本質は、野明自身が蓄積した“データ”の筈だ。
人間や動物と違い、“心”と“身体”が別々に存在し得るのが、機械の特質だ。
2号機のデータを入れたアルフォンスと、アルフォンスのデータを入れた2号機、どちらが本当のアルフォンスだろうか?
結局PS版では、“心”と“身体”のどちらも元どおりのマルチだとすることで、想いを集約しやすくしたのだろう。でもそれは蛇足だと思う。
“人が作りし心”を軽んじていると思うのだ。
「デジタル時計を突きつめて究極的な疑似アナログ時計を作る」ことは、無意味ではない。
人間の思考だって、突き詰めれば計算でしかない。ただ、経験という名の膨大な量のデータと、それを管理・統括できる「脳」というスーパーコンピュータの性能によって、再現できないほど複雑怪奇な計算が行われているに過ぎない。
「人間をどんな風にでも育ててみせる」と言った心理学者がいるが、人間ですら、環境などの条件を整えられれば、同じような人格を作れるという説があるのだ。
学校という、開発室の人間に把握しきれない環境での経験を積むことで、『マルチ』の経験は絶対に再現不可能となった。
バックアップのデータが失われれば、マルチは永久に死んでしまう。逆に、もし、人間の思考パターンなどがデータとしてバックアップできれば、同じ人格を持つコンピュータが存在できるわけで、古くは『鋼鉄ジーグ』のマシンファーザー、最近では『勇者王ガオガイガー』のゴルディマーグがそれに当たる。
特にマシンファーザーの場合はそれが顕著で、記憶すら持っているため、登場人物の誰もが、生前の司馬博士と同一視していたほどだった。
結局、鷹羽は人格の方が大事だと思うのよね。
だって、整形手術とかで姿形が変わったからって、別人だとは思わないでしょ?
(鷹羽飛鳥)